ユーモアクラブより転載。

北広次郎エッセイ集 ミスターヨーロッパだより

第33号

 『鎖国終焉し日本国際化時代へ移行する時流で起きたこと』

 ≪岡松家系図(尾崎三良正妻八重子) と尾崎行雄と尾崎三良の関係≫

 岡松市治郎の次女八重子(尾崎三良正妻) → 市治郎の姉ます(高田孝助正妻) → 長男高田善次郎(戦前戦中の元三井物産上海・大連支店長)の長女絢子(甲子園出場投手黒岩敬三妻で大連ヤマトホテルで見合い結婚)→長女敬子(北 広次郎(詩人名作詞家名:柴原徳光)妻で中国大連生まれ) → 長女美穂(米人Mitchell Reedの妻在米)→長女エリカ(Erica Reed在米) 次女サラ(Sara Reed在米)

 

 尚岡松市治郎の系図は市治郎入れて二十代前迄遡る記録が残っているが、ちなみに逆に遡ると

 正實 ←勝成 ← 盛芳 ← 盛英 ← 慶盛 ← 實恒 ← 盛高 ← 盛時 ← 盛勝← 保盛 ← 由盛 ← 行盛← 時盛← 勝盛 ←家元← 家宗 ← 家重 ← 家次 ← 家種までは確実のようだが、それ以前は ←← 紀正澄 ←←← 紀久方朝臣 ←←← 竹内宿禰とかの記載はあるが定かでない。

 ちなみに三条実美家臣尾崎三良の正妻八重子との間には男児が誕生せず、日本の旧弊伝統的しきたりにより側室美智恵との間の男児が尾崎家を継ぐ。

 更に艶福家尾崎三良の英国留学時代の英人ガールフレンドとの間に三人娘が生まれ、長女がテオドラ (Theodra)( 日本名は英子)で、後に尾崎行雄(顎堂)(明治維新後江戸から東京に改名された東京市長に就任。現今なら東京都知事)

 テオドラ(セオドラとも発音する)英子について知る日本人はほとんど居ないが、しかし明治維新以後の日本国家改革近代化に実は大きな役割を果たすことになった。

 妻として夫尾崎行雄に英国の政治経済社会の仕組みを説いていた。

 西洋文明や議会制度選挙制度社会制度や産業革命の労働法制度等の西洋文明を行雄はダブルの妻テオドラから日常生活の中で吸収しつつ、日本孤島国における議会民権運動のさきがけとなっていったのは自然成り行きであった。

 

 後に『憲政の神様』とかいうニックネームをつけられる事になったが、当時としては珍しい海外旅行を重ねた国際派だった尾崎行雄の蔭にはテオドラ英子の存在があっての行雄であった事を知る人はまず居ない。三良が英国から呼び寄せた娘テオドラ英子は、学習院小学部、慶応幼稚舎、頌栄女学院小学部で英語教師をしていたが、先妻を病気で亡くしていた尾崎行雄が、ダブルのテオドラ英子を是非嫁にしたいと熱心に三良に頼み込んでいた。双方同じ尾崎姓だがもともとは姻戚関係はまったくない。

 尾崎行雄とテオドラ英子の間に誕生した尾崎雪香は、学習院に通学、後に元福島領主の相馬家に嫁ぐことになり相馬雪香となった。

 雪香は2009年秋軽井沢で亡くなったが、インターネットで父親の尾崎行雄、祖父の尾崎三良ともに、検索して見られると、歴史が分かります。

 ところで、ここで注意したいことが一つある。日本では混血児の事を、軽くハーフと言うが、私の米国在住の娘に孫娘達の事で、『ハーフというのは半人前の子という差別語であり、言われた方は心に傷がついて感じが悪いからやめて。』といわれた。ではなんと言ったらよいのかと訊いたら『まだダブルかミックス(ブラッド)ならいいが。ハーフ(半人前)はやめて。』というのである。

 最後に明治の頃、政府は日本近代化を促進するためにフランスイギリスアメリカから、多くの技術者、教師、士官などを雇いいれていた。その中に軍楽隊指揮者の英国人もいた、それからキリスト教の宣教師も派遣されてきた。

 日本の近代音楽は、雅楽以外は西洋音楽はすべて明治維新以降のキリスト教会音楽が元祖として開花したものであると思われているが、しかし江戸時代でも隠れキリシタン達は、ひっそり教会音楽を聴き、賛美歌を唱っていた。又九州には教会音楽を妙なる音曲として、感銘を受け信者となったキリシタン大名もいた。

 日本孤島国では洋学歌曲のみならず歌謡曲演歌もまさに教会音楽がルーツであり、歴史はまだ立った百四十年だが、私はもの心ついた時から疑問に思ってきたことがある。それは国歌『君が代』の作詩者 作曲者は一体誰か?って事である。  

 私は昔『実は作曲者は明治初期の英国人の雇われ音楽指導指揮官』と聞いた事があるが、確証を持って教えてくれる人は居ない。

 それから、『カゴメ カゴメかごの中の鳥は』のわらべ歌は、『あれはユダヤ教の歌である』と言われたがまだ真相不明である。

 なぜかような話を今私が何故持ち出したかには理由がある。勘ぐれば幕末、蘭学、明治の西洋学を吸収はしはじめたが、国歌のような性格の歌を、外国人が創ったというのは、公にしたくなかったものがいたのだろうか? これは聖域なのだろうか?

 この『和魂洋才』という言葉が明治時代に、はやり言葉になった。幕末の『攘夷派』は維新の明治天皇の断髪令実践の『欧化政策』から『鹿鳴館』になり、『洋風化』時代に移行した。

 それは格好つけ屋の『武士は喰わねど』流やせ我慢保守派の元武士の洩らした言葉であった。洋風の服着て、洋風の靴履いて、洋風の帽子かぶっていても、心は和魂だという。ある意味では、負け惜しみ根性であるが、これはあくまで他人の前での照れ隠しのいいわけであった。

 実は内心は百パーセント以上『洋魂洋才』か『洋魂和才』であったともいえる。幕末から明治の維新改革の志士達はまさに『洋魂洋才』の志士もかなりいた。さもなくば明治維新は成立しなかった。皇室にしても、明治天皇は率先して髷を切り洋髪洋装を採用し、御前競馬を開催して、西洋化の垂範のリーダーになった。この影響は、固陋頑迷な旧弊拘泥派にはかなりショッキングで奇異な戸惑いを与えながらも、その影響力は大きかった。

 鎖国体制江戸幕府は、国内の民には『知らしむべからず』と海外情報の豊富な宣教師や異教キリシタン信者をホロコースト(大虐殺)したり、大黒屋光大夫達のような難破船漂流民のロシヤ海外在住の経験や知識がある海外在留国民を座敷牢に幽閉し、外国情報の統制管理を行って来た。

 しかし蘭学派を通じた口コミもあり、欧米文明に関心が深まる武士達や庶民も多くいた。それが維新を支える原動のエネルギーとなる。しかし幕末、徳川幕藩体制と鎖国も行き詰まり、頑迷固陋な『攘夷』はもはや、西洋文明文化の怒涛の前に、鎖国の壁も崩壊したのである。

 そんな中で国歌『君が代』だけは『和魂和才』に思わせたかったのであろうか。これは作詩者作曲者を不明にすることにしたかったのではないかと勘ぐる節もある。あれは宮中歌会の荘重な御詠歌の読み上げ調も基底にしつつ、洋楽器で演奏可能な雅楽のメロデイー韻律化させた、独特な低音スローな歌になったものであると思われる。国歌になってる限り、作詞者も作曲者も居たはずであるが、少なくも作曲者は 明治政府の英国人の雇われ音楽指導指揮官というのは本当だろうか?

『洋魂洋才』でありながら、そのまま素直に言えない連中派がニットした『和魂洋才』という便法を生んだ。日本列島国民は,片や矛盾の辛味を舐めつつ、無理も承知で『清濁あわせ呑む』合体諦念論法の達人であるのかも。

『玉石混淆』『神仏混淆』 『神仏一体』 『和魂洋才』 『和洋折衷』『無理が通れば道理引っ込む』 『嘘も方便』 『表裏一体』 『背に腹は代えられぬ』『臭い物に蓋』 『公武合体』 『以心伝心』 『泣児と地頭』 『朝令暮改』 『朝三暮四』『寸善尺魔』 『悲喜交々』など、日本孤島国人は『四字熟語』と『矛盾混濁』 『旅の恥掻き捨て』 時には『曖昧模糊』 『暈し呆け』が混用され、日本孤島内では、矛盾したものもいつの間にか混合体論法に昇華され、『散(ザン)切リ頭を叩いて見れば、文明開化の音樂(オト)がする』 歴史があった。

 この歴史は紀元四、五世紀前後の『漢化政策』の『漢』の字を『欧』に換えて見れば、分かり易い。一時期ではあるが『漢』を『韓』に換えてえて見ても良い。

 しかし一時、二回の元寇軍の侵攻があった時に、天候異変などで、失敗したが、万一本土侵攻が成功してたら、モンゴル相撲はあの頃、日本孤島に定着していたはずである。 それは21世紀になって実現した。

 日本孤島国民は、概してその時その場で己に都合のいいように言葉を差配するか、不都合不具合不合理な局面でも便法で紛らわす表現を編み出す天才であるかも。

 しかしそれは孤島内の幕末明治初期には西洋文明への関心がありながらも、一方外人差別攘夷派の風潮もまだあったのかも。

『君が代』のように作者を明かさない方が『和魂和才』派には都合がよかったのではないかと思われる。

しかしもう何時までも『聖域』内にしておく必要がないではないかとも思われる。

 それと同じように尾崎行雄の後妻テオドラ英子のような外人ぽいのは、まだ残存する攘夷排他主義者が故意に無視する傾向があったのではないかとも思われる。

 尾崎行雄が東京市長だった頃、英国王室からコンノート殿下が訪日した時のことだが、通常欧米では外国の賓客が訪問された時は、その地の市長夫妻が主催(例えば英国ならロンドン市長夫妻)として、歓迎晩餐会を取り仕切る習慣がある。

 しかしコンノート殿下訪日の時は、その欧米の慣例を無視して、華族夫人達が我先にと歓迎会を争って取り仕切ったので、テオドラ英子は嘆き悲しんだ。鹿鳴館時代、そして終戦後にも同じ現象が起きていた。終戦後華族制度は廃止されたにもかかわらず、その残照はあった。