菩薩として生きる


法話ライブ at  京都道場  2016年10月15日

法話:遠藤喨及

書き起こし:純佑

動画URL:https://www.youtube.com/watch?v=VV3McwlH0bk

※日本語と英語バイリンガルの法話


 1.菩薩がこの世に生まれたら何をするか?

タオサンガは念佛修行するところだと思っているでしょうけど、それは甘い!(笑)

念仏ハイ! を行なった阿弥陀寺では、”菩薩としての修行をする所がタオサンガだ”と言いましたけど、”菩薩として生きるのがタオサンガだ”、と言い換えてもいいです。

さて、菩薩様がこの世に生まれたら何をするでしょう?

彼らは念佛の修行を生きる目的とするでしょうか? しないですよね?

だって菩薩には、すでにお浄土の徳がある。

そこをあえて人間の肉体を得て、苦しみを背負ってこの世に生まれられた。

菩薩として生きるとは、どういうことなのか?

これを考えないといけません。

まず、菩薩の願いとは何でしょう?

(“Help people..”という声が西洋人から上がる)

でも、人を助けるといってもね、、、。

たとえば、お腹が空いている人に食べ物をあげて、助かった。

お金がない人にお金をあげて、助かった。

でも、これでは菩薩としては、全然もの足りない、と感じることでしょう。

他者を乞食にするのが菩薩の目的ではありません。

他者をして、菩薩にするのが、菩薩の本当の生きる目的なんですから。

また、そのために大乗仏教では、2000年のはるか前に、「四摂法」という他の人を法に導くためのガイドラインが生まれたのです。

2.阿弥陀様の聖意(みこころ)に生きる

四摂法とは、人が阿弥陀様に摂め取られるための四つの方法です。

人が阿弥陀様の融合を受け、阿弥陀様の聖意(みこころ)に生きるようになること。

阿弥陀様の代わりとして、その身に阿弥陀さまの大愛を現すこと。

それを、阿弥陀様の摂取を受けて融合する、と言うのです。

四摂法は、以下の四つです。

布施

利行

愛語

同事

布施は英語では、Donation(寄付)と訳されていますが、これは良い訳ではないですね。

日本では「布施」というと、お坊さんにお金を払うというふうに使われていますから、しょうがないのでしょうけど。

でもそれって、本来の布施の意味とでは、全然違うんですけどね。

布施とは「布が広がっていくように、法が広がっていく」という意味です。

それは、人々が阿弥陀様の心を体現するような生き方をすること。

菩薩のように生きる人が増えるための行為なんです。

3.阿弥陀さまに成り代わって、人を大切にする

これは一体、どうしたら可能になるのか?

でも、それを可能にするのはただ一つですよ。

「人をして、阿弥陀様がどれほど、その人のことを気にかけているか、阿弥陀さまが大事にしてくださっているか。

そのことを、潜在意識的にでもよいから、その人が予感できるような体験をさせることなんです。」

法を広めようと思ったら、阿弥陀さまに成り代わって、人を大切にするという行動をするしかないんです。

それが布施なんです。それが菩薩として生きる、ということなんです。

これは、いくら口先で言ってもダメです。

自らがお手本を示さなければ、誰もやろうとはしないですよね。

人に「利他をしなさい」なんて言うならば、「それなら、あんたがやれよ」と言われてしまうでしょう?(笑)

タオサンガは、阿弥陀様の代わりとして、人を大事にする。

そうして人々に、阿弥陀様の実在を感じさせる。

そうところでなければならないのです。

4.与えられる一方では、餓鬼道に堕ちてしまう

ただ、誤解のないようにしてください。

そうしてもらうところがタオサンガではないですよ。

自らそれを、他に対して実践することですから。

本当に気をつけなければならないことがあります。

それは、念仏修行に来くるようになって、

最初の内はそうやって大切に扱ってもらえている。

でもやがて、それが「当たり前」になってしまいます。

「有難し」(有ることが難しい)とは感じなくなる。

そうなると、与えることはなく、ただもらうだけになってしまいます。

でも本当は、いつまでもそうしているわけにはいかないのです。

そうでなければ、いつまでも受持を“与えられる一方”という

状態になってしまう。

受持が与えられる一方では、餓鬼道に堕ちてしまいます。

そうなると、与える人になることを促されて、

それまで、少なくとも形の上では感謝していたのが、

一転して反発するようになってしまいます。

与えること、受持することに対して、反発的な気持ちが出て来たら、

もう霊的には、注意しなくてはならない状態です。

5.そこには何の計算もない

タオサンガは、自らが、阿弥陀さまに成り代わって、他の人を大切に扱うのです。

だから、阿弥陀さまが、その人を摂取して下さるようにと、

他の人を受持して摂取していかなくてはなりません。

そして、阿弥陀さまに成り代わって行うのが、四摂法なんです。

だから、2つ目の「利行」にしても同じです。

”ひたすら、人に阿弥陀さまの大愛を感じてほしい”、ただそれだけの願いでやることなんです。そこには何の計算もないんです。

”相手に好かれよう”とか、”相手から、すごい、と思われたい”とか、

そんな気持ちが微塵でもあっては、利行ではなくなります。

もしそんな気持ちを持っていたとしたら、その「利行」(と、呼べるかどうかはわからないけど)を受けた人は、どう思うでしょうか?

”あれ、阿弥陀様って、私に好かれようと思っているのかな”、

なんて無意識に思ってしまうかも知れないですよね?(笑)

6.自分の行動は、イコール他者にとっては念仏に対するイメージとなる

念佛修行の人は、「自らの行動によって、ほかの人が念佛に対してどう思うか、

阿弥陀様に対してどう思うか」ということに影響を与えます。

だから、とても責任があるのです。

だって、ホテルのフロントが嫌なヤツだったら、ホテル自体を嫌いになるでしょう?(笑)

”この人、念佛やっているのに、そんなエゴイステックな行動しかできないのか?”

と、人から思われたら、どうでしょうか?

だから、タオサンガがメンバーが人をどう扱うかは、新しい人が、

阿弥陀さまに対してどのようなイメージを持つか、なんですよ。

ということは、「自分の行動は、イコール他者にとっては、

念仏に対するイメージとなる、タオサンガに対するイメージになる」

ということ。

それを、心しなければなりません。

自分の行動の結果、”この人は念仏やっていても、結局は自分優先だし、特に人格者というわけでもない。だったら念仏なんてあまりやっても意味ないな”と思われてしまったらね、、、。それでは、自分の行動が、念佛そのもの価値を下げてしまっていることになります。

でも逆に、”この人といたらとても心地が良い”とか、”自分を大切に扱ってくれる”

という風だったら、どうでしょう? その人は、”阿弥陀さまは、自分を大切に扱ってくれるんだ”と無意識に感じることができるでしょう。

7. 同事とは一緒に遊ぶこと

愛語とは、人をして、「自分を大切に扱ってくれる」と感じさせるものです。

もし人に、自分が大切な存在と感じさせるような言葉をかけることができたら、

それが愛語なんです。

愛語は、どこの誰にも、みんなに必要なんです。なぜかというと、「一人ひとりが阿弥陀様のひとり子だ」ということに目覚めることが必要だからです。

そう感じること、それに目覚めることが出来たら、その人は、他の人にも同じことができるようになるんです。

さらに、「自分は、この人といたら心地いい。近くにいても息苦しくない、という想いを与えるためのものが、同事(同じ目線で遊ぶ)なのです。

息苦しさは、劣等感を感じるところから来ますから、それを感じさせないための行動。

それが同事で、それは必要なんです。

タバコを吸う人だったら、時には一緒にタバコを吸う。

カジノに行く人だったら、時には一緒に行く

お酒を飲むんだったら、時には一緒に飲む。

根底に、その人に対する摂取の願い(阿弥陀さまにその人を摂取して頂く)があったら、その人は無意識にでも、”もしかしたら宇宙大霊という存在が実在するかも”、と感じることでしょう。

8 .「 念佛を広めるものは身・命・財を惜しむべからず」(法然上人)

だから、法を広げるためのことは何でも布施なんですよ。

微笑み一つとってもそうです。

だから微笑むのは、自分のためじゃない。

人のために微笑むのですよ。

そして、阿弥陀様の実在を感じさせるような微笑みであれば、それは布施です。

道場を綺麗にするのも、訪れた人に、阿弥陀様を実感させるためという動機の元に行われた行為だったら、それは布施です。

法然上人も、「念佛を広めるものは身・命・財を惜しむべからず」、身体も命も財産も惜しまないように、と言われました。

法然上人は、目の前でお父さんが殺され、亡くなる前に「敵をうたずに、坊さんになって菩提を弔っておくれ」と言われ、子供のうちにお坊さんになりました。

そして、次の比叡山のトップになる予定だったのに、念佛を広めるために、全てを捨てられました。

弁栄上人の遺言は、「人々は阿弥陀様の実在を知らない。それを知らせに来たのが弁栄である」です。

私たちも、タオサンガで修行するならば、お互い、人々をして、阿弥陀さまの実在を予感させるような、菩薩としての人生を生きませんか?

                            (合掌)