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20151121 人生の自由を得る、とは?
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人生の自由を得る、とは?

法話ライブ at  京都道場  2015年11月21日

法話:遠藤喨及

書き起こし:純佑

動画URL:

https://www.youtube.com/watch?v=yvbLLEHKK6A

(法話は10:20頃から)


念仏の目的は大きく分けて4つあります

そのうちの一つに「絶対の自由性」を獲得するというものがあります。

最初に行う「中念仏」は、これを目的の一つとしています。

「自由」と言う言葉も、刷り込みによって一般は、間違えて理解していますね。

タオサンガで学んでいくと、たくさんの刷り込みがあることに気がつくでしょ。

一般的、常識的に言ったり思っていることと、本当の意味が違うことはよくあります。

自由もそうですが、例えば、「我を抑える」という言葉。

これは一般に、地位が上にある人や、権力がある人に、従うこと、と思っています。

本当は、我を抑える対象は、本来対象化できない「神仏」でなければいけない。

なのに、対象化したもの(団体や人など)の我に従う、ということになっています。

だから、先生の我に従う、親の我に従う、ということが、我を抑えることだと思ってしまいます。

本当は、「それはあなたの我でしょう」と相手にひとこと言えば済む話なんですけどね。(笑)

「感謝」も、何だか偉い人に感謝すること、と思っていますが、

本当は、相手の心、世界を温めるのが感謝の目的なんです。

これは、気で体験できます。

2.誰もが体験できる

タオサンガでは体験できないものは一切ありません。

なぜなら、体験できないものは意味が無いですからです。

だって体験できなかったら、本当かどうかわからない。

それに楽しくないでしょう。

「いつか分かる」、とか言われたって、間違った道だったらどうします?

それは、危険が大きすぎるでしょう。

「宇宙の理にかなっているかどうか?」

これが気として分かるというのが、一番大事なことなんです。

誰もが体験できることを教えるのが、本当の道だし、

タオサンガは、これを目的としているのです。

なぜなら、体験できないことは、本当は言わないほうがいいからです。

自分でも実感できないのに「先生が言っているからそうなんだろう」と思うのは、

お互いに不健康なことです。

だから僕には、言っていないこともあります。

たとえば、、、

まあ「経絡が気のからだにある」、というのは気で体験できますよね。

でも実際には、太陽の周囲を地球が回っているように、経絡は氣のからだを何秒か(28秒だったかな?)で一周するように回っています。

でもこれは、すぐには体験できません。(あっ、言っちゃった)

だから術者が受け手に共感していれば、経絡に無意識についてきますが、

術者に共感がないと、受け手の人は、少したつと経絡がずれた感じがしてくるんです。

それは経絡が気のからだの周囲を回っているからです。

実際には経絡はそこに無いのに、術者はそこだと思い込んでいることで、ずれるのです。

もっとも、術者が経絡の回る動きを感じる必要はないんです。

共感さえあれば、自然に合いますから。

3.自由性の本質

さて、自由性というのはどこから来るのか?

これは「我を滅する」ところからです。

我を滅するというのも、一般には随分誤解されていますけど、、、。

我を滅するなんて聞くと、仏教の「侘び寂び」と言うイメージでしょう。

”何も無くなりました…シーン…涅槃寂静です”、みたいなイメージじゃないですか(笑)

我を滅するというのは、逆に言えば「何にでもなれる」ということです。

人間、自分の中にはいろいろな部分があるでしょう。

ポジティブな部分、悪い人の部分とか、戦争とか平和とか、真逆の性格があります。

おとなしい人だったら、外交的な人をチャラいと思いますね。

ところで内向、外向というのは、もともとユング心理学の分け方なんです。

興味の対象が自分の内面に向かう人を「内向」、外に向かうと「外向」と言います。

先に言ったように、内向的な人は、外交的な人に対して”チャラい!”と思います。

外交的な人は、内向的な人を”暗い奴だ!”と思います。

自分と真逆の性格ですから。

これは、お互いの、自分の中の生きられなかった反面なのです。

大体、兄弟が反対の性格を演じます。

同性の兄弟だと、真逆の性格だったりします。

それで補完しあう場合もあるし、批判しあう場合もあります。

そして「我を滅する」というのは、

何にでもなれる自由性が獲得できるということなんです。

ところが、だいたい固定してしまうでしょう。

だから例えば、公務員みたいにすごいカタい人が、中年になって突然ギャンブルとか水商売の女性にはまったりするでしょう。

真逆の性格を抑えていて、かつて反抗期も無く、という場合には、無意識が出てそうなってしまいます。

それで人生を破壊するところまでいったりするのですが、

内心はサバサバしいて、無意識では、”今までやれなかったことができた”と思っていたりします。

実際にするかどうかは別として、

何でもなれる、というところを持っていて、

それを演じられるくらいになっていた方がいいんです。

だからタオサンガには、

サイコドラマと言う心理劇がワークとして入っているのです。

そしてチャトランガも、演劇セラピーとしての意味がまたあるんですね。

悪にも善にもなれる自分。戦争も平和も演じられる自分。

何にでもなれる、という自由性が霊的には健康で豊かなんです。

だって、イエス様なんて典型じゃないですか。

えらい立派なことを言うかと思ったら、

自分がイチジクが食べられなかったら、”こんな樹は枯れてしまえ!”と言って枯らしてしまった。

門前市の商売人を、出て行けと蹴散らしたり。

偉そうにしている長老たちに、「こんな神殿はぶっ壊して3日で建ててやる!」と言ったり。

今の言論の自由がある日本では、そんなこと言っても大したこと無いですが、

当時のユダヤ人社会でそんなこと言ったら、石打ちの刑ものですからね。

その時代に、思う存分、いたずら小僧みたいなところを見せるのですね。

どんな自分にもなれる自分を演じるというのは、自分のイメージを規定するという我egoがあったらできません。

これは、宇宙の自由性を表現する「利他性」の発露なんです。

自分を規定している人は、それが利他だというところには、なかなか気づきませんけど。(チャラいな〜、と思ったりして)

自由というのは、我が満たされるように、

我が楽しめるようにすることと、一般には誤解しています。

我の思いのままになるというのは、ある意味、悲惨だと思いますよ。

我が何でも満たされる状態というのを、ちょっと想像してみてください。

どんどん泥沼に入っていく、歯止めが効かない状態になる、中毒性にはまっていきますよ。

不幸を感じながら。

誰もハッピーじゃなくて、ますます孤独になっていく。

かと言って抜けられなくなる

どんな人も自分の言いなりになる、とかね。

これは怖いことです。

4.絶対自由の境涯とは?

絶対自由とは何かというと、ポジティブ、ネガティブという相対性から解放されることなんです。

これは良い、これは悪いと言う見方だったり、

これは何教とか、日本人とかインド人とか、男であるとか、何歳だとか、

これらは服を着るみたいなもの、レッテルを貼られたみたいなものです。

そういう固定イメージを自分にも他者にも持つことは、とても不自由なんです。

既成のイメージや考えに、一切とらわれないということ。

自分が思いたいように思えるということ。

これが自由。

自分で造った既成のイメージや考えに縛られてしまって、思いが固定化する。

それが不自由ということです。

そこから解放される。

自分の心に過去において刷り込んだものから解放される。

何が自分の未来を明るくするのか、

何が自分の生きる目的か、

自分は何が欲しいのか。

これらですら、刷り込まれたものがほとんどです。

心理学者のラカンが言っていますが、他の人が欲しいものを自分も欲しくなるようにできています。

だからバブルとか流行とか起こったりします。

それくらい我々の人生は不自由なのです。

そういう縛りがなければ、すごく自由だと思います。

これを欲しいと思わなければいけないとか、

こういう風に生きていないといけないとか、

一切無かったらどれほど楽でしょうか。

5.霊的に生きるほどに人生は自由になる

タオサンガでやっている念仏の4つ目の目的の内の1つは、

どんなことをも願い、それを実現していく力をつけるということです。

そういう心と身体を作っていく。

自分が願っている想いを実現していくということの根底にあるのは、

宇宙が霊でできているということです。

霊的に生きる人ほど、想いの実現が簡単になっていきます。

物質的に生きる人は観念が因果律に縛られます。

過去のことでしか未来を想定できないのです。

「今までこうだった」、「前例がありません」これは役所でよく言いますが(笑)。

過去は関係ない、未来は自分で作るものじゃないですか。

何が前例だよ、と思ってしまいます。

量子力学で最近明らかになったのは、「自分が認識するから世界がある」ということ。

自分がどう認識するかで世界も変わる、未来も変わるのです。

観る対象は全く違ったものとして見えるし、また変えられるのです。

過去のことは、アラヤ識とかカルマとかは、識に入っています。

識が転換されてカルマが仏性という光になっていく。

そのことを我を滅すると言います。

あらゆる思い込み、決めつけから解放されていく。

怒らないようにしようと思っても怒ってしまう。

明るく考えようと思っても暗く考えてしまう。

これらは全部縛りでしょう。

人によっては、”不幸になりたい症候群”がありますが、

自分の人生に恨みでもあるのでしょうかね(笑)

そういうところから自由になる。

人を楽しませることも、自由になります。

これはできません、というのは不自由でしょう。

思うように願いを実現するというのは

「なにか良いことないかな」ではなく、良いことを創る自分になること。

未来の種は自分で植えています。

人は1日に8億4千万、念を出すそうです。

1日にいろいろな言葉が頭に入るでしょう

どういう言葉を無意識に入れるかによって未来が変わるとしたら、

これは大変なことです。

愚痴を言いたくなることもあります。

言うなら、言う人を限定しなければいけません。

誰でも彼でも言っていると、まずいですよ。

「愚痴を聞いてもらうならこの人」とか、お互いに言い合える関係性ができている相手

なら、時には必要ですから、いいと思いますけど、、、。

6.平等性(びょうどうしょう)という仏の智慧

さて、無辺光という光明が、念佛の十二光讃嘆の中にありますね。

宇宙は智慧、霊で出来ています。

物質で出来ているわけではありません。

宇宙と聞いたら、モノみたいに思っている人が多いですね。

宇宙と一体になります、と瞑想したり。

「おい、モノと一体になってどうするんだよ」と言いたくなりますが。

本当は宇宙は大霊だから、霊のからだが一体化するのです。

大霊を「宇宙」と、モノ的に呼ぶ、というのは、

自分がちょっと偉そうにしたいという想いと関係があると思います。

自分が偉そうでなかったら、宇宙は自分より高次元の霊的存在ということです。

大霊を宇宙とモノ的に呼んだり、物質として見たりするのは、神や仏を貶める(おとしめる)ことになります。

それは気としては暗いです。

そもそも身体、存在をものとしてみると気として悪いというのは、

タオサンガの一番最初の段階の学びで、体験することじゃないですか。

宇宙大霊というのは悟りの智慧ですからね。

修行して自分が高まって偉くなって悟るということではなく、

内在している智慧が顕れてくることが悟りなんです。

だから自分がエラくなることなんて一つもない。

無辺光の一つは、平等性智という智慧です。

平等という言葉も誤解されています。

フランス革命(フリーメイソン)の「自由、平等、博愛」の意味での平等という言葉は、もともと日本語には無いものです。

ただ明治以降、平等という言葉に翻訳されてしまった。

だから例えば、”ご飯が二合あって一合ずつ分ける”というのが、平等だと思うでしょう

でも、お相撲さんと小学生がいたら、これは平等ではないですよね。

平等に対して差別という言葉もあるでしょう。

これも本来とは意味が違ってしまいました。

英語のディスクリミネーション(discrimination)を差別と訳してしまったからです

本体の意味の差別は、相対という意味です。

善と悪、上と下、内と外、男と女。

だからこれらは本来差別(相対)と呼ぶのです。

男女差別とか言う時の差別とは、全然違いますよ。

「平等」というのは「根源において同じものだ」という意味です。

相対性を超えているというのが宇宙の本質だ、という意味が平等です。

そして善と悪、ポジティブとネガティブという差別(相対)の根源は、平等(一なるもの)なのです。

7.人生の価値が輝く

だから、自分の中の良いと思っている部分と、悪いと思っている部分、あるいは表の性格、裏の性格は、根源ではどちらかが出るというだけで、同じ人格の表裏なのです。

(だから平和主義者の自分、戦争好きな自分、その根源は1つです)

そしてその両方を表わせるようになった方が、心は自由なのです。

悪がダメだから切ってポジティブだけ、というのは危険なのです。

自分の中の悪を否定すると他に投影しますから。

自分が見たくないから、あいつが悪い、となります。

自分の中にある悪はいつでも出せるけど出さない。

そのせめぎあいに価値があるのですよ。

どれほど悪人にでもなれるぐらいだけど、ならない。

すごい悪人になれる人は、すごい善人にもなれる。

あまり悪人になれない人は、大して善人にもなれません。

本当はその両方を持っているけど善をやる、

という自由があることに人生の価値があります。

悪しか出来ない、善しか出来ないというのは自由でもないし尊くもない、

価値もありません。

人生の価値は、ネガティビティを外に投影せず、

内面に取り込んで光明化することなのです。

それが平等性智を獲得するということです。

それが最初の念仏の目的です。

心のコントロールする剛心が、胸に18cmくらいの大きさであります。

心をコントロールする剛心の奥にはビー玉くらいの玉があります。

これとあらゆる人の存在の根源、宇宙の根源、3つを合わせながら祈願をして、

如来様の円光相のイメージで念仏していきます。

それが念仏修行の方法論です。

我を滅するというのは身体で感じます

身体感覚が消失していきます。

身体感覚は触覚で成り立っているでしょう。

それが消失します。

身体感覚は我と密接に結びついています。

触覚が無くなると、

宇宙大霊とつながった霊的な体感というのが出てきます

宇宙大霊はどんな形も取りうるものですから、

どんな素晴らしいお浄土の世界も、

どんな地獄の世界も宇宙大霊の発現です。

それを相対差別として見ない。

相対差別として見る所は我の投影ですから。

自由性を獲得する。

そこに修行する価値も、人生の価値も輝くのです。

                         (合掌)