ユーモアクラブより転載。

北広次郎エッセイ集 ミスターヨーロッパだより

第5号 『ジョンブルユーモアジョークと韻詩文化』

 昨今の私は、欧米から故国を顧りみると、観かたがブライトユーモアばかりでなく、ブラックジョーク、ブラックユーモアになってしまいがちです。

 特にここ英国は、歴史的伝統的に、ジョンブルユーモア、ジョンブルジョークが真髄で有名なお国柄です。私もその伝統にたっぷり浸かって、長年過ごして来ましたから、影響を受けていて当然ですが、明治維新後、四海孤島国が、皇室も政府国会も含め国民庶民も政治社会制度保険制度労働法制度から、サラリーマン国民服背広、制服、結婚衣裳、式典服、燕尾服、あらゆるスポーツ、スポーツユニフォームから、鉄道、灯台、船舶、航海術、時計時間制、言語、教育制度、社交ダンス、紅茶インスタントカレー粉CBS、ショートケーキ、カスタード、ジンウイスキーあらゆる分野で英国方式を見習(倣)い、採用して来ました。

 戦後は米国方式が 採用されましたが、しかし 歴史的に見ると、米国・カナダ・オーストラリヤ・ニュージランド・南ア等の制度の基は、英国から見習ったというより、英国そのものの移入国です。

 残念ながら他国民に比して何故か歴史にかなり疎い悪癖を断ち切れない四海孤島国ジパング民が、もはや気づかないことが多くなり過ぎてるが、日本国が幕末明治維新から、英国方式を採用した実例は、まだまだ列挙しきれないくらい身の周りに数多くあります。

 幕末には、薩摩藩を筆頭にして各藩密出国組は主に英国に渡ったが、米国にも出た。

 明治維新からは西洋文明吸収のために渡った留学生は圧倒的に英米行きが多くなったのです。そこで孤島国ジパングの近代化のため、多くのことを学習して来た歴史があります。しかし、四海孤島国が、近代化を目指すために特に規範とした英国方式様式から、見習(倣)いきれなかった重要な事がいくつかあります。その事柄の中には、いま言葉では説明しきれないこともままあります。

 その中に、普段一般には、気がつかれていない二つの事柄がある事に触れて見たいのです。

 幕末明治維新以来、日英米の言語様式には、相異があるとはいえまだ吸収し切れなかったことは『ジョンブルジョーク』と『押韻』であります。

『ジョンブルジョーク(ジョンブルユーモア)』の『ジョンブル』の意味は何かと言うと、間単にいえば『英国人一般のニックネーム的総称』です。『ジョンブル魂』なんても言います。

『ユーモア』とか『ジョーク』ってのは、欧米では単なる遊び心だけのものではありません。その使い方によっては時には政治経済社会を左右することもあります。またこれが無い社会は、無味乾燥地帯です。

『ユーモアジョーク』と『駄洒落』は決して同一物ではありません。しかし四海孤島国では、『駄洒落』と『ユーモアジョーク』が、境界線をなくしてるのは多分に『押韻法感覚の欠落』に原因があります。

 漢字文化流入後、今度は表音文字横文字文化にぶつかった時、新たなカルチュアーショックを受けた。それが最初は十六世紀のキリシタン伝来のポルトガル語スペイン語であり、やがて江戸時代蘭学のオランダ語であり、幕末のフランス語、英語、ロシヤ語であった。

 しかし江戸幕府は鎖国して海外渡航を一切禁止し、海外知識を持つ事も抑制した。庶民には西洋文化には無知蒙昧でもあって欲しいとして、長崎の蘭学だけは認めたが、洋学は蛮語蛮書と蔑称していた。幕府内には蛮書調所なる検閲部局をおいて、海外情報の一般公開も禁じた。

 中国語における漢詩は文字数と行数で定型されていたが、これはあくまで大陸からの異文化であったから、当初は奇妙な絵記号に見えていたことであろう。

 漢字文化に目覚めた四海孤島国人にとっては、音を無視しても、訓(意味)に当てはめたり、当て字を造ったり、併合語、造語を行なったりしてきた。

 その最大の原因の一つは日本孤島人には『押韻法文化』を織り込む余地が日本語になかったこと。問題は欧州言語にも漢詩にもある『音楽的韻律美』を追求する『押韻法』が、孤島国ジパングには理解できなかった事です。ただ『押韻』は無視したが、母音子音だけの音の定型法だけは何とか、かな文字が出来上がってから 575とか 57577型式で採り入れようとした。そして、それが五七調定型を生むことになったのは、語呂がよく、音声の抑揚と強弱による感情移入法が流行になってきた。

 特に詩詞文学言語において、西洋言語にもあれば、漢字中国言語にもある、韻を踏む事、すなわち『押韻』=『踏頭』が四海孤島民族においては継有できなかった事です。

 過去に漢詩を学んできた、四海孤島国民が、音と訓の使い分け法で、四海孤島国内の日本語の便法」便利法」のみ追尾するに一心であった点はよしとしても、一方その方向に傾く余り、詩吟を唸っていながらも、『音律押韻の美』は放棄(無視)してしまったのです。

 残念ながらその矛盾に気がつかないのが、四海孤島人の限界で、国境陸続大陸人感覚と異なる点です。その矛盾を、矛盾として気がつかないか、認めたがらないふしもあるのです。

 

 たとえば 漢字の歴史的発祥起源国の中国人の名前を呼ぶとき、読むとき、日本式に読んでしまう。これは韓国人の名前の場合でも同じですが。NHKや民放のTVやラジオでも、本来的漢字国の人々の姓名を、本国読みにしないで、勝手に日本式音訓読みに変えてしまうのは、よく考えて見ると、不親切で失礼な話しです。そういう配慮が欠如して来たのは、四海孤島国の鎖国性に起因しています。

 本来人名は縦文字漢字国だろうが、横文字国だろうが、文字以前の問題で、本国のその人個人の音読みによる呼び名が最初にありきで、本来それのみが特定個人の唯一の呼び名であるべきです。

 鎖国やってきた孤島国ジパングでは、その本来的意義は完全に無視されて来ました。もともとジパングには紀元前には文字はなかった。しかし縄文弥生時代までの孤島人でも、家族や集落では、日常生活では個人音名(音記号)のみがあったはずで、その音名記号で特定個人を区別し、家族集落社会内で呼び合っていたはずです。ですから、縦文字横文字に限らず、書き文字は人類発生の後から出来た物でもあり、人間には文字より先にまず音声呼称名があったものです。

 今少し具体的に説明しますと、例えば空港ロビーで待合中の毛沢東先生や周恩来先生を 急用で呼び出そうとしてる場面を想定して下さい。

『お呼び出しを申し上げます。もうたくとう様 しゅうおんらい様  ただいま緊急連絡が入っておりますので、至急空港ロビー中央の案内係デスクまでお越し下さい。』 と繰り返しアナウンスしてるとします。 しかし繰り返し館内放送していくら待てども、誰も名乗りをあげてこないのが当たり前でしょう。『ミスター マオツオートン』 『ミスター チョウエンライ』と本国の本人の発音名で繰返していれば、誰かが気がつく確率は高いのですが。

 漢字国名を日本風読みに、勝手に変えてしまうのは、本末転倒もはなはだしい。外国人の名前は。その人の本国の発音に忠実に準拠する事は、礼儀であり、ごくあたりまえのことです。日本のTV、ラジオ、新聞、雑誌のメディヤから、まずこれを改める習慣を先導しないことには、この矛盾を改める事はできないのです。

『個人名における本来の発音無視』のままで過ごしてる孤島国では、『イソップ物語』の『盲人象に触る寓話』のように、その対象人物のイメージが間違っていようが、偏向しようが孤島内だけで通用すればそれで良いんじゃないのという気分です。個人名については、その人物の本国の正確な発音名以外の読み方の他はありえないでしょう。そこが国境陸続大陸民族との相異点の一つになってます。

 日本の言語で、押韻は不可能かといえば、決してそうとは言いきれないのです。ここで人類学的歴史を振返り、表形(表象)表意文字(漢字)文化を移入するまで、四海孤島国ジパング古代人には書き文字がなかった事、そして語り部という講談講釈師の口承伝承が行われて来たという太古の大祖先時代に、いま一度タイムスリップして、再度見直す事が必要となる。永らく文字文化を持たぬまま過ごして来た孤島原人の風土に、紀元前から文字(漢字)文化を持つ大陸渡来人が異文化や、先進技術技能品をもたらすようになってくる。やがて漢字文化への好奇心を抱くものも出てくる。そして漢字文化への知的関心が、倣うことから、継習へと向う。

 漢字は奥が深すぎて難しいし習得するには時間がかかりすぎる事から、代々音声による語り部の口承伝承を繰り返して来た孤島原人は、やはり基本的音声を記号化する便法を編み出すことの必要性に迫られて来るのは当然の成り行きである。

 語り部とは、古代形成されつつある集落共同体社会の郷土史、記録や決まり事やならわしとか、あらゆる生活の智恵やノウハウや習慣などの知識を伝える生字引の講談師であり、伝承には時間がかかるので、親が子に子が孫に御伽噺しを語り聞かせるようにして、代々世襲されてきた。しかし表象表形文字を持つ大陸渡来人の出現は、この口伝えのアナログ方式に変革をもたらす。

 四海孤島国にまだ文字文化のなかったころ、文字文化を有する大陸国家中国では『巍氏倭人伝』が邪馬台国卑弥呼について書いている記録があるのは、その頃大陸渡来人の往来があった証拠にもなる。

 日本にかな文字が生まれたのは、最初は漢文漢詩に何らかの音読可能なルビ記号をふる便法感覚であるのであった可能性もある。その後かな文字文学は、女性の独壇場になって行く。

 日本語ではかな文字が出来て中国式漢文字数行数では出来ないので、後代になって、漢字から音声記号のみによる変形単純化したかな文から、57577とか更にそれを完縮して575にして、結局音数で定型法にするしかなかった。かわりに音楽美的押韻美を犠牲にしたのです。

 それは表意文字文化で意味さえ分かればいいという、音感無視の移入法に頼ったからで、現代その影響が著しいのは、パソコンでの日本語の取り扱い操作法です。パソコン操作では、日本人自身普段気づいていないが、横文字国人のすくなくとも四倍か五倍の回り道をしていると言う。漢字に加え、かな文字変換機能、ローマ字変換機能、アラビヤ数字に加え日本数字機能、英語アルファベート機能を備え、それを併用するというのは世界中で四海孤島国ジパングしかない。アルファベット横文字国の民族なら基本的には表音文字26音の操作だけでで済む。

 欧州言語表音的横文字では『ユーモアジョーク』と『詩的押韻』は歴史上関係がある。例えばシェークスピヤーやギリシャローマ舞台劇にしても、オペラにしても舞台劇は詩の連続ドラマであるが、その観念は孤島国ジパングにはない。『音とろうろう(朗う々)』と言うのは、『押韻』(『踏韻』)があってこそ、成立つ事であるが、日本語の詩は95%散文であり、欧米詩漢詩でいう詩文韻文ではない。だから、正確に言うと、永い伝統的歴史のある欧米語や中国漢字式『韻文詩』文化は、日本語詩にはあり得ない。輸入漢字の日本式読み変えをして来た日本語には、『押韻法』すなわち『音楽的音律美的表現』は放棄(断念)せざるを得ない宿命になった。

 だから、日本語にあるのは日本的造語にした『散文詞』(=『散文詩』)である。

 外国の音楽歌曲の歌の『歌詩』は外国語では押韻のある『歌詩』であるのだが、日本語では『歌詞』ではあるが、『歌詩』ではないというが、それはもっともかもしれない。舞台戯曲でも同じ事が言える。国際的に著名な日本人の舞台監督演出家が、本場英国の舞台劇場で戯曲の公演の演出しても、英語外国語で脚本書いてやる人はいない。その最大の理由はシェクスピヤー劇のような台詞に『押韻』のある文章の脚本が書けないことにあるというのである。その言語上のコンプレックスが常につきまとうのです。

 さて『ジョンブルユーモアジョーク』が、英国議会では演説にしばしば、使われてきたし、使われている。歴史的名演説の中には、しばしば『ジョンブルジョーク』『ジョンブルユーモア』『風刺』が使われて来た記録がある。これは英国に限らず、欧米ではよくあることである。それは歴史的に古代ギリシャローマの野外劇場でマイクも使わずに、多くの聴衆の前で詩文韻文劇を朗読する習慣に起源を発している。『ユーモアジョーク』も『アイロニー(IRONY)』も、その中でふんだんに盛り込まれて、聴衆に感動と感銘を与えてきた。

 現在欧米のマスコミにおいても、しばしば、その手法が日々駆使されているのです。新聞の大見出しにも、しばしば使われている。

 最近英国の大新聞の一面大見出しに『BLIAR?』と出ている。『LIAR』とは『嘘つき』の意味である。『BLAIR』のスペルの『I』を『A』の前に置き変えて『BLIAR』とする『ユーモアジョーク』は、英国人ジョンブルの最も得意とする、大変に芥子の効いた風刺であります。『正確な証言をするのかどうか?』と国民が見守っている状態を、たった五文字」表音文字」で、痛烈に表現しているのです。これは『押韻』とはちょっと違うように思えるかも知れないが、しか同根類似の手法で、表音文字がなくては、できない芸当です。

 

 これは事前検証不十分のままイラク戦争に踏み切った英国元首相『TONY  BLAIR(トニー ブレイヤー)』を諷刺してる大ジョークである。これは最近英国民の強い要望で、核兵器製造を報告した米国CIAレポートを十分検証もせず、鵜呑みにして、ドイツフランス等欧州主要国がイラク戦不参加を表明したにも拘わらず、国連決議もないまま、英国はイラク戦争に乗りだしてして、200名弱の英国兵士軍関係者の犠牲者を出したことで、その遺族達の強い要望で、イラク戦争に踏み切った当時の原因状況を究明する検証委員会が発足し、トニーブレイヤー元首相はその検証委員会公聴会での証言を求められてる事を報道している。

 結果的に、イラク戦争では結局核兵器は見つからなかった。造った形跡もなかった。つまりあの名演説家であるトニーブレイヤー元首相も、内心忸怩たるものがある事が伺える表情がかたく苦しい弁明的証言を繰り返している。そういえば日本国もイラク戦争には加担した側であるけれど。

 一方、日本の政治家や、国会を見るに、ただ『売言葉に買言葉』『見え見えの建前だけの非難応酬』で、インテリジェンスのある『ユーモアジョーク』『風刺』の場面が見られないし、聴こえて来ないのはさみしいかぎり。ただただ空しく『売言葉に買言葉』『見え見えの建前だけの非難応酬』『棘のありそうに見せかける突込み』が飛び交うだけに響く。

 インテリジェンスのある、腹の底から笑えて、国民にもずしんと響くような、ジョンブル式『ジャパンユーモアジョーク』を駆使できないものであろうか。

『押韻法の例』『ジョンブルユーモアジョーク』の例について、まだ十分触れていないので、続編はまた次回にします。