聖書 第7回 イエスの悟りの深さ

(マタイ伝第 11章~

法話ライブ at  東京道場  2014年9月13日

聖書 第7回 イエスの悟りの深さ (マタイ伝第 11章~

法話:遠藤喨及 書き起こし:純佑


<師から弟子へと伝わる霊的系譜を大切にする>

イエスに洗礼を授けた有名なヨハネですが、この時はヘロデ王に捕まって獄中にいました。

で彼は、最後にはどうなったか?

ヘロデ王の娘が、「誕生日のプレゼントにヨハネの首が欲しいの〜」と言うんで、

処刑されてしまったんですよ。

これを聞いたとき僕は、「怖い女性がいるもんだな〜」と思いましたよ。(笑)

 

さて生前、獄中のヨハネを訪ねて弟子たちが面会に来るんです。

もともとヨハネには、たくさんの弟子いました。

でも彼は常々、

その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」(ヨハネの福音書)

と言っていたんです。

 

一方、荒野で40日間の断食修行を終えたイエスは、まずヨハネの所に行きます。

そして「洗礼を受けさせてください」と言ったんです。

ヨハネの弟子となるのです。

しかしヨハネは、

「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきだ。なのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか?」

と言い、思いとどまらせようしたんです。

でもイエスは

「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」

と言って、ヨハネから洗礼を受けた。

 

これは、「師資相承」という、師から弟子に伝わる霊的系譜の流れを、イエスが示したんですね。

なぜなら、師を持たず霊的系譜のない人は、自分自身を神とする“カルト教祖”と同じことになってしまうからです。(イエスは、自らを神とはしなかった)

お釈迦様も、やはり最初はアララ仙人に弟子入りしました。それによって、伝統を受けた、という霊的な系譜を示された、と思いますね。

 

さて、イエスはヨハネについていろいろ語ります。

「ヨハネは今までの中で霊的に最高の人物であった」とか、、、。

あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。

 

しかし、「お浄土のどんな小さい存在も、ヨハネよりも霊的に大きいんだ」と以下に続きます。

 

しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。

その後イエスは、謎かけみたいな例え話を語ります。

バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。

すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである。

どういう意味なんでしょう?

律法というのはユダヤ教の根幹をなすものですが、これからはそんなものは役に立たないんだ。律法が役に立ったのは、ヨハネの時代までだったんだ。

そうイエスは、ここで言っているのです。

なのに、未だに律法を厳守することが偉いと思っている者たち。

彼らは、神の心をねじ曲げている。

それを、「天国が襲われている」と表現したのだと思いますね。

 

繰り返し聖書を読む人であれば、あえて解釈しなくてもいいと思うんですけどね、、、。

たとえ話は、無意識に入ってきますから。

でも、ただ一回読み飛ばすだけだと、言葉が残る、という面はありますが、意味はなかなか無意識に入りません。

お経にしても、理解できなくても、無意識に入るということが大事ですね。

<なぜ自分は伝道しているのか? その真意が伝わらず傷つくイエス>

イエスは、「私が神から頂いた智慧の正しさは、数々の力ある業(奇跡)で示して、証明しているじゃないか」。そう言っています。

でも、、、。

それでも人は、「この道に生きよう!」というようには、なかなかならない。

律法を知っている人が偉いとか言う。

「真理はそういうものではないんだ。

人々に神の愛を示し、神の愛に生きるのが本当なんだ」

とイエスが説いているにも関わらず、、、。

でも人々は、イエスの奇跡を利用するばかり。

真理の教えには耳を傾けない。

かえって、「イエスは悪いやつだ。悪霊に憑かれている」なんて最後には言い出して、否定までするようになる。

そのことを聖書では、以下のような例えで語っています。

 

「わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。

弔いの歌を歌ったのに、胸を打ってくれなかった」と言うのに似ている。

ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。

しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する

 

サンガの気のワークを自分自身で体験しても否定する人がいますね。

これは、結構最近の話ですが、「脳のエンドルフィンが出たから気持ちいいんじゃないの?」という風に言われたことがありますよ。

まあその人としては、「物理的に説明ができることであって、真理を示しているわけではない」ということをおっしゃっているのかな、と思いますね。

ワークショップは、仏さまの大愛を受け取って頂こうと思ってやっていることなので、そういう受け取り方をされると、やはりがっかりしますね。

イエスは子供みたいなところがありますからね。

たまに、そんな人を責めちゃう、んですね(笑)

それが以下です。

 それからイエスは、数々の力あるわざがなされたのに、悔い改めることをしなかった町々を、責めはじめられた。

イエスは自分の身を粉にして、人々を気遣いながら奇跡を起こし、教えを伝えているわけです。それこそ、死にもの狂いでされていたと思いますよ。

例えば、群衆に取り囲まれる中で、自分の服の端をちょっと触れた人の気持ちやを理解したり、、、。

人々の人生を重みを、全部自分が背負うように受けとめて、伝道して来たのです。

実際、そうでないと伝道はできないんです。

他の人にも自分と同じように利他をしてもらう道は、人々の人生を受け止めることなしにはムリなんです。

それにしても、イエスの人々に対するそこまでの気遣いや、身を粉にするような献身は、大変だったと思います。

それでも人々は、イエスの心を理解しなかったんです。

イエスの愛や力を、自分のために利用しようとするだけだったんです。

彼らは自分の生活のことばかりに関心を持ち、

他の人への愛やイエスの説く道に生きようとはしない。

そしてイエスに、自分の我に直面するようなことを言われると、今度はネガティブに反応したり、教えを否定したりする。

そこでついイエスも言っちゃった。

街のことを、わざわいだ、なんて、、、。

 わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。

、、、イエスもつらかったでしょう。

真意が理解されなかったり、教えを否定されるというのは、、、。

それはもう、大変な傷つき方だったと思います。

 

イエスのいう「悔い改める」とはなにか?

それは、「人が自らのエゴに直面し、それを乗り越えて教えに生きること。

エゴを超えて神の愛に生きること」なんですよ。

皆さんは悔い改められたでしょうか?

人々が悔い改めようとしないので、イエスもちょっと切れちゃって、以下、こんな風にいろいろと言っちゃうんですね。

 

しかし、おまえたちに言っておく。さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。

イエスの性格を考えると、泣きながら言っていたかも知れないな、、、。何せ子どもみたいに純心な人だから。

<一方では、深く自らを内省するイエス>

そこで、これちょっと責めすぎたかな、とでも思ったのか(笑)、以下のように、内省的に自らを振り返っている感じの言葉も残しています。

そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。」

「知恵のある者や賢い者に隠して」と出てきますが、実はイエスって、「なぜこういう役割を自分は与えられたのか?」って、かなり自問自答しているんですね。

「自分みたいな、大工の息子でろくに学問を受けていないものよりも、律法学者の家とか偉いラビの家に生まれた人に、神の啓示が降った方がよっぽどよかったんじゃないか?」とかね。

「こんな大変な役割を負ったのが、何でまた自分なんだろう?」と言うのは、イエスの心のどこかに常にあったと思いますよ。

イエスは、自分がやりたくてやっている、というよりは、選ばれて神さまに役割を与えられた人なんだと思います。

 

またイエスは、自分のことを「幼な子」という言い方をするんですね。

次に出て来るのは、イエスの自信あふれる言葉。神を直接体験しているイエスの絶対的な自信、、、。素晴らしいですね。

父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。

すべての事は父からわたしに任せられています。

 

イエスにとって一般的な神概念は、まったく関係ありません。

だから、本当の神様を体験した、自分の智慧、悟り、愛を分かっているのは、天の父しかいない、と以下のように語ります。

 そして、子を知る者は父のほかにはなく、

「自分の心を理解してくださっているのは、天の父しかいない」ということ。

そして「自分と同じように、人々に神の愛を示してくれよ」と、十二使徒(弟子)を選んで、教えの真髄を託すのです。

父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。

彼ら(12使徒)には、イエスの神への想いが伝わった、ということですね。

<聖書に人生の秘密が書いてある>

以下はよく教会に貼ってある言葉ですね。

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。休ませてあげよう、あなたを、、、。

これ普通は、「イエス様のところに行ったら休めるんだ。だから帰依しましょう」みたいな解釈で終わってしまうんです。

 

でもね。これは次に続くんですよ。「私が背負ったものを学びなさい、私と同じものを背負いなさい。」、と。

以下がそうです。

わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。

ここには人生の、ある秘密が説いてあります。

それは、「神に与えられた使命を背負ったら、カルマは背負わない」ということです。

実は、カルマを背負うか、神(三宝)を背負うか、のどちらかなんですよ。

この、「三宝を背負う」ということですが、、、。

僕が、仏法僧の三宝への責任を持つ、「受持」について説くと、「何か重い話だなぁ〜、、、」と反応する人がいますね。

でも、自分を不幸にするカルマを背負うのと、幸福の源泉である神(三宝)を背負うのと、どちらがいいんでしょうね?

イエスの先の言葉は、仏教でも同じようなことを言いますね。

例えば、妹尾義郎という戦前の法華経行者の「仏陀を背負いて街頭へ」という本があります。(岩波新書 1974年刊)。

この人は、イエス様みたいな人でした。人々とものすごく共感的に関わって、人の苦しみを見ては、抱いて一緒に泣いたりしたような方です。

妹尾義郎は、新興仏教青年同盟という組織を作りました。「日蓮宗系の共産主義者」と言う珍しい人です。一般に、日蓮宗系は右翼が多いんですけどね(笑)。

 

というのは、日蓮上人は「立正安国論」という本で、日本を特別な土地であるという風に定義した人なんですね。大乗仏教がもっとも華咲くところだ、と。

それまでは、日本国という概念は希薄だったんですが、元寇という国難があって、武士たちがパッとまとまったんですね。

日蓮上人は元寇のときに、大祈祷をして国難を救った、と自負されています。

元寇の原因は、仏教が乱れて、日本の神様たちがいなくなってしまったからだ。

これからの日本は、法華経を元に仏教をまとめるなくてはいけない、と立正安国論で説いたのです。

日蓮上人の教えには、そういう時代背景があった。それで、右翼と結びつきやすいところがあったんです。だから妹尾義郎や宮沢賢治は珍しいタイプの法華経行者ですね。

話を戻すと、カルマを背負うのがいいのか、神(佛法僧の三宝)を背負うのがいいのか? これは、人生における重要な選択ですね。

 

なぜなら、イエスのいうように、如来様の三宝を背負ったら、無意識が浄土に住み遊ぶようになって、魂が休めるんですよ。

カルマを背負うと休めませんが、神を背負うと安らぎが得られ、存在すること自体が軽やかになるんです。

それで以下が出てきます。

そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである

道徳的な形でキリスト教をやっていると、そこまでの意味は分かりにくいでしょうけど、、、。

 

<不自由な心は生け贄を必要とする>

ある安息日に畑の中を歩いていたら、弟子たちが畑からとって食べてしまう。

それで律法を守る人に、「あんたの弟子たちは何をやっているんだ。安息日には、何もしちゃいけないのに」と言われた。その時、イエスは言い返します。

わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない。

ガチガチの律法のなかに生きていると、必ず生贄を必要とします。

不自由な心のなかで生きていると、誰かをスケープゴートにしないではいられないのです。

それで昔は、人間の代わりに動物を生け贄にして、象徴的な形でガス抜きみたいなことをして、負のエネルギーを解消していたんです。

でも今はそれがない。

だから殺人事件でも、「これはどう考えても生贄だな」というのが時折ありますね。

そもそも社会全体のカルマが人の無意識に乗り移って表現されたのが、犯罪なんです。

だから誰か特殊な悪人がやった、という個人的なものではないんですよ。

誰かが社会全体の影を背負って、その悪人の役割を果たした、ということなんです。

役割を果たした後の犯罪者は、魂が抜けたようになります。

そしてやった後は、本人もまた周りの人も、「なんでやったんだろう?」というようになるんです。

最近は、そういう事件が多いですね。

 

イエス様はいいます。

安息日なんて関係ない、人こそが主です、と。

どういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である。

「安息日のために人があるのではなく、人のために安息日があるのだ」と、別の時にも言ってます(マルコの福音書2章)。

 

今でも安息日に何かやっているのを見るのを、ユダヤ教原理主義の人たちは嫌がりますね。バスに石を投げたりします。

 不自由で可哀想ですね。

彼らは黒ずくめの格好して、ユダヤ教の勉強だけを一生して、その世界だけに生きる。彼らは結婚して子どもが何人いても、働かなくていいんですよ。

イスラエルには、そういう人が集まった街があります。20000人くらい黒ずくめの人たちが住んでいます。

中にはかなり過激な連中がいます。パレスチナ人に対してヒドい態度を取る人もいます。

逆にそうじゃなくて、ガザの爆撃に反対し、必死の抗議活動をして警察に捕まるような人たちもます。

東エルサレムにいたとき、黒ずくめの人が何か配っていました。最初はちょっとヤバいかも、と思ったけど、受け取ったら「シオニストではないユダヤ教のグループ」というチラシでした。それで、ちょっと話しかけたら、けっこう仲良くなりましたよ。(笑)

<イスラエル・パレスチにおける歴史の真実の皮肉>

“シオニスト”というのは「ここはユダヤ人に約束された地だから、支配するのは当然だ」として、パレスチナ人の土地を奪っていく人たちなんです。

彼らはそう思い込んでいる。それって本当は、歴史的に間違った話なんですけどね。

実は、イエスのいた時代のユダヤ人と、今のユダヤ人は別物なんです。

あのころいたユダヤ人って、実は今のパレスチナ人なんですよ。

「イスラム教に改宗したら税金はなし」と言われて、イスラム教に改宗した元ユダヤ人たち。それが、今のパレスチナ人です。

その時、イスラム教に改宗しなかった人も残っています。

彼らは褐色の肌のイスラエル人(ユダヤ人)です。

白人系のイスラエル人は、ロシアのハザールというところから来た人たちです。

ローマ帝国時代にあったハザール帝国の王様が、政治的な理由でユダヤ教に改宗した。それで、国民全員がユダヤ教徒になったのです。

実は、それらって、イスラエルの歴史学者の間では隠れた常識なんです。

でも、それを教科書に書いてしまったら、イスラエル建国の理屈が成り立たない。

政府の言ってきたことがウソになってしまう。

だから、“言ってはいけないタブー”になっています。

<いつも絶妙なイエスの教え>

さて、イエスの揚げ足を取って訴えようと狙っている人がいました。

その一番の原因は、あとで聖書にでてきますが、嫉妬なんです。

 

法然上人の教えが広がった時も、旧仏教の人たちは「自分たちが尊敬されなくなってしまう」と不安だったと思います。

明恵上人とか、純粋な意味で“仏教の本質が曲げられるから”と反対した人もいたと思います。でも反対した多くの旧仏教の僧侶たちに嫉妬があったのも事実だと思います。

 

イエスの時もそうでした。

本当は尊敬されようがされまいが、素晴らしい教えがあれば、そちらに行けばいいと思います。大事なのは真理ですから。

 

彼らはイエスに、安息日に人をいやしてもいいか、と質問するんです。

彼らはイエスが、良い、と言ったら「安息日を破るやつだ」と裁判で訴えようと思っていました。

 

でもイエスは、なかなかうまい言葉で切り返すんです。

あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。

そしてイエスは、安息日に人を癒やすことは正しいことである、と言って、

手が曲がって伸ばせない人に、「手を伸ばしなさい」と言います。

そして手は治りました。

イエス様は何ごとも、絶妙な言葉で返しますね。

不倫した女性を、みんなで石打ちの刑(死刑ということです)にしようとしていた。そこにイエスがやってきて、

あなたがたのうちで一度も罪を犯したことのない者が、まず最初に彼女に石を投げたら良いでしょう

と言う。

そして一人去り、二人去り、みんな去った、という話などもありますね(ヨハネの福音書)。

<世界の未来に想いを寄せ、仏教とキリスト教の融合を考える>

 

さて、私たちが聖書を読むのには、一体どんな意味があるのでしょうか。

ただ「ああ面白かった」では何だか、少し虚しくないでしょうか?

そもそも、私たちがこうして聖書を読めるのは、弁栄上人が、仏教とキリスト教を越えた普遍的な念仏の道を見出して、伝えてくださったからですよね。

そうでなければ、仏教とキリスト教の接点を見出すのは、とても難しいんです。

そもそも弁栄上人の光明主義の前と後では、仏教の意味が全然違うんです。

皆さんは、光明主義以降の話しか聞いていないので、仏教はこうなんだ、と言うイメージがあると思いますが、それは一般的な仏教とは、また少し違うんです。

たとえば、光明主義以前の仏教の目的は、空に体達することなんです。

空とは、般若心経に出てくる「色即空」の空ですね。

でも光明主義念仏で空は、宇宙大霊の一つの側面と説き、空を超えたところを修行の目的としてます。その辺の認識のギャップは、一般的な仏教との間で、いくつかあると思います。

 

例えば、浄土宗の阿弥陀様と弁栄上人の説く阿弥陀様は、概念的にも違うんです。

従来の浄土教の阿弥陀様は、法蔵菩薩という方が修行して、全ての衆生をお浄土に往生させる原理を成就して、仏になられた阿弥陀様なんです。

そこに宇宙大霊という概念はないんです。

宇宙大霊=阿弥陀という概念は、弁栄上人が立てられたものです。

一方、キリスト教には空(大霊)の概念がないから、仏教など他の宗教との接点が持てません。

だからどうしても、キリスト教などの一神教は、他の宗教と対立してしまいます。

それで西洋人は、「今までのキリスト教を捨てて仏教に帰依します」となりがちなんです。

でもそれ自体が一神教的な態度なんですね。それは、空を土台とする仏教的な態度とは言えないんです。

だからタオサンガでは西洋人に、伝統的な宗教を捨てることなく、これを尊重した上で念仏することを約束してもらう、ようにしています。

そもそも日本には、宗教という概念や言葉自体ありませんでした。

宗教というのは、「他の宗教との比較」から生まれた概念なんです。

ところが日本には、道という言葉や概念しかなかったんです。仏道とか神道というように。仏の道を歩みます、とかね。そして行き着くところは同じ、根底は同じ、と見るのが、普通でした。

 

弁栄教学が生まれて、はじめて宇宙大霊と言う概念が生まれました。そしてそれが阿弥陀様であり、大日如来であり、道であり天であり、エホバの別名でもある、とまで説かれたんです。しかも、明治大正時代に、です。

弁栄上人は、「法然上人の説いた本質は大愛にある」と説かれ、仏教とイエスの説いたキリスト教との融合が、そこから生まれたんです。

だから弁栄上人には、牧師さんの弟子もいました。

したがって私たちが、光明主義の内容に結びつけて聖書を理解するなら、これを学ぶことには、大きな意味があると思います。

弁栄上人は、聖書をズダ袋のなかに入れて、全国を伝道して周っておられました。

それで、「あいつは伝道先のお寺で、耶蘇教(キリスト教)の話ばっかりするから、浄土宗から追いだそう」という話も出たくらいでした。

 

イエスの悟りは実に深いものだったんです。

キリスト教を、道徳とか倫理的な観点からのみ見てしまいがちですが、

霊的に修行しなければ、イエスの教えの本当の素晴らしさは分かりません。

イエスの悟りが深くて素晴らしいものだったからこそ、

エックハルトなど、後世のキリスト教神秘主義の人たちも生まれるんです。

彼らもまた、非常に深い悟りを得るんですね。

そんじょそこらの仏教の修行者よりも、よほど深いと思います。

私たちは、霊的世界の本質を理解するという視点をもって、聖書を勉強するべきだと思いますね。

聖書を解釈し、その当時や今の中東の状況に想いを馳せる、、、。

だってパレスチナは、世界全体の問題の象徴みたいな所でしょう。

あんな狭い所に世界の関心が集まっているのです。

ガザは東京23区の1/4くらいの広さで、人口40万人くらいしかいませんが、

我々人類の色々なカルマが、あの地域に凝縮されています。

世界の霊的向上のために、仏教とキリスト教が融合した光明主義念仏を修行する、、、。

かつパレスチナ問題と他人事としてではなく、自らの人生で関わっていく、、、。

そういうことならば、そこに本当に聖書を読む意味が生まれると思いますね。

(完)