般若心経は逆さに読め!

法話ライブ at  京都道場  2017年415日

法話:遠藤喨及

書き起こし:純佑

https://www.youtube.com/watch?v=BWwOA_Yxew4


1)大霊と戒は、鶏と卵みたいな関係

般若心経は、「摩訶般若波羅蜜多」という題名だけで、実は全てを語っているんですね。

そもそも仏教は謎だらけ。反対から意味を考えないと分からないことが多いです。

まず、般若波羅蜜とは、基本的な大乗仏教の六つの修行のことです。

この六つの修行のうち、二つ目は持戒。戒律を守ることです。

そこで通常、”戒を守ることで悟りが啓けるのではないか?”と考えますね。

でも、これが逆なんです。

その逆とは、、、?

まず、摩訶というのは大霊のこと。で、戒を守れば大霊と融合するか?

というと、そういう意味ではない。

これは、”大霊と融合すれば自然に宇宙の理法に則った行動、すなわち「戒」が行動として現れて来ますよ”、という意味なんです。これを”戒体発得”と言います。

では、どうやって大霊と融合するのでしょう。

大霊と戒とは、鶏と卵みたいな関係なんですね。

ここでまず、大乗仏教の基本的な五つの戒とその意味を考えたいと思います。

これには、表面的な意味と、深い意味とがあります。

深い意味がわかると、鶏の卵の関係がわかってきます。

2)聖書をちょっと思い出してみましょう

まず例えば、不殺生戒があります。

表面的に理解すると、オレ誰も殺してないもんねーとなります。

そのような浅い捉え方をすると、かえって弊害があるんですが、

そのことはまた後で説明します。

本当の意味での不殺生とは、「霊を殺すな」という意味です。

では、日常的なレベルで、どんなことをしたら人の精神を殺せるでしょうか。

非常に簡単な方法があって、これみんなよくやっていますね。

そのことを理解しようと思ったら、聖書をちょっと思い出してみましょう。

「言葉は神である」という言葉が出てきます。

つまり、言葉は霊なんです

ここでお聞きしたいのですが、果たして日常的に他の人の言葉を自分の心に入れていますか?

人の発した言葉って、胸に入らなかったら、霊である言葉は生きないんです。

だから、言葉が無視されたら、霊が死ぬのです。

日常的によく親が子供に対してやっていますよね。

子供の話を胸に入れて聞いていない、、、。

それでは、自分の霊はどうやって殺せるでしょうか

これも簡単なことです。

何かを「やります」と言って、やらなかったら、その言葉を出した自分の霊は死にます。

言葉はそれぐらい大切なものなんです。

だって私らは、念仏という「言葉」で修行しているのですから。

言葉がどれほど大切なものかをわかっているはずです。

3)”自分は正しい”とする人は、愛のない裁判官になる

それでね。さっき言ったように、「オレは人を殺したりしていないから戒を守っている」と思っているのは、実は危険なんです。

自分を善の側に立てると、人に自分のカルマを投影して「人を悪い」としてしまいます。”自分は正しい”とする人は、愛のない裁判官になります。これ、怖いですねー。

「あなた達の中で罪(をおかしたこと)のない者が、まずこの女に石を投げつけよ。」というイエスの言葉は、そのことを示しています。

人を裁くのは、「オレは人を殺したりしていない。戒を守っている」と思っている人。まさに”自分は正しい”とする人なんです。

だから戒にしても、「受持」などの教えにしても、表面的な取り方をするということは、自分の内面に問いかけないと危険なんです。

「自分の内面に厳しく問いかける」ならば、どんな人でも、自分がいかに罪深いかを認識できます。

自分に対する徹底した内省があるならば、”世間の正しさ”、”社会通念上の正しさ”、”自分の正しさ”に立って、人を裁くことはないのです。

そもそも戒にしても、人を裁くために存在するのではありません。

自己を内省するためなんですよ。教え、にしてもそうです。

もし、戒や教え(社会通念も)を、「あいつはああだからダメだ」とか、人を裁くために使ってしまったら、それは魔の道なんです。

宗教も倫理も諸刃の剣ですから、よほど深い内省がないと、とても危険なものなんです。

4)自分のために相手にエネルギーを使わせ、相手からエネルギーを奪う

二つ目は不偸盗戒(盗むな)ですが、

これはエネルギーとか気。あるいは、想いや時間を盗むな、ということです。

気を使わせる、気を吸う、というのも相手のエネルギーを奪うことです。

だから、押し黙って相手に気を遣わせたり、一方的に自分の話ばかりしたり、説教たれたりすることも、とにかく自分のために相手にエネルギーを使わせて相手からエネルギーを奪うなら、これに当たります。

遅刻もそうですよね。時間イコール命です。人生は砂時計のようなもので、いのちは刻々となくなっていきます。だから5分遅刻したら、それは相手の生命を5分奪うことになります。

また、「私に注目して」という気持ちを発信していれば、人からエネルギーを奪います。暗くしていたりネガティヴだったら、誰かが気にして、そこにエネルギーが集まりますからね。

だからなんでしょうね。キリスト教の尼僧修道院の戒律に「暗くなってはいけない」というのがあるそうです。

5)自分は空(くう)で他の人をケア

ここで、鶏と卵の関係が少しわかってきたでしょうか?

如来様と融合していれば、自分は空(くう)で他の人をケアします。

だから、人の話を聞きます。

ようするに「戒」とは「こういうこと(殺生など)をすると、如来と融合する道とは逆に行くことになりますよ。だから気をつけましょうね」という意味なんです。

「戒を守れば融合する」ということではなかったのです。

「注目を浴びたい」、「ケアされたい」、「自分の気持ちを吐き出させて欲しい」。

仮にもし、それを誰かが満たしてくれたとしても、一時的なことに過ぎません。

そこから内面から発現する永遠の輝きの世界は発現していきません。

三番目は不妄語戒です。嘘を言わないこと。

この意味は、自分の心を見るとわかりますね。

すなわち、自分が無意識に行なっている”言い訳は、全部「妄語」ウソ”なんです。

無意識は、何が本当かは分かっているのです。

その無意識に蓋をするために、一生懸命、阿頼耶識が言い訳を考えるのです。

6)無意識を意識化するのは大変な仕事

この無意識をどこまでクリアに意識化できるか?

それによって妄語から、妄想から、解放されることが修行なんです。

無意識の世界はネガティブなものからポジティブなものまで無限にあります。

だから一口に意識化すると言っても、大変なことです。

自分一人で済む話でもない。

自分の無意識を意識化するときは、他の人の無意識も意識化することも同時に起こります。

宇宙は、「自分の無意識だけ意識化する」ことはできないようになっています。

そして、他の人の無意識を意識化するとき、輝きが顕れる前には大きな暗闇が必ず顕れます。

そしてそれは、その目覚めを促した人に対して投影されます。

過去のイメージを投影されて、大変ネガティブなものを相手からぶつけられます。

だから無意識を意識化するというのは、大変な仕事なんです。

でも、もしその人が自分のネガティビティを輝きに転換できたときは、そこに涅槃が生まれてきます。

これが大乗仏教の修行の目的なんです。だから、修行と生き方とは分けることができないのです。これらをやっていくのがタオサンガの念仏なんです。

7)どのように生きるかは、どのように死ぬか、ということ

死ぬにあたって後悔するのは何か?

それは、何を得なかったか?ではない。与えることができた良いものを人に与えなかったことなんです。

自分の内面に徹底して厳しく問いかけ、自分のネガティビティをちゃんと見て、

これに立ち向かう勇気を持たなかったら、そのネガティビティは結局は人に投影されます。

どのように生きるかは、どのように死ぬか、ということ。

人生、後悔しないように、かっこよくクールに生きましょうね。

                             (合掌)