聖書 第15わが内なるユダ、わが内なるイエス                

(マタイ伝 27章)

法話ライブ at  京都道場  2014年11月29日

法話:遠藤喨及 書き起こし:純佑

https://www.youtube.com/watch?v=D57GKTToudQ


今までの話は外なる物語です。

外なるものはすべて内を表す、というのが聖書や経典の基本的なテーマです。

物語の重要な登場人物は誰だったでしょうか。

ユダ、弟子代表のペテロ。

イエスを十字架にかけろという祭司長たち、裁判官ピラト、群衆。

そしてイエス。

内なるユダ、内なるペテロとは何か、我々の中の人間像をここに表しているのです。

単純に解説でそうかとなるよりまず考えたほうがいいです。

なぜユダは裏切ったのか。

太宰治の「駆け込み訴え」と言う小説によく表れていますが、

ある意味では最もイエスを愛した弟子がユダでした。

ただそれは「私を愛して」という愛でした。それが表れているのが次の場面です。

イエスのために香油をかけた女性に対してユダが「そんなお金があったら売って貧しい人に施せばよかったのに」と冷たく言い放ちました。

要するにイエスの関心が他に行くのが嫌だったのですね。

イエスというのは我々の中にある最も尊い道、使命を負って全うするという人間像なんです。

それに対しては我々には色々なものがあるでしょう。

反発する思いもありますが、通常は自覚しません。

外に霊的な道に向けさせようとする存在が現れた時、

我に向き合わされた時、反発するのです。

霊的な道に行くのですが、道を全うするというよりは自我的な愛に執着する。

霊的な道を通して人に奉仕するというよりは、霊的な道を通してどうやって自分が愛をもらうか、

という方向に気持ちが主に向いている。

そのような場合、自我的な愛の方向と、霊的な道に向けさせようという普遍的な愛の間で葛藤が生じて、反発します。

自我的な愛が勝てば、道に向けさせようという思いに対しては憎しみを抱きます。

どんな道に進もうという縁において必ずあると思います。

 

マザー・テレサには裏があったという話が出たりするでしょう。

本当はあんなにいい人ではなかったとか。

ダライ・ラマに関しても、ガンジーに関してもあります

ガンジーに関しては無理もないな、という部分もあります。

息子さんはアル中になっているんですね。

普遍的な愛に向く人というのは、ある意味家族にとっては大変なんです。

それを以って非常にネガティブに捉える人もいます。

マザー・テレサに対して裏があるのではないか、という話もネットにでたりします。

僕は実際にどうだったか、ということは問題に思っていません。

それより、ある素晴らしい活動をした、素晴らしい面を世界に表現した、

そのイメージが有るのが大事だと思います。

必ず霊的、利他的な方向に向かう場合には、厳しさがつきまといます。

利他的な活動をしましょう、といった場合に

利他を受けることを求めて来て、最初のうちは愛を受けていても

あなたも利他的なことをしなければならないですよ、と同じ立場になったら、

当然近い人間に対して厳しさがでますから、

その厳しさに対して反発するものがでてきます。

それで辞めていく人も多かったと思います。

悪いイメージ、ネガティブな思いを持って悪口を言う人も出てくるだろうと思います。

その道を全うするのか、それとも自我的な愛の方に行こうとするのか、という葛藤において

自我的な愛が勝った場合にはユダのように内なる道への想いを裏切って行きます。

物語ではユダは首をつって死んでしまいます。

それは我々にとっての魂の死を表しているのです。

普遍的な愛を全うすることを裏切ってしまい、ユダ的な愛に行った場合、我々の魂は死にます。

 

我々の中のユダというのは常にあります。

そういう道に対する反発、向上すること対する反発がどこかにある。

それが内なるユダです

なにもかも虚飾を捨ててむき出しの愛、むき出しの魂に生きようとする者に対して反発する、

というのは内なるユダです。

イエスを見捨てた弟子たちは何を象徴しているのでしょうか。

我が内なるペテロがいます。

あの人と同じだろう、と言われて私は知らない、と答えた。

裏切るというのは極端な方向性でありますが、使命的な方向を考えないようにする、という心もあるでしょう。

普遍的な道を全うするという、全く自分の命を、時間をムダにしない、自分のすべてを燃焼させるという生き方、それを考えないように、逃げようとする。

つまり使命から、生まれてきたことの意味から逃げようとする。

ただ流れに任せよう、という心。

それは我が内なるペテロ、逃げていった弟子たちなんです。

 

一方、我々が持っている仏性、輝き。それが内なるイエスです。

イエスを殺そうとする祭司長たちは何によってイエスを殺そうとするのか、妬みです。

イエスを嫉妬するわけです。

グループのシミュレーションでリーダー役になるのと、場に責任をもたず、場を落とそうとする役割を順番にやることがあります。

僕も場を落とそうとする役割をやったことがあります。あれは面白かった(笑)

リーダーが場に責任をもって一生懸命みんなの気持ちを上げようとしているのを見ながら、場を落とそうとしていると、リーダーの人が輝いて見えて心の中にヤキモチが出てくるんですね。

ああ、こういう心境になるんだな、と思いました。

外に投影された場合にはヤキモチとして出ます。

輝きを打ち消してしまおうとすることが、イエスを殺そうとすることですね。

それにしたがって行くのが群衆です。

群衆のずるい所は、ピラトが「ユダヤ人の王だと言っているがどうなんだ」と聞いた時に

群衆は「我々の王はカエサル以外にない」と言うんですよ。

状況を考えると、これは最大の裏切りですね。

カエサルというのはローマ帝国の王でしょう。

当時のユダヤ王国というのは今のパレスチナのように占領されていました。

自分たちを占領して苦しめている者を王として、イエスを殺す方がいい、と言う。

それくらいの自分に対する愚かな裏切りはないでしょう

自分の魂に対する裏切りを象徴しているのです。

群衆とはどうやってポジティブなものを否定するかというと、第一には「みんながこう言っているから」と言う言葉に従ってしまう。

いいことであれ、悪いことであれ、第一原因が「誰かが言っているから」ということであったら自分への裏切り以外、何者でもありません。

この世を動かしている悪があるとすると、皆が「他の人がこう言っている」というところで動くこと。

これで洗脳は成立するのです。洗脳の基本です。

統一教会は北朝鮮がどうやって捕虜にしたアメリカ兵を共産主義に洗脳したか、と言う実験の

ノウハウを使っています。

必ず内通者を紛れ込まして、文鮮明はお父様、キリストです、と言わせる。

誰かが言っているならそうなんだろう、と言う状況に持っていく。

もう一つは入れられた時に持ち物を没収して、情報を遮断します。

わからない状態になると不安になって、他の人が言っていることを信用しやすくなる。

そういう状況にして中に紛れこませて全体を扇動していく。

それはセミナーにおいてやる洗脳ですけど、これは世の中全体でも起こっていることです

だから、我々はいかに智慧を磨く必要があるのか、ということです。

智慧は修行によってしか磨かれないのです。

我々が内なるユダによって裏切り、内なるペテロによって使命から逃げて、

向き合っていなければ、イエスを殺す方向に流れてしまうのです。

イエスを殺すというのは、どんなことでも可能にするような私達の心の輝き、

それを殺すということなんです。

 

ピラトは婿養子で、任期の間にコトを起こさなければいい、という人間でした。

奥さんがこの人を死刑にしたら大変なカルマになる、という夢を前の日に見たのですが

「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。と言って手を洗って死刑を宣告しました。

(注:ユダヤ人の所作で、事件に無関係であることを示そうとする場合に手を洗う)

内なるピラトは責任を取らない、ということの象徴です。

そして我が内なるイエスは何の象徴でしょうか。

ユダの死もイエスの死も出てきます。

全然意味が違います。

一口に死ぬと言ってもいろんな死があります。

魂が死ぬという死もあれば、魂が復活して蘇って神と合一する、そういう死もあります。

 われわれは一回の人生の中で沢山の内なる死を経験しているのですけどね。

子供が大人になるというのも一つの死です。

思春期とはある意味一番死に近いのです。

その頃に一番、死ぬことを考えたりします。

人が自らの使命を負って、まさに神と同じ力を持って神の世界、浄土の世界を我が内にも外にも現していく、ということはまさに十字架にかかる、死ぬほどの覚悟が必要なんだということを表しています。

イエスの十字架は内なる死と蘇りを象徴しているのです。

十字架を引き受けて、使命を全うして、生まれてきたことの意味を輝かせる。

それほどの苦しみを引き受ける覚悟をもってしないと、人間は変われないのです。

人は変わるということは、実はある意味で死ぬことなのです。

それまでの自分が死なないと変われません。

バカは死ななきゃ直らない。これは実は深いんです(笑)

自分が変わりたい、といいながら今の自分がそのままで変われるわけがないのです。

今の自分が死ななければ買われない。

だってセミだって蛇だって脱皮するでしょう。皮がむけなければならない。

今までの我の状態をコンフォタブルにしておいて変わろうだなんて、そうは問屋が卸さない(笑)

「変わりたい」とか、「いつか変わる」とかね。

そんなことを言ってて、変われるでしょうか。

本当に変わりたいのなら、まさに引き受けるしかありません。

引き受けるには行動を変えるしかありません。

「気持ちを変えます」なんて言っても、すぐに戻ります。

行動を変えなければ変わらりません。

気持ちを変えると言っても、「よく考えます」とか言ったりしますね。

考えます、じゃなくて、「やります」でしょう。

人が変わるということは大変なことです。だけど意味があることです。

いつか変わらないといけないのですから。

後になればなるほど変わりにくくなりますから。

ユダの死もあればキリストの死もあります。

実はどちらを取るか、しか選択肢はないのです。

この人生で使命を全うして変わらなければ、我々は肉体の死だけを受け入れなければなりません。

もしちゃんと、十字架を受け入れるのであれば、我々の死は死では無くなるのです。

まさに、それを表しているのです。

さてユダヤ人たちは、その日が準備の日であったので、安息日に死体を十字架の上に残しておくまいと、(特にその安息日は大事な日であったから)、ピラトに願って、足を折った上で、死体を取りおろすことにした。

そこで兵卒らがきて、イエスと一緒に十字架につけられた初めの者と、もうひとりの者との足を折った。

しかし、彼らがイエスのところにきた時、イエスはもう死んでおられたのを見て、その足を折ることはしなかった。

しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た。

(ヨハネ伝)

脚を折るというのは、弁慶の泣き所を砕くんです。そうすると心臓麻痺で亡くなるというのが一つの目的。

もう一つは、遺体を引き下ろした後に蘇生して逃亡しないように、というのが目的らしいです。

イエスは死亡を確認されたので折られなかった。

イエスは十字架にかけられてから亡くなるまでの数時間、大変な苦しみを負いました。

絵を見ると釘だけ打たれていますが、物理的にはありえません。

身体の重みで引き裂かれてしまうそうです。

だから縛ってあるらしいです。

十字架の刑は出血多量よりも心臓が止まることによって死ぬそうです。

心臓が止まらなければなかなか死ねません。

なかには3日くらい死ねない例もあります。

それはどれほどの苦しみでしょうか。

十字架上の苦しみはむごたらしいほど、この鮮烈な物語は我々に内なる十字架の意味ということを直面させます。

これほどの引き受ける気持ちをもって魂を蘇らせますか、というイエスのメッセージ、問いかけですからね。

イエスは嘲笑されていたでしょう。

世間的には「おまえ、何やってるんだ」と嘲笑されるようなことをやらなければならない。

弟子もみんな去るかもしれない。

それでも全部引き受けて、それでも自分の信じた誠の道を行く。

ヨハネの福音書に書いてあります。

われすでに世に勝てり

私は人々の中傷にも打ち克ち、裏切りにも打ち克ち、そして魂の輝きを人々に鮮烈な物語として残す、というイエスの使命は全うされました。

これが聖書の一番のピークのところです。

今日は聖書の内なるものを解説させていただきました。

(完)