購読ゼミ第八回レジュメ 2024年10月19日
作成:濵田恒太朗
『動きすぎてはいけない』P53の10行目からP57の6行目まで
90年代からのアカデミックなドゥルーズ研究では、ベルクソン・ニーチェ・スピノザの三位一体を介してドゥルーズを哲学史に位置づける作業が増えてくる。なかでもベルクソンこそ、最大の拠点であるとされる。
・弟子のエリック・アリエズ、批判者のバディウ
(対照的に)ドゥルーズとベルクソンのあいだに距離を挟む解釈が、少数の論者 ー 管見の限りでは、とりわけの日本の ー によって強調されている。
97年の「批評空間」の討議であり、そこで浅田(ヒューム主義の文脈を重視していなかったらしい)は、ドゥルーズを「ベルクソンの流れを汲む純粋にフランス的な哲学者として伝統の中に取り込みたいというふうな傾向」を懸念し、これを受けて宇野邦一は、『シネマ2ー時間イメージ』(1985年)にとって「大事なことは、持続、連続性の論理よりも、亀裂あるいは不連続性の論理であって、たとえばゴダールの一見めちゃくちゃなモンタージュに見られるような、イメージとイメージの間の一種のつなぎ間違いといったものであり、さらにイメージと音の間の亀裂であって、そういう亀裂をいくつかのレヴェルで論じながら、ベルクソンから遠ざかっていく」と述べる。
→あらゆる事物を、存在全体の連続性における差異化のプロセスに内在化させる立場
→接続的ドゥルーズ(非意味的接続>非意味的切断 )
しかし、
単独でのドゥルーズのヒューム主義は、ガタリとの協働の呼び水として再評価されうる。ドゥルーズのゴダール論をベルクソン批判=ヒューム主義の表れと解釈することは十分可能であり、これは平倉圭によって示されている。
また、檜垣立哉によれば、「ベルクソンの潜在性の思考が、あまりに「一者」に依拠しすぎている」ために、ドゥルーズはベルクソンを「乗り越え」ようとした。曰く、「その「一者」には、精神性がどこかで付与されてしまう。しかしドゥルーズはこうしたベルクソンの思考を、あくまでも唯物論的な拡散という方向から、そしてそこからとりだされる「絶対的な差異」の側から捉えたかったのである」。
→ドゥルーズはベルクソンの考えたことを意識したうえで思考している
以上と対照的なのは、やはりベルクソン主義に大きく依拠するピエール・モンテベロであろう。モンテベロは、ドゥルーズの自然哲学を「人間なしの哲学」と見る点ではポストポスト構造主義に近いけれども、次の結論に私はまったく同意できない。
「ドゥルーズの哲学は<一者/全体>を人間なしで思考し、<開かれたもの>を、唯一の主観性として、唯一の実在的な超越論的なものとして、すべての諸事物の、そしてそれゆえに結局のところまた‥‥‥人間的な主観性の、発生の唯一の場所として措定するのである」。
→1点から、1つの場所から人間の主観性は発生するということか。
→意味的世界観での考え方であるか。
本稿で示したいのは、「一者」かつ「全体」としての世界像から、明らかに逃れていくドゥルーズの側面なのである。ドゥルーズのヒューム主義は、国内外において十分に問題化されてこなかった。
→切断的ドゥルーズ。(その核心は、)事物の概念的な同一性のない状況、感覚的な「所与=データ」がバラバラに飛来する場面において、それらの「連合 association」によって「主体化」がなされる、という「連合説」である。
『経験論と主体性』に対する解釈は、
(a)大概において、主体化のプロセスを論じたものであるという評価に収斂している。
そして、ほとんどの研究者が、
(b)ヒュームの離散性/ベルクソンの連続性という対立はドゥルーズにおいて無効である、と考えているようだ。
以上の二点は、『経験論と主体性』を初めて英語圏のヒューム研究史と丁寧に対比したジェフリー・A・ベル『ドゥルーズのヒューム』(2009年)についても、そう言わざるをえないと思われる。
本稿では、ヒュームの原子論を「解離」のテーマに変換し、それこそが、ドゥルーズにおいてベルクソンに批判的である文脈の核心であるだろう、という解釈を示すことになる。
→ベルクソンが最大の拠点であるとする立場に対して、違った解釈を示そうとしている。
読書界においては、ドゥルーズ&ガタリと単独でのドゥルーズはしばしば一緒くたにされ、リゾームという一語に極まる「と」の乱舞としてのめちゃくちゃな逃走線の危なさへの憧れが、今日でも曖昧に抱かれ続けているだろう。こうした大まかなドゥルーズ (&ガタリの)ポップ化は、彼(ら)自身、望んだことだ。
→「大まかなドゥルーズ (&ガタリの)ポップ化」という表現が非常に面白い。
→日常の生活の中で、ドゥルーズ (&ガタリの)の述べる考え方が広まっていくことを望んでいるということ。はっきりとしたものでなくても、日常生活における直面する事象の中に、構造として見出すことができる。SNSを見ていてたまたま目に入ったものによって、思わぬ展開になることもあること。非意味的接続と非意味的切断。
私たちは、これほど大まかに愛されてきた哲学の、その大まかさの細部に注がれるべき眼差しを改めて研がなければなるまい。そのために<ドゥルーズ哲学の幼年期>におけるヒューム主義に注目し、そして、それとの或る連関において<ドゥルーズ哲学の少年期>におけるベルクソン主義についても、新しい解釈を試みる必要があるのだ。
→「大まかさ」というところがそもそもの前提において、厳密性とは違う文脈にある。でも、その細部を見るということによって開かれていく地平。そういう中で、ベルクソン主義の解釈を試みるということの表明。
ドゥルーズ研究をする人々にとって、ドゥルーズはその人自身の都合のいいように解釈可能な、そういう捉えどころのなさを持っていると言うことなのかもしれないと思った。どういう主張にも賛成や反対の意見、立場はあると思うが、ドゥルーズの考えたことは非常に今日的で、核心を捉えているからこそ、さまざまな解釈もあるのではないか。
以上