ユーモアクラブより転載。

北広次郎エッセイ集 ミスターヨーロッパだより

第38号

 『日本に今必要なのは歴史教育革命、国家革命、国家企業会社』

   副題『法人設立の重要性と国際特許』

前説      

 海外二酸化炭素排出CARBONCREDIT取引権設定獲得、ECOWING装置製作、VEGEPLANT-BOX製作、リチユームなどレヤメタル鉱区権獲得などを総合的に扱うHOLDING COMPANY設立を真剣に考えています。

 今ここには書ききれない他の国際的プロジェクトも含みますが。とにかく、もう国際的展開を考えないと、日本市場は限界があります。しかし、『歴史教育革命』をおこし、知恵を絞り『国家革命』を興し、国営企業を起こせば、日本国の経済力、国内政治力、外交政治力の活性化の道はまだあるという事は、幕末から大政奉還、明治維新当時の薩摩藩の賢策の足跡をたどってみると、そこに歴史的ヒントがあります。

 私にはいまいくつか新技術国際パテントの製品化の依頼案件がもちこまれていますので、総合的に考えています。とにかく製造部門販売部門を同時併行的にスタートさせないことには、日常運転経費の掛かる企業は回って行きませんので、複合的経営を考慮せねばなりません。

 いまXXXX国政府のCARBONCREDIT取引権設定にからみ出てきてる風力発電の大量採用計画プロジェクトにしても、法人化の必要性は必至とされています。それに先方は、ECOWING風車発電は、大型も直ぐ導入出荷でき体制にあるものとして捉えがちであり、こちらは慎重に大型は実験に時間があかかると言う表現をしていますが、しかしそんな言い訳ばかりしているようでは、こんごのもう国際競争には勝てません。従来の日本型のオーソドックス企業立上げ発想はもう現代には時代後れです。発展途上国が、もうここまで経済力技術力もそこそこレベルアップしてきたこの現実は、かつて日本がエコノミックアニマルと言われても、独り相撲で伸びてきたあの時代とは、全く異次元時代に突入してること、その時代的環境差の見えていない政治家官僚財界一般人が、八方海洋孤島国Jのネオ鎖国時代にオタクしています。

 とにかく昨年からさまざまな作戦を熟考して来ましたが、今後の国際市場のターゲットを視野に入れ、新技術工業国際的プロジェクトの複合的ビジネス組織の創生を目途とするに、最善なる一つの選択肢として別メイルで、(パート2)新作戦としての提案をいたします。

 『北広次郎の国際特許への取組歴』  (パート1)

 私は戦後日本の工業経済力の草創期から、新技術に基ずき海外での市場開拓を担当してきました。その間海外で多くの国際特許問題にぶつかりました。

 1960年代70年代初期、日本にはまだ海外では『欧米特許の物真似猿真似コピー屋』とまで言われて来ました。ある晩、私は英国の片田舎村の織物工場の近くにあったパブの二階の部屋に宿泊していて、一階の大衆酒場の中で私は独りで夜飲んでた時に、周りの飲み客達に囲まれて私が日本人だと知ると、一斉に飲んだ勢いで非難気味に口々にそういわれました。

 しかしその中に、ただ一人の、日本を知る英国人がいて『終戦後の今の日本はそういうイメージを海外では一般に持たれてるが、私が朝鮮戦争時代軍隊にいて日本の呉に駐屯していた事があるが、それはちょっと違う』と反論し庇ってくれたあの場面を今でも思い出します。

 これは私が大学出て総合商社丸紅機械部に入社して、1966年以来からの英国駐在時代、私の輸出したメイドインジャパンの機械の技術的メカニズムやそこに使われてた装置部分が、欧米メーカーのあちこちから、特許侵害のクレームが来はじめて、『出る釘は打たれる』を文字通り体験しました。

 あるとき、1965年英国工場から日本製大型捺染機械の初注文を貰って喜んだのもほんの束の間の事で、欧州の同様な機種のメーカーやその代理店から、特許侵害のクレームの手紙が舞い込み、既に関西のメーカーさんには製造発注をしてしまっていたのですが、特許侵害クレームに恐れをなした係長上司に、『この注文は、多少の損害は覚悟で一刻も速く降りた方が安全で、被害が小さくて済む』と言われて、泣く泣く手を引かされた経験がありました。

 当時戦後の日本には、国際特許の専門家が皆無状態の時代でした。『国際特許裁判にかかれば、裁判費用も掛かるし、莫大な損害賠償金をとられる』と言う自らの思い込みの恐怖観念しか湧いてこない日本人がほとんどで、『触らぬ神に祟りなし』『三十六計逃げるにしかず』『国際特許と聞いたら もう無条件に下りるにしかず』の一点張りでした。こんな大型機械の注文を初めて先進国の欧州からもらった私は、実に関西のメーカーさんには、深々頭を下げて、ばつの悪い思いで、一旦出した注文のキャンセルを受けてもらっは、腑に落ちませんでした。

 後に欧州に駐在してから、さまざまな日本企業からの欧米特許申請案件を依頼されて申請を請けおって各国別申請手続きを行い、欧米の特許専門弁護士とも共同研究調査し、またロンドン・ストランドの最高裁法廷に出廷し、国際特許裁判係争に立会いましてから、気がつきました。『三十六計』の論法で折角もらった注文を自らキャンセルし、辞退する必要は全くなかった事を知ったのでした。

 この事例は、今までこの英国工場が、長年使用してきた古い機械を新機に入れ換え時しようとしてたのですが、それまで継続して注文をもらって来ていたことから、欧州機の地元販売代理店が、お得意さんだった工場が、想定外のダークホースであるメイドインジャパンの布捺染機械に発注したことを知り、驚いて欧州メーカーと打合せ、パテント侵害をほのめかして脅しをかけてきてたのですが、戦後当時国際特許に無知であった日本孤島国内では、『国際特許抵触侵害してる』と言われただけで『無条件降伏でおりるしかない』と精査もせずにすぐ最初からお手上げをするのが精一杯でした。

 ここで国際特許と類似共通性があるので、音楽著作権にまつわる私の体験的エピソードに触れさせて戴きます。戦後日本にはまだ音楽著作権だとか、映像権肖像権だとかなんて意識も一般には無い時代でした。私の高校の一年先輩ん宮澤氏が、早稲田仏文科に居た時の恩師が西条八十先生で、その頃戦後日本に初めてJASRAC〈日本音楽著作権協会)が創設され、その初代会長に就任したのですが、宮沢先輩は卒業時に『西条八十先生に随いて行く所なら、どこでもいいや』という軽い気分だけでJASRACに就職しました。ところが本人は、JASRACって何をする所か全く何の知識も無かったままに、セミナーの延長として、随いて行ったといいました。

 後にJASRACの国際部長になった宮澤先輩が、ロンドンで開催された音楽著作権公演権世界会議に日本代表として来る事になり、『自分は英語が心もとないので、大会期間中は君が同席して脇に一緒についていてくれないか。頼む。』と言われて、3日間随行し会議に立会いました。又その間に英国音楽著作権パーフォーマンス権協会会長グリーガードさんとも食事をしたり、その後私が英国マンチェスターのポップアーテイスト達と作詩作曲共作やレコーデイングをする時にも、音楽著作権に関する指導をうけるようになりお世話になるようになりました。

 私は中京地区の交響楽団指揮者田中瑞穂氏(インターネットで索引して見て下さい)が欧州はブラッセルに駐在滞在中の時代に、私の作詩約12編に作曲しています。それかから戦後、東京外国語大学新校歌一般公募に、私の応募作品が特選に選ばれ採用されました。北広次郎(エッセイスト名)の詩人名は柴原徳光でインターネット索引出来ます。学校歌の作詩は他二校にもあります。

 ちなみに、その応募詩の作曲は後にJASRAC会長になった、芥川也寸志氏(作家芥川龍之介の子息)がやることになっていたのですが、その直前になって元宝塚出身の女優草笛光子夫人との離婚問題が突然発生し、芥川也寸志氏が日本作曲界の大御所であり初代日本作曲家協会々長清瀬保二氏(愛弟子には世界的作曲家武満等がいる)に頼んで選手交代になりました。

 清瀬保二氏につきましてはインターネットでご参照下さい。大学卒業時にコロンビヤ作詞課からお誘いの声が掛かったのですが、私は大学卒業後は海外で仕事をする希望でしたので辞退して商社に入りました。

 これは後になって知ったことですが、もしコロンビヤに就職していたら、阿久悠さんと丁度同期入社で、ご一緒にコマーシャルソングなど制作のお仕事からやらさせて戴いていた事になっていたはずだったようでしたが。当時私は海外志向だったので違う道を選びました。

 ここで今なんで、国際特許から音楽著作権の話しになったかと言うことの説明をしなければなりませんかと思います。実は国際特許と音楽著作権は全く共通性があるからです。

 JASRACはは音楽における特許権を管理するところと言えます。宮澤JASRAC〈日本音楽著作権協会)国際部長は、その後英国音楽著作権パーフォーマンス権協会グリーガード会長に、日本が地理的に香港に近いと言う理由で協力を依頼され、当時はまだ英国植民地だった香港での音楽著作権の確立に共同作業をしていました。そして音楽著作権世界大会を北京で開催する所まで漕ぎ着けました。

 

 当時北京政府は、世界音楽著作権協会には『まだ時期尚早なので、加盟までにはもうしばらく猶予時間を戴きたい。』といっていました。その理由は『十三億以上と人口が多い共産社会主義国家中国では、一枚のレコードがヒットすると、一晩で超富豪アーテイストが続々と誕生することになるので、今の中国国家体制にはふさわしくないからである。』と言って、直ちに加盟ことには消極的でした。改革開放政策に転換し、99年間統治してきた後に1997年英国のマーガレットサッチャー首相政権が中国へ香港返還を実施してから、たった十数年後に経済大国に躍進し、GDPで日本を抜いて世界第二位となリ、金保有高でもアメリカを抜いて、ゴールド保有高世界一位になった今と、当時とはまるで隔世の感があります。当時私の先輩が英国に依頼されて、香港における音楽著作権確立と著作権侵害摘発法を指導していました。そして北京会議を開くまで啓蒙運動をしていました。

 戦後出来たばかりのJASRAC〈日本音楽著作権協会)が一体何をする所か、まったく何の知識のかけらもないままに、ただ西条八十先生の秘書代わりにくっついて行った先がここだったのです。本人は就職したって感覚ではなく、西条八十セミナー塾が、早稲田から別な都内ビルに移転しただけだったに過ぎなかったと言います。しかしそれからやった事は、キャバレーやバーかららパチンコ屋を主に夜回ってあるき音楽著作権とは何たるものかということから語り始め、著作権料を回収しようとするのですが、どこもかしこも『あほな事いいなさんな。わしらはちゃんと店で金出してレコードやテープを買って来て、毎日毎晩かけとるんや。なんでまた後から音楽かけるたんびに、使用料を払わにゃならんのや?そんなの二重どり、三重どりどころか、ぶったくりやんか。帰れ。帰れ。そんなの、誰が払うんじゃい。』と毎晩行く先々の店で、どこでも追い払われる事の繰り返し。西条八十塾が、高利貸しに雇われたローンの借金取立屋みたいになってる事に初めて先輩は気づいたのでした。どこへ行っても、押し売りよりも好かれない厄介者扱いで追い出される。バーなんかでは女将が『うるさい。しつこいわねえ。警察呼ぶわよ』なんていう。こうなると説得は不可能に近いと気がつく。やがて、警察と弁護士と裁判所の協力が不可欠だとするようになる。その時の苦い経験が、今度は英国の協力要請により香港で生かされたのでした。

 中国人のインダストリアル・ファイナンス専門の先生が『2010年過ぎた今でも、一般の中国人には特許権とか著作権とかいう概念意識が全く無いのが普通です』と言ってる話しも聞きました。