ユーモアクラブより転載。

北広次郎エッセイ集 ミスターヨーロッパだより

第1号  『日本孤島とアフリカの距離』  (その一)

 アジヤでも造った経験がある日本が企画する『アフリカ大陸横断自動車道路建設計画、(OECDアフリカ・スーパーハイウエー計画5年)』という提言が、最近日本政府外務省が発表しています。そして今年2008ラット年は北海道洞爺湖畔でG8が行われますが、もう一つ注目すべきは、横浜で開催されるアフリカ国際会議です。いま、中国もアフリカ諸国を上海に招きアフリカ国際会議を開催しアフリカ諸国取り込みの外交戦略を広げています。

 それにしても、このニュースに接しても、日本にはまだ「アフリカ専門総合博物館」が一軒も無いことを考えてしまいます。これは今の日本には焦眉の急で可及的速やかに必要不可欠なものとしてその存在の重要性を痛感します。

 一般の日本国民において、地球上で最も遠くて知識がほとんど無い大陸が、歴史上人類発祥起源地とされるアフリカ大陸です。特にスエズ運河が1869年(明治2年)に開通してから、船舶のアフリカ南端を迂回する航路は使われなくなってしまいました。それ以前はアジヤから欧州に行くには、インド洋から否応無くアフリカ南端、喜望峰の岬を迂回して行くか、インド洋から紅海湾岸海峡に入り、砂漠の彼方にピラミッドを眺めながらエジプトのカイロで下船し、そこからマンチェスター製の蒸気機関車鉄道に乗り換えて、陸路で地中海アレキサンドリヤに着き、そこで又英国製造の蒸気汽船に乗り換えてトルコ、イタリヤ、フランス、ポルトガル、スペイン、英国など行かねばなりませんでした。

 幕末、密出国した薩摩藩・長州藩他からの多くの日本人留学生や、洋行者達は皆この航路の軌跡を辿って往来しました。実はこの部分の記述は慶応四年(明治元年)三条実美公の家臣で公嫡男公恭の守護役で、長州毛利公嫡男などと共に英国に留学し、後にオクスフォード国際法学部聴講生になった私の家族の先祖・尾崎三良が紅海の船中で、その暑さに閉口し船室内で裃も脱いで裸になりつつ書き残した日記を転用しものです。長州木戸孝允と親しく交わり明治六年いいたん帰国してその後、明治13年ロシヤ・サンクトペテルスブルグに日本公使館新設のために、公家の柳原公使家族と共にその一等書記官として赴任し、ロシヤ皇帝アレクサンダー二世に謁見し、英国事情に関心が深い皇帝から英国に関する様々な質問を受けました。三良が英国に住んでいた頃、英国人女性と恋におち、その間に生まれた長女テオドラ(日本名・英子)は、江戸から変名後の東京市第一代市長に就任し議会開設、民権運動の先頭に立ったがためか、当時本人はそんな意識は無かったが、後代周りから日本国憲政の守護神みたいに祀り上げられた尾崎行雄の妻になりました。

 英国で初めて誕生したユダヤ人首相デイスレイリの懇願で、英国ロスチャイルがトルコ派遣の提督から全運河株を買い取り、時のビクトリヤ女王にプレセントした1869年(明治2年)開通のスエズ運河は、世界を一変し日本を含むアジヤと欧州は一気にその航海距離が短縮されました。

 ここで日本孤島国だけが地理学的に致命的な点がありました。朝鮮、中国、蒙古、インドなどユーラシヤ大陸とアジヤ大陸は陸続きでした。そしてその先はアフリカ大陸とも陸上でも繋がっていました。当然古代から原始民族の移動、原始文化の伝播がありました。歴史起源的にこれは、重要な意味があります。もっと言いますとアリューシャン列島は以前ロシヤとアラスカはやはり陸続で、アジヤからカナダ、北米、中米、南米へと民族移動が行われてゆきました。米国大陸インデイアンのDNAは中央アジヤのモンゴリアンに通じているといいます。そうなりますと、日本だけがはやくから孤島に閉じ込められて、陸続きの隣国との国境線がなく、海外というくらい他国との交通や異民族交流は永い歴史において海路の回路しか手段がありませんでした。それがために孤島国日本はアフリカにとっては最も遠い国になっていました。スエズ運河は、皮肉にもアフリカ大陸への接近通過の機会を遠ざけてしまいました。

 しかし航空輸送の発達でアフリカ大陸はもう、遠い近い、の問題ではなくなり地下資源を含め資源外交と地球最後の低コスト労働力供給市場として、今後先進国中進国が争奪戦を演じる宿命にあります。