<日本人があまり知らない日本の歴史の話>

  北 広次郎(キタ・こうじろう)

岡見蘭学塾を巡る幕末からの歴史について、日本人にあまり知られていないことは、ミステリーです。そしてこのことは、新<日英友親交会>の重要なテーマの一つです。本当の歴史を日本国人は知ってるつもりで、知らない事がまだまだ沢山あります。これは新<日英友親交会>の重要な啓蒙テーマの一つです。

私の兄貴分である岡見清直先輩の先祖で、米国の南北戦争に参加した岡見家の旗本について、だいぶ以前に確か高橋敬三アナの時代にNHKのドキュメンタリーでちょっと採り上げてたという事を、岡見清直先輩が繰り返し話していました。私はその番組は視ていませんが、これは既にハリウッド映画にも成っており、その映画を私は観ました。ただこの人物をモデルにしてありましたが、コメディー化されていました。

以前に三浦按針(関ヶ原合戦の1600年に帆船が大嵐で破壊されて、九州の海に打ち上げられ、気絶してた所を漁村民に助けられたという日本に初めて登場した英国人で水先案内人。徳川家康の欧州事情外事顧問に召し抱えられた人物で、本名はWilliam Adams。今様にいうなら、日本に帰化して武家の娘を娶り、三浦半島の領地を与えられて小大名になった)もハリウッドで「将軍」というタイトルで映画化ましたたが、この時もカリカチュアされた扱いになっていました。しかし江戸期の幕末前の鎖国時代の頃のこと故、情報画伝わらない時代ゆえデフォルメも仕方がないでしょう。

私の場合はあくまで中心人物は、私が熟知している清直兄貴を焦点にしています。  

これはまた日本の親族も知らない、私しか知らないことであり、又岡見清直兄貴のプライベートな親友の私でないと書けないことも多くあります。

福翁自伝は私は諭吉自身が書いたものと思い込んでいました。ところが私が岡見家については生き字引の岡見清直兄貴の話しを聴いたり福翁自伝を読み返してみて、ながらく気にかかり疑問に思う点がありました。

私は心中で、福翁自伝は諭吉の講演集を弟子達が聴き書きを後から本にまとめたものではないかと思うようになりました。その根拠は福翁自伝の中に、岡見清直兄貴の祖先である「彦三」という漢字を「彦曹」と誤記されていたのではないかと私は考えたからです。岡見彦三は、諭吉が25歳の時に同郷の中津藩から江戸へ呼んで、世話していたと岡見清直兄貴に聴かされていました。そして岡見清直兄貴の表現を借りると「同じ中津藩の後輩とうことで、江戸では岡見家の書生待遇であった。」という事でした。

私は、「福澤諭吉が最もお世話になった人物である岡見彦三の漢字を彦曹と誤記するはずはないのに?」と思い、この名前の事については長らく心にひっか(筆禍)かったまま、腑に落ちていませんでした。

やがて、「これは弟子が誤記した」とすると腑に落ちる気がしてきました。すでに出版してしまった後、福澤諭吉が後で気が付き訂正させたのではないか?もともと生来の本名は岡見清熙(きよひろ)ですが、この時代は幼名、成長後の名前、俗名、養子縁組先名、雅号と副数の名前を持つのが普通だったのです。彦三が生涯を通じて最も使ったのは俗名の方でした。あるいは彦三が彦曹を名乗った時期があったのかと迷った時もありましたが,福翁自伝以外にこれは見当たりませんから、誤記であったという私なりの結論です。とにかく尾崎三良・娘セオドラ英子・岡見家蘭学塾・慶応義塾・頌栄女学院・学習院・岡見行雄(顎堂=咢堂=愕堂)と相馬家雪香という結びつきが出来上がっていました。

岡見彦三は1850(嘉永3)年に中津藩から派遣され、佐久間象山に入門して以来昵懇の仲でした。1850(嘉永3)年に藩から派遣され佐久間象山に入門し、蘭学という西洋学の師弟同志という感じで、

江戸では家も近所だったので、お互いにもっとも琴線が触れ合い共鳴しあっていたと言う仲でした。ですから佐久間象山は岡見彦三には心をゆるし、秘蔵の蘭学の蔵書を預けたり渡したりしていました。岡見彦三は佐久間象山からの蔵書を諭吉に見せて<これを研究しておきなさい。>と薦めていたといいます。佐久間象山は吉田松陰も上京してきて師と仰いでいましたが、松陰が密航を企て米国船に乗り込もうとして失敗した事件が起きてから、松陰に最も影響を与えた危険分子は佐久間象山であると睨んだ幕府は象山を江戸ばらいし信州へ追放し蟄居を命じた。佐久間象山は蘭学の師弟同志である岡見彦三に江戸では唯一の蘭学を継いで護れる岡見蘭学塾に大きな期待を託して信州へ去って行く。

岡見蘭学塾は当時まだ表面上は幕藩体制側にあったのがラッキーだったといえます。

この時代の変わり目の激動期に、計らずも岡見蘭学塾が幕藩体制側と開国維新派側と維新軍の間で蘭学を中心核として緩衝剤的クッションになっていたと私は考えています。

岡見家は関西中津藩の出身で蘭学に傾倒しながらも、戦国時代の堺商人のような才覚もあり

欧米との貿易の先駆けのようなことも考えていました。その点幕藩体制側にありながら、薩長土肥と共通性がありました。上述の西洋学を通じて佐久間象山塾と岡見蘭学塾塾の結びつきがなかったら慶応義塾は生まれていませんでした。また大政奉還直後尾崎三良が 薩長の計らいで亡命していた大宰府から京都に帰還し、三条実美公や毛利公の子息達と英国サウザンプトン港へむけて長崎を出帆する寸前に,大隈重信公と井上馨公のアドバイスを受けています。

私は岡見清直兄貴との二人三脚でこれらの歴史のルーツを探索してた頃から更に自分なりの

課題をかかえこんでしっていたのであります。

東京外国語大学が東京都北区西ヶ原から現在の東京都府中市朝日町に移転する前に起きたことですが当時の中嶋嶺雄学長から突然英国の私の自宅に電話がかかって来ました。

<近々東京外国語大学独立100周年(建学126年)記念事業式典を開催するので、君は東京外国語大学校歌作詞者として是非招待したいので、そのころ来日する準備をしていて欲しいが、可能かどうか伺いたい。>と突然言われてびっくりしました。そして私も英国オリンピック委員会などに,長野招致支援運動して来て実現したのでよく記憶してきた1998年長野冬季オリンピック開催の翌年である1999年11月4日から3日間の式典に訪日して参加しました。たまた帰国したおり長野冬季オリンピックは長野県の団体から依頼されて

始まりました。英国夏期オリンピック・パラリンピック招聘委員会スコット会長と日英相互支援取引のような交渉をしました。そして英国バーミンガム市での世界IOCの決選投票で米国ソルトレーク市に僅差で長野に決まりました。

その翌年なので、よく記憶しています。実は中嶋嶺雄学長の生まれ出身は長野県松本でした。学長は幼少時代から松本市の鈴木鎮一バイオリン教室に通っていて、バイオリンはプロなみでした。東京外国語大学の学生時代にはアルバイトで東京都交響楽団のバイオリン奏者をやっていました。その前元ゴダイゴのタケカワ・ユキヒデさんや映画プロヂューサー脚本家兼俳優養成学校で語学スクール経営者で作詞家のマルチ才能ホールダーの奈良橋陽子さんと私はマザーテレサ一周忌追悼記念ポップ歌<マザー・テレサ>シングルCDを出版させて戴きました。この時に使われた原曲は私が英国マンチェスター・ポップ・グループのために創ったレゲの原曲でした。編曲して下さったのは東京外大後輩のタケカワ・ユキヒデ氏自身、唱って下さったのはタケカワ・ユキヒデ家のお二人のかわいい歌声の娘さんと彼自身でした。

東京外国語大学独立100周年(建学126年)記念事業のプログラムを見たら式次第として目についたおは(1)開会の辞(2)大学校歌合唱(3)学長式辞 (4)来賓祝辞 (5)祝賀演奏となっており、大学百周年記念歌披露コンサートタケカ・ワユキヒデ他となっていました。

タケカワ・ユキヒデ氏の叔父さんが、実は松本市の才能教育研究所の鈴木鎮一バイオリン教室の鈴木鎮一先生でした欧米のみなならず海外では,ドクター・スズキ式バイオリン教育塾が増えていました。鈴木鎮一先生は音楽才能教開発育育成法で世界に与えた功績で、ノーベル賞候補にノミネートされていた事がありましたが、このことを知る日本人はほとんど居ないでしょう。

英国BBC TVは日本へ鈴木鎮一先生のドキュメンタリー特別映画を作るため,BBC撮影隊を長期日本に派遣し、先生に貼り付いて撮影してきました。そのフィルムの編集を手ってほしいとBBCマンチェスターから依頼されました。その日本語会話部分を全部英語に翻訳して、その吹き替えを担当する監督助手をつとめるものでした。録画のテープを見ながら、そこに登場する先生の長いお話や、登場人物達の会話をBBCTVスタジオで画面で観て聴きながら英訳する仕事は楽ではありませんでした。先生はしゃべり出すと、えんえんとお話しが長いので切れ目がないのっです。何べんもテープを巻き戻しながら、翻訳し吹き替えしました。

やっと終ってから日本の松本の鈴木鎮一先生に電話しましたら,晩年はそのころは体調がかんばしくない事は分かっていましたが、先生からは感謝の言葉をいただきました。

その日開会宣言から始まってすぐ東京外国語大学交響楽団の演奏で東京外国語大学校歌合唱が始まりました。正直その時の心境は、私の作詩を皆で合唱されると公募で特選入賞した時のことが思いだされて、なにかきはずかしいような面映い気がしていました。

実はこれ以外にそれ以前二つの学校の応援歌や記念祭歌の作作詞募集にも応募して当選採された事がありますが、私の歌詩の中には,実は私しか知らない少年時代からの夢のテーマのキーワードがあって、すべての学校歌の歌詞には古代ギリシャのオリンピックの(聖火)

やギリシャのプロメテウス神話の火を挿入してきました。

東京外国語大学の前身からの校歌が、軍国調の歌詩が含まれてたので戦後廃止され,新校歌歌詞が公募されたのでした。私大学一年生の時でした。東京第一回オリンピックの開催時の最後の聖火ランナー走者は早稲田大学の陸上部の学生でした。その選抜された理由は誕生日が8月6日だからでした。つまり広島原爆の日です。 実は私の誕生日も8月6日の獅子座です。

ただ年号が私の方が兄貴でした。 私がギリシャ神話の聖火にこだわって来たのには理由があります。

神の神である全能の神ゼウスが,<地上の人類には天から火を教えて与えてはならない。教えると地球の破滅を導くから。>と戒めたのに、プロメテウスはその禁を犯して地上の人間に火をもたらしてしまった。それに怒ったゼウスがプロメテウスを罰して身体を八つ裂きにしてこなごなにしてしまうが、何度罰しても翌日またゾンビが元の姿に蘇生してきてしまう。というのです。

人類は其の使い方により人類の科学や工業や日常生活のエネルギーにもなるが、戦争の火にもなり原水爆にもなるもとだということの予言を比喩的に象徴してるのです。

私の頭には子供時代にたまたま星座に詳しい担任教師から星座の話しを聴かされてきて、

名古屋でB29の大空襲を経験し、子供の頃連夜両国の花火大会を視て来た結果、火には

ギリシャ神話の神秘なものという観念が頭にしみついてしまっていました。

それで戦後東京外国語大学新校歌歌詞公募を知って作詩する時に、ギリシャ神話のプロメテウスを絶対入れておこがましいが、地球人類の平和の祈りをこめながら、エネルギーは其の用法次第で善用にも悪用にもなる双頭の鷲、両刃の剣になるが、人類は正しいエネルギーの使用法を実施して行くべきだといだというと理念と祈願をこめたつもりでした。そのせいか最優秀賞入選で少なからざる賞金を戴きまして、前から要望の声があった野球の道具を学校に寄付し、賞金は祝賀会と称して学生達が多数で巣鴨の寿司屋の二階まを借り切って飲み食いに費消されました。

その晩酔っぱらって窓から二階の屋根に出て地上に落下したものがいたり、帰りの山手線内でげろ吐いたのも居ましたそうです。

さて今回の私の考えてきた課題はここからですが、東京外国語大学独立100周年(建学126年)記念事業の式典の多くのパンフレットやプログラムに印刷された(建学126年)という部分に注目しました。

福澤諭吉に慶応義塾を創らせた岡見清直の先祖彦三に関するの下の部分に注目して下さい。

1999年時点で、東京外国語大学独立100周年(建学126年)という事は引き算すると独立1899年(建学1873年=明治6年)ということになるが、さらにその前身起源は徳川幕府の蛮書取調所に端を発してるという説明があった。という事は徳川幕府内の蘭学研究所という事にもなるのだが、その場合佐久間象山塾、岡見蘭学塾、蛮書取調所(洋学所)の関係はどのようなものであったかは、新<日英友親交会>の今後の研究課題にしているのです。

ペリー来航後、蘭学に止まらない洋学研究の必要を痛感した江戸幕府は、従来の天文台蛮書和解御用掛を拡充し 1855年(安政2年)、「洋学所」を開設した。ここからスタートするようだが、その脈絡関係を一般国民に分かり易く整理し説明しないことには、歴史の正しい理解が出来ないのです。

織田信長時代にはキリシタンが保護されたが、江戸時代蘭学一辺倒に傾きすぎたのには、

貿易を独占しょうとした欧州では小国だったオランダから 所謂耶蘇教(カトリック・キリスト教)に対する偏見とあらぬ脅威を吹き込まれたせいだという説もある。江戸時代海外情報は一方通行に遮断されたが、江戸末期蘭学だけが欧米学ではないことをやっと悟らされた江戸幕府は、洋学所を開設せざるを得なくなった。欧州ではオランダ語は欧米の一般言語とは異なるむしろマイナーな言語だとやっと気がついたのです。

その事をいち早く悟っていたのは,海外情報豊富な蘭学者自身であった。だから蘭学者達は幕末明治にかけていち早く一斉に英語化へと転向して行きました。そして長州も英国へ、また薩英同盟から英国渡航留学生が増えて行きます。更に明治政府のお雇い外人は産業革命の発祥国とロイヤル外交のため皇室と英国王室との親交が急速に進化して行きます。

とりあえず今回はここまでにしておきます。

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岡見彦三

おかみ ひこぞう

1822(文政4)~ 1862.7.7(文久2)

幕末・明治期の中津藩士藩儒者

埋葬場所: 14区 1種 17側

 岡見清淳の次男として生れる。名は清熙(きよひろ)、彦三は俗名。

 岡見家は代々江戸在勤の家系で、江戸藩邸の寄合格ないし供番を勤めた。 蘭学を好み、自ら私塾を開いて教えたこともある。1850(嘉永3)藩から派遣され佐久間象山に入門し、洋式砲術を学ぶ。 1855(安政2)ごろ、松木弘安(寺島宗則)や杉亨二らを中津藩邸に招き、蘭学塾の開設に尽力し、1858福沢諭吉を教師として招く。 福沢の『福翁自伝』に「岡見彦曹」と記されている。 また、横浜に店を持って生糸の輸出、外国雑貨の輸入なども試み、活字を買い入れて印刷業を開いたこともある。

<頌栄女子学院百年史>

<MATSU様より情報提供>

 

*頌栄女子学院の創立者、岡見清致は彦三の甥であり、清致の弟秀作は彦三の養子となり彦蔵と名乗った。

*墓誌には以下のように刻む「奥平中津藩開明派の重臣。江戸藩邸において蘭学塾を開く。 中津藩士の福沢諭吉を招き、慶應義塾の基となる。1998(H10)8月品川清光院より改葬」

*福沢諭吉著書の『福翁自伝』「大阪を去って江戸に行く」のところには以下のように記されている。 「私が大阪から江戸へ来たのは、安政五年二十五歳の時である。 同年江戸の奥平の屋敷から、御用があるから来いといって、私を呼びに来た。 それは江戸の屋敷に岡見彦曹という蘭学好きの人があって、この人は立派な身分のある上士族で、 如何かして江戸の藩邸に蘭学の塾を開きたいというので、様々に周旋して、書生を集めて原書を読む世話をしていた。」 岡見彦曹と岡見彦三は同一人物である。

<「世紀をつらぬく福澤諭吉」HP管理人梶原様より情報提供>

*ちなみに品川清光院は中津藩奥平家の東京菩提寺。歴代藩主の墓は史跡に指定されている。

<五輪塔様より情報提供>