ユーモアクラブより転載。

北広次郎エッセイ集 ミスターヨーロッパだより

第8号 『クオバディス孤島国Jジャパン?』(その三)

    (英国ロスチャイルドが北に贈った感謝状のわけ)

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 英国ロスチャイルド家第五代当主エドムンド・ロスチャイルド男爵は、終戦後の日本政府発行国債を引受けて、日本国の復興に貢献したことにより、昭和天皇より訓一等菊花瑞宝勲章を授与されている。遡って明治時代、日本国鉄建設の時も、日本政府発行の鉄道建設国債を引受けているが、日露戦争時に四回発行された日本政府発行国債をすべて引受けた歴史がある。

 その理由は当時、ロシヤ革命前のロシヤ帝政時代のロシヤのユダヤ人は弾圧を受けて苦悶していた。『ユダヤの民を虐げる帝政ロシヤと戦う所なら、どんな小国だろうが金を出そう』と、当時の英国ロスチャイルド家当主は 若き高橋是清にいった。

 高橋是清はニューヨークウオール街を駆け回って明治政府発行戦争国債の引受け手を探して歩いたのだが、小国ジャパンが超大国帝政ロシヤを相手にする勝敗の結果は明白であると誰しもが考えるのが当然で、引受け手探しは不調に終り、失意のまま帰国前にロンドンに立ち寄った。

 しかし捨てる神在れば拾う神ありで、帝政ロシヤのユダヤ人抑圧に、憂いを抱く、ロスチャイルドは、高橋をロスチャイルドパレスに食事に招き、国債引受を申し出たのである。

 当時の英国の対ロシヤ政策は複雑であった。まず英露通商友好条約を結んでいるので、直接の帝政ロシヤと対戦はしにくい。英国は16世紀末から17世紀以来、東インド会社を設置してアジヤ大陸にもインド、パキスタン、アフガニスタンなど植民地を抱えているが、帝政ロシヤの露骨な南侵略には、脅威を感じている。政略的には、帝政ロシヤのロマノフ王朝の皇帝には大英帝国王室から皇女を嫁がせていた。

 日露戦争の始まる二年前1902年には、日英同盟を結んではいるが、しかし当時の超スーパー大国帝政ロシヤを、欧米人から見ると、知名度もない国力もない、地球儀でも見つけにくい極東の離れ島である小孤島国が、子犬がマンモス象に噛みつくくらいにしか思えないのである。しかし結果的には、奇跡はおきた。歴史家は 日露戦争のことを英国の代理戦争と言うものもいる。しかし、さらに分析すると、産業革命の英国を基盤に、ユダヤ人マルクス、エンゲルスが唱え体系ずけた科学的社会主義すなわちマルクスレーニン主義思想が、中枢の欧州国では実現しなかったが、それをより発展させ実践したのが北の大領土を抱える農奴国のレーニン率いるポルシェヴィキであった。ロシヤ改革の主役は労働者と兵士だというが、もともと労働者も兵士も農民農奴階級の息子たちである。帝政ロシヤ末期の兵士は帝政に対する反乱やサボタージュを起こすしていた。日露戦争のころ、帝政ロシヤは内部崩壊を起こし始めて)いたのである。

 革命のモデルの源流はナポレオンの起こしたフランス革命にある。皮肉なことはロシヤ帝国の宮廷用語は、ロシヤ語を禁じ、フランス語とし、ファッションもバレーもフランス風を採用させた。

 四海孤島国Jの一般国民は当時、その意識はなかったにせよ、結果的には、日露戦争は帝政ロシヤを崩壊に導き、ロシヤ革命を推進する起爆剤となった。日露戦争では、孤島国Jは多くの兵士の命を犠牲にした。さらに切実な問題は、ロスチャイルドに四回も引受けて貰った国債による莫大な戦費も底をつき、その裏の実情をいうと、孤島J国家の台所は火の車であった。

 1905年9月、日露戦争に幕を下ろす仲介をしたのが、米国のルーズベルト大統領であり、ポーツマスで講和条約を結ぶことになった。この日露戦争は、その結果、ロシヤ帝国が侵略をはかっていた領土の権益を、孤島国Jが引き継ぐことになる。孤島国Jは朝鮮半島における優位性を掌握し、関東州の租借、南満州の鉄道の譲渡、下田条約以来曖昧であったサハリン(樺太)は中間に境界線引きをすることに決まったものである。しかしこれが、戦後から現在に至る四島論争問題にも絡むことになっている。しかし孤島国Jの国民は、先祖が千島列島に住んでたという人々以外、真剣に千島列島のことを考える者はいない。ただ漠然とムードだけで言うもの、政治家が多く、歴史を理解して物言う孤島J民はほとんどいない。然たるムードの『ジャパン病』は、北方領土のみならず、いま全国に蔓延している。それは特に、経済政治の分野でもいえるが、幕末明治維新の国家的ビジョンに基ずいた、信念の骨のある為政者や財界人が欠如している。 漠然ムードの『ジャパン病』は暗雲を広げている。選挙目前に迫ったが、流行語大賞にもならぬ内に化石語になりそうな『改革』を口頭リップサービスに使う政治にはうんざりしてないだろうか?もう国民は『改革』の二文字は聴き飽きててる感がある。ことばだけの『改革』の安売り時代にはいってしまった。およそ『改革』なる言葉の似合いそうもない政治家も、面映ゆさをかくしながら『改革』を口にして、腕だけは挙げて見せるが、その腕には迫力のエネルギーが見えてこない。これこそ平成のブラックジョークである。それは年齢の高低には関係ないことだ。国民の納得する具体的な代替案は何も示さず、ただ『反対』を連する政治家にも国民はうんざりしてる。

 『ジャパン病』のもう一つの特徴は『いかがなものか』『的』曖昧用語を乱発する政治家である。これこそ典型的ブラックユーモア(ブラックジョーク)用語である。漠然たるムードの『ジャパン病』とは、曖昧ムードの『ジャパン病』のことでもある。

 現今のJ孤島内社会では、『それもありかな』『どっちでもいいじゃないか』という『ジャパン病』があり、モラルディシプリンをぼかして、カッコつけてお笑いで済ます、もっと言えばごまかす、要するにはっきりいって 当たり障りなくパスしようと言う『ジャパン病』である。これが社会現象になっては、国力をなくしてしまう。国力とは政治判断力であり、外交力であり、財政経済力であり、創造力、柔軟思考力であり、好奇心力、探求力、競争心力で在り、科学力であり、その応用組合わせ力であり、総合力である。

 

 最近、孤島国Jの弱点である柔軟性のある応用活力に欠け、孤島国J発信の基礎技術の工業化において、韓国、台湾、中国に放送通信技術製品化に、どんどん差を付けられてる現実を、理解能力する能力がない政治家や官僚が増えている。タレントやお笑い芸人や政治家二世三世が、本当に勉強家で優秀なら政治家になる事はおおいに結構である。しかし孤島国J内では、国家的大計の政策や戦略は二の次三の次で、ただTVで顔見るタレントに票を投ずるという『ジャパン病』は、ブラックジョークである。

 それは今まで、民主主義ならぬ民主主技で、国民不在の路線を引いた官僚の天下り議員に投ずるよりは、ましだが、四海孤島国Jは極端なムードセンチメンタルピープルで、真の意味でのバランス感覚がないのが、重度の『ジャパン病』たるゆえんであり欠点であり欠陥である。そしてそれを素直には認めたがらない鎖国性も『ジャパン病』症候群現象である。

 ムードに流されやすいという『ジャパン病』は、ある時には、戦前戦中のように、情報統制で国家総動員式にムードで、動かされることも可能である。そのDNAは鎖国江戸時代から受け継いで来た。

『無理が通れば道理引っ込む』『ながいものにはまかれよ』『えやないかえやないか』『のど元過ぎれば熱さ忘れる』の『ジャパン病』から『みんなで渡れば怖くない』『当たりさわりの無いように』『何でもあり』『みんなで渡れば怖くない』『普通でいい』という軽薄『ジャパン病』になる。

 もうおためごかしの口頭だけの『改革』の連呼より、真(心)の『革命』が必要である。自分もかつて学生運動の中にいた時代もある。そのころ自分達なりに、四海孤島国Jの将来を考えていたつもりであったのだが、誤りの部分もああったと素直に、認めよう。『弘法にも筆の誤り』なんて、言いわけはは決して言わない。日本赤軍派とか、カクマルとかは、逸脱した後の話しで、純粋な学生運動ではない。

 ここでいう『革命』は『暴力革命』をさすものではない。『革命』にもいろいろあるが、四海孤島国Jにもっとも必要なことは、先ず『知的革命』『啓蒙的革命』『教育革命』『認識革命』である。『認識革命』とは『歴史認識革命』『曖昧精神脱皮革命』『目的意識革命』『識別力革命』『知的認識革命』『真のユーモア精神革命』である。

 四海孤島Jの悪しい弊害症状は『真のユーモア精神の欠如』であり『のど元過ぎれば熱さ忘れる』『臭い物には蓋』『熱しやすく冷めやすい』『触らぬ神に祟りなし』『建前と本音』の『三十六計』である。つまり『難局には後ろ向き』『最後は逃げ』の『御都合主技精神』『放棄主技精神』である。こうなると『精神』でなく『根性』というべきかも。

『孤島国Jの二世三世首相の短命内閣』は世界で類例を見ないブラックジョークの『ジャパン病』現象であるが、短命内閣では、国家の政治、国家の財政経済立直し政策も、全部中途半場に終わることは自明の理である。その事は、最近経済成長著しいアジヤの近隣諸国の政治家やリーダー達と対比するまでもなく、だれにでも分かる。四海孤島国Jにも明治維新以降、強いリーダーシップの政治家が輩出した。戦後は財界人の中にもいた。いま、それが出て来ないJ孤島国になってそまった。孤島国Jはそれが極端過ぎるのである。孤島国Jには いい意味での『前代未聞』がなく、好ましからざるブラックジョークの『前代未聞』が続いたため、『前代未聞』という日本語が、アーカイブの陳腐語になってしまった。

 今一度話しをロシヤに戻すと1854年(安政元年)下田で江戸幕府の全権委員とロシヤ使節プチャーチンとの間で結ばれた和親条約では、凾館・下田・長崎三港の開港を約し、千島列島の境界線をウルップ・エトロフ両島間に定めたが、間宮林蔵が探査した樺太の境界線は当面保留扱いとした。日露戦争の結果、それまで境界が定かでなかった樺太は日露間で南北折半することになったのである。

 これが孤島国Jが本確的に、植民地帝国となった時である。資源を求める重工業化へと進み、資本主義化の街道をつき進むことになった。そして第一次世界大戦では戦勝国側について、ますます、その傾向が強まる。しかし急激な植民地帝国化は、段々植民現地での摩擦をも招くようになって行く。

 先日イラク戦争介入時点の英国の検証委員会が始まったことに関し、英国の歴史学者が、『英国はイラクでの歴史の教訓を生かし得なかった』ということを指摘していた。『イラク戦争は、米国CIAのレポートの丸呑みではじまった。当時トニーブレイヤー内閣の中では、首相に周りが反論を唱えにくい雰囲気があった。』という証言もある。イラク戦争にはドイツ、フランスは独自の観点から、国連決議なしでの参戦はしなかった。そこで米英軍主体のイラク攻撃となった。孤島国Jも参加した。しかし結果として、核兵器製造の痕跡も出なかったし、一時動く工場説まで出た。つまり、『核兵器製造工場を大型トラック車に載せて、移動させてる』というのだ。良く考えると変だ。核燃料抽出の複雑な工程をいくら大きな移動車に載せて走れるがずはない。大体核燃料棒には巨大なプールも必要である。そして大変危険である。しかしそれに疑問を抱く余地はなかった。CIAのレポートも、現地スパイ工作員を使っての金で集めた情報であるから、中にはいい加減なものや、捏造や情報もある。またCIA工作員も、一旦出した情報に誤りがあったとは言いにくいから、なお前言の正当化のために偏ったデータや裏打ちに傾注せんとする。

 イラクの派兵には、J自衛隊員の犠牲者は出なかったのは、行き先が割合安全地帯であり、幸いなことであった。しかし米英軍兵士には、目下進行中のアフガ二スタン以上の、多くの犠牲者が出た。そしてサダム・フセインを土中のもぐら穴から見つけ出してイラク人の法廷にかけさせて、処刑した結果は、イスラム教スン二派の政権を、イラン発のイスラムシ-ア派の力を強めることになった。それでもトニーブレイヤー元首相は、独裁者フセインを倒した事は、イラク民主化のために正しかったと最近の委員会の査問で証言している。イラクもパキスタンもインドもアフガ二スタンも、かつての大英帝国の支配した植民地である。『歴史の検証』には正しい『歴史教育の基盤』が必要である。そういう戦争責任の検証委員会の公聴会査問が公然と行われるのは、健全な民主国家である。

 かたや四海孤島国Jでは、第二次世界大戦の太平洋戦争意後の『歴史検証』は公然と行なわれたといえないと指摘した歴史学者が居る。鬼畜米英『軍国主義教育者』(昭和の国粋攘夷論者)が、終戦になった途端に、矛盾感の後ろめたさを押し殺して一日か一週間で『非軍国主義教育』に変身した。その間のギャップは『臭いものに蓋』とした。面食らったのが生徒の方であった。変わり身の早さは、幕末の攘夷論者より簡単であった。『歴史の検証』には正しい『歴史教育の基盤』が必要であるのは、明らかだが、四海孤島国Jでは、肝心な『歴史教育の基盤』がなく『歴史教育とは年表カレンダーの事象の羅列』でパスさせてきた。そのツケがいつまでも付きまとう。

 その点が、国境陸続大陸と四海孤島国Jの歴史感覚の格差(隔差)であり、『実質改革』への遅鈍さである。『看板のかけ変え』『表紙のつけ替え』というのは、さんざんやってきた党が、逆になった途端に与党に向って乱発するのは、五番煎じ十番煎じで、孤島国J庶民にはどうみてもブラックジョークにしか響かないので、冷めてしまうのみで、苦笑を禁じえない。舌戦をやるなら、もっと新鮮で革命的ユーモアのある表現を、使う方が効果があることに気がつかないものだろうか。

 政治家こそ歴史意識、歴史教育、歴史意識、歴史検証 歴史的教訓の生かし方が必要になる。しかし最近、政治家という職業?のブランド価値の低下と共に、歴史感覚の希薄化現象がおきているのも『ジャパン病』JJ型である。

 孤島国Jを自滅させる津波沈没を防ぐ方法を、孤島国J民が真剣に考え直さねばならない意識革命が必要な時が今来ている。格好だけ付けてる時期ではない。リップサービスだけの『改革』ではアピールできない。『知的革命』『歴史認識革命』『自覚革命』が必要。『自分なりの国家ビジョンのない政治家には投票しない』という選挙民意識革命が、いまこそ必要である。歴史には反面教師もあるが、正面教師の二極例がある。その識別力も肝要である。選挙は人気タレント投票ではないという意識革命、政治化家と官僚役人は欧米並みに公僕精神(PUBLIC SERVANT)の思想を身につける意識革命が必要である。

 次回には欧米での公僕精神の具体例をとり上げて見る。