聖書 第16聖書は“ただ一人歩む道”を示す心の書                

(マタイ伝 27章)

法話ライブ at  京都道場  2014年12月6日

法話:遠藤喨及 書き起こし:純佑

https://www.youtube.com/watch?v=za5_fWDIL4Y


聖書の登場人物は何を象徴しているか

聖書のクライマックスの所は終わりましたが、もう一度聖書の登場人物をおさらいしてみたいと思います。

彼らは心の中の無意識のものを象徴していますからね。

お母さんのマリアも出てくるし、ユダも出てくるし、ペテロも出てくるし、お父さんも出てきます。

如来様からいただいた本来性を表すためには

最初に出てくるのはマリア様。

マリア様は処女懐胎でイエスを産むわけですが、これは何を象徴しているのでしょうか。

「処女懐胎はウソなのか、本当なのか」というつまらない議論がされてきました。

これも心のなかの世界の象徴を表していますので、

純粋無垢な宇宙そのままが表れた生き方というか心であれば

一見奇跡と思われることでも可能にしていけるということです。

それを理解しなければなりません。

我々はつい外のことを思って議論するわけです。

先週お話しましたけど、マザー・テレサやガンジーは実際はどうだった、と中傷されたりしています。

しかしある素晴らしい活動をした、素晴らしい面を世界に表現した、そのイメージが有るのが大事だと思います。

どんな対象物にしても全部自分の心の中の何を示すのか、それにとってどういう意味があるのか、という捉え方をしたほうがよっぽど意義があります。

もちろん、これは身近な人を含めてです。

処女懐胎と出産は自我をさしはさまない、そのまま如来様からいただいた本来性というものを表しています。

生まれたばかりの時は意識がありません。

意識が生じて自分を認識するということは即ち自我意識が発達するということです。

自我意識が発達すると、それによって覆い隠されるものがあるのですが、

それなしには我々は自己を認識することができないという矛盾があります。

本来性を表すためには、われわれの存在を意識する前提となる自我意識を超えるという修行が必要になります。

人間存在というのはそういう矛盾したものです。

トリックスターの役割とは

イエスの先生として現れるヨハネがいます。

この人は非常に荒々しいです。イナゴと野蜜だけ食べていました。

(注:いなごまめという植物だという説もある)

ミイラ遺体事件*で逮捕されたグル高橋さんは「私はトマト、えび、蕎麦しか食べない。だから裁判には出廷しない」と言ったりしていました。

僕はああいうキャラが大好きなんです(笑)

「飛行機は定説に基づいて飛んでいるのです」とはよく言ってくれたな、と。

(注:2005年、千葉県成田市のホテルでミイラ化した男性の遺体が見つかった事件。

高橋氏は「ライフスペース」という自己啓発セミナー団体を主催していた。)

ああいう人が我々の内なる何を示すのか、と考えると非常に面白いです。

ありきたりの常識の世界にいるなんて本当はみんなつまらないのです。

それをぶち壊す存在というのを無意識に求めています。

そうやって出てくるのがトリックスターで、ポジティブな働きをすることもあれば、

ネガティブな働きをすることもあります。

だからみんな、つまらない日常を壊してくれるカタルシスとして一生懸命ワイドショーを見たりします。

自我は損得を越えられない

ユダは最終的に裏切りますが、それまでのネガティブな動きというのは聖書にはあまり書いてありません。

唯一あるのはイエスに高い香油をかけた女性に「こんな高い香油があったら売って貧しい人に施せばいいじゃないか」と言って一座がシーンとなってしまう、という記述がヨハネ伝にあります。

あれは我々の心のなかにある世間性を象徴しています。

損得を計算するわけです。

こちらの方が得じゃないか、こちらは損じゃないか、とそうやって計算する。

自我意識があると、損得というものを越えられないのです

何とか自分が納得するような理屈を一生懸命見つけ出す。

本当は損得というのは最後の最後まで分からないですよね。

普通に考えたら、一番損したのはイエスじゃないですか。

あれだけみんなによくしてあげたのに

途中、群衆から崖から突き落とされそうになったり

群衆に裏切られて死んでいくというね。

損得、自我意識から抜けられないでいると

何が生じるかというと、ユダにしてもお釈迦様を裏切ったダイバダッタにしても

ネガティブなことは何から始まるかというと、疑いなんです。

疑いというのは非常に取り扱うのが難しいです。

自分の自我が受け入れられないものは疑いに転化します。

そうやって自分の自我を守ろうとします。そういう場合もあります。

ですから、イエスやお釈迦様のように正しい先生は近くなればなるほど、自我にとって疑いをもたらすことをどんどん出してくるでしょう。

遠ければ出してこないでしょうけど。

正確に言うと、自我にとって挑戦的な公案を出してきます。

それを越えられないと疑いに転化します。

これはもちろん、真理に基づいた正しい指導者であった場合です。

なぜ僕が疑いを取り扱うのは難しい、と言ったのかというと、間違った指導者だったらどうするのかという問題があるからです。

林郁夫さんという色んな意味で優秀なお医者さんがオウム真理教にいました。

僕はずっとあの人のことが気になっているんです。

おりおりで疑いを出しているんです。

それは正常な、直感的な疑いでしょう。

それを自分で抑えこんでしまった。

僕が思ったのは、この人は受験勉強をしながらこんなことをして何になるんだろう、とか

医者である親の言う道を歩んできて疑いを持ったけど、抑えながらやってきたのではないか、

ということです。

僕が難しいと言っているのは直感的な正しい-何が正しいというのは本当に分からないですけど-健康的な疑いと、自我に基づいたネガティブな疑いをどうやって区別するのか、という問題です。

区別する方法はあるのか、ということです。

難しいですね。

僕は無いと思います。

もしかしたら、無いという考えが浅はかで、本当はあるのかもしれない。

もうちょっと考えてみたいと思います。

自我が原因で本当は乗り越えるべきものが疑いに転化したもの

直感的に無意識の奥から聞こえてくる疑い、この二つをどう区別するのか。

これは本当に公案ですよね。

ただ、直面しているかどうかというのが一つのポイントになります。

直面していれば健康的な疑いであり、その時は公案に対して疑いを持ちません。

直面を避けている場合には、直観的な疑いを抑えこむのは直観に対して直面していないです

「いや、コレは違う」とかおそらく頭で考えています。

丸裸で立っていないでしょう。

丸裸で生きるという、そういうトレーニングをしていたらその直感を抑えこむことはなかったかもしれません。

普通は丸裸で生きるという機会をほとんど持たないまま成長します。

学校があり、受験があり、というように真理から目を背けるような、世間に埋没するような人生になってしまうのです。

利他と修行、どちらを取るか

他にマリアとマルタと言う姉妹が出てきます。

一人はずっとイエスの間近に座って話を聞いていて、お姉さんはずっと客人の世話をしていて、妹に「手伝いなさい」と言いました。

イエスは「そのままにしておきなさい」と言いました。

これは何を意味しているのでしょうか。

一見、大乗仏教的見地からすると、人々に利他をするほうが自分の修行より大切という意識になります。

ある意味それは正しいのです。

ところが、ほんとうの意味で自分が如来様と向き合って、自分の心と如来様の心を融合させていく、そういった念仏は当然一切を含みます。

自らの存在に責任を持つ、自らと如来様の対面に全責任を負っているというのは全ての衆生を含んだ心なんです。

そうでないと成り立ちません、

そのうえで、妹の方はイエス様と面と向かって話を聞いていました。

そういうことを表しているので、イエスは妹をそのままにしておきなさい、と姉に対して言うわけです。

聖書のそういったエピソードも我々の心がどうあるべきかということを示しています。

ただ一人でも道を歩む

イエスが捕まって、ローマ兵やいろんな人達に嘲笑されます。

その前にも群衆がイエスを否定する、

弟子たちもみんな逃げてしまう。

そういう状態になってしまいます。

およそ本当の道を歩もうと思ったら、

人に嘲り笑われることは覚悟しなければできません。

自分一人で歩む気持ちがなければ道は成就しません。

このことを示しています。

誰が去っても、誰に嘲り笑われても、世間のあらゆる人が否定しても、この道を全うする。

何がどうあっても、という気持がなければ本物の道を進むことはできません。

対象が本物であるか、偽物であるかは関係ないです

他の人がやっているから、誰かがやっているから、と言う理由で歩むものではないですから。

そうだったら自分の道が本物ではない、ということです。

お釈迦様も「犀の角のようにただ一人歩め」ということを

スッタニパータという原始経典で繰り返し説かれています。

およそ本当にこの道を歩んでいこうと思う者は

イエスのように弟子に逃げられ、群衆に否定され

嘲り笑われることも覚悟して実現しなければならない。

単に修行するというだけではありません。

この世に修行した心を実際に顕していくのです。

自分の人生においてクリエイトしていくのです。

誰かが言ったから、ではないですね。

もしそれが成り立っているならば、疑いであればその直感は正しいし、

どんなに厳しい直面でも公案でも乗り越えることが出来ます。

頼みに出来るのはこの世のものではないですから。

外なるものを一切頼みにしない。

それでこそ、イエス様のように信じたこと、願ったことを人生において実現していくことができます。

それを無意識に訴えかける物語として遺してくださった。

それがイエスの遺産であると思っています。

(完)