本書は、次の2点で極めて独自性の強い社会学の教科書である。第1に、本書は、「入門の入門」という位置づけを有している。すなわち、本書は、後続する4巻の「入門」の総目次的な役割を果たす内容構成となっている。第2に、その「入門の入門」のさらに「入門」ともいうべき第1章と第2章前半の内容が、少なくとも評者の経験からして最高度に独自なものとなっている。まず後者から見ていこう。

 第1章は、まず何よりも「富永社会学に対する批判」という姿勢に貫かれている。著者(山本)は、社会学を「社会における人間の生活や行動を研究する学問」と規定した上で、わが国においてSociologyが導入され、その訳語として「社会学」が定着した経緯を説明した後に、社会に関する5つのイメージ(「構造としての社会」ほか)について解説する。その上でこれらの「イメージ」が社会を捕捉する手段としては「いささか茫漠」であると論難し、高田保馬の社会把握に注目する。著者によれば、高田は、「社会」(=「全体社会」)を「全員社会(国家)」、「集団」、「微分的結合」の3つに大別し、前2者を「集団社会」(=「狭義の社会」)、最後の類型を「集団外社会」(=「社会関係」)と括っている。さらに集団外社会は、「繊維社会」と「機能聯関」に二分される。この社会類型を基盤として「富永社会学に対する批判」が展開される。すなわち、富永健一は社会学の研究対象を「狭義の社会」に限定しているが、これは社会学の研究対象を不当に狭めるものであり、高田の言う「全体社会」=社会学の研究対象、とすることが妥当である、としている。

 第2章前半においては、特に「集団」把握をめぐって富永批判が継続する。まず「社会」を「集団」と「社会関係」から成るものと捉え、これらへの参与行動の総体(「束」)を「生活構造」と定義する。その上で著者(山本)は、鈴木広と三浦典子が文化体系の内面化を生活構造の要件としている点に異議を唱え、本書においては要件としない、と決断する。その決断の根拠となっているのがシンボリック相互作用論である(「補章」)。この意味で本章(と「補章」)は「鈴木広・三浦典子に対する挑戦」という側面も有している。個人と社会が「集団・社会関係」を介して「相互浸透する」、その様相を解明することが社会学の使命であると示唆した上で、著者は「集団」把握をめぐって再び富永と対峙する。①「共通性の意識」、②「共通性の内部での相互作用」、③「共通性の内部での持続的な相互行為」という3つの指標をもとに、集団把握を「厳しい定義」(①+③)、「緩い定義」(②)、そしてその中間(①+②)に分類し、後2者を社会学のあるべき集団把握として提案する。言うまでもなく「厳しい定義」とは富永による集団把握を指す。

 次に前者について見てゆこう。冒頭でも述べたように、本書は「入門の入門」という形をとっている。i)第1章、第2章前半が「『入門の入門』の入門」、ii)第2章後半から第7章までが「入門の入門」、iii)第8章「社会調査」と補章「生活構造論」という、3部構成をとっている。i)が本書の総論としての役目を果たし、ii)がいわば各論となっており、同時にii)を“総論として、「地域社会」(本書第2章後半→シリーズ第2巻)、「家族」(第3章→第3巻)、「福祉」(第4章「ジェンダーとセクシュアリティ」+第5章→第4巻)、「環境」(第7章→第5巻)の4巻が後続する体制が採用されている。i)を読了後、ii)の各論(≓“総論”)のいずれかに進み、最後にiii)を読む。これが編者の勧める[a]本書の“読み方”である。例えば、後続巻の予定されていない第6章「差別と民族」では、在日コリアンに対する民族差別を例としながら差別に関する基本概念が説明されている。通常、日本において差別とは、ある社会集団の成員から別の社会集団の成員に対する、集団帰属に基づく「不当な[1]区別」とされているが、時にこの「不当な区別」が“不当ではないもの”として正当化されることがある。著者(木下)によれば、在日コリアンに対する差別で見た場合、そのメカニズムは次のように説明できる。すなわち、「支配集団」(マジョリティ=「日本人」)と「被支配集団」(マイノリティ=「在日コリアン」)との相互作用において、支配集団が自集団の「集団規範」に基づいて、被支配集団との差異を否定的に価値づけることによって、「不当な区別」の正当化が行われている、と。ここでキー概念となっているのは「集団」であるが、その「集団」を先の「厳しい定義」で捉えてしまうと、「在日コリアン」という事例(133頁以下)を集団概念で扱うことが困難になってしまう。なお、本章末尾で言及されている「バイパス仮説」(145頁)は、当為としての脱差別化を探究するための足がかりとなっているが、これは他ならぬ「社会関係」概念を軸としたものである。

 以上のように、本書は、海外の学説をもとに、社会学の主要概念を配置し、事実上1冊で完結するという標準的なテキストとは異なり、あくまで日本固有の学説を総論とした、シリーズ全5巻で各論が名実ともに完結する、という極めて独自な内容と形式を持つ教科書である。とはいえ、本書はまさに、この2つの独自性の連関に難点を抱えている、と評者は考える。評者が強く印象づけられたのは、「入門の入門」と「『入門の入門』の入門」との関連付けの弱さである。本書が研究書であるならばこれは大きな難点となる。とはいえ、本書が「教科書である」点を踏まえるならば、その弱さはむしろメリットとなり得る。すなわち、後者に示される諸概念を「感受概念」(Glaser and Strauss, 1964=2023: 109)として使いながら前者を読むことで、読者の一人一人が独自な“読み方”を実践得る、そうした可能性に本書は開かれている。紙幅の都合で第2章後半以下の各章に関する検討結果をほとんど示すことができなかったが、この点については、まさしく“本編”(後続4巻)のそれぞれに対する書評の登場を期待したい。

 Glaser, B.G., and A. L. Strauss, 1964, Awareness Contexts and Social Interaction, American Sociological Review, Vol.29(5): 669–679. (山口健一ほか訳、2023年「自覚文脈と社会的相互行為」『経済学論集』100: 93-114.)[b][c]


[1] 原文、傍点。http://y-anz-m.blogspot.com/2019/06/google-document-v.html 

[a]奨める

[b]2500字ジャスト!

[c]日本社会分析学会(2024年)『社会分析』第50号、所収予定。