人生最大の秘密とは?無量寿経 第10回


法話ライブ at  東京道場  2016年12月17日

法話:遠藤喨及

書き起こし:純佑

動画URL:

https://www.youtube.com/watch?v=2jiGnFJN-uI


今日は、人生で一番大事なことを話そうと思います。

これはおそらく、誰も語らなかったことで、新しい修行メソッドにも繋がる話です。

もっともそれを実際にやるかどうかは、皆さん次第ですが、、、。

(1)認識している世界そのものが自分

今、皆さんは、道場や人を認識しているでしょう。

これがフィールド、つまり自分が認識している世界です。

もちろん、目で認識していなくても、心のなかにある光景もそうです。

、、、フィールドです。

通常われわれは、外部フィールドのなかに自分がいると思っている。

フィールドから色々刺激を受けていると思っている。

周囲にあるものが、向こうから自分に影響していると思っている。

ところが実際には、フィールドそのものが自分なんです。

認識している世界そのものが自分なんですよね。

しかし通常は、”フィールドは外部世界であって自分ではない”と思っている。

だから、満たそうとするのは肉体の必要性であったり、肉体が所有できるものであったりします。

私たちが認識している世界。

通常はこれらを物質だと思っていることでしょう。

でも物資の本質は、振動しているエネルギーです。

認識している世界には、空間もまた含まれます。

そして空間もまた気エネルギーに満たされています。

だから場の気が、「明るい、暗い」とか、「重い、軽い」などのエネルギー波動があるのです。

私たちは通常、そうしたエネルギー波動の状態を感じています。

感じるだけでなく、明るくすることも暗くすることも、軽くすることも重くすることもできるのです。

そして、それができるにも関わらず、そのエネルギーをどのような状態にするかに対しては、なかなか責任を取ろうとしません。

それらは外部世界であって、「人ごと」だと思っているからです。

自分に責任がないと思った場合、人は自分を世界の「被害者」にします。

そして怒ったり、暗くなったりするのです。

でも、フィールドは自分なんです。

フィールドのエネルギー状況は自分が作っているのです。

あそこにいる憎たらしいあいつは、誰なのか?

ここにいる素晴らしい人は、誰なのか?

「憎たらしい」と思う相手。

それは「自分の無意識の中で”やりたい”と思っていること」を、その人がやっている人なのです。

そして、「素晴らしい」と思う相手は、自分が潜在的に持っている「可能性」を顕している人なのです。

素晴らしさも憎さも、、、そもそも自分の中に無い要素は、相手の中には認識しないのです。

(2)フィールドに何を満たすのかで人生も来世も決まる

人間の脳は、現に起こっていることに対してフィルターをかけていて、約200万分の1しか認識していないそうです。

もし、フィールドが自分だとしたら人生は劇場ですね。

その脚本を書いているのも自分だし、主役も脇役も観客も監督も、全て自分です。

弁栄上人もそう言われていますよね。

私たちは、フィールドにいったい何を満たすべきなのか?

普通はそんなこと考えません。

でも、フィールドに何を満たすのかで、人生が決まるんです。

来世も決まるんです。

フィールドが自分でないと思うと、外界に対して自分は受け身になってしまいます。

そして人生が、過去からのカルマのままに流れていってしまいます。

人間の心は、90%以上が過去の延長なんです。

わずか数%が未来に向かう。

そのわずかなスキをかいくぐって未来を創れるかどうか?

人生はこれにかかっています。

(3)念佛しているとき、道場のフィールドに何を満たすのか?

佛法僧の三宝受持をすれば、無量寿経に書いてあるようにカルマは如来に摂取されます。そして氣の体に光が満ちてきます。

場面場面で、色々なフィールドがあります。、

皆さんは念佛しているとき、道場のフィールドに自分が何を満たしているのか、自覚しながらやっているのでしょうか?

果たして自分は念佛道場のフィールドに、智恵光、大愛、歓喜、本願を満たすことに責任を持っているのか?  、、、考えたことはないですか?

(動画 飛び)

(4)全てはエネルギーでしかない

実験によれば、素粒子は認識しているときだけ氷みたいに固まっているから、モノとして認識できるそうです。

でも、認識していないときは波、バイブレーションしかない、、、。

だから、全てはエネルギーでしかありません。

我々が認識し続けているから、固まっているように見えて、モノとして認識しているのです。

この事実は、念佛をやっていると体感的に分かってくるはずです。

だって氣のワークで体感できるでしょう?

もちろん念佛でそれが体感できる。

でも念佛だけじゃないですよ。

日常生活にだって、それが体感できるはずです。

コミュニケーションの場でも体感しているはずです。

体感を引っ込めてしまうとしたら、それは自己関心に向かっていて、

存在が固まっている状態だということです。

(5)コミュニケーションの場にこそ回向

念佛で、「存在が固定されていないエネルギーであり、透き通って抜けていく」

という体感が得られるようになります。

認識する世界と認識外の世界(フィールド)に向けて、

一切に回向していくのが我々タオサンガの念佛です。

諸法無我ですから、自我をいくらいじくり回してもしょうがないですよ。

そうではなくて、コミュニケーションの場でこそ、回向しなくてはなりません。

三宝受持すれば智慧の光を与えられるし、

三宝憶念すれば大愛を与えられる。

それを回向するのが念仏であり、タオ指圧であり、

サンガのコミュニケーションの場なんです。

「剛玉」というのは我々の意志力、金剛心の象徴です。

受持するかしないかは、意志の問題です。

”できるか? できないか?”ではなく、”するか? しないか?”なんです。

責任を引き受けるというのは、精神的に言えば父性であり、男性性です。

だから責任を引き受ける人って、頼り甲斐があって男らしい感じがするでしょう?

そうでないと、なんとなく男性性が欠如している感じが否めないですよね。

男性性、父性が欠如すると、リーダーシップを取ることはないですね。

人から頼られたり信頼されなければ、リーダーシップは取れません。

ここで言う男性性って、生物的な意味ではないですよ。

女性も本当に意味での女らしさというのは生物的な意味ではないのです。

内なる男性性を豊かに有しているからこそ女らしさとして外に現れるという、

パラドックスが起こるのです。

また、切心の奥には宇宙の中心であるポチがあります。

ポチというのは植芝盛平先生(合気道の創始者)の表現ですね。

ポチは切心の奥にあり、切心は母性で女性性なんです。

(6)条件無しで決め、条件無しで行動する。

陽念佛では三宝を讃嘆します。

讃嘆するのは上から目線で「褒めて遣わす」というのでありません。

人に、「良いと思います」なんていうのは、讃嘆ではなく、上から目線の延長です。

子供の心で「凄いな!」とか「感動した!」というのが讃嘆なんです。

上から目線なんて一つもない、子供性が賛嘆なんですよ。

未来を決定する。

自他の願いを実現することを決定する。

誰かが願っていること、、、「それが絶対成功する」、「成功しなかったら自分が責任を取る」くらい強く决定する。

すると、相手の無意識に、未来の実現の種が植えられるんです。

そういう聞き方、コミュニケーションをするのです。

自分の未来に関しても、同じです。

条件つきで、、、、だったら実現する、ではないです。

「とにかく未来はこうなる」と決める。

これが先なんです。

条件無しで決め、条件無しで行動する。

これは青年性ですね。年齢ではないですよ。

若年寄というじゃないですか(笑)

父性、母性、子供性、青年性の四つが我々の中に豊富にあり、

受持してフィールドを智慧の光で満たす。

未来を想うとき、念佛しているとき、一人でいるとき、

憶念することでフィードを大愛で満たす。

子供性で三宝を人を讃嘆し、存在の根源である歓喜でフィールドを満たす。

コミュニケーションの場では、誰かが素敵なことを言ったとき、

子供のように「すごいね、感動しちゃった」と言えば、その人自身も喜ぶ。

そしてフィールドに歓喜が顕れますよね。

7)今死んだら、今自分を誇れますか?

私たちの人生は、フィールドです。私らは、フィールドの中を生きているのですよ。

一体、何をケチってフィールドに心を入れず、狭い自己愛の中に人生を閉じ込めるのか?

そんなんじゃ人生が、かわいそうですよ。

フィールドこそが自分なんだから。

どれほど無限に人生を豊かにできるのかわからないのに、なぜそう生きないのか?

父性で「何をやっているんだ」と自分を叱咤激励し、自我から人生を解放してあげないとね、、、。私たちは、人生に対して、そういう責任がありますよ。

相手を大愛を満たし、讃嘆する。

「お前すごい!」というのに理由はないんです。

人は、”みてくれ”じゃないですよ。

生き方がカッコよければ、自分で自分を誇れるんですよ。

果たして死ぬとき、自分に対して誇れるのですか?

今死んだら、今自分を誇れますか?

松下幸之助さんの話ですが、大成功した後に振り返ってみると、

町工場を一人で造って一日中働いた後に行水しながら「今日の自分はよくやったなぁ」

というときが一番幸せだったそうです。

死ぬときに、そんな風に人生振り返れますか?「今回の人生、自分はよくやったなぁ」って。

松下幸之助には「蛇口から水が出るように、電気製品を世の中に供給したい」という願いがありました。

幸之助さんのように、自分の未来を決定し向上していくときは、自我は関係なく、フィールドが全てになります。

决定しているとき、自分はフィールドに本願を宿らせています。

フィールドに如来の智慧光、大愛、歓喜を宿らせる。

そのとき「ああ、自分は生きてる!」という感じがすると思いますよ。

(8)無量寿経には、タオサンガの言っている4つの念佛の境涯が書かれている

最後に、少し無量寿経について話します。

この光に遇えば、三垢消滅し、身意柔軟にして、歓喜踊躍し善心を焉に生ず。

一つ一つ意味を解説します。

まず「この光に遇う」とは?

如来の光明である智慧光、大愛、歓喜、本願の四つの働きに遭う。

三垢消滅する、とは?

”受持によって、氣のからだについていた魔やカルマが消滅していく”こと。

身意柔軟というのは?

三宝憶念(愛をもってタオサンガ仏法僧を想う)によって得る大愛体験の事。

大愛体験をすると、身も心も柔らかくなり、甘く溶けたように気持ちよくなります。

歓喜勇躍というのは?

三宝を讃嘆すると歓喜が湧いてきて、ありとあらゆる潜在的な可能性が発現して来る事です。

すると、どんな自分でも演じられる。

そういう柔軟性や子供性が顕れて来る。

何事も「演じればできるし、ワークのときはできる」

だから自分のことを限定していてはダメですね。

善心が生ずとは?

善という言葉が佛教で出てきたら、悟りに向かう心、浄土に向かう心、本願に向かう心の事です。

三宝に决定(けつじょう)することによって、如来の本願が顕れてくることを、「善心が生じる」と表しています

まさにタオサンガの言っている4つの念佛の境涯が、ここに書かれています。

(9)音の響きによって悟る

もし三塗・勤苦の処にありてこの光明を見たてまつれば、みな休息することを得て、また苦悩なけん。寿終わりて後、みな解脱を蒙る。

これは、「たとえ地獄、餓鬼、修羅の三悪道に落ちている人でも、念仏回向によって、この光があたり、苦しみがなくなる。そこでの命が終わったら、次に天界に生まれる。」

ということです。

無量寿経では、お浄土がどんなに素晴らしいところかという描写がでてきます。

例えば「お浄土に樹があって、そよ風が吹いたら数千万の楽器が一度に鳴ったように素晴らしい音楽が豊かに広がり、喜びが深まっていく」と。

無量寿経では、「音響忍」という言葉があります。

「忍」は悟るという意味です。

音の響きによって悟るということです。

お浄土の特徴の一つが「音響」忍なんです。

さらに、”人間の世界でも、乞食に比べたら王様はいい暮らしをしているようだけど、そんなのは天上界に比べたら乞食のようなものだ”と。

”上位の天界に比べても、お浄土はその百千億倍素晴らしい”と書かれています。

上巻はここまでですね。

(10)そもそも人間という霊的ステージは無い

フィールドである世界が自分だし、自分の人生であり、自分でそれを創っているのです。人生では、フィールドに何を満たすのかが問われているのです。

そして責任を引き受ける、三宝受持をしなければ、人生にはカルマが宿り、それは来世に引き継がれる。一方、三宝受持すれば、人生に光が宿り、来世においてもそうです。

カルマか智慧光か? 宇宙には、そのどちらかしかないんです。

そもそも人間という霊的ステージは無いんです。

天上界、お浄土、修羅道、餓鬼道等はあっても、人間の霊位はない。

形は人間であっても、天上界、修羅界、畜生、餓鬼、地獄、いずれかの霊位であるかしかないんです。その他、修羅界の上の中有というのもありますが。

だから死んだら、その世界のいずれかが現れます。

それは現在の氣の状態でわかります。

今は人間の形をしているから、いくらでもごまかせます。

でも、氣はごまかせませんね。

場を受持するかしないかで、気はわかりますね。

三宝を受持することに比べたらよほど簡単なはずですが、、。

三宝受持をすれば光が宿り、しなければカルマが宿る。

これって、すごく面白いでしょう、ドキドキしませんか

人は、場を受持しないことを、「今までして来なかったから」とか、「習慣だから」、とか「積極的に落としているわけではない」、とか、我でもって逃げ道を作ってしまいますけどね。

でも、コミュニケーションのワークで、

「場を受持をしなければ落とすのと同じ」という体験をするでしょう?

(11)峻厳な事実、宇宙の真実というものを真正面から受け止める

量子力学では実験結果が事実であるように、氣の体験は事実です。

いくら逃げても、私たちは事実からしか学べないのです。

人間界はいろんな霊が同居しています。

それ以外の霊的世界では、同じ魂のレベルだけが集まって存在しています。

それをよくよく考えて頂きたい。

自分がフィールドに満たした気が自分の行く世界であることを。

自分はフィールドを光で満たすのか?

カルマでみたすのか?

もしタオサンガで修行するなら、これらの峻厳な事実、宇宙の真実というものを真正面から受け止めて頂きたい。

そして、法を一切に分かち合うのです。

私たちが法に出遇あった者(この光に遇う者)として生きるには、本当はそれ以外の選択肢は無いのです。

もちろん逃げてもいいんですけど、いずれの人生において再びやり直さなくてはなりません。そして、それなら、死んで行く世界にはあまり期待しない方が良い。

今ここでフィールドを大愛で満たすのか?

それとも、今までのように自己愛で満たすのか?

人を子供のような心で賛嘆するのか?

それとも「褒めて遣わす」というような修羅的上から目線で評価するのか?

人には無関心なままなのか?

青年のように未来を决定(けつじょう)して人生を来世を創っていくのか?

過去に流され、輪廻を流浪し続けるのか?

瞬間瞬間、自らの生き方、死に方を決めていっていただきたいと思います。

厳しい話だったかもしれません、、、。

でも私たちは、事実からは逃れられないんです。

南無阿弥陀仏。皆さま、良い人生を。

                             (合掌)