これが国境時空を超えた遺志の英断維新の会であります。日英友親交会結成促進にむけて同志をつのります。

岡見清直の遺志により、岡見清直伝記の映画化を薦められたのは、少なくも25年以上前でした。

同じくも、ドイツ軍の捕虜になった元日本人で英国貨物船の水夫だった「K」からも、岡見清直と同じ遺志を私は預けられました。どちらも世界大戦による運命のいたずら?かもしくは神の配偶によるものか?

生涯を海外で生きることに宿命づけられた実在人物の話です。

海外に長く住んでいる私には、なぜか自然にそういう日本人の方々が私の周りに集まって来ました。そして、こういう方々にも稀代な人生のドラマがあったことを知らされました。

私は今日、ライフワークとして歴史の原点に戻り、日英(米)友親交会促進運動を推進しております。その応援団支援団の方々が一人でも多く増えて下さる事を英国から祈っております。御支援緒お言葉が戴けましたら幸いです。

この中に登場する人物たちは、私に深く関係し、そして私が自身が深く関わって来た方々であり、先祖の関係者でもあります。国境を越えて、時間を越えたとしても歴史の真実は必ずそこにあります。また人間一人一人に、誰にもがそれぞれの人生と歴史があります。以下に述べます方々も、過去のある時代に地球上で生きた証があった事を素直に認め、受け入れたいと考えます。

その方々の遺志がそこにある限り、受け継いで伝えるべく背中を押されています。日本国にも鎖国の時代を過ぎて、開国のマグマがほとばしり出た時代がありました。そして、その変遷のドラマを彼らの遺志を継いで、この事を国内外にお伝えしたい!と誰かが強く私の背中を押していると今こそ感じています。最近、日本国のアイデンティティーが薄くなってきていると日本から訴えて来ている方々が増えています。私は日本を離れて永いのですが、皆さんの声をお伺いしたいのです。

私は海外で知遇を得た日本人で、海外に生きた人々の実例を5つ知っています。そういう人々は、みな謙虚で、日本では余り自分のことは、話したがらない人々ばかりでした。私がその語り部にならねば、将来の日本を担う次世代の日本人が産まれて来ないのではと考えます。そしてその事が、日本国のアイデンティティーの消滅にますます拍車をかけているのではないかと危惧しています。幕末明治の歴史の原点に回帰し、そして現状を建て直す為の努力を戦後から70年経った今日、行いたいと考えております。

また、薩摩藩19人の留学生団体を英国へ一遍に送り出すという英断を実践した年が1865年です。その年は、日本近代化英断元年であり、2015年はその英断元年から数えて150年目にあたります。その意味で、次に説明しご紹介申し上げます。英断という歴史の中に生きた数々の実例を、国境・時間・時空を超えて見つめ直して戴きたいと切望する次第です。これらは国境と時空を超えた遺志による「英断維新の会」であります。以上を何卒、御理解戴きたいという一心であります。

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私はこれだけの資料を自分で集めて研究したり、他から聞き取る為に歩き回って調査したりしました。ここに至るまで考えてみたら30年以上かかってしまいました。英国女王家に次ぐ、16世紀からの英国最高位である大貴族のモンタギュ家と知遇を得て、その現代藩主から可愛がってもらってきました。ある日、この大貴族に連れられてゆき、隣にある38万坪の公園の中に位置するロスチャイルド・パレス内の離れにある別荘で紹介されました。この38万坪の土地を産業革命後期にウイーンから英国に移住してきたロスチャイルドに分譲したのは、モンタギュ公家の三代前の藩主でした。

それからこのモンタギュ公家のある一帯を英国のハンプシャー州といいますが、その南岸に位置するイングランド島南最端部にある港湾がサウスハンプトン(Southampton)市とまたそれに隣接するポーツマス(Portsmouth)市であります。ソーザンプトン(Southampton)市はいまでも日本郵船などの貨物輸送が集まるコンテナー基地がありますが、幕末に長崎神奈川などの日本港湾都市と結ぶ日英航路の英国側玄関港湾市でもありました。

今日、ポーツマス(Portsmouth)市とサウスハンプトン(Southampton)市のサッカー・クラブには、吉田麻耶選手が所属しています。隣のポーツマス(Portsmouth)市はかつて薩摩藩の東郷愛之進(後の平八郎)が海軍の勉強の為に留学していた場所です。この港湾から車で20分前後で行ける内陸部にあるウィンチェスター(WINCHESTER)市にウィンチェスター大學はあります。

ここにはかつて、米国国務省で戦後日本復興に大きな貢献をして来た私の先輩であり親友の岡見清直が創立した頌栄女子学院(Shoei-Winchester Woman’s College)があります。

岡見清直が米国留学先に選んだカラマズ(KALAMAZOO)大學の校誌英文記録を入手しましたので、それも添付して起きます。写真を見て戴けばお分かりになるかと存じますが、第二次世界大戦・太平洋戦争、戦前戦中戦後に私のポン友だったキヨ兄貴分は米国に留学中、たまたまアイルランド移民の末裔で、実家が家具商の娘である大學の二年後輩であったルイーズと結ばれ(fall-in-love)て結婚しました。そこで突然に予想もしなかった日本軍による真珠湾攻撃が勃発し、彼一人米国に残されてしまいました。そこから紆余曲折に満ちた数奇なる清直の稀代な人生ドラマが始まったのです。

江戸っ子の一世でありながら、戦後にアイゼンハウワー大統領やニクソン副大統領から始まり、ケネデイ大統領、ニクソン大統領、レーガン大統領などの米国における大物大統領と米国国務省で関係を持つことができた日本人は、米国外交史上後にも先にも岡見清直しかいないのです。これはある意味、奇跡的人物です。そしてこれはすべて実話であります。

まさか戦後に日本の復興をまず米国側から支え、その後に英国やアイルランド共和国側などから支えることになるとは、最初留学生として米国に渡った頃の清直自身にはまったく思いもよらぬことでした。

戦後の岸信介や河野一郎など政治家達による訪米時には、岡見清直自身が米国側の国務省でニクソン副大統領の通訳官としてアテンドを致しました。又、戦後における日本復興事業の一環として「シテイ・オブ・トウキョウ」、「シテイ・オブ・ナゴヤ」、

「シテイ・オブ・オオサカ」というプロペラ4発エンジンの民間旅客機3機を一機づつ米国大統領の命により、米国務省内の日本復興担当官としてハワイ、ウエーキ島経由でパイロット達と共にはるばる日本へ運んで来ました。これにはマッカーサー日本占領連合軍最高総司令官も関与していました。戦後間もない羽田はまだ、ただの野原で、そこに掘立小屋があるだけでした。外にあるポールの上に、短い小さな鯉のぼりのような吹き流しが風に吹かれて舞ってただけで、それはとても寂しい光景だったと言ってました。

しかし、この3機から日本初の国営民間旅客航空会社、即ち現在の日本航空(JAL)が発足したのです。その米国務省の手配で、米国から寄贈された航空機を日本へ運び、日本航空会社の設立に対し貢献を後押ししたのが、岡見清直です。今日、そのことを知る日本人はほとんどいませんでしょう。その他、多くの事で日米間の架け橋として、日本の戦後復興の為に米国側から大きく貢献してくれましたが、そのことについて日本ではあまり知られていません。戦後、マッカーサー最高指令長官のもとで日本に駐留していたのは主に米英連合軍でした。

その頃に日本の呉に滞在していた英国人のコルタッチ少年兵は、英国で戦後に退役兵士に対する教育支援の特別法によって政府育英奨学金を得て、ロンドン大学の東洋学部に通うようになり、私の良く知るフランキー先生の教え子になったのです。

英国人のフランキー先生は、小樽高商で英文学の教鞭をとり、後に静岡旧制高校へ移って英文学の教鞭をとっていたが、真珠湾攻撃が勃発したことにより、交換船で米国へ移送された後にコロンビア大で教鞭をとり始めました。.

日本人であるフランキー先生の奥さんは、北海道の生まれで地主の娘さんでした。フランキー先生の教え子だった日本人学生達が全員で荷物を全部造って、日本人の奥さんを最後の交換船に乗せてました。一足先に交換船に乗せられて渡米したフランキー先生の後を追って米国へ送り出したのです。奥さんは渡米に際して北海道の両親から大反対されましたが、「私と戦争は全く関係ない。私は愛する夫のもとへ行きます」と言いそれを押し切りました。

真珠湾攻撃直後で、これが最後の交換船でしたが、旧制静高の教え子達に背中を押されつ形で乗船し、日本を離れたのです。フランキー先生は、それだけ生徒達に慕われていたのです。そして後にフランキー夫人は、ロンドンでお習字の先生として、草書楷書の習字読本を出版されており、その本をロンドンにあるフランキー先生の自宅で私は見せてもらいました。しかし、その頃にはもう、奥さんはお亡くなりになっておりました。先生宅にある応接間の壁面には、亡くなった奥さんの書いた和歌の短冊が50枚以上ぶら下げてあるのは、実に壮観であったのを記憶しています。このフランキー先生の助手をしていたのが、これまた欧州で破天荒ともいえる数奇な運命を辿り、戦後に「西洋の早川雪州」ともいわれ、欧州で俳優になった日本人のK機関手でした。

Kは、第一次・第二次世界大戦を英国P&Oラインの民間貨物船で水夫として乗り込んでいました。第一次世界大戦勃発時は、貨物船の甲板掃除の水夫見習いでした。英米や欧州では、戦時緊急徴用法により、戦争が始まると民間の商船、貨物船、旅客船、漁船が自動的に自国海軍へと徴用されます。それによりK水夫の乗っていた英国の民間貨物船は自動的に、英国海軍に編入されてしまいました。そして第二次世界大戦でも同じことが起き、大西洋を英国貨物船で航行中にアフリカ西海岸沖で、ドイツ海軍駆逐艦の攻撃を受けて撃沈されてしまいました。そして船員水夫は海上に投げ出されて、ドイツ軍の捕虜となりフランスのボルドーにある戦争捕虜収容所に送られてしまったのです。そこでKは、勇敢にも英国人捕虜仲間と共に脱走しましたが、農家がある林に隠れてるところをドイツ兵に発見され、再度連れ戻されました。

そこで、アイゼンハワー欧州方面連合軍最高指令長官の指揮下であった陸海空ノルマンデイー上陸大作戦の総攻撃が開始され、ドイツ軍は壊滅的に敗退を喫し、欧州側の第二次世界大戦は、1945年4月にヒットラー総統が自決して無条件降伏したことにより、終結したのです。そして捕虜収容所に収容されていた米英軍8千人余の戦争捕虜が解放され、日本人のK水夫(正確には その頃は見習い機関士になっていた)も解放され、晴れてロンドンに帰還しました。

K水夫は、民間人水夫でありながらも捕虜収容所で行った「あるとてつもない出来事」で、戦争捕虜とドイツ軍士官との双方からヒーローと見做されるなったのです。戦後、この事が英国の大新聞に採り上げられて、一躍演劇や映画に出演することになりました。K水夫は、北京五十五日という映画にも出演しています。ユダヤ系英国人の俳優ジェイムス・メイソンに可愛がられて、ハリウッド映画でも共演するようになりました。戦後に伊丹十三、三船敏郎、石原裕次郎などのヒーロー先生として、彼らはロンドンに訪問の際には「K先生に是非お会いしたい」と言って、次々に訪ねてきました。そして、日本の著名スター達によりKは日本にも招待されています。

それから「麦と兵隊」など一連の戦争小説を書いて有名だった火野葦平も、是非K先生の事を小説に書きたいとして、ロンドンに訪ねて来た一人でしたが、Kはこの申し入れを拒絶しました。

私はKの晩年に長らくお付き合いしましたので、Kは直接私に彼の生涯を記録して、何らかの形で後世に残すようにと遺志を告げられました。既にKの遺志によるその原稿を私はすでに書き上げてありますが、発表はまだしていません。

欧州での第二次世界大戦は1945年4月に終結しました。独軍の戦争捕虜収容所から解放されてロンドンに戻ってきてから、Kは英国の新聞にも大々的に報道されたましたが、帰還した捕虜の仲間には国営放送BBCのプロデューサー達もいました。それにより、KをTV放送や映画などにも引っぱり出したのです。

たまたま、彼はかつて日本で教鞭をとっていた過去があり、北海道の地主の娘で書道の先生だった日本人妻を娶っていました。そして日本を愛していながらも、真珠湾攻撃勃発のために不本意な形により交換船で日本を離れざるを得なくなっていました。そしてその後に渡米し、一時米国のコロンビヤ大に職を得て教鞭をとっていました。やがて終戦前に故国の英国へ帰りました。そして、当時ロンドン大學東洋学部で教鞭をとっていたフランキー先生が、Kを助手代わりの個人秘書にしていました。

後年に私はKから直接聞いたのですが、彼は一度だけ、フランキー先生と口論したことあったというのです。それは、当時1945年5月に、フランキー先生がKに向かって「太平洋側の日本の戦争も秋前には必ず終りますから見て居なさい」と言ったらしいのですが、その時にKは「なんでそんな事断言できるんですか?」と言い返したという。しかしその時にフランキー先生は、原爆投下計画の事を既にコロンビヤ大教授仲間から情報を得て知っていたらしく、それ以上は何も言わなかったと言っていました。

この頃の実に興味深い歴史の裏話があります。

戦後の米国大統領に就任したアイゼンハウワーは、一貫して原爆使用に反対をし続けていました。当初、原爆はドイツに落とす予定でした。ドイツからスイスを経由して米国に亡命し、プリンストン大學で教鞭をとっていた二人のユダヤ人原子物理学者のアインシュタイン博士とオッペンハイマー博士が米国政府に研究の依頼をされました。

最終的には、オッペンハイマー博士が原爆の開発責任者になり、産軍を指導して開発を急いでいました。しかし、アインシュタイン博士自身は、開発主任者になることについて、ためらっていいたようです。戦後にアインシュタイン博士は、日本で最初に原子物理学で中性子を発見し、また日本人で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士を誘い、原爆に反対する平和委員会を結成しました。

そして最終的に、原爆開発の総責任者はオッペンハイマー博士が就任しました。そして結局原爆の軍事利用において、世界で最初の一発は1945年8月6日広島に、そして続いて三日後に、太平洋戦争にとどめを刺した二発目が長崎に落下されました。

日本国は8月15日に昭和天皇がラジオで全国に向けた玉音放送により、ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏となりました。戦後、日本の大都市は焼け野原となり、そこには缶を手に物乞いをする白衣の復員傷病兵と、親を亡くして物乞いをする浮浪孤児達がたくさん大都会にはあふれていました。

田舎から都会へ向けて闇米や麦・芋などを運ぶ闇屋が、列車の連結器の上にまで乗り込むような姿もありました。警察は闇屋を取り締まるとは言ってましたが、これは暗黙の公認みたいな笊法で、闇の食料を食わねば生きられないという時代がきました。法を守ったポリスが、栄養失調で餓死したことがニュースになった時代でした。とにかく焼け跡の闇市場には、闇物資を売る人々と闇物資を求める人々が蟻集していました。日本国は復興再建を目指してはいたのですが、戦後日本国の都会地はまだ爆撃跡がそのままで、混沌としたカオスの時代でした。

ところが、戦争時代は終ったと思っていた矢先、ほどなく隣国で北朝鮮が中国共産党軍と共に、朝鮮半島境界の北緯38度線を越境して、南朝鮮である韓国に突然侵攻を開始しました。このことが発端で、本格的な朝鮮南北戦争が勃発してしまいました。

この対戦処理を迫られていたのが、その当時日本にいたマッカーサーSr.元帥でした。そこでマッカーサーSr.元帥は、朝鮮半島に対する原爆使用を主張して、ホワイトハウスとペンタゴンにその同意を求めていました。しかし、終戦後のアイゼンハウワー大統領はその要請に対して許可を出さなかったのです。そしてマッカーサーSr.を解任しました。当初の来日時点では、こわもてだった彼は、在任中に段々と日本人に親しまれ、最終的には日本国民に惜しまれながらも、寂しく日本を去って行ったのです。

戦争はあったにせよ第二のペリー来航とも言われながら、戦後の日本国を大幅に改革したその評価に対しては異見もあります。しかし、焼け野原と廃墟と化した日本国を、米式のデモクラシー国家に近づけるべく改変した功績は、認めてもよいのではないでしょうか。物事を後から批評批判するのは、当事者の状況を知らない岡目八目でなら誰でも出来ます。しかし「雨降って地固まる」と言う格言の通りに戦後は日米英関係のなった事は事実であるように思います。

コルタッチ少年兵と同時期に、日本の呉港に米軍少年兵士ウイリアムはいました。彼も朝鮮戦争に参加しており、除隊後に米国の退役若年兵士を対象とした育英奨学金資格を得ていました。そしてロンドン大学に入学し、経済学を学んだ後に、その時同級生だった英国人女学生と結婚しました。このウイリアム夫妻に出会ったのが、スイスのツエルマットという雪深い田舎町だったのですが、この場所は冬場には欧州全土や米国などを含む全世界からスキーヤーが集まって来る名所です。その場所でスキーヤー用の登山電車に乗る寸前に私に突然話しかけてきた背の高い米国人がいました。そして突然、その長身の男が列に並んだ私の背後から「イッチローを知ってる」と話し出したのです。私は当初、それはその当時にシアトル・マリナーズに所属していたイチロー選手のことだと思っていました。そのスキーヤーは、欧州人のスキーヤー仲間と一緒でした。

後で分かったのですが、この男は米国人の大學教授で、私達にこう話しかけたらしいのです。「イチローは短期間の留学だが、ロンドン大学の受講コースに入って来たので、過去に教えた事がある。」それを聞いた私達は、首を傾げてしまいました。 そして、良く話を訊き直してみたら、「イチローってシアトル・マリナーズの野球選手じゃなくて、今の日本の首相のことだよ」というのことでした。

参考までにいいますと、横文字で記載する外国人は「Jun」という発音が苦手です。特に英語圏の人々にとっては尚更です。スペイン人などラテン系の言語民族は、「J」は「H」と同類の発音したりします。「Jun=ジュン」は、「Hun=フン」になってしまいます。フランス人は、「無音のH」と言って「H」には「音が無い」として発音しないことになっています。「花や鼻」は、「HANA」とローマ字で書きますが、実際の発音は「アナ」になってしまいます。昔、世界的に有名な女性シャンソン歌手のイベット・ジローが訪日した際に、サービスで日本語の歌詞で「リンゴのアナとサクラのアナとアナとアナとが・・・」と唱っていました。北海道のことを「オッカイドウ」と発音するフランス人は「HA  HI  HU  HE  HO」を「アイウエオ」と読みます。英語圏の人は「Jun」という言葉の先頭に「Ichiro」のように母音が来ると舌を噛んでしまいます。それに加えてアクセントをつけますから「Jun」は発音しづらく、聞き取りにくいのです。なので聞き手にとっては、アクセントを「イ」に置くことになり「イッチロ」としか聞こえないのです。とにかくウイリム先生はマッターホルンを目前に望見しながら、私の友人スキーヤーと共にイタリヤ側へと滑降して行ってしまいました。ウイリアム先生はツエルマットに別荘であるマンションの部屋を持っていて、私は夜にそこへ招待されたので、訪ねて行ってみました。そこには経済学教授の奥さんもいて、神戸には日本人の大學教授の大親友も居るとい言い、私を歓待してくれていました。

ウイリアム先生も朝鮮戦争時代は、まだ少年兵で日本の呉市に駐留していましたが、退役後に米国の退役兵士育英資金制度でロンドン大学に留学し、やがて同級生の英国人の奥さんと共に経済学博士の学位を取得した後に左右法の教授となり、現在はカリフォル二アのバークレイ校で夫婦共に経済学部教授として教鞭をとっていると言っていました。夫婦が同じ大学で経済学の教鞭をとるというのは、珍しいと言えば珍しいケースだと思いました。美味いワインを御馳走になり、話が弾みました。日本では信州白馬や北海道訪へスキーに行ったこともあると言い、奥さんが日本で撮った写真のアルバムを見ながら歓談の夜を過ごしました。

ウイリアム先生曰く、「ある時、私がロンドン大學で教えていた短期コースに日本から海外諸国を回ってる途中だという学生が入って来た事がある。それがジュニチローといって、ちょっといやだいぶ風変わりな学生だったな!」というコメントをつぶやいておりました。「風変わりって一体どういう点が?変わったっていたのですか?」って訊きたかったのですが、その晩は遠慮しました。

その頃、ロンドン大学にはフランキー先生も教鞭をとっていましたし、フランキー先生のK助手もまだいた頃でした。また偶然ながら、私の娘2人もロンドン大学にいましたので、ここでも「SMALL WORLD」だなと内心思っていました。

岡見清直もイングランド島の南端にあるサウスハンプトン(Southhampton)港湾市と、その隣に位置するかつては薩摩藩の東郷平八郎が留学していたポーツマス(Portsmouth)港湾市と同じ地区にあるウィンチェスター(Winchester)市に頌栄ウインチェスター・ウーマン・カレッジを創立しました。そしてそこの学長に就任して、日本の頌栄女学院院長である弟さんと共に名誉博士号を授与されていました。この領地の藩主はロード・モンタギュ(Lord Montague)という名前で、16世紀からの英国副王の家柄です。そこは英国古城十選で国宝に指定されている名城で、中にはビューリー・パレス(Beaulieu・Palace)があります。そこの城主で藩主であるモンタギュ公と私は30年近い交流があります。

歴史的に辿って見ると、元々はロンドンのバッキンガム宮殿とはモンタギュの宮殿でしたが、モンタギュ公が現エリザベス二世女王の先祖に、当時の金で一万イギリス・ポンドで譲渡したものです。それから現在の大英博物館も、もともとはモンタギュ博物館でした。大英博物館の背後に位置する出入り口側にある通りの角には「Montague Place」という道路標識が掲示されています。

博物館前の表通りには「Montague Street」という標識がかかっています。その横に隣接しているのが、ロンドン大学正門玄関口です。つまりここら辺一帯の地域は、16世紀以降の歴史を溯ってみると、昔はほとんどモンタギュ公家の敷地内だったということを示しています。当時、モンタギュ公家は、英国王を凌ぐ財力を持っていました。その理由は何故かといいますと、16世紀まだ英国の国教であるプロテスタント系キリスト教が存在しなかった時代でした。エリザベス一世女王の父であるヘンリー8世以前の

英国王家に次ぐ英国副王の地位だったのがモンタギュ公家でした。それは、ローマ法王に繋がるカソリック教の英国における総本山であったからです。

大英博物館とロンドン大学の本部は隣り合って密着しています。1865年の慶応元年に、薩摩藩士19名が団体で英国のロンドン大学に留学しました。そのうちの16名が団体で入学したのが、ロンドン大學でした。他の3名はお目付役の年配者でした。その2年前に、長州ファイブが5名で英国に密航してはいますが、19名という「団体」がまとまって英国に留学渡航したのは、この時が初めてです。その時、日本はまだ海外渡航御法度の時代でした。この渡英した留学生達が帰国後に明治時代における日本の近代化を実際面と実利面で支えて来たのはいうまでもありません。

私の先祖である尾崎三良は、三条公嫡男公恭と毛利公嫡男と一緒に慶応四年=明治元年(1868年)に長崎から出帆しました。60日後には英国島の南端にあるサウスハンプトン港に到着し、そこへ一泊した後にロンドンへ向かっています。ここら辺にある港湾市や古城、ウィンチェスター大学のある地域などは全部16世紀に溯るとモンタギュ公の領地です。

シェイクスピア作の戯曲で名作中の名作と言われた「ロメオとジュリエット」は、世界中の国々で演劇や上演で使われており、何度も映画化もされて来ています。ロシヤの二大巨匠であるチャイコフスキーとプロコフィエフによってオペラ化もされています。そしてこのシェークスピア劇中の台詞(セリフ)には、何度も「おお!ロメオ!!!ロメオ・モンタギュ!!!」と繰返し連呼されています。

次に、今一つ注目すべき事があります。それはモンタギュ公家は英国の大航海時代に、世界で最大の帆船造船所を有していたことがあります。そして英国の大航海時代が始まり、キャプテン・クックは三回もハワイに遠征しています。

また、インドにあった東インド会社の貿易に使用されてた大型帆船も、ここの造船所が建造しています。当時、世界最強と言われた「アルマーダ・ナポレオン大海軍」をトラファルガー沖大激戦で打破したネルソン提督が乗船した当時においては世界最大級だった旗艦船を建造したのもこの造船所でした。又ここで製造された帆船は、日本が江戸時代にあたる頃に英国の東インド会社が強大な貿易権拡大を計るため、インド洋からシナ海を経てマカオ、香港や上海までにも来航し、時には沖縄近辺にまでも来航していました。

世界中の子供でも知ってる「サンドイッチ」なるパンで挟んだ料理も「モンタギュ・イン・サンドウイッチ公」が

発明したものです。元々は彼が城内の厨房に命じて、急遽作らせた簡易食が起源でした。

戦後にフランキー先生は、日英米の親交に尽くした功績を認められ、昭和天皇から授勲されました。フランキー先生は、戦後コロンビア大學から故国である英国のロンドン大學へ移って教鞭をとっていました。しかし、日本の終戦後に勃発した大事件は、朝鮮の南北戦争でした。そして、かつては朝鮮戦争参戦のために呉市に駐留していた英国人のコルタッチ少年兵が退役後に、日本への関心が更に深まったことから、ロンドン大学の東洋学部に入学してきたのです。そしてフランキー先生の下で日本学を学んだのです。かつて日本で一英軍兵士だったコルタッチ少年兵は、なんとやがて外交官となり、在日英国大使に任命されて、日本に駐在する事になったのです。これも何という「SMALL WORLD」なのでしょうか?

フランキー先生の個人助手兼秘書役は、私の良く知る元貨物船のK水夫だったのです。まだそれだけではありません。フランキー先生が、書道の先生をしておられた北海道の小樽出身である奥様を亡くされてから、高齢になられて掃除洗濯食事に不自由することになったので、通いのメイドさんを募集しました。そこに応募してきたのが、ドイツ人の祖父を持ちドイツ系の血を引く日本人女性の「弘子さん」が、先生のお世話をすることになったのです。当初、私はそのことについて全く知りませんでした。弘子さんは、来英当時にはまだ小学生だった息子さんの聖寿君を英国のリバプール近辺にある寄宿制のカトリック学校で教育したいと、ある日一念発起して、それまで大阪で経営していた喫茶店など全て売り払い、英国マンチェスター市にやって来ました。

当時、私が英国北西東部日本人会の会長だったので、相談を受けました。そこで、しばし弘子さんの面倒みたり、アドバイスしたりしました。そして英国人の新聞記者と国際結婚して、その後に離婚していた日本人の「哲子さん」のお宅へ逗留するためのお世話を依頼したりしていました。やがてロンドンに移住し、着物の着付けや書道を英国人学生に教えてると聞いていましたが、まさかフランキー先生のメイドになって、家事を助けてることは、ずーっと後になって知り、世間は全く狭いなと驚きました。私の周りでは、私が知ってる人々達が国境を越えて、何故か知らぬ間にみんなどこかで結びついているのが不思議に感じてしまいました。

岡見清直は、その公私に渡る全生涯を私に語り、記録させ、自ら書いたメモランダムも渡してくれました。その岡見清直の生涯における出来事について、私から後世の日本人に何らかの形で伝えておいて欲しいという遺志を残していました。

岡見清直の祖父は、福沢諭吉に「私は女子校を創るから、君は男子校を創りなさい」と言って「慶応幼稚舎・慶応義塾」を創らせたのです。 「福翁自伝」の中で、蘭学に熱心だった旗本の岡見家について諭吉が少しだけ触れています。

また岡見清直の先祖は、米国南北戦争に参加した唯一の旗本侍でした。この件はNHKがだいぶ昔にドキュメンタリーで採り上げた事があります。また、岡見清直が戦後訪日した際にNHKの放送に出演していたハワイアンバンドのデイック・ミネを訪ねて、

放送が終るまでNHKの外で待っていたことがありました。そこへ名物アナの高橋敬三が飛び込みで清直を放送に引っぱり出した事がありました。米国留学前に立教で学生ハワイアンバンド「ヒロ・ハワイアン」をやっていた時代があり、関口宏とも親友でした。戦後に日本に行った際、渋谷の松濤にある関口宏宅を訪れましたが、どてら姿で出て来た関口宏は病んでいて、気の毒だったが本人はとても喜んでくれたと言っていました。

また、戦前には加山雄三氏の父親である上原謙とも仲良くしており、上原は学生時代水泳部でバイオリンも弾いていたと清直は行ってました。ハワイアンの灰田勝彦や灰田晴彦兄弟ともバンドを組んでおり、ブルースの女王だった淡谷のり子姉御に、はっぱをかけられていびられていたとも言っていました。また、トランぺッターで戦後に進駐軍のジャズバンドで演奏していた歌手の森山直太郎の母である森山良子さんの実父が渡米の際、岡見清直が保証人になったとも申していました。戦後の時代は、外為法規制により庶民一般の海外渡航がなかなか容易ではなかった時代でした。

岡見清直の実家は、旗本で蘭学者の家柄でした。岡見の先祖は、自らは頌栄女学院を創立しましたが、福沢諭吉には男子校を創るように薦めたのです。それで諭吉は慶応幼稚舎・慶応義塾を設立しました。

ところが三条実美公の家臣であった尾崎三良は、慶応4年(=明治元年=1868年)に三条公嫡男公恭(当時15歳)、長州毛利公嫡男を連れて長崎を出帆し、英国イングランド島の南端サウスハンプトン(Southampton)港湾市へ60日後に到着しました。実を言いますと、尾崎三良は北広次郎の先祖にあたり、坂本龍馬や桂小五郎(=木戸孝允)の盟友でありました。三良は明治6年に一旦、木戸孝允の強い勧めで日本へ帰りました。三良は日本に許嫁がいたのですが、留学中に下宿先の英国ガールフレンドと恋仲になり、帰国すべきかいなかで懊悩していました。岩倉具視公と共にワシントンから大西洋を渡り、英国へ回って来た木戸が一旦日本へ戻らないと、日本における官職がなくなると忠告したのです。

何故懊悩していたかというと、英国人女性との間に女児が誕生していたからです。その女児の名前は、セオドラ英子と名付けられました。セオドラ英子は成長後に日本で英国公使館員として働いていましたが、やがて慶応幼稚舎、頌栄女学院、学習院小学部の英語教師として教鞭をとっていました。そして尾崎行雄(雅号:顎堂)に乞われて結婚することになります。尾崎行雄はその後東京市長になり、民権運動を興し、国会議事堂開設に尽力します。国会議事堂の中に「憲政の父」として尾崎記念館が現在でもあります。

尾崎行雄とセオドラ英子の間に産まれた女児の尾崎雪香は、学習院をでてから父の行雄と一緒に海外を回りました。行雄が東京市長時代に、米国のワシントンへ桜の苗木を沢山寄贈しました。これがワシントンDCのポトマック河岸に植えられた日本桜で、現在そこは桜の名物になっています。雪香はやがて、福島の相馬家に嫁ぎました。2009年の秋に軽井沢にある別荘で生涯を閉じました。たしか葉山だったと思いますが、相馬が所有する海辺にある別荘のお隣が、生前石原裕次郎の別荘だったと聞いた事がありました。

岡見清直の実家が頌栄女学院である事と、私の先祖である三良の娘「セオドラ英子」が頌栄女学院の英語講師をしていた事を頌栄女学院の学校史記録の中で発見したと岡見清直が私に報告して来た時には、私は本当に「世間は狭い」と思いました。岡見清直も「本当に私も驚いたよ。SMALL WORLD(英語では狭い『Narrow』でなく『Small』を使う)だなあ!!」と言っていました。

セオドラ英子は後に、日本風習文化を紹介する英語版の書籍2冊をニューヨークから出版しています。

岡見清直と私の間には、宿命的な奇縁の絆を感じざるをえませんでした。岡見清直氏が私に自分の生涯に関する全記録を託す遺志を抱いた背景には、私との間にあった宿命的な奇縁の絆から来る大きなモチベーションによるものであったことは間違いないでしょう。

私は、日本を離れて人生の2/3以上を海外に長く在住していた事もあって、故国に対して地理的には遠くても精神的には至近感で想うなど同類項であったことで、普段二人は相互に親近感を感じていたことも理由だと思います。このような日本人が世界に存在していて、戦後の日本復興に日本では目立たないように海外から貢献をしていたという実話を、多くの日本人に知ってもらうことへの使命感に私は背中を押されています。そして、これが岡見清直氏の私に託した遺志であることを今強く感じています。

尾崎三良が長州藩や薩摩藩に隠して貰い、最後には西郷達薩摩藩の勧めで、かつては菅原道真も亡命していた太宰府に三条実美公と隠れていました。そして大政奉還が実現し、やっと京都に戻る事ができました。1868年三条実美嫡男公恭や毛利家当主嫡男と共に、井上馨や大隈重信に会った後に長崎を出帆し、60日後にはイングランド島南端のサウスハンプトン(Southampton)港湾市に到着しました。その到着した日の新聞である「Southampton Chronicle」の記事を偶然に見つけましたので、御参考まで下記に添付しておきます。これも歴史的記録です。

最後にもう一つ、尾崎三良の伝記をロンドンの「GOLD CREST FILM PRODUCTION」(インド独立運動無抵抗主義者ガンジー

や OLYMPICの CHARIOT of FIRE等の名作映画を制作した所)と英国の 「YORKSHIRE TV」が共同で、ハリウッドのプロデユーサーと3シリーズによる映画製作の契約をしましたが、ハリウッド俳優労働組合のストライキが突入したことから、契約は自然解消になりました。当初は4、5ヶ月でストライキは解決すると皆思っていたのですが、なんと延び伸びになって、最終的には24ヶ月を越えてしまい、映画化は実現しませんでした。しかし、その時の映画化に関する書類は今でも保管してあります。また、原作北広次郎の名で原作権利保留費用3年間分は戴いてはいたのですが、映画化が実現しなかったことは本当に残念です。

北 広次郎  UK