ユーモアクラブより転載。

北広次郎エッセイ集 ミスターヨーロッパだより

第13号

 『原爆と原子力発電の相関関係を省みる』

 英国の核燃料棒は英国核燃料公社(BNFL)で、丸紅が50年余り総代理店で日本へ輸出してきまして、私もその輸出を手伝っていました。その核燃料棒シリンダー工場は、マンチェスターとリバプールの間にあります。このための英日間専用輸送船を二隻英国で建造しまして、その進水式に日本の九電力東海村の会長・社長クラスが家族連れで英国核燃料公社に招かれて、通産省代表官僚達とここへ来ました。そしてマンチェスター市庁舎タウンホールで歓迎晩餐会が開催されました。この市庁舎タウンホールは日露戦争を意識して日英同盟締結時代、大正時代に昭和天皇がまだ皇太子だった頃、このホール訪れました。その時も歓迎大晩餐会が行われました。今でもその時のメニューが保管されています。私の仲良かった助役さんが、いつもその話でもちきりでした。

 その同じホールで日本の電力会社代表達は、歓迎会パーティーに招かれたが、立食だったため、御老体たちは足がつかれて、おまけにその夕食料理が口にあわなかったらしく、そうそうにホテルへ引き上げてきました。通産省代表は私の家に来ました。と言うのは、丸紅の重役の中に当時通産省局長から天下った松尾専務がいて、通産省時代それがたまたま後に小泉内閣の国家公安委員長兼防災大臣でに就任し、郵政民営化に反対して、国会議員をやめて、長野県知事になった、私の小中高校同級の村井仁さんの通産省では上司だったのですが、私が海外赴任する寸前山王ホテルで昼食に招いてくれて、歓送会を開いてくれた人物でした。後に副社長になりましたが。それで通産省の人々だけを、松尾専務の顔を立てるため、夜我が家に食事に招きました。

 その前に家内がビスケットの空き缶に酢飯押し詰めて、鱒寿司ならぬ、燻製鮭をのせて放射線状に切った、自家製燻製鮭寿司をホテルの部屋に差し入れしておいたのです。そうしたら翌朝東電の平岩外四社長は、日本から中年の娘さんが秘書代わりに同行して来てましたが、松尾専務に『部屋に差し入れられてたあの鮭寿司が一番美味だった、立食晩餐会の食事は口に合わなかったんで、速く抜け出したかったんです。本当に助かりました。あの鱒寿司は誰が差し入れてくれたんですか?』と訊かれたそうです。

『あれはここマンチェスターで1966年から、丸紅傘下の機械専門販売サービス会社、日系丸紅テクマテックス社を英米仏伊など海外で独立法人を創り社長をやってる私の部下の奥さんがやってくれたんですが、』といって大変喜んでいたとかいってました。

 当時この地区にはYKKとシャープと丸紅テクマテックス社しか日系企業はありませんでした。しかも一行が泊まった英国核燃料公社がとったホテルは工場の近くで野原の真ん中にあって周りには何もないマンチェスター市からはるか遠く離れた郊外でした。

 今回ロスチャイルド家も、私は日本には住んでないのに、日本の東北関東で起きた津波地震の大惨状について、TVで知りさっそく見舞いのメイルや電話が相次いで入ってきました。その時、英国核燃料公社(BNFL)の核燃料棒(円筒シリンダー)を、私が地元なので、商社時代、日本への輸出を手伝っていた話をしたら『ヨーロッパは戦後いちはやく原子力発電をやって来たが、原発事故が一度も起きていません。チェルノブイリは あれはロシヤです。何故原発事故が起きてないかというと、あらゆる事故を想定して、安全対策に工夫とお金をかけてきてるからです。』と言われました。

 確かにそれは言えてると思いました。日本は原発のみならず、何ごともそうですが、表に見える方の事だけには金をかけても、目立たない表に見えない地味な部分は金をかけたくないので手抜きをする習性があります。

 卑近な例をいうと1966年にロンドンに来て、はじめて日本レストランが出来だした頃、店は立派そうにしてましたがトイレに入ると、まるで日本の田舎のトイレより小さく汚くて、外人客を招待しても、すき焼テンプラ寿司刺身はいいとして、トイレだけはまるで貧弱で恥ずかしくなりました。ところが隣のイタリアンレストランのトイレは、豪華ホテルのトイレ並みで、金ピカで清潔そのものでした。

 これはほんの一例ですが、ロンドンの邦字新聞に私がシリーズで連載してきた『北広次郎の奇妙な体験シリーズ』を見た当時の産経新聞のロンドン支局長が、強く出版を薦めてくれてたので、まとめて出版した『ミスターようろっぱ』と題した欧米体験エッセイ本に、日本人とヨーロッパ人の清潔感の相違について、書いたことがあるのですが、ヘルシンキのホテルでラップランドから来た若いホテル従業員のかわいい金髪女性と、私の連れてきた会社の若い英国人の経理マネージャーが、彼女とバスとシャワーとどちらが、清潔かの議論をしていた最中に、私がエレベーターからロビーに下りてきてジョインしまして聴いていました。このフィンランド人女性は、さすがサウナ発祥の国の民族だけあって、シャワー党支持者で、絶えず新鮮な湯が出てくるシャワーがもっとも清潔だと主張しました。そして湯舟につかりっぱなしのバスをけなしていて、英国人と対立していました。そこで当時の日本人家庭の、同じ湯に家族が交代で使う入浴法の話はやめときました。尾篭な話で恐縮ですが、ロンドンのホテルでビデに大をして流すのに苦労したと言っていた日本人がいました。

 話がやや外れましたが、要するに八方海洋ジャパン孤島国民は、『汚いものには蓋をしろ』と言う俚言があるごとく隠蔽体質があります。そして『予防主義』と言う観念がまるで希薄です。それはどこから来てるかというと東山の金さん大岡越前守の鎖国時代の裁判制度から、明治維新以後の欧米六法全書の和訳を日本に当てはめてからまだたった一世紀(百年)ちょっとしか経てないのに、もう大昔から日本に司法制度があったかのように普段皆が錯覚しています。欧州では少なくも5百年以上の司法裁判の歴史があります。そして『予防主義』が発達してる。英国の警察は『ゼロ・トレランス』(ZERO TOLERANCE)と言う言葉をよく使いますが、『犯罪予主義』への思想の現れです。

 これは私が前に警察庁の論文応募に書いた論文が本になって掲載されたことがありますが、日本は後手後手主義だといったのですが、問題事件が数回繰り返し起きてから、やっと立法する。一回おきたぐらいでは法制化にはなかなか踏み切らない。たとえばストーカー事件、幼児虐待事件でも、何べんも事件で命が失われても、なかなか法制対策が遅い。英国の立法では、事件の起きる前に、起きる可能性を考えて予防主義で、立法化する、また一回起きたら、なおさらすばやく法制化を実行する点では、極めて予防主義が敷衍化しているのです。

 原子爆弾を研究してたのは世界第二次大戦中にヒットラー総統に支配されたドイツからスイスに亡命し、やがて米国に移った相対性原理のアインシュタイン博士と、オッペンハイマー博士で、二人ともユダヤ人ですが、終戦前はプリンストン大学で教鞭をとっていました。私はプリンストンに泊まっていた頃二人の博士の狭い小さい古い研究室を訪問した事があります。私の高校同級生中田精一君が青山大学教授で後に放送大学に所属してたが、プリンストン大学で博士号をとり、日本文学をプリンストンで教えていました。彼がもらっていた小研究室は黒板があるだけで、学生が6人位座れるだけの小部屋でした。机は一切なし。これが元アインシュタインの研究室だった部屋とは、信じがたい地味な部屋でした。かつてはアインシュタインが公式方程式を延々と書いていた黒板の上には、志賀直哉の短編小説『城之崎にて』の見覚えのある文章がチョークで書かれてあり、『これ一体何年生におしえてるの?』と友人先生に訊いたら『二年生さ。』っていうので、耳を疑いました。

『日本語をまったく知らなかった一年生に日本語のいろはの基礎から教えたのが一年生の時で、これは2年生用だよ。』っていうので呆れました。さすが米国の一流大学の学生は、やる気を出せば速い。しかし一般の米国人英国人でもやる気を出すと、読み書き会話も上達が速く、徹底してやりますね。ロバート・キャンベルさんや、デーブ・スペクターさんが続々誕生する素地があるのですね。

 そこへ行くと日本の外国語教育は??? 特に会話は聾唖者で、読み書き受験用英語に偏ってくるのが日本式教育法でした。

 私の出た大学の英文学の教授が、文部省の奨学金で、エジンバラ大学へ研究留学したとき、同じ時期やはり東京農工大の静電気の研究教授がマンチェスター大学に来てて、『ちょっとエジンバラに来てる、日本の大学の先生に会いに、週末3日くらい遊びがてらその英文学の教授のアパートに泊まりに行って来ます。』と言って、汽車ででかけましたが、翌日帰ってきてしまったので、理由を聞くと『それがねえ。彼のアパートでなにか料理でもしようと二人で食材買出しにでかけたんですよ。ところが、お店で彼の英会話が通じないので、いらついてました。そこで私が、『あなたは日本では英文学の大先生と言われてるんでしょう。それなのに、自分で希望してきたエジンバラで全然通じないなんて、おかしいね。とちょっと軽く言ったら、この先生が突然人が変わったように君とはもう絶交だとどえらい剣幕で怒り出したので、とりつく島がないので、さっさと列車にとびのって帰ってきてしまいました』といいました。これも呆れてしまいました。

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 プリンストン大学で元アインシュタイン博士の小部屋を出ると、暗い廊下を隔てた向かい側に小部屋がありましたが、元アインシュタイン博士の小部屋と余りかわらないのが、オッペンハイマー博士の研究室でした。

 広島長崎に落とした米英共同開発の原子爆弾製造を指揮していた最高責任者がオッペンハイマー博士だった。本当はこの原爆は最初は、ドイツに落とす予定でしたが、1945年4月にヒットラーが愛人エバと、蓄音機でヒットラーの大好きなワグナーの『ニールンベルグの指環』のレコードをかけて、表に横並びに立ち並んだあのドイツ兵型のヘルメットをかぶった士官下士官たちに別れの挨拶と握手をかわし、司令部ビルの地下室に下りて行き、先ず愛人エバの頭をピストルで撃ち、そしてヒットラー自身が自分の耳のこめかみに銃口を向けて、頭骸骨を撃ち抜き倒れたのです。この死により、欧州での世界第二次大戦は幕を閉じたのです。たった独りのもと画学生だった人物ヒットラーが芸術学校受検に落ちて画家になりそこねて、一兵卒で参戦し負傷した第一次世界大戦では敗北し、戦勝国には過重な戦争賠償金を支払う義務を負わされ貧窮を極めたドイツ国民のなかで、政事に目覚めて社会主義ナチスに入党し、1921年ナチス党首に就任した波乱万丈すぎる独裁者の激動のドラマがここで終焉したのでした。

 ナチスドイツも原爆の研究はしていたが、終戦まぎわには原爆開発をすこし後まわしに手抜きして、むしろ戦闘に直ちに必要とされていて、すぐ実用できるUボート潜水艦やメッサーシュミット戦闘機、そしてドイツからロンドン攻撃に飛ばしたロケット弾ミサイルの方の開発に傾注していたのです。ここが切羽詰ったドイツの誤算でした。アインシュタイン博士やオッペンハイマー博士がスイス経由で、米国へ亡命していなかったら、最初の原爆はドイツが創っていたところです。そうしたら英国か米国に落とされていたはずです。

 ヒットラーのユダヤ人狩りが、裏目にでたと言うケースです。そのおなじ頃、ヒットラー総統のナチスの熱心な党員となり、ヒットラーを熱狂的に支持してドイツの国家最高指揮者に任命されたカラヤンは戦後生き延びたが、見事な変身振りで、日本の西洋音楽かぶれフィーバーの波に乗って、そういう欧米政治史には疎い極東の八方海洋孤島国では、大歓迎されるのでヤーパン様々であったのです。

 1945年(昭和20年)米国が広島(8月6日)長崎(8月9日)に原爆を投下して、止めを刺して8月15日日本国は無条件降伏となった。これは太平洋戦争と称してるが、独伊ファシスト二国と三国同盟を結んだが、当時軍部内部でも勝算はなく、誰しも開戦を回避したいと思いながら、『No』を言えない体質が、ずるずる捨て身の太平洋戦争に突入したのですが、日本に二発の原爆が落下しなかったら、まだ太平洋戦争は終わっていなかったのです。そしてこの原爆が、戦後平和利用と称して、原子力発電技術に転換されたわけです。ところが、戦後8月6日、8月9日だけ政治家が追悼スピーチを述べる黙祷儀式化していても、戦後教育は開戦とか戦時中とか、原水爆の部分と終戦(敗戦)のところは 広島長崎沖縄地区以外では、タブー化し『触らぬ神』で教師たちは触れることすら回避してきたことは否めないのです。そのひずみがいまだに続いているのが現実です。戦後日本の教育では、原爆と原子力発電の関係や放射能についてただしい教育をして来なかった。

 そのタブー教育に風穴をあけてくれたのが、皮肉にも北朝鮮で、それに、チェルノブイリが加わる。しかしそれでも、八方海洋孤島国民はそれは近くて遠い国の話しくらいにしか、思っていないのです。日本には、広島長崎と言う実体験の絶好の教材がありながら、教育の場では、軍国主義のイメージのアレルギー反応で、その場は避けて通る癖がついてしまってる。日本の漁船がビキニ環礁で大国の水爆実験で被爆した事実は、今はもう完全に風化していて、若い世代は誰も知らない。

 今回の福島原発事故は天災のせいだと、一般国民の大部分は勝手に思いこんでいるが、これほどの人災事故はないにもかかわらず、平和ボケの最たるところまで来ているのです。永い鎖国時代の『平民には知らしむべからず』の日光東照宮の三猿が象徴してる、国民的体質、おかみ体質、『臭い物に蓋』の隠蔽体質が八方海洋孤島國J社会に蔓延してるのです。

 原爆と原子力発電を開発したのは、米英の共同開発で、これに加わったのが、宇宙物理学のユダヤ人科学者達でした。国土広大な米国では、広島長崎に原爆投下する前の、実験はネバダ州の砂漠で行われ、投下寸前に実験が完了しました。ヒットラーが自殺して降伏していなかったら、まだ欧州での世界第二次大戦が8月まで続いてたら原爆は最初にドイツに落とす作戦予定がありました。そのことを教えていた英国人のフランキー先生がいました。真珠湾攻撃後、最後から二番目の捕虜交換船で単独で米国に渡ってコロンビヤ大学教授になったのですが、終戦直前には英国に帰り、ロンドン大学東洋学部で今度は日本語と日本文学を教えていました、フランキー先生は日本では戦前英和辞書も編纂した英文学者ですが、小樽で教鞭とってた時に、北海道の地主の娘さんと結婚していました。

 フランキー夫人は最後の交換船で、『私はフランキーの妻です。私は戦争とはまったく関係ありません。私は信じています。私は夫の所へ行きます。』と親の反対を押し切ってフランキーの後を追って渡米しました。こういう時には女性の決断って強いですね。旧制静岡高等学校(今の静岡大学)の教え子達が全員夫人の荷物まとめを手伝って、船に載せて送り出したと聞きました。

 

 ロンドンでフランキー先生宅で、私は先生にお会いしました。もう奥様はお亡くなりになっていまして、応接の家の壁に、奥様の筆字で書かれた奥様の作られた和歌の短冊が壁一面に貼ってありました。奥様は書道の先生で、ロンドンで筆字で行書楷書とかの漢字の書体の本を出版していて、その本を見せてもらいました。フランキー先生は、戦後昭和天皇から授勲されました。私はこの先生とはよくよく因縁があります。奥さんが亡くされてから、家の掃除や料理のまかないをする日本人とドイツ人の混血の女性が、なんとこの女性がスイス大使館付武官の夫と結婚して男児聖寿君を生んで、御主人は米国のCIAに雇われベトナム戦争に行き、戦死してしまいましたので、その後、大阪から英国へ移住してきた時に、私や家内がホームステイ先やらいろいろ、相談にのって上げ、お世話していた女性弘子さんが、フランキー先生の晩年のまかないを担当してたのですが、私は全然知りませんでした。後になって弘子さんから聞いて、世の中狭いと思いました。このフランキー先生は、ヒットラーが自殺したのちに予言していました。

 それを当時フランキー先生からその予言を聞かされたロンドン在住の日本人で元外国船の船乗りだった人物が『あの時フランキーがあんまり自信たっぷりに日本の終戦の近いことを言うので、なんでそんな事が分かるんじゃいと食ってかかったが、そのときは理由を言わなかったが、後からわかったが、フランキーはもう原爆の完成の事も、それを日本で落とすことも、米国の大学の原爆開発関係者筋から聞いて知ってたんだ。』と、私に語ってくれました。これも偶然でした。

(この続きはまた 次回にします。)