聖書 第12人間界で心を豊かにするためには                        

(マタイ伝第 24章

法話ライブ at  京都道場  2014年11月1日

法話:遠藤喨及 書き起こし:純佑

動画URL: https://www.youtube.com/watch?v=A0rWF6-F8NI


「律法の中で何が一番大切ですか?」そう質問されたイエス。二つ答えられました。

心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ

自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ

言ってみれば、神への愛と他者への愛です。

 

神への愛を抜きにした他者への愛は本当は成立しません。

これは色んな意味を含んでいますので、今言語化できる一つだけ説明します。

人間世界は相対世界ですから、右とか左とか、上とか下とか、過去とか未来とか、があるのは当たり前です。

ところがこれは当たり前ではないのです。

人間の世界だからそのように認識していますが、次元が変わった霊的状態、全く違う心の状態であれば全く違う世界が生まれます。

過去も未来も一つというか、

思ったことがそのまま現実になるのが人間以外の世界なのです。

人間の世界だったら思ったことと現実は乖離しています。

結局は一致しますが、タイムラグがあります。

 

タイムラグがない世界が本来の世界なのです。

悪念を出したら即、悪念のままに現象化されます。

ネガティブな心のコントロールがそのまま現れて苦しいのが地獄、餓鬼の世界です。

逆に、お浄土はポジティブが現象化するから素晴らしい世界なのです。

それが実に空ということであって、心のあり方によって念に応じて即現れます。

これが無量寿経に説いてある「お浄土は応念即現」の世界です。

お浄土にかぎらず、心と現象は不即不離の関係にあります。

 

人間の相対世界しか知らなかったり、それ以外を想像しなかったりすると、ついお浄土も地獄も、相対世界を前提に考えてしまいます。

実は逆で、人間世界が特殊なんですね

人間の意識を以って想像するから、相対を超えた世界を想像するのが難しいんです。

物質界に右とか左があるように、心の中にもネガティブな思いを前提としてポジティブな思いがある、というように必ず相対性があります。

相対性を超えることがない状態では、「他者に対する愛」といっても、誰もが持っている内なるネガティビティを処理しきれなくなります。

相対ですから、内にあるものは、必ず外に見るのです

 

他の人を見て素晴らしい!とか、光り輝く人だ、と思うのは、自分の内なる光を投影しているのです。

自分の可能性や、内在しているものを外に見るのです。

男性、女性だって同じです。

ユングのアニム、アニムスという世界があります。

異性を見て、素敵だな、と思うのは

男性の中に内なる女性がいて、その女性を投影してみています。

内なる女性のイメージに近い人に対して恋愛感情をいだきます。

イメージに近くなければそうは思いません。

女性も内なる男性を投影します。

 

ユングによれば心の成長に応じて、アニマ(女性像)・アニムス(男性像)のイメージは変化するそうです。

4段階あって精神的に最初の段階だと、マリリンモンローみたいなセクシーな女性が好きで、進化していくとマリア様のような方向に行きます。

女性も最初はマッチョマンが好きだったのが、だんだんガンジーとかリンカーンとかそういう方向に変化していきます。

 

相対な世界ですから、ポジティブなところも人に投影されるし、内なる処理しきれないネガティブも投影して人を悪く見たりします。

悪く見るだけじゃなく、非難したりします。

ネガティブは自分のものなのに。

ネガティブなものを共有している人は同じ人を悪く思いますので、「アイツは駄目だ」といじめたりします。

利他的な団体はどこの世界でも面白いことに、団体同士で結構反駁しあったりします。

反核の団体とかがそうだと、広島でちらっと聞きました。

イスラエルに行ったら平和活動をしている団体は反目しあって喧嘩している、と聞きました。

 

神への愛というのは一切を含みますから

あえて言うと、如来様と自分の関係だけになる、そこに他者の比較が入らない、というのが大事です。

自分の内なるネガティビティを認識しないと外に見ます。

自分はああいうところがダメだ、と認識していれば外には見ません。

内面のネガティビティはどうしたら認識できるかというと、如来様、神様と対面することにより認識できます。

どうして認識できるかというと、ネガティビティが完全に如来様に受け入れられている、最も最低の部分こそが愛されていると実感すると安心するからです。

 

外なる仏様、神様が気高く崇高に思えるほど、安心して内面のネガティビティは認識できます。

ネガティビティを否定しないから認識できるのです。

否定したら認識できません。

こういうことをしたらダメとか、こういうことを思ったらダメとか。

どんな自分でも愛されているという安心感があるからこそ認識できるし、

自分の光り輝く部分を投影して外なる神様を崇めるようになります。

 

自分という存在と仏様神様という存在という、内と外も無くなります。

無くなるがゆえに、外に素晴らしい神様と、極悪人としての自己という相対性が両立するのです。

自分が最低であればあるほど、すべて摂めとってくださる仏様がよりありがたく、より光輝いて、より安心感をもって見れるのです。

仏さまがより光り輝くということは、自分のネガティビティがより認識できて、さらにそれに対して安心感を持つということです。

ーー

また仏様は一切の存在を含んでいますから、その中に他者もいます。

 

そういうことで、神への愛=他者への愛であるべきなのです。

神への愛を説いて、他者は怖いとか、けなすのは本物ではありません

他者への愛を説いても神への愛が分からないと非常に表面的なものになります。

イエスのこの一言だけでもこれだけの話がでてきます。しかもこれは一つの側面です。

 

聖書の中には改ざんされている部分があります。

それがちらっと見て取れるところがあります。

 

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている、  

『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう』と。

このようにして、あなたがたは預言者を殺した者の子孫であることを、自分で証明している。

あなたがたもまた先祖たちがした悪の枡目を満たすがよい。

あなたがたは預言者を殺した者の子孫であることを、自分で証明している。

キリスト教はプロテスタントでも未だに教会の祈りの中で、イエスを殺したユダヤ人を弾圧するというような言葉を唱えるんです。

ほんとうは単にメシア、救世主として認めるか認めないかだけが、ユダヤ教とキリスト教の教義的な違いにすぎません。

ユダヤ人はイエスを殺したから報いを受けるべきである、というふうに聖書に付け足していくわけです。このように聖書には改ざんされているところも有ります。

 

どうして後々ユダヤ人が各地で弾圧されたり、ゲットーに入れられたりしたのか。

ナチスの時代だけじゃなく、中世の時代から徹底的な弾圧がありました。

ユダヤ人が子供を殺して血を飲むから、という噂をまことしやかに流して弾圧していました。

未だに教会はそういうことをやったりします。

ウィーンの近くに仏舎利塔を建てようとしたら、教会が「仏教徒を血を飲むから気をつけろ」というチラシをまきました。

そういうことをやっているからみんな教会を離れていくと思うのですが。

 

世の終りには、どんな前兆がありますか。

そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。

多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。

 統一教会とかは聖書のこういうところは読まないんでしょうか。

「私はキリストである」とか言っているカルトとかいっぱいあるじゃないですか。

 

イエスは凄いことを言っています。

また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。

多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。

また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。

 

エホバの証人は「この世が来るから信じている人だけが、アルマゲドンが来た後に永遠の楽園が来るから信じなさい」と言って家々を周るんですね。

 

天国は、ある主人が、その僕たちにお金を渡して旅に出たようなものである。

ある人はお金を埋めて、ある人はそのお金で儲けて、ある人はもっと儲けた。

主人が帰ってきてどうなった、というと

これだけ、もうけましたというと「素晴らしい、もっと沢山管理してくれ」と言い、もっと儲けた人にはもっと大きな仕事につけよう、と言いました。

心配だから埋めておいた人には「みんなで追い出してやれ」、と言いました。

(注:原文はやや長いので法話の中で簡単にまとめられています)

 

こんな喩え話、分かりますか?

教会の人はどう読んでいるんでしょうか。

 

おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。

我々、如来様からいただいているものがあります。

想いをもって集中してイメージして利他に励めば

因縁因果の法則で素晴らしいことが起きてきます。

タイムラグはあっても、如来様と同じように思いがそのまま現実化していく。

修行すれば自我から解放されて念がもっとコントロールできるようになります。

もっと心も豊かになります。

我々が生まれてきたということは、これだけの能力があるから頑張って実現しなさいと預けられたわけです。

 

「法身よりいでて、法身に帰る」(宇宙大霊から生まれ、宇宙大霊に帰っていく)と言いますけど、これを旧約聖書では、エデン(天国)にいたアダムとイヴが追い出された、と象徴的な物語になっています。

相対の世界に生まれるわけです。

中にそれだけのものを与えられているから人間として生まれています。

与えられている素晴らしいものを増やしていくようにすればより素晴らしい物を如来様が与えてくださいます。

 

旅というのは、実は我々が旅にでたということなんです。

人間として何の霊的な開発をせずに人生を終わってしまったら「お前は何をやっていたのか」とせっかくの能力を取り上げられてしまう、と考えられると謎のような喩え話の意味が垣間見えてきます。

修行をすればするほど霊的に開発されて与えられてきます。

地面の中に隠すというのは考えないようにする、自分の意識に登らせないということでしょう。

誰だって心の世界を開発していくというのは怖いですよね

世の中の言うことをそのままやっていれば開発されるわけではありません。

言いなりになっていたら人間界という特殊な世界に生まれたせっかくの機会が無になってしまいます。

そういう意味で言葉を残されたのでしょうね。

 

天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。

すばらしい、絶対的な自信ですよね。

神の世界に直結したところで語られた言葉とか行われた行動というのは、目に見えない世界でいろんなことを起こしています。

 

(完)