聖書 第11本当の教えはどこから生まれるか?                        

(マタイ伝第 23章~

法話ライブ at  京都道場  2014年10月25日

法話:遠藤喨及 書き起こし:純佑

動画URL: https://youtu.be/geXZPabEklo


イエス様の喩え話が、本当は何を意味しているかを理解するのは、とっても難しいです!

キリスト教の人は一体どう理解しているんだろう? と思いますね。

例えば、以下はマタイ伝23章からです。

イエスはまた、譬で彼らに語って言われた、

天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。

王はその僕たちをつかわして、この婚宴に招かれていた人たちを呼ばせたが、その人たちはこようとはしなかった。

そこでまた、ほかの僕たちをつかわして言った、『招かれた人たちに言いなさい。食事の用意ができました。牛も肥えた獣もほふられて、すべての用意ができました。さあ、婚宴においでください』。

しかし、彼らは知らぬ顔をして、ひとりは自分の畑に、ひとりは自分の商売に出て行き、

またほかの人々は、この僕たちをつかまえて侮辱を加えた上、殺してしまった。

そこで王は立腹し、軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。

それから僕たちに言った、『婚宴の用意はできているが、招かれていたのは、ふさわしくない人々であった。

だから、町の大通りに出て行って、出会った人はだれでも婚宴に連れてきなさい』。

そこで、僕たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった。

王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、

彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。

そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。

招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」

これが一体、何を意味する喩え話なのか? 「天国が婚礼に招かれたようなもの」だって?  うーん? という感じですね。

これのヒントになると思うのが、例えばイエス様は、「重荷を背負っている人は私の所に来なさい。休ませてあげよう」と、おっしゃっていることです。

まずは、いろんな人を「癒し」に招くのです。そしてその後に出てくるのが以下のことば。です。

 

「あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。」

これで少し謎が解けないでしょうか?  

まだ、「うーん、、、?」かも知れないですね。

サンガは、“人々をケアすることを学び修行する” ことを前提としたところですね。これは、イエスやマザーテレサの精神と同じですね。

そういう精神を前提として集まるためでしょうが、癒やされたくて来る人、ケアされることを欲してくる人もいいます。

しかしその一方では、自ら責任を持って他をケアする人がいます。

その学びや修行をするための場所ですから。

そこで質問です。

“世間的な意味でエラい人は、どちらに属しているのでしょうか?”

それは前者、すなわちケアすることではなく、ケアされることを欲している人なんですね。

この「エラい」という意味ですが、こんな逸話があります。

弁栄上人が書き物をしている時に、小動物が膝にのっていた。

でも、お弟子さんが来たら逃げてしまった。

“どうして弁栄上人だと逃げないのに、私が来たら逃げたのですか”、とお弟子が聞いたら

、弁栄上人は、“それはお前がエライからだ”と答えられた、という。

ここで言うエラいは、「霊的に偉いのではなく、世間的な意味で意味でエラい」という意味ですね。

そして人にケアする人は、人に仕える人だから、世間的にはエラくない。

しかし、ケアされる側に回っている人は、仕えられる人ですから、「エラい人」なんです。

道場の中で、「お客さま」でいる人は、エラい人です。

お客様というのは、婚礼を準備して人々を招き、そしてサービスするのではない。

婚礼に招かれて、その接待を受けている人です。

どれくらいエラいかというと、神レベル。

昔の演歌歌手の三波春夫さんが言ったように、「お客様は神様」ですから、一番エラい。

この消費者社会の中では、お客様は神様でしょう。

お客様は、この婚礼の場に来ても来なくても良いという、自分が選択する権利を持っているエラい人です。

自分の都合が悪かったり体調が悪かったり、気が乗らなかったりすれば来なくても良いのです。

これをエラい人と言わずに、誰をエラい人と言いますか?

接待する側は、用意してお客様を待っていなくてはならないんだから。

さて、婚礼というのは、ユング心理学的に解釈すれば、全体性を獲得することの象徴です。

これは、自己(セルフ)の道であり、浄土(天国)に向かう道のことなんですね。

だから仏さま(神さま)に向かう道場を、婚礼の場としてイエスは喩えたのです。

でも、最初に招いた客たちは、自分たちは来ても来なくてもよい、そういうエラい人たち。

この世の雑事(仕事など)に心を奪われ、道場には来なかった。あるいは、呼びに来た人をかえって非難して、浄土に呼んで上げたいという” その温かい想い”を殺してしまった。

次に“誰でもどうぞ!”と招いた客は、“自分は客だから好きに振る舞って良い”と考えた。(これが“礼服を来ていなかった”という意味です)

彼らは、心の礼服を着ていない、つまり婚礼に対する、道場に対する、神の道に対する敬意がなかったということです。

客様でいる、ということは、心のどこかに驕りがあるということです。

真摯な想いや敬意が十分にはない。しかしイエス様は「それでは天国に入れない」と言われているんですね。

この消費者社会で消費者はお客さまであり、その感覚に基づいて消費者感覚で道場に接するから、自分が エラくなっちゃっている、ということです。霊的にはそうだということです。

聖書に書いてあるように、「お客さまとして招かれるものは多い。でも、神様に選ばれるのは少ない。」神さまに選ばれるは、人々に仕える人、サーブする側に回る人、責任を持つ人なんですね。

そういう風に理解すると、この喩え話の意味がやっとわかって来ます。

 

天台宗の祖師に、「与える者は天に往き、受くる者は獄に往き、」という言葉があります。

これは恐ろしい言葉ですね。

人が集まれば、婚礼を用意する側となってサービスするか、それともお客様であり続けるか、大抵そのどちらかの側になりがちですからね。そして一方は天、一方は獄。そのどちらかなんだ、ということを言っているのです。

仕える人はいつまでも仕え、仕えられる人はいつまでもお客さま。そんな状態だと、やがて人間関係はつぶれていきますね。

例えば、ボランティアでも、バーンアウトと言って燃え尽き症候群になるでしょう。

人間関係が、仕える奴隷と仕えられるご主人様だと、そうなるのです。

奉仕する側とされる側、、、。そういう関係がいつまでも続くことはありません。

人はやがて燃え尽きます。そして後には何も残らなくなります。

それにも関わらず、組織を維持しようとしたらどうなるでしょうか?

今度は逆転するんです。そうして団体を維持しようとするんです。

例えば、長くいる人ほどエラくなり、仕えられる人になれるという、体育系的な上下のある人間関係にならざるを得なくなります。先輩後輩とかの、ね。(ああ、いやだいやだ、、、)

霊的なコミュニティは、そうして精神がつぶれて行くんです。

最初は純粋なものが、お客様がいつまでもその立場を維持しようとすることで、結果的に霊的な破壌が起こります。

人とは、一体どうあるべきなのか?

そういう真摯なもの、本来的なものでしか、霊的なコミュニティの精神的ないのちは維持できないのです。

だから、道場にいらっしゃる人は、いつまでもお客様でいるわけにはいかないんです。それは利他を修行する場ですから。利他を実践するようにならなければ、意味が生まれないんです。

どこからかの時点で、自らが利他をしていく。

自らが他をケアする側に回る。

責任を身持って人々を招く側に回るというように転換する。

そうでないと、どうしても霊的には無理が生じます。

 

一般の人間関係だって、一方だけがボランティア的な関わりをしているだけだと、続きません。

例えば、Aさんは自分の話ばかりして、Bさんはそれを聞くだけ。

、、、よくある話でしょう。でも、そんな人間関係がいつまでも続きますか?

人は誰だって、痛みや傷を抱えています。

そうなるように、ちゃんと人生でアレンジされています。

痛みを以ってしか、人の痛みを理解できないからです。

痛みを持って、初めて人の痛みにつながり、共感ができる。

そして、自分も人も癒される。そういう世界が生まれるためなんです。

当たり前ですが、痛みがない人はいないのです。

でも、“自分の痛みだけを見て人の痛みを見ない”と、自分の痛みを理由に無意識に人を使う、ようになります。お客様になります。

タオサンガでは、どうしてそうなるのかを、気のワークで体験的に学ぶことができますね。

そして、どういうふうに精神的な集まりは霊的にダメになっていくのかが、全部、気で体験できるようにシステムとして作られています。

どうして過去においてキリスト教会は、あんな悪魔の巣窟(そうくつ)みたいになったのか? それすら、気で体験的に理解できるんです。

サンガには、気のワークがあるのは、本当にありがたいと思います。

もっとも、体験したのと実際にそれを生きる、、行動するのとはまた別の話ですけどね。

ーーーーーーーーー編集とりあえず、ここまでーーーーーーーーーーーーーー

さて、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを言いこめられたと聞いて、一緒に集まった。そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、

「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。

イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。

これがいちばん大切な、第一のいましめである。

第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。

自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。

同このテーマはタオ指圧の体験講習で出てきます。

如来様がいて他者がいて、というときに一見他者は関係ないと思うじゃないですか。

これらはイコールとイエスは言っています。実際イコールなんですね。

如来様は宇宙大霊ですから、一切でしょう。

一切ですから如来様への愛がある場合には一切への愛があります。

如来様への愛と言いますが、一歩間違えると神への愛という言葉を使った遊びになったり、言葉を使った他者切り離しになったりします。ウソの神への愛(笑)

よくある話ですけど、神様を信じない人を批判したりとか。

その人も一切に含まれるのだから、それはおかしいでしょう。

本当に神への愛があれば一切が含まれます。

どうしたら一切への愛がある状態になるのかも気で体験できます。

ところが、逆はないのです。

人への愛があれば神への愛が含まれるかというと、含まれません。

ボランティアのように利他的なことをして輝いている人がいて、そちらのほうがいいんじゃないのか、と思われるかもしれません。しかし、それでは我を超えることはできないんです。

我を超えられないので必ず後で、いろんな問題が起きてきます。

神への愛を語ってばかりで利他がないのも偽の神への愛ですから。

特にキリスト教の世界ではよくあります。

仏教で一番愛を説いたのは弁栄上人である、と中村元(はじめ)という学者が言っています。

さすが知ってるんですね。

利他のない信仰はウソですからね。

ガンジーも「献身のない信仰は偽善である」と言っています。

当然ですよね。

利他があって如来の愛がある。

愛があれば利他が自然に発現するはずですからね。

仏教でも禅とかだと偉そうになってすごく冷たかったりしてね。

ちょっと違うんじゃないかと思います。

何十年やっても冷たくなったら意味が無いと思うんですが。

やればやるほど余計なものがなくなって、暖かくなって面白くなるというのが本当だと思います。

どんな人とも仲良くなれて、というのが本当だと思います。

弁栄上人は汚れた犬が雨の中いたら「来い来い」と呼んで頭をなでていたというエピソードがあります。

あなたがたは先生と呼ばれてはならない。

あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。

また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。

天にいますということはこの世のものではないですから、

対象化されたものを崇拝するのはおかしいのです。

対象化されたものに献身すると、人生あとで必ず腹が立ちます。

騙すなら最後まで騙して欲しかったと思いますよね。

後で必ず醒める時がくるでしょう。

新興宗教は教祖主義でしょう。

恋愛みたいなものでその時はハマってるんです。

傍から何言ってもダメです。

ハマったときはそっとしておいた方がいいです。

悪い男に引っかかってる人に「やめとけ」と言っても盛り上がるだけじゃないですか(笑)

教祖も本人の中で成立しているかもしれないから分からないですけど。

最初から騙そうとしている教祖もヤクザもんとか女詐欺師でいるかもしれない。

外のものは諸行無常で朽ちていくじゃないですか。

どうして外に対象化できるものを崇拝できるのでしょうか。

某団体のとある人が「私が宇宙を作った神」とか言っちゃったりして(笑)

数ある教祖あれど、宇宙を作った神と言った人は僕は二人しか知らない。

一人はサイババ。

サイババ被害者友の会というのがあります。

もっとも、サイババ好きな人もいるからね。

「サイババの出した灰もらったの、すごいでしょう」と言われたら

「うんそうだね」としか言えないじゃないですか(笑)

また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。

あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。

このときのキリストは自分のことを言っているのではなく、聖霊のことを言っています。

一人ひとりの心の中に聖霊が宿るのです。そのことを言っています。

お釈迦様も当時如来を念じなさい、と言っています。

お釈迦様も自分を念じなさいと言っているわけではありません。

如来は真如から来たれるものですから大霊から表れるものです。

そのころは聖霊という言葉も応身という言葉もないですけど。

念仏ですよね。

そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。

一番偉いものは仕える人、一番サービスする人でなければならない。

人が霊的に偉いかどうか大体そこでわかりますよね。

誰かが話しかけてくれるのを待ってる人と、場を楽しくしようと一生懸命やってる人とがいます。

ずっとお客様というわけにいかないじゃない。

僕が言ってるんじゃなくて、イエス様が言ってるじゃないですか。

いつまでもお客様と言ってるうちに気がついたら天国には入れません、という時が来ます。

その後がある、というわけじゃないですからね。

お釈迦様が人生ってどれくらいの長さなんでしょうか、と聞かれました。

短いといいますから1年くらいですかね、いや違う、じゃあ1日くらい、いや違う、一呼吸くらいですか、いや違う、といって指を弾きました。

弾指、指を弾くくらいの時間だと。

今までを振り返るとそうだと思いますね。

死ぬときには与えなかったものは後悔します。

もっと与えておけばよかった、利他しておけばよかったと。

与えたものは後悔しません

あんな奴にだまされて何百万も、というのは後悔しません。

そのときは忘れちゃってます。

できれば後悔すること無く、思い残すこと無く人生を輝かせていただきたい。

今の人生が輝いていなかったら次の人生も輝かない。

今日一日輝かなかったら明日も輝きません。

どうやって輝くかというと自分のために、というのでは輝かないですね。

ろうそくは周りを明るくしてこそ、ろうそくですから。  

光はまわりを明るくするから光なんです。

自分を明るくしてどうします。悦に入ったりして(笑)

だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。

こんなこと言われたら腹立つでしょうね。

僕だってエラい人たちには言わない・・・サイババには言っちゃったけど(笑)

あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。

宗教はウソだらけじゃないですか。

過去のもので説いたものは全部ウソです。

今までこう言ってたからこれが正しい、そんなことはないのです。

未来、この一瞬に命を尽くして燃焼して修行して自らの中に生まれた輝き、この中からしか本当の教えは生まれないでしょう。

過去こう言ってたからこうだ、というのは残骸、ただの記憶でしょう。

知識はみなそういうものでしょう。

そこに寄りかかるもの全部、寄りかかる態度がウソなんです。

書かれているものがウソだというのではありません。

書かれた時は輝きでもって書かれています。

リアルタイムで体験できたら輝きなのです。

自分の中に輝きがなくて、過去のものに書かれているから正しいというのは態度がウソなのです。

瓦礫によっかかっていると自分が瓦礫になってしまいます。

そういう意味で天国を閉ざして人々をはいらせないと言っています。

書いていることが正しいのだからあなたたちは信じなさいというのは天国を閉ざすことだと。

それがいいと思ってやっている人たちは腹が立つでしょう。

だけど、腹が立つのはイエスも同じでしょう。

自分の中にこんなにすばらしい輝きがあって、人々が本気になれば開かれてくるものを否定されたのですから。

本気で求めたら輝きも本気で現れます。どこまで自分が本気になれるかですね。

残念ながら本気なのに引っかかっちゃうかもしれません。

かわいそうでしょうがないから本当によく考えます。オウムの林郁夫さんとか。

医学部まで行って医者の偉い先生になるまできっとすごくまともで行っちゃったから。

世の中とか親の言ってることに早く疑問を感じて高校やめていればよかったのに。

勉強しなさい、いい学校行っていい会社に入りなさい、それが幸せだとか。

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。

あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。

そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。

愚かな盲目な人たちよ。黄金と、黄金を神聖にする神殿と、どちらが大事なのか。

既に出来合いのものを崇めるのではなく、大事なのは心のなかの神殿でしょう、と。

この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。(ヨハネによる福音書第2章)

僕だったらイスラエルでそこまで言えるか。

当時ではなおさら死刑とか石打ちの刑とかあったでしょう。埋められて死ぬまで石を投げられる。

やっぱりイエスはスゴい。

後に全部残すために十字架にかかって復活するという、当時北アフリカに広がっていた物語のとおりにした。

おそらく本人はいやだったけど神様にやらされてるんです。

後で泣き言が出てきます。ああ、かわいそう。

わたしの魂は悲しみのあまり死ぬほどである。(マルコ福音書第14章)

(完)