動物化するポストモダン
第一章 オタクたちの擬似日本
1節 オタク系文化とは何か
「本書の企図は、…オタク系文化について、そしてひいては日本の現在の文化状況一般について、当たり前のことを当たり前に分析し批評できる風通しのよい状況を作り出すことにある。」11p.
オタク系文化の構造には私たちの時代(ポストモダン)の本質がきわめてよく現れている
なぜ「オタク文化」ではなく「オタク系文化」という表現を用いるのか?
→「オタクとは何か」問題は各人のアイデンティティを賭けた感情的な遣り取りしかでてこない
ポストモダンとは何か
→とりあえず「70年代以降の文化的世界」
↑区別
ポストモダニズム…ある特定の思想的立場(イズム)
オタク系文化と日本的イメージの親和性
ex.機動戦艦ナデシコ…70年代オタクアニメの右翼的精神+それを介してしか生きる目的を学べなかったオタクたちのあり方を劇画化
アメリカ文化をいかに「国産化」するか、その換骨奪胎の歴史
ex.リミテッドアニメの国産化
「80年代以降のアニメを「オタク的なもの」「日本的なもの」としている多くの特徴は、じつは、アメリカから輸入された技法を変形し、その結果を肯定的に捉え返すことで作り出されたものなのだ。」22p.
アメリカ産の材料でふたたび擬似的な日本を作り上げようとする複雑な欲望
ex.セイバーマリオネットJ
第二章 データベース的動物
1節 オタクとポストモダン
オタク系文化とポストモダンの社会構造の関係
オタク系文化:二次創作+虚構重視
ポストモダン:シミュラークル+大きな物語の機能不全
シミュラークル=オリジナルもコピーもない中間形体
ex.ガイナックスの綾波育成計画。
大きな物語=近代国家の成員を一つにまとめあげるためのシステム
思想的には人間(ヒューマニズム)や理性の理念
政治的には国民国家や革命のイデオロギー
経済的には生産の優位
↓失調
別のもので代補(サブカル、宗教)
この2点を前提とした上で、2つの疑問を基に考察していく(46p)。
問1.ポストモダンではオリジナルとコピーの区別が消滅し、シミュラークルが増加する。
それはよいとして、ではそのシミュラークルはどのように増加するのだろうか?
近代ではオリジナルを生みだすのは「作家」だったが、ポストモダンでシミュラークルを生みだすのは何ものなのか?
(第2章1節から6節まで(95pまで))
問2.ポストモダンでは大きな物語が失調し、「神」や「社会」もジャンクなサブカルチャーから捏造されるほかなくなる。
それはよいとして、ではその世界で人間はどのように生きていくのか?
近代では人間性を神や社会が保証することになっており、具体的にはその実現は宗教や教育機関により担われていたのだが、その両者の優位が失墜したあと、人間の人間性はどうなってしまうのか?
(第2章7節から9節まで(141pまで)
2節 物語消費
・物語消費論
小さな物語=特定の作品にある特定の物語
大きな物語=物語を支える、表面には現れない「設定」「世界観」
物語消費=消費者が評価するの個々の作品ではなく大きな物語(設定・世界観)である(消費のレベル)
大きな物語をそのまま売るのは難しいので、現実には小さな物語をその断片として売る(生産のレベル)。
・ツリー型世界からデータベース型世界へ
ツリー・モデル(投射モデル)=一方に私たちの意識に映る表層的な世界があり、他方にその表層を決定している深層=大きな物語がある。
データベース・モデル(読み込みモデル)=二層構造
ex.インターネット…表層に現れた見せかけ(個々のユーザーが目にするページ)を決定する審級が、深層ではなく表層に、つまり、隠れた情報そのものではなく読み込むユーザーの側にある。
物語消費の構造…小さな物語と設定の二層構造=見せかけと情報の二層構造
作品評価はデータベースの優劣で測られ、そのデータベースはユーザー側の読み込みによって異なって現れる。
オタク系の消費者たちは、ポストモダンの二層構造に極めて敏感であり、作品という「シミュラークルが宿る表層」と設定という「データベースが宿る深層」を明確に区別している。
3節 大きな非物語
・大きな物語の凋落とその補填としての虚構
80年代末
オタク系作品にひとつの世界観・歴史観 ex.ガンダム・宇宙世紀
→現実の大きな物語(政治的なイデオロギー)の替わり ex.オウム
∵現代社会における超越的なもの(異界・死)の消滅
・イデオロギーから虚構へ
70年代以降
ポストモダンの文化的論理が力を強める→その時期に成熟した人に負担
∵データベース的な世界で、教育・著作物を通じて、古いツリー型のモデル(大きな物語への欲望)を植え付けられる
↓
特定の世代を、失われた大きな物語の捏造に向けて強く駆動 ex.オカルト・学生運動の過激化・オタク文化
・大きな物語を必要としない世代の登場(第三世代オタク)
全体性を見渡す(捏造された)世界視線を必要としない世代→表現・消費の形態に大きな変化(キャラ萌え)
・「エヴァ」のファンが求めていたもの
「ガンダム」のファン…ひとつのガンダム世界を精査し充実させる欲望
「エヴァ」のファン…キャラクターのデザイン(キャラ萌え)や設定(二次創作的読み込み)に欲望
「ガンダム」原作者…次々と続編・一つの歴史
「エヴァ」原作者…二次創作的関連企画
原作の構造そのものにも大きな影響
オリジナルがシミュラークルをあらかじめシュミレートする(TV版ラストの学園エヴァ)
オリジナルを別のバージョンで語りなおす(夏エヴァ)
→「エヴァ」は特権的なオリジナルではなく、二次創作と同列のシミュラークルとして差し出されている
=視聴者のだれもが勝手に感情移入し、それぞれ都合のいい物語を読み込むことのできる、物語なしの情報の集合体
=大きな非物語(大塚「大きな物語」と対比)
4節 萌え要素
・物語とマグカップが同列の商品
「エヴァ」…オリジナルがデータベースに近づくための入り口として機能
「エヴァ」以降…メディアミックス→コミック・アニメ・ゲーム・トレカ間の転用
匿名的に作られた設定(データベース)と、その情報をそれぞれのアーティストが具体化した個々の作品(シミュラークル)
ex.デ・ジ・キャラット
・萌え要素の組み合わせ
デ・ジ・キャラット…物語の不在を補うかのように、キャラ萌えを触発する技法が過剰に発達
萌え要素=消費者の萌えを効率よく刺激するために発達した記号 ex. 猫耳
萌え要素の群れによる「キャラクター」…あらかじめ登録された要素が組み合わされ、作品ごとのプログラム(マーケティング)にのっとって生成される一種の出力結果(作家性はない) ex.TINAMI
→誕生の瞬間から、直ちに要素に分解され、カテゴリーに分類され、データベースに登録される
5節 データベース消費
・個々の作品よりもキャラクターの魅力
企画群(メディア・ミックス)をまとめあげる根拠=キャラクター
・作品を横断するキャラクターの繋がり
近年のキャラクター…作品横断的に多数のキャラクターと繋がっている
ex.ホシノ・ルリ、綾波レイ、月島瑠璃子、大鳥居つばめ、長門有希?
キャラクターは消費者によってただちに萌え要素に分解され、登録され、新たなキャラクターを作るための材料として現れる。
・「キャラ萌え」に見る消費の二層構造
キャラ萌え=キャラクター(シミュラークルへの盲目的な没入)と萌え要素(データベースのなかで相対化)の二層構造のあいだを往復することで支えられる、すぐれてポストモダン的な消費行動
・「物語消費」から「データベース消費」へ
メディアミックス環境をまとめあげるもの=キャラクター
物語を含む企画(コミック・アニメ・ノヴェル)と物語を含まない企画(イラスト・フィギュア)の往復
企画はシミュラークル、その背後のデータベース(キャラクター・設定)
↓別のレヴェル
キャラクター=萌え要素のデータベースから引き出されたシミュラークル(二層構造がさらに二重化、三重化?)
デジキャラットを消費するとは
作品(小さな物語)、その背後の世界観(大きな物語)、設定やキャラクター(大きな非物語)を消費するのではなく、オタク系文化全体のデータベースを消費=データベース消費(大塚「物語消費」と対比)
・「アニメ・まんが的リアリズム」小説
アニメ・まんが的リアリズム=登場人物や物語は決して現実的ではないが、コミックやアニメの世界では可能なものであり、読者はそれをリアルだと受け止める態度 ex.ライトノヴェル、清涼院
・ミステリの要素も萌え要素に
写生されるべき虚構が今やデータベース化 ex.清涼院の何十件もの密室殺人・何十人もの探偵
現実(自然主義)でも先行する虚構(物語消費)でもなく、萌え要素のデータベースこそがもっともリアル
6節 シミュラークルとデータベース
・シミュラークル論の欠点
いままでのポストモダン論
シミュラークルの増加…無秩序な現象(全ての記号が根拠をもたず浮遊)
ベンヤミン「アウラ」=ツリー・モデル
オリジナルを前にしたとき、鑑賞者はそこに何か作品を超えた「儀式(の一回性)」との繋がりを感じる
コピーには繋がりがない
オタク系文化(ポストモダンの社会構造)は、
(1)シミュラークルの全面化(2次創作)
(2)大きな物語の機能不全(虚構重視)
という2つの特徴をもつが、ひとつの変化(ツリー・モデルの崩壊)の裏表としてとらえられてきた。
↓
データベース・モデルに取って替わられたことにあまり自覚的でなかった ex.ボードリヤール
・オリジナル対コピーからデータベース対シミュラークルへ(87p.ここが一番大事)
この社会を満たしているシミュラークルとは決して無秩序に増殖したものではなく、データベースの水準の裏打ちがあって初めて有効に機能している。二次創作(オリジナル・コピー)の下に、良いシミュラークルと悪いシミュラークルを選別(市場淘汰)する装置=データベースがある。
オリジナルとコピーの対立の替わりにシミュラークルとデータベースという新たな対立が台頭。
コピーは、オリジナルとの距離ではなく、データベースとの距離で測られる。
作家は唯一神ではなくなり、その王座を簒奪したのは萌え要素という複数の神々である。
・二次創作の心理
一見過激、無政府主義的(反体制的)→実際は攻撃的意識なし、保守的
∵二層構造…オリジナル/コピーに原理的な優劣がない
→二次創作がいくら作品としての原作(シミュラークル)を侵害したところで(自由の論理)、情報としての原作(データベース)のオリジナリティは尊重されている(セキュリティの論理)
・村上隆とオタクの齟齬
村上…オタク系文化の特徴をグロテスクなまでに強調・解体・変形
→オタクと齟齬
∵萌え要素のデータベースを理解せず、デザインというシミュラークルだけ(表層だけ)を抽出
【まとめ】
問1.ポストモダンではシミュラークルはどのように増加するのだろうか?シミュラークルを生みだすのは何ものなのか?
答1.シミュラークルは無秩序に増加(リゾーム)するのではなく、データベースの裏打ちがあって初めて有効に機能する。
シミュラークルを生みだすのはデータベースそのものではなく読み込むユーザーの側である(決定する審級は深層でなく表層)。
7節 スノビズムと虚構の時代
・ヘーゲル的「歴史の終わり」
コジェーヴ「ヘーゲル読解入門」
人間=自己意識を持つ存在・自己意識を持つ「他者」との闘争によって、絶対知・自由・市民社会へ向かう存在
歴史=闘争の過程→19Cヨーロッパで終わり(近代社会の誕生)
・アメリカ的「動物への回帰」と日本的スノビズム
「ヘーゲル読解入門」第二版脚注
動物=戦後アメリカで台頭してきた消費者の姿(環境と調和)
人間=与えられた環境を否定する行動(環境との闘争)がなければならない
スノビズム=与えられた環境を否定する実質的理由(革命)が何もない
にもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」それを否定する行動様式(環境との闘争)
ex.切腹…名誉・規律といった形式的な価値に基づき、生存本能を否定して自殺
・オタク系文化が洗練させた日本的スノビズム
オタク的感性=実質的な無意味(子供騙しの番組)から、形式的な価値を切り離す=スノビズム
・シニシズムに支配された20世紀
ジジェク「シニシズム」=スノビズム
ex.スターニリズム=誰もイデオロギー(実質的理由)を信じていないが「だからこそ」みかけ(形式的な価値)は維持されねばならない
「だからこそ」…コジェーヴ:主体の能動性 ジジェク:主体の制御できない強制的なメカニズム
第一次大戦・ヨーロッパの荒廃(大きな物語の凋落)→啓蒙・理性に対する信頼の破壊
↓反映
フロイト・ハイデガー・ラカン・ジジェクの理論
近代からポストモダンへの移行…70年代を一つの中心として14年から89年までの75年間をかけて緩やかに行われたもの
20世紀=超越的な物語はすでに失われ、そのことはだれもが知っている。
しかし、だからこそ、そのフェイクを捏造し、大きな物語のみかけを、つまりは
生きることに意味があるというみかけ(原文傍点)
を信じなければならなかった時代
・オタクのスノビズムに見られるシニシズム
オタク…「あえて」から逃れられなくなる
「第三者の審級の第一次的な崩壊を前提にした、第三者の審級の二次的な投射」という「苦肉の策」(大澤真幸)
第三者の審級=超越的他者=大きな物語
二次的な投射=サブカルチャーによる捏造(フェイクの大きな物語)
・理想の時代と虚構の時代
理想の時代=大きな物語がそのまま機能していた時代(45-70年):極限としての連合赤軍
虚構の時代=大きな物語がフェイクとしてしか機能しない時代(70-95年):極限としてのオウム
8節 解離的な人間
・ウェルメイドな物語への欲求の高まり
ノベルズのブーム・コミックの物語回帰←大きな物語は必要とされていないはずでは?
→データベース消費を担う主体の性質がもっともはっきり現われている
・「読む」ゲームがオタク系文化の中心に
ノベルゲーム=マルチストーリー(複数の物語)・マルチエンディング(複数の運命)小説をコンピュータ・スクリーン上で画像や音楽とともに「読む」ゲーム
プレイヤー…テクストを読み、用意された選択肢を選ぶことしかできない(予算・機械性能の制限)
→効率よく感動できる(泣ける)テクストと効率よく感情移入できる(萌える)イラストの追求
できるだけ多くの物語(マルチストーリー)とできるだけ多くのキャラクター(マルチエンディング)を効率よく作成
↓
萌え要素への情熱をもっとも効率よく反映した独特のジャンルへ
・ノベルゲームで「泣ける」という意味
Key「Kanon」「Air」…ポルノほぼなし・萌え要素が組み合わされた類型的な物語
→商業的に大きな成功∵萌えの基本を押さえている(=デジキャラット)
現実世界の模倣<<<(越えられない壁)<<データベースから抽出された萌え要素
ウェルメイドな物語=猫耳
・より徹底化したシミュラークルの制作が可能に
コンピュータ・ゲームの本体=システム≠ドラマ(小さな物語)
ゲームの消費者は一つの物語だけでなく、異なったヴァージョンのありえた物語の総体(幽霊)をも受容←文学批評・映画批評との混同に注意!
ゲームの構造=ポストモダンの世界構造(データベース・モデル)
表層的な消費(萌え)とは別の欲望
→ノベルゲームのシステムそのものに侵入し、プレイ画面に構成される前に情報をナマのままで取り出し、その材料を使って別の作品(徹底化したシミュラークル)
表層のオリジナル自体がそもそも深層の複数の無意味なデータの組み合わせ→オリジナルと同じ価値をもつ別のヴァージョンへの欲望≠盗作・パクリ・パロ・サンプリング
・小さな物語と大きな非物語がバラバラに共存
ノベルゲームの消費者の志向(解離した二層構造)
表層(ドラマ)=萌え要素の組み合わせによる効率の良い感情的な満足
深層(システム)=満足を与えてくれる作品の単位を解体し、データベースに還元し、新たなシミュラークルを作ることを欲望
近代の人々(理想の時代)=小さな物語から大きな物語に遡行
移行期の人々(虚構の時代)=両者をつなげるためにスノビズムを必要
ポストモダンの人々=小さな物語と大きな非物語をバラバラに共存(ある作品で泣いても世界観とは関係ない)=小さな物語への欲求と大きな非物語への欲望の解離的共存
2つの運命
近代…大きな物語による意味づけが運命
ポストモダン…有限の可能性の束から選ばれた組み合わせの希少性が運命
9節 動物の時代
・他者なしに充足する社会
コジェーヴ:大きな物語の崩壊→「動物」か「スノビズム」
スノビズムの終わり
↓
動物化=間主観的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏―満足の回路を閉じてしまう状態
ex.ファーストフード・性産業
「ヘーゲル読解入門」
人間=欲望(対象が与えられ、欠乏が満たされても消えない)を持つ ex.性的な欲望…生理的な絶頂感で満たされず他者の欲望(嫉妬されたい)を欲望(嫉妬する)
動物=欲求(対象が与えられ、欠乏が満たされることで完全に満足する)しか持たない
・オタクたちの「動物的」な消費行動
スノビズムを必要としない現代のオタク→大きな物語への欲望が弱体化→よりよい萌え要素へ
=薬物依存者≠知的な鑑賞者(意識的な人間)≠フェチ(無意識的な人間)
・オタクたちの保守的なセクシュアリテイ
斎藤環…オタクには現実の倒錯者が少ない
→大きな物語を失った(象徴的去勢に失敗した)オタクたちは、それを埋めるため、想像的に現実を補うため、過度に性的イメージの創造物
↓不必要に迂遠
倒錯的なイメージで興奮することに動物的に慣れてしまっているだけ
・虚構の時代から動物の時代へ
動物の時代=95年以降
コギャル…性的身体を主体的なセクシュアリィから切り離して売買・知り合いは多いが孤独なコミュニケーション・欲求に忠実
・コギャルとオタクの類似性
宮台真司「制服少女たちの選択」
島宇宙化→「新人類」と「オタク」
↓共通点
シンボル交換を中心とした深さを欠いたコミュニケーションと、限定された情報空間の内部でかろうじて維持される自己像
∵かつてより希薄になったコミュニケーション前提を、いわば人為的に埋め合わせるため
→世界の有意味化戦略
↓90年代に飽和
「まったり革命」「意味から強度へ」
宮台「終わりなき日常を生きろ」
終わらない日常に適応できない者=オウム
適応できる者=コギャル←全面的包括欲求(全体性への意思)も、全体性の断念から来る過剰な自意識も存在しない
・オタクたちの社交性
作品に向ける態度は動物化しているが、多様なコミュニケーション(ニコ生、ust、twitter)を展開
ここには他者の欲望を欲望するという複雑な関係が働いているのでは?
↓ところがそうではないのだ
もちろんオタクも人間(欲望と社交性を持つ)
オタクの社交性…自分にとって有益な情報を得られる限りでの社交性(≠親族・地域共同体)+「降りる」自由
コジェーヴ:オタクたちは社交性の実質を放棄したが、その形式だけを維持している?
・大きな共感の存在しない社会
社交性の形骸化→小さな物語への関心の高まり
データベース水準では社交的(システムへの欲望)、シミュラークル水準では個人的(ドラマへの欲求)
ルソー…共感の力は社会を作る基本的な要素
近代(ツリー・モデル):小さな物語(小さな共感)から大きな物語(大きな共感)への遡行
↓
感情の非社会的・動物的処理
ex.向精神薬・ハリウッド映画・テクノ
新たな人間:データベース的動物=二層化されたポストモダンの主体
シミュラークルの水準における「小さな物語への欲求」(動物性)とデータベースの水準における「大きな非物語への欲望」(人間性)
【まとめ】
問2:ポストモダンでは大きな物語(超越性)が失調し、「神」や「社会」(意味)もジャンクなサブカルチャーから捏造されるほかなくなる。
それはよいとして、ではその世界で人間はどのように生きていくのか?
近代では人間性を神や社会が保証することになっており、具体的にはその実現は宗教や教育機関により担われていたのだが、その両者の優位が失墜したあと、人間の人間性はどうなってしまうのか?
答2:ポストモダンの人間(データベース的動物)は二層化されている。「意味」(神や社会)を動物性に還元し、人間性は無意味化される。
第三章 超平面性と多重人格
1節 超平面性と過視性
・ポストモダンの美学
問.ポストモダンとは表層的にはどのような世界で、そこで流通する作品はどのような美学で作られるのか?そのヒントは?
答1.ウェブの記号的な世界 (1節)
答2.ゲーム(『YU-NO』)(2節)
・HTMLの性質
ここではインターネットの全体的な構造ではなく、あえて表層(ウェブページ)に注目
HTMLの表示はOSやブラウザによって大きく異なる
∵HTMLはページの各要素の論理的な関係を示すもの
・「見えるもの」が複数ある世界
印刷物の世界…「見えないものを見えるようにする」という論理(音声中心主義)ex.テクストから意味へ遡行
見えるものが出発点
ウェブの世界…「見えるもの」の状態が定かでない
→ページの「デザイン」は見えない部分も含めて判断される
複数の見えるものの比較検討
・「見えないもの」の不安定な位置
ウェブの世界…「見えないもの」の位置も安定しない
環境によって見えないものの位置が変わる ex.GUIと二進数
・データベース消費はウェブの論理に似ている
「作品」の単位は見えるものだけではなく、見えないはずのものまで含めて定義される
ex.表示画面+HTML ,ドラマ+システム,インターフェイス+ソースコード
・異なる階層が並列されてしまう世界
超平面的…徹底的に平面的でありながら同時に平面を超えてしまう特徴を意味する。ポストモダンの記号的世界の特徴。世界の深層はデータベースとして表象され、表層に位置する記号は全てその解釈として捉えられる。階層関係ではなく並列関係。異なった階層の情報が等価に並行して消費される。
ex.GUI
・物語が横滑りしていく構造
過視的…超平面的な世界に対して働く欲望の特徴。見えないものをどこまでも見えるものにしようとし、しかもその試みが止まることのないという泥沼の状態。
「小さな物語への欲求」と「大きな非物語への欲望」の解離的共存←過視的な関係で「繋がっている」ともいえる
近代的な超越性…見えるものから見えないものへ遡行していく視覚的な運動。
ポストモダンの超越性…目の前に小さな見えるものがあり、そこから見えないものに遡ろうとしても見えた瞬間小さな物語へと変わってしまい、それに失望して再び見えないものへと向かうという運動。
2節 多重人格
・二層構造を「見えるもの」にした作品
『YU-NO』…並列世界のあいだを移動できる「次元間移動装置」をもつ主人公
→シミュラークルとデータベースの二層構造そのものを「見えるもの」に
・超平面的な世界に生きる主人公
並列世界の移動によって主人公の記憶が部分的に失われる←ポストモダンの特徴をきれいに反映した結果
・多重人格を求める文化
多重人格の流行…20世紀後半の文化的な「運動」
複数の人格…同じ記憶や習慣を断片的に抱え、ときにほかの人格が行った行為の後始末に悩まされるような部分的な他者≒ノベルゲームの各分岐の主人公に同一化するプレイヤー
・ポストモダンの寓話
『YU-NO』のドラマの全体がポストモダンの社会的な構造を主題とした物語
主人公の人格の分裂…父が失われたことが原因=大きな物語の喪失
父に会うことができるのは全ての分岐をクリアし、すべての女性キャラクターと性行為を成就したのち=すべての交代人格の意識化
父との再開の直前に異世界編に飛ばされてしまう…ファンタジーの世界へ
主人公が「大きな物語を知ろうと試みたとしても、それはもはや剣と魔法の世界としてしか想像できない。これはまさにオウム真理教を支えた心理そのものだ。」173p.
↓
大きな物語の凋落のあと、世界の意味を再建しようとして果たせず、結局はただ小さな感情移入を積み重ねることしかできない私たちの時代のリアリティを、独特の手触りで伝えている」174p.
「このようなすぐれた作品について…自由に分析し、自由に批評できるような時代を作るために、本書は書かれている。」175p.