自分の十字架(カルマ)と向き合って生き、人生に光を顕す

聖書 第6回

 

法話ライブ at  京都道場  2014年9月6日

聖書 第6回 マタイ伝第 9・10章

法話:遠藤喨及 書き起こし:倶麻、純佑

動画URL:

https://youtu.be/C3ZyNnvQex8

 


 

砂漠の牧畜文化と、農耕文化の一切衆生で、人間も動物も同じ衆生という捉え方とでは随分違いますね。

牧畜文化では、どの羊を殺して、どの羊を活かすかとか間引きするんですよ。

部族の数以上の羊があってはいけない、というのがあって

それも部族の長が決める文化がある。

 

父性的にやっていく文化なので、東洋の農耕文化で“みんなで一緒に!”というゆるいのとはかなり違いますね。

 

そうでないと砂漠では生きていけない。

水も、誰が水を取って、誰が羊を取って、という感じ。

それが西洋の方に入って行くと個人主義というところに行くわけです。

 

ただ、個人主義を克服するために厳しい掟を作っていく。

神様との契約というものが発達している。

 

でも、僕なんかの東洋的な見方だと、先週のイエスが悪霊を豚に入れて豚が全部死んでしまったところで「ちょっと豚は可哀想だな」と思っちゃう。

 

イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。

また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。

 

要するに病人がいっぱい連れてこられるんです。

今は、わからない病気は隔離されてしまいますからね。病人はあまり見えない。

それがなければ、それぞれ自分の家で面倒を見るという状態でしょうし、実際に病人は、たくさんいることでしょう。

もっとも昔は、医原病が無い分だけ、今よりは病人は少ないでしょうけど。それでもおびただしい数の病人たちがイエスに救いを求めて来た。

 

そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。

 

沢山の人を癒やすから、みんなびっくりして入信してくるんです。

だけど、もらう方ばっかりで自分自身が神様の御心を現して人々を支え、

痛みを癒す側になる人は少ない。

だから、神様にお願いしてそういう人たちを天から送ってもらいなさい、そういう意味です。

2000年の昔から今に至るまでこういう問題は常にあるのですね。

 

心が啓かれて、他の為に、神様の心を体現していくという人よりも

もらって良かった、嬉しい、じゃあ入信します、とのパターンの方が多いです。

 

そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、

あらゆるわずらいを癒す権威をお授けになった。

 

そういうパワーをイエス様が授けたということ。

十二というのは象徴的な数ですね。

十二光とか十二進法とか

十二という数は或る意味では、宇宙の基本みたいなところです。

 

もう一人、ユダが入ってきてイエスを裏切った。

一人減ったので誰を入れようか?という話しになって、

イエスの死後、もう一人後で入れるんですよね。

 

イエス様をこの十二人をあちこちに送る訳ですけど。

その時に、なかなか面白い事言われるんですよ。

 

財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。杖も持って行くな

旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。

 

徹底していますね。下着くらい持って行けば、と思いますけど…(笑)

 

ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。

一歩間違えたら、もらうだけになってしまいます。

お遍路にしても習慣があるので色々くださいます。

托鉢でも「お金になりそうになる所を回るのはダメだ、貧しい人が徳を積むためにそういう所を回りなさい」とお釈迦様も言われたりします。

 

働き人がその食物を得るのは当然である。

自分が神様の働き手をしたのなら、それによって困ることは絶対にあり得ない。

絶対的な確信があれば、周りは感化されてその気になりますよ。

 

人が一番疑いやすい対象は自分自身です。自分の内側にある神様の働きを疑っちゃダメですよ。

神様、仏様を信じるということは自分に内在している神様、仏様を信じることになりますから。

だから信仰のある人は強くなれるんですよ。

 

外なる神を信じられない者は内なる神を信じられませんから。

そうすると強さが得られないですね。

また、外のものしか頼るものが無いですから、そうすると結局、力、権力、お金とか。

そういうものしか頼れなくなる。

 

あとは美貌(笑)。美貌にしてもずっとついてくるわけではありません。

内なる輝きが魅力をもたらします。それは衰える事が無いですから。

年々輝くようにしていけばいいわけです

 

その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。

 

とにかく、家々を回って平安を祈ってあげなさい。

 

もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。

 

平安を受けるに相応しい家で有れば、平安がその家にくるでしょう。

相応しく無ければ、自分に戻ってくるだろう。

 

行って、「天国が近づいた」と宣(の)べ伝えよ。

 

天国は近づいたと伝えなさい。神の愛を伝える教えが開かれたのだから、あなたの心にも天国が近づいた、そういう意味です。

 

もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。

 

どういう意味でしょうかね。

何か象徴的な意味がありそうなんですが、分からないけど、何となく、心に残る。

心に残るのは何か、恐らく象徴的な深い意味が有るのだと思います。

ここは、分からないから、イメージだけ取って下さい。

 

 

私があなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。

 

獰猛に、人を食べたいという狼。エゴの象徴です。

エゴの真只中に、純真に神を現そうとして行くわけでしょう。

それは羊を狼の中に送るようなものだと。

 

凄い表現ですよね。

恐らく自分が傷付いたのと同じように、この弟子たちも傷付くのだろうな、と切々と思うからこそ、こんな言葉が出てくるんだと思います。

だけど、それはやらなければならない事だと。

 

蛇のように賢く、鳩のように素直であれ。

 

太宰治も「斜陽」の文中に、この言葉が出て来ますね。

 

蛇のように賢く。うまいこと、賢くすり抜けていくのでしょうね。

蛇に騙されてアダムとイブの、イブがリンゴを食べ天国を追い出されちゃった。

 

鳩のように素直であれ。

 

この頃から鳩って平和の象徴なんですかね。

 

人々に注意しなさい。彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。

 

ユダヤ教も大変ですから、石打の刑とか言って本当に殺しちゃいますからね。

 

旧約聖書で、「子供を神様に言われて殺します。」といった事が出てきます。

神様の言うことを聞かなければ、殺していい、という非常にえぐいのが出て来ますね。

(注:旧約聖書の『創世記』22章にあるイサクの燔祭のことか。アブラハムが不妊の妻サラとの間に年老いてからもうけた一人息子イサクを生贄に捧げるよう、彼が信じる神によって命じられる)

 

彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。

言うべきことは、その時に授けられるからである。

語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。

 

あなた方を彼らに引き渡した時に何をどう言おうか?と心配しないように。

言うべきことは内なる霊が語ってくれるだろう。

自然に出てくるだろう。そうような力を授けて、送りだすわけです。

 

またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。

しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

 

真実を言う者は最初は必ず否定されますよね。

最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

 

一つの町で迫害されたなら、他の町へ逃げなさい。

 

日蓮上人でも法然上人にしても迫害されましたしね。

 

弟子はその師以上のものではなく、

僕(しもべ)はその主人以上の者ではない。

弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。

 

ここで仏教との違いが出てくるんですけど、

弟子が師のようで有れば十分である、という言葉が出てきます。

 

でも仏教では、道元禅師が「弟子というのは、師を超えて初めて弟子と言えるのだ」と言われました。

僕はどちらかと言うと、感覚的にこちらの方が何となく分かります。

 

線路を引き継いでいくことで、師の偉大さが分かる。

電車が通れるように、人々が通れるように線路を造っていく作業。

それは枕木を一個一個打って、運んでという気の遠くなるような積み重ねです。

後から来れば一気に走れて楽ですけど、線路作りは大変。

でも次の線路を作ると、それまで線路を引いて来て下さった代々の師の大変な苦労が身に染みて分かり、感謝の気持ちが湧いてきますね。

 

まあキリストの場合は、神の子という、師以上の位置づけですから、

「弟子が師のようで有れば十分である」という事になるんじゃないですかね。

 

例えば仏教では、仏様の頭のてっぺんが出っ張ってるところを「無見頂相」といいます。

無見ですから、頂きが見えないということ。

どんなに向上しても、如来様以上の頭のてっぺんは見られない、そういうということです。

どんなに向上しても宇宙全体が霊的に向上しますから、それの象徴です。

無見頂相(頂きは見られない)には、そういう意味があります。

そのように捉えるならこの言葉も理解できますね。

 

もし家の主人がベルゼブルと言われるならば、その家の者どもはなおさら、

どんなにか悪く言われることであろう。

 

ベルゼルブとは、悪霊の頭みたいなものです。

そういう家の者に尚さら悪く言われる、と。

 

だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、

隠れているもので、知られてこないものはない。

 

どんなに悪く言われても真実は必ず現れるんだ、とね。

だから、表に否定されたり、その人の言葉とかネガティブなものとかが

どんなにきても、内なる内在する神様の所で真理に触れていれば、

その核心に触れていれば、そこでひるむ事は無くなるでしょう。

 

からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。

わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。

耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。

 

激烈な言葉が続きます。

真理は全部言っちゃえ、実はこうなのだ、と全部言っちゃえ。

真理、真実はだいたい既存の地位を持っている者にとっては都合が悪いから否定される。でもそれを伝える。それによってどんな事が有っても、恐れるな。ということです。

 

むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。

 

体を殺す事が出来る、政治的権力を持っている人を恐れるよりも神様を恐れなさい。

 

だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、

天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。

 

イエスの教えを受け入れるものは、神様に受け入れられるでしょう。

 

教えを受持しない者は、如来様に受持されない。

受持とは責任を持つ事です。責任を持つと融合するのです。

 

仏法僧を受持すると自分自身の未来が如来様に受持し頂けます。

背負って頂けるのです。責任を持って頂けるのですよ。

自分の未来がどんな事があっても、如来様が責任を持って下さる、という絶対的な安心感です。

これは仏法僧を受持した時に初めて生まれてくる感覚です。

 

これは大きいですよね。

自分の未来が不安であるというところで、

不安で有るが故に、余計な事を考えたり、意味の無い事をしたりする事が多いでしょう。

ところが、受持することで未来に対する絶対的安心感が得られる。

 

だから、そういった所をいっぱい言えばいいんだけど、

どちらかと言うと、厳しい事を言うのですよね

 

しかし、人の前でわたしを拒む者を、

わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。

 

人がいて、入口がイエス、でその後ろに天にまします父、如来様がいます。

私もあなたを拒むよ、門に入れないよ、みたいな事です。

それは宇宙の作用と反作用です。

 

厳しい話がずっと続きます。

 

地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。

平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。

 

特にここのとこ。凄い逆説でしょう。

これが、また悪用して使われるのですよ。

どういうように悪用して使われたか、というとね、

第一次世界大戦中にフランスとドイツが戦争していましたけど、

お互いの兵士たちが一緒にミサをするというのが有ったのですよ。

それが素晴らしい映画になっているのです。

(注:おそらく「戦場のアリア」)

 

フランスの兵隊達が戦地に行く前に、神父が「平和では無く、剣を投げ込むために来たのである」この部分を言います。そしてその神父は、「およそドイツ人であれば、老人であろうと子供であろうと

善人であろうと、悪人であろうと、ことごとく殺せ!」と言うのですよ。

 

こういう風にね、教会が戦争に加担した。という歴史があります。

 

教会に限らず、日本も太平洋戦争中に、仏教協会は戦争に加担しましたからね。

浄土真宗の一部は加担しなかったらしいですけど。

(注:当時、仏教界に対して国家からの戦争協力要請は有無を言わせないものであった)

 

でも戦場で、両方の兵士たちが合同でミサをやって、お互い友達になるのですよ。

当時、第一次大戦までは割と戦争中でもお昼になったら、一緒に会ってね、

タバコ交換したり、お酒を交換したり、

で、「あ、また始まるから」と言って、また分かれて撃ちあうというのが有ったのですよ。

 

それが高じて、お互いミサをやったり、色んな事話して

それで、それぞれの兵士がミサの体験を書いてそれぞれの国に送るのです

 

「友達になったから、戦争が終わったら遊びに行きたい」とかね

そしたら、それを見た両司令部が「こんなのやらせちゃいかん」みたいな凄くネガティブになる、というそういう映画があります。

 

その映画の中にね。

「私が来たのは剣を投げ込む事です。」とイエスの言葉が悪用されていたな。

という話しを思い出しました。

 

「私が来たのは、人を父と娘とその母と嫁とその姑と仲たがいさせる為である」

これをカルトが悪用する。

統一教会とか、エホバの証人も使いますね。

 

そして家の者が、その人の敵となるであろう。

わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない

 

人間の情を超えて永遠の法というものが最も尊ばれてこそ初めて受持が成立するのは事実ですよね。

だから、前回話に出たと思いますけど、

道元禅師に質問した人が

「私は元孤児で、育ててくれた老僧が、『死に水を取ってから中国に行くなら、行ってくれ』と言うが、どうしたらいいか?」と聞くと、

道元禅師は、「行きなさい。情を断ち切って行って悟りが成就したら、それは大きな功徳になる。でも情の為に行かせなかったら、それはカルマになる」と言われました。

 

わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。

 

そこまで言いますからね。

逆に別の所では、何が一番大切ですか?と言ったら、

「神を愛しなさい」って事と「父母を敬いなさい」と言ったりするのだけど、

 

父や母、家族だろうと、人だろうと

そういった存在を通して如来様と奥に繋がっていれば、

奥の神様というところから、逆転して見られるはずです。

 

存在の根底の宇宙一切の大霊の神様に繋がっていれば、家族の方が大事というところを逆転して見られる。

奥の神様を前提としてみなさい、とそういう風に捉えればいいです。

 

また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。

十字架は自分のカルマです。

自分のカルマにちゃんと直面して、それを以って向かって来なさいよ、ということ。

 

よくあるのは、自分のカルマをさて置いてカルマを外に他に投影してしまうことです。

 

外に投影された場合には大体、神様に投影して、ネガティブになったり

教えを説く人にネガティブになったりする、という形になって現れます

 

だから、ちゃんと自分のカルマを背負って、それで、この道を歩きなさいと。

ここが、一番の落としどころだと思います。

 

自分の命を得ている者はそれを失い、

 

得ているものとは、得ようとしているものというか

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。」じゃないけどさ、後生大事するのではないよ。

 

後生大事って言葉ありますけど、後生というのは、生の後でしょ。

死んだ後まで大事にするように、大事にすることを後生大事に、という。

後生もないものを後生大事するんじゃあないよ、ということ。

 

それを捨てたら、結局捨てる事になる

私の為に自分の命を捨てる事になる。私は教えの事。

 

わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。

 

教えの為に自分の命を失える者は、それを得るであろう。

 

あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。

 

教えを受け入れるものは、聖霊を受け入れるものだ。

 

わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。

 

聖霊を受け入れれば、それは神様を受け入れるということ。

 

預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、

義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。

 

義人とは、真理を説く人という意味です。

真理を得る人を受け入れる場合には真理を得る、と。

 

私の弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない

 

ほんの小さな法に対する献身の行為で有っても、それは大きな功徳である。

これは法華経にも出て来ます。法華経の一字一句だけでも人に伝えた者はそれ自体で悟りは啓かれるというくらい。

 

ほんの小さな事でも、その小さな事をするって事はやっぱり、大きな事、因縁があってこそ出来る事だし。また大きなものを見てこそ出来る小さな事ですね。

 

いずれにしても、まず一歩やればその次の一歩がある。

行動が無ければ展開は無いけど、行動があれば必ず次の展開がありますよね。

 

だから、いつまで言っているだけで何にも行動がない場合にはそれで終わってしまいます。

 

行動があれば、必ず次の展開があって、次の展開から、また次の行動が生まれ、

そうやって、光ある世界が心の中に生まれてくるし、自分の人生の現象においても生まれてくる。世界においても必ず現れてくる。

その絶対的な確信をもって、イエス様はこうやって弟子たちを送る、とは象徴的な事です。

 

我々に十二光を送ってくれている。十二の弟子を送ってくれている。

 

そういう風に捉えたら、聖書も、深い意味と我々がやっている念仏の意味とが繋がってくると思います。

 

(完)