聖書 第13イエスの悲しみ                        

(マタイ伝第 25章

法話ライブ at  京都道場  2014年11月15日

法話:遠藤喨及 書き起こし:純佑

https://www.youtube.com/watch?v=juDhPQ-AUqg


だんだん時が近づいてきています。

マルタとマリアという有名な二人の姉妹の話が出てきます。マタイ伝には詳しく出ていないのですが、他の福音書にでています。

マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。

(ヨハネによる福音書12章)

共通しているのはイエスが来たら、すごく高価な香油をイエスの頭の上からかけるんです。

今で言うアロマオイルみたいなもの。

そうしたら会計係の人が「そんなお金があったらこれを売って貧しい人に施せばいいじゃないか」と文句を言うんです。

名前は書いていないけど、多分ユダじゃないでしょうか。

(注:ヨハネによる福音書にはユダと書いてある)

そうしたらイエスが「この娘が時が近づいたのを悟って特別な儀式をしてくれたんだ、大事なことなんだ」と言いました。

密教に灌頂(かんじょう)という頭の上から水をかけるという儀式があります。

浄土宗の儀式でも、得度式とか入門式で頭から水をかけます。

それらと共通するものがあります。

女の人が出てきて何かされる、というのは象徴的です。

お釈迦様が悟られる前にスジャータという娘が乳粥を供養して、それで体が回復して菩提樹に向かうという物語と、イエスが時が近づいてくるときに供養されるという物語と、そこが共通しています。

キリスト教のイエスの物語はお釈迦様の物語に比べると壮絶ですけどね。

十字架にかかって死んで三日後に蘇って、というのは、

自我が死んで魂が復活するという象徴の物語を残すために

行かざるを得ないように神様にアレンジされていた人生でした。

マルタとマリアはルカによる福音書にも出てきます。

この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。

 ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、

「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。

わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。

主は答えて言われた、

「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。

しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。

マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。

一方で利他に励む、一方は行に励む、どちらも非常に大事です。

対立と葛藤と融合を物語で象徴しています。

随所に象徴が物語としてでてきます。

イエスはライ病人のシモンの家にいました

貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。

この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。

よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう

福音とは神様の善き知らせという意味です。ゴスペルとは福音という意味です。

記念として語られるであろう、とありますが実際、2000年後のこんなに離れた所で話されているわけです。

「なぜ香油をかけるという行為?」というクエスチョンマークがあると思います。

深い意味があってこういう状況があったということです。

クエスチョンマークが大事なんです。

どこまで自分のクエスチョンマークを抱え込むことができるのか、というのが魂の器の大きさです。

これは葬りのための魂の儀式のためにやったのだ、ということで自分でわかったことにしてしまうのは逆に魂の器を狭めてしまいます。

わかったつもりになっている人はある意味豊かではありませんい。

どれだけ知識の量が増えるかは関係ないですからね。

知識の量が増えて分かったつもりになる、というのはよくあるじゃないですか。

あれは人智を信じて、仏智を知らないというかね。

どんなに語っても語り尽くせないのが本当の宇宙の真理ですから。

ちょっと知ったことと、何十年学問をして得た知識ではあまり変わらないですね。

法然上人も最後に「一文不知の愚鈍の身」と言って、

文章を一つも知らない愚かなものになって念仏を唱えるという言葉を残されたんですね。

あれほどの大学者であった人が何も知らない者として、晩年ですら滝のような汗を流しながら念仏をされていたというエピソードもあるくらいです。

もう元ライ病のシモンの家のところでユダがすでに取引しているんです。

シモンと言う名前の人は3人くらい出てきます。

ペテロという一番弟子もシモン。

イエスが十字架を担いでいるときに倒れて動けなくなった時に命令されて担いだシモン。

なぜ取引したかについて聖書ではサタンが入った、と書いていますが

太宰治の解釈が面白いです。

駈込み訴え」という短編を書いています。(注:リンク先の青空文庫で読めます)

ユダがひとり語りで駆け込んでイエスを訴えて裏切るときの話です。

「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。」

凄くいい小説です。

自分がものすごいイエスを愛していたわけです。

「私はあなたを愛しています。ほかの弟子たちが、どんなに深くあなたを愛していたって、それとは較べものにならないほどに愛しています。誰よりも愛しています。」

私があの人のことを思ってああしろ、こうしろと言っても私の気持ちをわかってくれないということを言っています。

「よい奥さまをおもらいなさいまし。そう私が言ったら、あの人は、薄くお笑いになり、

「ペテロやシモンは漁人(すなどり)だ。

美しい桃の畠も無い。ヤコブもヨハネも赤貧の漁人だ。

あのひとたちには、そんな、一生を安楽に暮せるような土地が、どこにも無いのだ」

と低く独りごとのように呟いて、また海辺を静かに歩きつづけたのでした

太宰治が自分が数分間しゃべったものを口述筆記したものだそうです。

ユダの葛藤、なぜ裏切ったのか。それを書いています。

ユダは後で死ぬほど後悔するんです。

ユダはイエスを売らなければいけない、この人を生かしておいてはいけないと思い込んでいました。

除酵祭というユダヤ教の重要なお祭りの時に

用意されているから、と予言をしてそこに行きます。

そこで最後の晩餐をします。

レオナルド・ダ・ビンチが描いていますから有名ですね。

http://livedoor.2.blogimg.jp/mirai75/imgs/1/2/12c85ca0.jpg

一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」

弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。

イエスが結構きついことを言うんですね。

たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう。

イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」

人の子とはイエスのことです。

そのままユダが出て行ってしまうんです。

最後の晩餐の時にパンをちぎってこれは私の肉だと言って食べさせ、ワインをこれを私の血だと言って飲ませました。

今でも教会ではパンとワインをキリストの血、キリストの肉として出します。

血肉というのは霊的な象徴です。

マタイ伝にはありませんが、イエスが弟子の足を洗ってあげるんです。

(注:ヨハネの福音書に記述がある)

ペテロは先生に足を洗ったらもったいない、と言いましたが

誰に対しても下座で足を洗うような気持ちで人に対して接してほしい、と言うことをわかってほしいので洗わせてくれ、と答えられました。

サンガの体系の中にお互いの足を洗うというのがあります。

お互いに下座の気持を表現するという意味です。

なかなかいいものです。

みんなに言うわけです。

今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう

私を裏切るだろう、ということです。

「ペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。

イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。

それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。

そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。

そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。

この辺が見ていて辛くなるところです。

イエスが悶え苦しみ、悲しみ、悩んでいます。

自分は今夜捕まって引き渡されて、明日か明後日には手足に釘を打たれて殺される。

ルカの福音書に出てきます。

汗が血の滴るように地面に落ちた。

キリストも痛い、恐ろしい思いをするのは嫌じゃないですか。

「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。

しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」

こんな目に遭わせないでください、と神様にお祈りするんですね。

弟子たちの所に戻ってくると、二人が眠っちゃっていました。

最後の時と自分は分かっているけど弟子たちは分かっていなかったかもしれませんい。

弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。

誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。

次に祈っている時にこう言います。

「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」

次に弟子の所に戻っているとまた弟子たちは寝ていました。

イエスはあきらめてそのままにしました。

三度目に祈って戻ってきた時に言いました。

まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。

そこに、十二弟子のひとりのユダがきた。

また祭司長、民の長老たちから送られた大ぜいの群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。

イエスを裏切った者が、あらかじめ彼らに、「わたしの接吻する者が、その人だ。

その人をつかまえろ」と合図をしておいた。

彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。

そこに、十二弟子のひとりのユダがきた。また祭司長、民の長老たちから送られた大ぜいの群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。

イエスを裏切った者が、あらかじめ彼らに、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」と合図をしておいた。

 彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。

しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。このとき、人々が進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた。

すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片耳を切り落した。

耳を切り落とすのは何かの象徴だと思います。

そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。

それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。

しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。

本当にその気になれば状況は変えられるけど、聖書の言葉が成就される必要があるために行っているんだと。

そのとき、イエスは群衆に言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。

ここの群衆はイエスを捕まえに来た人たちのことです。

「わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。

しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。

この時、逃げたわけですから全員弟子失格です。

言ってみたらキリスト教は弟子ゼロでした。しかもイエスが死んじゃって。

そこから始まっているんです。

お釈迦様は教団に3000人くらいメンバーがいたそうですが、亡くなった時はアナン一人を連れて旅をしていました。img_0 (1)

涅槃図で弟子たちが嘆き悲しんでいる絵がありますが、実際はああではないです。

アナンと、きのこ粥を供養した貧しい人だけでした。

右図:釈迦涅槃図

イスラム教も元は家族宗教ですから信者は奥さんと、養子の息子と娘だけ。

長い間ずっとそうだったらしいです。

金持ちのオジサンがずっと後になってから信者になって、それから変わっていきました。

キリストは裏切られてたった一人で十字架を背負って死んでいく、ということなんですね。

この中には色んなものが入っています。

捕まった後さらに、物語がどうなっていくか。

聖書のバックグラウンドを含めて続きを次回お話できるかと思います。

(完)