イエスの人生は神を語る物語

法話ライブ at  東京道場  2014年6月21日

聖書 第1回

法話:遠藤喨及

書き起こし:みわ

動画URL:

https://www.youtube.com/watch?v=99scQBCHYCA

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聖書には、謎が多すぎますね。

キリスト教神秘主義のエックハルトは体験を元に話されていますのでやりやすいのですが。

まず、第一の謎。これはあまり知られていないんですが

「聖者のような人が現れて、病気を治したり素晴らしい教えを説いてたが、十字架にかけられて殺されて、復活しました」と言う話は埋もれてますが、キリストの前に北アフリカにいっぱいありました。

だから聖書はでっち上げ、作られたものじゃないか、と言う説もあるくらいです。

事実かどうか、に関して言えば、当時の裁判記録が残っています。

イエスを捕まえてどうしようか、みたいな事になった時にピラト(注)と言う人に引き渡したら、この人がイエスの十字架による死を承認しました。

(注:ポンティオ・ピラト ローマ帝国のユダヤ属州で総督を務めていた)

記録も残っていることだし、僕は事実だろうと思いますけど。

ただ、後世にねじ曲げられた部分が多いので、そのためにでっち上げ説が出たんですね。

もう一つの謎です。

一部で有名なんですが、イエスの13歳までの記録はあるんですが、

その後30歳になるまで、記録が全然無いんです。

17年どこにいたのか、というのがイエスの謎とされています。

色んな説があって、一つはエジプトのアレキサンドリアに行ったと言う説。

当時、仏教の修行道場のような所がありました。

そこで修行したという話もあります。

北インドにいて、仏教の修行をしていたという説もあります。

大乗仏教が興った頃と時期が合っているので。

また、エッサという人の記録があるんです

エッサという青年が現れて色んな奇跡を起こした。

エッサの記録が北インドからずっと中東に向かってところどころにあります。

絵も壁画みたいに残っています。

これがイエスじゃないか、と言われたりしています。

実際に、仏教とキリスト教の共通点のほうがユダヤ教とキリスト教の共通点より多いんです。

そういうのって面白いでしょう。謎が多いんです。

聖書というのはイエスの物語ですけど、イエスの物語そのものが、

イエスの意図、というか神様の意図といってもいいです。

物語というのは人の無意識に入るわけですね。

人の心に変化を起こさせるための物語を自らの生涯で全部完結させるわけです。

そういう話だと思って聞いていただけると、読んでいただけるといいと思います。

最初に、まず系図の話がでてきます。

アブラハムの子というのが最初に出てくるんですよ。

アブラハムというのはユダヤ人の一番最初の祖先といわれている人です。

ややこしいのが、イスラム教徒もアブラハムが祖なんですよね。

ユダヤ教から生まれたのがイスラム教ですから。

ラマラはパレスチナ区域なんだけど、アブラハムを祀っているところでイスラム教の聖地があります。

アブラハムの子ダビデ、と出ているでしょう。

イサクがどうしたとか、ずーっと名前がでてきて、その17代目がイエスである、と。

非常に系図を大事にする、というのが不思議でしょう?

だから映画「ダ・ヴィンチ・コード」で、最後にブラッドラインと言っていました。

血脈、つまり血筋なんだと。

「ダ・ヴィンチ・コード」はマグダラのマリアが実はイエスの奥さんだったという話です。

それでその子孫がイエスの血筋だから池の上を歩こうとした、みたいな話だったでしょう。

あれもややこしい話ですよね。

血脈っていう言葉で言うとややこしくなるからやめたほうがいいんだけど。

仏教で言う血脈は、お釈迦様から代々伝わってきた血脈、「けちみゃく」といいます。

そういった巻物があります。

お釈迦様からずっと何代も伝わってきた血脈。

浄土宗でも何宗でもそうやって全部あります。

そういう表現をするんです。

この何代目がイエスキリストだ、というのですが、

自分の物語が生まれたときから話が象徴的なんですよ。

まず、処女懐胎の話があるでしょう。

マリアが、結婚していないのに子供を妊娠したので、

ヨセフという人が、別れようと思ったんだけど、

いやそうじゃないから、といわれて説得されてました。

これは本当かうそか、みたいな話によくなります。

他にも良く出てきます。

イエスがどこかの村(注:ベタニアと思われる)に教えにきたら、

マルタ姉妹のマリアがイエスに香油を注いで、

その時に、「処女であるマリア」とそういう風に表現するんです。

ここでいう処女懐胎の意味は、先入観を一切持たない、ということの象徴なんです。

妊娠するということは何を意味しているのでしょうか。

ここでは「神の子」っていう意味でしょう。

また弁栄聖人が面白い表現をされています。。

人間は男と女が結婚して子供が生まれたりするけど、

人が念仏をして如来様と融合することによって、仏の子が生まれるのだと。

仏の子、神の子が生まれるには、まず今までの既成概念を一切持たずに、

そのまま教えを受け入れて、それによって神の子、仏の子が自分の心の中に生まれるのだ、

ということの象徴なんですね。

そういう風に理解しないと、あれは本当かうそか、みたいな議論をしても意味ないでしょう。

象徴として読むと、ちょっと意味が分かってきます。

またチベットの話みたいになってくるんですけど、

星占いで、東方のこの星が生まれたときに、この星がこうなったときに子供が生まれたから、

この子はきっと偉大な人に違いない、と長老たちがみんな集まってきたりするわけです。

ダライラマもそうやって決めるんですね、

次のダライラマは誰かって、星占いで見て、湖に映るからって。

ダライラマの親戚だって言っていたチベット人に直接聞いたのは、

ダライラマだって選ばれた子供をつれてきて、

「生まれる前に、貴方が生まれる前に使っていたものはどれ?」と選ばせるんです。

すると「これとこれだ」、とちゃんと選ぶそうですよ。

それで確認するんだ、と言っていました。

ここではそうやって星占いによって見つかるんです。これは偉大なる王と。

妙に共通点多いですよね。

お釈迦様が生まれたときも似ているんですけど、

「この子は偉大なる世界を支配するような王様にもなりうるし、

あるいは、一切生きとし生けるものの素晴らしい先生となる」と言われて、

お父さんが、そうなったらお城を捨てて出家することになるからまずい、

というので、そんなことを考えさせないようにしようと決心するんですね。

子供のころからなるべくそんなことを考えさせないように、といろんな用意をしました。

キリストの方は、ユダヤ人の王になると予言されたわけです。

そうだったらぜひ拝みに行きたい、といって長老たちがくるんですよ。

ヘロデ王という当時のローマの支配していたユダヤ人地区を統治していた領主がいました。

ユダヤ人じゃないんだけど。すごく猜疑心が強くて、多くの人を殺しました。

イエスが王様になったら自分の地位が危ないってんで、2歳以下の子をみんな殺すんです。

すごいことやるでしょう。

やばい、これでは危険だ、とお父さんのヨゼフとマリアとでイエスを連れてエジプトのアレクサンドリアに逃げました。

これは何を象徴しているのでしょうか。

さっき考えたんだけど、ちょっと深すぎて分からなかった。

子供のころのね、13歳の頃の話とかは、もうマタイ伝には出てこないですね。

その後、子供のうちにラビ、ラバイともいうけど、ユダヤ教の先生たちとどんどん問答して論破しちゃったりして「すごい子供がいるな」という話になるのですが、その話がどういうわけか出てきません。

ヘロデ王が子供を殺すのをやめたので、もう大丈夫、というのでとにかく帰ってきました。

帰ってきてナザレに住むことになりますが、あっという間に大きくなった話になってしまいます。

その後に、イエスの先生が出てきます。

お釈迦様も最初アララ仙人という師に師事しました。

イエスの先生はヨハネという人なんです、バプテスマ・ヨハネ。

(注:バプテスマは洗礼の意味)

この人がまた面白いですね。

野原に住んでいて、らくだの皮かなんかを着て、食べていたのはイナゴと蜂蜜だけなんだから。

これすごいなあ。

言っていることがまたすごい。

「お前たちはもうカルマに染まっている、悪に染まっているからもうだめだ」

「お前たちは本当にね悔い改めないと、懺悔しなかったら死んだ後、火に投げ込まれるからだめだ」と。

それで「蝮の子供達」みたいなことを徹底的に言うわけです。

まあそういう人なんです。

イエスと対照的といえば対照的なんです。

とにかく、洗礼を受けてね、水の中で悔い改めて、神の心にかなうようにしろ、と言っていろんな人たちを集めて、「やっぱり俺たちだめなのか」みたいなね。

だいたいユダヤ教ってそういう「お前たちはだめ」という罰の宗教ですから。

これやんなきゃだめ、これやんなきゃだめ、ってがんじがらめです。

女性なんか大変ですよ。生理のときどっかへ隔離されちゃったりして。

今は黒ずくめの人たちがいますけど。

あれだってもともとのではなく、ヨーロッパのときのユダヤ人の格好なんです。

話が複雑ですよね。

いま白人系のユダヤ人っているでしょう?

もともとのユダヤ人とは違うんですよ。

どう区別するかっていうと、もともとのユダヤ人というのは、今のパレスチナ人たちなんです。

いわゆる白人系ではなく、アラブ系なんです。

なぜ彼らがイスラム教徒になったかというと、イスラム教が生まれてすごく強くなってから、

「お前たちイスラム教徒になったら税金をただにするから」と言われて、ユダヤ教からイスラム教徒になった人たちなんです。面白い話ですね。

だけどイスラム教徒にならずにユダヤ教のまま残った人もいるんです。

その人たちは、アラブ系の顔をしたユダヤ人なんですよ。

今の白人のユダヤ人というのは、もともとパレスチナにいた人たちではなくて、ロシアの一部にカザール帝国があって、そこの王様がユダヤ教になぜか改宗したものだから国民全員ユダヤ人、ユダヤ教徒にさせられたんです。

それでみんな白人なんです。

だって中東だったらみんなアラブ系じゃないですか。

イエス・キリストの絵って白人系の顔で描いてありますが、違いますよ。

それは最近の考古学でもはっきりしたし、本当は歴史学者はみんな知っているそうです。

だけどそれを言ってしまったらイスラエル建国の歴史が成り立たないでしょう。

だから言えないんだそうです。

だって、「おれ達もともと居たんだからお前たち出ておけよ」と言ってイスラエルを作ったでしょう。

元々いたのはアラブ系のパレスチナ人です。

アラブ系の顔をしたユダヤ人は元々居たかもしれないけど、という話なんです。

ややこしいでしょう。

話を戻すと、イエスはヨハネに洗礼を受けます。

このヨハネという人はなかなか謙虚な人なんです。

「私はこうやっているけど、これから先に来る人は私は靴の紐を結ぶ値打ちもない、素晴らしい偉大な人が来るんだ」と前から言っていました。

それでイエスがそこに現れました。

「いやいや私は貴方に洗礼を授けることなんで出来ませんよ」と断るんだけど、「いや今はそうして欲しい」とイエスが言うんで、洗礼をさずけました。

聖書によれば、そこでぱっと光が差して、天から「貴方こそは私の心にかなう者」と神様がイエスに言ったのがヨハネに聞こえた、となっています。

ヨルダン川で洗礼を授けたのでしょう。

これに書いていないんだけど、ヨハネはどうなるかというと、かわいそうにヘロデ王につかまって殺されちゃうんですね。

なんで殺したかと言うと、奥さんかなんか(注)が殺してというので…

これはあんまり暗い話なんでやめておきましょう。

(注:ヘロデ王の姪サロメがヨハネの首を求めた)

みなさん、機会があったら、ネットでも聖書を読んでみてください。

だけどなんで聖書は2000年も繰り返し繰り返し日々読まれているのでしょうか。

物語というのは人の無意識に入るから、しかも聖書だけじゃなくて、北アフリカ一帯にあるような物語なんです。

だから我々の心の中に打つものがあるわけです。

例えば、仏の子、神の子を産むっていうことを、頭でわかってなくても物語がそれを暗示させるわけです。

十字架にかけられて死ぬっていうのは、まさに受持と言うテーマで、人々のカルマを背負って、自らの我を殺して、それによって我々の魂を復活させるという、その一連の流れですよね。

そういう象徴なんです。

そういうふうに思って読んでいただくとよいと思います。

イエスに13人の弟子がいますが、最初の二人は、有名なペテロと、アンドレアという人です。

ピーターという名前があるでしょう、あれはペテロの英語読みですからね。

キリスト教圏ではだいだい聖書から名前取るんです。

弟子たちが最後みんな裏切りました。すごい話ですよね。

ペテロなんて、「おまえあの人と一緒にいただろ」と言われて、

「あんなやつ知らない」と言って逃げちゃいました。

だけど、これは不思議で分からないんですよ。

イエスが殺された後に、もうがらっと変わって最初の殉教者になるんです。

ローマに行って迫害され、最後は十字架にかかって死ぬんです。

その時に、「イエスと同じ形で十字架にかかるのは私にはもったいないから、

逆さ十字架にしてくれ」みたいな、それ位の殉教者でした。

逆さ十字なんて大変だったんじゃないんですか。それぐらいの人です。

ヘタレな奴、みたいな感じだったのに、なんであんなこんな変わったんですかね。

二人とも猟師でした。キリスト教の弟子は大体学のない人が多いですね。

仏教は割りと坊ちゃんが多いんですが。

だって坊ちゃんじゃないと、生活に追われちゃって時間がないから、人生とは…なんてこと考えないじゃないですか。

お釈迦様だってそうでしょう、時間が有り余ってて、人生とは…と考えちゃうわけでしょう。

お父さんが一杯美女とかさ、うまい飯を食えだとか言ったのかもしれないけど。

社会生活に追われたりしてるとなかなかそんなこと考えられません。

日蓮上人だけは猟師の子、後は大体いいところのボンボンです。

まあキリスト教関係は、イエスも大工の息子だから「仕事をほっぽり出して家の手伝いもしないで」みたいに親戚からもみんな疎まれていました。

伝道に行っても、「あんなやつだめだ、仕事もしないで」とか言われて帰ってくるわけです。

「預言者郷里に容れられず」という有名な言葉を残して去るわけです。

どこかに伝道に行っていると、お母さんとかお姉さんが、心配で来るんでしょうね。

できれば仕事して欲しい、人集めて何やっているの、というそういう気持ちもあったのじゃないでしょうか。

誰かが「お母さんと、お姉さんと心配で来てます」というと

「誰?知らない。わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことであるとか言ってカッコつけちゃって(笑)

イエスのそういうところは僕は好きなんですよ。

そういうなんか、悔し紛れみたいなところがあったりとかね。

聖書ですごい悩んでたりするんですよ。

ペトロとアンドレアのもとにイエスがやってきて、霊的な素養を見抜いたから言ったのか分かりませんが、

「私について来なさい、あなた達を人間をとる漁師にしてあげよう」って言うんですよ。

だけど、人間をとるって、どういう意味か、さっき考えたんだけど。

人間をとる漁師にしてあげようといわれて、どうなんでしょうね。

ネズミ講じゃあるまいし(笑)。

もし言葉が日本語だったらね、ドジョウ掬いとか金魚掬いとかいうからさ、

人びとを霊的に救う、そういう意味で言ったのなら分かるんですけど。

おそらくいろんな意味があるんでしょうね。

つまり、ある意味で厳しい世界ですから。

この山上の垂訓に出てきますけどね。

「義のために迫害されてきた人は幸いである。

私のために人々があなた方を罵り、迫害し、あなた方に対し偽って様々な悪口を言うときは、

あなた方は幸いである」。

もうこれから先どんなに苦しみが待っているか、ということは分かっているわけです。

本当のことを言えば言うほど、人は反発しますから。

それはそうでしょう。人は本当は夢を見ていたいわけですよ。

その夢がどんなに未来に実を結ばなくても、目を覚まさせないでくれ、というのがカルマの働きでしょう。

「このユダヤ教のがんじがらめの世界のなかで、いつまでやっているんですか」

ということを明確に言うから、迫害されるし殺されるわけじゃないですか。

ほんとのことを言えば言うほど、それが真実であって、相手の為になればなるほど、ネガティブな反応を最初は受けるわけです。

それはもうこの世の基本といって良いくらいのことです。

そういう意味で、厳しさということを前提にしなければなりません。

おそらく、アンドレアとペトロは内面では、単なる漁師じゃなかったんでしょうね。

イエスは彼らが本当に求めている、ということを先の先まで読んでいた。

こいつは後で裏切ってその後で大転換して、後世に残していく人間達だ、と言うことを見抜いておそらく声をかけたのでしょうね。

そこで、方便として人を癒して、治療しながら、

人々が段々イエスの話を聞いていくようにしていくわけです。

すごい方便といえば方便ですけど。

山上の垂訓に行きます。

一番有名な、山の上で教えを垂れた、という、説教なんですが。

有名なので簡単にだけ言いますと、

「心の貧しい人は幸いである。天国は彼らのものである」

「悲しんでいる人たちは幸いである、彼らは慰められる」

「柔和な人たちは幸いである、彼らは地を受け継ぐだろう」

10個位出てくるイエスの教えですけど、どういう意味でしょうね。

これは一つ一つ、実に深い。

だって、普通に考えたら、「心の貧しい人は幸いである」とはどういう意味か疑問を感じますね。

これは見事にエックハルト先生が明かしてくれています。

心の貧しい人とは、自らを最低に落とすという意味です。何物も誇らない人。

我々の中には必ずどこかね、人に対して誇ろうとか、人に対して優位に立とうとかね、そういうものを持つから、その分だけ神様が入ってこないんです。

自らを最低に落とすからこそ、実はその自らの最低の部分にこそ、神様の、如来様の愛がかかっているから。

それが心の貧しき人なのです。

その貧しさに如来様の光明が当たっていることを認識したとき、大転換を起こします。

それこそが、まさに自分の人生を思い通りに自由にしていく根源になるのです。

自らを立てる…いろんなことで立てるでしょう。

「私がこれやりました」とか、「私にはこれがあります」とかね。

逆に、一見逆なところで上に立つ場合があります。

「私にはこれがないですから」、これは貧しくもなんともないですよね。

「私はこれで過去にこんなつらい思いをしました」、と立つ人もいます。

「私は傷つきましたから」、と立つ場合もあります。

それは心貧しき人ではないですね。

私は何者の上にも立たない、それでこそ如来様が入ってくる。

だから天国は彼らのもの。そこに天が、如来様が宿る、と言うんですね。

「悲しんでいる人たちは幸いである、彼らは慰められる。」 

これはどういう意味でしょうか。

これも誤解するとね、じゃ悲しんでいればいいのか、みたいな話になってしまいますが。

法華経に同じような言葉が出てきます。

悲しみをずっとまとっているから、悟りが得られたという言葉が。

(注:常懐悲感 心遂醒悟(じょうえひかん しんすいしょうご))

これは切心の話です。人のために、人の悲しみを負うということです。

人の悲しみを負えるということです。

そこに自分の悲しみを入れないんです。

自分の悲しみを入れた場合は、切心のネガティブな使い方になってしまいます。

自分の悲しみの根源はカルマですけど、そのカルマはどうやって解消されるのでしょうか。

カルマによって悲しみの体験をするわけです、そうでしょう。

カルマがあるからつらい思いをする。

それは何のためかといったら、そのカルマは、人のカルマなんです。

本当は誰も、自分のカルマというのはないんです。

その悲しみを、自分が使うためじゃなくて、人に共感するために悲しみを負っていれば、如来様に慰められます。

それによって人々を慰めることが出来るから自分も慰められます。

そのことをイエスは言っているのです。

単なる言葉だけじゃなくて意味があるのは、イエスは一人一人こうやって、自分が悲しみを共にしてね、人々の悲しみを全部背負いながら、生きていっている。

全部切心で受け止めながら背負っていくんですね。

だからこの言葉も意味を持つんでしょうね。

「柔和な人たちは幸いである、彼らは地を受け継ぐだろう。」

柔和っていうのは、自分を拠り所にしないから、自由自在に、柔軟(にゅうなん)に、どんな人に対しても、その人にとって最も良いように接していく。

だからそのひとは、地を受け継ぐ。

地というのは、人々にとってそれが世界になること。

人々にとって、それが自分を支えるものになる。

地というのは、支えるでしょう。

人々に対しての支えになる、という意味なんです。

これは自分を前提にしてやるんじゃないですね。

人々の、それぞれの人に対してを前提にしてやるので、本当にそこのとこへ転換されていったら、問題なくなるんでしょうね。

「義に飢え渇いている人たちは幸いである。彼らは飽き足れるようになるだろう。」

義というのはどういう意味かというと、この世の真実ですね。

この世の真実というと一言で終わっちゃうのだけど、これ大変な話ですよね。

だって殆どの人は、知りたいわけじゃないですから。

夢を見ていたいわけでしょう。

真理というのはそんなものじゃなく、非常にシビアなものです。

まず、自分がどう生きてどう死ぬかっていう、その瞬間ごとにどうするか、何が真実か、

という風に生きていかないと真実が見えてこないですから。

本当の真実はこの瞬間にしか存在しない。

だけど般若心経の遠離一切顛倒もそうですけど、大体夢想して、

なんとなく幻想に支えられて行ってしまう。

だけど、「それじゃ、それで終わりたくない、そんなもののために生まれてきたのじゃない」

という人が、義に飢え渇くわけです。

「真実は何なんだろう、知りたい」と。

存在の本質というのを求めていって、それで神の道、修行の道に入っていくわけです。

実際に入っていくと、当然厳しい世界です。

それはそうですよね、厳しい世界です。

だからイエスの迫害物語がある。イエスは迫害されていくでしょう。

真実を言えばいうほど、そうやって厳しいものが待っています。

真実に目覚めれば目覚めるほど…

だけどそれをやり抜いていけば、天国が、お浄土がひらけますよ、と。

そういう話です。

(終わり )