<幕末・佐久間象山・岡見蘭学塾岡見彦三・福沢諭吉・慶応義塾・岡見清直から新日英友親交会への道>

北 広次郎(エッセイスト名:柴原徳光)

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<岡見清直・アイルランド・イングランド>

私は1966年来英国に住み着いて来て、英国の女王家に次ぐ最高位貴族達と昵懇になり、幕末開国以来の日英関係日米関係を産業革命やロイヤル外交、その他にも色々と英米側から教えられる羽目になりました。日本国内の日本人がまだ知らない幕末から終戦後の欧米で日本を支えて来た「グローバルでコスモポリタンな日本人」としか言いようがない、とてつもないスケールの日本人もいた事を知りました。しかもそのような人が身近な人にもいて、私の先祖にもいた事を学びました。それを体験を交えて見聞学習してるうちに、「アイデンティティー」ということについて、より深く考えるようになりました。そして海外に永くるほどに、「アイデンティティー」の意識が強まってきました。

海外にいる95%以上の日本人は、特にその「アイデンティティー」に対する意識が強まっていると感じているのは、私だけではないと思います。女性にしても、その意識は男性以上かなと思われる事があります。国際結婚してる日本人女性の場合によくその例を見ていました。

私は岡見清直という先輩と宿命的な出遭いがありました。

(一)ところが私と岡見清直のお互いの先祖が幕末明治以来,私の系統の先祖尾崎三良の娘テオドラ英子(憲政の神尾崎行雄=顎堂の妻)と結びついていました。

 更にもう五項目の歴史的事項を説明しておきますと、岡見清直の先祖は米国南北戦争に参加した唯一人の旗本侍でした。(二)また更に岡見清直の祖父岡見彦三は米国留学後、江戸時代末期佐久間象山塾の直系である岡見蘭学塾に中津藩から福沢諭吉を講師として招き、その後岡見蘭学塾を1868年(慶応4年=明治元年)に慶応義塾に改名させました。

ところが吉田松蔭が夜陰に紛れて小艀で米国船に潜り込もうとして密航に 失敗した事件が起きました。

 その時長州の吉田松蔭が師事した佐久間象山が松蔭の密航に最も影響を与えた者として

幕府は鎖国の国禁を破る危険思想の指導者としての佐久間象山を江戸払いとして信州のかつての西軍の参謀の大将真田幸村の地元に近い村に蟄居させましたため、江戸佐久間塾は岡見蘭学塾が引き継ぐ事になりました。(三)岡見蘭学塾は男子校として慶応義塾に改名させた岡見彦三は、自分は女子校を創るとして始めたのが頌栄女学院でした。(四)岡見彦三の孫岡見清直は戦前米国のカラマズー大学に留学していて、下級生のルイーズと恋仲になり結婚しました。

この夫人の実家もケネデイ一族と同様に先祖はアイルランドからのカソリック教徒移民でした。

ここアイルランド(今は英連邦王国から独立して共和国)がキーポイントでキーワードです。

つまり岡見清直がアイルランド共和国に結びついたのは夫人の実家の繋がりがあったからです。

そして移民後油田を掘り当てたケネデイ家は所謂 米国社会では”米国のケネデイ・デイナステイ(王)朝”とかいわtれる一族になって行きました。そして岡見清直はケネデイ大統領時代にアイルランド共和国の最初領事、やがては最後に米国務派遣の総領事となって行きます。(五)そして米国国務省外交官をアイルランド共和国ダブリンで退官後、娘さんもダブリン大学生でしたので、ダブリンを離れたくない理由もありました。でも米国のワシントンDCにも自宅を有していまして他人に貸していましたので、一年に一回はプライベートで、自宅点検と貸家委託してる不動産会社に会うためワシントンDCへ飛んでいました。 ダブリンで米国国務省外交官を退官した時にいったんは米国に戻ろうかという

考えもありましたが、娘さんはダブリン大学で教育を受け、結婚相手もダブリン大学の同級でやがてイングランド・ウエールス大学の図書館長になったユダヤ系アイルランド人学者なので、やはりアイルランド共和国か、イングランドに留まりたいという考えもありました。

 丁度そのころ商事会社丸紅がダブリン・オフィス開設企画があったので そこの最高責任者を探し求めていたのでした。岡見清直先輩にとってもこれは渡り舟だと思い、また丸紅にとってもアイルラン共和国の政財界を知り尽くしてるこんな適任者は他にいないと、丁度双方の思いがマッチングしたのです。岡見清直はそれから今度はアイルランド共和国の政治家や経団連を引率してて毎年秋訪日し続けました。戦後アイルランド共和国と日本国とをあらゆる分野で結びつける架け橋として大功労者になりました。

(六)その後、かねてからの懸案であった。岡見家本来の伝統の教育分野での貢献としては、私北広次郎の30年近い交流のある英国の女王家につぐ16世紀以来のかつて英国副王でありカソリック総本山であったモンタギュ公家が名誉顧問でもある英国南端部の名門ウインチェスター大学とジョイントベンチャーで、Shoei-Winchester Woman College (頌栄ウインチぇエスター女子大学) を現地英国で創立して初代学長を晩年長らく務めました。そのためダブリンからイングランドのウインチェスターに移住しました。たまたま一人娘の結婚相手もイングランド南端のウエールス大学図書館のライブラリアン(Librarian)になりましたので、ちょうどいいと思ったのでしょう。

 そもそも岡見清直が戦後米国国務省の外交官になったのもキャロライン・ケネデイ米国大使の御父上ジョン F. ケネデイ大統領のおかげでした。また岡見清直がニクソン大統領, レーガン大統領などやその他の米国大統領やマッカーサー連合軍最高司令官・元帥の子息マッカーサー二世Jn.駐日大使とも結びついていました。それは戦前幕末から先祖代々米国留学するのがならわしになってた蘭学塾を運営していた旗本岡見家としたは代々留学はごく当たり前のことでした。その点福沢諭吉家とも似ています。

またJOHN. F. KENNEDY大統領の弟の米国元司法長官ROBERT. F. KENNEDYの子息ロバート・ケネデイ二世Jr.とその奥さん娘さんと私が知りあいであるという偶然も重なっています。

岡見清直先輩の奥さんはアイルランド系移民のアメリカ人です。

<モンタギュ公・ロスチャイルド・高橋是清>

 ある日のこと上述の英国最高貴族モンタギュ公が、<ちょっと案内したい所があるから、一緒に来なさい>と私を彼のベンツの助手席に乗せて自らハンドルを握り城外の道を15分位運転して、連れて行かれた先が英国ロスチャイルド家第五代当主のパレスでした。

そこではじめて紹介されたのがロスチャイルド家の領地内の離れの大きな別宅でした。

 モンタギュ公は英国の国宝に指定されているビューリー城(BEAULIEU CASTLE)の藩主ですが、その先祖が国宝である古城の隣の土地約38万坪を産業革命時代ウイーンから移住して来た初代アムシェル・ロスチャイルドの第三男の息子に分譲したのでした。また今現在女王が住むバッキンガム宮殿も、もともとはロンドンのモンタギュ・パレスでしたが、モンタギュ家の先祖が女王家の先祖に当時のお金10,000英ポンドで売却した記録があります。

 日本人で最初にバッキンガム宮殿を訪れた日本人は誰でしょうか? 一番目は私は目下調査中ですが、可能性は3つあります。徳川の訪英使節団? ナポレオン三世に勧誘されて参加した1967年パリ万博後、帰日前にちょっと英国の視察見学が目的で訪英した最後の将軍徳川慶喜の息子の昭武一行か? 初代鮫島公使か? これは後につまびらかにしますが、謁見した相手はいずれもビクトリヤ女王でした。

 一方英国ロスチャイルド家のパレスを訪問した最初の日本人はまだその頃は無冠の高橋是清でした。

 米国で苦学経験があった高橋是清は、英語が堪能ということで選ばれて、日露戦争国債を買い付けてくれる相手を探しに先ずニューヨークのウオール街へ派遣されたが,誰も引き受け手がなく、交渉は失敗し失意の底で米国をあきら、大西洋を渡り英国の港に着き、鉄道でロンドンへ向かいてシテイの投資バンカー達にもかけあったが、極東の小さい孤島国の戦争国債では誰にもまともに相手にされなかったのでした。

 そこで高橋は、もうすべて諦めて明日は日本へ帰る汽船に乗ろうと決意していた所へ、ロスチャイルドの執事が馬車でホテルに迎えが来たそうです。<私は英国ロスチャイルド家の当主の使いのものですが、もし御時間がありましたら、一度当主がランチにお招きしてお会いした上でお話しがしたいと申して居ります。よろしかったら当主のパレスまで私が御案内しますので、御越し戴けますでしょうか?>と丁寧にいうので半信半疑で誘いに応じて馬車に乗ったのでした。

 それからとことこと馬車で片道四時間、イングランド南端のロスチャイルド・パレスに連れてゆかれて、<ニューヨークでは戦争国債では随分難儀をされたそうですね。もしよろしかったら、その国債は私が引き受けましょうか?>と切り出されて高橋是清は最初耳を疑ったようです。<今のロシヤと戦ってくれる所なら、大国だろうが小国だろうが,そんな事は関係ない。どこへでも金は出す。>というのが当時の当主の考え方でした。当時のロシヤは皇帝派と革命派で複雑な内紛を抱えていた時代で、多くのユダヤ系人が虐待や弾圧をうけていたことに、ユダヤ民族の統領であるロスチャイルド家は頭を悩ませていたということです。

(それが良く解ったのは、英国ロスチャイルド家第五代当主男爵に,私がランチに招待された時に、私の父方の大叔父栄吉が軍曹で今の大連旅順港二百三高地で、弾丸は尽きはて、高地の丘上のコンクリ製の2メーターの厚壁の難航不落だと言われ,余りにも堅固過ぎる要塞に向かって,左手にサーベル一本を掲げ、上から投げ下ろされまだくすぶりつつある爆発直前の手榴弾を右片手で拾いあげては上に投げ返しつつ丘を駆け上がり要塞に向かい決死の突撃をして戦死しました。その時、先祖尾崎三良は前線視察のため旅順港の軍艦の中にいて、その要塞攻めを双眼鏡で覗いて見ていたのです。

<柳原前光公使・尾崎三良・アレキサンドル二世・ロスチャイルドの感謝状>

1880年(明治13年)に英国留学帰りの、尾崎三良は皇族の柳原前光公使一家に随伴し、開国以来、初の日本公使館をセント・ペテルスブルグへ開設しに行き、アグレマン呈出のため冬の離宮に赴いてアレクサンドル二世に謁見した経験があるだけにその時の心境大変に複雑だったようです。アレクサンドル二世は英国に大変関心が深く、英国留学経験のある三良に興味を惹かれ、多くの質問をして、又離宮へも来るようにという言葉をかけました。また後に大将天皇になる皇太子の健康が病弱な事をしっておられたので、その事を訊いておられた。 実は随伴してる柳原公使は伯爵で明治天皇の典侍で大正天皇の生母であった方の孫です。例のNHK朝ドラ<花子とアン>に登場する葉山白蓮こと柳原白蓮の同家族です。

しかしアレクサンドル二世皇帝は、ほどなく閲兵式から宮殿へ帰還してきて正門にさしかかった所で,アナーキストの仕掛けた時限爆弾が破裂して落命し、その葬儀の大行列に参加して棺の中のデスマスクに頭を垂れて、告別をしています。その時外国の貴賓達は棺の骸のデスマスクや手に接吻してる光景を見て、三良は度肝を抜かれて,自分の番が来たらどうすべきか列のなかで悩み抜いていました。

セント・ペテルスブルグの思い出が胸に詰まっているだけに、大連旅順港での前線視察中の軍艦の中で体調をくずして、ベッドに臥せっていたといいます。

ところがその話を聴いた英国ロスチャイルド第五代当主エドムンド男爵は、私の先祖に捧げるといって手書きの感謝状を書いて私に渡してくれました。最初私はその感謝状がどういう意味で書いてくれたかの真意がすべて理解できませんでした。あの場でまたそれを訊くのも失礼に当たると思い言いだせませんでした。日露戦争で日本が勝利して喜んだのは、その間隙をぬって独立できたフィンランド国だったのは、私はフィンランドの北極圏内フョールドのあるモージョンという田舎村の繊維工場にニッサン自動車製の織機を据え付ける仕事をニッサン技師としていた事があるので、シベリウス作曲の大交響楽フィンランデイヤと共に知っていましたが、しかしロシヤ国内のユダヤ民族が虐待をうけていたいう事は私はあまり知りませんでした。しかしエドムンド男爵は太平洋戦争開始時のフリーメイソンでユダヤ人であるルーズベルト大統領が大戦中に病死し、副大統領から大統領に昇格したトルーマンと、英国のチャーチル首相と 当主エドムンド・ロスチャイルドが戦争終結後、2千年ぶりにイスラエル国を再興する密約ができていた事を後で知りました。

1945年4月ヒットラーのピストル自決で第二次世界大戦が欧州側では終焉となり、1947年インドが独立し、翌年の1948年に今の地にイスラエル国が再興されました。それは戦時中にすでに

英米間とロスチャイルド当主とは、既に決められていたことでした。

1948年前から全世界に散らばっていたユダヤ人家族に準備金と航空券を贈り新生イスラエル国のキブツへの入植移住を呼びかけたのがエドムンド当主でした。最も多く移住させたのは旧ソ連内にいたユダヤ人家族達でした。これらのユダヤ人家族達に移住準備金航空券を送った資金は全部エドムンド男爵の個人資産から捻出しましたし、また現イスラエル国の都市キブツ学校住宅病院軍事施設の建設資金も全部エドムンド・ロスチャイルド総裁が出しました。世界最初に二酸化炭素排出権の取引を考案して提案したのも、この同じ人物です。)

 そういう経緯があって、日露戦争国債の買取りをきめてもらったのが 当時の高橋是清でした。英国ロスチャイルド家に歴代の訪問客専用の革張りの横長のサイン記帳アルバムがありますが、もう何十冊目か解りませんが、私が記帳させられた時に、ちょっと前ページを見たら戦後の日銀総裁とある皇室の方の署名記帳がありました。これには大統領や女王や世界の元首も記帳してなすが、

中には往年の著名なユダヤ人名優ジェイムス・メイソンなどのものもあった気がします。

<ネルソン提督と東郷平八郎>

兎に岡見清直の創立した頌栄ウインチェスター女子大学(SHOEI-WINCHESTER WOMAN COLLEGE )が国宝ビューリー古城(BEAULIEU CASTL)近くにあり、その又海辺には サウザンプトン(SOUTHAMPTON)港湾市とまたその隣にはポーツマス(PORTSMOUMTH)港湾市があります。

  今このサウザンプトン・サッカー・クラブ(SOUTHAMPTON FOOTBALL CLUB)には日本からの吉田麻耶選手が所続しています。

 このソウザンプトン港湾市は幕末の日英航路の玄関口でした。

1865年(慶応元年)長崎を出帆した英国密航薩摩藩留学生

19名の集団一行もこの港からなイングランドに上陸しましたし、

1868年(慶応四年=明治元年)三条実美公嫡男公嫡男公恭(15歳)と毛利公嫡男一行は我が先祖尾崎三良と共にこの港市に上陸しオクスフォード大に入学しました。また多くの幕末明治の日本へ渡航して来た英国人もこの港から出発しています。

 今でもこの港は日本郵船などのコンテナー貨物船の入る基地になっていますし、ここは世界の中心ヨットマンクラブが昔から在ります。つまりヨットマンのメッカ基地になっています。 その横のPORTSMOUTH港湾市には東郷平八郎が留学していました。日本国海軍、海上自衛隊、海上保安庁の発祥起源はここにあります。

もう一つロンドンにはバッキンガム宮殿、ピカデリー・サーカス、ウエストミンスター寺院国会議事堂、ビッグベン時計台(グリニッジ天文台に直結してる)のすぐ近くにトラファルガー広場があります。

この広場の中に噴水があり、高い柱が建っていてそのテッペンに立像が建っています。この像がトラファルガー沖海戦で、当時世界最強のアルマーダ・ナポレオン海軍大艦隊を撃破し大勝利に導いたネルソン提督です。ネルソン提督はアイルランド人でした。

ネルソン提督の旗艦船がトラファルガー沖大海戦に向かい出帆した港が、SOUTHAMPTON(ソウザンプトン)港でした。

そのすぐ隣接する港が東郷平八郎が留学していたPORTSMOUTH (ポーツマス)港です。

ネルソン提督の旗艦船に一つアガメムノン(ギリシャ語で海神を)号を建造を建造したのは、モンタギュ公の当時世界最大の帆船造船所でした。ですから東郷がトラファルガー海戦に熱い関心を示したのは、出帆港のすぐ近くに住んでいたせいもあります 今はここのソウザンプトン・サッカー・クラブには吉田麻耶選手が所続してますが。

又マッカーサー元帥の祖先は名前からも推測されまでが、ケルト民族の末裔で、ロックフェラーの祖先と同様スコットランドからの米国移民だといわれています。だからマクドナルドとかマッキントッシュとかいうのは類推して下さい。

 余談ですが、英語の名前の由来について今後の御参考までに説明っしておきます。名前の頭にマックとかロックとかロッホとかつくのはスコットランド系が多い。ウエールス・アイルランドもあるが,ケルト民族は紀元前500年以上前からスイスのアルプスの東側あたりからイングランドの南端や西岸、アイルラドやスコットランドに流民として移動して来たボート・ピープルであったのです。

その人々の齎(もたら)したものがケルト文明とかケルト文化といいます。ケルト模様って銀製装具品のもあるが実に風変わりな,異次元的でありながらしかし魅力的なぐるぐるぐる回天円模様です。このケルト語ってゲーリック語ともいうが、これはまるで英語じゃない、不思議な言語です。NHK朝ドラ<マッサン>に出て来るウイスキーという”Whisk”というのもケルト(ゲーリック)語で

”命の水”という意味です。アイルランドにゲーリックコーヒーってのがあるが、これはウイスキーをグラスに注いで(火をつける場合もある)コーヒーを注いで、黒砂糖いれて、その上にダブルクリームを静かにコーヒーと混ざらないように注ぐのですが、これには

スコットランドではなくアイランドのウイスキーを使うのが

正統派の製法です。私はコーヒーのいれかたはアイルランドで修行し年期がはいっています。御馳走したい。年期がはってるのは

カクテル“ブラデイ・メアリー”でこれも年期がはいってます。

<ウイリアム征服王からノルマンデイ上陸大作戦まで>

本論に戻りますが、勿論英国島にも原住民はいましたが、そこへ大挙して入って来たのがヨーロッパ大陸からのケルト移動民族でした、そこへもってきて更に紀元50年頃シーザー率いるローマ軍がケルト民族のようにウエールスのイングランド南端に侵入してきたのです。当時ウエールスは金鉱が多くあってゴールドが採掘されていたのでローマ軍がそれを狙って侵入してきたという。

ローマ軍はイングランドの中部まで侵攻しスコットランドの手前まで征服した証のローマン・ウオール(ローマ軍の石垣の壁)を築いて、金鉱の金塊をもってシーザーの率いる軍はローマへ引き揚げてしまったのです。でもローマ軍兵士の中には、現地へ残って原住民の女性と結婚し土着した兵士も少なからずいたといいます。

その後9世紀頃以降から北欧のバイキング軍がバイキング船で先ずスコットランド.アイルランド島に侵入し始めて、占領されてしまいます。やがてイングランドはバイキング王が支配することになります。

 紀元1066年はフランスのノルマンデイ王国のウイリアム征服王が、ドーバー海峡を渡り大海軍を連れて英国に攻め込んで来た年で、それ以後英国島へは一度も外国の侵入(侵略)を受けたことはありません。第二次ヒットラーは英国侵入を企てたが失敗っしました。

 実はノルマンでイ王国のウイリアム征服王も実はバイキングでした。ウイリアム征服王が帆船大艦隊を組んでイングランド南端のニューフォレストに侵入してきてここの大戦で勝利して、英国王ウイリアム一世になりました。

 何故侵入して来たかというと英国ウエールス王が、ウイリアムに王位を譲る約束をしていたのを、突然反古にして弟に継がせたのです。つまり遺言約束違反をしたのです。これに怒ってウイリアムが攻め込んできたので、ウイリアムの方に大義名分の利がありました。歴史というのは大変興味深いのは、”歴史は繰りかえされる”っていう俚諺もありますが、第二次世界大戦の欧州側での決着をつけたのは、イングランドに基地をおいて、陸海空軍民間総力戦で

断行されたノルマンデイ上陸大作戦でした。

実はこのノルマンでイ作戦のまえに英国の民間貨物船に乗っていた日本人の機関手水夫がいました。戦時徴用法で自動的に民間船が

英国海軍傘下に組み込まれ、知らぬ間に英国海軍になった貨物船が

大西洋アフリカ西岸沖でドイツ駆逐艦に撃沈されて、海中に

投げ出されてドイツ海軍に拾われて、ボルドーの戦争捕虜収容所に

いた日本人のKがいました。ノルマンでイ大作戦以後、ロンドンに

帰還しました。 Kとは戦後私は長い付き合いでしたが、

ロンドン大学のと東洋学部の戦前日本で英文学を教えていた英人のF先生の助手になっていました。F先生は終戦後、昭和天皇から授勲されています。F先生の教え子は 後に在日英国大使となって

日本に赴任しました。この人物も退官後日英間の親善交流に大変

貢献しました。

ノルマンデイ大作戦を指揮したのは欧州方面連合軍最高司令長官アイゼンハウワー元帥でした。 これでナチスドイツ軍は大打撃を被り、1945年4月ヒットラーの愛人エバとのピストル自決心中で無条件降伏となり欧州での第二次世界大戦は終結しました。その戦功によりアイゼンハウワーは米合衆国大統領に就任しました。英国は歴史上ではひところアングロス人・サクソン人のゲルマン(ドイツ系)の民族の流入を受けたことがあります。これは戦争ではなく民族移動です。 アイゼンハウワーって名前は、私の感覚ではゲルマン(ドイツ)系だと思います。

<原子爆弾開発・アインシュタイン博士とオッペンハイマー博士>

 ここで興味深いのはアイゼンハウワーは原子爆弾使用反対派でした。本来は原子爆弾は完成次第ドイツに落下する予定で,ドイツからスイス経由で米国へ亡命して来たユダヤ人の宇宙物理科学者に米国軍部と政府は依頼して急がせていました。その二人のユダヤ人宇宙物理科学者とは亡命後プリンストン大学で教鞭をとっていたアインシュタイン博士とオッペンハイマー博士でした。結局最後はアインシュタイン博士は降りて、オッペンハイマー博士が,原爆開発の最高責任者になりました。ヒットラーの自決で独軍の無条件降伏がなかったら、原爆はドイツに落とす筈だったのです。そのことは私は文献を調べて分かりました。 戦後私はプリンストン大学の戦時中のアインシュタインとオッペンハイマー両博士のそれぞれの研究室を訪れる機会がありました。古い煉瓦の建物の暗い廊下を隔てて表側がアインシュタイン博士の部屋、内側の暗い部屋がオッペンハイマーの部屋でした。もっと立派な書斎風の大きな部屋をイメージして居た私にとっては、意外でした。小さい部屋で黒板があって部屋にはただの学生椅子が八つ位あるだけで,机もない小さな部屋でした。全部一階でアインシュタインの小部屋は表に面していたので、窓から陽光が入ってきて、キャンパスも眺められたが、暗い廊下のビルの内側にあるオッペンハイマーの小部屋は暗かったです。<えっ!!これが原爆を開発した最高責任者の部屋??? うそでしょう???>って私は思わず言ってしまった。そこで思い出したのは中性子理論で、戦後初の日本人ノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士が言った<私は紙と鉛筆で中性子理論を研究しました>と言ったことばでした。

 アインシュタインとオッペンハイマー両博士なら<私達は黒板とチョークで宇宙物理学を研究しました>といったでしょう。同じく宇宙物理学者でノーベル賞受賞者の朝永振一郎博士の講演会を聴いた事がありましたが<先生は紙鉛筆派?黒板チョーク派?>と訊くのを忘れました。歴史には時々<若し??>という仮説をいいたくなりますが、もしもオッペンハイマー博士やアインシュタイン博士がユダヤ人でなかったら、もしも米国へ亡命してなかったら、ドイツも原爆開発には着手はしていたので、もし最初にドイツが完成してたらどうなったか? 一番ターゲットにされたのは間違いなくドーバー海峡を隔てた孤島のイングランドだった筈です。戦後日本の掘削機械でドーバー海峡トンネルを掘ったのですが、その長さは,青函トンネルの長さより短いのです。

ヒットラーは原爆開発はまだまだ時間がかかるとして、シュミット戦闘機とミサイルロケットの開発にハッパをかけて、実際にミサイルロケット爆弾は完成させてドイツからロンドンへ打込んでロンドン市内のあちこちのビルを破壊しました。一方英国のマンチェスター工科大学はドイツの通信傍受の研究のため、アナログの装置も使い大型の今でいうコンピュータを完成させました。大きな部屋二室に通信機器がびっしり詰め込まれ、ドイツ軍の戦略通信をかなり傍受する事に成功しました。思い出して下さい。世界の電波通信は英米間でマルコーニが最初に実験にして成功しました。

<ケルト民族、ローマ軍、バイキング軍のDNA・トラファルガー大海戦>

 ケルト民族、ローマ軍、バイキング軍の侵攻が重ねられたその歴史のDNAが強靭かつ優秀な軍人と指揮官を育成してきたことが、戦前戦中まで世界の七つの海を支配する植民地帝国になった背景です。

 そしてかつて大英帝国は地球上に有する植民地はほとんどを戦後次々に独立国に移行させました。世界の保険機構の頂点がロンドンのロイズ保険に任せ、産業革命と、世界の時計の原点をグリニッジ天文台にしたことは世界共通語が英語になったことの因果でもあります。世界の時間の原点を押さえて来たという事は、普段世界の人類は今では日常生活で余りにも身近過ぎるために全くその有難味などの実感認識すら持っていません。だが実は時間割を24分割法ににより地球経緯度にも当て嵌めたのは基はマンメードの大変な発明です。これは今では陸上交通から航海法やがて航空法には不可欠なルールにした上で、これを更に宇宙飛行へ敷衍し拡大的基本にしています。今ではこれなくしては地球上の人類は移動運搬もできないし、社会生活もなりたたないのです。 グリニッジ天文台を世界の時間の基点に定めた時点で、大英帝国の世界への影響力は確定したようなものでした。時計というハードはどこでも造る事は出来るが、時間の基点というソフトはもう変更不可能になっています。

 ロンドンのトラファルガー広場の地上コーナーには威風堂々のブロンズのライオン像が這いつくばっています。これが幕末明治初期に同じ英国の同じ鋳造所に製造させて、東京の銀座に持って来て

据え付けたのが三越でパートでした。

 ここでやっとトラファルガー広場のネルソン提督の立像の事に触れた理由を申し上げます。薩摩藩の東郷平八郎と密接な関係があります。

 彼がイングランドに渡航して留学中に最も深い関心を寄せて昼夜研究に熱中したのはネルソン提督提督がトラファルガー沖大海戦で当時世界最強と言われていたアルマーダ・ナポレオン大艦隊を

何故大激戦の末に完撃破し壊滅させられたかのネルソン戦法に異常な位のホットな研究意欲を燃やしていたというのでした。この研究熱心さが生かされたのは、日露戦争勃発時の日本海沖海戦でバルチック艦隊35隻中33隻を撃沈し、海中に投げ出されたロシヤ水兵を全員救助した時でした。世界海戦史上の語り草になっていて、救助された兵士遺族会は東郷が没した際に弔電を送って来たくらいで,東郷遺族会水交会とかとセント・ペテルスブルグで救助されたロシヤ側兵士遺族会との交流会が近年も行われたと伺っています。

<新日英友親交会・温故知新・BRIDGE TO NEXT GENERSTION>

ソウザンプトン港湾市は、歴史的に幕末明治の海上航路で日本港とつながっていました。今回この事を説明しました次第ですが、下記のリンクを開いて御参照下さい。

 結局全て新<日英友親交会>結成準備に結びついています。 そして岡見清直という人物のことを、余りに日本人が知らなさすぎる事への啓蒙運動も含めている背景には幕末から日英間を結んでいた海上航路の英国側玄関口のソウザンプトン港湾市と岡見清直先輩がウィンチェスター大学と合弁で創立した頌栄ウインチェスター女子大学が16世紀から続く英国女王家に次ぐかつて英国副王であった大貴族モンタギュ公の歴史的な英国国宝指定の古城BEAULIEU CASTLEと密接な関係があるからです。

今回岡見清直先輩と最も関係が深かったJohn F. Kennedy大統領、そしてその御息女キャロライン・ケネデイ米国大使が本年2月4日北海道札幌の雪祭りの開会式前に札幌に来られて、雪の彫刻制作を指揮した私の旧友の御子息である自衛隊の関口特科隊長夫妻がアテンドされたと伺いまして、何と言う偶然、何とSMALL WORLDなのかと思いました。その翌日米軍第七艦隊司令長夫妻も札幌に来られたので、これも御案内されたとか。関口特科隊長はワシントンの日本大使館武官として日本国の安全保障上の特別任務を帯して6年間駐在していました。

 また日英友親交会の将来の目標には、文化教育スポーツ政経官民の交流イベントに加えて、陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊と英連邦王国の海陸空の対応連隊との交流イベントをも日英双方と米国でも定期行事的に開催する事も考えております。日英友親交会の主旨をお理解して戴ける方々には、この会の御支援も仰ぎたいと思う次第であります。  

 英米を筆頭に英語圏の国々は歴史的外交的政経文化的にも歴史の原点に戻っての友親交関係を保つことが日本国の安全保障上にも重要と考えます。

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