北広次郎文化交流資料編

<Mina Japan Center Clubでの英国ポッブ・アーテイストやミュージシャンとの交流>

<ハリウッドスター主演女優クリスチン・スコット・トーマスとサム・フランシス画伯夫人のマーガレット・(スミス)・フラシス画伯は従姉妹同士>

Margaret Francis & Kristin Scott Thomas

Mina Japan Center Clubでの英国ポップスターとの親善交流が始まると、BBCや英国民放TV局の番組映画制作プロデユーサー達から、日本や日本人の登場が必要な場面作りに協力して欲しいという強い要望が舞い込むようになりました。

 

ここをダブルクリックして下さい➩➩ (MINAジャパン・センター・クラブ訪問スター)

若い頃 マンチェスターのPOP  GROUPと一緒に歌を創って録音したりしてた時代があります。その頃 私達のスタジオで私が創って録音させたPOP の歌曲があります。当時一時期、私は レゲに凝っていました。 私がチャンポン言語で、歌詞を作り私がメロデイーを口ずさんで好き勝手に若い英国人POP仲間と遊んでいました。そして私は英国マンチェスター市に現地の英国人・日本人の方々の強い要望があって MINAジャパン・センター・クラブを創りました。

そこには往年のPOP GROUPやスター達が,プライベートで常時集ってきてパーテーをやって大騒ぎしてました。 参考までにその頃交流していた時代の写真とかサインをkの下に添付挿入しておきます。英国のBBCやITV民放GRANADAなどの映画制作も10本以上プロデユーサーや監督達に頼まれて手伝いました。主にその映画の中に日本人が登場する場面の日本人エキストラを集めたり、日本のセットをデザインして造ったりでしたが、そのなかの何本かは日本でも上映されたようです。 制作に関係したTVドラマ映画は『COAST TO COAST』  『BODY AND SOUL』  『STERLING』 『SMALL WORLD』 などでもう題名憶えてないのが多い。 だが『BODY AND SOUL』 と 『SMALL WORLD』 の二作だけは絶対忘れません。その理由は『BODY AND SOUL』 の主演女優クリスチン・スコット・トーマスはノーブルな暖かい美人女優で、なんとこの作品ではないが、翌年同じ女優が主演した『ENGLISH PATIENT』 がハリウッドで、アカセミー賞の9部門を総なめにしてしまったのです。

正確にいうと『BODY AND SOUL』 は4回シリーズのTV放送ドラマですから、アカデミー賞の対象にはならないが、もしこれが 映画だったら『ENGLISH PATIENT』 より凄い文学的作品です。和訳すると『肉体と魂』ですが、今内容を説明してる時間がないから、はしょって紹介すると、修道院の美人尼僧が倒産しそうになった英国ヨークシャー州の親と兄の経営する羊毛紡績工場を救済するために一時聖職から世俗社会に戻ってきて、経営建て直しに奔走尽力してる所へ、日本から幸い多くのバイヤー団体が買付けに工場訪問してきて、経営が立ち直ると言う筋書きですが、その間バンカーやらから求愛されるが、俗世を振り切って再度修道院に戻る。途中、火災事故があり、自殺した従弟の葬儀の墓場から修道院に戻ってゆく。アカデミー賞を総なめにした『ENGLISH PATIENT(イギリス人の患者)』なんかよりはるかに中味の濃い優れた作品だったのです。TVシリーズドラマでなく、一本の映画だったら、こちらの方がアカデミー賞に値いするものでした

『BODY AND SOUL』 のバーンシュタインが創ったテーマ曲の美しさと心地よさは格別で、哀愁と至福の名曲の連続です。外国映画『ここに登場する日本人エキストラ達は、どうも普通の俗っぽいエキストラとは違う品のあるいい雰囲気で、いったいどうやって、どこで どうやって集めたのかしら? と首を傾げていましたが、やっとそのわけがわかりました。』 とに日本へ帰ったエキストラの一人に会って話を聞いた時、そういったという後日談が伝わって来ました。

このエキストラは、私がマンチェスターにいる日本人駐在員の奥様方や留学生女性に、私がお願いして26人位、バスを仕立てて隣の州のヨークシャー工場に行って撮影したものでした。ほとんどが日本人女性で、男は五本の指以下でした。 工場内の機械稼働中の撮影以外に、夜会歓迎パーティーのシーンがあって、その時の主演女優クリスチン・スコット・トーマスは、もともとノーブルな顔つきの女優さんですが、その優雅さと自然にこぼれる微笑は生来のものだとみな感心しました。だまって立ってるだけでオーラが溢れてる。それで自然であり普通で、決して造ったものではない。流石に大女優だと思いました。

実は私が家族ぐるみの古い付き合いをしている英国の親友家族は、リバプールの広大な農場主ですが、そこの長女マーガレット・スミス(マギー)は女流画家です。日本でも二科展に二回入選していますが、後に米国人の抽象画の大画伯サム・フランシス(SAM FRANCIS ネット索引可)と明治神宮で結婚して<Forcus誌にも掲載されてMargaret S.Fracisとなった。>ロスのサンタモニカにある昔はチャーリー・チャップリンの別荘だった屋敷に、二人は別々にアトリエを持っていて、それぞれの作風と個性を尊重し、お互い干渉しない約束で、夫婦でも別々に作品を描いていました。そのワイフのマーガレット・フランシスは北 広次郎の出版した本〖ミスター ようろっぱ〗の挿絵画家でもあります。主演女優クリスチン・スコット・トーマスと画家マーガレット・フランシスは従妹姉同志である事がわかったのが、なんと、マーガレットの母親のカトリック教会での埋葬の葬儀の時でした。マーガレットは滞日中にはNHKラジオの英国紹介番組のレギュラー担当でしたが、マーガレット・サッチャー首相が北京から訪日した時、インタビューを放送しています。 また彼女の大作の二科展入選の絵がNHK会館に購入されました。もう一つ付記しますと、彼女は英国ウインチェスター大学で絵画科を出ましたが、その後に声楽科にへ入りなおしてオペラもやっていて、NHK外国人のど自慢大会では銀賞を獲得しました。その時に唱った歌は美空ひばりの〖悲しい酒〗でした。Sam Francis とMargaret Francis についてはインターネット上で検索できます。Sam Francisは世界的に超有名な米国人画家です。また〖北 広次郎〗ないし 〖ミスターヨーロッパ〗 を検索するとその中にアトリエの写真が記載されています。サム・フランシスの作品は日本では出光美術館にも所蔵展示されています。草月会館にもあると聴いています。サム・フランシスの先妻は、実は出光石油のオーナーの娘さんでした。後妻が私の出版本の挿絵画家でもあるマーガレット・スミス・フランシスでした。

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<Pop Artist天才デイビッド・ボーウイ宇宙ボーイ・バットマン>

        

        

その他の画像

デヴィッド・ボウイ ミュージシャン

  1. デヴィッド・ボウイは、イギリスのマルチ・ミュージシャンであり、俳優としても長いキャリアを持つ。2000年、雑誌『NME』がミュージシャンを対象に行ったアンケートでは、「20世紀で最も影響力のあるアーティスト」に選ばれた。 映画監督のダンカン・ジョーンズは息子

イングランドのマンチェスター市には世界的に有名なサッカーチームが2つあります。

マンチェスター・ユナイテッド(MAN-U)と マンチェスター・シテイー(MAN-CITY)ですが、私が丸紅テクマテックスの社長時代には、マンチスター繊維機械展示場の事務所はマンチェスター・ユナイテッド・サッカー・クラブ球場の直ぐ近くでした。

私が開設した「ミナ・ジャパン・センター・クラブ」には、デイビッド・ボーウイ(David Bowie)がマンチェスターのサッカー場で特別公演をする時、開演前にあるものを球場控え室まで送り届けて欲しいという注文がマネージャーから入って来ました。

デイビッド・ボーウイは、夕刻空中ヘリコプターからサッカー場のど真中のステージに、バットマンみたいな格好で、宙吊りロープで降りてきてから球場コンサートの公演が始るのです。ただその前にミナ・ジャパン・センター・クラブがデイビッド・ボーイ公演メンバーに寿司の折詰20人前を出前で配達して欲しいという注文が入ります。それが着かないと公演を始めないのでした。ある夕刻に交通渋滞で届けるのが遅れた時、公演の開始時間が40分伸びてしまいました。サッカー場に集った観客達は開始時間の遅延理由を知らないでじーっと待ってました。その間、司会者がアナウンスでジョークを飛ばして引き延ばしに大変苦労しているているのが気の毒でした。多分彼が日本公演の時も寿司に関して同じ事をしていたのではないかと思います。彼は当時宇宙に憧れており、宇宙をテーマにしてる時期がありましたから、バットマンになってマンチェスター・シテイ・サッカー・クラブの球場のど真ん中にヘリコプターから宙づりで降臨してくる発想を演出してのでしょう。当時彼は、チャイナ・ガールという曲で中国人女性と舞台で共演してましたが、英国人のファンが私に<彼の彼女はチャイニーズだよ>と教えてくれました。とにかく彼の演出の発想の変化のすざましさは異才で偉才で天才かもです。全米ポップチャートでマイケル・ジャクソンを抜いたのは、彼の飽くなきエンターテイナー・アーテイスト魂の追求というか圧倒されます。

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<これが本当の宝刀のサッカーの大天才・ジョージ・ベスト>

<彼の人なつっこい個性の魅力にファンは酔った。こんな桁外れのサッカー選手は今となっては夢幻影のレジェンド!>

ジョージ・ベスト        

ジョージ・ベスト(George Best, 1946年5月22日 - 2005年11月25日)は、イギリスベルファスト出身の元サッカー選手北アイルランド代表であった。ポジションはフォワード(ウイング)。マンチェスター・ユナイテッドにおいてボビー・チャールトンデニス・ロー等と共に「聖なる三位一体(ホーリー・トリニティ)」あるいは「黄金のトリオ」と呼ばれて1960年代に一時代を築き、それまで労働者階級のスポーツであったサッカーにおいて階級を超えた人気を博した[1]。アイドルのような容姿とピッチ上の活躍からエル・ビートルや5人目のビートルズと呼ばれた[2][3]。マンチェスター・ユナイテッドに在籍した11シーズンでリーグ優勝2回を果たし、1967-68シーズンには28得点を挙げ得点王に輝いた[4][5]。1968年にはUEFAチャンピオンズカップで優勝して史上最年少でバロンドールを受賞している[6]

今ではかつてマンチェスターのレジェンドになってる往年のサッカー・スター選手が二人いました。それはジョージ・ベストとベッカムでした。ジョージ・ベストの活躍した最初の時代は、まだ日本にはプロサッカーがない時代でした。そしてその頃、欧州のTVはまだ白黒時代でした。ジョージ・ベストとベッカムととどちらが、サッカー選手として上であったかとうと、間違いなくジョージ・べストであったと言いたいです。二人とも、ずば抜けたサッカー選手でしたが、最も二人の時代にはずれがあります。ジョージ・ベストは本当に天才で、サッカーの為に生まれて来た伝説的な男でした。生まれは北アイルランド島のベルファースト。どういう天才かというと、大のアルコール好き、地元に居るときは市内のナイトクラブやデイスコやパブで明け方まで飲んでいて、翌日の試合に登場して、相手ゴールに一人でボールを蹴込んでしまうのです。一般人と飲んで気さくで、まったくスターぶった所がまったくなくて、夜の世界でも一般ファンとまったく壁を造らない人気者でした。私も日本から来たお客さんを接待して、クラブで一緒に飲んでた事もありましたが、一体いつ睡眠をとったのか不思議でした。みんな同じことを言っていました。しかし試合に出場すると実に得点王になるです。ちょこちょこと走り回っているかと思うと、あっという間にどんな角度からも別に特別に無理してるわけでもないのに、ちょこっとシュートしてゴールに入れてしまうのです。ベッカムもそうでしたが、著名なスター選手になると契約金のせいか最後は米国のチームに移籍する傾向があります。

二人ともロスのチームにスカウトされました。英国のマンチェスター市の二大チームはマンチェスター・ユナイテッドのオーナーはテキサスの石油王、マンチェスター・シテイのオーナーがアブダビで石油王国、ロンドンのチェルシー・チームのオーナーもロシヤ人の石油財閥アブラミコビッチです。ジョージ・ベストが米国へ移籍してしまって、英国のファンはがっくりして惜しまれました。ベッカムの時もまったく同じでした。純英国人のサッカー選手はスター選手になっても、余りヨーロッパのチームには移籍したがらない。行くなら米国へ行ってしまう。

それは米語国でも訛やアクセントの違いはあるが、一応母国本家の英語は通じるからのせいかなと思うのです。サッカー・ラグビー・ゴルフなどの発祥地は英国です。ブラジル・アルゼンチンのような中南米系の選手は英国チームに移籍して来ても割合短期で欧州大陸へ又移籍するケースがほとんどです。英国はサッカー発祥地の本家宗家のプライドがあることも確かですが、ヨーロッパは国境陸族大陸国家が多いので人種が雑婚してる国であるが、四海八方海洋孤島国の英国島は、ちょっと欧州大陸国とは異なる気風があります。それはサッカーにも現れています。サッカーはもともと、英国産業革命の産物で、ワーキング・クラスという労働者階級からボール一つ蹴り合う遊びから発祥したスポーツだと言います。ゴルフもスコットランドのセント・アンドリュースのそれに対し、牧場で羊飼いの牧童が杖で石ころを打ち飛ばしていたら見えなくなったので、探しに行ったらモグラかウサギ穴の中に落ち込んでいたので、それを牧童仲間で遊ぶゲームから始まったという起源説もありあす。いずれにせよ英国起源のスポーツは実に数多い。英国ではヨット・ボート・乗馬・射撃・ポロ・スクオッシュ・テニス等王族貴族や有産階級から発生したスポ−ツも実に多い。野球も英国のクリケットや三角ベースから発祥してるといいますし、アメフトもラグビーで米国化されたものであるといいます。数多くのスポーツの発祥国だけに、英国は大人であり泰然自若として構えています。角界も今やモンゴルを始め国際化してきて、今後ますます大多数が外国人プレイヤーになりますでしょう。やがてはオリンピック種目になっても良いでしょう。柔道や空手にしても、今や国際的スポーツ化した現在、日本だけのお家芸だといって気張っているだけではこれからの世界は収まらない。国際化するスポーツは、それだけ世界に認められたという証拠です。サッカーもラグビーもゴルフも英国発祥のスポーツであり、今や英国のみのお家芸だという観念は英連邦王国人にはありません。しかし、国際スタンダードとルール面では英国が押さえています。ですから日本発祥のスポーツでも国際本部を日本に置いて、主要国に現地本支部を設置してFIFAのようなピラミッド型ネットワークを構築すればいいでしょう。その運営法もFIFAパターンに倣う。英国はその大先輩国です。

そこでサッカーに戻ると、ジョージ・ベストの場合は晩年が実に変わっていました。サッカーをリタイヤしてから、身分を明かさずロスアンゼルスで気ままな隠遁的な老後を過ごしていました。最後はロスアンゼルスのダウンタウンの路上でホームレスのように行き倒れになっていたとも言います。検死立会いの時、髭ぼうぼうで、かつての奥さんも、それが自分のもと旦那であった事も見分けがつかないくらいだったたようです。ところがこの遺体は英国に搬送され、国民葬として、ロンドンそしてかつてマン-Uで天才ぶりを発揮したマンチェスター市、そして生まれ故郷の英国領北アイルランドのベルファスト市の三カ所で大大的な国民葬が行れ、そのいずこでも熱狂的ファンが大挙押し掛けてきました。ロスでは野垂れ死に同然だったのですが、英国へ戻った物言わぬジョージ・ベストは国民的英雄として扱われたのでした。ジョージ・ベストは決して大柄の選手でなく、平均的な英国選手でした。ただ対戦相手のゴール前では、シュートが絶妙なマジックで、ちょこんと蹴っただけでほんの僅かの隙間を巧みに突き抜けて、ボールはゴールに吸い込まれてしまうので、あっけにとられました。1960年代は、まだ日本にはプロサッカーリーグがなかった頃で、白黒TVしかなかった時代でした。私の創設した繊維機械展示ショールームはマンチェスター・ユナイテッド・サッカー球場のすぐ近所だったので、試合のある日はオフィス前のスペースはサッカーファンの無料駐車場になってしまい車が止め放題で、外出から帰って来て自分や社員達の車が止めれないという大変迷惑を被ったこともしばしばありました。しかし近所なので、マンU球場にもサッカー以外の事でも色々とお世話になりました。

このマンチェスター・ユナイテッド・サッカー球場の大ホールで開催される保守党大会に招かれたり、オリンピック級の旭化成などが行った日本人選手3名を含むマラソン大会のゴールに球場を使わせてもらったりしました。その日の球場の観客席には英北西東部日本人会家族応援団を集めて子供も含め日の丸の旗を振って応援して貰ったりしました。トップはダークホースの東独の選手で、球場に入ってから英国人の二位の選手をゴール寸前で抜いたのが北川選手、4位がまた日本の選手でした。これはBBC-TVで実況放送されてました。レース中は、宮崎コーチを乗せて私が車を運転して、ポリス車と走る選手の前後脇で声援を送っていました。私は球場に入る寸前車を駐車場に入れねばならず、コーチには先に球場内へ飛び込んで戴きました。球場内へ入った日本人選手はもう三位だと思い込んでいましたが、マンーU球場の球場の一周コーナーのゴール寸前で、劇的な二位争奪戦が演じられて順位が逆転し、旭化成の北川選手が胸一つ差で三位から二位に逆転しました。私はその場面は、駐車中で観られませんでしたが、その後夜のTVニュースで観ることが出来ました。そのゴール前の観客席には現地の日本人家族家族団が日の丸を振って、大声援を送っていたのが、北川選手が最後の力を振り絞った原動力になったそうです。レース後、控え室のにゆくと北川選手の両足首以下の先の部分はまるで凍傷のように完全に濃い紫色に腫れ上がっていて、見るのも気の毒でした。又ある時は日本から国広富之さんとかの俳優を含むサッカーに絡む映画ロケ隊が来て、その球場使用許可を取る交渉をして上げて、二軍選手に混じってのロケ撮影に使わせて戴いたり、球場建物内大ホールで和食立食パーテイを開催させて戴いたりとか多くの事に利用させて戴きました。そういう球場との近所付き合いにつきましてては又次回に致します。

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 <ダイヤモンド・テキスタイル・デザイナーのマウサーが造る

セレブ・スポーツファン・ハット情報>

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私はロスのビバリーヒルズのロデオドライブにある百年の歴史を持つ「Kazanjan」という大宝石商と「Mausser」というダイヤモンド・ファッション・デザイナーを訪ねていました。前者は歴代のハリウッド・スター達を顧客に持つダイヤモンド大宝石商です。しかし今回は特に私の長い個人的友人である後者の「Mausser」について説明します。1995年画伯夫妻サム & マーガレット・フランシスをロスのサンタ・モニカを訪ねていた頃ロスの友人の紹介でジェイソン・マウサー(Jason Mausser)と知り合いました。最初はジェイソンの先祖の事など、全然知りませんで付き合っていました。そして私が英国から日本へ出張する時に、日本に来ないかと誘ったら、彼は東京に飛んできましたので、京都嵐山の染め物工房へ連れて行って着物柄の染師奥田幽斉に会わせたりしました。そのうちにある日彼の祖先の事を偶然知るようになりました。そして日本人の知らない歴史を又々発見しました。

ネットで,<Mausser Gun> を検索されるとわかりますが、彼の先祖が第一次世界大戦以後米国へ移民する前の先祖は、オーストリヤのハプスグルグ家の兵器工廠長官兄弟である事が判明したのです。クリミヤ戦争、第一次大戦、二次世界大戦で軍隊警察ハンターに使用されて来たマウサー銃の弾奏装置の発明国際特許をもっていたのが、このMauser(=Mauser)兄弟でした。ドイツ語名はモーゼルで.モーゼル銃は全世界で使用されていました。日本も例外ではありません。11世紀から続いたハプスブルグ王朝は第一次世界大戦まで続きましたが、近親結婚が続き壊血病などに悩み、最後には継者がいなくて血統が廃絶しました。マウサー家は、新天地を求めて米大陸へ移民することになりました。そこで銃の弾奏装置特許製造技術を応用して、平和産業に切り替え、米国でダイヤモンドカット研磨機を製造しました。その末裔がJason Mausserというダイヤモンド・テキスタイル・ファッション・デザイナーのロスの古い親友です。彼を京都に連れて行って染め師奥田幽斉に会わせたり、三越本店やに連れて行ったこともあります。

 2013年10月ロスに出張した時に、丁度サム・フランシス米国全土巡回展が開催されてることが分かって、早速ロスから隣の市へ行って、久しぶりに今は亡きサムの作品をじっくり見学してきました。かつてサンタモニカの工房の壁一面にぶら下がっていた作品もあり懐かしいものでした。当時私は彼とワイフのマーガレットの別々な工房の作品を全部8ミリビデオで撮影してありますので、その頃の作品は全部覚えています。彼は色彩の魔術師で、宇宙をテーマにしたりする独特な作風です。「Sam Francis」、「 Margaret Francis」を検索してみてください。その知りあいのJason MausserはネクタイとT-シャツを製作しております。スカーフに小粒のダイヤモンドを取り付けた繊維デザイファッションをデザインした製品を全米にバスケット販売しているのですが、ハリウッドのスターの顧客を有しています。しかし、彼の特徴はサッカー・アメフトスーパーボール・野球・ゴルフ・テニス・ラグビー・乗馬・カーレース・バスケット・などのあらゆるスポーツファンの特別なハット(帽子)を製造販売しています。これにはオプションで、全部小粒な一個ないし二個のダイヤモンドが装飾されています。このファッションハットのデザイン製造で、それぞれのチームと接触があります。それでサッカー・アメフト・野球、バスケットなどのファン用のステイタス・ダイヤモンド・ファッション・ハットをデパートや専門店に卸してきた関係で、チームや選手の事を熟知していますので、ジョージ・ベスト、ベッカム、タイガー・ウッズ、モハメッド・アリ・マイク・タイソンなどをよく知っていました。なのでスポーツ選手の動向などは、彼からよく聞かされてきました。またスポーツ以外にハリウッド・スターのファンクラブや文化団体のハットやネクタイやスカーフやステイタス、T-シャツなどがあります。

北 広次郎  UK