ユーモアクラブより転載。

北広次郎エッセイ集 ミスターヨーロッパだより

第16号

  北 広次郎の先祖の話

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1868年新聞記事全面

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1868年新聞日付

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1868年の新聞名と日付

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北の先祖 尾崎三良

 今回は、北 広次郎の先祖の話に触れます。お暇な時間がございましたら、私の家族の先祖の系統である、(1)『相馬雪香』(2)雪香の実父『尾崎行雄』(又は号: 尾崎咢堂)(3)雪香の実母 セオドラ(日本名:英子)(尾崎行雄の妻)父 すなわち 雪香の祖父 『尾崎三良』の名前をパソコンで検索してください。なお、英文のWERBSITEもあります。(1) 『Soma Yukika』 (2) 『Ozaki Yukio』 (3) 『 Ozaki Sanburo』 と打ち込んで検索してください。

 三条実美公の家臣尾崎三良は、幕末、三条公とともに倒幕運動をしてきて幕軍に追われ、匿ってもらっていた長州から西郷隆盛の薩摩藩を頼り、九州大宰府に一時亡命していました。

 三良は坂本龍馬、木戸孝允とも極めて親しい同志でした。大政奉還後、1868年、三条公嫡男公恭や長州毛利公嫡男と共に、英国へ留学しました。三良はワシントンでも会った木戸の強い勧めで、明治6年(1874年)一旦日本へ帰国しましたが、明治13年ロシヤのセント・ペテルスブルグへ赴き、ロシヤにおける日本最初の公使館を設立し、時の皇帝アレキサンドル二世と謁見、その後スエーデン・デンマーク・ノルウェイを歴訪し、それぞれの国の王に謁見しました。

 

 尾崎三良は尾崎行雄と同姓ですが、もともと姻戚関係はありませんでしたが、三良が英国留学中恋仲になった英国人の恋人との間に、生まれたセオドラ(日本名:英子)が、学習院小学部、慶応幼稚舎、頌栄女学院の英語教師をしていて、当時の東京市長の尾崎行雄(号は咢堂)と結婚してから、初めて姻戚関係が生じました。尾崎行雄と、尾崎三良は、たまたま同姓ですが、セオドラ(日本名:英子)が行雄に請われて嫁ぐまでは、もともと関係はありませんでした。

 三良は京都の生まれで、養子縁組で名前が変わりましたが、当時の日本では生涯のうち、幼名時代の名前から号として姓名が変わる事はごく一般的に行われて居ました。また幕末運動の為に、大抵の侍達は、変名を使いました。

 

 例えば、日露戦争の指揮をとった、薩摩藩の東郷平八郎元帥も、三良と同じ頃、今ニッサン自動車英国工場のある、近くの軍艦造船所へ留学しましたが、そのころ幕府の海外渡航禁止令を破って、こっそり密出国し留学する為に、変名しましたが、その時の少年の名前は東郷愛之進でした。薩摩藩密出国留学生は、全員変名しまして英国へ渡りました。その後、明治になって変名のままで、それを本名にして晩年まで通した人々が、ほとんどです。

 

 尾崎行雄などは、行雄から号は最初『学堂』、次に『愕堂』最後『咢堂』と三回変っています。号とは何かというと、今様では、一種の『ペンネーム』と訳されています。

 お恥ずかしながら、告白しますと、この私自身も、無意識のうちに、尾崎咢堂に倣ってしまい、『蘭幻(あららぎ・げん)(詩、短歌)』 『柴原徳光(しばはら・のりみつ)(作詞家:東京外国語大学校歌他』 『北広次(きた・こうじ)(工業ジャーナリスト・体験旅行随筆家)』  『北広次朗(きた・こうじろう)(エッセイスト)』  『北広次郎(キタ・こうじろう)(エッセイスト・詩作者名』 と変って来ました。我ながら、汗顔もので本当にお恥ずかしい。

 なぜこんなに変ったかというと、話せば長い物語です。書く内容のジャンルごとに、別な筆名にして、号を沢山もってやろうと、最初はほんの遊び心だったのですが、やがてこれで後に通信上特に外国人との交信で苦労する事になってしまいました。

 

 幕末まで『名字帯刀 制』で、貴族武家と特別な認定者を除き、一般平民が苗字を持つ事が、許されていませんでした。

 これは八方海洋孤島国での、歴史的に或る時期まで文字文明を持たなかった民族内の特異な現象でした。中国大陸渡来人から輸入文字が日本へ入ってきて、文字はまだ特殊階級のみが持てるものでした。名前の文字を継承する事が、個人一族だけのステータスだったり権威保持に利用されたりして、明治維新以後、やっと平民が苗字をもてるようになったので、それぞれが選り取り見取りのてんでばらばらな苗字になったのですが、これは世界でも実に珍しい現象です。まして称して変名も流行った。

 日本人の姓名ほど、変化に富んだものは、他国では見られません。中にはこれが姓名?ってのも、実に多く見られます。変った名前が、印象深くて、本人が得する事もありますが、逆もあります。時にして企業によっては、変った姓名の人ばかり採用するところもあるとかです。NHKなんかも、そんな傾向があるのではないか?とか思われたりして。

『名は体をあらわす』っていう言葉は、孤島国日本ならではの面もあります。国境陸続大陸民族とは、この点では大きな相違があります。大陸国では、『名は種族ルーツ同属をあらわす』で、他民族が混在した歴史を持つため、永い歴史において、個々人よりその同属同族意識の方が優先されねばならない必要現象があったからでしょう。

 私どもの家族の先祖が三良の正妻お八重さんです。家系図見ると、ちとややこしいのですが。当時は世継ぎの男児が出来ぬとか、大河ドラマ 『お江』の太閤秀吉や、徳川の大奥を見るまでもなく、様々な理由で側室を持つ事が、行われていた時代です。

 私が過去英国でBBC TV、GRANADA ITV TV CHANNEL-4 などのTV局に、日本人が登場するTV映画ドラマ十数本の撮影に、英国地方に居る日本人をエキストラで集めて欲しいと、協力依頼があり、それに協力して来ました。

 ロンドンならまだしも、日本人がほとんど住んで居ない英国田舎地方では、募集は不可能に近い、無いものねだりの、至難の業でした。1960年代70年代、私が繊維機械、工作機械の仕事柄、主に英国地方の工場に入り浸ってる珍しい日本人だということが、どこかから地方TV局に伝わり、いつの間にかあちこちのTV局から、私の事務所に、電話がかかってくるようになり、最初一回国営BBC放送マンチェスター大学の助教授クラスのその後いつの間にか、BBCばかりか、民放各社や、映画製作プロダクションからも連絡問合せ依頼が来るようになり、その後、もう題名も忘れるくらいの十数本のTV映画製作にかかわらせられました。

 日本人エキストラが英国の田舎地方では見つからないので、それまでは英国には至る所に居る香港系中国人を日本人の代用として起用されていましたが、それが作品完成後にTVや時に映画館で観ますと、両腕を胸前で重ねて前こごみに深く頭を下げる仕草とか、発する日本語が変で、日本人が観たら噴飯もので、恥ずかしくなる場面ばかりでした。しかし英国人一般の視聴者には、その区別は一切分からないから、それが日本人の普通一般の立居振舞い仕草だと信じ込まされてしまいます。とくにコミカルなドラマの場合はそうです。

 最近日本の原爆被害者を、茶化したコメデイが放映されて、ロンドン在住の日本人の女性の方がTV局に抗議をして、『その放送は不適切で、配慮が足りなかった』とTV 局は陳謝しました。

 1966年、私が機械専門の商社駐在員として英国に赴任した頃、ロンドン在住の日本人は子供家族含めて、600人くらいでした。それが2011年には、日本大使館登録されてる在留邦人はロンドンだけで家族含めておよそ、4万5千人といわれ、未登録の邦人を含めると5万人から6万人の間ではないかと推定されています。ロンドン日本人クラブ登録の日系企業数約4500社です。

 明治維新からまだ2世紀も経ていないのに、孤島国日本もそして、世界もこんなに変ってしまいました。しかし1960年代70年代には、まだ英国地方に在住する日本人は皆無か、稀少でした。ところが、ビートルズのジョンレノの生まれ故郷の英国リバプール港町を訪れる日本人観光客団のエキストラは子供含めて40名50名が必要であるといわれたり、他にも同じくらいな人数が必要といわれ1980年代に入ると、英国の大学への日本人留学生をあてたり、駐在員の奥さん子供を動員したりできるようになりました。しかし学生といえども、英国の大学は普段の授業が厳しく、週末試験が必ずあるため、土日以外の平日は夜間しかだめとか、ロケ隊は昼間やらねばならないので、時間帯が合わないという問題がでたりで、なかなか大変でした。

 私の先祖が留学していた明治初期1868年には、それでも鎖国日本の江戸幕府の目をかいくぐり、密出国で英国に渡った薩摩長州土佐藩出身武士やそのた他藩からの浪人者は、ロンドンでは百人以下くらいでした。やっと国内の皇軍対幕軍の内戦終結し、そこから始った明治維新からしてもまだ、今一世紀半そこそこなのに、その間多くの対外的大戦争に巻き込まれた日本孤島国の大変動を振返ってみれば、何度も歴史における人災大津波激震に見舞われてきた事になります。

 

 明治維新を支えてきた裏方も含めて、その群雄の獅子達の足跡を、再度見直して見ること、そこから孤島国日本の、明日と未来を透視する事は、今こそ必要に迫られた時機であると確信します。確信は革新であり核心です。核心から発起するのが気学です。気は基であり、機は器であり、規は軌でもあり、そして揮は又己です。

 

 東北頑張れは、日本国頑張れです!!!!!

 戦後の教育ムードは腫れ物に触るのを避けて、『古い過去は忘れて、明日だけを考えて進みましょう』『古い事にこだわっていては、進歩がない』『明日がある 明日がある』と、軍国主義アレルギーや戦時中の事には、目を背けて霧の中に置き去りにしたまま、真実を正視する真摯な精神を失ってしまった。

 

 ここに教育現場でも隠蔽体質ができてしまった。そして耳障りの良いことばかりで、日本我流のゆとり教育とかの誤導が蔓延し、国連から世界レベルランクの低落を見せつけられて、流石にこれだけは軌道修正余儀なくされたのです。

 玉石をいっぱ一からげで、全部石ころのゴミあつかいにして、味噌も糞も全て糞にして捨ててしまえと、臭いものには蓋の短絡極端主義が横行し、先回エッセイでも述べたが、大陸国の格言の『温故知新』の歴史教訓には斜に構え、故意に目を背けたり、あっさり放棄するがかっこいいという誤った風潮が、戦後まかり通って来てしまったのです。つまり、バランスがとれて来なかったということの現れです。

 極端を極端と思わない、偏向を偏向と思わない、その場の空気の中で、風まかせのままにしてきた、戦後の平和ボケの孤島国に風化してしまったのです。地球上どこにNATIONAL FLAGやNATIONAL SONGに背を向けてる分子がいる国があろうか?ところが一国だけある。

 明治維新の時代の獅師達の歴史を、今一度振返る『温故知新』のルネッサンスガあってもしかるべきではないですか?

 あの明治維新時代の国家百年の計を目指した先達のエネルギーを復活させる事、それを次世代を担う子供達に教えるべきではないですか?

 ただし年表羅列型総花歴史教育は役に立ちません。欧米では、日本とは全く異なる歴史教育法を取っています。つまり人間の血の通った歴史教育法です。これは長くなるので、次回に回すことにします。

 私は1868年の英国の新聞を偶然奇跡的に見つけました。この新聞記事は私にとって貴重な発見です。