イエスと大乗佛教の驚きの関係


法話ライブ at  京都道場  2016年7月9日

法話:遠藤喨及

書き起こし:純佑

動画URL:

https://www.youtube.com/watch?v=HCdJYTvlncA


1)すごかった弁栄上人

先日、阿弥陀様とお釈迦様との関係はどうなっているのか? という質問が以前ありました。

浄土宗で伝統的に教えていることだけだと、なかなか本質が理解できないので、ここのところを弁栄上人はどのように説かれたか、という話を先週しました。

弁栄上人という方は、明治大正時代に、西洋の哲学や科学からキリスト教まで、あらゆる文化を取り込みました。

もっとも、それだけだとただ“当時のハイカラな坊さん”というイメージだけでしょうが、その悟りの深さは「現代の釈尊」と呼ばれるほどのものでした。

例えば、真言宗のお寺のお坊さんが、弟子を弁栄上人のところに送って修行させたりもしていましたし、色々な宗派の僧侶がお弟子さんになっていました。

弁栄上人は、基本的には自分の寺を持たずに、全国色々なところに念佛の伝道をしていました。

同時に受けた批判や妨害にも、ものすごいものがありました。この辺は、法然上人も同じですね。

先駆的な人はいつの時代でも、またどこにおいてもそのようなことを体験します。

弁栄上人は、単に西洋文化や科学の知識が深かっただけでなく、朝から晩まで読むだけでも通常は5年かかると言われる「一切経」を読破されている。

そしてすごかったのは、佛教のあらゆる宗派についても熟知されていたことです。

例えば、地方のあるお寺で儀式を行うことになった。

そこの僧侶が集まって、直前に禅宗の様式を指定してきました。

“弁栄上人は浄土宗だから禅宗の儀式などできまい。困らせてやろう”というわけですね。

これに対して弁栄上人は、その場で、“ならこうしましょう”と、ものすごく細かい字で紙に書いた。

禅宗のお坊さんたちが、その渡された紙を虫眼鏡で見たら、禅宗の様式が全部書かれてあったそうです。

弁栄上人は、そんな不思議なことをたくさんされた方でした。

2)空を終局目的とする悟りには限界性がある

タオサンガでは氣を応用した新たな念佛行法のメソッドで修行していますが、弁栄教学の本尊観や教えに基づいて行っています。

弁栄教学の本尊観の特徴はいくつかありますが、その内の1つは「超越と内在」というものです。

これは宗教学のテーマでもありますが、「超越と内在」とは、要するに“神さまをどのようなものとして認識するか?”です。

超越の神様というのは、ユダヤ・キリスト教のように、「天に在して、自分たちとは関係なく超越的に存在している神さま観」です。

一方、内在の神、内なる佛という捉え方もあります。

これは禅宗、特に臨済宗がそうです。だから、「佛に会えば佛を殺せ」という言葉まであります。外なる佛を否定するのですね。

そしてローマ・キリスト教は、内なる神を認めません。超越しか認めません。

だからエックハルトなど、内なる神を語ったキリスト教神秘主義の人たちは、異端として迫害されました。

超越か内在か?

これまでの宗教では、だいたいどちらかに傾くのです。

ところが弁栄上人の本尊観は、「超越即内在」という、ある意味、非常に斬新なものでした。“内なる佛であり、なおかつ外なる佛である”、と。

弁栄教学では、これを「超在一神的汎神教」と言います。

それまでの佛教にはない言葉です。

佛教は基本的には、汎神教なんです。

汎神教とは、「これも(ボードを指す)、これも(床を指す)、これも(天井を指す)皆、神さまです。」、“宇宙そのものが神さまです”という教えです。

宇宙と離れた超越の神さま、という概念は元来佛教にはありません。

(従来の浄土教は超越の佛さまですが、それは方便法身で、創造主ではありません)

だからこれまで大乗佛教では、「空」という境地に至ることが、最終的な目的になっていたのです。

ただし、空を終局目的とすることは、悟りに限界性を持っていました。

なぜなら、空を悟っても尚、その奥に、実在の大霊があることが無意識に感じられて来るからです。

すると悟った後で、「さらに、まだ何かがあるに違いない」と思うのです。

それで、禅の空性体験によって悟りを開いた人で、その後、念佛を始める人が出てくるのです。

それは、空の奥にある大霊の実在感を否定できなくなるからです。

果たして空性体験の奥にあるものは何か?

これに関しては、ここではこれ以上言及しません。

ただいずれにしても、大乗佛教の足りなかったこの部分をはめてくださったのが、弁栄上人だったのです。

3)明治以降の我々が持っているのとは異なる神イメージ

元来、一神教的な神さま概念は、アジア文化圏にありませんでした

日本では明治になって一般にキリスト教が入ってから、そういう神さまイメージが入りました。しかし、それまではなかったのです。

実は、その当時の文化で一般に認識されていた神概念と、キリスト教の神観念が入っている現代のわれわれが捉える一神教的な神概念は、全然違うんです。

貨幣が存在していなかった時代とか、車がなかった時代とか、あるいはネットがなかった時の社会に住んでいる人たちの気持を、今のわれわれが想像することは難しいですよね。

これと同じように、キリスト教が入る以前の人々の神概念を、私たちが自分のこととして想像するのは難しいのです。

さて、汎神教には二つ意味があります。

空だから、「一切普遍の宇宙そのものが神」という教え。これは大乗佛教ですね。

もう一つは、日本神道の八百万の神々のように、「ありとあらゆるところに神様がいる」、というアニミズム的な神概念です。

ヒンドゥー教も汎神教です。そもそもアジア文化圏は、汎神教です。

ヨーロッパの土着の宗教もそうなんです。

ただユダヤ教だけが違っていて、そこからキリスト教が出てきたのです。

弁栄教学の本尊観である「超在一神的」の「的」という言葉。

これは、“阿弥陀様という宇宙大霊が即ち、一切の諸佛菩薩である”、ということです。

これは、2つの汎神教を兼ね備えていることを意味しています。

もっとも、大乗佛教の哲学として、この考え方の断片はありました。

ただ、分かりにくいのは、明治以降の我々が持っている神のイメージと、当時の人たちが抱いていた神イメージが、かなり違うからです。

だから、これがどれほど革命的なことであったかは、ちょっと話を聞いただけでは、想像し難いものがあると思います。

4)キリスト教の三位一体説との関連性

先ほど大乗佛教として、この考え方の断片があったと申し上げました。

それはどのようなものかと言うと、佛には三つのからだ、すなわち「法身、報身、応身」がある、と。この三身は一体だから、「三身即一」と言ったのです。

           

 佛の三身

大乗佛教

弁栄教学

法身

宇宙普遍の大霊

報身

修行の結果、浄土を

建立し佛となった

宇宙の中心本尊である

阿弥陀様 (父)

応身

釈迦

霊応身(聖霊)

法報応の佛の三身の解釈が、大乗佛教と弁栄教学ではどのように異なるか?

さらに、キリスト教の三位一体説にはどう対応して理解することができるのか?

それをこの図が示しています。

まずは、従来の大乗佛教における法身、報身、応身について説明しましょう。

「法身」とは空であり、宇宙の理体、あるいは理法そのものを指します。

だから、これに形はありません。宇宙の理法を身とする佛です。

次に報身。

前回お話ししたように、従来の大乗佛教で阿弥陀様は、“法蔵菩薩が修行した結果なられた佛様”と言うことです。修行が報いられて佛の身になったものです。

応身とは何かというと、人間の身に応同して現れた佛です。

だから、これはお釈迦様なんです。

そして、“この三つ(法・報・応)は元来が一つなんですよ”、というのが「三身即一説」です。

弁栄上人は、従来の大乗佛教ではよく分からなかった三身即一説の解釈をガラッと変え、刷新したイメージによって、我々が理解できるものにしてくださいました。

5)従来の修行の最終目的であった「空」を突破

この弁栄上人による三身即一説の新たな展開がなかったら、どうしても三身がばらばらで、スッキリとした解釈はできなかったのです。

というのは、従来の三身即一説には、かなり無理がありました。

例えば修行の終局の目的が法身と一体化であり空だったら、何もお浄土は無くてもいい、ということになります。

そして弁栄上人は、従来の修行最終目的であった「空」を突破し、その内容を説いて下さった。

すなわち弁栄教学における「空」は、あくまでも宇宙大霊の一つの側面であり、どんな形でも取り得るものだということです。

空は、単なる理体や修行の目的ではなく、宇宙大霊の質や構造のことだったのです。

物質にしても、形が決まっているのではなく、どんなものにでも変化します。

その宇宙の本質を「空」と言います。いってみたら今の量子力学と同じようなものかも知れませんね。

6)弁栄上人のコペルニクス的な離れ業

お浄土の環境というのは、無限に深く、美しく、喜びが変化していきます。

その根底である法身が大霊であるというのが弁栄教学です。

さて先週は、弁栄教学に基づいて浄土教をどう理解するか、について述べました。

すなわち「阿弥陀様が法蔵菩薩として生まれた」という新たな経典の解釈。

これが見事に、キリスト教における「神さまが人間として受肉して生まれたのがイエスだ」という教えとシンクロするんですね。

弁栄上人はコペルニクス的な離れ業で、まったく接点のないキリスト教と佛教のシンクロニシティを成立させたのです。

7)お浄土に近ければ近いほど、自由で明るくなる

弁栄上人は、報身を宇宙の中心本尊であるとされています。

すなわちお浄土は宇宙の上ではなく、宇宙の中心なのです。

人間界の認識では、中心に行けば行くほど狭くなります。

しかし霊的には(お浄土的には)真逆です。

中心に行けば行くほど広くなり、中心から離れるほど狭くなるのです。

太陽系で太陽に近いほど光が強くなり、離れるほど寒くなるようなものです。

だから、お浄土という中心に向かえば向かうほど、明るくなり、

そして離れれば離れるほど、地獄に向かえば向かうほど暗くなります。

人間は真逆に考えるから面白いですね。

本当は霊的にお浄土に近ければ近いほど、自由で明るくなるのに、

エラくなると不自由でしかめつらになるに違いない、と考えたりしてね。

8)形なき空は、必ず同時に形を取る

弁栄教学では、応身を二つに分けます。

一つは応同身。そしてもう一つは応化身です。

応同身とは、従来の応身の解釈と同じで、

“人間の身に応じて生まれた佛”ということですから、お釈迦様のことです。

もう一つの応化身は、霊応身ともいいますが、

これはキリスト教で言う聖霊なんです。

すなわち我々が念佛をしていくうちに、実在の阿弥陀様を体験していくようになります。

どのように体験するかというと、佛さまのお姿で霊として現れるのです。

“宇宙の大霊”という言葉を聞くと、遠く離れた存在で、自分とはあまり関係ないような気がしますよね?

でも宇宙大霊は、佛さまの姿を取って現れるのです。

“一体そんなことがあるんだろうか!?”、と思われるかも知れません。

なにせ宇宙一切を身とし心とする普遍の無辺なる大霊ですから、

それが自分の前に個別の実在として現れる、なんて普通思わないでしょう。

でも、ここで大乗佛教の基本的な哲学の1つを思い出して下さい。

華厳哲学では、「たった1つのホコリの中に、全宇宙が入っている」というでしょう。

だから大きさは関係ないのです。

宇宙全一の如来さまが、自分の前に個別の霊として

姿をもって現れるのです。これを霊応身、キリスト教では「聖霊」と言うのです。

キリスト教には、「誰もが神さまのひとり子なんだ」という言葉があります。

如来様にとっては誰もがひとり子なんです。

それぞれ一人一人の内に、如来様が在すわけですから。

みんなのなかに聖霊として宿っているのです。

如来さまは宇宙大霊で空ですから、本来は形がないわけです。

それがどうして形を持つのか?

形がない、といえば、そもそも宇宙一切が、元々形が無いということです。

しかし形なき空は、必ず同時に形を取るんです。

形ある色(しき)は、形なき空(くう)が本質。

だけど、同時に本質の形なき空は、必ず形を取る。

これが般若心経の「色即是空 空即是色」の意味なんです。

私たちは、今つかの間、人間の形をもち、人間の言語を喋って、形ある色んなことをやっている。

それによって魂が向上していくこと。

これが、人間という形をとって生まれた目的なんです。

そして人間は、ある特定の形(相)を見ることによって、魂に悟りが啓かれるということがある。

このために、如来さまは佛さまの姿を取って現れて下さるのです。

大霊は宇宙のあらゆる形を創り、そしてわれわれの悟りのために、聖霊として、佛さまという形を取って現れて下さいます。

これは、氣のワークをやるようになって分かったことですね。

佛様のお姿を心の中にイメージした時は、悟りの心が啓かれるのです。

これは誰でも、今の段階で体験できます。

9)身も心も溶けて無くなったような感覚

体験した時は、“如来様が聖霊として現れるなんて、そんなのありえない”と、つい思わず心の中で否定するのです。でも、現れるときは、やはり現れるのです。

その時は、身も心も溶けて無くなったような感覚です。

そしてその後、ガラっと心身が楽になります。

これは、自分があるような無いような不思議な感覚で、言葉ではうまく表現できません。

10)キリスト教の三位一体で言う「父」と報身の佛は同じ

弁栄教学に基づいて理解する「三身即一説」は、キリスト教の「三位一体」(父と子と聖霊)と重なる部分があります。

キリスト教の三位一体で言う「父」と報身の佛は同じです。

だから弁栄上人は、如来さまのことを神道的な言い方で「親さま」とも呼んでいらしたのです。

これはイエスがよく「アバよ、アバよ」(アバはヘブライ語で“お父さん”)と呼びかけていたのと同じですね。

三位一体説の「子」が、イエス・キリストになります。

人間の身に応じて大霊が生まれたのが佛教の応身。

神さまが人間として受肉して生まれたのがキリストとするのが三位一体説です。

従来の大乗佛教の三身即一説では、法身が空(密教では大日如来)で、

報身が浄土を建立した阿弥陀様です。

それだけだと、どういう意味なんだかよくわからなかった。

それを、弁栄上人が足りないピース(ジグゾーパズルでいう)を埋めてくださった。

これによってスッキリとまとまり、さらにキリスト教の本質とも共通するということが分かったのです。

11)弁栄上人はキリスト教という一神教の要素を取り入れた

キリスト教は、ヨーロッパを全部制覇したでしょう。

これはヨーロッパ人にとって非常に大きなトラウマになっていると思います。

なぜなら彼らは元々、「自然信仰」を持っていた。

それなのに、その聖地を壊して教会を建て、「今日からこちらが正しい。元の自然信仰は悪魔だ」としたのです。

根こそぎ全部破壊し、土着の信仰を根絶やしにしました。

フィンランドなんてキリスト教が入って800年くらいですよ。

その前は日本神道と同じように、自然崇拝だったのです。

それらが全部根こそぎやられてしまった。

ヨーロッパ人たちは、自分たちが受けたトラウマの反動もあって、植民地化を進める際に宣教師たちも軍艦に乗っていきました。

そして、支配占領すると同時に土着の宗教を全部壊していきました。

キリスト教はある意味世界に、とても悪いこともしてきたのです。

僕はキリスト教の悪口を言いたいわけではありません。

ただ、「キリスト教なんか広まらないほうがよかったんじゃないか。中東のユダヤ教の改革グループの1つとして、小さくやっていたほうがよかったんじゃないか。」

そう思っていた時もありました。

でも、明治になって日本にキリスト教が入ってきた。

それによって弁栄上人が、キリスト教という一神教の要素を取り入れ、そうして大乗佛教の足りないピース(ジグゾーパズルでいう)を埋められたのです。

これは、キリスト教の影響が無ければ為し得なかった、あるいは言語化し得なかったことではないかと思います。

大乗佛教の足りないいピースと言っても、

もちろんお釈迦様の悟りの中には、その内容は全部あったのです。

しかし時代によっては言語化し得ない、という制約があります。

お釈迦様の時代は大乗佛教を説けるような時代ではありませんでした。

500年経ってだんだん説けるようになり、竜樹菩薩なども現れて、

その後は、空思想を基本にやってきました。

しかし明治になって日本に弁栄上人が現れ、それまで足りなかった大乗佛教のピースが埋まっていったのはとても大きいことだと思います。

12)魂を輝かせるヤスリ

過去のキリスト教徒による、異教徒や異端者への目を覆うような殺戮など、負の歴史があります。

しかし人間の負の歴史は、必ずしもマイナスの作用ばかりではありません。

キリスト教の影響を抜きにして、大乗佛教から弁栄教学がさらに発展して生まれることはなかった。

だからマイナスのことも、全ては「魂を輝かせるヤスリ」という意味にもなり得るのだと思います。

我々の人生もそうです。

いろんな苦難があるにしても、それらを魂を磨くためのヤスリにすることは可能です。

もっとも、人にヤスリをかけてはいけませんけどね。(笑)

苦しみを、あくまでも自分の心を磨くためのヤスリにするということです。

でも、よく考えてみたら、キリスト教そのものが大乗佛教の変形でしたね。

イエスが伝道を始めたのと、大乗佛教が始まったのは同時期です。

一者を説いたギリシアのプロティノスという哲学者もそうです。

この三者は、まさに三すくみなんです。

大乗佛教が始まったのは約2000年前、イエスが生まれたころです。

そして、17年間イエスの記録が無い。

その間、イエスは一体どこにいたのか?

これには色々な説があります。

エジプトのアレキサンドリアに居た、というのが一般的には有力な説です。

でもアレキサンドリアには、当時、佛教の道場があったんです。

一方、ガンダーラ(今のパキスタン、大乗佛教発祥の地)にいたという説もあります。

“エッサという青年が奇跡を起こしながら中東に帰って行った”という話が、

あちこちに残っています。

エッサはスペイン語で「イエス」と言う意味です。

いずれにしても、弁栄上人の教学によって、キリスト教と佛教の関係が初めてよくわかるようになりました。

13)内在の佛を意識したら、それはもはや内在の佛では無くなる

「内在と超越」の阿弥陀様の認識において、

間違えないようにしないといけないことがあります。

というのは、内在の佛を意識したら、それはもはや内在の佛では無くなるのです。

実は、我々が内なるものとして意識すべきなののは、佛ではなく、むしろ内なるカルマなんですよ。

そもそも外のものというのは、全部内なるものの投影で、

しかも、全ては相対性を持っています。

相対性を持っているということは、2つの意味があります。

我々は、内なる佛もあれば、内なる地獄もある。

これが第一の相対性です。

そして、内に認識するものは、真逆のものが外に投映されて認識される。

これが第二の相対性です。

したがって、“「我が内にカルマを認識する」からこそ、外に在(まし)ます「超越」の佛様がありがたく感じられる”のです。

これがまさに、親鸞上人の、「極重悪人の凡夫が、佛さまへの信仰に目覚め、決定的な歓喜を体験する」ということなのです。

これと逆に、「私の内なる佛を認識します」とか、「私の内なるハイヤーコンシャスが、、、」とか言ってると、逆に、内なる地獄が、外に投影されるのです。

そして、「あの人はダメよ。ステージが低いから」なんていう話になるんです(笑)。

このようにすべてが相対性を持つ。これをしっかりと認識しなくてはならないんです。

超越の阿弥陀様によって、自らの至らなさが照らされるからこそ、内なるカルマを認識できるのです。

同時に、内なるカルマを認識するからこそ、外なる阿弥陀様をありがたく拝めるのです。

内なる神だのを拝んだら、外は邪悪に見えますよ。

内なるカルマを見たら、外に佛が見えるんです。

だから、逆転の逆転ですよ。

内なる佛様の絶対的な大愛の体験が根底にあるからこそ、安心してカルマが認識できるし、カルマが認識できるからこそ、外なる佛様がありがたい、となるのです。

如来様は、まさに内と外なのですが、内なるカルマというワンクッションを置いた上で、さらにその奥に内在されているのです。

「唯識学」でいうと、根底の第九識、無意識の奥の奥で、これは絶対に意識できないところです。

通常我々は、せいぜいアラヤ識の端のカルマのところまでしか、認識できないのです。

だから外なる佛様を、キリスト教的に言えば、「天父阿弥陀如来」として認識します。

浄土の佛様、聖霊の如来さまとして認識します。

これらは、無意識の中のいろいろな構造の中で、初めて成り立つことです。

14)意識の相対性を超えて

人間はだいたいどちらかに偏った観点に立ちますね。

内なる佛を認めたものは、外なる佛を殺せとなったり。

外なる佛を信仰するから佛性は否定する、とか。

意識は相対でしか持てませんから、どうしてもそうなりがちです。

意識の相対性を超えて、初めて超越内在の両方を受容できるのです。

15)どんな宗教とも矛盾しない

さて、今日は非常に専門的な話になりました。

阿弥陀様がどういう存在なのか、単なる教科書的な説明ではなかなか理解できないので、このような話になりました。

最後に、大乗佛教から説いて来た、阿弥陀の各文字、、、。

これが何を表しているかを説明して終わりたいと思います。

阿:法身

弥:一切諸佛諸菩薩

陀:一切諸聖教

法身である宇宙大霊は、即ち一切の佛様菩薩(そして神様)であり、同時に一切の教えでもある、と。

だから、どんな宗教とも矛盾しないのです。

(合掌)