誰もが悟りの体感を得られる時代

存在を変え、人生を変え、世界を変える念仏


法話ライブ at  京都道場  2017年2月4日

法話:遠藤喨及

書き起こし:純佑

動画URL:

https://www.youtube.com/watch?=vd&v=c_sYfs0TW_8


(1)誰もが体感できる智慧光、大愛、歓喜、本願

念佛には仕方によって、さまざまな働きがあります。

諸霊を救済し、魔を光化し、守護仏神の向上をもたらす。

現世的には諸願を成就し、幸福力を高め、智慧を増進し、歓喜をもたらす。

そういう念佛を今、タオサンガでは行じているわけですが、これがどのように伝統的な仏教、法然上人、弁栄上人の教えとの整合性を持つのかというところが、長年の課題でした。

実際、何度も挫折しては悩んだりしながらやってきました。

しかしやっとその哲理と修行体系ができ上がり、ホッとしています。

一番ありがたいことは、誰にも悟り的な体感が容易に得られるようになったことです。

これはすなわち、誰もが悟り体験が得られる時代になったということです。

四種の智慧光、大愛、歓喜、本願を誰もが体感できる。

その体感を元に、「このようにしたら願成就の働きが得られる」とか、「霊的救済はこのように修行したら良い」とかもわかる。

また、「日常生活はこの体感で送ったらよい。」

「指圧はこのようにやったら最高の効果が得られる。」

「武道はこのようにやれば、気の力が最大に発揮できる。」

「コミュニケーションはこの心身の状態で」など。

悟り体感を元に、人生の全てが網羅される体系ができました。

全て体感が基本です。

言葉だったらいくらでもウソをつけます。

でも、身体ではっきり感じられる事に対しては、誰も否定できません。

身体は嘘をつけませんからね。

今後、体感を土台に、新たなタオサンガ念仏をワークショップとしてまとめるので、

それに参加すれば、みんなが学べます。

今の時代は、人々が自分自身で体感できるようになってきた、というのが大きな違いです。

この体感が物差しになって、日常生活を送るし、コミュニケーションするようになる。

そして自分自身だけが体感するだけでなく、この体感を人に与えることができるようにもなります。

目的は他に与えること、すなわち回向です。

他に与えることを目的としない限り、どのような素晴らしい悟りの体感も、幸福の体感も、すべからく時間が経てば消えてしまいます。

(2)人一人が責任を持つのが当然の状態に

ここで智慧光についてお話しします。

まず、宇宙の全ては表裏一体なんです。

カルマと智慧も、裏表の関係です。

裏表というのは非常に「簡単」ということです。

同時に非常に「厳しい」ことでもあります。

なぜ厳しいかというと、両者の中間がないからです。

つまり人間には、「無明」という全くカルマに支配された状態か、智慧に照らされた「明るい」状態のどちらかしかないのです。

例えばコミュニケーション。

場で、みんなが楽しくコミュニケーションできるように一人一人が責任を持っている事は、当然、あるべき状態なのです。

なぜなら、「コミュニケーションに責任を持っていない状態」というのは、場の気を落とす作用として働いているからです。

これは皆さん、氣のワークとして、ちゃんと体験されていますよね。

自分の意識では、「自分は、ただ責任を持っていないだけで、別段、場を積極的に落としているわけではない」と思っています。

でも、気の作用としては、落としていることになる。

一体、なぜ宇宙はそのような構造になっているのか?

それは先ほど言ったように、宇宙は真反対のものが一体で表裏しかなく、中間がないからなんです。

すなわち場に「明るさをもたらしていない」というのは、場を「無明」にしているということであり、気としては、積極的に落とすのと全く同じ作用になるんです。

3)人との関わりをどの程度自分は大切にしているのか?

これが先ほど言った宇宙の厳しさです。

僕の厳しさではないですよ。

どうか、誤解しないでくださいね。

僕が作った訳ではないんですから(笑)

この無明性は、逆にひっくり返せば智慧になるということです。

人生も同じなんですよね。

人生なんて、努力せずに放っておけば、カルマのままに流れ、年齢がいけばいくほど、

どんどん落ちていき、暗くなっていきます。

それが凝縮されているのがコミュニケーションの場なんですね。

これは、人をどのように扱うのか、人との関わりをどの程度自分は大切にしているか、

ということが如実に出るんです。

人生の結果の原因は、全てそこにあるんですよ。

4)宇宙の峻厳な事実に向き合う

「コミュニケーションは、人生と同じ。

人生は、あえて暗くしようと思っていなくても、明るくしようと努力して向き合っていない限り、カルマに引かれる。

これと同じで、場の気を落とそうとしていなくても、努力して周囲を明るくしていないと実際には落としている」

、、、というこの宇宙の峻厳な事実に向き合う。

そして自分は何がなんでも努力すると決定(けつじょう)し、毎回実行していれば、人生は、智慧に、明るさに輝くんです。

5)人生一度ぐらい、死にものぐるいになったって良い

「難しい」というのは、努力しないための言い訳に過ぎませんよ。

みなさん、ワークではできるんですから。

自分が努力しなければ、周囲を落とすということに直面し、死にものぐるいで努力すれば、人間変わります。

人生一度ぐらい、死にものぐるいになったって良いのではないですか?

だって、「明るさ」というのは、周囲に対して肯定的な関心を持ち、気遣い、思いやるところから自然に生まれるのですよ。

これは、あくまでも利他と憶念(愛)の結果に過ぎません。

そして自分が、他者関心に、気遣いに、周囲への思い遣りに努力すれば、

周囲を場を明るくするんです。

場の気を明るく上げるというのは、臨床する人間が最低限、必要とすることです。

みなさんだって、そういう人のところに治療を受けに行きたいでしょう?

それは、智慧の眼で考えたらわかるんじゃないですか?

ここで四種の体感がどのようなものか、簡単に説明だけしておきますね。

6)身体がほんとうに楽になる

<智慧光の体感>

これは佛性とカルマが融合し合うという感覚です。

細胞の一つ一つがジンジンして快くなります。

存在を認識する、というのはそもそもカルマの働きです。

「無明の風が吹くと存在が生まれる」という言葉があります。

自分の肉体を意識すること自体がカルマ、無明なんです。

カルマである身体の細胞の一つ一つが快く振動する。

これが智慧光の体感です。

これは、ある心の持ち方をすると、簡単に体感できます。

それをもとに、智慧光を一切の世界に回向していく。

また人々に与えていく。

回向とは、如来様の光明を振り向けることです。

智慧光の体感において、心の状態、イメージを使い、それを通して如来の智慧光により、魔やカルマが光になっていく。

その後は、身体が本当に、ほんとうに楽になっていきます。

四種類の念仏に一つ一つ体感があって、それが終わると身体が、ホントに楽になりますよ。

カルマが智慧に変わっていくことを「転識得智」と言います。

智慧が増進するのです。

7)周りに暖かい氣が流れる

<大愛の体感>

一切の幸福を願い、諸霊の救済を願い、佛法僧を憶念すると大愛の体感が生まれます。

大愛の体感というのは、くつろぎと暖かさ。身も心も甘く溶けていく感覚です。

大愛の体感をもとに、諸霊の救済や一切の幸福を回向することが可能なんです。

こうした回向念佛が終わると、本当に心身が楽になりますね。

救われない魂が救われると、守護神になってくださいます

守護神が増えれば増えるほど、その人の周りには、暖かい氣が流れるようになります。

8)讃嘆と歓喜は人生の要

<歓喜の体感>

歓喜という言葉はお経によく出てきますね。

この念仏では、歓喜が溢れてくるのを体感します。

歓喜を体感するには、人々の歓喜を願わなければなりません

一切の歓喜を願い、その守護仏神の向上を願い、佛法僧を讃嘆する、褒め称える。

すると、我々の存在の根源である歓喜が啓いてきて、お互いの喜びを喜び合うという随喜心が湧いてきます。

一切の存在の根源が喜びを喜び合うという、この事実がたまらないような喜びになってくる。

これが啓けてこなくて、この喜びがなくて、一体何が人生か!?というくらいです。

佛法僧を讃嘆することによって歓喜のドアが開くんです。

例えば、褒められたら誰だって嬉しいですよね。

人もそう。子供だってそうじゃないですか。

阿弥陀様は宇宙一切です。

だから、阿弥陀様を讃嘆するのは一切を喜ばすこと。

これで自分の歓喜が啓かないわけがありません。

人を褒めずして、自らに喜びが湧いてくるとは思えないでしょう。

存在の本質、宇宙の本質は喜び。

それは互いを讃嘆し合い、互いの喜びを喜びあうことなんです。

お互いの喜びを喜んだら、喜びが倍加されてどんどん増えていくでしょう。

これが宇宙の本質です。

これが無限向上の意味です。

向上というのは潜在力が開発されることです。

そして潜在力は、喜びによって開発されるんです。

そして喜びは、讃嘆によって生じます。

讃嘆されることで喜びが湧いてきて、潜在力が開発される、

「讃嘆と歓喜は人生の要」ですね。

9)蓋さえ開けば内から湧いてくる

<本願の体感>

本願というと、かつては「他力本願にするな」なんていう妙な言い方もありました。

でも、他力という言葉が一般の人にも少しは理解されてきましたね。

宇宙には、全てを成就していく働きである、本流(ほんる)の大河が内在しています。

です。これを「本願」といいます。

ところで智慧光にしても、大愛にしても、歓喜にしても、本願にしても、全て宇宙に内在していて、蓋さえ開けば内から湧いてくるものです。

そして蓋を開くのがタオサンガで説く四発心であり、四祈願であり、四回向なんです

全てを成就していく本流の大河。

これが如実に身体の中から湧いてきます。

どうしたら湧いてくるかというと、祈願なんです。

みんな誰でも願いを持っているでしょう

人の願いに敏感になり、その人の願いを叶えてあげたい、と心の底から思う。

他の願成就を願う。

人のことが願えるから、自らにも願えるんですよ。

他に対して願うことが、自らの願いを啓く。

願いを成就する許可を自らに与えることになるんです。

人に対して願っていないと、自らに対して許可を出せない。

人間の無意識の構造は、人の幸せを願えば願うほどに、自分の願いを許せるようになっているのです。

10)人生、こんな惜しいことは無い!

だから、人は本気で人生の幸福を追求すべきです。

みなさんには、心から人生の喜びを追求していただきたい。

蓋さえ開けば出てくるのに、どうして蓋をしたままにしておくのか?

生きていて、これほどもったいないことはないと思います。

死ぬ瞬間まで、チャンスはあります。

後何秒生きられるか分かりませんが。

一秒に一回チャンスあるとしたら、何度もチャンスがあります。

でも、努力を放棄することで、毎秒毎秒そのチャンスは失われている。

こんな惜しいことは無い!と切実に思えませんか?

自分のことだけではなく、人のことも、そう思えませんか?

もし人のことをそう想えたら、自分のことも思えるはずです。

表裏一体ですから。

人だと思っているのは他人ではないし、自分だと思っているものは自分ではなく、これは宇宙一切の顕れです。

だから蓋を開く。心を発すことを決める。

11)毎秒毎秒啓くのが悟り

誰でも間違いやすいことがあります

それは「一回决定(心を決めること)したら終わり」とか「决定しました」とか、そう思うことです。

違うんです。決定は、毎秒毎秒なんです。

毎秒毎秒、蓋を開けるんです。

これと同じようなことですが、「悟り」と聞くと、”修行の果てにその境地があって、到達したらおしまい”、と思ったりするじゃないですか。

違うんです。

悟りは今ここで啓き、そして毎秒毎秒啓く。

昔から、道元禅師も、法然上人も、同じことを言っているんです。

だけど、人は幻想を持ってしまう。

「悟りは先にある」とか、「あの人は悟っているから、もう修行しなくていい」とか。

人間、みんな同じなんです。

今ここで蓋を開くか開かないか、だけなんです。

存在というのはフェア、平等なんです。

どれだけ修行したとかは、一切関係ありません。

だから「これだけしかやっていない」というのもない。

それは「これだけやればいいだろう」ということと裏腹の概念です。

12)創り出している空間がその人の全て

さて、本願の蓋を開くには、一切の願いが成就することを决定(けつじょう)する。

また我々は、先祖の色々な願いをもって生まれてきています。

だから一切の人々の先祖の願い成就し、平安ならしめんとの祈願。

だから私たちは、願いの発心を起こす。

起こそうとしなければ起きないから発心なのです。

ほっておいたら决定なんかできません。

ほっておいたらカルマに决定します。

仏法僧を讃嘆せず、自我を讃嘆してしまいます。

「私ダメです」、というのも自我を讃嘆しているのですよ。

三宝を憶念するのか?

何を憶念するのか?

憶念する対象によって、その人が創り出す空間が変わります。

その人が創り出している空間が全てなんですよ。

智慧があるということは、世界を「わがこと」とできるということです。

「わがこと」とするから物惜しみせずに、その場に必要なことをする。

これも心を発こさなければできません。

ケチケチしていたらできません。場を受持できません。

宇宙は作用反作用ですから、人生は与えたものしか返ってきません

与えてないものが与えられたら、逆に非常に危険なんです。

それは負債になりますから。

13)自分が出している氣が人生の全てです

「臨済録」という本に、お坊さんたちに語った、以下の言葉があります、

””お前なあ、坊さんになって供養を受けて、そのあと何の布施も回向もしなければ、死んだ後に閻魔(エンマ)さまに借金を返せと言われるぞ”という、、、。

僕はそれを読んで、果たして自分は坊さんになって良いのか、と何年も真剣に考えました。

死んだ後に閻魔様に、文句言われたらかなわないですからね。

地獄も怖いし、、、。

坊さんになって死んだ後で、閻魔様に「お前、生前は人からもらってばかりいやがって! 与え足りなかったぞ!!」と文句言われない生き方をする決心をつけるまで、相当自分に直面しました。

皆さんは死んだ後のことって、怖くないですか?

氣の状態に従って人生が展開するだけでなく、来世も決まるんです。

皆さんは、人生でどういう空間を、気を創っているのでしょう?

そして死んだあと、どこに往くのでしょう?

「自分が今、何を持っているかではなく、出している氣が人生の全てです。」

物も若さも、あっと言う間になくなっていきます。

後に残るものは何かが一番わかるのが、自分が作っているコミュケーションの場の空気です。

真剣に、この氣・空間を、人といるときに創っていくのか?

そもそも治療は、氣を発して、相手の潜在意識を転換することなんですよ。

如来様の体感は、自分自身でいるときも体感できるし、回向した状態でいることもできます。

細胞の一つ一つがジンジンして、身も心も喜びが湧いてきて暖かく、大愛が一切に広がっていく。喜びが湧いてきて一切に広がる。そして本願の大流にうち任せる。

そういう状態で日常を送ることも可能です。

                           (合掌)