世の中、複雑になるばかりみたいだ。
こんなに複雑ではない方法で、子供には数の計算を教えてあげたい。
今どきの小学校低学年での算数の教え方は、ひと昔まえとはだいぶん違う。減加法とか減減法というやり方(たしひきざん、ひきひきざん、と子供達は言う)が指導要領に入って、教科書がそうやってるものだから、学校ではこの方法でやらないと修正されてしまう。だから、世の親御さんたちはどうしても「ウチの子はたしひきざんが苦手だ」と思ったりする。学校で評価されるにはそれが得意なことも大事かもしれないが、なにせ、小学生なんだから、ちゃんと楽にしかも早く正確に足し算と引き算ができるほうが、方法に習熟するより、よほど大切だ。
そうすると子供自身も、算数そのものが得意だという自信が持てるし、なにより数の概念をしっかりと身につけることができる。それはその後十数年もの学習全体に活きてくる。
そのための、すばらしく簡単な方法を伝授いたしますので、ご覧あれ。
疑問があればメールやコメントで気軽にご相談くださいませ。
《もくじ》
1、指を使うのは大切:親子たしざん
まず足し算を考えていこう。それには「親子足し算」という方法がいい。
子供が数の概念を学ぶ時に自分の指で1とか2とか認識するのは普通のことだし、それは自然なことでもある。だから足し算で、指を使って「1と3で4になる」と計算するのも自然なことだ。教育の初期に根本的で基礎的な概念を教える時は、この「自然さ」をできるだけ損なわないようにするのがなにより大切なことだ。すると、早く正確に概念を身につけることができる。
その「自然さ」が最初につまづくのが「位が上がる」ことになる局面だ。なぜなら指は十本しかないので、子供は自分の指で「6たす6」を計算することができない。そこでなんとかしようとして、えーっと6でしょ、それからまた6があって、と懸命に指を折っては考え込むことになる。計算は遅く不正確になる。そこで親や教師は「指を使わないように」と言うことになる。
でも、問題は「指が足りないこと」にあるのだから、それをおぎなってあげればいいのだ。
やり方は実に簡単。足りない分を親の指で手伝ってあげるだけである。
親子たしざん実践編:1(足した数が14までの時)
たとえば親がこういう問題を出す。
「6たす6は、いくつでしょう?」
その時に、こう続けて、下の写真のようにやる方法を試してみよう。
「じゃあ、6を出してね。お母さん(お父さん)がもうひとつ6を出すよ」
これで「それじゃ、6たす6は?」と言って、このように子供と手と手を合わせる。
(おや? 娘の右手が4みたいだけど、これは5です。見にくくてすいません)
まず、子供の「5の手」に、自分の「5の手」を重ねて一緒に元気に叫ぶ「じゅう!」
それから指と指をくっつけて、やはり元気に一緒にその数を叫ぶ。この場合は「2!」
それで「6たす6は12だね」と確認してあげればいい。
【やりかたの細かい点】
5の手を重ねて10にしたら、ギュッと握りあってもいいし、その重ねた手を上に上げたりしてもいい。ようするに「10だから、これは出来上がり」という感じを身体で表現する。
写真では、子供の左手と親の右手で「ひとケタ」を表現しているが、左右については子供が5を出す時にどちらの手になるかに合わせてあげることだ。自然なのが大事だから。
子供は「ひとケタ」の数については、親の指と自分の指を足して「4」になるまではたぶんパッと見るだけで答えてくれることだろうと思う。だが、それが「5」以上だと少し考えることになってしまうだろう。それについては次の実践編2で見てみよう。
親子たしざん実践編:2(足した数が15以上、19になるまで)
この場合は合わせた親子の手の「ひとケタ」のほうが、下の写真のようになることがある。
「9たす6は?」
そうすると、こうなる。
写真ではよくわからないが「4と1」なのである。でも、この場合はたぶん子供は「5」と答えられるので「じゅう!」「ご!」と言うことができるだろう。「4と1で5」はわかりやすい。
下の写真の場合はどうだろう?
これは「8たす7」なのだが、こうなると少し違う。
これで手を合わせると……
まず5の手と5の手が合わさって「じゅう!」。これは大丈夫だ。
でも、この「ひとケタ」のほうは少しむつかしい。それ自体が「3たす2」の計算だからだ。
そこで、こういうふうにしよう。
【やりかたの細かい点】
子供に、たとえばこの場合だと「おかあさんの指の2をあなたの手にうつそうね。おかあさんが指をたたんだら、あなたの指を立ててね」と言おう。そして、一本づつ、指を子供の手に移していこう。この作業自体も、楽しく元気にやるのがなによりだ。
すると子供は「あ、5になった!」ということになる。
つまり「15以上、19まで」をこの方法でやる時は「5」になる分を子供の手に移してあげるようにすることだ。たとえば「8たす8」の場合、ひとケタの方の手は「3たす3」という指の組み合わせになる。それを指を子供の手にうつして「5たす1」に換えてあげるのが大事だ。
なぜそういうふうにやるかと言えば、ただ子供に見やすくするためではない。
手というのは「5」と「5」で10になっている。つまり自然な認識では数というのは「5」が基本単位なので、たとえば「16」も「5たす5たす1」という認識だと自然なのだ。そのように「5」を基本単位として認識するためには、子供に指を移して「5」にするべきなわけだ。
慣れてくると、一本ずつ移すのではなく、たとえば上の写真の時だと、二本いっぺんに移すこともできるだろう。「せーの、で移そう。せーのって言ったらパーにしてね」と言って、親が二本をたたみ、子供がパッと「5」のパーにする、というやり方をすると、子供は面白がって、喜ぶと思う。「あ、ほんとにうつった」と思ったりして楽しいはずだ。
そのように、常に一方の手は「5たす5」の「10」であり、反対の手も「5たす○」という形にしてあげることが重要だ。するとそのうちに子供は5を基本単位として、四つの手で数えるという作業を、イメージの中でできるようになる。それがつまり「暗算できる」ということだ。
親子たしざん実践編:3 親(教える側)が留意するべきこと
たとえば、子供がいつまでも指を使わないと計算できないとしたなら、それは、実は「指」のイメージがはっきりとしていないからこそ、「頭の中だけでイメージを使って」計算することができないのだ、と考える方が良いと思う。身体を使った経験としてはっきりと心に刻み込まれたイメージは、それを「想い起こす」ことがしやすいものだ。
子供が10までの足し算はさほど問題なくできていたのに、「繰り上がり」のある、ひとケタ同士の足し算になったらつまづいたように遅くなったとしたら、それは、単純に「イメージするべき指の本数」が足りなくなったからだ、と考えればいい。その場合には、実は、繰り上がりのない足し算の時も「指のイメージ」がそれほど明確ではなかったのかもしれない。
上記の方法では「指を貸してあげる」ことで、その(四つの手の)イメージをはっきりと心に刻み込み、そのイメージを使えるようになる、ということこそが目標だ。
親(教える側)が指を貸してあげるのは、正解を出すためではない。いくつになるかがわかるためでなく、四つの手を使って数のイメージを持てるようになる(「5」を基本単位として)事が大事なのだ。だから子供が正解を出せるというようなことは大事ではない。むしろ、心に強く刻むために、すごく楽しく元気に遊戯のようにしてやる事が大事だろう。たとえば病院とか電車の待ち時間とかを親子でそのようにして遊ぶのが大事だと思う。
繰り返すが、まずイメージを子供の心に刻むことが大事だ。
イメージが強ければ強いほど「想い起こす」ことが簡単になるし、そうしてイメージだけで心に数と計算を思い浮かべられるようになると、だんだんと「手」は、ただの「5というユニット単位」のイメージに変わっていく。つまり抽象化されて、本当の「数という概念」になっていくのだ。だから、強く心に刻まれたイメージのほうが抽象化されやすい、ということがある。子供がつまづく時には、だいたい「十分に抽象化できるほど強いイメージを持っていない」せいだということが多い。そのような時こそ、いつまでも指にたよったり考えるのに時間を要するということになる。すると親などは、もっと(指とかの)具体的なものに頼らないで計算できるようにならなくては、と焦ったりしてしまう。しかしそれは事態を悪化させることが多い。
必要なのは十分に強く具体的イメージを心に思い浮かべられるようにすることなのだ。そして子供がそのように具体的にイメージを持つには「身体」の感覚、身体感覚としてそれを刻むのが一番と思う。おはじきなどを使うよりも、どこでもいつでも自分の身体感覚はそばにあるものだというメリットがある。とりわけ、幼少期の子供は身体感覚に強く支配されている面があるからこそ、それを利用して「数」と向き合うことが「自然」なのである。
それが「自然」なことであるほどそのイメージは強く心の中に刻み込むことができる。すると心の外で具体的なものに頼らなくても良くなる。そのためには、まず、いやになるほど具体的に指を使ってしっかりと心にイメージを作ることだ。上記の方法はそのためのものであり、決して計算の手助けや正解するための方法でないことに気をつけて取り組んでほしい。
答えられるようになった時が、この方法による教育が完了した時ではない。あ、この子の中にはもうはっきりとイメージがあるんだな、と感じられた時が完了の時であるとして、必要なだけ続けてほしい。それはもしかしたら時間がかかるかもしれないが、効果は飛躍的なものがある。
ちなみに、写真のモデルをしてくれた娘の場合には、ある時突然こう言った。歩道の手すりにブロンズの小鳥がとまっているのをジッと彼女が見ていたのだった。4羽づつが4つのかたまりになっているのを見て、いきなり「16だ」と言ったのだ。まだ五歳になったばかりだったのだが……それでぼくは驚いて「どうしてわかったの?」とたずねると、こう教えてくれた。
「5にひとつたりないのが4つあるでしょ。だからはじっこのからひとつづつかりて、5にしたら、5がみっつで、はじっこには1のこるでしょ」だそうだ。
ぼくが娘をたたえたことは言うまでもない。
こうして娘は「4たす4たす4たす4」もできるようになった。これは「8たす8」を計算できるより優れた成果だと思う。イメージがしっかりと心に刻まれると、親や教える側が意図する以上の展開を子供は自力で示してくれることがある。つまりイメージがあるということは「そのイメージを操作することができる」という全く新しい能力を与えてくれるものだからだ。
2、発展的なたしざんの教え方:親子筆算
こうして十分に四つの手を使ってのイメージが心に刻み込まれたら、そこで次に教えるべきなのは「20までの筆算」である。なぜかと言うと、筆算のシステムというのは「手を貸して行う指の計算」、つまり親子たしざんと似ているからだ。だからこれを親子筆算とよぼう。
親子たしざんでは「10」になった手は「別のもの」になる、ということを身体感覚で感じることができる。ぼくは「10」になって重ね合わせたパーの手を、ギュッとげんこつ握手で握り締めて横のほうへと持って行って「よけておく」ということをしていた。その「10」になった分が「ひとまとまりのもの」だという感覚を伝えたかったからだ。
筆算では、横向きに書かれた「式」とは違って、それぞれの数が置かれる位どりがはっきりとしている。そして、くりあがって位が上がると「数字が書かれるべき場所が変わる」ということが起きる。それが親子たしざんと類比できるイメージなので、ここで筆算を教えることは飛躍でなくてそのままつながった展開となるわけだ。そしてここで「位取り」を教えるのが大事だ。
筆算を初めて教える時には、ホワイトボードを使って、子供とふたりで同じ場所をのぞきこみながら教えてあげたり、子供に書かせてあげたりしながら、ひとつひとつ理解してくれたことを確かめていくのが大事だ。でも、親子たしざんの後だと、あんがいすんなりと受け入れてくれるので逆に驚くことになるかもしれない(もちろん子供により違うことだろうが)。
親子筆算実践編:1(一ケタどうしの足し算:位取りのことを教える)
まず親子たしざんをそのまま筆算にして書く、ということをして見せてあげよう。
「たすっていうのはこうやって『+』という字を使ってこう書けるんだよ」などと説明しよう。
たとえば
8
+ 7
ーーー
15
というものを書いてみせてあげよう。
この時点で、位取りという概念のことをもう教えてあげることが大切だ。
つまり「8たす7は? そうだね15だね」と言いつつ、たとえばそれぞれの位のところを点線とかで区切って(この限りでは、このエントリの冒頭に示したややこしい図と同じになる)それぞれのところが「一の位」「十の位」だということを説明しよう。そして「一の位」のところには「1〜9」の数を書き、「十の位」のところは10の個数を書くということを教えよう。これはこの時点で完璧にはわからなくても仕方ない。それを目指さないでもかまわない。
親子たしざんで「10たす10」をやってから、以下を書いてあげてもいい。
10
+ 10
ーーーー
20
そして「20は10が何個? 2個。じゃあ十の位のところに2を書くよ」と説明したら良い。そこは十がいくつあるかを書くところだから、と。実演しつつ多少わかればそれで構わない。
そして、すぐに「繰り上がり」を実演してあげると良い。つまり、こういう手順で書けばいい。
「8たす7は15だね。10になったぶんは、一の位には書けないんだよ。だから、お隣に『繰り上がり』します。十の位のところに行くってこと。だから一の位には書けないから、じゅうごの『じゅう』は、お隣に行きます。ここに『じゅう』の1を書きます」
大きく拡大した形でここに表記してみよう。
8
+ 7
1
ーーーーーーーー
5
このように書いてから、
8
+ 7
1
ーーーーーーーー
15
と書く。そうすると、ちょうど親子たしざんで「じゅう」になった手を別にしたのと同じようなことなのだ、ということが良く子供に納得されることだろう。だから、本当は必要のないことではあるが、親子筆算では、必ず「くりあがり」の「じゅう(1)」は、このように小さくここに表記するようにして、それから「だから答えは15」というようにして筆算する。
このようなことをホワイトボードで説明して、子供にやはりそこで練習をしてもらったら、次にはノートに筆算の問題を幾つも作って、それを子供に暗算で解答してもらうと良いだろう。そこで子供が悩んでいるようだったら、親子たしざんを二人でしながら一緒に答えていけばいい。
8 9 7
+ 7 + 6 + 5
ーーーー ーーーー ーーーー
ちょうど親子たしざんで行ったようなこういう問題を、筆算にして書いていく。
それによって「位どり」の概念を身につけることがここでは大切になる。
親子筆算実践編:2(ふたケタの足し算までのステップ)
親子たしざんによって子供が身につけているはずなのは、「5」を単位としてイメージを操作するということだ。だから、たとえば次のような計算はすぐにできるようにすでになっている。
12 13 14
+ 5 + 5 + 5
ーーーー ーーーー ーーーー
このような計算は、足し算する部分について言えば実に簡単だと感じてもらえる。そういうものを間にはさみながら、すこしづつ新たな「ルール」を身につけてもらわなくてはならない。ここでは筆算を学びながら、そこで「ルール」を通じて新しい概念を身につけてもらうことになる。
ここで身につけてもらう概念は「十の位の数どうしの足し算」ができるということだ。
この時に「十の位」は「1」のままだから、そのまま「答えの場所の十の位のところ」に書くというように、子供に認識してもらうように言葉をかけていくのが大事だ。
というのも、次には次のような「くりあがり」のある問題を解いてもらうことになるから。
16 17 18
+ 5 + 5 + 5
ーーーー ーーーー ーーーー
これを解いてもらう時は、ひとケタどうしの足し算の筆算と同じように、ちゃんと「繰り上がりの『じゅう』を書く」ようにしよう。するとこうなる。
17
+ 5
1
ーーーーーーーー
2
そしてこのように教えよう。
「十の位の数は、十の位の数どうしで計算するんだよ。だから、十の位には1がふたつあることになるでしょう? だから1たす1で、十の位はいくつになるかな? 2だね」
17
+ 5
1
ーーーーーーーー
22
さて、このようにして「くりあがり」と「十の位どうしのたしざん」の両方を、親子筆算のやりかたのルールに従って練習することで身につけると、今度は下のような計算もできるわけだ。
16 17 18
+ 7 + 8 + 9
ーーーー ーーーー ーーーー
これは「ひとケタの親子たしざん」「くりあがり」「十の位どうしのたしざん」のみっつの組み合わせからなる計算である。
親子筆算実践編:3(ふたケタの足し算)
さてここでいよいよふたケタの足し算のための最後のステップになる。今までの原則に従って次のような問題を解くことができることを教えてあげよう。
つまりこれは「十の位はどんな数でも入っていていい」ということだ。
22 35 48
+ 7 + 3 + 7
ーーーー ーーーー ーーーー
この三つ目の問題は難しいかもしれない。
でも、最初の二つは「くりあがり」と「十の位どうしのたしざん」が減らしてあることがわかるだろうか? つまり、少し退却してから、一部でもう少し進む、ということを組み合わせてあるわけだが、そのように「簡単」「難しい」を組み合わせ、わからないことは親や教える側がすぐに手助けをしてあげながら、それでも少しは発展するようにしてあげるのが大切なのだ。
ともかく、難しくしたり簡単にしたり(また「5」のユニットでの計算をすればいいように問題を作ってあげたりしてもいい。その時々に問題のレベルはそのくらい細かく設定することが、後での自然な理解と発展の役に立つ)しつつ、ここで次の各要素を組み合わせよう。
「ひとケタの親子たしざん」
「くりあがり」
「十の位どうしのたしざん」
「十の位はどんな数でも入っていい」
こうして、次のような問題が解けるようになる。
27
+ 8
1
ーーーーーーーー
35
これができるようになったら、いよいよ「本当のふたケタの問題」に挑戦だ。これは実は今までのすべてと同じ、上記の四つの原則で解くこともできるものなのだ。
27
+18
1
ーーーーーーーー
45
実はこれで終わりではない。次の問題には、それぞれに実は新しい要素が加わっている。これらそれぞれも、ひとつひとつ、今までの要素で考えることができる、ということを、問題を出してそれと向き合わせてあげることで、確認させてあげよう。
20 18 34
+15 +23 +10
ーーーー ーーーー ーーーー
たとえば左のは上の段の一の位がゼロになっていて、ゼロと5の足し算が新しい要素だ。真ん中のは、下の段のほうが大きい数になっているところが新しい要素。右のは下の段の一の位がゼロだというのが新しい要素となっている。
実は新しい要素はあっても、解くためのルールと原則は特に変化がない(ゼロの問題については若干の問題があるのだが、この項の最後の「補足」でそれについて説明をする)。答える手助けをしてあげてもちろん良いのだが、しかし、それがすでに子供にわかっている筈のルールと原則からなっていることを強調することがそこでは大事になってくる。
親子筆算実践編:4(足し算の仕上げ)
上の方法で足し算ができるようになったら「位取りの概念」を拡張して「百の位」までを教えたうえで、三ケタたす三ケタの足し算まで、筆算で、ある程度習熟まで練習することが望ましいと思う。「一の位」だけでは「位が増えた時のルール」は身に付かないが、「十の位」について学ぶ事で、「位が増えた時」のルールを身につけることができる。
毎日、十問に満たない数でいいから、ノート1ページぶんくらいの問題を作り解いてもらえばいいと思う。何もかもがうまくいっていれば、そのくらいの分量であれば子供は楽しんでやってくれるだろう。負担に感じないくたいのほうが良く身に付く。ただ間はあけないでやりたい。
毎日少しづつ、計算に新しい要素を加えていくことが大事で、すべてを同じような問題にはしないで、少し難しいかな、と思えるくらいのものを混ぜていくことだ。それでわからなければ親子で一緒に考えつつ導いてあげればいい。そのようなかかわり方と一緒であってこそ、良く身につくものだ。たとえば、適宜、たとえば下記ような筆算の問題を作ってあげると良いだろう。
428 305 491
+ 72 +195 +109
ーーーーー ーーーーー ーーーーー
上の三つの問題の答えはどれも「500」になる。どれも「500」であり、さらにどれもが違う数の足し算だ、ということがポイントになる。それに「500」ということは一と十の位は足し合わせるとゼロ、ゼロ、と二段繰り上がるということだ。さらに、真ん中のは上の段の十の位がゼロで、右のは下の段の十の位がゼロで、しかも百の位まで繰り上がっていってしまうのでゼロであることは足しても変わらないことになる。これはかなり高度な問題である。
この問題は「二段くりあがり」と「ゼロ」をめぐる学習を目指して作ったものだ。
そのように、数の持つ特徴をセットにして、問題という形で教えていく。
自分には、こんなふうに何かの特徴を取り出して問題を作ることはできないと感じるようならレシートか何かの数を適当に並べて問題を作ってあげればそれでいい。その中に、上記のような何かの問題があれば結局は同じことだし、それをその場で親子一緒に学べばいいわけだ。
このくらいの問題まで十日程度でたどり着いてかまわない。さっぱり身につかないということがあったら、また戻って、もっとやさしいところからやり直せばいいだけのことだ。やり直している時に、難しかったところのことが不意に思い出されて、急にわかる、ということもある。
そこで大事なのは、「くりあがり」の「1」を小さく書くなどの親子筆算の方法を崩さないということだ。子供は、自分がすでに教えられ知っているものだけで「問題を解決する」ことができると、それによって教えられた「ルール」「原則」への信頼というものを学ぶことができる。
それは実は帰納的な形で、子供が「自己の身体感覚への信頼」を学ぶことでもある。
それこそ子供へ大人が教えてあげられることとして最大の重要事であり、そのように身体感覚との連続性をたもった形で、計算といった行為ができるようになることが大事なのだ。そのためにはそれぞれの局面で、あたうかぎり子供にある「自然さ」を損ねないように教えなければならない。それは子供自身が「自分はこの(算数とかのあるややこしい!)世界に安心して存在してられる」という感覚を持つために大事なこと、ということなのだ。
教育の目的は、そのように世界に自立して存在していられる態度を子供に獲得させることだ。
補足:ゼロについてどう教えるか
娘が三歳の頃、いちおうは数を全部わかるようになって、それが得意でたまらなかった頃のことだが、ニコニコしながらクレヨンで「じゅういちだよ」と言って「101」と書いていたことがあった。こちらもニコニコしながら、本当だねアハハハ偉い偉いと笑ったのだが、このようにただ「10」という数の表記を知っても、その意味が何かはなかなか難しいものがある。そこで知るべきなのは、やはり「自然」な形でイメージするにはどうすればいいかということだ。それでは「10」というのは、なぜ「1」と「0」で表記するのだろうか?
この場合、歴史を知ることが役に立つ。
ゼロというものが人類史において「発明されたもの」であって、決して自然なものではないということを親(教える側)は心得ておく必要がある。それではどういう経緯でゼロは発明されたのだろう? 実はそれは「位取り」と密接な関係があり、そもそも位取りのための発明だった。
ゼロというものが古代にペルシアで発明された時に、実はそれは「数」ではなかった。それはただ位取りをするための記号で、ただ「・」で示されていたのである。
そこで、たとえばゼロがなかったら二百五という数をアラビア数字でどう表記できるか考えてみてほしい。「205」をゼロなしで書けば「25」になってしまう。そこでアラビア人はその位の数字が空であることを「・」で示した。つまり「2・5」と示した。
そしてこの「・」とは別に、アラビアには元々「無」を示す文字のような記号として「0」があったらしい。しかし、それはその元々は数字ではなかったらしいのだが、ある時この「0」を数字の「・」のかわりに使おう、と思いついた発明家がいたわけなのだ。
数が空の位を示す「・」という概念と、それまでに数学とは別のところで成立していたらしい無を示す記号としての「0」が結びついた時「数としての《0》」が発明されたわけだ。そこで教える側はこの「ゼロ」という数の概念が、以下の二つの概念の組み合わせからなるということを心得ておく必要がある。そしてそれぞれは、実は歴史的に別のものだ、ということなのだ。
①ゼロとは「数がない」ということを示す。
②ゼロとは「そこの位が空」ということを示す。
そして、実は「0」を理解することを難しくしているのは②の概念のほうであり、①のほうを子供はかなり楽に理解してくれる。そして②の概念は実際には足し算の筆算などを通して学んでいくことでしかはっきりとはわからないものなのだ。
そこで、子供には、たとえば数を教え始めたばかりの頃などに「10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、0!」とロケット打ち上げの遊びなどを通じ、ようするに「1」より「1」ほど小さい数字、つまり「無い」ことを示す数だ、とだけ教えればいいだろう。
そして親子たしざんで、時々は「ゼロ」を使って「6たす0は?」とやっておけば、子供には①の概念としての「0」はきちんと根付く。それで十分に筆算をすることができる。「0は何もないから、0たす6で、6だね」とか教えてあげれば筆算はできるし、そのうちに②の概念にも馴染んでいく。そのうち「ひゃくいち」は「101」で「じゅういち」は「11」だということを、当然のように理解できるようになる。「0」とはそうやって理解するしかない。
そのように回り道をする必要があるのは、そもそも「0」が表記上から出てきた不自然な数の概念だからなのだ(たとえば「80」は数としてあるが「08」は無いなど、説明しにくいものが「0」にはあるので、実際に位取りを計算の中で意識する中から理解するしかないのだ)。
3、引き算は「教えない」:恒等式の方法
さてここまで指の計算と筆算だけでいわゆる「式」(【=】、イコール、「…は」で表記された問題式)を解いていないことに気がつかれただろうか? 学校やよくある幼児教育で出される問題は多くの場合は「式」の形で出されてしまっている。しかし【=】という記号が何かということを説明してはしていないのではないだろうか? 【=】は本当は大事な意味を持つものだ。
というのも、もし計算というものが足し算しかないなら、それは筆算で書けばいいだけのことで、わざわざ【=】を使った「式」で表記する必要はないからだ。「式」には「式」の存在理由があり、それは実は、計算というのが「足し算だけではない」ことに由来する。ところが、子供がまず最初の計算である足し算を学ぶ時に、もう「式」の表記によって教えてしまう。そこには大人は誰でも「足し算以外の計算もある」ことをわかっていることが反映しているのだが、でもそれは子供はまだ知らないことで、だからその最初の計算を「式」で教えるのは自然ではないのだ。「式」は「足し算以外の計算がある」ことを知って、初めて意味を持つ。
だから、引き算を理解することと、【=】イコールを理解するのは同時であるべきなのだ。
足し算がちゃんと身に付き「さて、それではこれから新しい引き算という計算のことを教えましょう」という時点でこそ「7+2=9」といった「式」での足し算を理解するべきだ。つまり足し算の「式」を理解し、解けるようになることは、引き算の学習の第一歩なのである。
いわゆる「たしひきざん(減加法)」や「ひきひきざん(減減法)」ではすぐに「ひきざんの式」の形で問題を出してしまうが、ここでは、引き算を学ぶ前に初めて、その準備として今まで筆算で解いてきた「たしざん」の問題を「式」の形で表記し解いてもらう手順をふむ。足し算の問題はこういうふうにも書けるんだよ、という説明をして、ひとケタどうしの足し算を「式」の形で書いて、理解し、解いてもらおう。この練習はそれなりに時間を費やし、暗算でできるようになるまで、必要なら親子たしざんにまで戻ったりして、習得してほしい。
6+9=
7+6=
6+8=
といったように《繰り上がりのあるひとケタどうしの足し算》を「式」で練習しよう。つまり親子たしざんでやったことを初めて「式」でやる、というだけのことだ。
ここで、【=】はそれの右と左が「同じ」という意味だということを説明し、子供にきちんと理解してもらう。足し算がちゃんとわかっていれば、これは素直にわかってくれることだろう。
さてここまでは、足し算の練習のようだが本当はそうではない。繰り返すが、足し算をできるようになる、そのためだけならば、それを「式」で学ぶ必要はないわけだ。しかし基本的に親子たしざんをちゃんとクリアしていれば、ただそれだけで(それ以降のたしざんの学習はしてなくとも)この《繰り上がりのあるひとケタどうしの足し算の『式』の計算》はできるはず。だから親子筆算の「実践編2」くらいまでが終わったところで、もう引き算を教えるために上記のような「足し算の式」を教えてしまっても、別に良いだろうと思う。あるいは、学校の「たしひきざん」でつまづいてしまった子は、まず親子たしざんの練習をして、それから上記の「式」の練習をして下記のひきざんの学習に入っていけば良いのではないか、と思う。
恒等式の方法実践編:1(ひとケタどうしの数の和からのひきざん)
さてここまでの準備、つまり《繰り上がりのあるひとケタどうしの足し算の『式』の計算》が暗算で出来るようになったら、そこで初めて「ひき算」という計算があること、「5ひく3」というのは指でやればどうなるか、ということ、そして、その式は「ー」で示すことを教えよう。
大人はこういう【=】の概念を、数学的には恒等式というものだと知っている。そして足し算と引き算はそれぞれ【=】の右辺と左辺で移項すれば置き換えられることも知っている。
ようするに「7+2=9 ⇔ 9ー7=2」となる。
そこで、こういう問題を、たとえばノートに、たくさん並べて書いてあげよう(並べることが重要なのだ。子供がそこにパターンを見いだせなかったら、積極的に教えてあげよう)。
7+2= 9ー7=
5+1= 6ー5=
6+3= 9ー3=
こういう繰り上がりもないような同じ恒等式をたくさん書いて、そこで初めて「ひきざん」の式も含めてたくさん式を解いてもらおう。でも、その段階は一日だけで済ませるくらいでも十分だ。そしてそこで一気に次のレベルへと上げてしまおう。次のような問題を解いてもらう。つまり《繰り上がりのあるひとケタどうしの足し算の式》と、それと等しいような引き算の恒等式を並べて、解いてもらうのだ。
8+9= 17ー8=
5+6= 11ー5=
7+6= 13ー6=
このような式を暗算でたくさん解いてもらう。
最初は、引き算のほうには手助けが必要かもしれない。でも、それは言葉ではなくて、やはり左側の「くりあがりのあるたしざん」を親子たしざんで、四つの手で計算するのを助けてあげるという手助けに限ろう。「だから、8たす9は17でしょう? じゃあその合わせた17から8を引いたら、残るのは、ほら、最初の9だ」といった形で手助けしてあげよう。
つまり「たしひきざん(減加法)」や「ひきひきざん(減減法)」では、それを、引き算という新しい計算の新しい方法としてのみ学ぶような形になってしまうが、恒等式の概念を利用して引き算をイメージすることができれば、それは基本的には親子たしざんと同じイメージを使って暗算できるものとなる、ということだ。せっかく身体感覚に基づき強く心に刻まれているものがあるのだから、それをきちんと引き算にも活かさないともったいない。
そこで、次には筆算でも並べてみよう(ここでは省略したが、小さく1と書いて繰り上がりを計算する親子筆算で、ちゃんとやることが大事)。
8 15 9 13
+ 7 ー 8 + 4 ー 9
ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー
15 7 13 4
こうして、親子たしざんで二つの手の「5」が「10へくりあがる」のとちょうど逆(だからイメージは同じ)の計算として「そのくりあがった10から指をまた借りて四つの手にする」というのが「くりさがり」だというイメージを持つことができるようになればいい。
すると、足し算と引き算は同じイメージでできるようことなる。つまり「くりあがり」と同じものとして「くりさがり」がイメージできるようになる。
大事なことは次の通りだ。
「くりさがりのひきざんは、親子たしざんの《逆》なだけで同じ」
恒等式の方法実践編:2(十の位からの繰り下がりのあるひきざん)
ひとケタの足し算と同じ恒等式の引き算に慣れたら、引き算のレベルを上げよう。
まず十の位から数を借りるというイメージを使って引き算の筆算を解くことをやってみよう。
たとえば次のような時にどうしたらいいかを、子供にたずねてみよう。
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ー 9
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たぶんわからないだろうと思うのだが、そこでこのように教えてあげて、それを「くりさがり」と言うということを説明してあげよう。
「8からは9はひけないね。じゃあ十の位にある2から、1を借りて来て、ここに書こう。これのことをくりさがりと言うんだよ」
大きく書くと、こういう表記になる。
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ー 9
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ここでは、十の位にある「2」と言ってしまっていい。「20」と言う必要はない。むしろこのように説明してあげよう。
「これは十の位の2だから、かりて来たのはただの1ではなくて、本当は10の『1』だね」
つまり、位取りを強く意識させるように説明してあげると、そのほうがわかりやすい。
「ほら、これで18になったから、18からは9がひけるね」
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ー 9
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9
さて、次に、こう声をかけてあげて、二点ほど注意をうながさなくてはいけない。
「十の位は、十の位の数だけで計算して、十の位の下のところに答えを書くんだよ」
つまりくりさがり以外では、それぞれの位だけで計算するということが原則だということ。
「この十の位の2からは1をかりちゃったから、本当は2じゃなくて、1ほど減っていることになるね。2から1減るといくつ? 1。じゃあ十の位の数は1だね。答えの十の位のところに、じゃあ、1を書こう」
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ー 9
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こうして、足し算の親子筆算と同じように、小さく書いた「1」が重要な役割を果たす。そこに小さく「1」と書いてある時は「くりさがり」「十の位の数が『1』小さくなっている」という二つのしるしの意味がある。それを何度も強調して、理解してもらおう。
これはある程度、反復練習するしかない。そして毎回おなじように声をかけてあげることが大切なのだ。声をかけるというのは、答えや、やり方を教えるためではない。ちょうど親子たしざんと同じように、声もまた、子供に身体感覚として覚えられるものだ。毎回毎回あえて同じ言葉で同じように声をかけてやると、ルーティーンが声として心に定着していくことになる。
反復練習するには、もうひとつレベルを上げてこういう問題にしてもいい。
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ー 1 9
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1 9
「十の位の数は、十の位のところだけで引き算すればいいんだよ。十の位には、幾つのがあるかな? そうだね3だね。でも、ここにほら、『くりさがりの1』が書いてあるから、この3からはもう1ほど借りてあるでしょう? だからこれは本当はいくつかな? そうだね2だね。それからまた1をひくことになるよ。十の位のひきざんの答えは何かな? 1だね! じゃあ全部を合わせるとどうなるかな? そう、19でした、正解!」
このような、ふたケタからふたケタの引き算を反復練習する。
30 38 34
ー15 ー29 ー10
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これらにはそれぞれ注意すべき要素がある。たとえば、左の問題は一の位がゼロからの引き算ということになっている。そして、真ん中のは、引き算をすると十の位がゼロになる(だから答えには十の位に書くべき数がない)。右のは、ゼロをひく計算になっている。
こうした問題ひとつひとつについて、一緒に考えなくてはいけないのだが、しかしやはり足し算の時と原則とルールは同じでいい、ということが重要だ。つまり以下の通り。
「一の位で引こうとして数が足りなければくりさがりをする」
「くりさがりのひきざんは、親子たしざんの《逆》なだけ」
「くりさがりをすると、十の位の数がひとつ減る」
「十の位の引き算は十の位でやる」
これらの原則を適用すると、上の三つの問題のような、ちょっと違うものも解ける、ということを経験することが大切である。なぜ大切かは、足し算の時に書いた通りだ。
そして「検算」という概念を教えてあげて、それぞれの答えを今度は足し算に直して自分で検算として足し算してみる、ということも、概念の整理と計算の練習になる良い方法だ。
恒等式の方法実践編:3(ひきざんの仕上げ)
ふたケタのひきざんに慣れてきたら、三ケタの引き算を練習し始めたらいい。
大切なのは、まず位取りで、その概念がちゃんとしていれば原則をあてはめるだけでいい。
「それぞれの位の数は、それぞれの位だけで計算する」
「引くことができない時だけくりさがりがある」
「くりさがりは小さい『1』を書く」
「くりさがりがあると、その位の数は『1』小さくなる」
ところが次のような式はなかなかむつかしい。
① ② ③
405 300 401
ー 78 ー195 ー309
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間違いやすいところは次の通りだ。
①の問題は、十の位のところの計算が「9ひく7」であることを忘れてしまって「10ひく7」と計算してしまいやすい。間違えないためにはちゃんと百からのくりさがりと十からのくりさがりの両方で、二個の小さい「1」をそれぞれ書くことだ。
②の問題は、三百からのくりさがりをうまくやっても、やはり十の位のところで答えを「1」と書いてしまいやすい。やはりちゃんと二個の小さな「1」を書く事だが、なんとなく、十の位のところが「ゼロ」になるのを奇妙に感じてしまう、という罠もある。
③の問題は、一見すると十の位のところでゼロからゼロを引いているように見えてしまうので、そこでちゃんと「9」と答えられるか、ということと、そして百の位が実はゼロになるので答えには百の位の数は書かないでいい、というところを奇妙に感じてしまう罠がある。
さて、これらの三ケタの引き算に慣れてきたら、やってみると面白い学習がある。
次のような空欄を作った「式」を解いてみる。
78+( )=100
23+( )=100
11+( )=100
これは見た通り、百になるように、それぞれの数に何を足したらよいかを考えるものだ。足し算と引き算とをいちどに往復しながら考えることができる。これを百になるだけでなく、二百とか、三百、五百、あるいは合計を千にして三ケタでやるなど、色々な工夫の仕方ができる。
それらがある程度の速度の暗算でできるようになれば、引き算も完成だと言っていいのではないだろうか。もちろん、計算の訓練としてはもっとやるべきこともあるのかもしれないが、ぼくがここで述べたいのは、算数の訓練ではなく、どうすれば数の概念を「たしひきざん」のような複雑な方法ではなしにできるだけ自然に身につけさせることができるか、という方法だった。
そして、それにはつまり「親子たしざん」で身につけた身体感覚を基に、足し算のくりあがりと引き算のくりさがりを同じイメージで掴めるようにするのがいい、ということだ。
だから最終的に、上記のような足し算の「式」でありながら計算は実質的に引き算であるような計算を自由に正解できるようになれば《足し算と引き算のイメージは同じ》だということを身につけられたということが言えるだろう。
実際に、上記のような「式」であれば、たとえば「78に幾つ足せば100か」といったように計算の手続きとしては足し算であるものとしても計算できるわけである。
そのように、足し算と引き算を同じイメージで行える、というところにできるだけ早く到達するための方法を記したつもりだ。それ以上の「計算の訓練」などには、また別の方法と学習が必要になるのかもしれない。
しかしそれはまた別の話だと思う次第である。
4、子供に算数を教えたいと思う方に
我が家における算数
このエントリを書くきっかけになったのは娘がしていたこんな話だった。
それは学校での算数の授業の話だった。こういうなりゆきで聞いた次第。
その以前のことなのだが、夫婦で、小学校での算数の教えかたの話をしていたのだ。「たしひきざん」とかに対して、ぼくらは娘が学校に通いはじめてから初めて触れたのだが、それまでに既に娘は紹介した「親子たしざん」でかなり早く正確に足し算の計算ができるようになっていた。
ぼくら夫婦は別に教育熱心なほうでもないと思うのだが、子供が何かに興味を持ったり疑問に感じていると、親のコケンにかけてそれにこたえてやろう、と思うところがある。それで、算数についてぼくら親子なりに勉強していたわけだ。それはたとえば「ゼロって何か」みたいなことを教えてあげようとする自然発生的努力だった。
さて、ぼくら夫婦が話し合っていたこととは、娘が小学校にいくようになってから、なんでか計算が遅くなったみたい、ということだったのだ。「なんでかね?」とぼくが問うと、ぼくよりも学校でのことを良く把握している妻が、「学校では、たしひきざんってやり方で計算することになっていて、そのやりかたで解かないとテストでバツがつくのよね。それであの子は一生懸命そのやりかたで暗算もやってて、それで遅くなっているの」と教えてくれた。そうなのかとびっくりした。調べてみると学習指導要領が今ではそうなっている。それならそれはそれで仕方ないが、できていたことが苦手になるのはもったいない、というのもある。
それで娘にはこういう話をしたわけだ。
「きみは学校でならったやりかたじゃあない方法で、ちゃんと計算できるようになってるわけだから、そのやりかたのままで計算すればいいんじゃないかな? 学校で、そのやりかたじゃない方法を教えるのは、そうすれば計算ができるようになりますよって、計算がまだできない子に教えてあげるためなんだからね。学校ではみんながはじめて勉強するためには、その方法じゃないとだめだよって教えてるんだと思うよ。だから、その方法のほうが正しいわけじゃないと思う。きみは自分の得意で早いやりかたでやればいいと思うよ。それで自分の知ってる方法で計算してから、先生に、計算の正しいやりかたはどんなですかって質問されたら、こういう方法ですって教わったことを答えたらいいんだと思うよ」、と。
すると娘の顔がパーッと明るくなり、そうかあ! と言った。それで急に計算が元通りに早くなった。そういうことがあった。
その後どうかな、と思っていた。それでその話を娘としようと思い、ふと、以前に父ちゃんと勉強したふたりで指を使ってやる計算の話をしたら、娘がこう言う。
「それだったら学校でもやってるよ。隣の子どうしで大きな数の時にはそのやりかたでしてるよ」
ぼくは、なんだそうなのか、自分なりに必要だというので編み出した方法だったけど、学校はやっぱりちゃんと必要なことはやってるんだなあ、と感心した。しかし続けて娘がこういった。
「あたしがそうしたらどうですかっていったの」
ナヌ?
「そのほうが楽しいと思いますって、先生に」
へえ、それで先生は?
「それはいい方法ですねって、それでみんなでやってるよ」
ああそうなの。
なんだか娘は自由な子だなあと驚いたのだが、先生にも感心した。それはともかく、そういうことなら、ぼくは、自分が子供に教えるのに使った方法を紹介するべきなのだろうなあ、と思って、今回それに「親子たしざん」という名前をつけて紹介してみたわけだ。
現在の算数教育の根本的問題
ここで、またあらためて冒頭にのせていた表(?)を紹介したい。これは「減加法」で計算をするためのノートについての意匠特許申請書からの転載で、それぞれの数字は、それぞれのデザインの「意味」を説明しているものにつけられているわけだ。
このようなアプローチは、大人が、自分の知っていることを子供に教えようとする時に、ついとりがちなアプローチだ。つまり、自分がトータルなものとして扱っている概念を、それぞれのより下部構造的な概念へと細かく分解して、それを示すことで、子供に「理解可能」になるのではないか、というアプローチである。さて、ところが子供は、それぞれの細かい概念がいったい何に結びつくべきかというその「目的」をまだ理解していない。だから、バラバラの細かい概念が複雑にたくさん提示されているだけのように感じてしまうことになる。
つまり「知っているもの」を分解して教えることは、実はあまり良い方法ではない。
子供には、知らないものを初めて知るという出来事がたくさんあり、それはいちいちが新しい概念の学習である、ということがある。だから、何かを細かい概念に分解されていてもやっぱりわからないもの、知らないものは、理解できないのだ。
日本の教育では、それに反復によって「馴染む」ことが「概念を身につける」ことだとされている面がある。それに対してぼくは異議をとなえたいところがある。確かに反復練習は必要だがそれによって身に付いたものは決して概念ではないだろう、と思うのだ。それはいわば習慣ではないだろうか? 概念を身につけることは、習慣を身につける作業とははっきり区別されるべきだと思う。なぜそれが日本では混同されがちかというと、単純に面倒臭いからではないかと考えている。概念をはっきりと身につけるのはなかなか大変なものだ。教えるのはなおさらのこと。
つまり、概念を身につけさせるためには「わからない」という壁を打ち崩さなくてはいけないわけである。それは抵抗に対して努力しなくては実現しないし、努力しても努力してもうまくはいかないこともある。それに対して習慣を身につけさせるには、ただ、管理し、強制するだけで済むところがある。どっちが楽かと言えば、それは習慣を身につけさせるほうが楽だ。
それが日本の教育で「ドリル」が多用される理由だろう。とにかくそれを決まったやりかたで正解をいつでも書けるようになるまで繰り返しやること。それで習慣が身に付けば、確かにその中から、自力で帰納的に概念を見いだすこともできる……さて、日本で我々大人はそのようにして大人になった。だから、教育にも帰納的アプローチをとるわけだ。それがつまり、自分たちが理解した概念を、細かくバラバラにして提示すれば、そこから子供は全体概念を帰納的に再構築するだろう、という発想の、上記のノートのようなものとなるわけである。
無駄というわけでもない。それで伝えられるものもあるだろう。
しかし問題なのは「概念を教えるという作業がそれとは別にあってもいいだろう」という発想がたいていは皆無なことだ。その結果、習慣的に身に付いた方法から帰納的に概念を抽出できる優秀な子供(それは相当に優秀だ)以外は、習慣以外の何も身に付いていない子供たちを育てることになる。そして、これこそが本当に困ったことだが、習慣というのは抜けてしまえば消えてしまうものなのだ。それに対して、概念というのは一度はっきり本当に理解すれば、消えて無に帰すことはない。それは曖昧になっても何度も自力で再構築できるものになる。
概念を身につけるためには、あまり反復は必要ない。ごく限られた対象と丁寧に向き合うことが必要なのだが、回数の反復にはあまり意味がない。ただし、その一回一回の教育の場所の中でじっくりと子供の様子を伺い、いったいこの子は何がわからないのか、何を教え、知らしめれば良いのか、それを見極めるという作業が必要になる。これはそもそも大人数を対象にした公教育では無理なことだ。そんなに労力を必要とすることができるのは基本的に親だけだ。それに親はその子について、個性や発達の程度などについて余人にないインフォメーションを持っている。
だから、親には親にしかできない教育がある。それは、反復練習といったものではなく、その子が「本当に何かを理解し、イメージできるように、手助けをすること」概念を身につけさせることである。それこそ親が子供にしてやれることだ。
にもかかわらず、えてして家庭における教育目標は、学校で行われる教育を補完したり、それに適応したり、習熟したりすることへ向きがちだ。だがそれは二度手間というものだ。とりわけ小学校低学年というのは「概念を身につけるという経験の経験値を積む」ことができるかけがえのない短い期間である。さらに、その時期に、たとえ学校教育で若干の遅れやズレを持ったからといって取り返しがつかないような難解で不可欠な教育がなされている時期でもない(全く新しい概念が登場するわけでなく、あくまでも日常的なものだという意味)。この時期の教育だけはある程度は親が責任を持つべき部分があるし、それは反復練習をさせることではない。
さて、それでは親が子供に概念を身につけさせるとは、どういうことなのだろう?
帰納的に概念を習得するのではない、逆の方向、つまり「こうだから、そうなる」という演繹的な方向へ向いた学習こそ、それである。つまり、できるだけ知ることは小さく、単純で、明快なものであるべきなのだ。そしてその小さく単純なものを使って、より大きく複雑で難しいものを組み立てていく。その過程で、より大きく複雑で難しいものがあることなど、漠然とでも感じさせないように注意しながら、小さく単純なものへの理解を褒めたたえつつ、身につけていけばいいのである。つまり先を見ないで積み重ねていく、というのが必要な「努力」なのだ。
そして、では「一番、単純で小さいもの」とはなんだろう? 子供が、誰でも理解することができるようなわかりやすいものとはなんだろう? 算数でいえば「指」だろう。それは、人間はなぜ汎人類的に十進法を採用しているのかを考えれば明らかなことだ。ならば「指」から出発して、その上にすべてを積み上げていくべきなのだ。それが「親子たしざん」の理念というものだと言えるかもしれない。子供と、その一番みぢかなものの上に概念を積み上げていく。身体感覚というのは、結局は、何も知らない幼い者にも既に存在しているものなわけだ。
日本の「教育現場」(という言葉も奇妙ではないだろうか? どこもかしこも、子供がいれば教育現場ではないか、という気がする。なぜ家庭はその現場ではないのだろう?)では、たとえば足し算や引き算をずっと手指を使いもたもたとしている子がいると、それをやめさせるためにその行為から遠ざけようとする。そして反復練習を科したりする。つまり、彼や彼女がもっとも頼りにしており、頼りにできるはずのもの、「当人の身体」から遠ざけようとするわけだ。実はそれは「概念」から遠ざけて習慣を身につけさせようとしているのと同じことである。理解ではなく行為を求める。繰り返すがそれは無駄ではない……むしろ優秀な子にとっては。だが、えてしてそういう目にあう子は、あまり優秀ではないからこそ、そういう目にあうのだ。そしてその習慣は大人になるにつれて抜け落ちてしまう。彼や彼女には、奪われた自分の身体感覚つまりは安心感、という経験が心に刻んだトラウマやルサンチマンしか残らない、ということになる。
だからこそ、親が「概念を教える」ということは、最大限その子の身体を尊重することとしての親の愛の見せ所だと心得てほしいと思うのだ。それには強制はいらない。叱責や激励はいるとしても。そしてそれには目的の不明確な反復もいらない。より上位の複雑な価値観からの子供の現状の判定ではなく、子供が「今いるところ」からの風景に徹底的によりそうことこそ、概念を教えるということなのだ。つまりそこにいる子供の身体の中に入るようにしてこそ、子供が知るべきことが見えてくる。そのようにして、あなたの両手を子供の身体の一部としてあげる行為として、ぜひ「親子たしざん」をやってみてください。
きっとあなたの心も幸福になりますよ!