聖書 第聖霊体験とは、どんな感覚か?                

(マタイ伝第12章~

法話ライブ at  京都道場  2014年9月23日

法話:遠藤喨及 書き起こし:純佑

動画URL: https://www.youtube.com/watch?v=W0K6u8AnNeI


イエスが悪霊を追い出していると他の人が悪口を言います。

あれは悪霊の力で追い出しているんだと。

これに対してイエス様がちょっと変な喩え話で反論するんです。

 

わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。

まただれでも、まず強い人を縛りあげなければ、どうして、その人の家に押し入って家財を奪い取ることができようか

 

神様がもし家にいたら、そこから物を盗ることはできません。

悪霊なんか神様より弱いんだから。

弱い奴が人の家に押し入って泥棒できないみたいに、悪霊の力を使って悪霊を追い出すことはできない、ということを言ってるのですが…何でこんな喩えで言うのか全然分かりません(笑)

 

さらに、この時イエスは感情的になっていたと思います。

イエスは非常に感情家ですから。日蓮上人もそうですけど。

 

私の味方でないものは私に反対するものである

 

せっかく「こうでないと神の道は」と言って死に物狂いで技を見せて、

皆が神の道に帰依しようとなればいいのですが、うーん…と言われたらガッカリするでしょう。

それでこういうことを言っちゃうんですね。

 

時々、木にまで怒ったりするでしょう。

 

道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当らなかった。そこでその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた。(21章)

感情的なところがイエスの魅力でもあるんですけどね。

怒ったり、悩んだり、落ち込んだり。

ただ、弟子は大変だったかもしれないですね。

感情的にぶれないというのが、一種の信頼感を与えますから。

感情的にオロオロしたりすると信頼感が薄れるというのが人間の心理としてあります。

 

また不思議なことを言うんですね。

 

人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。

しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。

また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。

しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。

人の子はイエスのことです。

聖霊というのは自分自身が体験する神なんです。

如来様とか宇宙大霊というのは人間には直接体験することはできません。

聖霊という形で体験するのです。

だから父と子と聖霊が一体という三位一体が成立するのです。

弁栄上人の表現では霊応身と言います。

如来様という姿を持って現れてくださって、融合してくださって、カルマとか自分の重みを全部取ってくださって、果てしない幸福感とか平和感とか豊かさを沸き立たせてくださる、それが聖霊の働きなんですね

 

神は直接的には体験することはできないので間接的になります。

キリストも直接的には体験せず、教えを説く人です。

聖霊というのは直接的に体験するものですから、これを否定したり裏切ると非常にカルマが重い、と言う意味だと思います。

僕は聖霊に対してネガティブに反応したことがあって後悔しています。

皆さんはどんな状況でも絶対に否定しないように。

 

木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。

木はその実でわかるからである。

 おそらく木は潜在意識で、実は顕在意識でしょう。

たとえばその人の言動とか人に提供している部分は実です。

 

まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに、どうして良いことを語ることができようか。おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。

 善人はよい倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。

すごいですね。悪い者なんて直接的に言っちゃう(笑)

イエスに洗礼を授けたヨハネもこういう言い方をします。

倉というのは無意識のことです。仏教でも蔵識というように喩えます。

物とは結果で、人生として現れるもののことです。

 

そのとき、律法学者、パリサイ人のうちのある人々がイエスにむかって言った、「先生、わたしたちはあなたから、しるしを見せていただきとうございます」

 なにか奇跡を見せてくれ、証拠を見せてくれ、ということです。

そう言われても困るでしょうね。

 

すると、彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。

 しるしなんか何になる、ということでしょうね。

(注: ヨナは旧約聖書文書のひとつ「ヨナ書」の主人公)

汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。

そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。

そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう。

イエスがエルサレムの近辺にやってきて3年間教えを説いて、悪霊などを浄めていたのですが、みんなはイエスに革命を期待していました。

ローマからの支配を打ち破って、ユダヤ人の手に自由を取り戻して欲しいと。

そこにすごいギャップがあるのですね。

イエスはそういうことよりも何千年という先を見越して神の真理を説いているのです。

 

清めることで一時綺麗になって、イエスの教えも一部には残るだろうけど、もっと悪い状態が来るから覚悟しなさいということです。

実際にもっと悪い状態が来たわけです。

現在もイスラエルは逆に支配者の立場になったけど、もっとカルマを作ったかもしれないじゃないですか。

 

イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。

それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。

イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。

そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。

 

前にイエスの言葉がありましたよね。

 

「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われないことはない」。

逆を言うと家族や親戚には敬われなかった、故郷にも教えを説きに行ったけれどみんなにバカにされた、そういうことでしょう。

おそらくお母さんと兄弟も何をやってるのか心配してきたんじゃないか、もしかしたら止めさせようと思ってきたのかもしれない。

一緒に教えを聞きにきた、という話じゃないと思います

 

お釈迦様も何十年もたってからようやく家族が理解したわけです。

出家の直後は大スキャンダルで、シッダルタのやつ…と非難轟々でしたから。

 

だから教えをちゃんと聞く人が私の母であり、兄弟であると言ったわけです。

こういう言葉もカルトが悪用しますけど。

 

その日、イエスは家を出て、海べにすわっておられた。

ところが、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわられ、群衆はみな岸に立っていた。

どうして舟に乗ったかというと周りを取り囲まれて外の人が見えないからでしょう。

 

イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。

まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。

ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。

ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞くがよい」。

これだけ言ってどこかに行っちゃうんです。

 

それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬(たとえ)でお話しになるのですか」。そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。

弟子でないものには理解が出来ないということですね。

 

おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。

だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。

これはよくある話です。

よくびっくりするのは、話をしても全然違う解釈をされてることがあることです。

言葉を聞いても、自分が聞きたいことだけ聞くということがよくありますね。

たとえで話せば、ストーリーが無意識に入るわけです。

理屈で言うと、どうしても自分が取りたいことだけ取る傾向があります。

だからたとえで話すということです。

意味がわからなくても、なんとなく記憶に残るでしょう。

だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。

 

色々説明をしたり、こういうふうに修行しましょう、と言ってもやらなかったりするでしょう。

分かっていてもやらなかったり、カルマが出てきて反発したりします。

悪い者がきて奪い取る、というのはこのことを言っています。

せっかくこうしたら仏性が開ける、神の愛が出てくる、といっても

そうした教えは我と反します。

我は幸福の方に導かないけど、幸福や神の方向というのは我に反するものなので言うと反発することがあります。

 

石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。

その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。

これもよくある話ですね。

タオサンガは素晴らしい、と言っていても、やがて我に直面しなければないことがあったり、誰かに止めたほうがいいとつまづいてしまいます。

 

また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。

これもよくありますね。

世間の声に惑わされたりとか、心配だからお金をちょっと稼がないと、とか。

イエスの2000年前の言葉ですけど、修行する我々のことを言っているようです。

 

お釈迦様だったらこういう話は出てこないですね。

王子が全部捨てて迫ってこられたら誰もなにも言えません(笑)

 

親や兄弟が心配するようなイエス様だから我々にも親しみがわく話をしてくださるのですね。

 

また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。

 

どうして倍々になるのでしょうか。

教えは自分の中に留めるものではないですから。

もしその人が教えの功徳を一切に広めて、一切と分かち合ったら何倍にもなるでしょう。

そのことを言っているのです。

イエスは聖書で今日我々がやっている修行において直面することを説いてくださっています。

 

(完)