ユーモアクラブより転載。

北広次郎エッセイ集 ミスターヨーロッパだより

第20号

 『北広次郎の国際特許への取組歴と新特許国営起業の勧め』

    (パート1)

 ◆◆最近ご存知のように、原発にたよらない自然エネルギー活用新技術発電装置、再生可能エネルギー問題が、クローズアップされてきたことは周知の通りです。しかしこのことは、すでに前から言われてきた旧聞に属する事で新規性は無い。

 海外ではとうの昔から言われていて、すでに実行段階にある国々がある。ただこの分野は、日本が何もかも遅れていただけのことで、東北大震災、福島原発大事故が発生してなかったら、政・官・財一般が、気がつかなかったことで、一部気がついていても、コストをかける勇気がなかったか、目先の利益を追う流れ先送り体制の犠牲にされてきただけの話と言えばそれまでです。

 そのつけは大きく国民に結局のしかかってきて居ると言うことです。結局損してるのは納税国民ということになる。

 ◆◆海外二酸化炭素排出CARBONCREDIT取引権設定獲得、原発にたよらない自然エネルギー活用新技術発電機械装置、リチユームなどレヤメタル鉱区権獲得開発、日本孤島周辺の海底資源開発など、パテントやノウハウの絡むものが増えているが、具体的現実的に絡むとなるとどうもすっきしない。最近日本のパテントの案件が、多く持ち込まれてくるが、物作りに基盤を置いてきた日本国はとしては、とにかく企業として製造部門、販売部門を同時併行的にスタートさせないことには、日常運転経費の掛かる会社は回って行きません。

 しかし折角良い特許があっても、個人ではなかなかそれを製品化できて、世に出すまでは容易ではない。特に日本国の場合、折角日本特許をとっても世界で生かせる物はほとんど無いに等しい。海外ではせめて米国特許までとるのが関の山で、更に手を伸ばせるのは稀にEU欧州特許までです。

 また万国普遍特許PCTとか言われていても、パリ条約以降、世界共通特許なんてのは、ありえない幻の気なぐさみでしかありえない。結局パリ条約以来、各国ごとに申請するしか無いが、これも万能ではないから、半端でない経費がかかるので、結局大資本でやるしかないのかという諦念のうちに泡のように消えてしまうのが一般的です。

 ◆◆いまXXXX国政府レベルのCARBONCREDIT取引権設定にからみ出てきてる自然エネルギー活用新技術発電装置の大量採用計画プロジェクトにしても、せめてそれに対応できるのは、特許を基にした、法人化準備作業くらいです。

 それに先方は、新技術発電は装置は、大型も直ぐ導入出荷できる体制にあるものとして、捉えがちであり、こちらは慎重に大型は実験に時間があかかると言う表現をしていますが、しかしそんな言い訳ばかりしているようではる、今後も国際競争には勝てません。従来の日本型のオーソドックス企業立上げ発想はもう現代には時代後れです。

 発展途上国が、もうここまで経済力技術力もそこそこレベルアップしてきたこの現実は、かつて日本がエコノミックアニマルと言われても、独り相撲で伸びてきたあの時代とは、全く異次元時代に突入してること、その時代的環境差の見えていない政治家官僚財界一般人が、八方海洋孤島国Jのネオ鎖国時代にオタクしています。

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 とにかく花沈下してる日本国の経済のサバイバル、リバイバル作戦を考えるには、今後の国際市場のターゲットを視野に入れ、新技術工業国際的プロジェクトの複合的ビジネス組織の創生を目途とするに、最善なる一つの選択肢としては『新型国営法人化政策』を念頭に置かねばならない時代になっています。

 これは日ごろ私が何度も繰り返し唱えてる明治維新の黒田清隆流の国営企業化スタート論です。

 そこでそもそも戦後の日本に、まだ発明特許権、知的財産所有権、音楽著作権、その他の著作権、放送権とか、商標権、肖像権とか言う観念がまるで希薄どころか、平方メートルゼロに近かった時代を思い起こしてみます。

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 ◆◆私は戦後日本の工業経済力の草創期から、新技術に基ずき海外での市場開拓を担当してきました。その間海外で多くの国際特許問題にぶつかりました。

 1960年代70年代初期、日本にはまだ海外では『欧米特許の真似猿真似コピー屋』とまで言われて来ました。

 ある晩 私は英国の片田舎村の織物工場のの近くにあったパブの二階の部屋に宿泊していて、一階の大衆酒場の中で私は独りで夜飲んでた時に、周りの飲み客達に囲まれて、私が日本人だと知ると、一斉に飲んだ勢いで非難気味に口々にそういわれました。

 しかしその中に、ただ一人の日本を知る英国人がいて『終戦後の今の日本はそういうイメージを海外では一般に持たれてるが、私が朝鮮戦争時代軍隊にいて日本の呉に駐屯していた事があるが、それはちょっと違う。』と反論し庇ってくれたあの場面を今でも思い出します。

 ◆◆これは私が大学出て丸紅機械部に入社して、英国駐在時代、私の輸出したメイドインジャパンの機械のメカニズムや装置部分が、欧米メーカーのあちこちから、特許侵害のクレームが来はじめて、『出る釘は打たれるる』を体験しました。

 あるとき、日本製大型捺染機械の初注文を貰ったて喜んだのもほんの束の間で、欧州の同様な機種のメーカーやその代理店から、特許侵害のクレームの手紙が舞い込み、既に関西のメーカーさんには製造発注をしてしまっていたのですが、特許侵害クレームに恐れをなした上司にこの注文は、多少の損害は覚悟で一刻も速く降りた方が安全で被害が小さくて済むと言われて、泣く泣く下ろされた経験がありました。

 当時戦後の日本には、国際特許の専門家皆無の時代でした。『国際特許裁判にかかれば、裁判費用も掛かるし、莫大な損害賠償金をとられる』と言う恐怖観念しか湧いてこない日本人がほとんどで、触らぬ神に祟りなし』『三十六計逃げるにしかず』『国際特許と聞いたら逃げるにしかず』『泣く子と外国特許と地頭に勝てない』でした。

 こんな大型機械の注文を初めて先進国の欧州からもらった私は、実に悔しい思いでした。メーカーさんには、深々頭を下げて、ばつの悪い思いで、一旦出した注文のキャンセルを受けてもらったのですが腑に落ちませんでした。

 ◆◆後に欧州に駐在してから、このキャンセルはする必要がなかった事を知りました。これは今までこの工場から、機械入れ換え時には継続して注文をもらっていた、欧州機の地元のエイジェントが、お得意さん工場が、想定外の和製機械に発注したことを知り、驚きジェラシーで、欧州メーカーと打合せ、パテント侵害をほのめかして脅しをかけてきてたのですが、戦後国際特許には無知な日本人は、それを聞いた途端に即恐れをなして『もうおりるしかない降参』とお手上げするのが精一杯でした。

 ◆◆ここで国際特許と類似共通性があるので、音楽著作権にまつわる私の体験的エピソードに触れさせて戴きます。

 戦後日本にはまだ音楽著作権だとか、映像権肖像権だとかなんて意識も一般には無い時代でした。 私の高校の一年先輩の宮澤氏が、早稲田仏文科に居た時の恩師が西条八十先生で、その頃戦後日本に初めてJASRAC〈日本音楽著作権協会)が創設されその初代会長に就任したのですが、先輩は卒業時に『西条八十先生に随いて行く所なら、どこでもいいや』という軽い気分だけでJASRACに就職しました。

 ところが本人はJASRACって何をする所か 全く何の知識も無いままに就職してしまいました。後にJASRACの国際部長になった宮澤先輩が、ロンドンで開催された音楽著作権公演権世界会議に日本代表として来る事になり、『自分は英語が心もとないので、大会期間中は君が同席して脇に一緒についていてくれないか、頼む』と言われて、3日間随行してました。又その間に英国音楽著作権パーフォーマンス権協会会長グリーガードさんとも食事をしたり、その後私が英国のポップアーテイスト達と作詩作曲共作やレコーデイングをする時にも指導をうけるようになりお世話になりました。

 私は中京地区の交響楽団指揮者田中瑞穂氏(インターネットで索引して見て下さい)が欧州滞在時代に、私の作詩約12編に作曲しています。

 それかから戦後、東京外国語大学新校歌一般公募に、私の作詩応募作品が特選に選ばれ採用されました。北広次郎(エッセイスト名)の作詞家詩人名は柴原徳光でインターネット索引出来ます。学校歌の作詩は他二校にもあります。

 ◆◆ちなみに その応募詩の作曲は後にJASRAC会長になった、芥川也寸志氏(作家芥川龍之介の子息)がやることになっていたのですが、その直前になって元宝塚スター出身の女優草笛光子夫人との離婚問題が突然発生し、芥川也寸志氏が日本作曲界の大御所であり初代日本作曲家協会の清瀬保二会長(愛弟子には世界的作曲家武満徹等がいる)に頼んで選手交代になりました。作曲家清瀬保二氏につきましてはインターネットでご参照下さい。

 大学卒業時に、コロンビヤ作詞課からお誘いの声が掛かったのですが、もしそちらへ就職してたら、阿久悠さん丁度同期入社で、ご一緒にコマーシャルなどのお仕事をさせてもらっていた事になっていたのでした。当時私は海外志向だったので、商社マンという違う道を選びましたが。

 ここで後日談があるのですが、東京外国語大学は、戦前外事専門学校時代校歌があったのに、何故戦後新たに校歌を創らねばならなくなったのか?と言う疑問を持った人々がいました。

 実は戦時中までの校歌は、外国語を駆使外国語事情に精通する必要から、中野諜報機関学校と結びついていたので、歌詞が軍国調であったので、戦後いち早く廃止されてたのです。それで新校歌を創る必要性が起きて、歌詞一般公募となったのでした。

 これにはまだ 後日談があり、日本の多くの男女学生達が毎年夏季英語講座留学に英国にやってきて、我が家の娘達と仲良くなりました。そして娘が逆に訪日したときに、その日本人学生達の友人仲間達が、『あなたのお父さんは、もうお亡くなりになってるのでしょう?』って言われて、英国育ちの娘はきょとんとしていたそうです。校歌の作詞者ってのは、当然明治大正時代の昔の古い世代の人であると言う先入観があって、もうこの世に生存してるはずは無いということから、そういう質問になったらしいのですが。

 ◆◆ここで今何んで、国際特許から音楽著作権の話しになったかと言う説明をしなければ成りません。

 発明特許権がなぜ音楽著作権と疑問を持つ人々が、戦後日本には多かったのです。実は国際特許と音楽著作権は全く共通性があるからです。要するに発明も創作であり、音楽も小説も映画も創作であることが理解できていなかったのです。

 ◆◆JASRACはは音楽における特許権を管理するところと言えます。宮澤JASRAC〈日本音楽著作権協会)国際部長は、その後英国音楽著作権パーフォーマンス権協会グリーガード会長に、日本が地理的に香港に近いと言う理由で協力を依頼され、当時はまだ英国植民地だった香港での音楽著作権の確立に共同作業をしていました。

 そして音楽著作権世界大会を北京で開催する所まで漕ぎ着けました。当時北京政府はまだ、世界音楽著作権協会には『まだ時期尚早なので、加盟までにはもうしばらく猶予時間を戴きたい』といっていました。その理由は『十三億と人口が多い共産社会主義国家中国では、一枚のレコードがヒットすると、一晩で超富豪アーテイストが続々と誕生することになるので、今の中国国家体制にはふさわしくないからである』と言って、加盟には消極的でした。

 改革開放政策に転換し、99年間統治してきた後に1997年英国のマーガレットサッチャー首相政権が中国へ香港返還を実施したった14年後に経済大国に躍進し、アメリカを抜いてゴールド保有高世界一になった今と、当時とはまるで隔世の感があります。

 当時私の先輩が英国に依頼されて、香港における音楽著作権確立と著作権侵害摘発法を指導していました。そして北京会議を開くまで啓蒙運動をしていました。

 ◆◆戦後出来たばかりのJASRAC(日本音楽著作権協会)が一体何をする所か、まったく何の知識のかけらもないままに、ただ西条八十先生の秘書代わりにくっついて行った先がここだったのです。

 本人は就職したって感覚ではなく、西条八十セミナー塾が、早稲田から別な都内ビルに移転しただけだったに過ぎなかったと言います。しかしそれからやった事は、キャバレーやバーからからパチンコ屋を主に夜回ってあるき音楽著作権とは何たるものかから語り始め、著作権料を回収しようとするのっですが、どこもかしこも『あほな事いいなさんな。わしらはちゃんと店で金出してレコードやテープを買って来て、毎日毎晩かけとるんや。なんでまた後から音楽かけるたんびに、使用料を払わにゃならんのや?そんなの二重どり、三重どりどころか、ぶったくりやんか。帰れ。帰れ。そんなの、誰が払うんじゃい。』と毎晩行く先々の店で、どこでも追い払われる事の繰り返し。

 西条八十塾が、高利貸しに雇われたローンの借金取立屋みたいになってる事に初めて先輩は気ずいた。どこへ行っても、押し売りよりも好かれない厄介者扱いで追い出される。説得は不可能に近いと気がつく。バーなんかでは女将が『うるさい。しつこいわねえ。警察呼ぶわよ。』なんていう。

 こうなると説得は不可能に近いと気がつく。やがて、警察と弁護士と裁判所の協力が不可欠とするようになる。その時の苦い経験が、今度は英国の協力要請により、香港で生かされたのでした。

 中国人の先生が『2010年過ぎた今でも、一般の中国人には特許権とか著作権とかの概念意識が全く無いのが普通です。』と言ってるという話しも聞きました。

 日本ではメロデイーは無法方地帯。何時の間にか四小節まではコピーを許されているとまことしやかに、これがJASRACの憲法みみたいなことを言うシンガーソングライターもいる。

 しかし演歌を聴いてると、素人でも分かる4小節心か80%そっくりなメロデイーの演歌が沢山あるが、これ日本独特の曖昧さの特徴であるとしか言いようが無い。

 単に曖昧だけなら、それで済むが、赤信号みんなで渡れ怖くないで、それで著作権料のお金が絡んでいるのだから、これは大いなる矛盾と不合理以外のなに物でもないのです。 外国ではこんなことは通らない。もっと厳しい。 JASRACではもっと公正厳密なルールを作らないと、これでは放漫放任であり、音楽無著作権協会であるとしか いいようがありません。。

それと猛一つ問題点があります。 英国では音楽創作著作権と 上映放送公演権(PERFORMACE RIGHTS)は分離されて別な協会が管理してるが、日本は分離されておらず、JASRACが一本で取り仕切っているが、これも 特許庁も JASRACも 海外では戦前からあったが、日本は戦後やっと誕生した後進性国なので、ここでも曖昧なことになったままで、その意識がまだ 国民にも芽生えていないのです。

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 ◆◆ ここで再び 著作権から 最初の国際特許の件に戻ります。

 ◆◆私は、欧米でたびたびさまざまな国際特許問題に直面し、経験を積むうちに、小さい部品から装置部分に至るまで、国際特許の多くの事例を学習せざるをえなくなりました。また新案特許や商標権についても、さまざまなケースにぶつかりました。

 国際市場においては、単なる技術仕様や価格問題だけで売った買ったではなく特許の知識認識も重要であると言うことも学んできてます。

 ◆◆そしてついに大国際特許係争を体験する事になります。それは私は商社丸紅時代、ロンドンの最高裁法廷に2年かかって10数回、チェコスロバキヤコ国営機械公団に対抗し、英国最大民間企業顧客ICI(IMPERIAL CHEMICAL INDUSTRIES)その傘下の大手繊維グループ・キャーリントンバイエラ社とニッサン自動車、丸紅株式会社を私が束ねて代表し、戦後日本最大の特許大係争を行ないました。そして実質勝訴しました。

 これは敗訴すれば、日本の戦後最大の莫大な賠償金が絡む大裁判で私が世界市場に始めて売り込み、欧州の工場で大量に使用され始めて来たニッサン水噴射式織物機械に関する特許係争でした。まだ裁判途中では、敗訴の夢を見て冷汗を掻いた夜が幾晩幾朝かありました。ロンドン最高裁判法廷は、毎回朝9時から夕方5時まで出廷させられました。

 この裁判の準備のために、弁護士に提出する書類やデータは、こちらがずべて収集し提出しなければならず、普通弁護士(SOLICITORS)、法廷高等弁護士(BARRISTERS)などと、打合せを重ねると同時に、過去現在の法令や判例も勉強する必要に迫られました。それには大変な時間と労力がかかりました。

 裁判所に出廷してると朝9時から、午後5時までかかりますから、営業の仕事は出来ません。以後商社メーカー間では ”国際特許部長”という異名がつけられました。

 その後日本の大中小の機械メーカーさんからの、国際特許ケースや日系企業の現地会社工場設立に際しての法的手続きの相談をうけるようになりました。私は繊維機械合成樹脂機械販売サービス専門の丸紅傘下の丸紅テクマテックス(インタネット索引参照可)を英国に創立し、初代取代表取締役に就任し、更に丸紅テクマテックスフランス会社、丸紅テクマールイタリヤ会社など現地法人を次々に創立し、役員を兼任しました。

 ◆◆更に英国通商工業省傘下機関の地方工業開発協会委員会の顧問に任命され、日系企業工場の英国誘致促進活動に従事しました。

 マーガレットサッチャー首相時代、ニッサン自動車英国工場建設を皮ぎりにして、多くの日系英国工場建設のアドバイザーとなり、英国地方政府、中央政府の返済不要工場建設支援補助金(GRANT)制度を活用し、日系企業現地調査使節団への講演、工業新聞、産経新聞、雑誌などから工業ジャーナリストととして、英国工業事情ルポ記事を書くように依頼うけ、掲載されていました。又世界に配る英国工場建設誘致プロモーションビデオにも、工業開発協会から出演依頼をうけ、工場進出促進をアシストしました。

 2011年現在欧州のEU加盟国は27ケ国在りますが、日系工場進出数が圧倒的に最も多いのが英国です。

 1960年代70年代前半は、まだソニーもホンダも海外では無名の小メーカーでした。幕末明治維新以来、世界産業革命の発祥国英国は日本にとって遠くて近い島国です。

 現在英国にある日系工場は、ニッサン、トヨタ、ホンダ、日野、ソニー、三菱電機、日立マクセル、シャープ、富士通、ブラザー、サンヨー、松下パナソニック、旭ガラス、ノリタケ 東レ、日本本板ガラス、コマツ、三菱グッドイヤータイヤ、紀文カマボコ、YKK吉田工業等々。、製造業以外で銀行、証券会社、保険会社、、日通、日伸運輸、教育学校 立教、頌栄ウインチェスター女学院短大、、前田学院、など枚挙にいとまがありません。

 今ロンドンのジャパンクラブ所属日系企業には4500社のメンバー会員が居ます。

 私が1966年ロンドンに赴任した頃のジャパンクラブ・メンバーは100社なかったと思います。日本人数は家族ふくめても600人前後で、いま45000人から50000人の間、日本大使館領事館に届けが出てない日本人入れるともっとで、正確な数はつかめないと言われてますが。