ユーモアクラブより転載。

北広次郎エッセイ集 ミスターヨーロッパだより

第9号 『クオ・バデ゙ィス 孤島国Jジャパン?』(その四)  

 2010年7月、四方海洋孤島国Jの『国民総消化不良選挙』は、ドッタンバッタンドラマの末に強行された。このドラマもまた、ブラックジョーク劇場の舞台での国民総消化不良症候群現象であったのだと思う。観客も出演者も胸やけがして。中には胃痙攣をおこしている。

 

 そこで思い出した事がある。あれは英国の元首相マーガレット・サッチャー夫人が退役してからのことだ。セミナー講演会のため訪日した際のことであった、ひょんなことから、私はこの講演会前座のコンサートのため、英国から日本に飛ぶことになった。宇都宮グランドホテルで行なわれる講演会セミナーの開会式パーティーの前々日に、前座をつとめる予定の シャルロッテ・ド・ロスチャイルド女史が日本から電話をかけて来た。

「貴方が私の今回の日本へのコンサート旅行の一部を、アレンジしてくれたのだから、折角だから貴方もこの開会コンサートに来れないかしら」というのであった。

 その時、家族は米国のシアトルの娘の所へ出かけており、英国に仕事もあったので訪日予定はなかったが、急遽予定を変えて、日本行きを決めたのが夕方であった。ところが翌日の成田日本行きの航空便の席がなかなか取れない。結局とれたのは翌日の英国航空の関西空港行き便であった。まず英国のマンチェスター国際空港から出発し国内便でロンドンヒースロー空港で乗り換えて、関空に向うのだが、もう衣類など手当たり次第旅行カバンに詰め込んで翌朝空港へタクシーで空港にかけつけた。

 関空に着いてから、新幹線で東京駅に向う。途中、名古屋駅で、旧友の中京地区の交響楽団指揮者田中瑞穂氏が乗り込んできて合流した。東京駅では、家内の甥の黒岩貴が赤いフェラーリで出迎えてくれて、宇都宮に向ったまでは良かったが、高速の方向サインを見てると、さかんに道に間違いはなかろうと思い込んでいたのだが、余りに『水戸』が頻繁に見えるので、「この高速で宇都宮行きは大丈夫だろうね?」と念を押して見た。ところが甥は「えっ? 叔父さん、水戸じゃなかったっけ?宇都宮でしたか?しまった。しまった。すっかり聴き間違えていた。ごめんなさい。開会は確か夕方6時でしたっけ?」というなり、急遽高速道を降りて再度東京駅に戻り、宇都宮行きの高速に乗り換えたのである。

 こから、カーレーサー振りを発揮し猛スピードで宇都宮にむかった。幸いこ高速道は全くすいていて、前後他の車の影は見えなかった。かすかす午後6時に着いた。しかしサッチャー元首相は、まだ到着しておらず、やがて玄関から多勢の待ち受ける中へ現れ、大拍手喝采が湧き起こり、大宴会場ホールに入って来た。

 

 そこには大親日家サッチャー元英国首相の登場にふさわしいオーラが溢れていた。 英国政治史始まって以来の女性首相第一号であり、まだ第二号は出て居ない。しかしサッチャー首相が出現した事は、世界に与えた影響が大きかった。それ以来女性首相女性大統領が他国でも輩出する発火現象になった事は事実である。 おまけに英国はエリザベス二世女王が永らく君臨している。英国では16世紀のエリザベス一世女王の治世時代も永かったが、日本でいうと江戸時代末期のビクトリヤ女王時代も永い治世であった。

 いまついでに、ここで余談をして置くと、エリザベス一世女王は、生涯独身女王であったが、世界の七つの海を支配し行く植民地領有大英帝国化の発端はこの女王時代から始まったのである。

 そしてエリザベス一世女王は、東洋の果ての四方海洋孤島国Jジャパンのことを17世紀初頭に英国東インド貿易商社を通じて送られた三浦按針(英国名:ウィリアムズ)の書簡により知っていた。三浦按針さんが孤島国Jに漂着したのが、桶狭間の戦いの西暦1600年であった。そして侍の娘を娶って帰化し、三浦半島を授かる小大名となった。この時、もう一人同じ難破した帆船の水先案内人{パイロット)がいた。これも同じ難破船の漂着仲間であオランダ人ヤン・ヨースチンであった。

 この人物も江戸で拝領された土地の小大名となった。ヤン・ヨースチンは、その姓名の発音を漢字化して『八重洲』となった。今の東京駅の八重洲口は、この元オランダ人小大名の拝領地であった。ついでにいうと、この時代のエリザベス一世女王女王の右手だったと思うが、指が六本あったのである。ヨークシャーの蝋人形館の蝋人形で確かめたが、たしかに六本指女王であった。この時代から、海洋王国の繁栄がはじまったのである。北は蝋人形館内のビデオ撮影をしてきてるので、御興味ある方がいたらお見せします。ご希望者はご連絡下さい。

 サッチャー元首相の講演初日大宴会の聴衆は2千人余り、ほとんど80%が女性である。日本商工会議所婦人部(女性経営者)のメンバーのかたがたで、翌日から開催されるサッチャー元首相を座長講師としたセミナーが二日間行なわれることになっていた。

 その開会式の挨拶のスピーチで、大会場が割れんばかりの最大の拍手喝采の場面が起きていた。それは孤島国Jの首相の短命をもじったジョークに触れた瞬間であった。その頃は橋本首相が就任したばかりの直後のときであった。これには、もっと背景を説明しておかないと、分からない人もいると思う。

 フランス革命二百年記念祭が開かれた時のことだが、世界中の元首クラスが祝賀にパリに集まってきた。その会場で、サッチャー首相は先進国初の女性首相として花形国賓客の一人であった。なりたてほやほやの四方海洋孤島国JのダークホースU首相が、サッチャー首相に握手を求めに近寄った時、サッチャー首相はその求めに応ぜず、故意に無視したのである。U首相は日本に帰国して、ほどなくして首相を辞任した。サッチャー首相は、U首相の女性愛人問題の不始末のことをよく知っていたのである。

 鉄の女宰相の気質は、相手が英国人だろうが、何国人だろうが、いつでも同じ毅然とした態度であった。英国の歴代首相の中にも、ウィルソン首相とか、メイジャー首相とか、秘書女性愛人問題ではクリントナイズが居たが、もうちっとスマートで

あったのだが、孤島国JではU首相の場合は、どうも始末におえない。とにかくサッチャー首相は、誰に対してもおなじであった。

 もう一つ英国内の例を知ってるが、英国のある著名な実業界人で、ちょっとピンク系の広告をわざとする人物は、最後まで公然と非難してはばからなかった。

 サッチャー元首相の初日挨拶とシャルロッテ・ド・ロスチャイルド女史のコンサート公演は同じ場所同じ時に行なわれて、これもビデオ撮影してる。

 引退後のサッチャー首相が、講演旅行する時には、厳しい条件がある。宿泊ホテルのサッチャーさんが泊まる階は、全空室にして、警備ポリスをおかねばならない。北は急に訪日したため、ホテル予約してなかったが、幸いシャルロッテ女史が昵懇にしてる宇都宮グランドホテルの女性社長さんにお願いして下さり、なんとサッチャー元首相と同階に、例外中の例外として、部屋を提供して下さった。翌朝目が覚めてから、窓外の庭園の庭木の眺めがあまりに美しく恐縮した。

 さてシャルロッテ女史は、ウィーン音楽院と英国王立音楽院とを卒業したソプラノ歌手である。 一方ショパン、パガニーニ、ベルリオーズ、ロッシーニ、ストラウス、トスカニーニ、ワルター、メンデルスゾーン、リスト、シューマン、ハンナロスチャイドなどと詩人ハイネ、作家ジョルジュサンドなどとロスチャイルド家は庇護者として密接な関係がある。シャルロッテ女史は、その関係史の研究家でもある。

 シャルロッテ女史の実父英国ロスチャイルド家第五代当主(総裁総帥)エドムンド男爵は、戦後日本復興の国債を引受けたことなどの貢献で、日本政府と昭和天皇から、勲一等菊花瑞宝章を授けられてる事はすでに別章でも述べている通りである。さらに特筆するが、サッチャー首相の後を継いだ保守党のジョンメイジャー首相もロスチャイルド銀行出身であった。

 つまり、英国ロスチャイルドは日本の幕末時代にあたる産業革命期に蒸気機関(主に鉄道)をもっとも世界に広めた推進者で貢献人ともいえる。鉄道の世界普及に、資金面で債権を発行引受けてきた。孤島国Jの国鉄も発端はその例外ではない。フランス鉄道はロスチャイルド家自身が経営していた。

 初のビクトリヤ女王時代、英国士政治史初のユダヤ人ディスレイリ首相が誕生したのは、バックにロスチャイルド家の完全支援があったからである。

 スエズ運河株をエジプトのトルコ提督から買収して、ビクトリヤ女王(すなわち英国国家)に即献上したのがディスレイリ首相であるが、首相のたっての依頼に応えてその全買収資金を一晩で準備したのが英国ロスチャイルド家であった。

 明治政府の、高橋是清が大藏大臣から首相になったのも、間接的には、ロスチャイルド家が関係したとも言える。この事は、別章にも述べた。

 ここから明治政府の薩摩藩出身の北海道開拓使長官黒田清隆に注目してみよう。

 後に1888年(明治21年)帝国議会第一次内閣伊藤博文の指名で、第二代首相になった人物である。しかし、今ここでは、開拓使次官時代に自ら渡米して、米国農務省の現役長官ホレイス・ケプロンを日本に引っ張ってきた。それには当時在米国公使であった森有礼の強い力添えもあったカラでもある。 現役の大臣格長官を、海外国に長期派遣した例はそれまでの米国政治史には無い異例な人事であったようだ。

 とにかくケプロンは北海道開拓の指導と支援のため、孤島国Jに部下三名を連れてやってきた。しかし、起業法については黒田田次官とケプロン指導派遣使との間に意見の食い違いがあって、熱い議論が交わされていた。間単にいうと、ケプロン民営起業方針と、黒田国営起業方針の相異であった。

 黒田清隆は、「まだ産業資本力の弱い四方海洋孤島国Jでは民営まかせでは、いつになったら起業が実現するか当てにならないから、先ず国権で国営で起業スタートすることが必須条件で、後から必要とあれば民営に払い下げればいい」と主張していた。

 一方ケプロンは、「北海道は北海道として最初から経済的には自力で産業力を付けるため民営資本と外国資本を積極的に導入すべきである」という民営起業論を主張していた。

 これは米国の開拓史において行なわれて来たように、自立を重視する欧州資本ないし民営にまかせるべきというアメリカ方式では当然のことからの産業開拓論であった。

 それは米国は国土が広く、州ごとにの独立性を重んじながら、合州国制をとってきた発生原因史でもある。欧州国の産業の発達を見ても、企業民営スタートが多い。世界産業革命発祥の英国では、起業はすべて民営から始まっている。例えば英国の警察制度にしても今現在でも『スコットランドヤード』というくらいで最初はスコットランドの一領主貴族の私的自警団組織が起源であった。

 バッキンガム宮殿の衛兵の毛の帽子や服装を見ても分かるように、あれは完全にスコットランドから来ている。スコットランドといえば、北欧バイキング9世紀から侵入を繰り返し、十世紀十一世紀には、英国島をぶん取ってしまった。つまり、バイキング王が、英国王になった時代だある。1066年イングランド島継承権を主張して、ドーバー海峡をバイキング船で渡ってイングランド島にやってきたウイリアム一世(別名ウイリアム征服王ともいう)は、完全なバイキングであった。

 紀元前からケルト民族やローマ軍(シーザー率いる)や、アングロス、サクソニアン、ゲルマン民族の侵入をうけてきた英国島、アイルランド島は、1066年のバイキングの侵入を最後として、外来民族侵入の歴史は終わった。

 欧州は地方個別の貴族騎士領主が、王との契約により、政治、経済、防衛、裁判制の共同法集団を形成してきた。

 つま地域領主の領土私有権保有権の安定保証が、外交であり内政であり、王との契約であったが、更に欧州のスーパーパワーであるローマ教皇の聖域である知行地が各国各地に散在していた。

 十三世紀の英国では、内乱や政治危機が訪れたのは、政治の原則と綱領による物であり、英国塔島の国王と諸侯、統治者と被統治者の関係と、運営方針についてはじめて、諸侯が結束して、エドワード王の法とヘンリ一世の戴冠憲章を遵守すべきことを要求し、封建的君臣関係を破棄して、頑迷なジョン王に譲歩を迫った。ヘンリー三世の治世の半ばに、『国王の評議会』が出来て、パーラメントという言葉が、公文書に現れるようになった。                                                                                                                                                                                                  

 1215年英国のジョン王が、貴族諸侯、キリスト教僧侶の求めに応じて、個人の権利・自由を侵害しない事を約した憲法的文書の前文と63ヶ条から構成された、英国立憲政治の起源となったものを『大憲章(MAGNA CARTA)』と呼ぶ。

 さて英国は産業革命以来、民営起業が盛んになったが、必要時には国営化することも行なっている。

 1945年 世界第二次大戦集結後、労働党が大勝した。

 そして日本で言えば日銀に当たる、イングランド銀行を国有化した。

 1946年 国民保険法を成立させ、炭鉱・道路・鉄道輸送を国有化した。自動車製造工業モ国有化史、BRITISH LEYLAND一社に纏める。

 1947年 電気産業を国有化、1948年選挙区改正。独占禁止法成立、ガス供給国有化を行なう。1950年 英国鉄鋼業国有化する。

 その一連の国有化断行内閣は労働党アトリー首相であった。

 1951年 再度戦時中のチャーチル首相が復活し、第二次チャーチル保守党政権となった。

 1952年エリザベス二世女王が即位した。そのときロンドンの戴冠式に、昭和天皇御名代として、現平成天皇が皇太子の頃参列した。英国はヨーロッパ石炭・鉄鋼共同体案を拒否する。

 1955年 チャーチルの水爆製造宣言が出される。

 1958年 EEC{欧州共同体)が発足。この年、アラブ軍がパレスチナを占領。英国ロスチャイルド家の資金援助により、ユダヤ人の二千年の悲願であったイスラエルが建国される。

 1961年 保守党マクミラン政権はEEC加盟申請を行うも、労働党は加盟反対する。

 1963年 ヒューム保守党政権は、EEC加盟を申し込むが、戦時中ドイツ占領時中、ロンドンに亡命していて、レジスタンスラジオ放送をしていたフランスのドゴール大統領により拒否される。

 1964年 ウィルソン第一次労働党政権により、死刑廃止決定される。

 1966年 北 広次郎はウイル政権下のロンドン、マンチェスターに丸紅機械部駐在員としてして赴任し欧米先進国への販売市場開拓に着手するも、まだ技術力及ばず当初苦戦を強いられる。まだソニーもホンダも正式に進出していなかった時代。

 1970年 ヒース保守党政権に交代し、中等教育改革がおこなわれた年、英国北海それまで十二進法だったが、十進法通貨導入。ロールスロイス社を国有化する。

 1973年 英国は正式にEECに加盟した。

 1975年 第二次ウイルソン内閣が国民投票を行ない、EECに残留決定。この年サッチャー保守党議員が、保守党党首に選出された。ウィルソン首相は二年で同じ労働党のカラハンび首相の座を譲る。

 1979年 いよいよ鉄のサッチャー女性首相時代に入った。

 この女性首相の採用したのが、矢継ぎ速いサッチャリズム(サッチャー流)の政策の実践実行であった。

 英国病への大手術を大胆に鉄の意志で推し進めたともいえる。

(1)『小さな政府』

(2)『英国内起業への中央政府地方政府の資金援助グラント制の強化指示』

(3)『国営企業の民営化』

(4)『人道主義に基ずく外交政策』

(5)『植民地主義時代への清算』

(6)『国家のプライド』

(7)『環大西洋機構とNATOの拡大』 などであった。

(1)『小さな政府』 に関していえば、屋上屋を重ねる中間政府の廃絶であった。

 これに関しては、北が体験した例をのべてみる。

 ある時東京都議会議員団の海外都市視察団が、マンチェスター市を訪問した。

 これには日本交通公社の添乗員も同行していたが、現地事情に詳しい人物はいないかとして、日本交通公社ロンドンから視察議員訪問団への助っ人を依頼された。同時にマンチェスター市長助役とも、長年親しくしていた関係で、例えば孤島国Jジャパンの都市で、姉妹都市関係を結ぶに相応しい候補先はないかとか、マンチェスター大学や技術工科大学や、市のロータリアンクラブや専門学校などに、時折日本事情の講演会も講師として招かれていたという背景もあり、市側からも同時に要請が来た。

 そして、グレーターマンチェスター市の市外町村現場視察、市内見学、市議会訪問、市長面談、市営住宅、市営マンションビル建設状況(当時旧ビルはアスベストス石綿多用問題で旧建物取り壊し百棟余り立替中)、市営老人ホーム、市議会訪問、

市長と助役などとの会見などのプログラムも準備されていた。最後にはホテル特別の間での市長主催晩餐会までセットされていた。

 はるばる孤島国Jからやってきた、都会議員海外都市視察団に対する、じつに至れりつくせりの、大歓迎ぶりであった。

 この市庁舎のタウンホールは、立派な歴史的ビルである。

 昭和天皇がまだ、大正天皇の皇太子であったころ、このタウンホールを訪問されて歓迎晩餐会が開かれたこともある。また外務省後援JETROの日本文化展なども、この大ホールで開催されたり、またある時は日本の九電力東海村の会長社長一行の歓迎晩餐会も開かれたりしてる。この一行は英国核燃料公社から、丸紅がエイジェントで50年間核燃料棒を、日本に輸出してきてるため、その専用運搬船二隻を英国で建造したが、完成してその進水式のために電力会社のトップが、中には家族連れで、招かれてきていたが、マンチェスター市長がこのタウンホールでの歓迎晩餐会を開催したこともある。

 東電の遠山外四会長も娘さんと来ておられた。鱒寿司ならぬ自家製スモークサモン寿司をホテルの部屋に差し入れしておいたら、翌朝「昨夜の市タウンホールでの立食晩餐会の料理は重すぎたので、、、、、とても助かりました」と喜こばれたこともある。

 サッチャー首相時代当時北は、英国通商工業省の地方局傘下の英国工業開発協会の顧問に任命されていて、日系企業の英国工場進出促進役を依頼されていた。

 そんな背景があって、東京都会議員視察団のメンバーを御案内した。

 グレーターマンチェスターは東京にたとえれば、マンチェスター市と衛星都市が合体した地方行政組織である。その最大なのは、ロンドンであり、グレーターロンドンである。しかし英国政府は、この真ん中のグレーター市庁は不要であるとして、思いきって廃止したのである。その職員は、みな別な公的機関に転職させた。間単にいえば、県庁とか都庁府庁道庁をなくして、中央政府と市町村庁と直結の組織体制に組み換えたのである。

 この説明を聞いた都会議員団のメンバーの方々は「まさか、将来都議会も無くなるということなのかしら?」と囁き合って複雑な表情であった。

 また『英国は市町村長は、任期一年で、無給である。ただし交通費など『公用経費は市民の税金jから支払う』と言う説明をうけた時の、議員団メンバーは目を白黒させて聞いていた。実務はすべて助役がおこなうといっていい。市町村長は当番回りもちの名誉職であり、これも永い英国の行政史における、民主主義に基ずく独裁や汚職腐敗を防止する人民の生活の智恵から生まれた地方自治体制度である。

 これが公僕(CIVIL SERVANT)思想の理念に基ずいているのだが、では市町村長さんはなぜ必要で選ばれるのかと言うと、あるとき助役さんから市長の公務日程表を見せて貰ったら、地元の公式行事、式典、祭事、外交、晩餐会など結構多忙なスケジュールが 連日詰まっているのだ。市町村の表の顔、そして裏方を支えてるのが助役さんと、職員幹部と職員である。

 このお話しを孤島国Jから来られた方々に、お話ししても即座に理解できる方がまず居られない。サッチャーさんは、国営企業、大手民間企業、孤島国Jとは異なる二百数数十種類の職能別労働組合に対して、鉄の宰相として大鉈を振るったのである。

(2)『英国内起業への中央政府地方政府の資金援助グラント制の強化指示』 というのは

 例えば、丸紅時代ニッサン繊維機械部の機械エイジェントをしていた関係で、北がもっとも関係し、お手伝いさせていただいたニッサン英国工場建設であるが、工場建物機械設部に必要資金の40%近くを英国中央政府地方政府からグラン奨励金制度として出して貰える仕組みである。

 サッチャー首相は、ニッサン英国工場建設誘致には最も熱意と情熱を込めていた。それは外国の企業だろうが、国内企業だろうが一切差別化をしないで、平等に扱うという基本政策に基づいていた。この制度を活用して、多くの日系企業が、英国に工場を建設し、製品をEU中東アフリカに輸出している。なかには貢献企業として、エリザべス二世女王から受勲されてる日本人もいる。たとえばニッサンの石原洵元会長、故盛田元ソニー会長などなど。

(3)『国営企業の民営化』

 これは、完全民営化、半民営化のケースもあるが、柔軟性を持たせるのが英国流儀である。

 英国国鉄、英国上下水道公社、ドーバートンネル会社、北海石油ガス公社など多くあるが、王立郵便局は結局郵便事業は民営化論もかなりあったが、やはり合理化は行なわれたが民営化はおこなわれなかった。

 水道公社はスコットランドを除き、地域別民営化され、今はフランスの国際的水道会社専門のホールデイングカンパニーグループがオーナーである。

 英国国鉄労組は民営化には協力に反抗して、サッチャー首相門だいぶてこずっていたが、結局老朽化した線路会社を国営にのこして、線路以外の路線は入札制で民間に譲渡された。ただしスコットランド地区鉄道は除外された。

 1830年9月15日リバプール、マンチェスター間に世界初の旅客鉄道が開通した。いらい英国中に私鉄鉄道路線が網の目のようにひろがった、すべて民営でスタートして居る、おもしろいのは大都市間には三つないし四つの異なる民営会社が、迂回経路をひ東回りとか、西回り、南回り、北回りとか我、独自に線路を敷き駅ビルを造った。だから大都市には同じAB都市間の運搬なのに、異なる駅ビルが四つ残っている。そして回路は4種類あり四線路ある。しかし出発都市と到着都市は全く同じなのだ。たとえばマンチェスターにはミッドランド駅、ピカデリー駅、ビクトリヤ駅とエクスチェンジ駅とあり、同じ目的地ロンドンに行くにも、四つの異なる路線の民営会社が合って、乗客はその時の都合で好きな路線会社の鉄道を自由に選択する事ができた。

 それは行く先がグラスゴーだろうが、リバプールだろうが、バーミンガムだろうが、どこでも大都市煮は同じくどこも異なる四つの駅があり、路線もことなっていた。

 英国人が多く移民した米国開拓時代の鉄道は、同じ方式を採用していた。

 西部劇でも見るような、鉄道はプラットフォームもない野原の中にあり地べたに直接降りるなんてのはざらである。今でも北欧なんかには、野原駅があり列車の乗降口が胸の位置か首の位置なんてのがざらで、駅長や助役が列車が到着すると踏み段を抱えて跳んで来る所がある。駅にはプラットフォームが完備してるのが当然という固定概念に捉われる孤島国Jの人々は思考の柔軟性に欠けてしまう。

 孤島国JのNHKに当たるBBC英国国営放送は国営化されなかった。

 しかし、BBC報道陣は政府から独立している。以前アイルランドのIRA軍問題で、ニュース取材ソースを明かすよう政府に迫られたが、あくまで明かす事はなかった。

 欧州大陸国では、ほとんどTV Radioは民営化され国営は稀少化してるが、英国は国営でもBBCの権威と独立性を保持しているのは健全である。報道のデイシプリンルールを認知しているモラル先進国だからだ。

 そういえば通信機を発明して英米間に電波を飛ばす実験に成功したマルコーニは英国人であった。

 英国内工場を建てる場合、外国企業国内企業の差別を設けないで、グラント奨励資金を与える制度に、極右政治家の中に『この国の政府は』、、非難するものがいた。

(4) 『人道主義に基づく外交政策』

 サッチャー首相は、みずから国連に出向いて訴えたのが、今回ワールドカップを開催した南ア連邦の白人の黒人に対する

人種差別の徹底で、南アとの国交関係と交易禁止勧告であった。

(5)『植民地主義時代への清算』

 中国の改革開放政策が始まり、英国の99年にわたる租借権による植民地支配に終止符をうった。と表から見て一口に言うのは簡単であるが、裏側から見ると、そう簡単ではない。

 香港返還に関しては、中国政府は、建前と本音があった。香港は社会主義政権国家の資本主義経済国家への窓口として、香港の英国借款期間延長もありうるという選択もあると言う含みもなかったわけではない。香港内の中国人の中には、返還後には政治的なフリーダムが失われるという懸念が広がり、英国、カナダ、オーストラリヤ、米国その他国外へ脱出移民家族が増大した。特に英国への移民希望者に特別ビザを発行した。その駆け込みビザ申請者は5万人枠をこえた。

 サッチャー首相は、あっさりと返還を申し出た。これは英国民の中にも、当然延長交渉を当然行なうという見方が多かっただけに、意外と感じた者が大多数であった。

 孤島国J内では、もう忘れてるか、歴史を教えられていない世代がほとんどであるが、香港は一時日本軍が占領していた時代がある。改革開放の父小平氏は 『鼠を捕る猫は黒い猫も黄色い猫も良い猫だ』と言う実利的プラグマテイズムの喩えをよく引用していた。

『一国二制度』と言う現実順応主義を標榜した。

 北は香港返還式当日に、ノスタルジックに『香港 あれは英国だ』と、カウンターバーの天井近いTVを見上げて、涙を落としていたロンドン生れでオーストラリヤ系銀行に勤め、オーストラリヤ人のフィアンセと、大阪に来ていたカップルと出会っていた。彼は香港勤務の経験もあった。

 この返還の前に、心臓手術をしていて『イスラエル建国の父』と言われたシャルロッテ女史の父エドムンド・ロスチャイルド翁は、香港上海北京に飛んでいた。

 香港上海銀行の実質的オーナーはロスチャイルドである。もっとも懸念していたのは、北京政府の香港上海銀行とその他ロスチャイルド資本の息のかかってる英国系バンクの処遇であった。最悪のシナリオは返還後の中国政府の国有化である。

 エドムンド翁は疲れきってロンドンヒースロー空港に戻ってきた。その日、空港から離れた自宅パレスに戻る元気は無く、迎えに行った娘とロンドンに泊まって静養してから帰宅することになった。

 香港返還の今ひとつの面を覗くことも必要であろう。

 一口に99年というが、その年月は長いようでいて短いし、短いようでいて長い。その間の歴史は重い。

 しかし英国が99年、香港に分基地を保った事は、かつて東インド会社を保った時代とは類似点がある反面無い点も多い。正の部分、負の部分もある。正負を、損得と換言できるかと言うと、一世紀の歴史はそんな単純なものだけでは無い。

 一つだけ言える事は、英国は香港には大勢の派遣駐留を含め、香港政庁経営維持に派遣してきた人件費など莫大な国家的経費負担が減じた事も、事実である。サッチヤー首相は、借款延長の是か非かについて、その点も読んでいたはずである。

(6) 『国家のプライド』

 あのフォークランドと言う一見なんの取りえもなさそうな英国が領有してきた、英国人の住む小島に、アルゼンチン軍が侵入を始めた時、サッチャー首相はいち早く、英国海軍を派遣した。英国王室のチャールズ皇太子の弟も、戦闘員士官としてその旗艦に乗り組んでいた。

 フォークランド小島に何の価値があったのか?

 この小島は将来南極大陸へ向かう航路上の中継補給基地になるという役割の可能性もあったというが、不法侵略を容認できない、鉄のサッチャー首相自身の国家のプライドが、まずあったと見られる。

 北の知り合いに 元ドイツのNATO軍に所属していた、英国人軍曹がいた。フォークランド戦争に派遣される直前、訪ねてきて北に日本緑茶缶をフォークランド前線の軍郵便局に送ってくれと言ったので、快諾した。『緑茶送ってくれて有難う。 前線では牛乳が入手できないので、英国紅茶より、日本茶がとても都合がいいです。しかし、ここでとても驚いた事があります。我々がフォークランド島に向けて戦艦から砲撃してる、その脇で漁船が二隻漁をしている。それは日本の漁船でした。 また送って下さい。無事帰還できたら、、また会いに伺います。』という彼の軍用便航空郵便がとどいた。ちなみに、英国軍前線郵便局行きの、航空小包みや手紙の郵便料金は一切無料である。

(7)『環大西洋機構とNATOの拡大』

 サッチャー首相は、ソ連のゴルパチョフ書記を大変御贔屓にしていた。

 ベルリンの壁が取り払われる事に、ゴルパチョフの果たした貢献が大きかった。そしてゴルパチョフ氏がロンドン訪問した時には大歓迎した。鉄のカーテンは消え、冷戦時代は終わった。

 1990年代半ばには、多文化主義の台頭が芽生えていた。

 マルキシズムが失敗に終わった事の認識は、西欧の哲学者経済学者歴史学者の間では、1960年代から言われていた。

 1960年後半、北が見た英国の歴史の教科書にも『マルキシズムの失敗と崩壊』と明記されているのを見た。

 しかし、それ以前、四方海洋孤島国Jには、著名な経済学者あらず、マルキシズムが学者のゾンビが存在し続けていた。孤島国Jのみには、まだマルクス主義者でなければ人にあらずの知識人、インテリゲンチャ、大学の学研者、労組員がいて、そのアナクロニズムに気がついたのは、欧州に住みついてからである。

 これはどうもインドは紀元前からヒンズー教バラモン教国であるのに、また中国は儒教国、韓国も儒教国出今は40%がキリスト教国化しているのが現実であるが、孤島国Jではいまだにこれらが仏教国だと言う偏見を抱いているのに似ている。

 国境陸続大陸民族と、四方海洋孤島国民族の歴史的格差、肌で感じる情報のスピードの隔差はあまりにも大きい。

 国境陸続大陸民族はマルキシズムのモンスターははとうに崩壊した事をつとに知悉してるが、孤島国Jでは独自の乖離文化に囲まれているかのようである。

 1960年代の中学クラスの英国の世界史の教科書には、孤島国Jのことを、東洋のバイキング民族と記述してあった。つまり鎖国時代が始まる前の八幡船海族民族のような書き方であった。

 1990年半ばには従来の西欧文明圏と、同ファミリーのアメリカの環大西洋(別名汎大西洋)機構見直しがはじまった。

 それはマルキシズムの失敗とソ連の脅威がなくなったことで、NATO軍事同盟の再定義の必要が生じたからである。

 それがNATOの解体に即繋がると考えるのは、あまりにも早合点すぎる。

 アメリカ人は西欧文明のファミリーの一員であるというコアの部分がある限り、環大西洋機構は経済外交政治文明の再確認を迫られたのが、キッシンジャー外交時代の課題であり、NATOインドユーラシヤ大陸の更に東に拡大する必要に迫られていた。それは東アジヤにおよぶ現代マルコポーロの現代型新シルクロードの形成である。そしてNATO軍は今アフガニスタン、パキスタン山岳部でタリバンテロ軍団と対峙している。

 孤島国J人は、幕末明治維新から、西洋文明路線を選択し、まっしぐらに走ってきて、今さら後戻りは出来ないところまで来ている。

 1994年5年にかけて大西洋自由貿易機構創設を提唱支持しはじめた。

 それに賛同したのがマーガレット・サッチャー首相であった。一方では、マーガレット・サッチャー首相は自ら、数度孤島国Jへ飛んで、ニッサン、トヨタ、キャノン ソニーなど日系企業工場を次々と生産工場を視察して、英国工場建設企画を呼びかけて歩いた。立派なシステムセールスウーマンであった。

 孤島国Jの首相で、ここまで熱心海外に何度も出かけ行き、売込みをはかった首相はいたであろうか?

 ドイツ、フランスの元首でもセールスする時がある。最近商社マン顔負けの、国際セールスマンぶりを発揮してるのは韓国の李明博大統領である。自国の40%キリスト教徒国になってる韓国は家電パソコン分野では欧米中東アフリカで売り上げ実績は完全トップとなり、日本を出し抜いている。

 サッチャー首相が、在任中日系企業の英国工場建設を呼びかけていたのは、国内向けサッチャー式戦略があった。

 職能別労働組合の強い英国内産業界への自立心を煽る刺激策喚起のためであった。

 その効果は現れてきた。サッチャー首相は、特に日本贔屓であった。北の旧友である、日本人ファッションデザイナー ロンドンのユキさんをとことん御贔屓にされていて、彼女のデザインしたイブニングドレスや旅行カバンをもって、北京や海外に飛んで行った。そして男顔負けのスコッチウィスキーの愛飲家であった。

 英国の産業の歴史は、民営、国営、また民営の繰り返しである。

 そして、物事は全て民営化すればいいというだけの、頭の固さはない。時と場合を見分けて、適材適所政策をかんがえ、指導力を発揮する。

 黒田清隆とケプロンの論争を思い出して見たい。米国には日本全土の面積より大きい州がいくつかあるが、何でも米国方式をCOPYしようとしても規模的に無理なこともある。しかしその区別がつかない孤島国J人も多い。

 黒田清隆第二代首相が、北海道開拓史長官時代に『まずは身の丈に合わせて国権で起業するやり方』でいま孤島国Jが手をつけておかねばならないプロジェクトは、多くある。

 それを見極める眼力をつけてほしい。

 火山国であるゆえの地熱発電、メタンハイドレート、バイオ発電の開発、基礎科学研究の国家支援、さらに個人や企業団体への世界特許申請獲得保護の国家的資金支援法、民間ではなかなか資金的にむずかしい開発案件などは、国営でおこなう機構システム構築する、それが有効的国家戦略であると思うのです。

 孤島国Jを沈没させないためには、長期ビジョンの国家戦略は絶対不可欠です。『文化は力がともなう』

 イギリスのマクミラン首相がかつて体験から言ったことばを引用して見る。

『選挙は政府が勝つものではない。もし政府が勝つとしたら、それは野党がひとりでに負けるものだから』

 今回、消費税についてどうしても触れたかったが、次回にまわします。

 どうも、日本の政治家は、消費税と欧州の付加価値税を同じ物だと混同して話している傾向がある。その仕組みは異なるから、その税の名称呼称が異なるのです。

 孤島国Jにはその区別を明確に付けて語る政治家が見あたらない。

 欧州には消費税はない。あるのは付加価値税です。そして基本的には、生命権を守る食品には一切無税で、知的食品と言う意味で、新聞雑誌書籍も無税。処方箋薬品も無税、幼児用品無税。70歳過ぎの加齢世代用品無税。

 日本の消費税は無税品がない。食品などまで課税してるから英国式換算では既に5%+4%{食品等課税分)=9%を国民は支払っていることになるのです。

 しかし孤島国J民には、その知識はまったく与えられていないし、認識がない上に、マスコミも解説しない。肝心の政治家もその相異を理解した上で話してる様子が感じられない。

 このまま日本方式で消費税を5%+5%=10%にされると英国方式付加価値税換算では、14%に相当するということになるという認識を何故持たないのであろうか?

 これ朝三暮四よりもっとブラックジョークなレトリックに見えないのであろうか?

 おまけに付加価値税の特徴である税の途中過程の「戻し税」説明が無いので国民を無知化ないしは誤導しているのです。

 政治家に立候補するなら、欧米政治(史)のごく基本的常識試験制度をまずは課すべきであります。

 菅首相自身も選挙直前のキャンペーン中、付加価値税の仕組みを完全理解しないまま、中途半端に口舌しまくって、孤島国J選挙民に消化不良現象を引き起こしている。

 そもそも孤島国J内で最初に唐突に消費税3%をスタートした前政権担当党内閣の時も、国民への事前説明がなされず、理解が不十分のまま強行されたと非難された事がある。

 その過去は、そんなに遠い昔話ではないにもかかわらず、まるで忘却の彼方に消し去られているかのようだ。

 肝心な物事には刹那的であり、喉元過ぎれば、、、、もう うっかりすっかり忘れっぽいというか、国境陸続大陸国民族と余りに隔差がありすぎはしまいか。

 政治家は足軽であることはいいことだが、口軽すぎるのは災いのもとである。

 西洋文明文化と中国比喩文化のユーモアを学んでほしいと、思うのは私だけではないと思う。