『海を越える一〇〇年の記憶』図書新聞,2011年
松原勝「軍による『慰安所』管理は紛れもない事実」pp.109-127
1942年、第4海軍施設部軍属としてトラック諸島の夏島へ派遣された
― その夏島に「慰安所」があったのですね。
松原 南國寮と南星寮の二か所、同じような規模でね。(夏島の地図を指し示しながら)このチョンチョン橋を渡って海岸の方へ 出て左折すると四経、四施とあるでしょ、その先に三棟ほどの南國寮がありました。
源氏名でみどりさんという人がいてね、当時22歳っていってました。だまされてこんな所に連れてこられたってね。私がそこへ行き泊ると、泊まりを受けなかった女の子たちが3、4人集まってきて、いろいろ話をしてくれました。私はどこどこの出身だけど、親やきょうだいと引き離され、だまされてきたんだというわけですよ。人によってはね、子どもや夫にも引き離されてきたんだと泣いて訴えるわけです。高級将校のメイドにならないかとか、海軍病院の雑役の仕事だとか、30円くらいの月給で食事も泊まる所もただだから1年くらいこないかとね。でも、ここへ連れてこられて初めて仕事を知って心が裂けるように思ったと。ひどい話で、日に10人もの相手をさせられるとも言ってました。僕が第四海軍施設部の職員だと知っていたし、若かったからね、気を許していろいろなことを話してくれました。
トラック島の「慰安婦」は、朝鮮の女性がほとんどでしてね、私の叔母が朝鮮の方と結婚しているということや学生のころ朝鮮人の知り合いもいて、朝鮮人には特別な気持ちを持っていたことも関係していると思いますね。