大乗仏教はハッピーだ  無量寿経1


法話ライブ at  東京道場  2016年8月27日

法話:遠藤喨及

書き起こし:純佑

動画URL:

https://youtu.be/oKfepc3SBy8  (静止画)

https://www.youtube.com/watch?v=9l4_7U_67iA (音飛びあり)


1)2500年前にお釈迦様が説いてくださったのは、自分のためだった

聖書もそうですが、お経はみんな物語でできているんです。

そして物語は、“私はお釈迦様からこのように聞きました”という意味の、「如是我聞」で始まります。

実際、大乗仏典などは、お釈迦様の時代から500年経ってから生まれたものなのです。が、それでも「如是我聞」で始まるんです。

いつか皆さんも「2500年前にお釈迦様が説いてくださったのは、自分のためだった」と感じる日が来ると思います。

そうなると、この如是我聞の意味が、じーん、とわかってきます。

“お釈迦さまは、教えを自分のために用意してくださった”という感慨、、、。それは、それくらい深い感謝が出てくる、ということでもあります。

もっとも、“道場にはいろんな人が大勢いて、たまたま自分は、その中に1人として関わった”という程度の気持だと、そういう感慨は生まれないでしょうけど。

この感慨は、物理学で言っている、宇宙の「人間原理」という説とちょっと似ています。

うわさでは、つい最近証明されたらしいですよ。

2)人間が生まれたのは、霊性を発達させるため

人間原理がどういうものかと言うと、「46億年前に太陽が生まれ、惑星ができて、生物が生まれて…」という宇宙生成のプロセスが、全て人間という存在を産み出すために、セットされてきたとしか思えない、というものです。

宇宙って、たまたま人間が偶然生まれた、と思うことが科学的態度である、と一般的には思われていたのに、実際にはそれは逆だった、ということなんです。

弁栄上人も、生物が進化して人間が生まれたのは、霊性を発達させるためだった、とおっしゃっていました。全く同じことですね。

宇宙は大霊で、大霊が無限向上するために、人間という相対性を生んだということです。

3)向上とは、潜在力が発現すること

もっとも、向上という言葉は誤解されやすいですね。

「規律正しく、立派になりましょう」というイメージが、向上という言葉にはありますが、実はそうではありません。

現状を壊し、「潜在力を発現すること」を向上と言うのです。

一瞬もとどまらず無限に向上すること。

でも人間存在は、これとは真逆です。

だから本来の持つ向上の意味がイメージしにくいのです。

人間として存在するということは、落ちていくことです。

例えば、第二次性徴の後は肉体的に落ちていきます。

食べ物でも何でも、人間界のものは、時間が経てば腐っていくのです。

だから人間は、”せめてそうじゃないもの”という、幻想を求めます。

そして無意識に、今の年齢や状態がずっと続くとつい思います。

20歳だったら、その状態が続くと思うし、

80歳の人も、多分そうでしょう。

小さい子供でもそうですね。

もしこの世の中で、時間が経っても朽ちないものがあれば、それを追い求めたり、執着したりします。

例えば、お金とか貴金属なんかはそうですね。

人間界には永遠のものはないから、自分が死んだ後でも続くと「思う」ものの方に、気持ちが向かうんです。

4)どうやったらクリエイティブに、浄土的に生きられるのか?

当たり前のことですけど、人間にとって死の恐怖は、潜在的に非常に強いです。

だから本当は、みんな、”どうやって生きていくか?”ということは、そんなに考えていないんです。

むしろ、”どうやったら死なないか? どうやって死を回避するか?” ばかりを中心に人生を考えます。

“生命保険をかけなきゃ”とか、“何かあったときのために、お金をためておかないと”、とか、”食えなくならないように、どうしよう?” とか、死をいかに回避するかを考えることが、人生設計になっています。

しかし、もし、死というものが否定的なものでは無く、むしろ逆転して、死=浄土=喜びだったら、生き方もまた逆転するはずです。

“死なないためにはどうしたら良いか?”なんてことは考えないでしょう。

むしろ、“どうやったらクリエイティブに、生きている内に浄土的に生きられるのか?”ということを考えるのが主体になります。

5)身も心も大愛に溶けて、我慢できないくらいの喜びや、気持ちよさが湧いてくる

浄土というのは、如実に現象として顕れている世界です。

だから瞬間ごとに豊かになって、幸福感が増して、さらに存在が気持ちよくなっていく。

それがどんどん、果てなく深く広がり続けていく世界です。

人間界と間逆な世界、それが浄土なんです。

浄土の実感を得るには、如来様と体感的に出会う必要があります。

身も心も大愛に溶けて、我慢できないくらいの喜びや、気持ちよさが湧いてくる。

存在していること自体がそんな状態になる。

みなさんにも、是非とも、そういう体験をしていただきたいと思います。

世界観も人生観も、ガラッと変わります。

“どうやって人生のマイナスを埋めていこう?”とか、“どうやったら人から悪く言われないようになるだろう”、とかの発想はなくなります。

そういうものは、死の恐怖を乗り越えられたら全部帳消しになります。

死=ハッピー浄土、という発想をくださったのが、法然上人のすごいところです。

さて、法然上人の立てられた浄土宗は「無量寿経」を拠り所としています。

6)なぜ500人もの弟子たちは、むくれて立ち去ったのか?

普通、お経は弟子が問いかけて、それにお釈迦さまが答えるという形を取っています。

しかし無量寿経は、お釈迦様が自ら話し出されて教えを説かれた。

これが無量寿経の最大の特徴で、「無問自説の法」と呼ばれています。

先ほど、普通、お経は弟子が質問したりして始まる、と言いましたけど、法華経なんて大変です。

お釈迦様が、“法華経を説いても、みんなには理解できないから言わないでおこう”、と言ったのに、弟子たちが「お願いだから説いて下さい」というやり取りを三回くらいしています。

三回目の後に、“なら、しょうがないなー”と言ったか言わないかわからないけど、説き始めたら、その場で500人位(だったと思うけど)が立ち去ってしまった。

なぜ、500人もの弟子たちがむくれて立ち去ったのか?

それは、今までお釈迦さまが仏の教えとして説かれてきた、上座部の教えは、あくまでも仮の教えにすぎない。今までのは方便に過ぎない、と説かれたからなんですね。

これが何を象徴しているかというと、大乗仏教が興るとき、上座部佛教はお釈迦様の真意を説いたものではない、とした。

この時の上座仏教の僧侶たちの、大乗仏教に対する抵抗や反発を、象徴的にここで表しているんですね。

7)上座仏教と大乗仏教とでは全く違う宗教

実際、上座仏教と大乗仏教は全く違う宗教というくらい、違います

どんなところが違うかというと、まず仏の概念が違います。

通常、我々が「仏さま」といったら、お釈迦様のことも、薬師如来も、その他、色んな仏がいます。

宇宙が仏、と言われたら、“ああそうか”と、文化的に何となく思います。

でもこれは、あくまでも大乗仏教の精神文化なんですよ。

上座部仏教では、宇宙大霊とか、そういう概念はないです。

仏といったら、それはあくまでも「お釈迦様」のことだけです。

その他、上座仏教では、修行して仏になれるのはお釈迦様だけであって、他の人達はなれないんです。他の人たちが何になるかというと、「阿羅漢」という境地です。

羅漢というのは「学」という意味です。

阿は英語のNOのような否定形。

なので、もうこれ以上学べない、というくらいの修行の果ての境地という意味です。

上座仏教のコンセプトは、欲望の否定ですから、一切の執着が無くなる瞑想の深い段階があり、そういう境地が一番最高レベルだ、と。

ところが大乗仏教というのは、宇宙そのものが仏で誰の心のなかにも仏性がある、と考えます。

修行によって本来性が顕れてくるから、自我が脱落すれば誰でも仏になれますよ、というのが大乗仏教の教えです。

法華経なんかは、“たとえ法華経の一字一句でも人に伝えるならば、その功徳によって仏になれる”と書いてあります。

8)坊さんが一番偉い、という発想がない大乗仏教

上座部仏教の人にとって我慢ならなかったことは、坊さんが一番偉い、という発想が大乗仏教にはなかったからかも知れません。

また、上座部仏教の考えでは出家しないかぎりは悟れない。解脱できない。

一般の人は、悟りも啓けないし解脱は出来ないけど、お坊さんにお布施することによって、天上界に行けますよ、という。

上座は、徹底した自力主義であり、自利主義ですから、自分で修行したものしか得られない。

また、一般の人達は、お布施することしかできない。

つまり、ある意味、非常に階層的になっているのです。

そして僧侶は、その権益の中にいる限りは、安泰なのです

法華経の一字一句でも、念佛の一念でも、それによって往生できるとか悟りが啓けるとか言われると、僧侶の権威は無くなるわけです

それは、既得権益の人にとっては困ることでしょう。

お釈迦さまが法華経を説いたら、弟子がたくさん逃げてしまった、というのは、

そのことを象徴しています。

9)他の人に変わって苦しみを受ける

上座部仏教では自分が修行した分しか得られません。

が、大乗仏教になると、自分が修行した功徳を他に振り向けることができる。

いや、むしろその逆で、他に功徳を振り向けるために修行する。

これを回向と言います。

如来様の大愛、光明を他に振り向けるために修行する。

この利他主義が大乗仏教なんです。

こういったことは上座部仏教ではありえません

決定的な違いです。

身体に障害を持って生まれた方に対する考え方も相当違います。

上座部仏教では”障害は、自分のカルマを自分が負った結果”というのが基本的な考えです。まあ、冷たい。

ところが大乗仏教には、「代受苦」という言葉があるんです。

「他の人に変わって苦しみを受けた」という意味です。

だから、菩薩様が他の人になり替わってカルマを負い、その苦しみを受けて障害を持って生まれたのだ、とそういう捉え方をします。

自分のカルマが原因というのと、人の苦しみを代わりに背負ったからと考えるのとでは、尊重の温度差が全然違うでしょう。

だから大乗仏教では、僧侶が福祉活動をするというのがありましたが、上座部仏教ではこれまで、あまりありませんでした。

でもタイなんかでは、開発僧(かいほつそう)という、福祉活動をする人たちも出てきています。

10)お釈迦様は阿弥陀様と融合していた

無量寿経で、お釈迦様が自ら語られる前に、「佛佛相念」していたという言葉が出てきます。

これは、“仏と仏が相念ずる”ということです。

すなわち”お釈迦様が阿弥陀様と融合していたのです。

阿弥陀様と融合した後に、お釈迦さまが立ち上がったとき、アナンが「お釈迦様、今日はなんと美しいのでしょう、光明が輝いて鏡が透き通るようなお姿をしています。お釈迦さまが、こんな喜びが溢れる姿を見たことはありません。どうしてですか?」と尋ねるんです。

そこでお釈迦様が、「よく聞いたね、アナン。素晴らしいよ」と、語り始めて説かれたのが、無量寿経なんです。

                            (合掌)