<幕末開国後日本国が外国と関わって来た様々な出来事を振り返ると>

北 広次郎

私は海外に永住しており、たまたまそれが英国であったために、否応無しに日英関係の原点に関係する事象を肌で知る経験をしました。日英関係に繋がっている先祖を有する英国女王に継ぐ、英国欧州で最高位の永久貴族である「モンタギュ本家当主」との長年の交流から、日英交流史の原点を英国側から知ったことがあります。また、日本国にもっとも影響を与えてきた縁が深い英国発祥で産業革命のメッカであるマンチェスターに居て、自分なりに日英史原点との未知なるいくつかの遭遇が何度かありました。

ある時ふと気がついて見ましたら、それは母国日本国を歴史的に英国側から逆観し見直してみることへ駆り立てられてる自分がいました。

150年前の鎖国体制からやっと開国になった幕末明治時代、日本側から海外を見た一方通行の外国観の記録は数多くあるように見えるのですが、逆に海外において特に欧米人から日本を見た文献が数少ないことに気が付かざるを得ませんでした。

そういう観点から、故国日本を望見すると更に気付いたことは、幕末明治の頃に日本人と外国人の間に生まれたいわゆる「ミックス・ダブルの混血」の人たちへの市民権に対する考え、特に国境陸族大陸国民族に対してが、四海八方海洋の孤島国であるジャパンの場合、なかなか認知されなかったように思います。私もミックス・ダブルの孫娘達、また親戚にも欧米人とのミックスが生まれてる現実に直面して、はじめて幕末から明治時代にミックス人だった市民権未成熟時代の立場状況が理解できるようになりました。

それで私は、100年以上前に感じたであろう当時のテオドラ英子さんの心境を想像してみる時期がたびたびありました。ヨーロッパではミックスは当たりまえになっているし、英国でもミニ国連みたいなものです。しかしどこの国でもやはりアイデンティティーを求めるのは世界共通ですね。私がこちらに永く住んでみて思った事は、「世界のパンドラの蓋を開けて見たら、本当にSMALL WORLDだと思わざるを得ない事が沢山起きました」というのが今の実感です。

そこで出くわした様々な事象と海外で出逢った人々との交流経験から、幕末明治維新の日本開国から近代化への歴史のルーツ原点に思いが募ってきたってきたのは、私が英国の16世紀から続く、かつて英国副王であった高等現貴族モンタギュ公と約30年前から話しあってきたからでした。そしてビクトリヤ女王時代以降の日英関係へと思いが募り、現在推進中の「新日英友親交会」を立ち上げました。この会について日英双国で一人でも多くの応援者に御理解および御支援して頂けますなら幸いです。歴史を見ますと、日本の開国には英米両国が絡んでいます。英語圏の宗主国である英連邦王国は、米合衆国とは歴史的に密接な関係がある事は周知の通りです。米合州国第一代大統領の先祖は、イングランド島東岸のスコットランド国境線に近いワージントン( WORTHINGTON)領主で、そこから新天地を求めて米大陸へ移民しました。

マーガレット・サッチャー首相が並み並みならぬ熱意を込め、当時の石原日産社長に招聘を呼びかけを行った末に、ニッサン英国自動車工場を誘致して来ました。北広次郎は丸紅テクマテックスの社長であった当時、日産が作る繊維機械の欧米代理店であったという関係で、ニッサン英国工場建設候補地探しを依頼されていました。三カ所の候補地がありました。日本工業新聞社からその候補地に関する記事掲載を依頼されていましたので、北は工業ジャーナリストという肩書きで英国ワージントン地区を推薦して来た経緯があります。その時は、ジョージ・ワシントンとの因縁を記載していました。そして最終的に決まったのが、やはり英国ワージントン地区でした。

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私が目下推進中の日英友親交会を応援して頂けますなら幸いです。地球の反対側にありながら、英国と日本は遠いようで最も近い島国同志です。近代化した日本国は、特に近代スポーツから始まり、あらゆる点において何らかの形で英国につながっています。米国を含む英語圏宗主国が英連邦王国ですから、歴史的に英国のゴルフ・サッカー・ラグビー・乗馬・テニス・ボート・ネットボール・バスケット・スクウオッシュ・シューテイング・アーチェリー・ポロ・クリケット・ビリヤード・スヌーカー・ゲートボールなどなどスポーツのルーツはほんの一例です。そしてその時は、ジョージ・ワシントンとの因縁について記載しました。種目の国際ルールを決めてきたのもグレート・ブリテンでした。そのためスポーツの名称単語名が90%英語です。又単に名称のみならず、国際ルールを決めてきたのも、英連邦王国でした。それからパラリンピックの提唱者も英国の医師団でした。パラリンピックは最初、身体的ハンデのある人々のリハビリが目的でオリンピックに絡めて開始したものです。それともう一つ重要な事があります。ロンドン・グリニッジ天文台が世界のまた時間の基点になってる事です。TIME(時間基軸)がなかったら、オリンピック・パラリンピックは成り立ちません。また地球を時間で東西24分割にして経度を決め、南北もそれに併せて緯度を引いています。これも航海法航空法の基準になっています。地球上の人類はTIMEで動き、動かされています。これについては、北 広次郎の別なエッセイ集にも書いてあります。普段地球人類は、時間軸の基点と歴史には無頓着ですが、よく考えてみるとこれは大変な事です。無かったら大変不便であるどころか、大混乱、大カオスが生じます。

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日英友親交会を促進したいという私の願いの中にある、精神的なモチベイションの一つは、岡見清直という日米英愛4国に関係あった大親友の兄貴の影響です。凄い人物でした。これについては徐々に御紹介申し上げたく存じます。戦後の日本国の復興を支えた本物の立役者であった岡見清直について知る日本国の日本人はほとんど限りなくゼロに近いのです。彼の御先祖が鎖国の日本を開国するに貢献した中の佐久間象山の一番の愛弟子であり、吉田松蔭にも福沢諭吉にも大影響を与えてきましたしたし、またそれだけではありません。まだまだ日本国の日本国民が知らない海外で活躍した日本人が多く居ました。また幕末明治の頃に日欧米の狭間で苦悶しながらも、祖国母国の為に貢献した日本人がいたことは、ミックスを含めてほとんど日本には知られていない場合があります。これは四海八方海洋孤島国であった日本孤島国のハンデキャップがあったからだと私は英国で感じました。それを最初に感じたのは第一次湾岸戦争やボスニヤ・ヘルツエゴビヤのころでした。当時日本のマスコミは、TVも新聞も戦場には誰一人もいませんでした。日本のマスコミはNHKも民放TVも新聞社もみなロイターを始め、欧米の通信社やABC  BBCその他から買い取ったNEWSを報道するのみでした。当時私が居た丸紅ロンドンが創立した宇宙衛星JSTV(今はNHKが参加)によって欧州全域で放送する日本TV番組放送と英国国営BBCや英国民放ITVやヨークシャーYTV(今はITV-Yorkshiire)やフランス・イタリヤ・ドイツ・スペインのTV放送チャンネルも同時に観ていましたので、その差が比較できよく分かりました。第二次湾岸戦争以後は徐々に変わって来ましたが、でも戦場前線のニュースはまだまだ外国の通信社から購入したニュースしか日本では報道そして放送されていませんでした。

今回湯川遥菜さん、後藤健二さん二名がイスラム国で犠牲になったのは、本当にお気の毒でありますが、今回と当時とは世界情勢も国際環境も異なり、その内容も異なるといえば確かにそうなんですが、私は今回この事件のことは、湾岸戦争の頃の当時の事をどうしても想起させられてしまいます。

1977年、日本赤軍がパリ空港から日航機をハイジャックしてドバイ空港からシリヤのダマス空港で給油し、最後にリビヤのベンガジにあるベニナ国際空港に着陸させた事があります。その時は福田赳夫首相時代で、<人命は地球より重い>という名言の下に40億円の身代金を支払い日本の刑務所に服役中の日本赤軍派6名を送り交換に、日航機乗員141名を解放させた事件がありました。その日航機は乗客を降ろした直後爆破されたが、主犯格の丸岡修と坂東国雄等は赤軍派のバックにあったパレスチナ解放人民戦線(PFLP)(当時日本赤軍派の岡本公三等がイスラエルのロッド空港で乱射テロ事件を起こしていた)と通じるリビヤ政府が黙認して赤軍派を逃亡させていたのです。その時NHKは、現地には他に施設がなかったため、丸紅の現地事務所を使って日本向け報道を行っていました。その日本赤軍派の中近東司令塔主犯格である重信房子や日本赤軍軍事指揮官だった丸岡修は、その後偽パスポートで密かに日本へ潜入を繰返していたようだが、丸岡は最後の日本潜入時に逮捕されました。そして八王子医療刑務所にて60歳で病死しましたが、今は四海八方孤島国の日本人の記憶からはほとんど消え去ってしまい何も残っていないかのようでありあります。

今一つ私が英国でいまだに忘れる事ができないのは、1982年リビヤ政府がスコットランドのロッカビー上空で起きた、フランクフルト発ロンドン・ヒースロー空港経由でニューヨーク・ジョン・F・ケネデイー空港に向かう103便を爆破させた事になっている事件である。そしてついで、ロンドンのリビヤ大使館占事件が起きたのでした。それが全部イランに繋がっているのでした。私がいた丸紅(当時百貨店高島屋飯田の鉄鋼部門飯田と合併したので丸紅飯田株式会社であった)は田中角栄首相が逮捕されるというロッキード事件に巻き込まれました。

表向きは、全日空のロッキード社製民間旅客機の受注に対して、ロッキード社コーチャン会長がピーナツ5粒(5億円)の政治献金を提供した事を米国議会公聴会における司法取引条件で告白し、彼だけは無罪となった。

しかしロッキード事件は単なる表側では政治がらみの収賄事件として、日本国では報道されて終わりになってしまっていたが、実際にはエネルギー政策に関する国際的石油メジャーのしかけた罠にはまったというのが真実なのです。この件に絡んだのは田中角栄首相、丸紅の檜山社長、伊藤人事担当専務、大久保専務(大久保利通の孫で丸紅が吸収合併した東京通商から丸紅編入して来て専務になっていた)でした。当時の自民党の大幹事長と通産官僚が、丸紅テヘランがイランの皇帝とは昵懇であった事から、直接日本国が国策として石油メジャーのチャンネルを通さずイランから石油の直輸入取引を行いたい希望がありました。先ず丸紅がイラン皇帝との謁見と仲介を丸紅にやって貰えないかという願いを赤坂の料亭で行われた会談で丸紅の檜山社長に申し入れして来たというのが事の発端でした。それでその方向で丸紅は動いていたのです。ところが、当時リビヤのカダフィ大佐とイランは水面下で提携していました。親米のイラン皇帝派と革命派が動き始めていて、結局米国はCIA工作でイラン皇帝一家とその支持派達を米国へ亡命させてしまいました。宗教指導者主導の革命派も最初は支援していましたが、結局革命派は反米に動き出したのです。過去の歴史を見てみると類似例が多いことに気づきます。先ずベトナム南北戦争の例を見ると、中共軍が加担する北側のホーチンミン軍対米国が加担した、南ベトナムの激しい戦闘が繰返されています。結局結果としては南側が敗北した訳です。そして南側のゴデイエンデム大統領とそのシンパは挙って米国へ亡命しました。この時ベトナム王朝700年の王家宮廷料理専門の家柄の家族も同時に米国へ亡命しまして、今やその宮廷料理の家柄の末裔が開設したクルスタセアン・レストランが大成功しています。そこの総支配人を20年余り務めてるのが、私の古い友人であり弟子でもある熊本ネイテイブの上原君であります。私は彼がまだ留学していた学生の頃から知っている仲であります。ここは米国では元大統領や副大統領などの著名な政治家ハリウッドのスター達やプロスポーツ選手スター達が常連となっています。

 次の例はフィリピンですが、マルコス大統領一家をハワイ経由で米国に亡命させたのも米国であり、米国は国家レベルの亡命請負い国です。そのマルコス・ファミリーも米国滞在中には、上記ベトナムレストランをしばしば利用しておりました。今は元大統領米国で他界した後、母親同様ミス・フィリピンにも選出された娘イメー女史は、現在ルソン島知事になっておられます。長男フェルデイナンド氏はフィリピン上院議院セネターで、また帰国したイメルだ夫人も現在国会議員として復活しています。これもマルコス・デイナステイーと言えるかもしれないのです。

そういえばもっと昔ですが、日本終戦の1945年(昭和20年)8月15日から約4年10ヶ月後の1950(昭和25年)年6月25日に、早朝北緯38度線を超えて11万兵士の北朝鮮軍が南に急遽侵攻開始した事に端を発した朝鮮南北戦争が起こりました。承晩の韓国軍は朝鮮半島の南端釜山まで追い詰められましたが、その李承晩大統領が亡命したのも米国だった事も思い出されます。振り返ると米合州国は、亡命国家元首をも受け入れる政治的包容力を持った新天地であることになります。一方、常に国際政治外交やマスコミには報道されない背後の真実もあります。その多くは民主主義の国々の政府が、長期間その公開可能期限を制限する事を立法化している事でも分かります。それでも公開可能期限を区切る事を法の名の下で宣言する国はまだ良心的な方であり場合によっては永久的に公開したくない国々もあります。国民の知る権利とか、報道の自由とか、公式の建前では言われますが、現実にはそれが世界では機能していない事が多いのです。ソ連時代のスターリン政権下の暴虐の圧政については、ソ連崩壊後も或る時期まで一切報道はされて来ませんでした。第二次世界大戦時のヒットラー・ナチス支配下で行われたアウシュビッツガス室殺人工場でのユダヤ人犠牲者以上の数が恐怖政治体制の独裁者の采配で起きてる国も他にも少なからずあるのですが、世界には矛盾に満ちている事が多々あります。戦勝国側と敗戦国側では立場が大きく異なり、場合によっては極端に前者の尺度だけで裁定差配されてしまうケースが多いのが現実です。これは今後の歴史家が明らかにするであることでしょうが、その時はすでに世界を揺るがすどんな大事件であったにしても、関心が薄弱化してしまっています。その時には、もっと別な大事件が発生していて、そちらへの関心事が民心を引っ張って行くことになる。

ロッキード事件は、単なる全日空の購入した民間航空機のお金が5億円、一国の首相への政治献金?収賄事件?で日本国内では、それで済まされてしまいました。しかし現実はそんな事ではなく、世界のエネルギーを支配するネットワークを組んだ石油メジャーのシンジケートが構築してきた利権体制機構に、一端に蟻穴を空けようとした日本孤島国の動きを封じ込める策謀が作動し初めていて、結果的にはそうなっていたということでもありました。考えてみると世界紛争の事件も、その背後には石油や天然ガスのエネルギー資源確保とその国際的配分物流上の利権と、イデオロギー闘争が絡み合っていたといえます。ギリシャ神話のプロメテウスの事が念頭に浮かびます。<全能の神ゼウスは地球上の人類には災いのもとになるなるので、天から火を与えてはならない!>といって戒めていたの、プロメテウスが破って地上に火を教え与えたので罰をうけるのですが、八つ裂きにしても、翌日にはまた復活してしまうというお話しです。

リビヤの国家ぐるみのテロリストが絡んだパンナム機のスコットランド上空の爆破事件、そしてロンドンのリビヤの大使館の人質立て篭り事件や赤軍派のハイジャックテロ事件が起きていた頃ですが、当時英国内北アイルランドでもIRAというテロ予備軍がいて、それと革命派イランが組んでたリビヤの活動分子が英国内で問題を起こしていました。

当時、マンチェスターとロンドン市中の町中のビルやらデパートの地下食品売場で、時限爆弾事故が続発していました。私の丸紅の機械展示事務所の隣の倉庫にも、時限爆弾がしかけられたという情報が入ったので社員全員は直ちに事務所ビルから外に出て避難するようにとの警察からの電話通報があり、慌てて社員全員を連れて、ビル外へ避難した事があります。それらの爆弾犯人は、全てがイランの革命派とか、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)とかと組む今でいうタリバン、アルカイダ系と組むマンチェスター大学のリビヤ人留学生でした。結局は大学留学生というのは表向きの名目で、実際はリビヤ諜報機関員や工作員でした。これによって逮捕されていた爆弾犯人のリビヤ人を返せというリビヤ国の要求もありました。たしかパンナム機爆破事件でその首謀者のリビヤ人主犯を英国に引き渡せという交渉を英国政府がしていた時で、その交換条件として英国で拘留中のリビヤ人の爆弾仕掛犯人達との交換条件をリビヤ政府が出していました。

イランのテヘランでも米国大使館占拠事件がおきていました。アメリカはその大使館員救出作戦に失敗しました。イラン皇帝一家はアメリカ政府の手配で、イラン革命派群(軍)から逃れ米国へ亡命しました。そしてカーター大統領の時、イランと米国は国交断絶、経済制裁に入りました。その当時、イランやリビヤの革命派はロシヤに頼っていました。

丸紅ロキード事件は、全日空がロッキード社の民間航空機30機余を購入することになり、その政治献金をロッキード社が丸紅経由で田中角栄総理へ行うということで了解したことから始まりました。丸紅の社長秘書室長も兼務する伊藤専務が、専用運転手に段ボール箱に五億円の現金の束を詰めて、田中角栄首相の専用運転手の車にリレーして運ばせたのです。一方米国側でロッキード社のコーチャン会長は、議員公聴会における日本には無い自発的告白司法取引法に基づき、みずから先に公表することで刑法処罰免除となりました。しかし米国にとってのロッキード事件とはあくまで米国政府にとって、収賄という名の別件逮捕の口実であって、真実は石油メジャーが押さえている独占的石油利権機構を疎外して、イランの石油を直接日本国が輸入する事に対するエネルギー・シンジケートの妨害工作と、メジャー既得権構造の防衛工作であったという事でした。

私はかつて丸紅テクマテックス社時代は、当時の通産省の特別金融支援もあり、アルジェリヤでも富士紡績と組んで大繊維工場建設を行いました。そして多くの日本人工場建設労働者や技術者を派遣していました。この現場監督兼総指揮官に、私の部下T君とそのまた副監督にY君等を丸紅テクマテックス社(フランス会社=リオン)から長期派遣しておりました。その間、日本人幹部が車で崖から谷に落ちる大事故に遭いってしまい、地方のアルジェリヤ現地では治療施設が無いので、やむなくヘリコプターでパリの病院まで緊急搬送するという交通事故などが起きました。しかし当時はまだ幸いにテロ事件には、巻き込まれることはありませんでした。そんな頃息抜きに、現場日本人関係者は皆カスパに飲みに行ったり食事に行ったりしていました。そこに数少ない日本レストランもあったので、稀に皆で出かけて行くのを楽しみにしていました。しかしそこで、日本赤軍派の連中と出くわしたと言っていました。幸い私たちが工事をしていた一年余りの間には、テロ事件は起きませんでした。地鎮式や完成式には大統領も列席しました。地鎮祭には、羊の首をちょん切ったものを備えていました。逆に工場完成式に招かれた時に、戸外テーブルに大統領もきて、サラダを更に盛りつけて渡してくれました。しかしよくみたら、サラダ菜に蛆が付いていました。大統領達はそれも平気で食べてたので、「自分たちも清水の舞台から飛び降りる気持ちで目をつぶり、大統領が盛りつけてくれたサラダを食った」とその日の式典に出席した本社の某丸紅上司が言っていました。

しかし近年、英国のオイルカンパニーと石油プラントを建設中に起きた、ニッキ(日揮)社員10名ほどがアルジェリヤ現地でテロリストの犠牲にった事件には心痛みました。私の会社が仕事していた時代は幸いテロ事件には巻き込まれなくてラッキーだった事になります。<ここは地の果てアルジェリヤ>という古い流行歌<カスパの女>がありますが、まさにそれがいつも思いだされます。さらにまた別なカスパに関する嘘のような本当の後日談があります。

私の高校同級生で親友の「K・M」が美大を出て、工業デザイナーとして通産大臣賞やら様々な賞を取得していました。私はその賞を獲得した作品や製品を見に来いというので、ランチタイムに会社を抜け出してしばしば見学に行きました。「K・M」は本田のバイクをデザインしたり、システムキッチンで有名なメーカー、サンウエーブの設計デザインや多くの玩具のデザインなどを行い注目されいました。彼の父は満州の満鉄職員でしたので、戦前は大連で生まれた後に戦後は命からがら日本へ引き揚げてきました。父親は関東軍に徴用されており留守で、多分戦後はシベリヤへ連れて行かれたようです。終戦後「K・M」の家にはソ連兵が住みつき大変だったようです。屋根裏に隠していた宝石類装身具を一つずつ出しては、ソ連兵士官に渡して生き延びていたといいます。彼と妹と母親の三人は搬送列車に載せられて移動している最中に列車から飛び降りて脱走を計りました。そしてコウリャンあたりの中国の畑にある穀物を失敬して齧って彷徨いました。しかし、乳飲み児の妹は栄養失調で逃亡途中に死亡してしまいました。そして命からがら母親と二人で舞鶴に引き揚げてきました。「K・M」は美大卒業後に、八王子で工業デザイン事務所を開設しました。事務所で「K・M」は、美大の後輩である工業デザイナーを雇っていました。そして、その後輩に恋人ができ結婚しました。その新婚夫婦はハネムーン旅行へパリに旅立ちました。二人はそのパリ滞在中に、とあるファッション・ブティックに立寄りました。そして試着する際に、奥さんだけが試着室に地下へ連れて行かれました。彼は新妻が試着後に現れるのを上階でずーっと待っていました。しかし、いつまでたっても上がって来ないので、変に思い自ら地下に下りて探したが彼女の姿は見つかりませんでした。警察にも捜索依願いを出したみたいですが結局彼女は見つからず、しかたなく単身日本へ帰国するしかなかったのです。これは信じられない前代未聞の新妻パリ失踪ミステリー事件でした。そしてそのまま何もなす術なく、数年過ぎて行きました。

この事件はどうもフランスで言うジゴロという、「フランス・ヤクザ」に誘拐されたのではないかという噂も耳にしましたが、確証はありませんでした。ところが後年にアルジェリヤで仕事していた日本人がいました。そしてアルジェのカスパに夜遊びに行った時に、日本人らしき東洋系女性が立っていたというのです。そして日本人の団体姿を見かけると、逃げるようにその場からさっとすぐ姿を消すという話をしていました。私はその話を聞いた時に、もしかしたら私の友人デザイナー「K・M」の弟子がパリで失踪した新婚妻ではないかという懸念が脳裏にひらめきましたが、その時には確証を掴む方法はありませんでした。また、別な日本人女性は、スイスからローマへ向かう列車内でこつ然と姿を消したのでした。これと似た日本人女性の失踪話を別な機会に又聴かされましたが、日本のマスコミは一切取り上げていませんでした。

上記の工業デザイナーで私の同級生「K・M」は、戦後旧満州からの引揚者でした。そして一年上級にいたのが池田満寿夫で、彼も満州からの同じ時期の引揚者でした。奥さんは福島出身でロシヤ育ちの情熱的バイオリニストの佐藤陽子さんでした。「K・M」と池田満寿夫は親友でした。更に「K・M」が高校時代に隣の女子高の楚々としたガールフレンドがいました。そして「K・M」は美大時代に同棲生活していたのでした。それが何と後年に突然、ニューヨークで巨大な男根像を創り彼とその名前がブレークしたのでした。最初は同姓同名者は世に多くいるんだな~っと半信半疑でしたが、高校時代「K・M」が学校のすぐ近くの四畳半で間借りしていた頃にしばしば会っていた彼女とその名前が同一人物だと判明した時に私もびっくり仰天しました。

リビヤ問題が起きていた頃丸紅は、またイラクでも病院と看護学校の建設も請け負っていてました。そしてカイロ支店に派遣されていた私の同僚が、その担当をしていました。しかし、その後に湾岸戦争でバグダードでは、サダム・フセインに現地日本人駐在員家族含め、人質としてホテルに軟禁されました。幸いにもこの時には、日本人家族が無事解放されました。ナイジェリヤのカノー地区に繊維工場建設を請け負った時も、私は日本人の部下を派遣しました。家族は英国マンチェスターに残して行き、往復出張していました。しかし最近、ここもテロ続発地域で、女学生が二百名余り人質誘拐されたまま行方不明になっており、今も繰返されています。私は湾岸戦争よりはるか以前から、クルド民族のことに関心が深くあり、研究をしていました。クルド民族の源流はアレキサンダー大王がインド遠征をしていた時代以後に溯ります。元々は欧州に多く存在しており、イングランドやアイルランドにもいる移動民族です。一カ所に定住しない流浪の民ジプシーで起源インド発祥といわれています。ハンガリアン・ラプソデイー<ツゴイネル・ワイゼン>を想起します。北イラクのクルド人はイラク戦争時にも虐げられていましたが、ここにも油田が見つかり、発掘されるようになってからは、トルコ国境イラク側にある位置から狭間になっていました。今回突然シリヤ側かあら北イラクに侵入して、イスラム国建国宣言をしましたが、犠牲になってかわいそうなのはそこの先住民クルド人(英語ではカーデイッシュというので,全く別人種に聞こえてしまいますが、実は同じ民族)です。

なぜ国連はもっと積極的にクルド人を保護支援しないのでしょうか?疑問を感じてしまいます。

現在の高村副総理が、当時外務大臣であった頃に横浜で開催されたアフリカ会議で、日本政府がOEDによる「中央アフリカ大陸横断高速道路建設」を約束しました。マスコミは、第一回目のアフリカ会議の時には大々的に報道してたのに、民主党政権になったら頬かむりです。ジャーナリズムは国内の幹線道路企画中止のことは報道しますが、アフリカの事は一切忘れてしまったのか、全く報道せず自然的解消反故になってしまいました。がっかりしたのはアフリカ人達でした。 そして「もったいない」という言葉だけが残されました。

そこへ東日本大震災による福島原発事故が発生し、日本国民のアイデンティーが曖昧な民主党による、まるで政治素人集団のような外交や国内政治経済への舵取りの失態をさらしました。そして不始末が続発し、有権者国民の期待を完全に裏切った形でその後に行われた総選挙結果で惨敗しました。私も海外から故国を観ていて、日本国の危機感を感じました。明治の頃の元勲や尾崎行雄が現在に生きていたら何と言ったのであろう?と自問しました。

私は、3・11地震の直後だった9月に、日本へ飛んで横浜ホールや学習院大百年記念講堂にて、東北福島支援チャリティー・コンサートおよび私の講演会を行いました。翌2012年にも東京松濤ホールにて同じ目的でコンサートを開催しました。又その直後にも六本木にある国際文化会館で、日英関係の歴史的ルーツについて講演しました。私は2011年の9月末に横浜行われた東日本福島を支援するロスチャイルド・チャリテイー・コンサートの直後に名古屋でもトヨタレクサス会が後援する東北福島支援コンサート(2回)の開催を決定していました。ところが横浜コンサートを開催中に、舞台裏にいた私の携帯に突然、名古屋のトヨタレクサス会主催者側から緊急電話がかかってきました。「明後日のコンサート開催日に、中部地方伊勢湾へ大台風が襲来すると発表されました。というのも、トヨタレクサスファン会の方々は名古屋市ばかりでなく近隣県からも来るので、大台風では既に招待してる客は半分しか来れない可能性が強くなりました。それで、北さんが今回は名古屋のコンサートを強行するか、それとも中止してコンサートを無期延期にするか?を決めてください。」という電話内容でした。私の決断を迫られました。台風の接近はもう確実に進んで来てるのは事実です。しかし問題は、主役も音楽監督も伴奏者も全て手配済で、移動新幹線もホテルも予約済になっていることでした。実に判断に苦しむ難しい問題が起きてしまいました。私は「15分待ってほしい」と伝えて、電話を切り舞台裏で考えました。しかしまだ公演の真っ最中で、誰にも相談できずにいました。しかし英国からの仕掛人である私にしか決断を下す事ができないと言う答えだけが頭をもたげてきました。私が全責任とって決断しないと名古屋のトヨタ・レクサス会が行うであろう数百名の参会者及び全会員家族に明日一日では連絡対応が間に合わない。そこで携帯をとり、断腸、苦渋の決断で公演中止無期延期を伝えることにしました。そして当日には伊勢湾台風が襲い、犠牲者も出ました。TVニュースを観て、私の咄嗟の決断が正しかった事を知りました。そして翌々年に行われた名古屋のトヨタレクサス・コンサートは、2013年4月に行われた伊勢神60周年建て替え式の直後でした。東京永田町東急インで開催の晩餐会コンサート(コンサート後援会のどなたかが招待されたらしくて、政治家を辞めた鳩山元首相夫妻も大きな花束持って来会されていました)の直後に名古屋に移動して、トヨタレクサス会後援でコンサートが2回開催されいずれも大好評でした。そのコンサート直後に私の作詩で中京方面アルテ交響楽団指揮者の田中瑞穂による作曲で、カラオケ用にもなるCD<エリザベートと一粒の真珠><さすらいびと>が出版されました。「さすらいびと」、は東日本大震災において、その中でも特に福島原発事故によって仮設に住むことになり、郷に帰れない人々の古里を想う心情を唱った歌でした。又「エリザベートと一粒の真珠」は、伊勢湾台風が襲ったあの志摩半島にある「ミキモト真珠」のパールアイランドの真珠にまつわるテーマにもとづいた日本人留学生とイギリス人恋人をテーマにした歌でした。この歌は以前にも東京サントリーホールや銀座ヤマハホールでイギリス人歌姫が日本語でも唱い、いずれも大評判になった全12曲の中の2曲でした。特に<エリザベートと一粒の真珠>の歌は、先祖尾崎三良が1868年に三条実美公嫡男公恭と毛利公の嫡男と共に英国へ留学した折、英国人女性と恋仲になり、生まれた女児セオドラ英子(後に憲政の神と称された尾崎行雄と結婚)の父親の心境をイメージして詩を書いていたものです。

2011年9月に横浜ホールで行われた東日本福島チャリティーコンサート公演の直後に、私は福島県を訪れました。そしてまた、ここでまた大台風に出くわまして、えらい目に遭いました。このお話は次回にします。2011年は、本当に大津波災害についで、台風水害の多い年でした。

幕末から開国、そして明治の歴史原点を全く教えられてない、あるいは知らない世代が最近の日本に増加しています。日本国のアイデンティティーを希薄化させる傾向には、危機感が募ります。英国の女王家の次にある16世紀以来の高等貴族であるモンタギュ家藩主と知遇を得て、何度も話し合いを重ねた結果、新日英友親交会の結成推進運動を立ち上げたものです。藩主とは30年近い交流があります。日本びいきの永久貴族院議員の家柄ですが、この藩主の御領地内の二つの港湾市は、幕末以来、明治時代日英関係を結ぶ重要な役割を果たしていた由緒と因縁深い場所でありました。

モンタギュ家は17世紀には英国副王の地位にあり、プロテスタントが創設される前のカソリック教時代のバチカン法王につながる、英国カソリックの総本山でもあった家柄です。明治天皇から英国キングにロイヤル外交で贈られた4つがいの日本鹿の2つがいを下賜されて放牧し、城外の森に今増殖しています。またこの藩主の領地内であるポーツマス港湾市は、東郷平八郎が留学した所であります。日本海軍海上自衛隊の発祥にかかわる所です。それから「Southampton Port City」は幕末から明治時代に日本港湾市と航路でつながっていた所で、今でも日本郵船などのが入ってるコンテナー船基地になっています。現在の「Southampton City Soccer Club」には吉田麻耶選手が所属しています。英国国宝十選の筆頭に出てくるモンタギュ公藩主の古城である「BEAULIEU CASTLE(英語読みでは ビューリー・キャッスルと読みます)」。ここは領地内にハンティング・射撃スクール、乗馬スクール、フィッシング・スクールなどがあり、名門ウインチェスター大学やかつて英国大航海時代と英国東インド会社の貿易船建造の大帆船造船所がありました。ここで建造されたネルソン提督の旗艦船アガメムノン(神話ギリシャ語では海神を意味する)号はトラファルガー沖海戦で、当時世界最強と言われたアルマーダ・ナポレオン海軍艦隊を撃破しました。東郷平八郎は、このトラファルガー大海戦を留学中には極めて熱い興味を示し、徹底的に研究して、その海戦を頭に叩き込みました。そこまで熱心にのめり込んだのには東郷の生い立ちに関係があります。それは、幕軍海軍に対抗する維新軍海軍の戦艦に乗って来た前歴があったからです。

英国留学に熱意を込めて吸収して来たトラファルガー大海戦におけるネルソン提督の戦法が、帰国してから後に役立つ事変が起きる事になるとは、留学当時は思っていなかったと思います。しかしそれが起きる時がきました。

1904年に勃発した日露戦争の日本海沖海戦で、バルチック艦隊35隻の33隻を撃沈し、海中海に投げ出されたロシヤ海軍兵を全員救助した世界海軍史に残る美談とされています。ロシヤ海軍兵士遺族会が今でも、東郷平八郎元帥の遺族会水交会と交流を保っています。尾崎三良は、1880年(明治13年)セントペテルスブルグに赴任しました。その時は大正天皇の生母(宮中侍典長)の末裔で、初代ロシヤ公使に任命された柳原前光伯爵に随行して三良は、日本公使館開設の用務の為に聖都ペテルスブルグヘ向かいました。尾崎三良は日本公使館開設の実務はすべて担当しましたが、皇帝アレキサンドル二世にアグレマン呈出で謁見し、英国にはもともと関心を持っていた皇帝が三良に英国留学の事を盛んに質問したようです。その後に北欧三国を歴訪し(それぞれのキングに謁見しています。その後ロシヤ革命が勃発しはじめ、社会主義レーニン革命が起き、農民兵士の反乱やストライキが発生してロマノフ王朝が倒れ、ソ連邦時代になってしました。

最後に 柳原前光1850年1894年)について説明しておきます。大正天皇の従兄で初代ロシヤ公使。英国オクスフォード大国際法科留学の一等書記官兼副公使役で、尾崎三良が実務補佐役として共に1880年セント・ペテルスブルグに赴任。アレキサンダー2世皇帝にアグレマン呈出で謁見。その際に英国に深い関心を抱いていたアレキサンダー2世は、特に三良から英国の話を聴きたがったという。その後更に英国の話を改めて聴きたいので、離宮に来るようにとの下命があった。その後、皇帝は閲兵式典に臨まれた直後に馬車で王宮へ戻る際、正門にさしかかったところで、アナーキストが仕掛けた時限爆弾が炸裂して落命、崩御された。柳原公使と三良はその大争葬儀に参列。また北欧デンマーク、スウェーデン、ノルウェー三国の王が歴訪し、アグレマン呈出のため謁見している。更に説明を加えると、NHKドラマ<花子とアン>に登場する女優仲間由紀恵演ずる葉山白蓮(白蓮の本名:柳原燁子=あきこ)は柳原前光と没落武士の娘で柳橋芸者の奥田むつとの間に生まれた娘であり、後に前光の本妻初子が側室との狭間で引取らざるを得なくなったため、本妻初子の養女となり学習院中等科に入学した。しかし、早期に嫁がせられる為に,本人の意志に反して学業を辞めさせられました。最初は16歳の時に親が勝手に決め養女にした、生来精神薄弱症気味の北小路資武との不幸な強制結婚で心を痛めていました。今でいうDVを受けていたのです。又一説によると、次に九州の炭坑王で成功者で、人は良かったが本来無学であったという伊藤伝衛門に柳原家の経済的逼迫のために、異母兄義光に当時莫大な結納金を目当てに嫁がされたという事のようです。義光によりその結納金は貴族院議員を保つために費消されたということですが、白蓮が帝大生だった宮崎の下へ駆け落ちした事件により、宮内庁から再三再四辞職を迫られました。しかし、議員資格に拘泥し辞職を長い間受け付けず抵抗したといわれています。とにかく白蓮の生い立ちからすると、彼女の辿った人生には同情の余地はある気がします。とにかく先祖尾崎三良と柳原前光公使との結びつきをみると、世の中は狭いものだと実感するのです。本当に英語で言う<SMALL WORLD>という表現がぴったしです。

北 広次郎 英連邦王国(UNITED KINGDOM)

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