言葉の魔術師 イエス   聖書 第4回

法話ライブ at  東京道場  2014年8月23日

聖書 第4回 マタイ伝第6章

法話:遠藤喨及

書き起こし:純佑

動画URL:

https://youtu.be/aJ5dgZtDjnQ


イエス様は言葉の使い方が上手いですね

いいことをする時は他の人に知らせないようにしてください、と言うわけです。

施しをするときは、右の手のすることを左の手にも知らせてはならない

こんなことを言われたらすごく印象に残るじゃないですか。

さすがに言葉の名人ですよね。

これに対してお釈迦様は沈黙で答えたりもする。

氣の名人かな? 氣で悟らせるわけです。

他の人に知らせないようにしなさい、というのは

我が満足してしまったらそこで終わりだからなんですね。

これは、ボランティア的なことをするときに出てくるテーマですね。

たとえば、何時間しましたとかね。

修行の世界もそう。

「座禅を10年やってきました」とか言ってもね。

それで人の気持ちがわかるようになったとか、

そういう徳が出てきたらいいけど、無かったら何年やったと言われても意味ないですね。

たとえば僕らが一生かけて人類のために尽くしたとしても、どれだけのことができたか、ということでしょう。

自分がやったことじゃなくて、どれだけ世界が変わったかとか、人がどれくらい変わったとか、そちらの方が大切でしょう?

苦しみの多いこの世界でいくらやっても、やったと言えるのか。

そういうことをズバッというのではなく、このように人に知らせないように、

エゴを満足させないように、というように言っています

祈りも隠れてしなさい、修行も隠れてしなさいと。

いいことをしてると思われないことがいいんです

これを仏教では陰徳といいます。陽は目に見える、いかにもやっていますということ

何そんな所で気取っているの、とか自分に対するツッコミをすればどっちでも同じですけど。

天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように

有名な言葉です。

自分たちの行為によって如来様がいらっしゃると他の人が気がついて

如来様が素晴らしい、ということが感じられたら御名が崇められるということですね

自分が崇められたってしょうがないからね

御国が来ますように

それによって浄土が感じられたら、御国が来たということですね。

御心が天で行なわれるように地でも行なわれますように

まさにその人が自分の行いによって如来様が現れるような生き方を

他に対してするようになったら、まさにそれが如来の御心ですから

そのようなお祈りをしなさいということです。

もしあなたがたが、人々の過ちを赦すなら、天の父も、あなた方を赦してくださいます

許すということはゆるむということですから、許したら解放されるわけです。

許すということは自分のカルマの解放でもあるんです。

自分がその人を許せたかどうかというのは

その人の幸せな状態を想像できて、それに心が委ねられるようになったかということでしょうね。

そういうふうになる、ということ自体が自分のカルマの反応でしょうから

それを赦せるということはカルマが開放されて原因そのものが無くなるわけです。

繰り返すと、自分のカルマによって他の人が自分を苦しめたりする現象が起こります。

それを許すということは自分のカルマの解放なんですね。

しかもカルマは、自分のとは限らず、人のカルマを受けているのかもしれない。

赦すことによって人類はカルマから開放されるわけです。

懴悔によって仏性が向上するように、赦しによって幸せが増加するわけです

あなた方は自分のために地上に宝を蓄えてはいけない

自分のために物理的な宝を蓄えないようにしなさいということ。

あなた方は自分のために天に宝を積み上げなさい

徳を積みなさいということ。

盗まれたりするような宝をたくわえても死んだらもっていけませんからね。

徳は取りようがないです。湧いてくるものです。

自然に他に与えるものが徳ですから

これがやっぱり徳の本質ですよね。

ほっておいても他に与えられていくという。

如来様からいただくということは他に出るということです。

だからずっと増えていくんですね。ありがたいことです。

これが天に宝を積むということですね

目は身体の明かりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。

これは物理的なことではなく、智慧のことですね。

2000年前に智慧なんて言っても分からない。

今だって「目が明かりか」なんて読み飛ばしちゃうから(笑)

心に残るのは無意識のほうがわかっているからです

だれも二人の主人に仕えることは出来ない。

あなたがたは、神と富とに仕えることはできない

後者の言葉が後々キリスト教徒を悩ませるんです。

富は絶対ダメだとそういうふうに思われてしまいました。

しかし、ずっと後ろに本質が書いてあります。

神の国と神の義を求めなさい。

そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

義とは真理のことです

そうすれば富も神もこの世のものが全て備えられる、と言うんです

これは本当なんです。

一見、悟りとかに往ったら物理的にはダメになってしまうという、人類のカルマティックな幻想がありますけど

本当は悟りとか真理に往くほど湧いてくるんです。

逆に物理的なものを求めるほど後で悲しくなるんですね。

こういう有名な話があります。

ある人がお金のために健康を犠牲にして働きました

こんどは治そうとしてお金を犠牲にしました。

その次は時間をずいぶん使ったのでなんでもっと今のために

生きなかったのだろうと悔やみました、で終わり(笑)

そんな風になるのだったら神と神の義を求めて一挙両得の方がいいと思いますね

人が一番求めているのは永遠の心の輝きや存在の輝きでしょう。

何をやったらそれが与えられるのでしょうか。

これは方法論の問題ではなく、逆の方向で見ないといけないです。

もしこのままの状態だったらどうなるの?という風に。

それを想像したら普通のコトをやってられないでしょう

時間をムダに過せますか?

今と同じことやっていて、同じ心の状態だったら未来がどうなるか…

これはもう人生をクリエイトするしかない。

死と向き合うというのはそういうことかもしれないですね。

死と向き合うのは仏教の基本かもしれませんけど

このままで満足して生きて死ねるのかという。

このままでいいやという生き方もあるかも知れないけどね(笑)

人によって違うし、わからないけど。

もっと堕ちようという人もいるかもしれない。

逆に堕ちるなら徹底的に堕ちるくらいの勢いのほうがいいと思います。

これもすごいエネルギーですから。

だから坂口安吾とかいわゆる無頼派というか自己破滅型の小説家は宗教的な所に行き着くんですね

芥川龍之介もキリスト教だし。

太宰治も最後は神はいるとか言ってました。

安吾というのはまず「あんご」というのがお釈迦様の時代の修行の期間のことをいいますからね

あの人面白い人ですから、印度哲学倫理学科なんかに行ってました。

(注)この意味の言葉は安居(あんご)

「いや、そのうち」とかごまかしながら行ってるとずっと「そのうち」がずっと続くというね。

自分へのツッコミが足りないと思います。

「大丈夫なんじゃない?」「まあ何とか」というのは一種の誘惑ですね。

何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。

自分のイメージのことで思い煩ってはいけないと言ってますね

女性には言いづらいですね。女性は着飾ってナンボみたいなところがありますから。

命は食べ物にまさり、からだは着物にまさるではないか。

空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。

それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。

大工の息子が仕事もしないでこんなこと言ってるから

何やっているんだ!? と思うかも知れないけど

鳥だってこうだから、オレだってというのもあったかもしれません。

あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれたものではないか。あなたがたのうち、

誰が思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。

悩んだって命が延びることもないし、何を悩んでるんだと。

また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、

考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。

ピューリタンの時代になると労働を尊んでますけど、もともとはこうですからね。

仏教も禅になってから働いてナンボになりましたけど、

今だってタイの坊さんは働かないじゃないですか。

もし世界中にお金があったら本当は働かないでやっていけますよ。

悩むということが使われちゃってるんです。

栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは、

すべて添えて与えられるであろう。

西田天香さんが便所掃除させてください、と一件一件回っていたらみんなが食べさせてくれるようになったということがあります。それで山科の一燈園を始めたんですね。

あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。

最後に心憎い一言です。

これは本当にうまいな、と思います

やっぱりこれは末永く残りますよ。

言葉の魔術師ですよね。

だから聖書を読むと面白いです。

聖書はぜんぶ仏教的ですね。ユダヤ教に出てこないもん。

だけどイエス様もユダヤ教からあまり離れないように、「これはユダヤ教の律法から来てる」という風に言って、一生懸命つなぐ苦労をしています

今日は色々でてきましたけど、

神の真理を求めたら全て得られる、それは御名が崇められますように、ということです

神名が崇められるようなことを我々がしたら御国、浄土がくるということです。

(完)