<岡見家・尾崎家めぐる幕末から終戦までの軌跡に関わった人物群>

(佐久間象山・岡見彦三・清直・福沢諭吉・三条実美・尾崎三良・坂本龍馬・木戸孝允・セオドラ英子・尾崎行雄・相馬雪香)

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下記の項目に御注目戴けますならば、大変に幸甚でございます。

岡見清直は、新日英友親交会の柱になる重要な人物の一人です。

新日英友親交会促進のモチベーションを創ったのは、16世紀以来の英国現エリザベス二世女王ウインザー・マウントバッテン家に次ぐ、かつて英国副王であった16世紀以来の欧州最高級位貴族です。エリザベス一世の父であるヘンリー八世が、アングリカン・チャーチを興す前までは、バチカン直結の英国カソリック総本山の家柄でありました。

モンタギュ公家の現藩主であるモンタギュ公と岡見清直と私、北広次郎の三人が20年以上前に話し合ってきました。

岡見清直は、モンタギュ公がGUARDIANである地元ウィンチェスター大學と提携し、ジョイント・ベンチャーである頌栄ウインチェスター女子大學を創立しました。この事には創立以来、M商社も絡んでいました。

1865年(慶応元年)に薩摩藩から19名の団体渡英留学生がモンタギュ公藩主御領地である英国島南端のソウサンプトン港に着き、そのうちの世話役3名を除いた16名がロンドン大學へ入学しました。

幕末まで、薩摩・長州の計らいにより大政奉還までの間、大宰府に主君三条実美公と共に蟄居していた私の先祖である「尾崎三良」が三条公嫡男公恭(当時15歳)と長州藩の当主であった毛利公嫡男と共に、1868年(慶応四年=明治元年)6月20日にソウサンプトン港に到着し、オックスフォード大にて国際法を学びました。

尾崎三良は、坂本龍馬とも親しくしていたらしく、龍馬の留守中にも土佐の坂本邸に泊まったりして龍馬の姉上にすっかり御世話になっています。

又、長州の桂小五郎(木戸孝允)ともワシントンで遇って、以来生涯交流をしています。

その一行である8名が英国ソウサンプトン港に到着した日の現地新聞

「Southampton Chronicle」の記事を私が偶然見つけましたので、御参考までに写真データを記載しておきますので、御照覧下さい。

北 広次郎  

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<蘭学者である岡見清直の祖父が岡見彦三>

(中津藩・慶應義塾 佐久間象山の塾)

(背後に慶応義塾の真の立役者が存在していました事が、意外と世間一般に知られていないのは何故でしょうか?もし、佐久間象山と岡見彦三が存在して居なかったら、慶応義塾は生まれていなかったという歴史の事実があります。)

蘭学とは所縁の深い中津藩・江戸藩邸に近い、木挽町にあった佐久間象山の塾に、 中津藩は藩の子弟を数多く送り込み、象山は中津藩の為に西洋式大砲二門を鋳造して、上総国の姉ヶ崎で試射を行ったり、 藩邸に招待されて学問を教授したりしています。そのため、中津藩の調練は他藩に比べて多いに進歩しておりました。

 

信州松代の佐久間象山に学んだ藩士・岡見彦三は、江戸藩邸内に蘭学塾を設け、中津藩家老が適塾の塾頭をしていた「福澤諭吉」を旗本岡見が江戸に呼び寄せて、蘭学所(慶應義塾の前身)の講師にしました。

つまり、慶応義塾の実質的創立者は、岡見清直の祖父岡見彦三であり、

「今後の日本国において、女子教育の必要性が増す時代が来る」と

岡見彦三は、同時に併行してクリスチャン・ミッション系の蘭学所女子校(頌栄女学院)も創立したのであります。

岡見清直は、いつも私の事を弟分のように想ってくれていました。そして、このように言っていました。

「僕のおじいさんの岡見彦三が開いていた蘭学塾に、福沢諭吉を中津藩から江戸に呼んでそこの講師になって貰いました。おじいさんの蘭学塾が慶応義塾になったのです。それでおじいさんは更に女の子の学校も創らなければいかんと言って、頌栄女学院を蘭学所の延長として設立しました。そして、自分が米国務省アイルランド共和国ダブリンで総領事を定年退官した後に、丸紅がたまたま新設だったダブリン支店の責任者を求めていたので、これがいい転機だと思い、お引き受けしました。そして以前にダブリン総領事をしていたので、アイルランド共和国の首相を初めとして、政財界のトップ要人には精通していました。なので、在任中はアイルランド政財代表をメンバーにして、訪日使節団を組んでその引率責任者として訪日しておりましたので、毎年日本の政財界と秋の恒例交流会を行いました。当時、アイルランド共和国は英国の属領でしたが、ジャガイモの病原菌が全土蔓延した事により、馬鈴薯が腐って餓死者が続出するという、歴史上有名な『ポテト飢饉』が起きました。その為に、アイルランド人は食事がほとんどが摂れなくなり、人口の80%が新天地米国へ海外脱出を計り移民しました。私の妻や娘の先祖もアイリッシュの米国移民者でした。それと英国本土は、英国国教アングリカン・チャーチのプロテスタントなので、アイルランドは昔から敬虔なるカトリック一辺倒国で、バチカンにつなる国だから、子沢山だねえ。アイリッシュ移民で、一番の成功者はケネデイ一族(俗にケネデイ王朝とも言われる)で、次がロスチャイルドとも繋がったギネス財閥かな。とにかくアイリッシュで世界の英語圏に移民した末裔の人口は、日本人の人口よりも多いという程いるね。だから米国はアイルランド共和国のスポンサーとも言われる位に密接な関係にあるのですよ。だから私は、米国務省退官後に最初はアメリカでという案もなかったという訳ではありませんでしたが、やはり日本とも歴史的に関係が深く、ダブリンにも近いイングランドに新頌栄ウインチェスター女子大學を創立したのです。娘婿のウイリアムは、ユダヤ系アイリッシュで、二人はダブリン大學共学にて結ばれたのですが、彼がウエールス大學図書館長になったことで、最後は英国永住ということに決めたんです。僕のような人生を歩んだ日本人は前代未聞だという人もいるが、僕はそうは思っていない。いつも心の祖国は日本だな。君もなんか僕に似てるところがあるって最初から思ったよ。だからプライベートな秘密な事も『のり』には全部はなしちゃったけどなあ。あははは。」

 

ちなみに ”のり” というのは「海苔」の事でも『糊』の事でもなく、「Nori Kojiro Kita」 のことで、北広次郎のニックネームになります。外国人の99%が私の事を「Nori」と呼んでいます。

結局、岡見清直は娘婿が図書館長を務めるイングランド島南岸のウエールス大學の近くにあるウエールスの墓地に妻ルイーズと共に眠っています。清直が亡くなった後、一年ほどしてルイーズは清直を追いかけるようにして亡くなりました。ルイーズ夫人がこれまた何と説明したら良いのか、とにかく大の読書人間でした。休養のバカンス旅行先へ行っても朝から晩まで読書三昧漬けだった程で、その超博識ぶりは天下一品でした。ルイーズのエピソードも沢山ありますが、その最たるものは第二次世界大戦中に岡見清直を収容所キャンプから救出するために取った驚くべき行動でした。これは真珠湾攻撃直後に、日米が開戦した時の事です。その時は、全米に住む子供も含めた全日本人家族が、収容所に隔離されてしまいました。ルイーズは、出身大學であるカラマズー大學長や恩師の教授達、そしてキリスト教団などに嘆願運動の訴状やアピール状を書き続けました。また面接にも通い、清直解放の嘆願運動に奔走しました。その記録はカラマズー大學校史にも記録されています。その後も、清直の人生の節目節目に、適宜適切なアドバイス発言をしてきたのが、読書欲旺盛で博識かつ行動力のあるルイーズ夫人でした。清直が高齢になったある日の事ですが、ルイーズ夫人が清直に、医学会の新学説だった若返りの特殊法について話した事がありました。その上、その主治医についてまでどこかで調べていました。それはコナン・ドイル著の不朽の名作である「シャーロック・ホームズ」の小説や映画にも、度々登場するロンドンのプライベート・ドクターや医院が集まっているハーレー・ストリートの中にある名医の事でした。そして清直は、そのホルモン療法を定期的に受け始めました。すると彼の顔や手の皺が無くなり、肌もすべすべのつやつやになり、年齢80歳を過ぎても大好きなスキーをするため、スイスやイタリアのスキー場へ出かけて行きました。この特別療法については、家族以外では私だけにしか口外していませんでした。これはある特別なホルモンを特別な部位に、六ヶ月毎に一度注入するもので、施術はさほど難しい手術とは思えませんでが、効用は的面へ顕著に目に見える程でした。

清直は良く自分の手足の爪を見せてくれました。そのホルモン療法をうける前は、常に爪割れが起きて困っていましたが、その症状が全くなくなり、若者の爪と変わりないようになり、顔や肌もつやつやになって私も驚きました。

その新療法を見つけた読書三昧のルイーズ夫人が、これまたユニークな人で、普通一般の読書家が目にするものではない学会論文を読んでいました。私はルイーズ夫人の読書は半端でないことは、前々から知ってはいたつもりでしたが、まさかその同所範囲が医学や科学の専門論文にまで広がってる事を知った時には少々呆れました。そのDNAは、娘のマリーサさんにも継がれたようです。彼女が結婚した相手のウイリアムは、かつてダブリン大學の同級生で、後に名門ウエールス大學の図書館長になりました。

ここでちょっと日本と欧米の大學の違う点に触れてみます。

欧米の大學には、アーカイブの紋章家紋研究学科とか絵画美術品鑑定学専門科とか、ホテル学専門学科、図書館学科などが大昔からあります。家族のルーツを溯って調べられる専門の学科があり、その系図は教会に残されてる記録を辿り数百年昔のルーツを調べる研究学科で、その学位を取るのはそう簡単ではありません。その上、学位をとりその道のプロになる為には、相当の勉強期間と読書量が必要になり、そこからプロの資格を取得しなければなりません。現在はどうか知りませんが、私の知っている限り、日本の大學にはそういう学科はありませんでした。ですから私の知る友人知人で、その方面に進むには、欧米へ留学するしかなかったのです。もう一つに日本になかった学科は、海外で行う土木工事などの建設の場合には、国際的契約でつきものである最終条項に、契約進行上のもめ事が発生したときの規定である「ARBITRATUON CLAUSE(法的仲裁裁定条項)」があります。これは専門学科が日本の大學にはないので、その資格をとる為に、日本人で一人はパリ大學に、そしてもう一人はロンドン大學キングズ・カッレジに留学した知人友人のケースを知っています。

象山の息子である新撰組隊士の佐久間恪二郎が、勝海舟の紹介で慶應義塾に入塾しているため、 象山塾における洋学の系譜は、初期の慶應義塾に亜流の形で伝わる事となりました。 島津文三郎など、象山から直接免許皆伝を得た者もおり、 また福澤諭吉も岡見家が所蔵していた佐久間象山の貴重な洋書を読み、立田革などの信州松代藩で共に蘭学を学んだ後、慶應義塾に移って来た者もいました。

慶應義塾が発足に至ったのは、中津藩が佐久間象山の勧めで洋式大砲二門を購入しましたが、 肝腎の象山が吉田松蔭の密航失敗事件の連座によって信州に蟄居されてしまいました。 その後を薩摩藩の松木弘安、杉亨二らが担当していたのですが、幕府においては勝海舟の台頭もあったことで、 大砲術も分り、勝とも通じていた福沢諭吉が、後任として中津藩の蘭学塾を任されることになったのです。 福澤諭吉は、幕府の翻訳方となり、渡欧前から仙台藩や紀州藩、三田藩、長岡藩とも交流や資金提供がありました。 帰国後は、これらの藩士らの入塾も相次いだ為、岡見清直は祖父である岡見彦三が、慶応4年に岡見蘭学塾から慶應義塾に成っていったと度々私に話していました。福沢諭吉の行った数々の講演を、後に弟子達が書き起こした「福翁自伝」の中に名前だけは記録してありますが、岡見「彦三」の名前を「彦曹」と最初は誤記しています。後で訂正してありますが。

再度、当時の歴史的経緯を総括すると、岡見清直の祖父である岡見彦三が江戸藩邸内に開いていた佐久間象山の流れを汲む岡見彦三の蘭学塾に、彦三が中津藩から諭吉を呼んで講師にしました。この岡見蘭学塾を正式に彦三の勧めで慶応義塾にしたのが慶応四年=明治元年(1868)で、岡見邸は江戸時代から芝高輪ですが、そこに岡見蘭学塾女子校として頌栄女学院を創りました。もし慶応年号最終年である四年を過ぎていたとしたら、慶応義塾ではなく明治義塾となっていた筈です。だとすると、「慶応大学」が「明治大学」になっていた筈です。となると、現在六大学である「明治大學」は別の名前になっていたかも知れません。更に現東京外国語大学の発祥は、幕府蛮書翻訳方取調所とされていますが、整合性については関心事です。現世代の日本人は、日本国の歴史的アイデンティティ(IDENTITY)を、戦後の70年間に失ってしまったといわれています。それは、戦後の日本歴史教育において歴史のルーツとアイデンティティを曖昧にしてきた事に起因していると思います。それは四海八方海洋孤島国である日本は、国境陸続大陸国であるドイツとは対象的な歴史教育方法をとってきたのです。大陸上の陸続国家間では、海を隔てた国が持つ曖昧な対応法や対処法では通用しません。そこで、ドイツは全て日本国とは正反対に歴史的な全てを明らかにして、英米ソ連によるベルリンの3分割も含めた東西分断をされながらも、西ドイツ主導で戦後再復興を押し進めたのです。ドイツ人は、アイデンティティを曖昧にしない歴史教育を国民に徹底させたのです。岡見清直の甥御さんは、戦後ドイツへ留学し、ドクターを取得して英国系ドイツ人の奥さんと英国へ移住してから、頌栄ウインチェスター女子大學々長を岡見清直から引き継ぎました。

「理想を実現したければ、与えられるのを待たないで、自分で飛び込んでゆき、理想を同じとする仲間を見つけることである」

というような名言を言った方がおりますが、「むべなるかな」です。海洋孤島国では、海洋で隔てた外国歴史情報伝波のみで知る日本的フェノメナは外交的にハンデイがあると言われている。それに対し、国境陸続である大陸国家間の民族的歴史情報の直伝は、タフかつインパクトが異なるといわれます。しかし日本孤島人には、その差違の実態把握が苦手か不能であると言われてます。そのことが海外のロビー活動においても顕著であるともいうのです。海外で日本を含む海外貢献活動をしてきた岡見清直のように、稀代で偉業を成し遂げた日本人の歴史的ニュース情報は、意外に今まで日本人に伝わっていないのです。実は、日本を離れて働いて来た人間ほど、日本に住む人よりも祖国母国に対する愛情が倍増します。これは世界における人種のアイデンティティを矜持する人間に共通な想念でもあります。岡見家はまた、日本国内でも幕末明治から蘭学塾を設けて開明運動をしてきました。特に日本国の教育改革の祖であることは間違いありません。私は岡見清直の遺志を継ぎ、その歴史の原点についての語り部となります。何卒、日本近代化の歴史以来、戦後に至るまでの一貫した脈絡を辿り、皆さんで遺志を継承して下さい。日本国の次世代を担う国際的人材育成の為に御協力及び御支援を戴きたいと祈年致しております。何卒、コメントや御意見を賜りたく存じます。

尾崎三良が1868年から1873年までの間、英国留学中に英国女性と恋仲になり、その間に生まれた日英ミックスの女児が「セオドラ英子」で、その娘が結婚した相手が「尾崎行雄(顎堂)」です。彼は、明治23年に開設された国会議事堂の第一回選挙から25回も国会議員に選出され、最多記録を持つ「憲政の神」とかニックネームが付けられています。しかし、その前に東京市長になってた時代もあり、その時代には米国のワシントンDCに桜の苗木を大量に寄贈したことがあり、その後苗木はポトマック河岸に植えられて、現在は桜の名所になっています。

セオドラ英子と尾崎行雄の間に生まれたクオーターミックスの女児が、「尾崎雪香」で、後に福島の相馬家に嫁ぎました。セオドラ英子は、東京の英国公使館に勤務し、またTIMES紙の東京現地特派員にもなったこともあります。そして、岡見家の頌栄女学院、岡見蘭学塾後の慶応義塾、学習居大學で英語講師として教鞭をとりました。

尾崎三良は、三条実美の家臣で、坂本龍馬と交流があり、幕末の薩長土肥による計らいで、大宰府にいましたが、大政奉還により京都に帰還しました。1968年(慶応元年=明治元年)に三良は、三条実美公嫡男公恭(15歳)と

毛利公嫡男と一緒に渡英し、三良と公恭はオクスフォードにて国際法を学びました。三良は桂小五郎(木戸孝允)とも特に親しくしました。明治6年に木戸の強い勧めで、一旦帰国する事になりました。帰国後三良は、渡英前から三条公の公認であった許嫁の正妻、「八重子」と結婚しました。しかし男児が生誕しなかったことと、当時はまだ江戸時代の名残りがあり、側室の「美智恵」との間に男児をもうけました。三良は艶福家でありましたが、私側の家系祖先は、八重子の系統になります。三良が三条公に仕えることに対して仲立ちをしたのが八重子の父親で、そのために養子縁組をしました。正室や側室とかいうのは、当時まだ江戸時代の名残があったからなのです。

北 広次郎 英連邦王国

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+■尾崎三良英国到着報じた新聞記事慶4年(1868).jpg

2.三条実美嫡男公恭と三郎一行1868年英国到着新聞記事発見.jpg