武道初心集
数年前、大道寺友山の『武道初心集』を初めて読んだ時、私はなぜか、以前にも同じものを見ているような気がしてならなかった。だが、どう考えてみても、それまでにこの書物を読んでいたという記憶は出てこない。そのことは、暫くの間、私の心に引っかかっていた。
そして、ある時、はっと気がついたのである。『武道初心集』の文章を、以前に読んだことがあるような気がしたのは、あの『軍人勅諭』の記憶のせいだったのだ。
明治十五年(一八八二)年一月四日に公布された『軍人勅諭」は、前文と、忠節、礼儀、武勇、真義、質素の五箇条の教訓からなっているが、これが誠によく似ているのである。例えば信義」の項で、軍人として信義を重んじることは勿論だが、軽率な安請け合いは厳につつしめというくだりがある。
「・・・されば、信義を尽くさんと思はば、始めより其の事の成し得べきかを得べからざるかを審らかに思考すべし、朧げなる事を仮初に諾いてよしなき関係を結び後に至りて信義を立てんとすれば身体進退窮まりて身の置き所に苦しむことあり、悔ゆるとも其詮なし云々」
之と、『武道初心集』第三七項、
「――爰を以ってわけもなきたのもしだてを無用とは申にて候。古き武士の義は、人に物をたのまれ候へば、是はなる筋、ならぬ筋とある義を勘弁仕りて是は成るまじきと存ずる事をば最初より請負申さず、なるべき筋の義と存ずるごとくの一義も其の仕様仕方の筋道を思案致して後、其の義を慥たしかに請負たのまれ申に付」、安請け合いによる失敗はせずに済むのだ、という教訓とを比べてみよう。
説かれている内容はもとより、発想から文脈に至るまで、驚くほど共通のものを感じるではないか。私の錯覚も、そう見当違いではなかったようだ。このことに思いあたったとき、私にはかつての学生時代、軍事教練の時間にとつとつと勅諭の講釈をしていた老配属将校の風貌までが、とっさに思い出されたものである。
この『勅諭』は、明治初年の文人政治家・西周の起草、福地源一郎(桜痴)、元田永孚、井上毅、山県有朋らの協力によって作られと越えて生き残り、対に十数年前の敗戦まで、日本人の精神軽視に大きな影響を及ぼしていたということになる。とされていた『武道初心集』が当然、重要な地位を占めていたものと想像される。
若し、そうだとすれば、遠く江戸前聞いとかれた教えが、明治の大変革を越えて生き残り、つい二十数年前の敗戦まで、日本人の精神的に大きな影響を及ぼしていたということになる。
大道寺友山(一六三九~一七三〇=寛永十六年~享保十五年)が、本名が重祐、通称孫九郎といった。友山とは晩年の号である。大道寺家はもともと京都伏見にあったが、家康が征夷大将軍となって江戸幕府を開く前年に当たる慶長七年、友山の祖父・直繁、父・繁久が家康の命によって、その六男、松平忠輝に仕えることとなった。
やがて、忠輝は越後高田藩六十一万石に封じられ、直繁、繁久もこれに従って越後に入る。慶長十五年(一六一〇)のことであった。だが、大道寺家はまことについていなかった。高田藩主となった松平忠輝は、その後父家康との折り合いが悪く、わずか六年後の大坂夏の陣において出陣が遅れたことを理由に、家は断絶、本人は追放という処分を受けてしまったのである。
大道寺家は、わざわざ浪人となるために、雪深い越後高田まで出かけて行ったようなものである。その後の一家が、どのような暮らしをしていたか明らかではないが、もとより恵まれたものではなかったろう。友山が誕生したのは、忠輝失脚の二十三年後、大道寺家は依然として浪人暮らしの中であった。
やがて、青年となった友山は、志を立てて江戸に出、小幡景憲、北条氏長、山鹿素行といった一流の軍学者たちの門に入った。
友山の出府の年は明らかでなく、墓碑名には、ただ「長ずるに及び」とあるが、友山が二十五歳となった寛文三年(一六六三)には、甲州流軍学の流祖である小幡官兵衛景憲が九十二歳の長寿を終わっているから、友山が景憲の門下に入っていたとの記録を信ずれば、その出府は恐らく二十歳前後の時であろう。
江戸時代の初期は、軍学(当時は普通兵学、ないし兵法といった)の空前の勃興期であった。長い戦乱の余燼はまだくすぶっており、幕藩体制の基礎はようやく固まりかけたところである。この中で、まだ記憶に新しい動乱の時代の教訓を体系化し、理論化して、新しい時代へと引き継ぐことは、支配階級にとってどうしても必要なことであった。
その中でも、とりわけ隆盛を極めたのが、景憲を始祖とする甲州琉(武田流)軍学の一派である。周知のように、武田信玄は、僻遠の地である甲州一国から身を起こして威を四隣にふるい、ついには上洛を志して西上の途中、病に倒れたのであるが、この信玄こそは、東海関東の覇権を握るまでの家康にとて、最大の強敵であった。有名な三方ヶ原の合戦で、家康は信玄軍の猛攻に追いまくられ、討死寸前の苦境にまで陥ったという経験をも持っている
天下を手にした家康は、このかつての強敵の事蹟から、可能な限りの教訓を引き出して、自らの財産としようと努めた。
武田の遺臣を丁重に遇して、徳川譜代の家臣たちに従わせたのもこの為であり、井伊直政の配下に入った一隊は、赤一色の装備で赤備えと呼ばれ、その勇猛を謳われている。
武田の旧臣、小幡又兵衛昌盛の三男・官兵衛景憲は、このような家康の攻略に見事取り入り、後世にまで大きな影響を及ぼした。景憲は、武田家に伝わる膨大な諸資料を駆使し、自らも筆を執って、大著『甲陽軍鑑』をはじめ、『甲陽軍鑑末書』『信玄全集』『武具要説』『兵法秘伝書』など、数多くの兵学書を編纂した。北条琉北条氏長(一六〇九~一六七〇)、山鹿流の山鹿素行(一六二二~一六八五)は、いずれもその門下から出ている。
シュエを滅ぼされた一介の素浪人であった景憲が、学問の力によって天下にその名をとどろかせていたことは、似かよった境遇のもとにあった青年友山の夢を大きくふくらませたに違いないそして、研鑚の功を積んだ友山は、やがて、「重祐、少より老におよび兵法を以て世に鳴り普く諸侯に游説して能く故事を談じ又、岩淵夜話、落穂集を著はし、又、大将伝、五臣論を述ぶ。遺稿亦た多し・・・」(墓碑銘より)といった社会的地位を得るにいたる。
友山が寄寓した諸侯とは、安芸の浅野家、会津の松平家、越前の松平家など、いずれも鏘々たる名家ばかりである。その青雲の志は、ほぼ遂げられたといってもよいであろう。
奇しくも師、小幡景憲と同じく九十二歳の天寿を全うして江戸に死す。葉隠』の口述者佐賀の山本常智が『葉隠』の完成を見た三年後、六十一歳で没したのは、友山の死より十一年前の享保四年であった。
友山が『武道初心集』を著した年代は明らかでゃないが、その晩年の作であることは間違いないとされている。
その内容から見て、諸国を遍歴し、その内情をつぶさに見聞した友山が、太平の世に馴れて自覚が薄れていくばかりの下級武士の再教育を目指して筆を執ったものと思われる。さらに勝手な想像が許されるならば、友山が寄寓先の藩侯(おそらくは越前松平公)の求めに応じて書き下ろしたものかもしれない。
友山がこの書の読者として想定しているのは、太平の世(文中では治世とか静譃の世などと呼ばれる)における初心の武士、つまり現代に当てはめて言えば、平のホワイトカラーに当たる人々である。したがって、その内容な、戦乱の時代における武将の心得を中心に説かれている『甲陽軍鑑』や戦場での下級兵卒の心得を説いた『雑兵物語』とは大いに異なっている。内容的に見て最も共通するところが多いのは、更に有名な『葉隠』(山本常朝述、田代陣基編)であろう。
ただし、『葉隠』は全体で千三百四十三項にも及ぶ膨大な語録で、教訓、伝承、記録、故実などが雑然と入り混じっており、これを通読することは容易ではない。しかも、かなり極端な内容や表現も含まれていて、佐賀藩中でも必ずしも公には推奨されなかった程で、まして全国的に読まれる機会はきわめて少なかった。明治以後、『葉隠』の言説の一面が、忠君愛国思想と結び付けられ、もてはやされるようになってから、この書(ただし、殆どは都合の善い箇所だけのダイジェスト)が普及したに過ぎない。これに対して『武道初心集』のほうは、さほど大部の書物でもなく、また、その説くところも、諸藩を遊歴した教養人である著者にふさわしく、先ずは穏健中正(必ずしもそうとばかりは言えない面もあるのだが、それについては後で述べる)であったから、諸藩に於いても藩士の教育テキストとして広く愛用されたのである。
さて、この『武道初心集』の普及に大いに貢献をしたのが、信州松平藩家老・恩田公準(『日暮硯』の著者として知られる恩田木工民親の曾孫)と同藩儒官・小林畏堂らによって編纂されて、天保五年(一八三四)江戸芝神明前の書肆・和泉屋吉兵衛によって刊行された「松代版」と呼ばれる木版本である。
松代版は明治以降にもしばしば復刻され、『武士道叢書』『武士道全書』等に収められた『武道初心集』も、すべてこれによるものであった。その巻末に付された「跋」によれば、恩田公準は、かねてから『武道初心集』を所蔵しており、これを藩中の子弟に与えたいと考えていたが、「その辞の俚俗に近きを以って人の侮慢し易きを恐」れ、小林畏堂に字句の若干の訂正を依頼し、公刊のはこびとなったとされている。
松代版『武道初心集』は、上中下の三巻に分かれ、次のような構成となっている。
上巻・・・総論、教育、孝行、士法、不忘勝負、出家士、義不義、勇者、礼敬、馬術、軍法戦法
中巻・・・治家、親族、倹嗇、家作、武備、従僕着具、武士、廉恥、択友、交誼、絶交、名誉、大口悪口、旅行、戒背語、陳代、臨終
下巻・・・奉公、臣職、武役、謹慎、言辞、譜牒、陪従、有司、仮威竊威、聚歛、頭支配、、懈惰、処変、述懐、忠死、文雅
以上四十四ヶ条
ところが、後年に至って、友山の元著により近いと思われる写本(以下、一応、原本と呼ぶ)が発見され、古川哲史氏の手によって一九四三(昭和十八)年、岩波文庫から出版されたことにおり、原本と松代版との差は、単に字句に訂正を施した程度のものではなかったことが明らかとなったのである。
原本は上中下三巻に分かれておらず、表題なしの五十六項目がずらりと並んだ構成となっている(この点、松代版の跋が、武道初心集三巻を校訂して松代版を作ったと述べていることと矛盾する。原本と松代版との間に、三巻に分けられた”第二の原本”が存在したのかもしれぬ)
五十六項目が四十四項目となったのは、十項目が抹消され、数項目が合併されたためである。さらに生かされている項目についても、内容の一部削除や書き替えが行われている。
では、削除ないし書き換えられたのはどういう部分か。
一言で言えば、修身教科書としては教育的に疑問や差しさわりがあると考えられたか所としか思えない。
例えば、原本の第五十三条は、主君のお手打ちに立ち合う際の心得であるが、原本の中でも「重き御身にて軽々敷き手打ちななさるごとくの儀は千万に一つも之無き道理なれば・・・」と書かれているぐらいで、殿様としてほめたことではないから省略されたのであろう。また、第四十条は、小身のうちは妻子を持つべきでないという、ひどく厳しい内容であるために、武士の反発を懸念したものか、やはり抹消されている。
さらに著しい例としては、第四十一条の汚職役人を非難する項目は、その冒頭に、”盗人にも三分の理”といった戦国の論理の名残が見受けられたためか、または汚職の手口をリアルに描きすぎたためか、全文を抹消されてしまった。
一部削除の例としては、松代版で「聚歛」として生かされている第三十六条で、お勝手むき(経理、財務)の役は、上と下の板挟みになって苦労するうえ、欲望に負けて身を亡ぼす恐れが大きいから、いか様に致してなり共相逃れ候様にとの心得尤もなり」――つまり、なんとしてでも逃げてしまえと説いているのに対し、松代藩版では、「御勝手向きに懸りたる諸役の儀はいかにも難儀なるものに候」と、曖昧にごまかしている。君命が下されたにもかかわらず、「何としても逃げてしまえ」とそそのかすなどは、なるほど封建道徳の倫理からすれば、大いにさしさわりのあるところであろう。だが、友山がこのように説いたからには、この教訓にはそれなりの根拠があったものと思われる。この一見乱暴な助言のかげには、封建支配の矛盾の深淵がのぞいていはしないだろうか。
このように、おそらくは小林畏堂等によって行われた皇帝は、単なる字句修正の範囲を這うr化に越えて、『武道初心集』が本来持っていた乱世の思想の名残を取り除き、無難な教科書をつくるためものだったといっても過言ではあるまい。
その意味で、友山の真意が、より生な姿で示されている原本が、古川氏によって広く紹介されたことの意義は、すこぶる大きいものがあると言えよう。
『武道初心集』と、ほぼ同時代に書かれた『葉隠』とは、その思想において多くの共通点をそなえている。しかしまた、少し立ち入って検討すると、それぞれの著者の姿勢には、かなり大きな隔たりがあることも否定できない。『葉隠』の口述者である山本常朝は、藩主鍋島光茂の死によって出家隠遁した身であり、この書物も公刊を目的として作られたものではなかった。それどころか、その冒頭には、「この始終十一巻、追って火中すべし」とまで記されている。つまり『葉隠』は、常朝が自分自身の心に語りかけた独白の書だったのである。それだけに、内容、表現、ともに誰に遠慮するところもなく、結果としてかなり激越、奔放の趣が濃い。
これに対して『武道初心集」のほうは、藩を游歴する兵学者である友山が、ベテランのコンサルタント、ないし社員教育の講師といった立場から書いた書物だけに、『葉隠』と比べて、はるかに角がとれている感じである。しかし、さすがは戦国の遺風がまだ消え失せていない時代に育った友山だけあって、とりわけ原本の中には、剛直な筋金が、ビシッと一本通っているところを読み取っていただきたい。
『武道初心集』の眼目は、なんといっても、「いかに死ぬか、いかに生きるか」という課題との取り組みであろう。
これについての友山の所説は、本書第一条に尽くされている。それは、”常に死と対決する心構えを忘れることなく、その生を全うし、日々全力を尽くして主君に仕えよ”という教えである。
友山が巻中いたるところで痛憤しているように、当時すでに、一般の武士の弛緩は相当なものであったらしい。
戦乱の巷で光明を遂げ、立身出世するという機会は、もはや得られそうにない。では藩の経営に参画して、平和な時代にふさわしい貢献を行うことができるかというと、厳重な身分制度にさえぎられて、一般緒下級武士が神酒tできる余地はほとんどない。与えられる任務といえば、「番役、苦役、使い役」といった”只居り役”か、「畳の上をはいまわり互いに手の甲をさすり舌先三寸の勝負をあらそふのみ」(第五十四条)の部署にしか過ぎない。これでは、たるむなといっても無理というものである。
では、このような環境の下にある軽輩の武士たちの指揮を高め、忠誠心を高めるにはどうしたらよいか。
友山はこの難題を、「常に死を心にあてよ」という方向で解決しようとした。これは、『葉隠』に説かれ散る「その時が只今、只今がその時」という教訓や、茶道における「一期一会」の心得と共通する日本特有の自己管理の生き方である。
常に死を思うことによって、限りある人生の尊さをかみしめて、一日一日を精いっぱいに生きていこうとする姿勢がそこから生まれる。
しかし、このような考え方は、一歩誤ると、厭世的な無常感、ニヒリズムに傾斜する危険を常にはらんでいる。これを防ぐためには、明確な人生の目標が必要である。ここから、当世流行の“生きがい”の問題が出てくる。
友山は、太平の世の武士たちに”明日にも戦乱が起こった時、これに対処できるよう、物心両面のそなえを怠るな”と説いて、これを武士の生きがいとしようとした。
それはそれで、必要なことであったに違いない。だが、友山は、戦時における奉公の厳しさを力説するあまり、平時の方向の意義、その中で果たすべき武士の役割についてほとんどふれずにお終わってしまった。
相手が”初心の武士”だからといってしまえばそれまでだが、内政の充実による富国強兵をあれほど重視した武田流軍学の流れを組んでいる友山が、行政担当者としての武士の職分についてはほとんど触れることはなく、ただ、平時の奉公などは奉公のうちにも入らぬ」と繰り返しているのには奇異の念を禁じ得ない。”いかに生きるか”の追及を、とことんまで行うことなしには、結局のところ、”いかに死ぬか”という課題の答えも出てこないはずである。このへんに『武道初心集』の純粋さと同時に狭さが端的に現れているのではないだろうか。
「惣じて人間の命をば夕べの露あしたの霜になぞらへ随分はかなきものに致し置候」
そうであればあるほど、まず悔いのない生き方をこそ考えたいものである。
武士たらんものは正月元日の朝雑煮の餅を祝ふうとて箸を取初るより其年の大晦日の夕べに至る迄、日々夜々死を常に心にあつるを以て本意の第一とは仕るにて候。死をさへ常に心にあて候へば忠孝二つの道にも相叶ひ万の悪事災難をもの遁れ其身無病息災にして、寿命超久に剰へ其人がら迄も宜く罷成其徳多き事に候。其仔細を申すに惣じて、人間の命をば夕べの露あしたの霜になぞらへ随分はかなき物に致し置候。中にも殊更危きは武士の身命にて候を人々己が心すましにいつ迄も長生を仕る了簡なるに依て主君へも末長き御奉公親々への孝養も末長き義也と存ずるから事起こりて主君へも不奉公を仕り親々への孝行も粗略には罷成にて候。今日ありて明日を知ぬ身命とさへ覚悟仕り候においては主君へもけふを奉公の致しおさめ親へ仕ふるも今日を限りと思ふが故主君の御前へ、罷り出でて御用を承るも親々の顔を見上げるも之を限りと罷成事もやと存ずるごとくの心あひになるを以って主親へも真実の思ひいれと罷成ずしては叶はず候。さるに依て忠孝のふたつの道にも相叶うとは申すにて候。扨又死を忘れて油断致す心より物につつしみなく人の気にさはる事をも云いて口論に及び聞すてに仕りて事済む義をも聞きとがめて物いひに仕なし或いは無益なる遊山見物の場所人こみの中とある遠慮もなくありき回りえしれぬ馬鹿者などにも出会い不慮の喧嘩に及び身命を果たして主君の御名を出し親兄弟に難儀を掛る事皆常に死を心にあてぬ油断より起こる災也。死を常に心にあつる時は人に物をいふ人の物云に返答を致すも武士の身にては一言の甲乙を大事と心得るを以て、訳もなき口論などを仕らず勿論むさと致したる場所へは人が誘ひても行ざる故不慮の首尾に出合うべき様も之無く爰を以て万の悪事災難をも遁るるとは申也。高きも賤きも人は死を忘るる故に常に過食大酒淫乱等の不養生を致し、脾腎の煩などを仕出し思ひの外なる若死をも致したとへ存命にても何の用に立たざるごとくの病者とは成果る也。死を常に心にあつる時は其身の年も若く無病息災也といへども兼て補養の心得を致し飲食を節に仕り色の道をも遠ざくるごとく嗜みつつしむ故に其身も壮健也。扨こそ無病息災にて寿命迄も長久なりとは申にて候。其上死を遠く見る時は此の世の逗留を永く存る心に付色々の望も出来欲心深成て人の物といへば、ほしがり我物をはをしみ悉皆町人百姓の意地あひのごとくには罷成にて候。死を常に心にあつる時は此世の中をあぢきなく存ずるに付貪欲の心をおのずから薄くなりほしきをしきとあるむさき意地あひもさのみさし出ざる道理にて候。去るに依て其人がら迄も宜く成とは申しにて候。但し死をいかに心にあつればとて吉田の兼好がつれづれ草に書置きたる心戒と申比丘がごとく二六時中死期を待心にていつもただうづくまりてのみ罷在るごとくなるは出家沙門の心に死をあつる修業にはいかんも候へ武者修行の本意には相叶ひ申ず候。左様に死をあて候ては主君親へ忠孝の道もすたり武士の家業も欠果申義なれば大によろしからず候。昼夜を限らず公私の諸用を仕回りしばらくも身の暇ある心静かなる時は死の一字を思ひ出し懈怠なく心にあてよと申事にて候。楠正成が子息正行に申教し言葉にも常に死をならへと之有る由承り伝る所也。初心の武士心得の為件の如し。
021
武士というものは、正月元日の朝に雑煮の餅を祝おうと箸をとったときから、その年の大晦日の夜に至るまで、毎日毎夜のように死ということをこころに覚悟するのを第一に心がけとするものである。常に死を覚悟しておりさえすれば、忠孝二つの道をもはずさず、さまざまな危険や災難にもあわず、健康のうちに長く寿命を保ち、さらには人格までも立派になるなど、多くの利益があるものである。
そのわけはといえば、そもそも人間の命というものは夕べの露、明日の霜にたとえられ、まことにはかないものとされている。とりわけ危ないものは武士の命であるのに、人々はいつまでも長生きができるかのように勝手に思い込んで、主君への奉公も、両親への孝行も末永くできるもののように考えるところから、主君への奉公を怠り、両親への孝行もいい加減なものになってしまうのである。
わが身命は、今日はあっても明日はないものとの覚悟さえあるならば、主君に対しても今日が奉公の仕納め、親に仕えるのも今日が限りと思うようになり、主君の御前で御用を承るにも、両親の顔を拝見するにも、これが最後となるかも知れぬとの気持ちにならずにはいられまい。それであるから、死を覚悟することが、忠孝の道に一致するというのである。
022
また、死の覚悟を忘れて油断するところから、慎重さを欠き、人の感情を害するようなことを言って口論となり、聞き捨てにしてもよいようなことまで聞きとがめて議論をし、または意味もない遊山見物や人ごみの中を歩き回っては、得体の知れぬばか者にぶっつかって思わぬけんかを起こし、命を失って主君のお名前を汚したり、親兄弟に迷惑をかけたりするのも、すべて死を常に心に覚悟することを忘れたところから起こる災難である。
つねに死ということを心に決めているならば、一言一言を大切に考える武士としての心がけによって、人にものを言い、または人の言葉に返事をするようになるから、意味もない口論をしたり、人が誘っても下らぬところへ出かけたりすることもせず、思わぬ危険に出会うこととてもない。さまざまな災難から逃れられるとは、このことをいうのである。
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身分の高い低いにかかわらず、人々の覚悟ができていないために、過食、大酒、淫乱等によって健康を損ね、内蔵の病気を起こしたりして、思わぬ若死にをし、たとえ生きてはいても、なんの用にも立たぬ病人となったりするのである。常に死を覚悟していさえすれば、まだ歳若く、健康ではあっても、普段から衛生に気をつけ、飲食をすごさず、色の道をも慎むように心がけるから、その身も健康となって、病気一つせずに長寿を保つことができるのである。
また死を遠い先にことと思えば、この世にいつまでもいられるものと考えるところからいろいろな欲望が起こり、人のものを欲しがり、わが物を惜しみ、まるきり百姓町人のような根性に成り果てるものである。常に死の覚悟を定めて置くならば、この世ははかないものと達観できるから、物事をむさぼる気持ちも自然と薄くなり、ほしい、惜しいといった汚い根性も、それほど出てこないものである。死を覚悟することによって人格までも向上するというのはこれをいうのである。
もっとも、死を覚悟するとはいっても、吉田兼好が徒然草に書いている心戒という僧のように、ただ一日中、自分の死を待ちかねて、ちぢこまっているようでは出家仏弟子の身で修行をするものの心がけとしてはともかく、武士の修行のあり方としてはふさわしいものではない。死というものをそのように考えていたのでは、主君や親に忠孝をつくすこともできず、武士としての職分も果たせないから、まことに困ったものである。
公私共に昼夜となく責任を果たして、いくらかからだに暇ができて心静かな時には、忘れず死の覚悟を新たにせよということなのである。
楠正成が子息の正行に諭した言葉にも、「常に死をならえ」といったと聞いている。
以上、初心の武士の心得のために申すものである。
「解説」
(前略)
当時における奉公人の理想像は、命を棄てた覚悟で日々の勤めに全力を尽くし、長い生涯にわたってお家に大きな貢献をするという剛直と思慮深さを兼ね備えた武士であった。(中略)
特に本書で、死にとらわれることからニヒリズムに陥り、積極性を失うことを強く戒めていることは注目される。士気高揚の為の教えが、逆に作用して『葉隠』でいうところの「すくたれ(落伍者の意味)をつくることこそ、友山らの最も警戒するところであったに違いない。
武士たらんものは行住坐臥二六時中勝負の気を忘れずに心におくを以て肝要とは仕るにて候。本朝の義は異国にかはりいか程軽き町人百姓商人体の者なり共似合相応にさび脇差の一腰づつも相嗜み罷在り候義は是日本武国の民の風俗にして万代不易の神道也。然りといへども三民の輩の義は武を稼業と仕らず候。武門においてはたとひ末々の小者中間夫あらし子の類ひに至る迄常に脇差をはなしてはならぬ作法に定る也。況や侍以上の輩としては即時が間も腰に刃物を絶やしては罷成らざる如く之在り。去に依って心懸深き武士は常に湯をあび申所に迄刃びき刀或いは木刀などを用意致して差置候とあるも勝負の気を心懸置が故也。我家内にてさへも、其心掛け之有る上はましてや私宅を離れて他所へ罷越すには往還の道すがら其行たる先に於ても気違ひ酒狂人またはいか様の馬鹿者に出合て不慮の仕合に及ぶごとくの義も有る間敷にあらずとの心懸はなくて叶はず候。古人の詞にも門を出るより敵を見るが如くなど之在り候。其身武士として腰に刀剣を帯びるからは即時の間も勝負の気を忘るべき様は之無し。勝負の気を忘れざる時はおのづから死を心にあつるの実にも相叶ふ也。腰に刀剣をさしはさむといへ共勝負の気を常に心に置ざる侍は武士の皮をかぶりたる町人百姓に少しも相替る義之無き様子也。初心の武士の心得の為仍て件の如し。
武士という者は、いても立っても、四六時中の間、勝負の心構えを忘れることなく暮らすことが、何よりも大切とされている。
わが国においては、外国と違って、どれほど身分の低い町人、百姓、商人風情のものであっても、それ相応に錆びた脇差の一本ずつも所持するが、これは武の国、日本独特の風俗であって、永遠に変わることのない神聖な伝統である。
しかしながら、農工商に身分の者にあっては、武道をその天職としているわけではない。これに対して、武家にあっては、たとえもっとも身分の低い小者、中間、人足のたぐいにいたるまでも、常に脇差を身から離してはならないのがおきてである。
ましてや侍以上の身分の者は、どんなときにも腰から刃物をはずしてはならぬとされている。それであるから、心がけのよい武士は、入浴の場所にまでも、刃をなくした刀や、あるいは木刀などを用意しておくというが、これも勝負を忘れぬ心構えによるものである。
このように、自宅の中においてさえ、この心がけが必要なのであるから、まして、よそへ出かけて行く際には、往復の途上、又行った先に於いても、狂人、酒乱の者、またはどのような馬鹿者に出合って、不慮の事態となるかわからないということを覚悟せねばならないのである。古人のことばにも、「門を出るより敵を見るがごとく・・・」などといわれている。
武士の身として、腰に刀剣を帯びるからには、いかなるときにも勝負の心構えを忘れてよいというものではない。勝負の心構えを忘れなければ、自然と死を覚悟する心境にも通じることができる。
腰に刀剣を帯びていながら、勝負の心構えが常にできていないような侍は、武士の皮をかぶってはいても、町人、百姓と少しも変わらぬものといえよう。
以上、初心の武士の心得のため、申すものである。
武士たらん者は三民の上に立ちて事をとる職分の義に之有り候からは学問などをも致し広く物事の道理をも弁へ申ずしては叶はざる義也。然りといへども乱世の武士と申は生れて十五六歳にも罷成り候へば必ず初陣に立て一騎役をも相勤申候義なれば十二三歳の年来にも成候へば馬に乗槍をつかひ弓を射鉄砲を放しそのほか一切の武芸をも手練致さずしては叶わざる義なれば見台に向ひて書物を開き机にもたれて筆を執るべき身の暇とてはさのみ之無きを以ておのづから無学文盲にして一文字を引事さへならぬごとくの武士戦国にはいか程も之有り候へ共あながち其身不心掛け共親々の教のあしき共申べき様之無く候は武道を専一とかせぐを以て当用と仕るが故にて候。今天下静謐の世に生れ合たる武士とても武道の心掛を粗略に致して苦しからずと申にては之無く候へ共乱世の武士のごとく十五六歳からは是非初陣に立たずしては叶はずと申ごとくの世間にても之無く候へば十歳余りの年齢にも負生立候においては四書五経七書などの文字読をも致させ手習いをも仕りて物を書覚へ候様にと油断なく申教へ扨十五六歳にも罷成次第に身力も出来すこやかになるに随ひて弓射馬に乗習ひ其外一切の武芸をも手練致させ候様に仕る義治世の武士子を育る本意たるべく候。右に申す乱世の武士の文盲とあるには一通りの申しわけも之有り治世の武士の無筆文盲の申しわけは立兼申義也。但し子供の義は幼弱の年齢なればさしてとがむべき様も無く候。偏に親々の油断不調法とならでは申されず候。畢竟子を愛するの道を知らざらるが故也。初心の武士の心得の為仍て件の如し。
029
武士というものは、農、工、商の上に立て、物事を行う身分の者であるから、学問をも修め、広く物事の道理を心得ておらねばならぬ次第である。
しかしながら、乱世の頃の武士は、十五、六歳ともなれば、必ず初陣に立って、一人前の働きをしたものであるから、十二、三歳ともなれば、乗馬、槍、弓、手法、そのほか一切の武芸を見につけねばならなかった。
したがって、見台に向かって書物を開き、机によって筆をとるなどという暇などはほとんどなく、自然と無学文盲となって、一文字ひとつ書けぬような武士が戦国の頃にはいくらでもいたものである。
だが、これは本人の心がけや親の教育が悪かったというわけのものではなく、当時は武芸第一に励むことが必要であったから、このようになったのである。
現在、平穏な時代に生まれ合わせた武士にしても、武芸の心得がいいかげんだってよいというわけではないが、乱世の武士のように、十五、六歳になれば必ず初陣に立たねばならぬという世の中ではないのであるから、十歳を過ぎた頃からは、史書、五経、七書等の書物を読ませ、手習いもさせて、ものを書けるように注意深く教え、さて十五、六歳ともなって、次第に体力もつき、元気になってくるにつれて、弓矢、馬術、そのほか一切の武芸を身につけさせるようにするのが、治世の武士が子供を育てる正しい道といえよう。
右に述べたような乱世の武士が文盲だということには、一応の理由もあるが、治世の武士が無筆文盲であってはそのいいわけはできない。
もっとも、子供については幼少のことであるから、それを責めるわけにもいかない。すべては親の油断、不始末というよりほかはない。それも結局、本当の子供への愛情ということを知らぬためといえよう。
以上、初心の武士の心得のために申すものである。
【解説】
幕藩体制の安定化とともに、武士階級は戦闘者の集団から管理者の集団(三民の上に立って、事をとる職分)へと変質していった。如何に豪遊で当ても、このような職分の変化に対応できない武士は、所詮、時代から取り残されていかざるを得ない。武士階級に対する管理能力の開発はまさしく時代の養成であり、その第一歩として、ここでは幼い時からの教育の必要性が力説されている。
武士たらんものは親へ孝養のつとめの厚きを以て第一とは仕るにて候。たとへ其身の利発才覚人に勝れ弁舌明らかにして器量宜く生まれ付候ても親へ不幸の者は何の用にも立ち申ず候。仔細を申すに武士道は本末を知りて正しく致すを以て肝要と仕る事にて候。本末の弁へ薄くしては義理を存ずべき様之無し。義理を知らざるものを武士とは申し難く候。扨本末を知ると申すに付ては親は我身の本にして我身は親の骨肉の末也。然るに其末たる我身を立るを以て本意と存ずる心から事起りて親をば粗略に仕るにて候。是本末を弁へざる故也。且又親へ孝養を尽くすにも二段の様子之有り。たとへば其親の心だてすなをにして子を愛するの誠を以て教養の心入れ厚く其上大体人の取り得がたきとある知行高に武具馬具家財等に至る迄事の欠ける事もなくよろしき嫁までとりむかへて何不足なき家督を譲り与へて隠居の身と成て引込たる親などへは其子として常大体の孝養を尽くしたる分にてはほめ所も感じ所も更に之無く候。仔細は一向の他人にてもあれ互の心入れ深く申し合せて、入魂致し我が身の上勝手向きの事までも苦労に仕りてくるるごとく成るものへは此方からも如在を致さずかげうしろにても大切に存じ入りてたとへ手前の事を差置ても其の人の用ならばと思ふ如くならでは叶はず。況や我親として慈愛の心深く候て仕様仕方共に残る所も無き様子なるにおいては其子の身にていか程孝養に力を尽くし候とも是にて事足れりと存ずる義は之無き筈に候。爰を以て只尋常の孝行にては感じ所も之無しとは申すにて候。其親の心だてすなをならず剰へ老ひがみてくだらぬ理屈だてばかりを申剰へ他所他門の者に出合ては倅めが不幸奴なれば老後に存じよらぬ苦労を仕り思召の外迷惑致すなどと申ふれて我子の外聞を失ふをも何共存ぜぬごとく分別相違致したる親をも親とあがまへ取りにくき機嫌をとり偏に親の老衰をかなしみなげきて毛頭も如在を致さず孝養の誠を尽くす如くなるを孝子の本意とは申にて候。此の如くの意地ある武士はたとひ主君をとり奉公の身と成候ても忠義の道をも能弁へるに付き其主君の御威勢盛なる時は申に及ばずたとひ御身の上に不慮の義も出来御難儀千万と之在る節は猶以て真忠を励し見方百騎が十騎に成十騎が一騎に成迄も御側を立ち離れず幾度といふ事もなく敵の矢面に立ちふさがりて身命をかへりみぬ如くなる軍忠をも相勤めずしては叶はず候。仔細は親と主と孝と忠といふ名の替る迄にて心の信に二つは之無し。去によって古人の詞にも忠臣は孝子の門に求めよと之有る由也。たとへ親へこそ不幸に候共主君へは忠貞は格別也と申如くの義は決して之無き道理に相きわまる也。己が身の根本たる親へさへ孝を尽くす義のならざる如くの未熟なる心を以て天倫にあらざる主君の恩義を感じて忠節を尽くす事の罷成べき仔細とては更に之無く候。家に在りて親へ不幸の子は外へ出で主君を取り奉公致すとても主君のえりもとに目を付少しにても左まへになり給ふとみては頓て志を変じつば際に成ては矢間をくぐり或は敵へ内通降参の不義を仕るとあるは古今の定まり事也。恥つつしむべき所也。初心の武士の心得の為仍件の如し
武士という者は、親に対する孝行をどれほど尽くすかによって、その値打ちが決まるものである。たとえ、その知恵、才能が人に勝れ、弁舌さわやかで容貌がよくあろうとも親に対して不幸なものは、なんの用にも立ちはしないのである。
そのわけはといえば、武士道においては、本と末ということを知って、それに正しく対処することを大切に考えるからである。本末についての理解が浅くては、義理を知ることはできず、義理を知らぬものは武士とは言えない。
さて、本末を知るということだが、親とは我が身の本であって、わが身は親の肉体の末である。ところが末であるところのわが身を第一に考える心があると、それが原因となって、親を粗末にあつかうようになるのである。これが本末を知らぬということなのだ。
また、親に孝行を尽くすといっても、それには二通りの姿がある。
第一には、親の気持ちが素直であって、心からその子を愛し、教育にも熱心で、その上人並み以上にすぐれた知行に添えて、武具、馬具、家財までも不足なく取りそれろえ、よい嫁までも迎えて、なに不自由なく家督を譲り渡してから隠居して引き籠った親などに対しては、その子が、通り一遍の孝行をしたぐらいでは、別に感心することもなく、ほめることとてもない。
それというのも、全くの他人同士であっても、お互いの気持ちが深く通じ合って親密となり、こちらの生活上の事までも心配してくれるような人に対しては、こちらもいいかげんにはできず、人目のないところでもその人の事を第一に考え、自分のことはあとまわしにしても、その人のためならば・・・という心になるものである。ましてや、自分の親である人が、深い愛情をもって物心ともにあますところなく養育してくれたとするならば、存子どもとしは、どれだけ孝行をつくそうとも、これで十分と考えてよいものではない。それであるから、ひととおりの孝行であっては、感心することも、ほめることもできないというのである。
これに対して、親の気持ちが素直ではなく、しかも、もうろくしてひがみっぽくなり、くだらぬ理屈ばかり言って、息子には何一つ譲ってやったわけでもないのに、生活に苦しむ息子に養われているのだから満足すればよいものを、その分別もなく、朝夕の飲み物、食物、衣類などについても、いろいろのねだり事ばかりいい、さらには他家の人に行き合えば、”倅が不幸者なので、この年になって思わぬ苦労、お察しのつかぬほどの目にあっております”などと言いふらして、わが子が面目を失うことも少しも構わない・・・。このような心得違いの親に対しても、親として尊敬し、取りにくい機嫌もとり、ただただ親が老衰したことを悲しんで、毛頭も粗末にせず、孝行の誠をつくすような者こそ、真の孝子ということができるのである。
このような根性のある武士であるならば、主君に奉公する身となっても、忠義の道をもよくわきまえるものである。其の主君の威勢のさかんなときはいうまでもないが、たとえ主君のお身の上に思わぬ事態が起こり、非常な苦境に立たれたようなときにも、かえってますます真の忠節を尽くし、味方百騎が十騎となり、十騎が一騎となってまでも、主君のお側を離れることなく、幾度となく敵の矢面に立ちふさがって主君をお守りするといった忠義の武勇を勤めるに違いない。
それというのも、親と主、孝と忠と、その名が変わっているだけで、そのもととなる心の誠はただひとつなのだから、したがって、古人の詞にも“忠臣は孝子の門に求めよ”といわれているという。
たとえ親に対しては不幸ではあっても、主君への忠義はまた別のことであるなどということは、決してあり得ない道理である。自分の身の根本であるところの親に対してさえ孝行を尽くすことができぬほどにいたらない心で、自然のつながりでない主君の恩を身に感じて忠義を尽くすことができるわけはないではないか。家において親に不幸な子は、世間に出て主君に仕えるようになっても、絶えず主君の威勢を気にして、もしも落ち目になったとみれば、さっさと戦場を捨て、あるいは敵方に内通、降参などの不忠を働くというのが古今を通じての例である。誠に恥ずかしく、戒むべきことではないか。
以上、初心の武士の心得の為に申すものである。
【解説】
目上の者に対する無条件の忠誠心こそ、封建の世を支えるバックボーンであった。子としては親であるがために、臣としては主であるがために、孝に励み、忠を尽くすのであって、親や主君の人格や能力を問題とすることはそもそも間違っているという思想が直截に説かれている。このような思想は現代に通用しないことはもちろんだが、それは戦国乱世の武士たちの思想とも大きく異なっている。
親と子は血によって結ばれている。ここに生き生きと記されているような不出来な親であっても、子として親子の縁を切るわけにはいかない。親子であるという動かし難い事実を基礎として、ここに無条件の忠誠心を育て、その論理を発展させて、ついしばらく前まではすこぶる不安定な結びつきしか存在しなかった君臣の間の絆を強めようというのが、ここに説かれているところである。
武士たらん者は義不義の二つをとくと其の心に得徳仕り専ら義をつとめて不義の行跡をつつしむべきとさへ覚悟仕り候へば武士道は立申にて候。義不義と申は善悪の二つにして義は即善不義は即悪也。およそ人として善悪義不義の弁への無しと申す事は之無く候へ共人に義を行ひ善にすすむ事は窮屈にして太儀に思はれ不義を行ひ悪をなす事は面白く心易きを以てひたすら不義悪事の方へのみながれて義を行ひ善にすすむ事はいやに罷成事にて候。其身一向のうつけ者にて善悪義不義差別のわきまへも之無きものの事は論に及ばず既に己が心にも不義の悪事とある了簡をば仕りながら義理をちがへて不義を行ひ候とあるは武士の意地にもあらず近頃未練の至り也。其本は物に堪忍情の薄きが故と申可く候。堪忍情がうすきと申せば少しは聞よき様に候へ共其根元を尋れば臆病のきざしより起こるが不義也と分別尤也。去に依て武士は常に不義を謹み義に随ふを以て肝要とは申にて候。且又義を行ふと申に付て三段の様子之有り。たとへば我近付の者と同道して他所へ行く事有り。其のつれの者百両の金子を持参致し来りて是を懐中致しありくも苦労に候間後刻罷帰り候迄爰許に預け置度と申に付其金子を請取人の存ぜざる如く致し置て其物とつれ立参りたる先にて件のつれの者大食傷又は即中風などの急病を煩ひ出し即時に相果候如くの義之有る時は右の金子を預けたる者も預かりたる者も外に知りたる者とては一人も之無き義也。然るに扨も笑止なる仕合かなと痛ましく思ふ心より外には毛頭も邪念なく右預り置きたる金子の義を其ものの親類縁者などへ申理り早速返し遣す如くなる是誠によく義を行ふ人と申可く候。次に右の金主とても大体の知人迄にてさのみ入魂と申すあいさつにても之無く預かりたる金子の義を外に知りたる者もなければ何方おり問尋有るべき事にもあらず折しも我手前も不如意なれば幸の義也是は沙汰なしに致し置きても苦しかるまじき物かと邪念の差出候を扨もむさき意地出でたる物かなと我と我心を見限り急度分別を致しかへて件の金子を返すごとくなるは是を心に恥て義を行ふ人と申べく候。扨又右の金子預かり置き候を妻子召使の者の中に於て一人にても存じたる者之有るに付其者の思はくを恥じ後日の沙汰を憚りて其の金を返すごとき是人を恥じて義を行ふ人と申す可く候。此の如くなるは一向に知たる人さへなくば如何有るべきやと少しは心許無き様子ながら是も又義を知りて行う人に非ずとは申がたし。惣じて義を行ふ修業の心得と申は我妻子召使を始め身にしたしき輩の心の下墨を第一に恥慎みそれより広く他の譏り嘲りを恥入て不義をなさず義を行ふ如く致しつけ候へば自然とそれが心習と成て後々は義に随ふ事を好み不義を行ふ事をいやに存るごとくの意地あひ心だてと罷成可く候は必定也。扨又武勇の道においても戦場に臨み生得の勇者と申はいか程矢鉄砲の烈しき場所をも何共おもはず忠と義との二つにはまる其の身を的になしてすすみ行く心の勇気は形にあらはるるを以て其ふりあひと見事さとかく申されざるごとく之有るもの也。又人によりては扨もあぶなき事哉是はいかが致してよからんと胸もとどろき膝節も少しはふるふといへ共人もゆけばこそ行中に一人ゆかずしては味方の諸人の見る目もあれば後日に至りて口のきかれぬ所也とて是非なく思ひ切って件の勇者と並びてすすみ行くごとくなる者も之有り。右に申す生得の勇者に合せては遙に劣りたる様に之有候へ共此者とても幾度も左様の首尾手筈に出合て場をふみ重ね物馴れ候へば後々は心も定まり生得の勇者にもさして劣る事なきごとくなる武偏誉の剛の武士共罷成らずしては叶はず。然れば義を行ひ勇を励むとあるに付てはとかく恥を知ると申すより外の心得とては之無く候由。人は不義共いへ大事なしと申して不義を行い扨も腰抜けかなと申して笑わばわらへ大事なしと云て臆病を働く如くなる者には何を申教べき様も之無く候。初心の武士の心得の為仍て件の如し。
040
武士というものは、義と不義の二つの区別をしっかりとその心にとどめ、ひたすら義を行うようにつとめ、不義の行為を慎むよう決意しさえすれば、武士道を全うすることはできるのである。
義、不義とは善と悪とであり、義はすなわち善、不義はすなわち悪である。 およそ人として、善悪、義不義の区別が判らないなどということはないのであるが、誰しも義を行い、善に励むというのは窮屈で苦労なことと感じ、不義を行い悪事をすることはおもしろく気やすいものであるから、ひたすら不義、悪事のほうへばかり走って、義と善につとめるのはいやになってしまうものなのである。
もし、当人がまったくのばか者であって、善悪も義不義もすべて区別がつかぬというのであれば論外であるが、自分の心では、これは不義の悪事であると承知しておりながら、義理を踏み外して不義を行うなどというのは、武士の心構えとも思えず、まことに残念というほかはない。
そのようになる根本はといえば、物事に耐える精神が弱いためであるといえよう。耐える精神が弱いといえば、少しは格好よく聞こえるが、さらにその根底は、臆病な心から不義が生まれるのだと理解してよいであろう。
それであるから、武士は、常に不義を慎み、義の道を進むことが大切だというのである。
041
また同じく義を行うといっても、それには三つの段階がある。 たとえば、知り合いの人と同行して、どこかへ行くとする。その連れの人が百両の金を所持して懐中に入れているのだが、持ち歩くのは大変だから、戻ってくるまでの間、あなたにお預けしておきたいというので受取人には、内緒にして金を預かり、出かけて行った先で、その預けた人が食中毒なり卒中なりの急病にかかり、そのまま亡くなってしまったとする。この場合、金を預けた、預かったということは、他には誰一人知らぬ道理である。
こうした時、さて気の毒なことになったと痛ましく思う心のほかには毛頭も邪念を起こすことなく、預かっていた金は、その人の親類縁者などによくわけを話して、すぐに返してやるようであれば、それこそ真に義を行う人ということができよう。
次に、その金の持ち主といっても、一応の知り合いというだけで、大して親密な間柄でもなく、金を預かったことを他に知るものもいないのだから、こちらから問いただすこともない。ちょうど自分も不自由している折でもあり、これは好都合なこととなった、放っておいても差し支えあるまい・・・・などと邪念が起きかかるのだが、なんと醜い心が出てきたものよと、自分で自分に愛想を尽かし、きっぱりと心を入れ替えて、その金を返すようであれば、それは良心に恥じて義を行う人ということができよう。
第三には、損金を預かっているということを、妻子なり家来のうちに一人でも知っているものがあるために、その者の思惑に気兼ねし、後にうわさになることを恐れて、その金を返すというのは、人に恥じて義を行う人ということができよう。こうした場合には、もし誰一人知る人がいないときにはどうなるであろうと多少心細くもあるが、それでも一応は義を知り、これを行う人といえないわけではない。
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一般に、義を行う修行の心得といえば、わが妻子、召使をはじめ、身近な人たちから、軽蔑されることをまず恥じて身を慎み、さらには広く世の人々から軽蔑を受けぬようにと考えて不義をせず、義を行うよう習慣付けていけば、それが自然と習慣となって、後には義を好み、必ずや不義を嫌う心がけができてくるものなのである。
また武勇の道においても、生まれつきの勇士というものは、戦場に臨んでは、矢や鉄砲がどれほど激しかろうとも、ものともせず、忠と義の心になりきったわが身を的として、突き進んでいく。その勇ましい心は、おのずと形にあらわれ、その振る舞いの見事さはなんともいえぬものである。
しかしまた、人によっては、さても危ないことだ、これはどうしたらよかろうなどと、胸もとどろき、膝もいくらかは震える有様とは言いながら、皆が行くのに自分ひとりが行かぬとあっては、味方の人々の見る目もあり、後日、口も聞かれぬ始末になろうというので、やむなく決意をして、右の勇士とともに進むというような人もいるものである。これは、右に上げた生まれつきの勇士に比べては、はるかに劣っているように思えるけれども、このような人であっても、こうした場面に幾度となく出合い、場数を踏んでそれに慣れていくならば、やがては度胸も据わり生まれつきの勇士と比べても、さして劣ることのない武勇の誉れ高い天晴れの武士に、必ずやなれるのものなのである。
したがって、義を行うにも、勇を励むにも、まず恥を知るという以外に道はないのである。人に不義といわれようともいっこうに気にすることなくそれを重ね、腰抜けと笑われても、笑わば笑え、かまわないなどと臆病なまねを続けるようなものに対しては、なんとも教えるすべがない。
以上、初心の武士の心得のために申すものである。
【解説】
本書の題名が「初心集」なのだから、当然といえば当然だが、著者・友山は、読者として想定する武士たちを決してそう立派な存在とは考えていなかったようである。
生まれつきの義人とか勇士などというのは、そもそも例外的な存在であって、大部分の武士は、常に堕落の可能性を持っているというのが彼の認識である。そして、その堕落を防ぐ最大の歯止めは”人々の下げ墨”を恥じる心であり、この廉恥心を失いさえしなければ、次第によい習慣をつけて一歩一歩、修養を積むことができると考えているのである。
人間の醜さ、弱さについてのリアルな認識と、それを克服するための筋道を明らかにしたこの考え方は、武士道における”恥”の思想の原型と言えよう。こうした思考は、日本人の精神の根底に、いまだに、大きな影響を及ぼしているが、一人一人の内面的な主体性を養うことより、専ら他人の見る目、いわゆる世間体を気にするひ弱な精神を生む一因ともなっている。
節義・節操・悖るについて
武士道の学文と申は内心に道を修し外かたちに法をたもつといふより外の義は之無く候。心に道を修すると申は武士道正義正法の理にしたがひ事を取斗らひ毛頭も不義邪道の方へ赴かざるごとくと相心得る義也。猶又道の噂の委き事をば聖賢の経伝に明らかなる仁に出合て委細に学問尤もに覚る。扨又形に法をたもつと申に付て二法四段の仔細之有り候。二法とは常法変法也。常法の内に士法兵法あり。変法の内にも軍法戦法有りて都合四段也。先士法と申は朝夕手足をも洗ひ湯風呂に入て其身を潔く持なし毎日早朝に髪をゆひ節々月額をも致し時節に応じたる礼服を着し刀脇差等の義は申に及ばずたとひ寒中たり共腰に扇子を絶さず客対に及ぶ時は先の人の尊卑に随て相当の礼儀を尽くし無益の言語をつつしみたとひ一椀の飯を食し一服の茶をすするに付きても其さま拙からざるやうにと油断なく是を嗜み其身奉公人ならば非番休息の透々には只居を致さず書をも読習い物をも書覚へ其外武家の故実古法に至る迄是を心にかけ行住坐臥の行義作法共に流石武士かなとみゆるごとく身を持なす義也。次に兵法と申はいかに士法において申所は之無くとても武士として兵具の取用ひ様に不鍛錬にしては本意にあらざる義なれば腰刀を抜ての勝負を致し覚える義を以て兵法の最初と致し或は槍をつかひ馬に乗り弓を射鉄砲を放し其外何によらず武芸とさへあれば数寄好て稽古仕り手練を極めて其身の覚悟と致す義也。右士法兵法の二段の修行さヘ相調ひ候へば常法においては何の不足も之無く候に付大体の人の目には扨てもよき武士かなよき仕ひ料かなと見へ申也。然りといへ共もと武士は変の役人也。変とは世の騒動也。左様の砌は甲冑礼なしと申て日比の士法をばしばらくとり置常には御主君様殿様など申す御方を御大将と申し家中大小の侍共の義をば軍兵士卒などと呼び上も下も礼服をぬぎ捨て身には甲冑をまとひ手に兵仗を携へて敵地に進み向ふ様体をさして軍陣と申候。是に付て種々の仕様仕方の習ある事を名付て軍法とは申也。是を存ぜずしては叶ふべからず。次に戦法と申は敵味方出合て既に一戦に及ぶ刻味方備の立配り人数あつかひの致し様其図に当る時は勝利を得其致し方悪き時は勝利を失ひ敗北するは定り事なり。其仕様仕方に習口決あるを名付て戦法と云。是又知らずしては叶ふ可からず。変法に二段有りと云是也。右常法変法四段の修業成就の武士を指して上品の侍とは申にて候。常法の二つ斗相調ひ候ても一騎前のつとめにおいては事済申義に候へ共変法の二段に心付薄くしては士大将者頭物奉行等の重き職役と成ては其用事たり兼申可く候。爰の所を能く分別致しとても武士をたて罷在るに付ては士法兵法の義はいふに及ばず軍法戦法の奥秘に至る迄是を修業致し及ばぬ迄も一度上品の士と罷り成らずしては差置間敷ものをとある心懸肝要の所也。初心の武士の心付の為仍て件の如し。
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武士道における学問とは、内面的にはたその心を道によって正しくし、外面的にはその行動を道に基づいたものとするということにつきる。
心を道によって正すとは武士道の正しいあり方に従って物事を判断し、道を踏み外す方向には毛頭も傾かぬように心がけるとの意味である。そのためには、聖人君子の書き残された書物にくわしい人について、正しい道についての詳細を学ぶことが望ましい。
また、行動を道に基づいたものとするということについては、二法、四段の内容がある。その二法とは常法と変法であり、常法のうちには士法と兵法が、変法の内には軍法と戦法とがあって、計四段となるわけである。
まず士法とは、朝夕手足を荒い、入浴をもして身体を清潔に保ち、毎日早朝に髪を結い、時々月代をも剃り、季節に応じた礼服を身につけ刀、脇差しに心を配ることは勿論、寒中であっても腰に扇子を絶やさない。また客に応対する時は、相手の身分にふさわしい礼儀を尽くし、無用の言葉を慎み、一椀の飯、一服の茶をいただくにも、その様子が無様とならぬように心がける。奉公人の身分であれば、非番、休息の際にも無駄に過ごさず、書物を読み、手習いに励む。そのほか、武士としての故実慣例にまで心を配り、日常の立ち居振る舞いまでも、さすがは武士といわれるほどの態度をとる。これが士法ということである。
次に兵法というのは、右の士法の面においてはどれほど申し分ないとはいっても、武士であるからには、武器の取り扱いができなくては無意味である。そこで腰の刀を抜いての勝負に習熟することからはじまって、槍術、乗馬、弓、鉄砲、そのほか何によらず武芸という武芸に興味を持って鍛錬に励み、これに熟達して自信をつけること、これが兵法の修行なのである。
048
右にいう士法、兵法の二つの修行さえできあがっていれば、平時においては、何の不足もなく、一般から見ればまことに立派な武士、よいご家来と思われるものである。
しかしながら、本来、武士とは"変"のときのための職分である。"変"とは世間の騒動のことをいう。
そのような場合には、"甲冑礼なし"のことばどおり、日ごろの士法はしばらく離れて、普段ならばご主君様、殿様などとお呼びしている方を御大将と申し上げ、家中大小の侍たちを軍兵、士卒などと呼び、上下ともに礼服を脱ぎ捨てて身には甲冑をまとい、手には武器を携えて敵陣に向かって進む。この態勢を軍陣という。こうした際の、さまざまなやり方についての教えを軍法と呼ぶのであり、これを知らぬということがあってはならない。
次に戦法というのは、いざ、敵と味方が出会って一戦が始まろうというときに、味方の陣の配置、兵の動かし方に成功すれば勝利をうることができ、これに失敗すれば勝利を失って敗北するというのが決まりである。そのやり方についての教え、秘伝といったことを戦法といい、これもまた知らずに済ましているわけにはいかぬものである。この軍法、戦法の二つにより、変法には二段ありというわけである。
右に述べた常法、変法の四段の修行を完成した武士を最高の侍というのである。常法の二段だけが身についていれば、自分ひとりだけでの勤めならば、間に合うものであるが、士大将、物頭、奉行といった重い職分につくには、変法の二段についての心得が不十分であっては、お役に立つことができない。
ここのところをよくよく考えて、どうせ武士の身分にあるからには、士法、兵法についてはいうまでもなく、軍法、戦法の奥義にいたるまでも修行につとめ、なんとしても最高の侍と呼ばれるまでになりたいものと、及ばぬまでも努力する心がけが大切なのである。
以上、初心の武士の心得として申すものである。
上古の武士の義は弓馬とて申て大身小身共に弓射馬に乗事を以て武芸の最上と仕りたる由也。近代の武士の義は太刀鎗扨は馬術を肝要と仕り心懸て稽古仕る如く之有り候。其外弓鉄砲居合やわらなど申万の武芸共に年若き武士は朝暮の務と致し習ひ覚るごとく尤也。年ふけて候ては筋骨も弱く成申に付て何を習ひ度と存候ても心にまかせぬものにて候。就中小身の武士は馬は能乗習ひたとひ無類の過物又は手を嫌ふ馬といへ共之をあまさぬごとく乗こなし申様に有り度事にて候。仔細を申に乗あひよくて馬形も宜き馬とあるは第一世間にまれ也。たとへ有るに致しても大身武士の乗料となるを以て小身の武士の厩につなぐ事は成兼申候也。其の身馬術にさへ達し候へば是はよき馬なれ共過物とか又はくせ抔有りて人の手を嫌ふごとくの馬を見立て馬代下直に買求て乗料と致す時はいつとても身上に過たる馬斗持て罷有るごとくこれ有るものなり。惣じて馬の毛色毛疵を強く吟味致すとあるも大身武士の事にて小身の武士は我性に合ぬ毛色の馬をもいとはず毛疵有て人のいやがる馬をもいみ嫌ふ事なく馬さへよくば求めて繋ぐ心得尤也。昔信州村上家の侍大将に額岩寺と申て三百騎斗持て弓矢巧者の武士あり。自分の乗料家中の馬共に世の人の大にいみ嫌ふ毛疵といへども少しも忌嫌ふ事なく求めつなぐごとくの家風に致しなし家中の諸侍に馬場せめをさする事なく五十騎も百騎も城下の広野へ罷り出で額岩寺真先に進て原中を縦横十文字に馳回るに馬より落るかと見れば其のまま飛乗のるかと思へば且飛おりなど仕る義を自由に致すを以てよき乗手と申てほめ不達者なるを馬下手と沙汰仕候作法也。去に依て其の時代甲州武田信玄の家中においても信州額岩寺がごとくなる敵へは大物見必遠慮との取り沙汰は額岩寺身に取りて大きなる武道の誉也。且又武士の戦場へ乗る馬は中の上かんにしてたけは一寸より三寸迄頭持は中頭にてともは中のともとこそ申伝へ候処に乗替もたぬ小身武士の壱匹馬とある考もなく上かんにして大たけの馬をほしがり頭持はいか程もたかきにあかずともは一間ともなど申て何程も広きを悦び前をとらせんとてはうでの筋をのべ尾をささするとて尾筋をきり生まれもつかぬかたわ馬となして悦び申とあるは悉皆武士道の本意においては不案内の 不吟味より起こる物数寄也。仔細を申に四足の筋をのべたる馬は山坂へ懸り長途を乗あるいは川を渡す時に早く草臥て用に立たず尾筋をのべたる馬は溝堀切などを乗越るに定りて尻がいはづれやすし。ともお広過たるは細道を乗るに宜からずと古来より申伝ふる所也。且又武士の身にて馬数寄を致すとあるは勝れてよき事にて候へ共是にも善悪のふたつこれ有り。仔細を申に昔の武士の馬数寄を致したると申は若事の変も之有る刻具足を着し指物をさし身重く成ては歩行の達者とてはならざるに付戦場のかけ引きは馬に非ずしては叶はず。然ば我両足のかはりを務る馬也。若もの事もあらば此馬に乗て先がけを致し軍忠をぬきんでべき也。其上馬上にて敵と出合勝負に臨む時は事の様子により馬も深手を負いて命を落とすごとくの義も有るまじきにあらず。然ば畜生ながらも不憫の至りと思ふ心を以て常の飼料なではたけにも念を入れ心を用ひたる事にて候。今時の馬数寄と申は十人が九人迄も人の持ちあぐみたるくせ馬などを下直に買求めて其曲を乗直し或いは田舎だちの駒などを見出しては是を乗付手入を致して持立望むものさへあれば値段を高く売払を以て本意と仕るに付いつとてもよき馬をつなぎ置事罷成ず悉皆馬喰中次の意地合にひとしき様子なれば一向馬数寄をせぬには劣り也。初心の武士の心得の為仍て件の如し。
遠い昔にあっては、武士道を弓馬の道といったほどで、大身小身共に弓を射、馬に乗ることを武芸の中心としていたということである。
現代における武士は、剣術、槍術、さらには馬術を重んじて、修業につとめるようになってきた。
そのほか、弓、鉄砲、居合、柔術などといった各種の武芸についても年若い武士としては、朝夕のつとめとして習熟することが望ましい。年を取ってしまってからでは、筋骨も弱まってしまうので、何を習っても思うようにはいかぬものである。
とりわけ小身の武士としては、馬術については十分な修練を積み、たとえ非常に欠陥があったり、または手に負えぬような馬であっても、いっこうにさしつかえなく乗りこなせるようでありたい。
それというのは、乗り心地がよっくて、しかも外見の善い馬などというものは、めったにいるものではなく、たとえいたとしても、大身の武士の乗り料となって、小身の武士の厩につなぐことは出来ないからである。
馬術さえよく身につけているならば、これはよい馬だが欠陥があるとか、悪癖があって人に乗られることをいやがるような馬を見つけて、安価に買い求め、乗り料とするならば、いつも財産不相応なほどのよい馬をもっているのと同様なわけである。
そもそも、馬の毛色の好き嫌いや、毛の色取りの欠陥などを大きく問題とするのは大身の武士のすることであって、小身の武士としては、自分の好みに合わぬ毛色や、色どりに欠陥があって人の嫌うような馬であっても、乗り料としてすぐれてさえいれば、これを買い求めて飼う心がけが望ましい。
昔、信州村上家(旧つ葛尾城主・武田信玄に破れて越後に逃れた)の侍大将に、額岩寺某といって、三百騎ほどの手勢を持つ、合戦上手の武士があった。彼は自分の乗り料にも家中の馬にも世間で嫌うような毛色の馬をも平気で買い求めて飼うような家風をつくりあげ、乗馬の練習には馬場を使わず、城下の広い野に五十騎、百騎とうちつれて出かけ、額岩寺が先頭を切って原の中を縦横十文字に駆けめぐり、馬から落ちるかと思えば飛び乗り、乗るかと思えば飛びおりるなど自由自在に乗りこなすものほめ、未熟なものを馬下手としたものである。こうしたわけで、当時、甲州の武田信玄の家中においても、信州の額岩寺のような敵に対しては、厳重な偵察をせねばならぬといわれていたが、これは額岩寺にとて非常な武道のほまれといえよう。
又、武士が戦場で乗るための馬は、気性は中の上ほど、体高は四尺一寸から三寸まで、頭の高さは中ぐらい、後脚の間隔は中程度がよいとされている。ところが予備の馬を持つことも出来ぬ小身の武士が、ただ一頭の持ち馬を選ぶのに、気性はげしく体高が高く、頭の位置も高く、五脚の間が一間もあるような大きなものを喜び、前足の筋を切ったり尾を切るなどして、生まれもかつぬかたわ馬にして喜んでいるなどは、すべて武士本来の道をはずれた無知から生じた道楽といえよう。
なぜならば四肢の筋を切った馬は、山道、長途の歩行、あるいは川を渡るといった時に早く疲れて役に立たない。又尾を切った馬は、溝や堀などを飛び越えるときに、決まって尻がいがはずれがちなものである。また五脚の間が広すぎる馬は、細道を通るのによろしくない、というのが古来からいわれているところだからである。
又武士の身として、馬に趣味を持つというのは、たいへん結構なことではあるが、これにも善悪二つのあり方が見受けられる。
昔の武士が馬を愛してというのは、一旦、戦いが起こったならば、甲冑をつけ、旗指物をつけて体が重くなり、自由に歩行することができず、戦場での働きは馬上でなければならなかったから、我が両足の代わりとして馬を重んじたのである。また場上で敵と戦う場合には、事と次第によっては馬も重傷を負い、命を落とすことさえある。そのように思えば、畜生ながらも哀れと思って、日頃の餌や手入れにも、何かと念を入れ、心を配ってきたものなのである。
これに対して、近頃の馬が好きだというもののうち十人に九人までは、人が持て余している悪癖のある馬を安値に買って曲を直し、あるいは田舎育ちの丈の低い馬を見つけてきては手入れをし、調教をして仕立て上げ、望むものが有れば高価に売り払うのを目的としているのであるから、自分の厩には、いつもよい馬を置くことはできずにいる。これではまるで馬商人、仲買人同様の根性であって、馬の趣味をまったく持たぬよりも、さらに困ったことである。
以上、初心の武士の心得として申すものである。
【解説】
太平の世が続くなかで、戦国以来の風習が次第と形式化し、その本質が見失われていくことに、友山は警鐘を鳴らしている。合戦の道具であったはずの馬が、単なるステイタス・シンボルに代わり、さては利殖の手段とさえなっていく世相は、現代のモータリゼーションと一脈通ずる愚かしさを感じさせる。
忠孝の二つの道はあながち武士の身の上斗に限りたる義にても之無く農工商の三民の上においても父子主従の交りには忠孝の道を尽すより外の義は之無く候。然りといへ共百姓職人町人などの上には平生の行儀作法を正すとある義を次に致したとへば人の子人の家人たる者が主親と同座を致すとても膝を組ぬき入手を致し物をいふにも手をつく事もなく下に座して居る主親へ立ちながら物を申其外万事に付き無礼無作法なれ共それにはかまひなく主親を如在に致さず大切に思ふ心ざしの信をさへ尽し候へば事済申とあるは是三民の輩の忠孝也。武士道においてはたとひいか程心に忠孝の道を守り候ても形に礼儀を尽くさずしては忠孝の道に全くかなひたるとは申されず候。但主君の御事は申に及ばず親親へ対し候ても目の前においての慮外緩怠とあるごとくの義は武士道を立る程の者は仕る可き様も之無く候。主親の目通りを離れ蔭うしろにおいても聊粗略を致す事なく陰日向なきを以て武士の忠孝とは申にて候。たとへば何れの所に止宿致し寝臥を仕り候共主君の御座の方へは仮にも我足をさしむけず鎗薙刀をかけ置にも切先をさしむけぬごとく仕り其の外主君の御噂にかかりたる義を耳に聞か又は我口より詞に出す時は寝ころび居ても起き上がり平座に居ても居直る如くの行儀作法をこそ武士の本意とは申べきを主君の御座の方と存じながらもすねをさしむけふせりて居りながら主君の御噂を申出或は親の方より自筆の状手紙などを得ても是をいただきて拝見とある義もなく大膝を組みて居ながらも臥せり披見をとげてかたはらへ投げほふり其状手紙にて行燈の掃除を申付る如くの義は是皆後くらき所存にして武士の忠孝の本心に非ず。左様なる心だての者は義理を知ず親疎の弁へなきが故也。他所他門の者に出合いては己が主人の家の宜しからざる義をかぞへあげて演説仕り或いは一向他人にても我に念比らしくいひてくるる者さへあれば是を悦び親兄弟の悪き噂をもつつまずもらさず語り出で嘲り誹謗仕るもの也。去るによっていつぞの程には主親の罰を蒙り何ぞ大いなる災ひに出合い武士の名利に尽きたる死を致すかたとひ生きても生きがひなき風情と成果るかいか様すなをにて生涯を送るとある義は決して之無き道理也。是に付慶長の頃福島左衛門大夫政則家来に可児才蔵と申す武勇の侍あり。足軽大将たるに依って芸州広島の城内くろ金門を預かり一日一夜詰切の番所を勤るに其身極老の義なれば休息の為寝ころび居たる所へ政則の側に召し仕ひ給ふ小坊主鷹の鶉を持参いたし是は殿様の御こぶしの鳥にて候間遣わされ候との御意の旨申述る。才蔵是を承り其まま起上り傍にぬぎ置きたる袴を着し本丸の方へ向ひて是をいただき御礼の義は只今罷上りて申上可也。扨己めはいかに倅なればとて大いなるうつけ奴かな殿の御意ならば御意とは申ずして身共に寝ながら殿の御意をばよくも聞せたりおのれ倅にてなくば仕方もあれ共小僧の義なれば其段はゆるすぞとて大いにしかりければ小僧きもをつぶし急ぎ立帰りて稚児小姓の中にて右の次第を語るに付き政則之を聞給ひて件の小僧を召出し尋ねられければ才蔵が申ぶん残らず申に付それは己が不調法なれば才蔵が立腹尤也芸備両国の侍共を残らず才蔵が心の如く致してほしき物かなそれにては何事もなるにと政則もうされけるとなり。初心の武士の心付の為仍て件の如し。
058
忠孝の二つの道を守らねばならないのは、別に武士だけに限ったことではない。農、工、商の身分のものにおいても、親子、主従の関係は忠孝の道を尽くすことによってのみ作られる。しかしながら、百姓、職人、町人などの場合には、日常の行儀作法は二の次でもよいと言うところが違っているのだ。
たとえば、子供なり召使なりが、親や主人と同席しているとき、胡坐を欠いたり、懐手をしたりする。あるいは座っている親や主人に対して、立ったままでものを言うといった無作法があったとしても、親や主人を粗末にしない気持ちを持って誠実に尽くしていさえすれば、農工商の身分のものは忠孝の道にかなっているのである。
しかし武士においては、たとえ心の中でどれほど忠孝の道を守っていようとも、形の上に礼儀を尽くさぬ以上、忠孝の道を全うしているとはいえない。
主君に対してはいうまでもないが、両親の前においても無作法な振る舞いなどは、武士道を行おうとする者にとって許されることではない。さらには、主君や親の目の届かぬところにおいても、少しもだらしのない態度をとらず、常に礼儀を重んじるのが、武士の忠孝というものである。
たとえば、どこかに宿泊して寝るときにも、主君の居られるほうへは足を向けず、槍や長刀をかけるにも主君のほうへ切っ先が向かぬようにする。また主君のお噂を耳にしたり、自分の口から主君のお噂を口に出すときには寝転んでいれば起き上がり、座っていても居住まいを正すといった作法を守ってこそ、武士本来の心がけといえよう。それに反して、主君の居られる方と知りながら足を差し向け、寝転んだままで主君のおうわさをし、または親から届いた自筆の手紙を押し頂きもせずに受け取って、大胡坐をかいたり、寝転んだりしたまま読んでは傍に投げ捨て、さてはその手紙を使って行灯の掃除をさせるなど、これらはすべて頼りにならぬ心がけによるもので、武士の忠孝の本道を外れた振る舞いである。そのような心がけのものは、義理を知らず、身内と他人との区別がついていないのだ。
このような者は、他家の者に出会っても、自分の主君のお家のよからぬことを並べ立ててはいいふらし、また、あかの他人であっても親しそうに近づいてくれば、喜んで親兄弟の悪いうわさを洗いざらいさらけ出してはあざけったり、非難したりするものである。
そうしたわけで、いつかは主君や親の罰に当たって、何か大きな災難に会い、武士の名誉を汚すような死に方をするか、たとえ生きていても、その甲斐もないような姿となるか、いずれにせよ無事に生涯を送ることは決してできないに違いない。次のような話がある。
060
慶長のころ、福島左衛門太夫正則の家来に可児才蔵という武勇の侍がいた。この人は侍大将として、芸州広島城内の黒鉄門の守備にあたり、一日一夜、ぶっ続けの勤めをしていたが、老体のため、寝転んで休息をしていた。そこへ正則公の傍に召し使われている小坊主が鷹狩の獲物のウズラを持参して、これは殿様の鷹が取った鳥なので下さったものでありますと述べた。才蔵はこれを承ると、すぐに起き上がって、わきに脱いであった袴をつけ、本丸に向かってウズラを押し頂き、「御礼は只今よりそちらへ参って申しあげます」と述べてから小僧に向かい、「そのほうは、いかに子供とはいえ、ひどい大馬鹿者であるぞ。殿様の御意なら御意とまずいいもせず、よくも身共を寝たままにして殿の御意を聞かせたな。おのれ、子供ででもなければ考えがあるが、小僧のことゆえ、許してやるが・・・」と大いに叱りつけた。小僧は肝をつぶして急いで帰り、小姓たちの中でそのいきさつを話したことから、それが正則公のお耳に入った。そこで小僧を呼び出してお尋ねになったところ、小僧は才蔵の言ったことを残らず申し上げた。公は「それは、そのほうの不調法である。才蔵が立腹はもっともであるが、それにしても芸備両国の侍どもの心を、残らず才蔵の心のようにしたいものである。そのようであれば、何事も思うままになるであろうに」といわれたということである。
以上、初心の武士の心得のために申すものである。
農工商の三民と、武士の場合とでは礼儀についての物差しが全く異なっていることは注目に値する。農工商の世界では、親子主従の礼儀といっても、自然な骨肉の愛情や社会的な信頼感さえあれば、別にやかましくいう必要はないとされている。
ところが武士の社会では、上下の間で守るべき作法が厳格を極め、それを護らぬものは、たとえ心に忠孝の志を抱いていようとも、本物ではないというのである。いわゆるタテの社会における秩序の維持のためには、まず徹底した形式の強要が行われ、それが習慣化していく中で、大勢の安定が保証されていくわけである。
主君のお噂を口にするときは、先ず居ずまいを正せという教訓から、旧軍隊内務班教育の悪夢を思い起こす向きも少なくあるまい。
主君を持奉公仕る武士は諸傍輩の身の上に悪事を見聞て陰噂を仕る間敷とある嗜肝要也。
いかんとなれば我身とても聖人賢人にも之無き義なれば多き月日を渡る内には何ぞに付て致損じ心得違いなどもなくてかなふべからずとある遠慮のつつしみ也。就中其家の家老年寄りなどいはれて諸侍の座上をも仕る武士の義は職禄共に重き義なれば其人柄智慧才覚なども職禄相応に之有るこそ然る可き義なるに一向左様之無しなどの批判は理屈の様に聞こへても畢竟不理屈也。其仔細を申に既に天下をもしろし召さるる公方将軍家などの御旗本に於いて加判の老中など申は其の時代数多き郡主城主の中において
主君を持って奉公している武士としては、同僚たちの身の上について悪事を見聞きしても、それを陰で噂をしないという心がけが大切である。なぜならば、ジブにしても聖人賢人というわけでもないのだから、長い年月のうちには、何かのやりそこない、考え違いなども必ずあるということを前もって考えておくのである。
とりわけ、そのお家の家老、年寄りなどと呼ばれて侍たちの上に立つ人々について、「身分、俸禄共に重いのであるから、当然、人格、才能ともにそれ相応でなければならないのに、いっこうにそのようでない」などと批判することは、一間、理屈が通っているようだが、結局は理屈に合わぬことなのである。そのわけを述べよう。
天下を治められる将軍家のもとにおける老中などの人々は、その時代の数多くの大名たちの中から、先ずその人格によって選ばれたのであるから、その職にあるほどの人であれば、さして劣った人がいるわけはないのである。
しかしながら、異国、一群を治める大名の家中においては、俸禄、家柄ともに家老職にふさわしいような侍は、多くの家臣の中にも数多くいるものではない。そこで、厳しく人を選ぶこともでき金、家柄と俸禄から見てふさわしい者の中から、先ずは人並みの物を選んで家老、年寄の列に加えて置けば、次第に職務にも慣れ、年功も経て、後には役を勤めることもできるであろうとの、主君のご判断によって任命される場合もあるわけである。
そのような家老、年寄りの場合には、その身分、責任から見れば、伊佐さあ不足という人がいるのも、あり得ることである。しかしながら、その不足の所を見たり聞いたりして問題にし、何かと批判して非難し、あざけるなどということは、はなはだ心得違いというべきである。
なぜならば、草木についてみても、年によってよく花が咲き、身を結ぶ年もあれば、花も実もよくできぬ年もある。人間についても同様で、賢い親の子に不出来なものが生まれ、そのまた子は親にまさる出来であるといったことは昔からのならいである。
主君の御目から見て、不足なところがお分かりにならぬわけではないのだが、その者の先祖代々の忠義、功績をお忘れにならず、その家柄に応じて重い役職についておかれたのであるから、御家来の身としては、まことにたのもしく、ありがたいことと思あわねばならない。
従って、もし、そうした家老、年寄りの口から、納得のいかない無理を言いかけられ、そのままにはしておかぬと思うときにも、言いたい放題に反論することはひかえて、適当に応答し、そのままにしておくのである。これが、もし主君のお言葉であったならば、どれほどのご無理があろうとも、一言の反論も許されまい。家老、年寄などについても元々主君のご名代の身分であり、その言葉は主君のおことばと同様の意味を持っている。ただ、それにしても、主君と家臣という相違はあるのだから、こちらの一応の考えを、できるだけ穏やかな言葉で述べることは結構であろう。但し、如何にこちらに道理があろうとも、家老、年寄などという重い身分の人たちに対して、ことばに角をたて、いいたい放題のことをいうなどということは、主君に対しても非常な無礼にあたるのだと判断するのが武士の道である。
一方、様々な役に当たる用人などの役目の者は、家系、家柄といった事とは関係なく、家中の多くの侍の中から、その人物だけを見てお選びになるのであるから役目には不足のような者はいないのが当然である。しかしながら、主君のお気に召した者であるため、ゆくゆくは役目が勤まるよう育ててやろうとのお考えによって、まだ若い者に対してお身のまわりの役などを仰せつけられることもあるのである。こうした者の中には、往々にして心得違い、無分別の者もおらぬわけではない。だからといって、それを見聞きしては問題に取り上げ、批難嘲笑することはよろしくない。いかに賢い者であっても、若気のためにお役が勤まらないのだと理解すれば、それですむことである。
およそ、家老、年寄り、用人などという役目は、主君のご判断によって仰せ付けられるのであるから、それらの人々のことを悪くいうことは主君を非難するのと同じこととなる。また、そうした人の力を借りねばならなくなった時には、機嫌を見計らい、手をそろえ、膝をかがめて、ひとえにお願いいたしますなどといわねばならぬ場合が起こらないとはいえない。そのようなとき、ついさっきまでは陰で批難嘲笑していたその口で、いかに用があろうとも、そうしたことは言えたものではない。そのようなことも、前もって考えておくべきであろう。
以上、初心の武士の心得のために申すものである。
主の用心によって、用人は任命されている。用人に対するには、心得違いをしないで、用心し、主の用心を受け止めることであるというのである。真意を理解する力を求めている。
用心は要心とも書く。用人と要人は《重要な地位・職務にある人》の事であり、用人も同じことにあてられたが、《 役に立つ人。働きのある有用な人。》の意味が、つまり働きのニュアンスが強い。
大身小身共に武士の役義と申は陣普請諸両役也。天下戦国のときは明ても暮ても爰の陣彼処の戦と有りて一日たり共武士としては身を安く置事は罷成ず。陣とさへ申せば普請は付合いにて爰の要害かしこの堀切扨ては取手陣城付城杯と申して昼夜を限らぬ急ぎの普請に上下の骨折辛労とあるは浅からざる義也。治世においては陣ということなければそれに随て普請もなし。去るに依って武将の下大小の侍に番役共役使役等其外役々を定められ諸人唯おり役の勤めをさせ指し置かれ候を之が武士の役義ぞと心得肝要の役義たる陣普請の両役の義をば暁の夢にも思い出さずたまさかにも公儀の御普請のお手伝いなど之在る義を承り主君へ仰せ付けられ候て物入り多きを以て家中大小の諸侍へも割り付けになり少し宛出金等之有る時は何ぞ出すまじき物を出すが如悔み呟き申すとあるは畢竟武士の役義においての肝要は陣普請にあるを弁へざる不心懸
より起る也。扨て常式の番役共役使役の義も我が当り前の本番を勤める儀をさへ大きなる難義と心得させる病気と申にても之無きにも出勤断りを申立て同役相番へ助を頼み人に苦労を懸る義をば何共存ぜず或いは旅がけの使には路銀の物入道中の骨折を厭て作病を起こし、その物入苦労を人に譲りその場を逃れてはやがて出勤致し諸傍輩の下墨を憚ることもなく其の外間近き所の共使いとへ共日の中に二度とも出るか又は風雨など激しき時は友傍輩の聞前にて遠慮もなくはかにも立たぬよまひ事などを申しとても骨を折りながら意地むさき勤め方を仕るとあるは、悉皆侍の皮をかぶりたる小者中間に等しき様子也。たとへ何程激しき勤めたりといふ共畳の上の勤番程近き所の共出に走り回り候ほどの義はいと心易き義也。仔細を申すに戦国に生れ合たる武士は毎度軍に罷立ち夏の炎天にも具足の上よりほし付けられ冬の寒風には具足肌を吹通され難儀千万也といへ共其あつきさむきを逃れ凌ぐべき仕形も之無く雨にうたれ雪をかぶりて山にも道にも鎧の袖を敷寝に仕り剰へのみ喰物とても黒米飯塩汁より外には給物も之無き仕合せにて或いは対陣城攻或いは籠城などの辛苦を仕るとあるは難儀とも苦労とも只尋常の事にては有るべからず。爰を以て存ずる時は治世の番役共役使役と有るは申ても心やすき義也。然るに其やすき勤をさへつとめ兼る心にては軍旅の苦しみをたへ忍ぶ義は如何之有るべきやと心ある武士の下墨思ふ所も恥ずかしき事ならずや。武門に生を受けたる身には昼夜甲冑をはなさず山野海岸を住処共仕らずしては叶はざる義なるに天下静謐の時代に生れ合たるが故に高きも卑きも夏は蚊帳をたれ冬は夜着布団にまかれ朝夕好み喰を致して安楽に渡世仕るとあるは大いなる仕合かなとさへ覚悟致し候て座敷の内に番役近所の共役使役などの苦労太義に思はるべき道理とては之無く候。是に付き甲州武田信玄の家老中にて別して弓矢巧者と名を呼れし馬場美濃と申したる侍は戦場常在と申四文字を書て壁間に懸置て平生の受用と仕候由申し伝る所也。初心の武士の心付の為仍て件の如し。
大身、小身を問わず、武士の役目と言えば戦闘と工事の二つである。戦乱の時代にあっては、開けても暮れても、ここの戦いあそこの戦闘という次第で、武士は一日と言えども安楽に過ごすことはできなかった。
又、戦といえば工事がつきものであって、ここの要塞、ああそこの砦、あるいは合戦の場の城、国境の出城など、昼夜兼行の急ぎの工事をせねばならず、上下共にその労苦は並大抵のものではなかった。
太平の世にあっては、戦陣ということもなく、それに伴う工事とてもない。そこで、武将に従う大小の侍に対して、警備、お供、お使い、そのほかさまざまな役を定めて、ただそこにいればよいという程度の任務を与えてあるのだ。ところが、それこそが武士の本来の役目であるかのように思い込み、最も大切な戦闘や工事といった役目については夢にも考えようとしない。時たま幕府で行われる工事のお手伝いが主君に申しつけられ、その出費がかさむために、家中の大小の侍に対しても割り当てが来て、少しずつ金を出すようなことでもあれば、何か出さないでもよいものを出すかのように口惜しがって文句をいったりするのも、結局は、武士の最大の務めは戦闘と工事にあるということを意識しないところから来た不心得である。
又、兵仗の警備、お供、お使いといったお役についても本来、自分の責任となっている勤めを果たすことさえ、えらい苦労のように考えて、大した病気でもないのに、欠勤を願い出て同僚の助けを受け、人に苦労をかけて何とも思わぬ者がある。又遠路にかけての使いと言えば、途中の旅費の出費や、道中の苦労を嫌って仮病を使い、出費や苦労に人をおしつけ、その場を逃れておいて、やがて出勤しては同僚たちに軽蔑されても平気でいる者もいる。又近い場所への音も、お使いであっても、一日のうちに二度にわたったり、風雨の烈しい折などには、同僚たちの聞いているところで役にも立たぬ愚痴を遠慮もなく言い立て、どうせ骨を折る事なのに根性の腐った仕事ぶりを見せたりする。
これらは、すべて、侍の皮をかぶっていても、小者、中間と変わりない態度である。
どんなに激しい勤めとはいっても、畳の上でお勤務や、近所へのお供に出るくらいは、まったく気楽な役目に過ぎないのである。そのわけを述べよう。
戦闘の時代に生まれた武士は、幾度となく戦場に赴いて、夏の炎天には甲冑の上から照りつけられ、冬の完封には甲冑の下の素肌を吹き通されて、まことにつらい思いをしたが、その暑さ寒さから逃れる術とてもなく、雨に打たれ、雪をかぶり、山中や道の上で鎧の袖を敷いて寝たものである。しかも飲食sる者といっては、玄米飯と塩汁のほかにはない有様、また対陣、城攻め、籠城などの苦労は、難儀とも苦労とも、実にひととおりの事ではなかったのである。
このように考えてみると、太平の世の警備、お供、お使いといった役目は、何とも気楽なものである。それなのに、この気楽な勤めさえも勤めきれぬような気持ちでは、戦場の労苦を果たして耐え忍ぶことができるであろうか。心ある武士から軽蔑されはしないかと、恥ずかしく思わなぬものであろうか。
部門の生を受けた身としては、昼夜甲冑を放さず、山野海岸を家として暮さねばならぬものを、天下平穏の時代に生まれたがために、身分の高い者も低い者も夏は蚊帳を釣り、冬は夜具布団にくるまり、朝夕、好みのものを食べて安楽に生活しているのであるから、これを非常な幸福と考えるべきで、座敷の中での警備や近所へのお供、お使いお役などを苦労と思う理由は全くないのである。この事について話がある。
甲州武田信玄の家老の中でも、とりわけ戦上手といわれた馬場美濃守という侍は、「戦場常在」という四文字を書いて壁に掲げ、日常の教訓としていたと伝えられている。
以上、初心の武士の心得のために申すものである。
太平の安逸に馴れきった武士たちの生態は、その辺のサラリーマンにいくらも見本がありそうで苦笑を禁じ得ない。
だが、現実の問題として、戦乱の巷にめぐり合わせる可能性がほとんどない者に対して「戦場の苦労を思え」と如何に説教してみても、「昔は昔、今は今」の答えが戻って来るだけではないだろうかむしろ、太平の世における武士の職分についての自覚を高めることから積極性を引き出すべきだと思えてならないのだが・・・。
昔より出家侍と申しならはし候はいか成仔細を以ての義に成さると分別致し見候へば実も相似寄りたる様子も之有り候。たとへば禅家において何座主何首座杯とある名を付けたるは是皆平僧にて武家にとりては外様組付きの平士と同格也。次に一段品をかへ単寮西堂など申は武家において目付使役侍の組頭或いは徒行頭等の諸役者に等しきもの也。扨又同じ出家ながらも色衣の法服を身にまとひ手に払子しっぺいを持て大勢の大衆を接得致され候を長老和尚と申候は武家においては自分指物をさし或いは羽織采配などをゆるされて士卒を引き廻し軍の下知をなす役人を名付けて侍大将足軽大将扨ては弓矢の六奉行など申武士に同じき 様子也。右の次第を以て考へ候へば釈門の家風も武門の作法と相似たる所之有るを以て出家侍とは申歟にて候。但学問の勤方においては釈門の同宿共の勤め方に合わせては武家の同宿の勤め方は遙かに劣りて覚へ候。其仔細を申に釈門の作法はいまだ平僧にて罷り在り候内に師匠の手前を離れ諸寺諸山を遍歴仕り余多の学匠明師にも出会い参禅参「らぬすむ得の功を積たとへ単寮西堂又は長老和尚に経上がり本寺本山の住職を務る身と罷成ても少しも恥ずかしからぬごとくに学問を致しきわめて出世の時に至るを相待罷在ると申は尤至極なる修業の致方と申は尤も至極なる修業の致方と申す可く候。武家においても左様にこそ有りたきことに候へ共武家の同宿の義は無役の平士にて外様奉公仕り隙にて罷在り候者も親の跡式或いは隠居跡の家督を譲り似合相当の禄も之有るに付衣食住の三つに付何の不足も之無くいまだ年若き者も妻子を持ち朝寝昼寝を業と致し士の常法たる兵法をさへ学び勤る義を致さぬからはましてや手遠なる軍法戦法など申儀には思懸けもなくて一日ぬらりに年月を送る内にそろそろひげ白毛もおひ出でひたい口も禿げ上がりていか様尤もらしき年齢にみゆるを以て役ぬけの撰挙に預かりたとへば使番など申軽き役義に成ても早当座から行あたり同役仲間の介抱を以てとやかくと相勤罷在る内に何ぞむつかしき遠国使いなど之在る時は俄に胸をつき旅行の支度に取りまぜて先輩同役のもとへ通ひ勤労の口伝を受け古来の控覚書などを借用して漸其場所を勤て事をすますとあるは幸にして免たると申物にて本道の事とは申されず候。仔細を申すに武家の諸役義と申すも大かた限り有る儀なれば其身無役の平士にて明け暮れ只居のみを致して罷り在る内にいつ何時如何様の役儀に相付可くも主君の思召しははかりしれぬ義也と覚悟を致し諸役儀の勤め方を連々心に懸我が縁者親類の中に役儀馴れたる功者など之有り候て参会の序ごとには無役の雑談を相止以来の心付にも罷成るべきかと思ひ寄りたる事共をば幾度も問尋て委細に聞覚へ或は古き控覚書絵図等の義もたとへ当分は入用之無く共かり集て披見いたし又は写置如く仕りその役義の勤め方の大筋目を呑込居申候へば何時何役に成ても安き道理にて候。其の上先輩同役などに便りて事を習ひ介抱に預りて事を済ますとあるも常式の時の義也。万一世の変に至りしかも事の急成に臨み候ては人の巧者をたのみ介抱引き廻しに預かる事はならざるに付能もあしくも我ひとり分別にて埒を明るより外は之無く候。就中軍中の使番など申は人数の多少陣取り備立の善悪城の堅固不堅固或は地形の利不利合戦勝負の見切迄をも相心得ずしては叶はず。去に依て軍使役の儀は古来むつかしき様に申習し候。然れ共使役の儀はたとひ我が物見などの致し様に相違の義之有り候ても多分は其の身一人の不覚越度にて事済申候。既に足軽大将より上の役儀に備り采拝を取りて人数を引き廻し合戦の配統を握るとあるは至て重き職役也。其仔細を申に勝手前は人を討負る手前は人に討たるるとあるは古今戦法の定り事也。然れば見方諸勢の死生に懸り申候。然るに其勘弁なくなまじひに采拝免許の役義とあるに高ぶりて諸士の座上を瀆し候は沙汰の限り不届の仕合に候。禅僧などの上にて平僧の時分朝寝昼寝を勤と致して宗旨の学問に怠り出世の年ろう至りあたまのはげたる種を以て長老和尚に経上り身に色衣をまとひ手に払子などを握り余多の大衆を接得致すにひとしき様子也。但し右のまいす和尚の義ははれなる法席に臨みて何ぞ
不埒あれば大衆一同の物笑いとなり其身一人赤恥をかき引込申斗の事にて其下の大衆へ懸る難儀とては之無く候。それとは違ひ武家において侍大将者頭物奉行など申和尚役を務る武士采拝をふり損じ人数の引回し様あしき時は合戦競り合いに勝利を失うを以て味方士卒の身命の障りに罷成其の害をなす事おほい也。爰の所を能々分別仕りとても武家の同宿を相勤罷在る可くとならば、無役の平士にて暇之有る砌より士の兵法の義は申に及ばず軍法戦法の修行迄をも心にかけ伝授を極め外々の役義の事はいふに及ばずたとへ采拝所持の職たり共勤まり兼ねると有る儀のなきごとく学問修業肝要の所也。初心の武士の心得の為仍て件の如し。
昔からひとくちに、「出家と侍」といいつけてきたのは、どういうわけであろうかと考えたところ、なるほど出家と侍とは互いに似通ったとこらが見受けられる。
例えば、禅宗の方で、何々蔵主、何々首座などと呼ばれているのは、一般の僧であって、出先、末端の部署で組に所属している一般の武士と同格である。次に一段、階級が変わって単寮、西堂などと呼ばれているのは、武家でいえば目付、あるいは使い役組、徒士組などの組頭などの任にあるものと同じである。さらに同じ出家とはいっても、色のついた法衣を身に纏い、手には払子、竹箆を持って多くの弟子たちに説法するほどの人を長老、和尚などというが、これは武家にあてはめれば、わが家の指物を立て、陣羽織、采配などを許されて士卒を指揮し、合戦の命令を下す士大将、足軽大将、あるいは弓矢の六奉行(武者奉行、旗奉行、長持奉行、各二人の総称)などと呼ばれる武士と同じようなものである。このような点を考え合わせてみると、仏門と武門とは、そのしきたりから見て互いに似たところがあるので、「出家と侍」などというのであろうか。
但し、修業のあり方という点から見れば、修業中の武士のありさまは、同じく修業中の仏門の人々から見て、はるかに劣っているように思われる。なぜならば、仏門においては、まだ並みの僧の身分にあるうちに師のもとを離れ、さまざまな寺を巡り歩いて多くの学僧名僧の教えを受け、座禅の修行を積んで、将来、単寮、西堂、または長老、和尚の身分になって本山の住職を勤めるようになっても、少しも恥ずかしいことがないほどに教えを極めつくして、のちの出世を待つのである。これは修業のあり方としては、まことに最上のものといえよう。
武家においても、このようにありたいものではあるが、修業中の武士というものは、まだ役もつかず、末端の部署にある身分ではあっても、親の跡目、あるいは隠居後の家督を譲り受けて、それ相応の禄もあるため、衣食住の三つについて、何の不自由もない。このためまだ年若いうちから妻子を養い、朝寝、昼寝を日課とし、武士の日常の勤めである武芸の修行をさえ怠るほどであるから、まして日頃関係の薄い合戦の作法などにほとんと興味もなく、その日暮に年月を送るうちに、そろそろ白毛や髭も生え、額も禿げあがってきて、何となくもっともらしい年格好となってくる。すると、役の欠員を埋めるための人選に入るのだが、例えば使い番などという軽い役であっても、早速行き詰って、同僚の助けを受けながら、何とか勤めているという状態、そこへ、たまたまむずかしそうな遠国への使いなどの御用があったりすれば、たちまち困り果てて、旅の支度を口実に、先輩、同僚の所を訪ねては、役の心得を聞き出し、あるいは古い文書などを借り受けて、ようようその役を勤めるというしだいである。これも、幸いにうまくいったからよかったといえるものの、とうてい本来の姿とはいえない。
なぜならば、武家の様々な役目といっても、それほど多くの種類があるわけでもないのだから、まだ役につかず、毎日、何の仕事もない間から、いつ、どのようなお役につけられるかは主君のお考え次第であることを心にきざんで、さまざまな勤めのやり方に日頃から関心を持ち、また親類縁者の中などにこれらのことに熟達した人があれば、面談の折には無益な雑談などはせずに、将来の参考となりそうなことを繰り返し尋ねては覚え込むのである。また古い覚書や絵図なども、すぐの役には立たなくとも借り受けて目を通し、または書き写しておく。
このようにして、それぞれの役目の勤め方の大筋を飲み込んでおくならば、いつ、どのような役を勤めることになっても安心である。第一、先輩や同僚を頼りにして教えを受け、助けに預かって任務を果たすなどというのは平穏な時世だからこそできるのであって、もしも世間に騒動が起こって、事態が差し迫っている場合には、他人の能力にすがってその助力を受けることは不可能であり、よくも悪くも、自分一人の予測で決着をつけねばならぬものである
とりわけ、戦陣における使い番などの役は、敵味方の兵力の多少、陣の配備の善し悪し、城の堅固さの程度、地形の有利不利、さらには合戦の勝敗を判断するまでの能力を身につけなければ勤められない。それであるから、昔から軍師の役は難しいものとされているのである。
しかしながら、使い役については、もしも偵察の仕方に間違った点があったにしても大抵は当人ひとりの失敗ということで事がすまされることが多い。ところが足軽大将より上の役について、采配を揮って軍勢を動かし、合戦の指揮をとるというのは、極めて重い役目である。なぜならば、すぐれた技量の者が人を討ち、劣った技量の者は人に討たれるというのが、古今を問わず戦場の定めであり、味方の人々の生死は大将の技量にかかっているからである。ところが、それについての自覚もないままに、采配を許された役についたことで思い上がり、人々の上に立っているなどということは、まったくもって不届至極と言わねばならない。
これを禅僧などでいえば、役に付かぬ僧のうちに朝寝昼寝を勤めにして、教義の学問を怠って居たまま、出世の年功になってきて、頭が禿げたのを武器にして長老、和尚に成り上がり、身には彩色の法衣をまとい、手には払子などを握って、多くの弟子に説法をしているようなものである。但し、こうしたインチキ坊主の場合には、大事な法会の席などで、なにかの失敗でもあれば人々の物笑いにされて、わが身ひとりが赤恥を書いて引っこめばそれでことがすみ、一般の人々に難儀がかかるというわけではない。
それにひきかえて武家においては、士大将、物頭、物奉行などという、仏門で言えば和尚役を勤める武士が、もし采配を振りそこない、軍勢の動かし方が悪かったときには、合戦の勝利を失い、味方の士卒の生命を危うくするのであるから、その被害は極めて大きい。ここのところを十分に考え、どうせ武家としての修業をするからには、無益の平の侍として暇が或時から、武芸の収斂はもちろんのこと、軍陣の敷き方や戦い方などについてもよく心掛けて奥義を極め、またほかの役目についても同様、たとえ采配を持つ役柄を仰せつかっても、勤まらぬなどということのないように修業を積んでおくことが大切なのである。
初心の武士の心付の為仍て件の如し。
【解説】
共に厳しい階級制度のもとにある武士と僧侶とを引き比べて、修業の心得を説いているが、ここでは、年功や家柄によりかかりがちな武士よりも、実力一本の僧侶の方が、はるかに真剣な修業をしているとして、武家のあり方に反省を促している点が注目される。
主君を持ちて奉公仕る武士の中において三段の品之有り候。一つには忠節の侍二つには忠孝の侍三つには忠節忠功の侍也。先忠節の侍と申は何事によらず主君の御為に対し自余の朋輩共のなり兼る大切の奉公を身の一代に只一度なり共相勤其義を主君にもおろそかならず思召を以て家老年寄などいはるる面々も是を知て如在に致さずたとへ常々の勤方においては粗略あり共此者の義は格別とあるごとくにて寝覚を安く罷在る侍の事にて候。次に忠孝の武士と申すは何をさして是は一かどある忠節と申程の義とては之無く候へ共いかに致しても主君の義を大事にかけ奉公の義とさへあれば昼夜をかぎらず我があたりまへの義は申に及ばずたとへ同役朋輩の病気さし合の助勤たり共いさみすすみて少しも油断無く相働き勿論我請まへの役義などにはたまかに念を入れてよく奉公を仕る者を忠功の武士とは申也。扨又忠節忠功の侍と申は心に忠節の信をさしはさみ然も又形に忠功の勤を励みてたとへば鞍二口の馬を見申如く成る武士の事にて候。右に申忠節一片忠功一片の武士とあるもあしきと申にては之無く候へ共忠節忠功のふたつ共に兼備りたる武士に合わせては遙かに劣りたる事にて候。此の所をよくよく了簡致しとても其身をゆだねて奉公人と罷成においては忠節忠功のふたつ共に兼備りたる武士と呼ばれずしては本意にあらざる義也との心懸なくては叶うべからず。右三段のかねあひに一つも叶ざるごとくの武士をさして武家奉公の穀つぶしとは申にて候。初心の武士の心得のため件の如し。
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主君を持って奉公する武士のうちに三つの種類がある。第一が忠節の侍、第二が忠功の侍、第三が忠節忠功の侍である。
まず、忠節の侍というのは、どのようなことであれ、一生のうちに一度は、主君の御ために他の同僚たちにはできぬような立派な仕事ぶりを見せて大きな貢献を行っているために、主君や重臣の人々からも重んじられ、たとえ日頃の勤務ぶりについては、至らぬ点があろうとも大目に見られて、気楽に過ごしている侍のことをいうのである。
次に忠功の侍というのは、何か特別に大きな貢献を行っているというのではないが、何はともあれ主君のおんためということを大切に考えて、御用のこととさえなれば昼夜の区別なく真剣に打ち込み、自分の本来の役目に励むことは勿論、同僚の病気や事故による臨時の勤務であろうとも、進んで手落ちなく勤めるといった、誠実な武士をいう。
次にまた忠節忠功の侍というのは、一方では誰にもまねのできぬようなご奉公をしてお役に立ちたいという積極性を持つとともに、日頃の勤めにおいても誠実な努力を重ねている侍であって、一頭の馬が二つの鞍をつけているように、二つの面でともに優れているものをいうのである。右に述べた忠節一方、忠功一方のどちらも、それではだめだというわけではないが、忠節と忠功の二つを兼ね備えた武士と引き比べてみれば、はるかに劣っているといわねばなるまい。
こうした点をよくよく考えて、どうせ奉公人となったからには、人からあれこそ忠節忠功を兼ね備えた武士よといわれるようにはげむ意欲を持ちたいものである。なお、ここに述べた三つの種類の、どのひとつにも当てはまらないような武士をさして、武家奉公の縠つぶしというのである。
以上、初心の武士の心得として申すものである。
奉公いたす武士の上には主君の御威光をかると申義も之在り、また主君の御威を盗むと申義も之有る也。扨又主君の御身の上にても家来に御威光をかし成さるとある義も之在り。又家来に威を盗まれさせ給ふと申義も之在り候。其故如何となれば何ぞ重き職役に預かる武士其身の年若きか又は小身なるか扨は家中の風俗時の様子によりては主君の御威光を笠に着て相働くごとく之無くてはは叶はず。然ば畢竟上の御為なるを以てしばらく主君の御威光をかり請我身に威勢を付て其事を取計らふごとく仕るとあるは是を名付て主君の威勢をかるとは申すにて候。左様之有りて諸人の用ひも出来御用の障りにならぬ程にさへ之有り候はば其初拝借致したる主君の御威光をば返進仕り自分は其職役相当の権威斗を持てつつしみ勤め候てこそ尤もの義なるを諸傍輩を初め他所他門の者迄誰殿の身内の誰様と申如くの尊敬に預り我が身の幅の広きを悦び其上人の用いに付ては内証の強みも之在るを以て欲心にひかれ終には主君の御威光をかり取に仕る是を名付て主の威を盗むとは申也。且つ又主君の儀も時の様子によりては御自身の威光を家来にかして威勢の付様に成さる可しとある御奥意有ての儀なれば一段御尤もの至りいにしへの名君賢将達の上にも左様のためしいか程も之有る義也。是を名付けて主の威をかすとは申にて候。然れどもその御用もたりもはやよき程也と之有る節は其初かし置成されたる御威光をそろそろ御取返し成されずしては叶はず候処御心永にいつまでも便々とかし置成され候から事起りて後々は取返しにくき様に罷成つまりはかり取にあひ成さるごとく成行もの也。是を名付て家来に威をぬすまるるとは申也。若も左様候ては主君の御身に取りては大きなる御恥辱と申斗にても之無く数々の御損も之在る事也。一つには家来に威勢が付過ぎ候へばおのづから主君の御威光は薄くなり何もかも家来次第の様に罷成あの人さへ能呑込て合点なれば御上の義はあの人次第にて事済埒明とあるごとく下の諸人存ずるに付たとへば天に二つの日出かがやくごとくにて大いに宜しからず候。二つには一家中の諸氏下々に至る迄も其のものの機嫌を取事を肝要と仕り主君の御事をばけれうの様に存ずるを以って主従のしたしみも離れ申に付自然と家中に忠義の武士の出来申可く様も之無き義なれば自然の変も到来の節よき人に事を欠に成さるるとあるは定まり事也。三つには外様向きの侍の義は申に及ばず主人の側近く奉公致し或いはおとなしき役儀を勤る侍共迄も彼一人の権威におされすくみかへりて罷在る仕合わせなれば是は主君の御為宜しからずと心付きたる義とても一言申出す事罷り成ず或は心底に悔扨は心安き共傍輩とささやき雑談にはつぶやき申といへばそのものの私欲我がまま依怙贔屓内証の栄耀おごりの程をも御存じ有るべき様も之無きに付き何もかもそのものの致す義をば宜しきとのみ思し召御油断の上において大き成御難義にも及び給ふべきは必定也。其上主君の御耳目をさへおそれ憚らぬごとくのおごりからはまして諸傍輩のおもはくを憚る義とては之無きを以て小役人共を受付たとへば我知人近付のもとへ付届を致すにも主人の物入にいたし遣わし其先より返礼に来る音物をば我手前へ取込其外他所他門の来客などをもてなすにも主君の御台所より酒の肴の茶の菓子のと持はこばせ主の物は我もの我物は猶我がものとあるごとくの仕形なれば畢竟は主君の御勝手の弱り共なり是亦御損の一つ也。右の次第を能々了簡致し主君を持て奉公仕る武士は上の御念比深く御目をかけ成さるに付ては猶我身をへりくだり心のおごりを押さへつつしみとにもかくにも主君の御威光のてりかがやくごとく致し度との願の外は之無きごとく覚悟仕る義肝要也。忠臣は君有る事を知りて身ある事をしらずとやらん申す古語も之有る由承り及び候。たとへ事の首尾におり時の様子に依っては主君の御威光を拝借仕るに致しても永借をいたさず頓て返進仕り必以て主君の御威光盗人の名取を仕らざる様に覚悟尤なるべし。初心の武士心得の為仍て件の如し。
武士の奉公においては、主君の御威光を借りるという場合があり、また主君の御威光を盗むという者もある。また主君のお立場から見れば、家来に対して威光をお貸しになるということもあれば、また家来のために威光を盗まれるという場合もあるのである。これはどういうことであろうか。
武士として重い役目を仰せつかったが、まだ年が若かったり、小身であったり、あるいは家中の気風なり、その時の事情なりによって、主君の御威光をかさに着て働かなければ、その責任を果たすことができないという場合があるものである。そうした時には、結局は主君のためになることであるから、主君の御威光をお借りして、自分に権威をつけ、それによって任務を果たしていくのだ。これが主君の御威光をお借りするということである。
そのようにして、人々からも重んじられ、支障なくお役を勤めることができるようになったならば、最初お借りした主君の御威光はいち早くお返しして自分の職分に応じた権威によってその責任を果たしていくことが望ましい。
ところが、主君の威光をお借りしていることによって、同僚の間ではもとより、他家、他藩の人々からも、あれは誰様の身内の何様などと大切に扱われ、幅がきくことを喜ぶものがある。また、人々から重んじられれば、それに伴ってのいろいろな利益も大きく、その欲にひかれて、しまいには主君の御威光を自分のもののようにしてしまうことがあるが、これを”主君の威光を盗む”というのである。
一方、主君のお立場から見れば、時と場合によっては、家来に権威をつけようとの御意図によて、威光をお貸しになることは、十分に理由のあることであって、古来の名君、賢将についても、こうした例はいくらもあるのである。これが”主の威を貸す”ということなのだ。
しかしながら、それによって家来が役目を果たすことができもうよかろうという状態となったならば、貸し与えておかれた御威光を次第に取り返されるようにしなければならない。それを、いつまでものんびりとかまえて取り返そうとなさらないから、しまいには取り返そうにも取り返さなくなってしまい、結局は家来に御威光を持ち逃げされることなる。これを称して”家来に威を盗まれる”というのである。
このようになると、主君にとって大きなご恥辱であるばかりでなく、さまざまなご損失が生じてくる。第一には、家来が権威を持ちすぎるようになれば、自然と主君の影が薄くなり、すべてはその家来次第となる。下々の者までも、あの人の承諾さえ得られれば、どうせ殿様はあの人次第なのだから・・・と考えるようになるが、これはちょうど、天に太陽が二つあるのと同様で、たいへん不都合なことである。
第二には、こうなれば、家中の侍たち、下々の者までも、その者の機嫌をとる事を第一に考え、主君の事はどうでもよいという気持ちになるから上下の結束は弱まり、忠義の武士は育たず、もしも危急の事態が生じた時には役に立つものがいなかったという状態となることは目に見えている。
第三には、そのようになれば、出先、末端に勤める軽輩の侍はもとより殿のお側近くに勤める武士や重要な職責にある家臣までも、その者一人の権勢をおそれて小さくなり、これは主君のお為にならぬと気付いたことまでも一言も口にすることができず、ただ心のうちにくやんだり親しい同僚との雑談で口にしたりするばかり、主君の前に進み出で実情を申し上げ、それに気づいていただこうとする者は誰一人いないありさまとなる。これでは主君はその者の私欲、わがまま、えこひいき、私腹を肥やしてのぜいたくの様子など、少しも御存じになるわけもなく、その者のすることはすべてよろしいと安心しておられるうちに、やがては大きな困難が持ち上がり、また世間からは、あのように人を見る目がなくては主君だの大将だのと呼ばれるにはふさわしくない、などと非難をお受けになることは間違いない。さらには、そのような者は主君に対してさえ、なんのつつしみもないほどであるから、まして同僚や部下の思わくなど考えもせず小役人たちを丸め込んで、自分の知人友人への贈物に主君の公費を使い、贈った先から返礼に来た品物は自分のものとし、自分のところに来た他家他藩の客をもてなすにも主君のお台所から酒だ、魚だ、茶だ、菓子だといった具合に運ばせる。つまりは主君のものはおれのもの、おれのものはもちろんおれのもの・・・といったやり方であるから、主君のお勝手向きにも影響し、経済的なご損ともなるのである。
奉公をする武士としては、以上のような点を十分に考えて、主君からご信頼をいただき、目をかけて下さるようなときにこそ、ますます慎重な態度を取り、心のおごりをおさえて、何よりも主君の御威光がますます照り輝くことだけを願うようにすることが大切である。昔の言葉にも”忠臣は君あることを知りて、わが身のあることを知りてわが身のあることを知らず”とあると聞いている。
もし、そのときの事情から、主君のご威光をお借りするような場合があっても、いつまでもお借りしたままにせず、なるべく早くお返しすることである。くれぐれも、あれは主君のご威光を盗んだなどといわれることがないよう、気をつけなければならない。
以上、初心の武士の心得として申すものである。
【解説】組織を動かしていくには、何らかの意味での権威がなくてはならない。お家における権威はすべて主君に集中されているたてまえであるから、下の者に権威を持たせるということは、とりもなおさず主君の威光を貸し与えることとなる。現代風に言えば、権限の委譲という問題に通じよう。
古代中国の政治哲学者・韓非子は、このことに触れて、次のようにいっている。
「名君は二つの柄(とって)を握るだけで臣下を統率する。二つの柄とは刑と徳である。刑・徳とは何か、刑とは罰を与えること、徳とは賞を与えることである。(中略)若し、君主が賞罰の権を自分で使わず、臣下にまかせてしまったら、国中がその臣下を恐れて君主をあまく見る。人心は君主を去って臣下に集まる。君主が二つの柄を手離すと、こういう結果になるのだ」(『韓非子』二柄より。訳文は「中国の思想・第一巻・韓非子」徳間書店刊)
君主独裁体制の下での権限委譲がどんなに危険な結果を招くかは、この項の後半に明らかであり、友山はここでは珍しく、その危険に気付かない主君のうかつぶりを鋭く戒めている。
大身小身共に武士たらんものは勝と云文字の道理を能心得べきもの也。仔細を申に勝といふ字をばすぐるると読申儀なればとかく人にすぐれたる所がなくては能き武士とは申されず候。たとへば万の武芸なども多年精に入れて勤習ひて名人の位にこそいたらず共せめては上手なみの名を取程にいたし覚るは是人にすぐれたる也。或は主君へ奉公を致すに付ても多き傍輩のなみをぬけて扨もよき勤めかなと諸人の目にもみゆるごとくなるは是をさしてすぐれたる勤方とは申にて候。就中変の砌戦場においても人々の行所へならば身共も行くべし人のこたゆる程の場所ならば手前もこたへて居るべしとあるごとくにてはさして感じ所もほめ所も之無き様子也。味方の諸人各々見合わせて行兼る所へも只一人すすみ行外の者共のこたへ居兼るごとくの場所にも我一人ふみとめて罷在るごとくなるをすぐれたる剛の武士とは申にて候。其外何事の上に付ても人にすぐれんと存ずる心がけなくては人並程にも成難き道理也と心得て何事にも精をいれて相励申儀肝要也。初心の武士心得の為仍て件の如し。
武士という者は、大身小身を問わず、勝つという文字の意味をよく理解しておかなければならない。”勝つ”という文字は”すぐれる”と読むのであって、なんにせよ人にすぐれたところがなくては、立派な武士ということはできないのである。
例えば、さまざまな武芸などについても長年、努力を重ねて修練し、名人とまではいかなくとも、せめて上手といわれるほどに腕をあげるならば、人にすぐれた武士ということができる。また主君への奉公についても、たくさんの同僚の水準より上をいって、人々の目から見てもまことにみごとな勤めぶりとうつるようであれば、これがすぐれた勤め方である。
とりわけ大切なのは戦時の際であって、戦場においても、人々の行くところならば自分も行く、人々が持ちこたえているところならば自分も持ちこたえるといった状態では、別に感心もされず、ほめられもしない。
そうではなくて、味方の人々が進むのをためらっているような場合にも、ただ一人、突き進んで行き、味方の人々がもはや持ちこたえられない場所にも、ただ一人踏みとどまってたたかってこそ、人にすぐれた剛勇の武士と呼ばれるのである。
そのほか、なにごとについても、人にすぐれようとする意欲がないことには、人なみのことさえできないものと心得て、万事につき、心をこめて努力することが大切である。
以上、初心の武士の心得のために申すものである。
武士たらんものは大小上下をかぎらず第一の心懸たしなみと申は其身の果ぎわ一命の終わる時の善悪にとどまりも申候。常々何程口をきき利根才覚にみへたる者も今をかぎりの時にのぞみ前後不覚に取乱し最後あしく候てはまへ方の善行は皆々水になり心ある人の下墨にも預り申かにて候得ば大いに恥しき事にて候。武士の戦場に臨みて武偏手柄の働を仕り高名を極るとあるも兼て其身討死とある覚悟を極め置たる上の事にて候。去に依て其の時の運あしくて勝負に仕負敵に首をとらるる時我名を問れては慥に姓名を名乗につこと笑ひて首をとらせ毛頭程もわるびれたる気色なく或は外科の療治にも叶はぬ程の手傷深手を負ても正気さへあれば番頭組頭諸朋輩の聞前にて慥に物をも申手負ぶりをたしなみ尋常に相果候とあるは武士の正義第一の所也。爰を以て存る時は静謐の時代たり共武士をたしなむ者は其身老人の義なれば申に及ばずたとへ年若きとても大病をうけ養生叶はず段々と気分も重り候においては兼て其覚悟を極め今生に心がかりなる事の少しも之無きごとくいたし其身重き職役をも相勤るにおいては勿論の儀たとへば軽き奉公の勤めたり共はや其身の心にもたまるまじきとおもはるるほどの気色にさし詰り候においてはいまだ物のいわるる中に番頭支配頭などを招請致して対面の上年来上の御厚恩に預り罷在る義なればいかさまも一度は御用にも相立候様常々心懸罷在り候得共此の如きの重病にかかり色々養生仕り見申候へ共本復仕り難き次第に罷成候上の御用にも相立申さず候て病死仕る段近頃残念に存候へ共其段は是非に及ばず候唯今迄の御厚恩有難き仕合に存じ奉り候弥相果候においては御家老中迄此段仰上げられ下され候様にと主君への御礼を申述其上にて私用の義もあらば申述候様に尤也。其の義を済ましたる上にて一家一類又は入魂の朋友などへも最後の暇乞を致し候時子供をも呼出し我等義多年上の御厚恩を蒙りながら病死致す段武士の本意にあらず然りといへ共当時治世の義なれば其段においては是非に及ばざる所也。其方共義は年若き事なれば我等が志を続て若自然の儀も之有るにおいては是非上の御用に相立可しとある覚悟を以て常に忠節忠功の志をはげまし御奉公の道に油断仕る間敷もの也。我等末期に至り此の如く申置所の遺言に違ひ若し不忠不義の仕形之有るにおいては草葉の陰においても勘当と心得べしなど急度遺言仕りおくとあるは信の武士の正義也。唐国聖人の詞にも人のまさに死なんとするに至りて其いふ事よしと哉らん之有るげに候。右のごとくにてこそ武士の最期とも申さる可きをとても本復ならぬ病気煩ひとある心積りもなく死がらかひを致し己が病気を人が軽くさへいへば悦びおもくいふ事をいやがりあれの是のと医者もんしやくを仕り叶はぬ祈念願立など申てうろたへ分別となり病気は次第に重るといへ共相果べきとある覚悟もなく何を一言申置事をも致さず悉皆犬猫の病死も同然の有様にて人間一生一度の臨終の致し損じを仕るとあるも此書の初に申しことはる常に死を心にあつることを仕らずたとへば外人の死候とあるを聞きてはいまいま敷と斗存じおのれはいつ迄も此世にまかり在る筈の事のやうに覚へ欲ふかく生を貪る心よりおこる死ぞこなひ也。治世において重病に取りつかれ様々養生致しても叶はず段々病気指詰候といへ共死覚悟うぃ極る事もなし。さるごとく比興の意地にて戦場へのぞみ何の意識もなき敵と出合忠義の道をかく間敷とある斗の心を以てかくはれなる討死などの罷在るべき義にては之無く候。爰を以て武士をたしなむものは畳の上において病死をとぐるを一生一度の大事とは申にて候。右にも申如く今時主人を持ちたる武士は大身小身に限らず天下泰平の儀なれば身命をかけての奉公など申義は親の代にも我代にも之無く一度なり共仕り上たる事もなくて何十年といふ義もなく過分の知行切符を拝領致し費やしながら畳の上にて病死をとぐるに於ては子孫への遺言申置などをば先差置て主君の御厚恩に預り忝きとある御礼をこそ申上可き所左様の心付はあうて末期に至り番頭支配頭などを呼むかへてもおのれが子孫へ家督相続の義のみを専一に頼入るとあるは無念のいたり武士の正義にあらず。初心の武士の心付肝要の所也。仍て件の如し。
097
およそ武士として、身分の高下にかかわらず、第一に心がけておかねばならぬことは、その身の果てるとき、一命を終えるときのことである。
日頃、どんなに立派な口をきき、賢く見えていた者であっても、今はこれまでというときになって前夜不覚に取り乱し、見苦しい最期を遂げるようであっては、それまでの善行もすべて水の泡となり、心ある人の軽蔑を招くことともなって、誠に恥ずかしいしだいである。
武士が戦場に臨んで武勇をふるい、手柄を立てて名誉を輝かすというのも、あらかじめ討ち死にの覚悟を決めておいたうえでのことである。従って、もしも運悪く勝負に敗れて、敵に首を取られるはめとなったときには、名を問われれば姓名をはっきりと名乗り、少しも悪びれたところなく、にっこり笑って首をとらせるのである。また、もはや手当のかいもないほどの重傷を負ったときでも正気さえあれば、上官や同輩の前で、はっきりとものをいうという見事な態度を見せてから立派に最期を遂げるというのが、武士として何より大切なあり方なのである。
098
こうした点を考えるならば、平穏な時代にあっても、武士の身分にあるからには、同様の覚悟が必要である。
老人はもちろんのこと、若年の者であっても、大病にかかって治療も功がなく、次第に悪化していくようであれば、前もってその覚悟を決め、この世にはなんの心残りもないようにしておきたい。もし大切な職責を持っていればもちろんのこと、たとえ軽い奉公の身であっても、もはや我が身もこれまでという様子になってきたならば、まだものをいえるうちに番頭、支配頭などの上司をお招きして対面し、「長年の間。殿様のご高恩を受けてきた身として、なんとしても一度はお役に立ちたいものと心がけては参りましたものの、このような重病にかかり、いろいろと養生もいたしましたが回復の見込みもない状態となってしまいました。殿様のお役に立つこともなく病死いたしますのは、誠に残念ではございますが、是非もございません。ただただ、これまでのご高恩をありがたく存じております。私が相果てましたならば、このことを御家老にまで申し上げてくださいますように」と、主君へのお礼の言葉を述べ、もし、私ごとの用事でもあれば、それも申し上げておくことが望ましい。
その上で、一家親族、また親しい友人などにも死後の暇乞いをするが、その折に子供をも呼び出し、「自分は、多年にわたって殿様のご厚恩をいただきながら病死してしまうのは武士として残念なことではあるが、太平の世であればこれもやむを得ないことである。その方たちは、年も若いことであり、自分の志を継いで、もしも危急のことが起これば必ずや殿様のお役にたとうとの覚悟を持って、常に忠節、忠功の心を奮い起こしつつ、ご奉公の道を油断なく勤めよ。もしも、こうして自分が最後に臨んで述べるところの遺言に反して、不忠義の振る舞いをすることがあれば、草葉の陰からも勘当すると心得よ」などと、厳しく遺言しておくことが武士としての道である。中国の聖人(曽子)の言葉にも“人のまさに死なんとするや、その言うことや善し”といわれているということである。
覚悟とは、ことバンクによれば《悟りを開くこと。観念すること。あきらめること。》とある。
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右のようであってこそ、まことの武士の最後ということができるのだが、とうてい全快は難しい病気であるとの覚悟を決めることもなく、死の恐怖におびえて、自分の病気を人が軽く言えば喜び、重くいえばいやがり、あれやこれやと医者に苦情を言い、役にも立たぬ祈祷や願掛けなどをさせるうちに、病気はますます重くなるが、最後まで死に臨む覚悟がつかぬままに、何一つ言いおくこともできず、まるで犬猫の病死同様に、一生一度の臨終をし損なう者もいる。
このような者は、この書の最初に述べておいた、常に死を心に覚悟するということをしていないのであり、仮に他人が死んだということを聞いても、縁起でもないと思うばかりで、自分だけはいつまでもこの世にいられるものと思い込み、人生を奥深くむさぼろうとする心がけであるから、こうした死に損ないの恥をさらすのだ。
太平の世において、重病におかされ、さまざまの治療をしても効果がなくて、次第に病状が切迫してきても、死の覚悟を決めることのできぬような卑怯な根性であっては、戦場に臨んだとき、なんの恨みもない敵を相手に、ただ忠義一途の心だけで戦い抜き、あっぱれな最期を遂げるなど、とうていできるものでない。それであるから、武士にあっては、畳の上で病死を遂げるにしても、死ということを一生一度の大事だというのである。
すでに述べたように、現在のような天下太平の世にあっては、主君に奉公する武士といっても、親の代にも自分の代にも、命をかけてのご奉公などということはただの一度も勤めることもなく、何十年にもわたって、過分の俸禄をいただいてはそれを費やしてきたのである。それ故、畳の上で病死を遂げる際には、子孫への遺言などのことは後回しとして、まず主君のご恩に対してお礼を申し上げるべきであるにもかかわらず、そうした配慮もなく、上司の人々を迎えても自分の子孫への家督相続のことばかりをひたすら頼み込んでいるなどは、まことに残念な次第であって、武士としての正道とはいえない。
以上、初心の武士として、よくよく肝に銘じておくべきことである。
武士道は剛強の意地あるを第一と仕るとあるは勿論の義也といへ共片向きに強き計りにてあまりに田夫野人の体に之有るも何とやらん農人上りの武士を見る様にて然る可からず候。学問歌学茶の湯など申義は是皆武芸と申にては之無く候へ共少しづつは立ちいり相心得罷在り度事にて候。先学問之無く候ては古今の物語の道理を存じて弁ず可き様も之無きに付其身何程世知賢く差当り利発に候ても事品によりては是非了簡の及び難きごとくの義も有る間敷にあらず候。異国本朝の義を委細に覚悟致し罷在りて其の上に時と所と位との三つを能考へ合せて其宜きに随ひて事を取計らふ様にさへ之有り候へば物にいたしそこなひと申義もさのみ之無きものにて候。但心得あしく学問を致し損じ候へば大かたは我慢になり無学文盲なる者をば何程心懸強き能き武士をも目八分に見こなし其上むさと唐流斗をよきとのみ心得たとへ道理はよきにもせよ本朝の今時には用い難きとある勘弁もなく片情をはりては物を申すごとくなるは散々の事也。其仔細を申に我朝のいにしへかたのごとくの名人君子達代々においていか程も有りて其人達の浅からざる分別才覚を以て唐土の義は申に及ばず夫より程遠き天竺あたりの義迄をも委細に聞届或は直に人をも差越成されて見分の上において尚又工夫了簡を加へ日本六十余州に只一王と定め就中三種の神宝御相伝の次第並に五摂家抔申も其家々を定め其の外公家は公家地家は地家と厳密に差別の立たる義などは日本に限りたる作法
也。夫のみならず男女のなりふり衣服家屋の作り器材雑具の制作に至る迄事々物々のうえに心を付大体は異国の作法に随ひ其様子をば悉く仕かへて万事万端唐土と日本の風俗をかゆるを以て万代不易の神道共申可きかと某如きの至らぬ分別にも推察仕り見申所也。然るに今時の若き武士学問を仕損じては万事唐流に増たる義之無しと存じおのれおのれが本国生国の日本流をおもひあなどり候如く之有るは一向無学文盲にして武士道は強み一片と覚悟致したるには遙かにおとり也。爰の所を能々分別致して学問尤也。次に歌学の義は和朝の風俗として公家方の義は申すに及ばず武家においても古今の名将勇士の中に歌道の達人如何程も之有る義なればたとひ小身の武士たり共歌道に立入折にふれたる腰おれの一首も綴り候程には有り度事にて候。然れ共此歌学の義もあしく数寄過候へば古来歌仙の名を得たる人の口からさへむさとは出でかね候と申伝へたるごとくの秀歌をも是非よまずしてはとある心入と罷成を以て万事を抛ち歌学のみを専らと致すに付いつとなく心も形もなまやはらかになり公家侍見るようにて武士の風俗を取失ふごとく之有るものにて候。就中今時世にもてはやし候俳諧など数寄過候へば隔意がましき傍輩の出会談話の座においてもややもすればかる口出来口秀句などを申せば当分は一座の興にも成様に候へ共惣じて武士のかる口出来口とあるは古今共に誉め事に致し置たる義なれば其慎肝要也。さて又茶の湯の義も京都将軍家の時代より専ら武家の玩と成来れる儀なればたとへ我が手前にてこそ致さずとも人のもとへ茶の湯に呼ばれ或は貴人高位の御相伴などにも参る間敷にあらず。左様の刻路次入数寄屋入の次第所々のかぎり置合せの見様或は料理の給様茶の呑様にも種々の心得なども之有る由なれば茶道方において師
道を請少しは相心得罷在りて然る可き也。其上数寄屋の義は世間の富貴栄耀をはなれ幽居閑栖の境界を楽しむを以て肝要と仕る由也。去に依ていか程繁栄の地又は官家の内たり共庭に木を植こみては山林溪谷の風気をうつし竹のたる木皮付の柱かやふける軒端下地窓すのすだれ猿戸枝折戸等の侘たるよそほひを宗と仕り其外茶具会席の具に至る迄花麗を好まず専ら塵世を厭ひ避けて偏に清閑の富を抱くを以て数寄道の本意とは仕るにて候へば少しは武士道の意味をあまなふ為の助け共罷成様にも存じられ候。然る上はたとへ小心の武士たり共居宅のかたはらに茶立る所をしつらひ新筆の掛軸今焼の茶入れ茶碗土鑵子等の軽き茶具を用ひて侘茶の湯をたのしむ程の義はあしきにあらず。然れ共万事軽き事がおもく成安きに付程なくおごりが付て人の所持致す芦屋の釜を見ては手前の土釜がいやになり其外一切の茶具共に次第によき物斗ほしくなり候といへ共小身の武士の義は心計にてしかと仕たる道具を求ることならざるより事起こりてほり出の心掛となり目利を仕習ひ価すくなにて宜き道具を取出す分別を仕り或は向人の持て居る道具の中に何ぞしほらしき様子の物もあれば平所望を仕り又は道具などに致すとても我方へ徳を取損のゆかぬ分別を専一と仕るに付悉皆とり売中がひなど申町人の意地にひとしき様子にて武士道の正義を取失ひ大小あしき人がらと罷成は必定也。左様なる数寄者とならんよりは一向茶道不案内にて濃茶とやらんは如何様にのむとあるごとく存ぜざる程の不調法にてもそれが武士道の押さえへには成申間敷候。初心の武士心得の為仍て件の如し。
105
武士道においては、力強くたくましい気風を第一に重んじることはもちろんであるが、ただひたすらに強いというだけであっては、あまりに教養に欠け、何か百姓上がりの武士を見るようで好ましいとはいえない。学問、歌道、茶の湯といったことは別に武芸のうちにはいるものではないが、こうしたことについても少しずつは心得ておきたいものである。
まず学問であるが、これを心得ていないことには、古今の物語の意味を知り、判断を下すことができないから、日常のことについてはいろいろと知っていて賢そうに見えてもこととしだいによっては判断のつきかねることが起こらぬとも限らない。異国のこと、我が国のことについて、いろいろな知識を持ち、実際の場においては時期、立場、力関係などを総合的に考え合わせてその知識を活用し、事態に対処していくならば、失敗ということもそれほどは起きないものである。しかしながら、間違った心構えで学問をした者は、たいてい高慢になって、たとえどれほど意志強固で立派な武士に対しても、その人が無学文盲であれば、それだけで軽蔑するものである。その上、中国風ばかりがよいものと思い込み、理屈はよいが、我が国の現状では役に立たぬようなことを思慮もなく、むきになって主張し続けるなど、まことに困り果てたことである。
なぜならば我が国においては、古来から名人、君子といわれる立派な人々が数多くおられて、その人々が中国はもとより、遠くインドの地のことまでも詳しく調べ上げ、さらには直接に人を使わして検分した結果を、我が国の国情に合わせてとり入れ、日本の国のあり方をつくりあげてきたのである。こうして日本六十余州を、ただお一人の天子によって治めること、三種の神器による皇位の継承、御摂家をはじめとする華族の制度などを定め、公家と平民の差別を明らかにした。これらはすべて日本独自の制度である。それだけではなくて、男女の服装、衣服や家の構造、諸道具の作り方に至るまで、さまざまなことに心を配り異国の習慣と採り入れながらも、それをすべて作り変えて、万事にわたって中国とは異なった日本独自の文化をうちたてたのであり、これこそが永遠に守るべき神道の国日本の姿なのである。こうしたことは、私などのいたらぬ判断によっても推察のつくところである。
ところが、近頃の若い武士の中には、学問のやり方を間違えて、何事によらず中国風が最高と思い込み、我が祖国である日本の文化を軽視するような者がいるが、こうなってしまっては、全くの無学文盲の武士が武勇一筋に凝り固まっているのに比べて、はるかに劣っているといわねばならない。学問をするに当たっては、ここのところをよくよく考えることが必要であろう。
107
次に歌道のことであるが、和歌の道は我が国特有の文化であって、公家の間は言うに及ばず、武士たちの中においても、古今の名将勇士のうちにその道の名人が数多くいたものである。従って、小身の武士であっても、歌道を学び、折に触れてはつたないながらも一首を詠むほどの心がけは好ましいことといえよう。しかしながら、この道も悪く凝り固まるのは困ったもので、古来の歌の名人と呼ばれた人でさえ簡単には作れなかったような名歌を、なんとしても詠んでみたいと思い込むようになり、他のすべてをなげうち、ひたすら歌の道だけに専念するようになると、いつしか心も形も公家やら武士やらわからぬように軟弱となって、武士本来の姿を失ってしまうものである。
とりわけ、近頃世間にはやっている俳諧などに懲りすぎると、同僚たちのまじめな談話の席にあっても、ともすれば冗談、軽口、だじゃれなどを口に出してしまう。その場をおもしろくすることはできるかもしれないが、武士としては、のべつしゃれを口にすることは昔から好ましくないこととされており、こうした点に気をつけた方がよろしい。
意味
解字
形声。「冫」+音符「疑」(=じっと止まる)。氷がこり固まる意。
疑う
意味
解字
形声。左半部「矣」が音符で、行きなやんで立ち止まる意。右半部の「疋」は、足を止める意。足を止めて進むべきかどうかためらう意。
下付き
懐疑・嫌疑・狐疑・猜疑・質疑・存疑・遅疑・半信半疑・被疑者・容疑
懲り
意味
解字
形声。音符「〓」(=かくれた人材を召し出す。かくれたきざしを明らかにする)+「心」。かくれた悪い心をせめる意。
しゃれ【洒落】
(「戯され」から。「洒落」は当て字)
しゃら【洒落】
しゃ・れる【洒落る】
〓自下一〓
(一説では、「曝しゃれる」の転義、曝さらされて余分なところがなくなる意からという)
108
次に茶の湯の道であるがこれは室町将軍の時代から武士のたしなみとされてきたものであるから、
自分の家においてはせぬまでも、人から茶席の招きを受け、身分高い人と同席する機会などもあり得ることである。そうした折りに、茶庭への通り方、茶室に入るときの作法、茶席での諸道具の見方、料理のいただき方、茶の飲み方など、いろいろな心得がいるものであるから、その道の師について、いくらかはその作法を知っておくことが望ましい。また茶道の精神というものは、世間の富貴栄華を離れて、簡素で静かな境地を重んじるものであるという。従って、繁華な町や城内に住んでいても、庭に木を植えて山林渓谷の風情をつくり、茶室といえば竹の垂木、皮付きの柱、萱葺きの軒、下地窓、粗いすだれ、簡素な木戸などのわびた有様を第一とし、さらに茶や会席料理の道具についても華麗なものをさけ、すべてについて俗世間を離れて清閑の境地を最高の宝とするのであるから、これは武士道の精神を養う助けともなるように思われる。そこで、たとえ小身の武士であっても、家の傍に茶をたてる場所をもうけ、新作の掛け軸、茶入れ、茶碗、土焼きのやかんなどの手軽な道具を使っての簡素な茶の湯を楽しむ程度ならば悪いことではない。
しかし、何事につけても、とかく軽いはずのものが深入りして重くなりやすいもので、次第に贅沢になってくると、たとえば茶釜にしても、人の持っている芦屋の釜を見て自分の土釜がいやになり、その他道具一切について、高価なものがほしくなる。さりとて小身の武士としては、ほしいと思うだけで、容易に手に入れることはできぬところから、掘り出し物をあさるようになってきて、目利きを習い、よい道具を安く手に入れる工夫を凝らす。あるいは、人の持つ道具の中にほしいものがあれば無理にねだる。このようになっては、何につけても自分が得をするように、損をせぬようにという計算ばかりが先に立って、まるで仲買か周旋をする商人同様の気風にまでなりさがって、武士の本道を見失い、大小を持つ価値のない人物になってしまうことは目に見えている。こうした風流人になってしまうよりは、いっそのこと茶道の心得などは少しもなく、濃茶とはどうして飲むものやらいっこうに知らぬという状態であっても結構で、それが武士道の障害となるものでは決してないのである。
以上初心の武士の心得として申すものである。
奉公する武士として、多くの同僚の中には、何かの事情で絶交中のものがいるというのはあり得ることである。ところが、主君の仰せによって、その絶交中のものと同役となった場合には、直ちにその相手の所に行き、次ぐのようにはっきりとのべるべきである。
「自分は、この度貴殿と同役となるよう仰せつけられ、ただちにお受けした。あなたと自分とは、日頃絶交の間柄ではあるが、いったん、同役を仰せつかったからには、少しでも私情をさしはさんでいては殿のおためにならぬことゆえ、今後は互いにこだわりを捨て、ひたすら御用をとどこおりなく勤めるようにしたいと考えるしだいである。ついては、あなたはこのお役については先輩のことであり、何かとご指導いただきたいと思うばかりである。ただし、明日にでも、あなたか、じぶんか、どちらかが、このお役を離れるようになったならばその節には再び絶交することになるかもしれないが、それまでは、ひたすら心を合わせていくことだけを考えていきたい」
このように申しのべて、互いに心を合わせて勤めにはげむのが武士の正道である。
ましてや、日頃から何のゆきがかりもない同僚と同役を勤めることになったときには、なおさら親密な関係をつくるようにするのが当然のことであろう。
それを、ややもすれば、同役との権力争いをする者や、また相手が新任で万事に不案内な時には、いろいろと気を使ってやって、手落ちなく勤めさせるという先輩らしい配慮もせず、不慣れなための失敗でもあれば、喜んで騒ぎ立てるものがあるが、まことに見苦しいともきたないとも、批判のしようもない次第である。このような心がけの武士は、いったん、変事が起こった場合には、必ずや味方がとった首を奪ったり、味方を売ったりといった卑怯きわまる大不義をやってのけるような者である。よくよく警戒してつつしまねばならない。
以上、初心の武士の心得として申すものである。
【解説】武士の意気地を尊ぶ立場からすれば、藩中の傍輩同士が絶交状態に陥ることもあながち非難はできない。だが、ご奉公のために必要とあれば、わたくしごとの遺恨はしばらく棚上げにして、一致協力して主君に尽くせということである。
「白無垢小袖と役人とは、新しいうちがよい」ということばは、軽いことわざながら、なかなかもっともなことと思われる。
白小袖の新しいうちというものは、たいへんきれいなものでも長いこと着ている間には、襟のあたりや袖口から汚れ始めて、そのうちにねずみ色のようになっていしまうと、まことに見苦しく、汚らしいものである。
また、役人が何かの職務についた場合も、最初のうちは万事について新鮮な心構えを持ち、主君のおおせつけを大切に守り、ちょっとしたことについても真剣に考え、とりわけ、その職務についての規定罰則に心を刻んで、少しもそむくことがないようにと慎重に勤めるから、すべてについて不足するところがない。
こうして、家中の一同から、まことに無欲正直なよい役人とほめられたほどの者であっても、その職務を長らく勤め、さまざまな筋道が理解できるようになってくると、次第に要領がよいだけの仕事ぶりとなって、新任のころには決してしなかったような失敗をしたりするものである。
意味
解字
形声。「人」+音符「壬」(=重い物を持ちこたえる)。人が物をになう意。
下付き
一任・委任・解任・帰任・旧任・兼任・現任・後任・降任・再任・在任・自任・辞任・就任・重任・主任・受任・昇任・常任・初任・叙任・信任・新任・親任・責任・先任・専任・選任・前任・奏任・大任・退任・担任・着任・勅任・適任・転任・背任・判任官・赴任・放任・補任・来任・離任・留任・歴任
意味
解字
形声。「人」+音符「士」。貴人のそばに立つ侍臣の意。
新たまる
意味
解字
形声。音符「辛」(=鋭い刃物)+「木」+「斤」(=おの)。木を切る意から転じて、切りたてでなまなましい意。
下付き
維新・一新・温故知新・改新・革新・更新・最新・刷新・斬新・清新・生新・日新
改まる
意味
解字
形声。音符「己」(=はっとして立ちあがる)+「攵」(=動詞の記号)。古くなってたるんだものに活を入れて立ちなおらせる意。
な・れる【慣れる・馴れる・狎れる】
〓自下一〓〓な・る(下二)
物事に絶えず触れることによって、それが平常と感じられるようになる意。
◇広く一般には「慣」を使う。〓は「馴」、〓は「狎」を使うことが多い。
狎
意味
慣
意味
解字
形声。「心」+音符「貫」(=つらぬく)。一貫したやりかたで行われ心がそれになれる意
馴
意味
熟
意味
解字
形声。「火」+音符「孰」(=やわらかくにる)。「孰」がもっぱら助字として用いられるようになったので、「火」を加えて区別した。[〓]は異体字
緊張
弛緩
官に仕え、役人となること。
克己復礼
[論語顔淵「己に克かちて礼を復ふむを仁と為なす」]私欲にうち勝ち、礼儀をふみ行うようにすること。
それだけではない。新任のころには、ひとからの贈物などがあっても、それを禁じている規則に従ってきれいに送り返し、もし、どうしても受け取らねばならなかった時には、後日、その贈物にふさわしいお返しをするなどして、人々からも、いたって潔白なやり方とほめられていたような者でも、いつの間にかその心掛けが変わってきて、この職務を勤めているうちに少しでも多く握りしめておかなければ・・・という欲心が起こってくる。しかし、人からの贈物を受けてはならぬという規則があるからには、いまさら受け取るわけにはいかない。ところが、そうした心のうちというものは、言葉の端々にあらわれるものであるから、人もそれを敏感に察して、表面では一向にかまわぬふりをしておいて、裏から縁故をたずね、さまざまな関係をたどり、手段をつくして品物を送りつけるのである。こうして贈られた金品はいくらでも受け取り、さてその返礼には、お上の目をかすめて、えこひいきをするにきまっている。こうしたよごれ方というのは、右に述べた白小袖がねずみ色になっていくのと少しも変わりがない。
慮
意味
解字
形声。音符「盧」(=つらなる)の略体+「心」。あれこれならべ考える意。
操
意味
解字
形声。「手」+音符「〓」(=せわしく動く)。手先をせわしく動かす意。転じて、手にしっかりと持つ意。
下付き
志操・情操・節操・体操・貞操・徳操
節操
意味
志操
意味
腐
意味
解字
形声。「肉」+音符「府」(=くっつく)。肉がくさってべとつく意。
溜
意味
矯
意味
解字
形声。「矢」(=まっすぐな矢)+音符「喬」(=高くて先端がしなる)。曲がったものをまっすぐに直す意。
貯
意味
解字
形声。「貝」(=財貨)+音符「〓」(=はこの中にためる)。財貨をはこの中にたくわえる意。
謀
意味
解字
形声。「言」+音符「某」(=よく分からない)。分からぬ将来について相談してさぐり求める意。
下付き
陰謀・遠謀・鬼謀・共謀・権謀術数・策謀・参謀・主謀・首謀・深謀・神謀・知謀・通謀・無謀
諮
意味
下付き
形声。「言」+音符「咨」(=はかる)。
議
意味
解字
形声。「言」+音符「義」(=道にかなって正しい)。話し合って事のよろしきを定める意。
下付き
異議・一議・院議・横議・会議・閣議・協議・凝議・軍議・群議・決議・建議・抗議・合議・再議・参議・思議・私議・衆議・熟議・商議・省議・仗議・審議・芻議・僉議・先議・詮議・争議・代議・朝議・提議・党議・討議・動議・発議・誹議・非議・評議・廟議・不可思議・付議・不思議・物議・紛議・謀議・密議・稟議・論議・和議
計
意味
解字
会意。「言」+「十」(=集約する)。口でよみあげた数(=言)を集約する意。
下付き
一計・会計・家計・活計・奸計・奇計・詭計・合計・歳計・三十六計・集計・主計・術計・小計・推計・生計・設計・早計・総計・通計・統計・日計・秘計・百計・謬計・謀計・密計・妙計・余計・累計・時計とけい
はかる
おもんばかる、思量を重ねることが必ずしもいいとは限らないのである。判断が重要になってくるのである。
ところで、白小袖も、よごれっ放しにしておかず、ときおり洗濯さえしておけば、いつも白く、見苦しくなくできるものである。
役人についても同様で、自分で自分の心の汚れに気を付け、絶えずこれに洗うようにさえするならば、汚らしくよごれ果てるようなことはない道理である。
尤も、白小袖っがよごれたのは、人間の垢やまわりのほこりできたなくなっただけであるから、質のよい灰汁で洗いさえすれば、垢もしみも落ちて、あとはきれいになるものである。
それにひきかえ、人の心には、種々さまざまなものがしみこんで、そのよごれ方もはなはだしいから、ただ、ざっと洗った程度ではきれいにはなりにくい。そのうえ、白小袖ならば年に一度か二度、洗いさえすればよいのだが、人の心の洗濯は、一日四六時中居ても立っても、またさまざまなことに心を動かすたびごとに、あるときはもみ洗い、あるときはふりすすいで、少しの油断もなく洗い続けていても、たちまち、そのあとからよごれけがれてしまうものである。
もっとも、白小袖にかぎらず、垢を落とす灰汁にはいろいろな種類があり、垢をそっくり落とす薬などもあるということである。それと同じように、武士の心の洗濯をするには三つの灰汁を使うのがコツとされている。
その灰汁とは、忠、義、勇の三つである。
心に染みついて垢の性質によって、忠誠心によって落とす場合もあり、また正義感によって落とすべき垢もある。その上に、もう一つの秘訣がある。もし、忠で洗い、義で洗ってみても、そのよごれがひどくて落ちにくい場合には、はげしい勇気の灰汁を少し加えて、全力を尽くしてしゃにむにもみ洗いしてから、さっぱりとすすぎあげるのだということである。これが武士の心の洗濯についての秘伝とされているのだ。
以上、初心の武士の心得として申すものである。
【解説】軽妙な語り口で聞き手をあきさせない。教育者友山の面目躍如たる汚職論である。とりわけおもしろいのは、賄賂をする側が役人の本心を知って、「表向きからは一円かまはぬふりにもてなし、或いは内縁にたより又は種々様々の手段を以て物を送りさへすれば」、贈られる側は知らぬ顔をしていくらでも受け取る、というくだりである。このへんに昔と今と共通するものが感じられる。
世間では、自分の兄の子も、弟の子も同じく甥と呼び、また自分の姉や妹がよそへ嫁いで生んだ子をも甥と呼んで、どれも変わらぬように考えているが、これは百姓や町人の場合のことである。武士においては、心には義理を重んじ、形には作法を守るものであるから、こうした点についても農工商の身分のものとは違っていなければならない。
例えば、一族の嫡子である兄の家に生まれた子は、自分にとって甥であっても、本家を相続する立場にあり、わが目上に当たる親、兄の跡を継ぐ惣領家となるのであるから、兄が亡くなり甥の代となっても、自分の親、兄を敬うようにその者に対して礼をつくすのである。これは決してその甥個人を敬うのではなくて、わが家の先祖を敬う心のあらわれなのである。
しかし、兄弟の子供であっても、二男、三男或いは自分の弟の子供に対しては、世間一般の叔父甥のつきあいでさしつかえない。また姉妹の子供については、甥には違いないのだが、他家の姓を名乗る立場にあるのだから、普段のことばづかいや手紙の文章なども、やや他人行儀に、丁寧にすることがふさわしい。
さらに、自分の甥、弟、あるいはわが子であっても他家へ養子にやった子供に対しては、すっかり他人となったものと心得るべきである。例えば、内輪の交際で顔を合わせた時などの言葉づかいなどはともかくとして、他人を交えての場においては、他人同様の態度をとらねばならない。
さもないと、養父方の親類や家来たちの目から見て「一旦、他人の子にしておきながら、相変わらず、わが子、わが弟のように扱っているが、そのくらいなら、最初から自分のところにおいておけばよいのに・・・」と軽蔑されるであろう。
もっとも、養父方の家にしっかりした者が誰一人おらず、家のまとまりもなくて相続もできぬという状態の場合においては、我が子、わが弟のことゆえ、放っておくわけにもいかぬということはあるであろうが・・・。
切
接設説節拙
次に、自分の娘を他家に嫁がせ、男子が生まれてから後にその夫がなくなり、幼い孫が跡継ぎの立場となったため、これからのことを婿方の親類と相談するといった場合には、十のものならば八つ、九つまでを婿方の親類にまかせて、こちらはひかえ目にしている心掛けが大切である。
但し、娘の嫁ぎ先が、婿の生前から家計が苦しく、その始末で親類たちの負担となっているような状態であれば、苦労している我が娘の世話をしてやるのは当然のことであり、あれこれとしてやらねばなるまい。
婿が亡くなったあとでも、何の苦労もないほどの暮らしであるとか、たとえ少しでも財産があるようであれば、舅の立場から差し出がましいことはいっさいやらぬという慎重な態度をとることが武士の本道である。
そうでないと、「孫がまだ幼いうちに、わが娘の内々の相談をして後見役をしているのは、どうも納得がいかぬ」などと、他人の批判が出てくるに相違ない。
次に、一族の本家筋、または先祖の主人筋、かつての上役といった人々の家が衰えて、みるかげもなく落ちぶれてしまった時、これを少しも粗末に扱うことなく、昔からのつながりを重んじて何かと配慮をするというのは、これまた武士本来の精神である。その時々の相手の景気ばかりを気にして、威勢がよいと思えば敬うべきでない者をも敬い、衰えたとみればいやしんではならぬ相手をもいやしむようであっては、まるで町人百姓同然の心がけであって、武士本来のあり方とはいえない。
以上、初心の武士の心得として申すものである。
武士には歩むべき道がある。立場を重んじ、本来あるべき姿・形を整えることがそれであり、恩に報いることで筋を通した。つまり義を貫いたのである。体面を重んじ、面子を損ねることを慎んだのである。男系の血縁関係を中心に家族内の序列が決められ、他家との関係も整えられた。
内外意識はこうして形成されたと考えられる。
親しき仲にも礼儀あり、親切ということについて 切
切と説と接と節と設
侍というものは、自分が奉公している主人の家に子々孫々まで勤めるつもりでいても、何かの事情によって、その家を離れることがある。
そして、前の主人との関係で差支えがなければもちろんのこと、もし、何かの制約でもあれば詫びを入れて自由な立場となり、ほかの主君に抱えられて奉公人となるというのが昔からの武士の仕来りである。もし、こうした事情から他家に奉公し、やがて、その家の古参の武士たちと親しくなり、朝夕に顔を合わせ雑談をするようになってからも、かつての主人の家のよからぬ噂などは、仮にも口に出してはならぬと決意することが、武士としての第一に必要な心がけである。
なぜならば、この広い世界において日本国の武士と生まれ、国の東西南北に大名、小名、城主などが数知れず居る中で、どのような過去の因縁によって主従の契りを結び、たとえしばらくでもその家に奉公していたとあれば、その間に自分の生活を支え、子供を育てることができただけでも、その恩を受けていなかったとはいえまい。そのように考えるならば、たとえ一日といえども主君と仰いだ人の悪い噂などということは、仮にも口に堕すべきものではない。
ところが、そうした判断もつかず、世間に知られていない旧主の噂までも、自分だけが知っているとばかり得意げに言いふらすなどというのは、あたかも小者、中間同然の根性と思われる。
かつてのご主人のことについては、それがたとえ不始末のために幕府のおとがめを受けた人であろうとも、噂すべきではない。もし人から尋ねられようと、あれこれとはぐらかして、その人の悪事などは一言も口にしないというのが武士としての正しい道である。
以上、初心の武士の心得として申すものである。
不始末→迷惑
噂
これは、ある意味では現在でも立派に生きる教訓である。
自分の出所進退を事情を知らぬ相手に語るとき、われわれは知らず知らずのうちに自己弁護をしているものだ。前の測場をなぜ山高について、自まんとも愚痴ともつかぬ話をくどくど聞かされれば、たいていの相手はうんざりするに違いない。それで自分の株を上げようなどと思っても、逆効果しか期待できないだろう。
人材の流動化が進んでいる最近の風潮から考えて、心にとめておきたい。
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五、六十年も昔のころまでは、出世を望む浪人たちの言葉に、「乗り換え馬の一匹も持てるようでなければ・・・」といえば、「五百石以上の知行でなければ・・・・」という意味であった。また、「せめてやせ馬の一匹も持てる程度」といえば「三百石程度なら」という意味、さらに「錆び槍の一本も持たせていただきたい」といえば、「知行取りの身分となれれば、たとえ知行は百石でも・・・・」ということばだった。
その頃までは、まだ昔の武士の気風が残っていたから、何百石ならば奉公いたしますなどと、自分の収入のことを数字をあげて口にしたくないという意地があり、こうした言葉となったものである。"武士は食わねど高楊枝"とか"鷹は飢えても穂を摘まず"などというのも、その頃のことわざである。当時は、年若い人は暮らし向きの損得、物の値段のことなどは口にせず、女色の話が出れば顔を赤らめるといった様子であった。
優れた武士を志す者は、及ばぬまでも、こうした昔の気風を慕い、それにならうようでありたいものである。鼻が曲がっても、(誇りを捨てても)息さえ出れば(暮らしに事欠かなければ)よろしい。といった根性に落ちぶれてしまったこと、まことに是非もないしだいである。
以上初心の武士の心得として申すものである。
戦国のころ、合戦に臨んだ武士が見事な働きをして討死を遂げ、あるいは重傷を受けて傷の手当てが及ばず落命したといった場合、主君、大将といった方々は、その者をとりわけ哀れと思召され、男の子がいれば、まだ一歳であっても家督を継がせて下さるものである。しかしながら、その子供がまだ幼少で戦場のお役が勤まらないというときは、たとえば死んだ親の弟などで浪人している者でもいれば、当分の間はその者に兄の遺産を預けられ、子供が幼少の間は後見をするようにと、主君から仰せ付けられることがある。これを、その頃には陣代、現在では番代と呼んでいる。
この神代、番代を勤めるにあたっての武士の作法というものが昔から伝わっているのである。それは次のようなことだ
先ず、右のような事情で兄の家督を相続することになったならば、その子供は自分にとって甥ではあるが、真実の我が子として愛情をもって育てることは当然である。
次に兄の家督を引き継ぐにあたっては、武具、馬具の類はいうまでもなく、そのほかさまざまな家財類をすべて一か所に集め、一族のうちの誰かを立ち合わせてそれを点検し、すべてを帳面に記載することが大切なのだ。
次に、その子供が無事にして十五歳ともなったならば、主君に対し、「来年はこの子も十六歳となり、若年ながら武士一騎前のお役にたつようになりますゆえ、これまで自分に下されておりました知行をこの者に譲り渡して、ご奉公させたいと存じます」との旨を、書面をもってはっきりと申し上げるのである。
この際、主君から、その願いはもっともではあるが、まだ当人は若年の子とゆえ、なお二、三年の間は、そのほうが勤めるように・・・などとのおおせがあるかもしれないが、たとえ、どのように重いおいいつけがあろうとも、きっぱりとお断りしなければならない。
こうして願いがかなったならば、以前に調べておいた帳面の記録に基づいて、先代の諸道具をすべて甥に引き渡すことが大切である。なお、自分が陣代を勤めている間にととのえた家財についてはその限りではないが、そのうちからもふさわしい品を選び、帳面に記して甥に譲り与えるとよい。
さらにまた、主君より家督を定められる折に、例えば石高五百石として、このうち三百石は甥に下さり、残る二百石は陣代を勤めていた数年の間、よい奉公ぶりであったゆえ、そのほうに与えたいなどと仰せられることもありうる。こうした場合には、「身にあまる幸せとしてありがたく存じますが、そのために本家の知行が減ることは誠に迷惑、何卒、兄の知行はそのまま甥にお渡し頂き、私には永のお暇をくださいますように」と、たってお願いすることが、とりわけ大切なのである。このようであってこそ、陣代、番代として武士の本望をとげる態度といえよう。
これに反して、すでに初陣を勤めるほどの年齢に達した甥に、いつまでも家督を譲ろうとせず、喩え譲るにしても、自分が陣代を勤めていた間に兄の道具類はすべて紛失し、家屋敷は住み荒したまま修理もせず、兄の代にはなかった借金やら買掛金やらをこしらえて、これを甥に押し付け、さらには扶持米や金銭をねだって若い甥のすねをかじる算段をするなどというのは、陣代、番代を勤める武士としては、全く道から外れたものといわねばなるまい。
以上、初心に武士の心がけとして申すものである。
彼らにとって、家督こそは権威の保障であり、生活のよりどころであった。戦国乱世のころとは違って、すでに定まっている価格は容易なことでは動く可能性はなかった。武家社会の余計者とされていた二、三男育ちの浪人が、たまたま長兄の死によって本家後見人の地位を得たとすれば、なんとしてでもそれを手離したくないと考えたのは、むしろ当然であろう。後見人と嫡子との深刻な争いがしばしば起こったことは容易に想像される。ここで友山は、言葉をつくして後見人の取るべき態度を説いているが、封建の秩序を護る為には、彼らが節操を貫いたという名誉だけをもらって、再び一介の素浪人に戻らなければならなかったことは、どこか哀れというほかはない。
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主人を持ち、奉公する武士というものは、大身小身の別なく、常に倹約を心がけ、家計を破綻させぬよう十分に考えることが大切である。もっとも、多くの俸禄をいただく武士の場合には、たとえつまらぬことに金銀を費やして一度は家計に穴を開けても、直ちに反省して、ここを切り詰め、あそこを削りというように万事節約につとめるならば、やがて家計を持ち直すことができる。これは暮らしに余裕があるからできることなのである。
ところが小身の武士が大身のまねをして無用なことに金をかけ、家計に穴を開けてしまった場合には、暮らしにゆとりがないために次から次へ赤字が尾を引いて、どれほど節約しても間に合わず、しまいには後にも先にも行けぬような破綻を招くことは目に見えている。
しかし、家計が成り立っているかどうかは私事であり、奉公人として勤めているからには同僚との釣り合いということもあり、どうしてもやむを得ない出費があるものである。そうした場合には、仕方なしにさまざまな算段をこらし、いうべきでないことを口にしするべきでない真似もして、人々から不義理なやつだ、恥知らずだと呼ばれる結果となるのも、結局は、家計をうまく治められなかったための失敗から起こったことである。
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そこで、小身の武士としては、平常からそのようなことを考えて、収入にふさわしい暮らしをし、少しでも不必要なことには金を使わぬよう心がけて、これはどうしても必要ということだけに金を使うようにするべきである。これが倹約の道というものだ。
ただし、倹約ということについては、一つの注意がある。それというのは、大身、小身ともに、倹約倹約といって出費を切り詰め、暮らしを質素にして節約に努めているうちに、まもなく家計が持ち直し、やがては手にしたことのない金銀がたまってくる。そうなると、ひたすら金が貯まることを喜び、減ることを惜しむ一方の卑しい根性となって、しまいには、出すべき出費もいやがり、出し惜しむような義理知らずとなってしまう。
このような者は、ただ金銀をため込むことばかりを考えているのであって、倹約ではなく吝嗇というものである。百姓町人ならばともかくとして、武士の吝嗇とあっては「三宝の捨て者(仏から見放された役立たず)」といって、最も嫌われるものなのだ。
なぜならば、人間として千金にも代えられぬ尊いものは我が命であるが、義理のためにはそれさえ捨てるのが武士である。それを、たかが金銀を、義理よりも大切にして使うのを惜しむようなきたない根性の持ち主がどうしててかけがえのない一命を惜しげもなく捨てることができるであろうか。
倹約の道を行うに当たって心得がいるといったのはこのところである。
以上、初心の武士として、よくよく肝に銘じておくべきことである。
かん‐じょう【感情】‥ジヤウ
感
意味
解字
形声。音符「咸」(=ショックを与える。うごかす)+「心」。物事に接して心が動く意。
下付き
哀感・叡感・音感・快感・共感・御感・偶感・交感・好感・五感・語感・雑感・色感・実感・情感・所感・触感・随感・性感・善感・体感・第六感・多感・直感・痛感・同感・鈍感・肉感・反感・万感・敏感・不感症・予感・流感・量感・霊感
かん‐じょう【勘定】‥ヂヤウ
勘
意味
解字
形声。「力」+音符「甚」(=深入りする)。程度が強い意。転じて、よく考え調べる意。
鑑
意味
解字
形声。「金」+音符「監」(=水かがみ)。青銅のかがみの意。[鑒][〓]は異体字。
下付き
印鑑・殷鑑・亀鑑・鏡鑑・図鑑・清鑑・藻鑑・大鑑・年鑑・武鑑・宝鑑・名鑑・門鑑
綻 字形
〔糸部8画/14画/3530・433E〕
〔音〕タン〓
〔訓〕ほころびる
意味
つまし・い【約しい】
〓形〓〓つま・し(シク)
約
意味
解字
形声。「糸」+音符「〓」(=しめつける)。糸をしばった結びめの意から、それを見てとりきめを忘れないようにする意となる。また、糸でしめつける意から、つづめる意となる。
下付き
違約・解約・確約・括約筋・簡約・規約・旧約・協約・契約・倹約・公約・口約・婚約・綽約・集約・縮約・条約・新約・制約・成約・誓約・節約・先約・前約・大約・通約・締約・特約・内約・背約・売約・破約・変約・密約・盟約・黙約・要約・予約
奉公を勤める武士として、古参の者は勿論のこと、たとえ奉公して日の浅い新参であっても、主君のお家の起こり、代々のご先祖のこと、ご親類方の続柄、さらには家中の人々のうちでも、世間に名を知られているものの噂などについては、古老の人に問いただして、詳しく承知しておくことが必要である。なぜなら、他家の人々と同席して話し合った時、自分が奉公しているお家について尋ねられ、それも知りません。そのことも聞いておりませんなどといっていては、うわべは立派に見えていた者までも、なにか頼りなく思われてしまうものだからである。
以上、初心の武士への注意として申すものである。
奉公を勤める武士というものは、多くの同僚の中から、勇気にすぐれ、義理を重んじ、思慮深く才能あり、言うべきことははっきりと述べるような武士を選んで、日頃から親密となり、公私ともに深い交わりを結んでおくことが大切である。
そのような武士というも尾は、家中の多くの同僚の中にもそうたくさんはいないものであるが、たとえ一人、二人であっても、その他の友人を何人も数多く持つのに匹敵し、なにかというときには非常に頼りになるものである。一般に、武士が友人を持つのに人をえらぶことをせず、誰とも彼とも親しくしては飲食の交際ばかりを頻繁にしているのはよろしくない。なぜなら、武士が親しい人間関係をむすぶためには、長い間に亙ってお互いの精神を見届けあうことが必要なのである。それを、ちょっと付き合ってみて、あれは面白いぞ、話が合うぞといったことから、武士らしくもなくだらしのない交際をして、たがいに悖れあって小唄や浄瑠璃をうたっては夜を明かし、おれ、おまえといい合うほど仲良くなったかと思えば、つまらぬことからいい合いになって絶交し、誰も仲裁しない状態となる。そしてまた、いつの間にか仲直りをするなど、どこをとっても武士らしい一本筋の通ったところのない友達づきあいをしているものがある。こういう連中は、姿や形は武士であっても、その心は人夫、人足と変わるところがなく恥ずかしいしだいである。よくよくつつしむように。
以上、初心の武士の心得として申すものである。
人間関係において一番良いなのは、お互いの弱さで結びつくことだ。遊び友達、怠けの友達はすぐにできる。そうした安易な人間関係の無意味さ、有害さを説く友山の言葉の中には現代にも通じる人間の愚かさがリアルに浮き彫りされている。
奉公を勤める武士が、主君からか家屋敷を頂戴し、普請などを行う際には、外側の長屋門、玄関の様子、座敷の有様などについては、身分相応に、いくらか立派にしておくことが、望まし。というのは、どこの城下においても、白の一番外側の一画にある武家屋敷のところあたりまでは、他国の人々も入り込み、眺めていくものであるから、そこにある武士たちの家々が立派であれば、なるほど城下も賑わい、家中も安定していると思うであろう。これは主君のお為にもなることである。
しかし、それ以外の奥座敷や祭祀などの住む場所は、雨さえ漏らなければどんなに見苦しくとも我慢して、家の普請などにはできるだけ費用をかけないようにする心構えが必要である。何故なら、乱世の大名たちは城を構えるにあたって、常に籠城の覚悟をしていたから、城内二の丸、三の丸に奥屋敷であっても軒は低く、梁の間は狭くして、万事手軽なつくりとするよう定められていた。まして城下の外曲輪に住む武士たちの屋敷については、もしもの時には、すべて自ら火をかけて取り払うたてまえであったから、後々まで残すような普請などすることがなかったのである。
そこから、いたって手軽な工事の事を「根小屋〈城のまわりの家〉普請のようだ」などというのである。
こうして考えると、たとえ今の媼太平の世であっても、立派な武士となることを志すものならば、家屋敷のつくりにいろいろと凝って、多額の費用をかけ、いつまでもそこに住もうなどと考えるのはあまり感心できない。また、思わぬ火事にでも会えば、焼け跡をそのままにしておくわけにはいかず、さっそく相当の小さな家でも建てねばならない。ところが、そうした考えもなしに、財力以上の家を立てて金を使い果たし、こんなに借金をしてしまったなどと喜んでいるなどは、武士として誠に不心得至極のつまらぬ道楽というよりほかはない。
以上、初心の武士の心得として申すものである。
文字通りのマイホーム主義への批判である。生活の近代化、合理化を唱える識者が、「日本人のすまいは玄関や座敷ばかりに金をかけて、主婦の居間や台所が一番冷遇されている」と説くようになってから久しい。その効果は大いにあがって、今や主婦にとって、まことに居心地の良い家が続々と建てられていることは歓迎してよいのだろう。
だが、評論家書士が口を極めて避難した、外回りばかりに金をかける考え方が、かつては「主君の御為にも少しは罷り成る」、つまり忠義の心のあらわれであったとは、知る人は少ない。
武士道を論ずるとき、最も重んじられているのが、忠、義、勇の三つの美徳である。この三つを一人で完全に兼ね備えている武士を、最高の侍というのである。
忠義勇の三字を続けて口で言うだけならば何の苦労もないが、この三つを心に刻み付け、身をもって実践し通すというのは極めて大変なことである。
従って、古来から百人、千人の武士の中にあっても、最高の侍というものはまれであるといわれているのである。
さて、忠節をつくす侍、義理を重んじる侍というものは、日ごろの行動を通じて判断がつくので、比較的、知られやすいということがいえる。それにひきかえ、勇気ある侍というのは、現代のような泰平安楽な時代には、ちょっと判別する機会がないのではあるまいかとの疑問もあるようだ。
しかしながら、そういうことはいっこうにない、よくわかるものである。
それというのは、武士の勇気というものは、甲冑を身に付け、鎗や長刀を手にして戦場に臨み、勝敗を争うときになって、はじめて発揮されるというものでは決してないからである。日頃の畳の上での勤めの中で、これは勇者、これは不勇者という見分けが、鏡に映すようにはっきりとできるものなのだ。
なぜならば、生まれつきの勇者とは、すべての善を積極的に行い、様々な悪をきっぱりと拒絶する者だからである。従って、主君や親に仕えても、人には真似のできぬような忠義、孝行をつくし、少しでも暇ができれば学問を学び、武芸を鍛錬し、贅沢を慎んで一銭の出費をも節約する。それでは吝嗇できたない根性かと思えばそうではなく、これは出さねばならぬものというときには、他人は出せそうにないほどの金銀を惜しげもなく出してしまう。主君から禁じられたことや親たちの嫌うことについては、どんなに行きたいところへも行かず、したいこともしないで、夫君や親の意向を大切にする。自分の健康をいつまでも保って、一度は大きな手柄を立て、お役にたちたいという執念を持っているから、摂生に心掛け、食べたいもの、飲みたいものもおさえ、人間として最大の迷いとされている色の道をも慎む。そのほか、すべてのことがらについて、困難や誘惑に負けぬ根性があるというのが、勇者である証拠である。
潔さと表裏一体である
これに対して不勇者はどうか。彼らは主君や親を敬うといっても表面だけのことで、本当に大切に思うまごころは持っていない。それだから、主君のお家の禁制や親たちの嫌がることはしまいという自制がなく、行くべきでない場所をうろつき、するべきでない行為にふける。万事に我儘が先に立ち、朝寝昼寝を好み、学問などは大嫌い、武士の天職である武芸を習うといっても、なにか一つを突き詰めて身に着けようとする気がなく、あの芸、この術といい加減にならって、実際の腕は立たないのに口先ばかりの芸自慢をしゃべりまくる。わずかばかりの知行をいただけば、それを前後の考えもなしに使いまくって、役にも立たぬ馬鹿騒ぎや食道楽には惜しげもなく金をかけるかと思えば、必要なことには費用を惜しみ、親譲りの古い鎧のおどし毛は切れ、塗の剥げたのを修理しようともしない有様であるから、何よりの大切な武具や馬具が不足していてもそれを点検し新調することなど思いもよらない、もし病気にかかったときには主君への奉公もできず、親たちに心配、苦労を掛けることになるとの考えもないため、大食、大酒を過ごし、色の道にふけって、自分の寿命にやすりをかけるような真似をしている・・・。
これらはすべて、物事を耐え忍ぶということのできぬ柔弱未練の心から起こることであり、不勇者、臆病武士の証拠であると判断して、まず間違いはない道理である。
こうしたわけで、勇者と不勇者との区別は、泰平の世の畳の上においても、まぎれもなく見分けられるというのである。
以上、初心の武士への注意として申すものである。
真心 (欠落) 自制 自分 口先・小手先
意志→物事の忍耐 ⇔ 柔弱未練→臆病・不勇者
往々にして、忍耐と勇気とは相反するもののように考えられる。「やりたいからやるんだ」とばかり衝動的に突っ走るのが男らしいと錯覚しているむきも少なくないようである。
だが、真の勇気、とりわけ日常の平穏な生活の中で発揮される勇気とは、強烈な目的意識に支えられた地味な忍耐の積み重ねとなってあらわれる。勇と忍の関係を、現代社会に当てはめて考える必要があるのではないだろうか。
古き侍の申し伝えに武士を嗜む侍は世間の大名方のお噂と医者の噂とは惣じて悪くは申さぬものなりと相心得べしと之有り。仔細を申すにその大名にの家を我こそ望まずとも身近き親類縁者の中より奉公に罷り出でて主人と仰ぐ様なる義もある間敷に非ず。然る時は兼ねてあしき主人とある義能く知りて悪く申すほどならばその家へ身近き者の奉公に出るを押へ留むる事をも仕らず其の通りに致し置きたるは如何にとある人の下げ墨もなくては叶ふ可ならずとの遠慮也。次に医者の義も其の医者へ我が家内の病人をこそ無心申さぬとても親類知音の中において、大切病人など之有り其の医者の療治を以って気色本復仕たる義など之有る時は其処許の御願いにて大切の病気を取直し我等式迄も忝次第に存ずるなど厚く礼をも申述べずしては叶わざる如くの義も之有る可きかとの遠慮也。人として此くの如く心を用いるに付いては物に後悔とある義は左のみ之無き筈の事にて候得共其の了簡うとく物事一かわ思案にて差当り心にうかぶ程の事をば口拍子に語り以後の考えなしに言わぬ筈の人の噂をも遠慮なく申散し我が荷かせにもならぬ人の身の悪事をかぞへ立て誹嘲り悪行ものの名取りを仕るとあるは畢竟武士道不案内の不吟味より起こる過失也。仔細は我が噂を人があしく申すとある義を慥に伝へ聞きたるにおいては扨ても聞こえぬ事かな何ぞ意趣もあらば其の致し方こそ有るべきにさはなくして陰噂を悪く仕るとあるは近頃侍の様にもなきむさき所存の不届きかなと見かぎり思わずしては叶わず。其の上いかに影言たりとも品に依っては聞捨てに致しては差置きがたきごとくの次第も有るべし。たとへ聞遁し致して差置くとても永く心にこめて遺恨に思うとあるは定まり事也。爰を以て存ずる時は我が事を人がいか様にあしく言うとても夫を何共思わず咎むる心もつかぬ如くのうつけ者ならでは他人のあしき陰口を口広くは申さぬ筈との了簡尤也。是に付き大口ものと悪口者とは相似たる様にて大いに違ふと心得るがよき也。
仔細を申すに古き武士の中には大口者の名を得たる侍いか程も之有り。すでに公儀御旗本においても松平加賀右衛門大久保彦左衛門など申したる人々は随分大口きき也。其の時代には諸国大名方の家々にも五人三人づつ大口者の聞へある侍のなきとあるは之無し。その大口者と申すは何れも数度の武偏手柄を顕し武士道一通りにおいては無類也といへ共折節には分別相違仕りややもすれば片情をはりつめ物の相談相手に成兼ね候所が身上の押さえとなり其の身の武偏高名の誉れに合わせては知行も職役も不足とあるより事起こりてわざくれ心となり相手を嫌わずきれ口の言い度まま斗を申すといへ共主君を始めその家の家老年寄りも其の者共の義をば制外の如く見遁がし聞きのがしの様に成行きを以って、いよいよ我儘につのり遠慮会釈もなく人の上の善悪を心一ぱいに申散し一生が間大口をきき死に仕る是を昔の大口者とは申す也。其の大口者の義は年若き時分人のならぬ武偏手柄を仕り腕に覚えありての大口也。当時天下静謐の時代にはいか程勇気に生まれつきたる者とても手柄高名を極べき場所とても之無き義なれば具足を一度肩に懸けたる覚えもなくて己が相口なる友朋輩と打ち寄りては主君の御家の仕置きの善悪あるいは家老用人の難非をあげ其の外諸朋輩の噂までをも腹一ぱいに申し散しおのれに斗利発也と存ずるごとくなるうつけものの義は昔の大口者とは天地雲泥の違ひなればこれを名付けて悪口ものともまたは馬鹿口たたき共申す可き者也。初心の武士の心得の為仍て件の如し。
昔の武士のことばとして「武士として身を立てようとするものは、世間の大名方の噂と医者の噂をする時は悪口はいうものでない」と言い伝えられている。
何故かといえば、ある大名の悪口をいった場合、その大名の家に、自分はともかくとして身近な親類の一人などが奉公するということもあり得ないことではない。そのような時、周囲の人の見る目として、「あのように悪口をいっていた家へ自分の身近なものが奉公に上がるというのに、それをやめさせもしないのはどういうわけか。筋が通らない」といった批判や軽蔑を受けずにはいられないからである。また、医者の悪口を言ってはならぬと言うのは、その医者に自分の家の者はかからぬにしても、親類や友人の中には、重い病気にかかってその医者の治療を受け、全快する者が出てこないとは限らない。その場合には、かつて自分が悪口をいった医者に対して、「此のたびは、あなたのお骨折りによって重い病人を治療していただき、我々もたいへんありがたく存じております」などと、厚く礼を言わねばならぬことも起こりうるのである。
このように、万事気をつけていさえすれば、物事に後悔するということも、さしてないはずであるが、一般にはそこをよく考えようとせず、何事もとっさの判断だけできめてしまう者が多い。思いつくままを口から出まかせに喋りまくって、口にすべきでない人の噂もかまわずいい立て、自分とは何の関係もない人の悪事をかぞえあげては非難嘲笑して、口が悪いことで有名になるなどというのは、結局のところ、武士道というものがわかっていないところから出てきた失敗である。
《後悔する》ことのないよう《万事気をつけて》行動すること、《何事もとっさの判断だけできめてしまう》ことのないよう、《自分とは何の関係もない人》にも深謀遠慮するよう誡めた。
変法においては、思慮分別を差し挟み、後れを取ることにつながる。《間髪を入れず》行動することが求められたが、常法の時においては、思慮分別する余裕がある。余裕を生かし深謀遠慮することが必要になる。穏やかな時こそ油断が生じる。《蟻の一穴》を恐れたのである。
時宜に宜しく、節度を重んじ、放縦に振る舞うことを戒めた。
もしも自分が、人から悪いうわさを言いふらされているということをたしかに聞いたとしよう。その時には、「何とも承服できない。なにか恨みでもあれば他にやりようもあろうに、陰口を言って歩くとは、まことに侍らしくもないけがれはてた根性の奴だ」と愛想を尽かさずにはいられまい。さらに、いかに陰口とはいっても、こととしだいによっては聞き捨てにしておくわけにいかぬこともあろう。
たとえ聞き捨てにしておいたとしても、その恨みは長く心に残るのが当然である。
そのように考えると、他人の陰口などというものは、自分の事を人がどのようにいって回ろうとも、一向に気にしないような馬鹿者でない限り、するものではないと承知しておくべきであろう。
わが身を振り返る、わが身に置き換えて考えることを説いている。
武士は面子を重んじた、名を惜しんだのである。その名がけがされることは最大の侮辱である。そうしたことを思わずしでかすことのないよう自制するに当たり自省をを求めた。
ところで、大口をきく者と、悪口を言う者とは、よく似ているようだが、実は非常に違っているということを知っておく必要がある。昔の武士の中には、大口者として名を知られていた人がいくらもいたものである。幕府のお旗本の中でも、松平加賀右衛門、大久保彦左衛門といった人々は、たいへんな大口ききであった。その時代には、諸国の大名方のお家に大口者として知られた侍が三人五人と居ないところはなかったのである。
この大口者といわれる人は、いずれも度重なる武勇の手柄を立て、武道の心得についてはすべてに優れていたにもかかわらず、時として物事の判断を誤り、強情を張り通すので相談相手にすることができず、それが災いして、武勇の誉れが高い割には禄も身分もさほどではない。これを不足と思う所からひがみ根性となって、相手かまわず言いたい放題のことをいいまくるが、主君をはじめ重臣の人々も、その者については別扱いにして、何をいっても見逃し、聞き逃しているこのため、ますますわがままがひどくなって、他人の善悪を遠慮会釈もなく言い立てて、一生の間、大きな口を叩いて死んでいいったというのが、昔の大口者であった。
このような人々は若い時分には人には真似のできぬ武勇の手柄を立て、腕に覚えがある上での大口者だったのである。
現在のような天下泰平の世にあっては、どれほど勇気があろうとも、武勇の手柄を立てる機会などは全然ない。こういう時代に、ただの一度、鎧を身につけて戦場に出会経験さえもないものが、気のあった同僚と集まっては、主君のお家のやり方や、家老用人の誰彼についてあれこれと批判し、同僚たちの噂を好き勝手に言い散らして、自分だけで利口ぶっているなどは、昔の大口者とは天地雲泥の相異がある。
こういう連中を名付けて、悪口者とも、馬鹿口たたきとも呼ぶのである。
以上、初心の武士の心得として申すものである。
大口者とは、《武勇の手柄を立て、武道の心得についてはすべてに優れていた》が《物事の判断を誤り、強情を張り通す》ので《武勇の誉れが高い割には禄も身分もさほどではない》者であった。つまり、その働きが認められている者である。一方、悪口者、馬鹿者と呼ばれるのは、武功を立てる機会がないにもかかわらず、分を越えた口を叩くものの事である。
要するに、実績主義である。功を遂げて資格が与えられるのである。実績を上げる機会がないとき、誰にもその資格は与えられない。だから今、大口をたたくのを馬鹿者と呼ぶということである。
友山の若いころまでは、まだ戦国の遺風も残っており、時代に取り残され、大口を叩いてうっぷんを晴らしていた戦場の勇者のなれの果てが珍しくなかったのであろう。こうした人々への同情と共感が、泰平に埋没して要領よく日を送っている”当代”の若い武士たちへの軽蔑、反発と二重写しになっているところは、思い当たる節が多い。
主君を持ちたる武士御側近く奉公申し上げるに付きては其の身の役儀に付きまたは外の御用に付いても是々の儀を如何存ずるなどなどなどの仰せを蒙る義も之有る可き也。左様の節は我が存寄一通りを申し上げるにいや左様にては宜しからず如何之有りて然るべしなど御意あるに其思し召し道理に叶わずと存じ奉る時は慎みて是を承り然らば私の存じたがひも御座候かと申し留めてその上のご機嫌を相伺いて罷り在るべきなり。左様之有る時は又外に御思案をもあそばしかへ成さるに付御賢慮のたがひ之無きごとく罷り成るを以て御為宜しき也。幾度も御ことばを返して是非左様にては御座なく候と憚りをかえりみず物を申し上ると其の人にもよるべき義也。大躰をし渡りの奉公人の上においては先ず以って慮外の至りなればいかに御為と存じ寄りても左様には罷り成らざる義也。但し御意の趣道理に相叶わずと我心には存じ弁えながらも、当座の思し召しにさえ叶えばよきぞと分別致しかえ宛前申し上げ候は私の心得違いにて御座候。只今相考え候へばなるほど御前の思し召しの通りにて宜しく御座有るべくと存じ奉るなどと申し上げる様なる義は大不忠の不届き此の上有るべからず。惣じて奉公勤る武士の義は主君の御意に入り度しと存ずる心の毛頭程も差し出でざる様にとある心得の慎みを第一には仕るにて候。我が当たり前の奉公を油断なく相勤めても御意に入らざる分は手前の不幸故の義是非に及ばずと覚悟を極め罷り在るを奉公仕る武士の本意とは申す也。
初心の武士の心得の為仍て件の如し。
主君大側近くにご奉公していると、自分お役目について、あるいはその他のことについて、主君から直々に「こうしたことを、どう考えるか」などとお尋ねを受けることがあるだろう。
こうした場合には、まず自分の考えを一通り申し上げるのだが、これに対して主君が「いや、それはよろしくない。このようにすべきではないか」などと言われ、その御意見が道理に外れていると思った時には、これを謹んで承ったうえで、「それでは、私にも思い違いがあったかと存じます」と申し上げ、後は御機嫌のよい折を見て、またお話するようにすべきである。
そのようにすれば、そのうちにまたお考えが変わり、誤った御判断に陥らずに済むもので、結局は主君の御為にもなるのである。
これに反して、幾度も主君のおことばを返して、「いえ、決してそうではございません」などと遠慮もなく申し上げることは、その家来の立場にもよるが、よほど注意せねばならない。一般にお家の譜代でもない奉公人の場合には、こうした態度は非常に無礼とされているから、いかに主君の御為を思ってのことであろうと、許されぬことである。
そうかといって、主君大言葉が道理に外れていることを承知していながら、その場その場で御機嫌がよければよろしいと思い直して、「さきほど申し上げましたのは私の考え違いでございました。ただいま、よく考えてみましたところ、なるほど殿さまのお考えのとおりで結構と存じ上げます」などと申し上げるなどは、実にこの上ない大不忠、不届きの沙汰である。
およそ奉公を勤める武士としては、主君のお気に入り対などという気持ちを毛頭も持たないのが、第一に大切な心がけなのである。自分に与えられた任務を怠ることなく勤めていればよろしいので、もし、それでもお気に召さぬとあれば、わが身の不運とあきらめるのが奉公を勤める武士の本道というものである。
以上、初心の武士の心得をとして申すものである。
目上の人との応答は難しい。ともすれば迎合に走りがちだし、そうなるまいと意識しすぎると、不自然に我を張って悪印象を与え、裏目に出ることが多いものである。封建の身分制の下では、余計その危険が大きかったに違いない。
大身の武士は申すに及ばすとたえ小身たりとも主君より相当の恩禄を申し受け既に一騎役をも相務める程の侍の義は此の身をも命をもかりにも我物と心得候ては事済申さず候。仔細を申すに武家の奉公人のうちにも二段の様子之有り候。例えば足軽以下小人中間など申す類の者の義は小扶持小切米を取りても昼夜共に其の身の暇なく手足に骨をば折候得共其の代わりには大切の一命を必ず主君のご用に立てねばならぬとある如くの定めとては之無きに付武家第一の奉公所と相定まりたる合戦の迫合いの場所において少々逃げ走るか未練のふりあいに及びてもあながち不届きと之有る如くの詮議詮索も懸り申さず候。然らばその身ばかりをうり切りの奉公人とも申すべきかにて候。扨又武士の儀は二つなき大切の一命を捨てるをもて約束の第一の相定めたる奉公人に相極まる也。去るに依って末々の者の如く手足にはさのみ骨を折り申さず候えどもすはや体祖父御用とあるに至りては一足も引きの数して晴なる討死をも遂げ或いは敵の放ちたる矢面に立ちふさがり主君の大将の御身代わりにも罷り立つ事にてはこれを重宝と有て常々恩禄を厚く賜り御目を懸けられて召しおかるると有るも乱世には成程御尤もの至りと申すべく候。治世の今時は左様の御入用も之無きには武士ほど費えにみえかく高直なる者とては此れ無く候。仔細を申すに大身武士の儀は申すに及ばずたとえば百石と申す小知にてもあれ十年には千石と申す米高に罷り成り候を親祖父の代より其の身の代まで何十年ともなく拝領致し来りたる俵子を穀代に積もり候わば凡そ如何程の金銀にて之有るべきかと考え見候手の上に主君の御恩の深きをも又は御家来の扶助成され置かれる主君の御奥意の程をもとくと勘弁仕り見申す事肝要也。その御奥意と申すは右の如く家中大小の諸ざむらいに大分の知合切符を年々に下し賜るとあるは大きなる御失墜とある義を主君の御心にもご存じなきと申すにては之無く候得共しゅくんはもとへんおおやくにんんおぎなればまんいちよのへんもこれあるときはおんたいしょうのよそうおいをなされてしゅっせいしゅつじんなどこれあるみぎりごしんじょうそうお
大身の武士は言うまでもないが、たとえ小身者の身であっても主君からそれ相応の俸禄を頂き、一人前の武士としてご奉公するほどの者であれば、わが身もわが命も、かりそめにも自分のものと考えてはならないのである。それはどういうわけか。
武家の奉公人の中には、大きく分けて二つの種類がある。
足軽以下、小者、中間といった身分の者たちは、小額の俸禄を頂いて、昼となく夜となく手足を働かす御奉公をしているが、その代わりに大切な一命を主君のために捧げねばならぬというきまりはない。従って、武士としての最高の働き場である戦場において、逃げ去ったとか、臆病な振る舞いがあったとか言っても、別段、不届きと呼ばれて追及されるおそれもない。いわば労力だけを売って暮らす奉公人ということができよう。
これにひきかえ、武士というものは、二つとない大切な命を捨てて主君につくすことを第一の約束として奉公する身分にほかならない。
従って、下々の分の者のように、日頃手足を働かせてご奉公することはないが、いざ対象のご用というときには、一歩も退かずにあっぱれの討死を遂げ、あるいは敵の放つ矢の前に立ちふさがって、主君、大将の身代わりを勤めるのが役である。したがって、主君もこれを大切に思し召され、日頃から多大の俸禄を下さり、目をかけておられるのであって、乱世においてはそれも当然のことだったと言えよう。しかし、泰平の世となって今日では、そのような必要もなくなっており、およそ武士ほど費用がかかり、高くつくものはなくなっているのである。
なぜならば、大身の武士は言うまでもないが、たとえわずか百石の縁であっても、十年の間には一千石の石高となる。これほどのものを親、祖父の代から何十年にわたって拝領しているのであり、それだけの米を金額に引き当てて考えれば、どれほどの金銀に当たるであろうか。
この様に思うならば、主君の御恩がいかに深いものであるかがわかるが、同時にそのようにしてご家来を養っておられる主君のご本心はどのようなものであるか、そのことをも考えることが大切である。
その御本心とは何か。主君におかれても、このように家中の大小の侍に毎年の俸禄を下されることが大きな出費となっているのをご存じないわけではない。しかし、主君には、もともと戦乱に際してのお役目というものがあり、万一非常の事態が生じたときには、大将のお支度をなさり、出陣されるわけで、その際はお家柄相応の軍勢をおそろえにならねばならない。たとえば十万石の知行であればば騎馬武者百七十騎、弓足軽六十人、鉄砲足軽三百五十人、槍武者百五十人、そして大将の旗本と、これだけは公儀の定めによる軍役である。それ以上の人数については、その大将のご力量なり、お考えによって決められるのである。また、こうして既定の軍勢を引き連れて出陣された後、お城をあけておいて不慮の事態を招いてはならないから、お城を守り固める必要なだけの人数も確保しておかなければならない。
このように考えてみると、普段は家中に多くの人々がいるように思われても、いざそのような場合となると、第一に不足するのが人というものなのだ。
現在は太平の世であって、世間には数多くの浪人がいるから、もしもの時には、これを召し抱えればよいとの考えもあろう。なるほど、そうすれば人を集めることはできよう。
だが、身分の高下に拘わらず、人はなじみというものに大きく左右される。
もちろん、ひとかどの武士であれば、臨時に召し抱えられた者であっても役に立たぬということはないであろう、だが、数代、数年にわたって主君の御恩を受け、日頃のお情けを頂いて、それが骨身にしみ、一度はあっぱれな奉公を勤めて日ごろのご恩にお報いしなければ・・・と固く決意しているような武士でなければ、いざ一大事というときのお役にたつことはできないものである。
主君、大将と呼ばれる方々は、このようなお考えをもっておられるからこそ、平生はさして必要ないにもかかわらず、大身小身、数多くの侍を抱えておかれるのである。家中に多くいる先祖代々の侍の中には、話にならぬ不出来なもの、生まれながらに五体不具なもの、あるいはいくらか馬鹿のように思われるものがいても、すべて大目に見て、決まりどおりの俸禄を賜り、召し抱えておられる。一旦、非常の事態が起こった時には、家中一同が日ごろの主君のご恩とお家へのなじみによって、身命をかえりみぬ働きをしてお役にたつに違いないと、それだけを心強いことと思召しておられるために他ならない。
これが家中の侍たちに対する主君、大将のご本心というものである。
そこで、ご家来の身としても、右に述べた主君のご本心を推察し、自らも奉公人としての決意をはっきりと決めなければならない。
その決意とは何か。日頃勤めている警固、お供、お使いといった役目は、泰平の世の武士が、ただそこに体を置いているという程度のご奉公であって、世間にありふれたことであり、きわだったご奉公とは言えぬものである。
しかし、もし明日にでも不測の変事が起こったならば、そのときこそは人に勝れた武勇をあらわし忠義を尽くさずにはおかぬという決意によって、日頃から武芸の鍛錬につとめ、分相応の家来や馬をもち、武具や馬具をも整えておくのである。そして、一旦、非常の事態となったならば、自分の属する隊の中に何十人の侍がいようとも、平地の合戦ならば一番槍、城攻めならば一番乗り、もしも味方が戦い利なく退くときは殿、以上三つの働きは軍神、摩利支天もご照覧あれ、他の者には決してさせぬと人に向かってはいわなくとも、心のうちにかたく思い定めておくのが、奉公を勤める武士としての決意なのである。
さて、このような決意を固めたからには、もはや我が身も我が命も、自分のものではない。いつなんどき、主君のご用に差し上げるか予測もつかない次第である。そう思えばこそ、ますます身命を大切にして、大食、大酒、淫乱などの不摂生をつつしみ、一日も長くこの世にとどまって、、なんとしても一度は主君のお役に立ってから命を捨てたいものと考えるべきである。
そうであれば、畳の上で病死することさえ残念に思われるのに、ましてや愚にもつかぬ喧嘩口論を起こして友人同僚を討ち果たし、自分もまた身命を失うなどということは、この上ない不忠、不義の振る舞いと知って、十分に自粛自戒しなければならない。
そのための第一の戒めといえば、まず軽々しい口をきかぬことである。
一体武士というものは、口数の多いのを嫌うものであるのに、それを心得ず、役にも立たぬ口を多くきくところから口論が起こり、それが募って喧嘩となり、喧嘩が起これば必ず雑言が飛び出してくるのである。
武士と武士との間で雑言が出てしまっては、それで無事におさまることは、万に一つもあり得ないことである。
それであるから、最初、口論になるより前に、そのことを心に決めて、わが身はかねてから主君に捧げ奉ったものであることを思い出し、怒りを押さえる者をさして、忠義の武士とも分別ある武士ともいうのである。
私心ではなく、士心を持つことである。
心得とは、心を得るために必要なことであり、誰の心を得るのか、ここにおいては、主君の心を得ることこそ、一心同体の働きをする武士の誉れである。
しかしながら、家中の数多くの同僚の中には、気違い同然の馬鹿者もいる場合がある。こうした馬鹿者は、道理にもならぬことを言って、人がきかぬふりをし、相手にならないと、さては恐れているなと思い込み、ますますかさにかかって、様々な悪口を言い散らし、しまいには誰しもそのまま聞き捨てにすることができぬような雑言を言いかけてくることがあるものである。
これは武士として最大の不運、災難と言わねばならない。
万一、そのような成り行きとなってしまったならば、その雑言を受けながらも、きっぱりと決意を固め、できる限り気を落ち着け、その時と場所柄から判断して、その場で決着をつけるのは差しさわりがあると思えば、一旦宿所に帰って、公私ともに大切な用事などがあればそれぞれ始末をつけて、もはやこの世には心に残ることは何もないようにしておく。次に右の口論のいきさつを、その場に居合わせてよく事情を知っている同僚などを証人として、一通の書類に書き置くのである。
こうしておいて、機械を見て相手に挑み、従運な勝利を得て恨みを晴らしてから、直ちに自殺しようとも、あるいは検使をお招きして切腹を遂げようとも、それは各人お思いのままでよろしい。
この様にすれば、同僚たちも、まことに適切な態度と感心するであろうし、主君のお心にも、立派なやり方であったとお考えいただくことができよう。
こうして、不忠の罪のお詫びも、いくらかはできようというものである。
ところが、このような思慮にかけた若い連中は、その時の怒りに心を奪われて、馬鹿者といきなりぶつかって切り合いとなり、軽率至極な犬死同然の死に方をするものだが、これは右に述べたような、奉公する武士の身命は、既に主君に奉ったもので、我がものではないという認識が欠けているためというよりほかはない。よくよく心にとどめておくべきことである。
以上、初心の武士への注意として申すものである。
家来とは、こうした武士の作法に従う者のことであった。
主君の恩義がいかに重いか、主君の御期待はどこにあるのかという道理を、まことに即物的に、諄々と説いてきた友山が、この項の最後の下りに来ると、突如としてすさまじい決闘の心得を熱っぽく語り出すのはどうしたわけか。理屈を言えば、馬鹿者から何を言われようと黙殺して、ひたすら忠義を励めばよいと思えるのだが、どうもそういうことではないらしい。
藩という共同体の中で、武士の一分が立たぬような雑言を浴びせられて黙っていれば、それを認めたことになり、恥知らずとして葬り去られるほかはない。喧嘩の相手が馬鹿者であろうとなかろうと、違いはなかったのだ。そして、恥知らずと呼ばれるよりは死を選んだ強烈な”恥”の意識、それは内面的な信念よりも世間の目に左右されがちな他人志向のもろさをもっていたにしても、封建の世を支える筋金となっていたことは否定できない。
見栄を張ることで、筋を通したのである。
奉公仕る武士我居屋敷にてもあれ長屋にてもあれ近所に罷り在る朋輩の中に重き病人または愁い事など之有るにおいてはたとへ其の者へ心安からぬ挨拶たり共高笑音曲等の義難く相慎み妻子召使などへも其の段急度申し付く可き也。その先のもののおもわく斗にも之無く諸朋輩の下げ墨にも無遠慮の至り扨ても不作法者かなと有る誹りはなくては叶はずと有るつつしみなり。初心の武士の心得の為仍て件の如し。
奉公を勤める武士が、わが屋敷なり、お上の長屋なりに住まっている時、近所の同僚の家に重病人ができたり、不幸でも起きたような場合には、たとえその同僚と親しい関係にはなくとも、大声で笑ったり、音曲などすることは固く慎み妻子や召使にも之を厳しく言いつけねばならない。
これは、相手の家のものへの配慮というだけではなく、他の同僚の目からも、無遠慮、不作法の至りとの軽蔑を受けぬためのつつしみである。
以上、初心の武士の心得として申すものである。
武士というものは、自分の妻について、どうも気に入らぬというようなことがあれば、その道理を説き聞かせ、十分に納得するように教えてやって多少のことであれば、こちらが我慢をし、許してやるのが妥当なやり方である。
但し、いたって性格が悪く、これは到底役には立たぬと思うほどであれば、はっきりと離縁をして親元へ送り返すというのも、やむを得ないことである。
ところが、そのようなこともせず、自分の妻と定めて、他人にも奥様とか、かみさまなどと呼ばせている者に対して大声で怒鳴り、さまざまな悪口雑言をするなどというのは市井の裏長屋に住む人足、日雇いなどの風情ならばともかく、一人前の武士のすることとしては決して許されぬ所行である。ましてや腰の刀をひねくり回し、げんこつの一つでも振うなどとあっては、全く言語道断の次第であるが、これはすべて臆病武士のすることである。
およそ武士の娘と生まれ、人の妻となる程の年齢になれば、男子であれば人からげんこつで撃たれて我慢できるものではあるまい。そこを女性の悲しさ、やむなく涙を流してこらえているのである。そもそも、自分に手向かいはできぬ相手と見て取って非道な行為をするというのは、勇気ある武士の決してせぬことである。勇気ある武士が嫌ってやらぬことを喜んでするようなものを臆病者というのだ。
以上、初心の武士の心得として申すものである。
今日のパワハラを戒める。その原因は〈臆病〉にあるとする。
全て覚悟がないことから生まれているのである。
《その道理を説き聞かせ、十分に納得するように教えてやって多少のことであれば、こちらが我慢をし、許してやるのが妥当なやり方である。》
気配り、配慮することも説く
主君を持ちたる武士寸暇も之無き日参のけはしき奉公を仕るに付て第一の心得あり。其子細を申に必ず以て行末永き勤めと有るごとくの心の差出ざる様に只其日ぎりの奉公と覚悟尤也。其故いかんとなれば不定世界の人間は高きも賤しきも誰一人明日の儀を存じたる者とては之無き儀なれば主従の間におゐてもいか様なる不慮の義の出来申可く斗難し。若別条なきに於いては何年也とも末の儀はつづかれ次第。先奉公は一日切りとさへ覚悟仕れば物に退屈する事もなく所持をなげやりにも仕らず何事も皆其日払と心得るを以て別して勤に精も出るを以ておのづから不念失念と申義も之無き道理也。然るをいつまでもかわる事無く行く末永き奉公と存ずるから事起こりて物に退屈仕りそれより心もゆるみ気も怠り事のゆるやかなる儀は申に及ばずたとひきはきはと相談を遂げて拉致を明かずしては叶わざるごとく成主君の御用向までもそれは明日の義是は重ねての事と打ちやりなげやりに仕り或は同役仲間にてもあなたへはねこなたへぬり誰一人身に引懸てせわのやきてもなければ諸事はいやが上にかさなりつかへて不埒なる事のみ多きごとく成行候と有るは是皆行く末の月日を頼み武士の奉公は一日切と有る義を存じ弁へざる油断の心より起る過失也。最もおそれ慎むべし。さて又一か月の内幾日宛などと相定まれる勤番の奉公を仕る武士の覚悟には其日の暮六時を限りたる番所の交代ならば主君の御館と我が番所の間の道のりと日の長短を考へはかりいつ何時も寄所を少し早目に出るごとく心得ベき也。とても出べき勤番所へ出がらかひを仕り茶を一服たばこを一服と申てふよつき或は女房子供と一口づつの雑談に時を移して宿を遅く出ては俄にうろたへ行違ふ人の見さかひもなき程道を急ぎ又汗を流して番所へ駆けつけ寒中にも扇子をつかひながらちと叶はざる用事之有おそく罷出るなどと利口がましく申と有るは扨もうつけたる口上かなと心あるものは存ぜずしては叶はず。子細を申すに武士の勤番と申すはかりそめながらも主君の御座所を経営仕る儀なれば武士の奉公にとりては第一の勤也。然る上はたとへ何用の儀たるといふ共私用などを以て治山に及ぶべき義にては之無く候。且又右の心得を以て我が身もいつとても早く出勤いたすと有りても相手かはりの朋輩の遅く出づるを待ち兼ねもも尻に成りて大あくびを仕り主君の御館の内には暫も居る事をいやがり帰り急ぎを仕ると有るは近頃見苦敷次第也と是を慎むべき也。扨又我両親などの煩い申を見離れ難きと有りて看病断りなどを申て番を引くとあるは尤左も有るべき義也。子共の煩を親の身にて心元なく存間敷様とては之無く候共我に代りて看病を遂ぐる家来の一人も二人も持て罷り在る身上にてさのみ大切と申程の義にても之無く子共の煩の看病理りを申立当番を欠くと有るは相当たらざる義と申可く候。但小身武士などの慥成家来をも持たざる者は介抱を兼ねての義なればそれは又格別の子細なるべし。就中大身は申すに及ばずたとへ小身武士たりといふ共我女房などの煩いに付看病ことはりを申立主君への奉公を欠くと有るごとくの義は大きに然る可からざる儀也。然共其の病気大切と是有るにおいては自分の煩と申立て引籠り看病を致し遣し候と有るは尤もの至りと申す可く候。初心の武士の心付の為仍て件の如し。
主君を持つ武士が、僅かな暇もない毎日の厳しいご奉公を勤めるにあたって、第一に心得ておかなければならぬことがある
それは、決していつまでも勤めていられるものとは思わぬように、その日一日だけの奉公であると心に決めるべきだということである。
この無常の世界に生きる人間として、身分の如何に拘わらず、誰一人、明日のことを知っている者はおらぬ道理であり、主従の間についても、いつどのような不測の事態が起こるか予想もつかぬものなのである。
もし、何事もなければ何年でも続くものではあるが、その保証はないのだから、奉公は今日一日だけのことと覚悟して勤めるのが宜しい。
そうすれば、勤めに飽きることもなくなり、万事をいい加減にせぬようになり、すべてはその日のうちに・・・と思うため、仕事への意欲も増し、自然とものも忘れず、失敗することもなくなるものである。
ところが、いつまでも変わることなく奉公を続けられるものと思ていると、その為に仕事に飽きがきて、心もゆるみ、急がぬ用事はもとよりのこと、たとえテキパキと相談して始末をつけねばならぬ主君のご用向きまでも、それは明日にしておけ、これは今度やれば・・・などと投げ出しておく、また同僚同士で、あちらに回し、こちらへなすりつけるといった様子で、誰一人、責任を持て処理をする者もいない状態で、すべてがますます重なり、つかえて、不都合なことだらけという結果となる。こうしたことは、すべてあてにならぬ将来の月日をあてにして、武士の奉公は一日区切りという心掛けを知らぬところから生じた油断、欠陥といえよう。武士として最も警戒せねばならぬことである。
当てにしないで当たることである。当ての引き伸ばしである。先の項でいう臆病に通じるものである。
また、月のうち何日ずつなどと定められている勤務に出るときの心構えとして、たとえばその日の暮六つ(午後六時)が交替の時間とすれば、主君のお館と、自分の宿所との距離、日の長さなどを考え合わせて、どのような場合も、自分がいる場所をいくらか早目に出るようにすべきである。
それを、どうせ出ねばならぬ勤務先へ出るのを嫌がって、茶を一杯、煙草を一服などとぐずぐずし、あるいは女房や子供との一言ずつの雑談に時を過ごして、遅くなってから宿を出発し、急にあわてだして、行き違う人の見分けもつかぬほどに道を急ぎ、汗をかきかき番所に駆けつけて、寒中にも扇子を使いながら、「ちょっと、やむを得ない用事があって遅くなりました」などと体裁のよいことを言ってみても、心ある人は必ず、なんと間の抜けた口上よと思うであろう。
そもそも、武士の勤番という勤めは、仮にも主君の御座所の警固の役であるから、武士の奉公としては第一に重い勤めである。
したがって、たとえどのような事情があろうとも私用のために遅参など、あってよいものではない。
また、自分が早く出勤していても、交代の時間に代りの同僚が遅れると、もう尻が落ち着かなくなり、大あくびをし、主君のお館の中に少しでも長くいるのは嫌だと、帰宅を急ごうとするのも、極めて見苦しいことであるから、慎むべきである。
一言すれば、「〈本末転倒〉を戒めている」のである。
急ぐ姿は見苦しい。急ぐのは「心ここに非ず」、つまり「忙しい」「急く」姿である。呼吸は速くなり、乱れ、困惑・困窮につながる姿となる。
急ぐのは火急の時、変の時である。常の時には平常心を保つことである。
〈落着〉落ち着く、あるべきところに定まることが肝要であり、〈一事が万事〉、用心して、余裕を作り出すことが求められたのである。
さてまた、自分の両親などが病気になり、目が離せぬ状態であるならば、届を出して番を外してもらうというのは、当然そうあってよいことである。
子供の病気の場合については、その親の身分、暮らし向きによって決まってくる。なぜならば、子供の病気を心配でならないのは大身小身の別なく、親として当然のことではあるが、自分に代って看病をしてくれる家来が一人なり二人なりいるならば、どうしても自分で看病してやなねばならぬこともなく、当番を欠勤することは望ましくない。
しかし、小身の武士で看病を任せられるようなしっかりした家来もいないものの場合には、子供の看病のための欠勤も、特に許されてよいであろう。
大身はいうまでもなく、小身の武士にあってもとりわけ認められないのは、自分の女房が病気だからと看病のために欠勤を申し出、主君へのご奉公を欠くことであって、極めてよろしからぬ行為といえよう。
但し、妻の病気が重く、やむを得ない場合には、自分が病気にかかったと届け出て家にこもり、看病をしてやるというのが妥当なやり方なのである。
以上、初心の武士への注意として申すものである。
最後の件は興味深い。
念頭に置くべきことは「主君に奉公するのが第一である」ということ、そのために家を斉(ととのえ)るのである。〈家斉〉の基本となる考え方は、「身内の問題は身内で処置する」ことになる。
そもそも、心身が虚弱で、勤めに後れること、支障が出ることを恥とする傾きがあった。武士は奉公が第一である。病気は、気の弛みから罹るものであり、奉公の敵である。それは平生の養生不足、不用心から起きると考えることを常識とした。
従って、家族の病気の場合もやむを得ない場合を除いて、基本的には欠勤は許されないのである。
止むを得ない場合とは、自身で対処する力のない子供が病気にかかり、身内に面倒を見るものがいない場合、および大人である女房が自身で対処することができないほどの重い病気になった場合である。但し、後者の場合は、自分が病気だと届け出て、看病するのが妥当だという。
なぜ、女房の病気だと正直であってはならないのであろうか。
それは、「女房の病気」と「主君への奉公」を天秤にかけるようなことをしては恥の上塗りになるからである。そこでこのような見苦しい行動を慎むことを説いたと考えられる。
主君のお側近く奉公仕る武士時折節の御心付けとして御定紋の付たる御小袖または上下などを拝領致し候においては、ご紋付の小袖を着用の時は自分の紋付の上下を着し候はば小袖は定まりて自分の紋付を着し候ごとく相心得尤也。然るに小袖も上下も一様に御紋付を着し候ては主君の御身近き御親類方に等しき様子なれば先ずは主君へ対し奉り慮外の至り也。其の上他家中の者の目に当たり候時は主人よりいつ称号となえ)をゆるし給ふとある沙汰もなきには近頃不作法の至りうつけたるなりかなとそしりもなくては叶はず。子細は主君の御紋付と有る小袖上下を取りそろへて着用仕る義堅く停止と法度の出たる家々も之有る故なり。且又右は医療の小袖古く成りて着用ならぬと有るときは御紋所を切り抜きて焼捨ベき也。其子細を申に小身武士の義は女房召使などに申し付け古小袖のすすぎせんたくをも致させずしては叶はず。左様の刻(とき)女の義なれば何の心も付ず御紋付てある古つぎを以て腰より下のうちづきなどにも用ひ候ごとくの儀之有候をそれはしらずして下着寝巻に仕り御紋をふみけがし候時は其冥加に尽て我知らず主君の御罰を蒙り或は尻はす又はすねくさなど申腰より下の煩いを病出し難儀迷惑に及ごとくの義ならでは叶はずと申伝へ候。たとへ左様の煩を致さぬとても武士の義理を弁えたる者の上には堅く恐れつつしむべき儀也。初心の武士心付のため仍て件の如し。
主君のお側近くにご奉公している武士は、時として主君の思し召しによってお家の定紋のついた小袖、裃などを拝領することがある。その場合御紋のついた小袖を着用する時には、裃は自分の紋のついたものを、またお家の御紋のついた裃を着用する時には、小袖は必ず自分の紋のついたものを着るように心得ねばならない。
もし、小袖も裃も、共に同じ御紋の付いたものを着用していては、主君のお身近なご親類であるかのように見え、主君に対し奉って非常に無礼となるのである。また、家中の人々の目から見ては、「彼はいつからあのようなことを許される身分になったのか、そうでないとすれば、まことに不作法千万、愚かなことである」との非難を受けずにはいられまい。
”主君の御紋付の小袖と裃とをそろえて着用することは固く禁止する”との決まりのある家もあるほどなのである。
威儀を正すことが求められ、儀礼は重んじられた。〈服装〉とは、《服することを示す装い》である。〈意〉を表す装束に武士はこだわった。名は体を表す。家紋は家の象徴であり、御定紋を許されることは主君の覚えが目出度いのである。しかし、小袖も裃も同じ定紋入りのものを着てはならないのである。それは身内だけに許されるものであり、分を越えてはならないのであった。
今から考えれば、律義で、堅苦しいとも言えるが、こうした定めによって、かえって無駄がなくなり、自由も楽しめたのではないかとも想える。
また、このようにして拝領した小袖が古くなって、着用できぬようになったならば、その御紋を切り抜いて焼き棄てねばならない。
なぜならば、小身の武士の家においては、古小袖の洗濯を女房や召使などのさせ、また何かに使わせることとなるが、なにぶん女たちのことゆえ、何の考えもなしに御紋のついている古着を腰から下の裏地にしたり、下着や寝間着に使ったりして、大切な御紋を汚す恐れがある。そのようなことをすれば、必ずや主君の罰を受けて、尻の病、脛のできものなど、腰から下の病気にかかって大いに悩まされると言い伝えられている。
もし、そのような病気にはかからぬにしても、武士の義理ということから考えて、ぜひとも厳しく戒め、慎むべきことである。
以上、初心の武士への注意として申すものである。
ある人のいはく上古には武士と申すものは之無く農工商の三民迄にて事済候所に右三民の中より盗賊と申すもの出来て民人を悩まし苦しめ候得共三民共の力を以てこれを防ぎ申義罷成らざるを以って打寄相談を遂げ同じ農人の中においても筋目を正し其人柄を選びて士と名付農業を止めさせ衣食住の三つ共に何の不足も之無きごとく三民の阨害に仕り賊を防ぐ為の役人と定め三民の輩の上座へ立せて御侍と申してあがまへうやまふごとく致すに付其の侍の義も手に鋤鍬をとり止め賊徒を誅罰仕る時の心得として弓射馬に乗り或は槍太刀の振り回し様の手練れを肝要と仕るを以って盗賊共も是を恐れて大勢申合せ山林幽谷の間に居所を設て要害を構て自分にも似合いの武具兵具を支度致してたやすく討殺されぬ用心を仕るに付右在々所々に罷在る武士共各申合せ勢を揃へて大将分の侍を一人取立て其者の下知指図に任せ種々の武略手段をなして彼地へ押寄せ盗賊共を退治仕る如く致すに付き三民の輩大きに悦び安堵の思ひをなし弥々以って侍を重宝の役人と存じ彼是仕るより事起こりて士農工商と有る四民の作法と定るかにて武家の初まり也と之有り。某文盲至極の義なればこの一節の虚実を相考へ申す義とては罷成らず。然共今時の世間においても農業を止めて武士と成りたる者をば武士の仲間にてもさのみ嫌ひ申さず又武士を止めて農業を勤めたる分は少しも侍の疵にもならず重ねて又武士ともなられ申す如く之有り候。職人商人の中よりは武士にもなりがたく勿論武士を止めて一日たりとも職人町人になり候てからは重ねて武士は務まり兼ねる如く之有る様子を以って相考え見申す時は右の一説もゆへある儀の様にも思はれ申也。然れば武士と申すものは三民の輩に安堵の思ひをなさしむべきが為の役人に紛れ之無く候。然る上は大身は申すに及ばず小身たりとも武士と呼ばるる身としては三民の輩などに対して無理非道の仕形とては仕る間敷き道理なるに一向左様之無く農人へは無体なる収納を申懸けその上に種々の過役をあて取り潰し職人に物をあつらへては其作料手間代をもやらず町人商人などの手前より物を調えてはその代物を無沙汰致し或いは金銀を借りても横に寝てかり取に仕ると有るは武士の本意にはづれたる大不義と申可く候。爰の所を能々了簡致し領地の百姓たちをも少しは痛わり諸職人をもたをさぬ如く仕り町人商人の手前にありて買懸り借金などの義もたとへ一度にこそは返済罷り成らず候とも連々を以って少し宛もこれを遣わし損をさせ迷惑を致させぬようにと有る心入はなくては叶はず候。盗賊を戒める役人たる武士として盗賊の真似を仕るべき様とては之無く候筈の儀也とある心得肝要の所也。初心の武士の心付けの為仍て件の如し。
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ある人の説によると、大昔には武士というものは世の中になく、農、工、商の三つの身分だけで治まっていたのだが、やがて、その中から盗賊が生じて人々を苦しめ始めたという。しかし、農工商三民の力によっては、盗賊を防ぐことができないのでいろいろと相談の結果、農民の中から、家系、人柄のよいものを選び出して士(さむらい)と名付け、農業をやめさせ、衣食住ともになんの不足もないようにして、三民を盗賊の害から守る役割を与えた。そして三民の上の身分とし、お侍と呼んでこれを敬ったのである。
そこで、この侍たちも鋤鍬を手にすることをやめ、盗賊を征伐するための弓矢、乗馬、槍や太刀の使い方などの鍛錬に励んだので、盗賊どもも恐れをなして深山に逃げ込み、要害を構えて、自分たちも似合いの武器を用意し、簡単には撃ち殺されぬような体制を作り上げた。そこで、各地に点在する武士たちが互いに寄り集まって軍勢を整え、そのうちの一人を大将と定めて、その者の命令、指図によって、さまざまな戦術を用いて盗賊の本拠を襲い、これを退治したのである。三民の人々はこれを大いに喜び、侍とは頼りになるものだとますます考えるようになり、ここから、士農工商の四民の制度ができあがっていった。これが武家のはじまりだとのことである。
私は学問の道にはきわめて浅いため、この説が正しいかどうかの判定はつけかねるが、考えてみると、現在の世間においても、農業をやめて武士となった者は武士の中でも別に嫌われることがなく、また武士をやめて農業につくことによっては、武士としての身分に傷がつくことなく、再びまた武士となることができるようになっている。ところが職人、商人の身分から武士になることはできず、また武士をやめて一日たりとも職人、町人となった者は、二度と武士になることはできないようになっている。
こうして考えると、右の説にも、もっともな理由があると思われるのである。
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してみれば、武士という身分は、三民の人々に安らかな思いをさせることを任務とするものにほかならない。そうであれば、大身の武士はもちろんのこと、たとえ小身者であろうとも、武士の身分にある者は、三民の人々に対して、決して無理、非道な行為をしてはならぬ道理でである。ところが現実には少しもそうではなく、農民に対しては無理な年貢を課し、そのうえにさまざまな税を押しつけて破産させ、職人に物をあつらえてはその工事代、手間代も払わず、商人から品物を買い上げておきながら代金を放っておき、金銀を借用しても知らぬ顔をして借り取りにしてしまうなどは、すべて武士の本道を外れた大不義といわねばなるまい。
こうした点をよくよく考えるならば、領内の百姓をもいたわり、町人商人からの買い掛り金、借金などについても、一度に返済はできぬまでも、だんだんに少しずつでも返していって、迷惑をかけぬようにしてやるだけの配慮は、是非ともなくてはならない。盗賊を防ぐ役を果たすべき武士が盗賊のまねをするようなことは決してあってはならぬ、という心がけは、きわめて大切なのである。
以上、初心の武士として、よくよく肝に銘じておくべきことである。
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奉公仕る武士主君の御意を以て初役仰せ付けられ申すにもお勝手向に掛かりたる諸役の義は如何様に致してなり共相逃れ候様にとの心得尤なり。仔細の申すに其の家中大小の諸奉公人を始め城下の町人郷村の百姓以下に至る迄少しも迷惑仕らずしてしかも御主人の御力に罷成る如く御勝手をとりまかない申と有るは至ってよき事にして真に御為者共御重宝なる役人とも申さる可き事に候得共只大方の知恵才覚にては左様に双方共よき様にとは成難きに付一筋に主君の御為にさへなればと存ずる時は下の諸人の難儀迷惑となり又下つかたの悦ぶ様にと斗仕り候ては上の御勝手にあしき如くいづれぞ一方へは必ず相障り申さずとある儀は之無し。爰を以って同じくは左様の役儀には懸り合わざる様にとは申すにて候。其の上いか程利根才覚に生れ付たる武士の心にも貪欲と申す病気は付き安き物なる故主君の御勝手向きを取りまかなひ諸人の用ひに預かり金銀のやりくりも自由になると思へば頓ておごりの心も出来身のはばも致し度とある気配かなとなり自然と分外の暮らしを仕るを以って心ならずの贔屓を致し勘定立兼候時は私欲取込の沙汰に及びて外聞あしく身上をつぶし迷惑に逢は定り事也。是を名付けて盗心とか申すにて候。扨又其身はさのみ欲深くも此無く贔屓取込と有義は仕らずとへ共一むきに主君の御為と申して種々の思案をめぐらし其の家前代の仕置の筋に違いたる新法の簡略などを仕出して家中大小の諸奉公人の難儀迷惑に罷成と有る勘弁もなく城下の町人には過役をあて郷村の百姓には高免を仕掛け或いは向後其の家の仕置に邪魔になる国家のついえ民の煩いとなるならぬという考えにも及ばず当分眼前の利潤とみゆるごとくの義のみを工夫し出し分別不足なる家中年寄出頭人などをだましすすめて是をのみこませ其事を取り持たせて扨てもよき御為を仕り候と有る取り成しを以て筋なき加増褒美を申し請若しも其の新法不益にして致し直しのならぬ不調法と有る時は件の家老年寄抔の下知指図の致し損ないと之有る如く仕なし己は其の人のかげにかくれて罪科を遁れ迷惑致さぬ分別を仕る此の如くなるを名付けて聚斂の臣とは申也。
奉公を勤める武士は、主君のお考えによってさまざまなお役を仰せ付けられるのだが、この中でお勝手向き(経理・財務関係)のお役については、何としてでもこれをお受けせずにすむようにすることが望ましい。
なぜならば、御勝手向き御役人として、その家中の大総の奉公人をはじめ、城下の町人、村々の百姓たちに至るまでをも少しも苦しめることなく、しかも御主人の御力になるように財政を取り仕切ることができれば、これこそお家のためになる大切なお役人と呼ばれることであろう。しかし、そのようなことは、なみたいていの能力や才能でできることでhない。ひたすら主君のおんためになるようにと心がければ下々の者たちの苦労が増し、下々のものの悦ぶようにとすれば、お家の財政が苦しくなるというように、どちらか一方には必ず支障が生じるものである。それであるから、そのようなお役目には、できるだけかかわりあわないのがよろしいというのだ。
そのうえ、いかに才能に恵まれた武士であっても、貪欲という病気には冒されやすいものである。主君の御勝手向きを取り仕切って人々から重んじられ、金銀のやりくりも自由自在ということであれば、やがては思い上がった心となり、幅をきかせたい気持ちが出てきて、自然と身分不相応な生活をするようになる。そうなると、いつか心にもない依怙贔屓をして、家計の辻褄が合わなくなれば私腹を肥やし、横領を働くようになる。そして、ついにはそれが露顕して恥をさらし、家をつぶして困り果てることは目に見えている。これを名付けて盜臣と呼ぶのである。
かと思えば、一方では、本人はさして欲が深いわけでもなく、依怙贔屓や横領といったことをするのではないが、ひたすら主君の御為を思ってさまざまな工夫をこらし、お家のこれまで空の仕来りとは違った新しい法令などを考え出しては、家中の大小の奉公人の迷惑となることをも考えずに、城下の商人には、重税、村々の百姓には高い年貢を吹きかけ、あるいは将来、お家の運営に支障をきたすのではないかという配慮も忘れて、ただ目前の利益だけを追った方策を編み出す。これらを実行に移すためには、思慮の足りない家老、年寄り、重臣の人々などをだまし、そそのかして承知させ、推し進めておいて、まことに立派な貢献をしたということで根拠のない加増、褒美などを頂戴しようとする。
若しも、その新政策が失敗して、やり直しのきかぬ損失を生じたときには、それは右の家老、年寄りたちの指示、命令のやり方が間違っていたためということにして、自分はその人の影に隠れ、罪を逃れて被害をこうむらぬように工夫をする・・・。こうした者を名付けて聚斂の臣と呼ぶのである。
右に述べた盜臣というのも、もちろん不届き極まる不義のものではあるが、主君の物を盗むという武士にあるまじき行為を働いて天罰を受け、事が露顕して身命を失い、自滅してしまえば、それで事が落着し、人々の難儀迷惑ということもさしてなく、お家の運営の妨げ、国の災いとなることは、さほどないものである。それにひきかえ、聚斂の臣というものは、広く人々を苦しめるよなことを考え出し、二度とやり直しのきかぬような国の政道を妨げるような行政を行うものであるから、たとえ自分の私腹を肥やすような横領などの行為がなくとも、この上ない大罪人に違いないのである。それだからこそ、中国の聖人のお言葉にも、「聚斂の臣あらんよりはむしろ盜臣あれ」といわれているのであろう。
そもそも武士の身として、盜臣と呼ばれるより以上の悪事はないかのように考えるものであるが、この聖人のお言葉に「聚斂の臣あらんよりは」といわれているところを見ると、武士の犯罪として最大のものは聚斂の罪であるということになる。
とすれば、盜臣の刑罰として首を切るものであれば、聚斂の臣は、はりつけにでもかけるべきものであろう。
もっとも、孔子の居られた時代にあっては、聚斂の臣と盜臣とは別々の存在であった。それだからこそ、聚斂の臣よりは盜臣・・・という御意見も出たのである。
ところが近頃になると、聚斂の臣として下々の人々が難儀迷惑するようなことばかりを工夫するかと思えば、一方では盜臣の行為をも行い、自分のお役の威光によって人々から重んじられるのを良いことに、さまざまな策略をめぐらして、何としてでも自分の手元に人のものをかき集めることを第一に考えて、身分不相応なぜいたくな暮らしをした上に、人には貯えることのできない金銀までもたくさんにためこんでいる。これは外でもない、表面では主君の御為につくすふりをしながら、実際には自分の自由になるようにと、さまざまな手段を弄してつくりあげた不義の富というものである。
これを名付けて聚斂、盜臣の二つを合わせた大賊と呼ぶのであるこの様な大罪人に対しては、どのような思い刑罰をもってのぞめばよいものか、判断に苦しむほどである。
以上のことを考えるならば、武士たる者は、たとえ神仏の御力にすがってなりとも、主君の御勝手向きのお役は仰せ付けられることがないようにと願うのが正しい道である。
ところが、もしそおにょうな役目の部署が空席にでもなっていれば、一度、勤めてみたいなどという気持ちを起こすものがあれば、これこそ武運のつきる前兆であって、泥仏が水遊びをするたとえの通り、身の程知らずの考えである。よくよく心に戒めるように。
以上、武士道に初心の武士のための注意として申すものである。
「武士に二言なし」などと言って、とりわけ信義を重んじた武家社会においては、一つ間違えば計測は安請け合いの為に身を滅ぼす悲劇がしばしば起こった。自らの価値判断の基準が不明確で、事の当否、軽重の区別のつかぬ者が、ともかくも約束したことは守らねばならぬと力みかえると自らをも他をも、ますます深く傷つけることは昔に限ったことではない。
武士たらんものの至って頼母敷意地の之有ると申すは武道の正義に叶いたる義なれば一段とよき事にて候。然りといへども訳もなく頼母しだてを致してかけもかまはぬ所へも差出我が苦労になる間敷事迄をも荷ひ取持候ごとくなるをばさし出もの共申又は物にかかりなどとも沙汰仕り大きに宜しからず候。若き面々其心得尤也。是は少しかまひてもと存ずる事也共人が是非と言て頼まぬ事ならばかまふ程の義は是無く候。子細を申に至りてはわが身に引懸苦労に致しせわにも仕らずしては叶はず事の首尾によりては主君親兄弟の為にさへむざと捨てぬ武士の一命をも其の義に懸りあひては爰を以てわけもなきたのもしだてを無用とは申にて候。古き武士の義は人に物をたのまれ候へば是はなる筋ならぬ筋とある義を勘弁仕りて是はなるまじきと存ずる事をば最初より請負申ず是は成可き筋の義と存ずるごとくの一義も其仕様仕方の筋道を思案致して後其の義を慥と請負たのまれ申に付すでに請負候程の義は大かた相調ひ首尾合はざるの義とてはさのみ之無き物にて候。去るに依って人も埒明かなと褒め事にも仕るにて候。然るに其考えなしに人が物をさへたのめが心安く請負首尾不合なれ共それを何共存ぜざるごとく是有る時は不埒者とある名取を仕るは定まり事也。扨又人に我が思ひよりを申或は意見などを加へ候と有るも是又頼母敷心立より事起る義なれば然る可き事の様に聞へ候得共是を以て勘弁有るべき事にて候。
武士においては、人から大いに頼りにされる気性の持ち主であるということは武士道の精神にも合致し、たいへんに結構なことである。しかしながら、意味もなく物事を受け合い、できもせぬことにまで手を出し、自分が苦労する必要のないことまでも背負いこむような者は出しゃばりものとか、ちょっかい好きとか呼ばれて、非常によくないものである。若い人々はこのところを注意するがよい。
このことは、少し手を出してもよいと思うほどのことであっても、人からぜひといって頼まれたのでないかぎり、構うことはないのである。なぜならば、細かなことは言うまでもないが、たとえ、どんなに困難な事柄であろうとも、武士の身として、頼む、頼まれると言い交したからには、自分が責任を取って苦労をし、心配していかなければならない。ことの成り行きによっては、主君や親兄弟のためにさえ簡単には捨てられぬ一命をも、その問題に関係してしまったためにやむなく棄てねばならぬという場合さえあるのだ。それであるから、意味もない安請け合いは無用だというのである。
昔の武士においては、人にものを頼まれたときには、これはできることか、できぬことかという点を検討して、これはできることではないと考えたことは最初から引き受けない。また、これは可能なことと判断した場合でもその実行の方法についての筋道をよく考えた後で、そのことをきっぱりと引き受けたものであるから、引き受けるほどのことについては、だいたいにおいて成功し、計画が狂うようなことはあまりなかったものである。それであるから、人々からもよく解決したとほめられたのであった。
ところが、そのような思慮もなしに、人から頼まれさえすれば簡単に引き受け、計画が外れても、それを何とも思わぬような態度でいるならば、何もできぬやつといわれても仕方があるまい。
また人に対して自分の考えを述べ、または批判を加えるといったことも、親切心から起こることであって、好ましいように思われるが、これについても、よくよく考えることが必要である。なぜならば、親、師匠、兄、叔父といった立場の者が、子供、弟子、弟、甥などに対してのことならば、どのような批判や意見を述べようとも差し支えはないのが、その場合にしても、武士の口からものを言うことには慎重な配慮がなくてはならない。
ましてや、友人同僚などに対して批判がましいことを言うのは、極めて重大なことだと自覚することが必要である。
ただし、親類他人に拘わらず、日頃から親密な関係にあるものが、何か判断のつかぬことができて、このことはどうしたらよかろうか・・・などと打ち明けて相談を持ちかけてきたときには、自分にもさっぱり判断がつかぬと、最初から相談に乗らなかったのならばとにかく一旦、相談相手となったからには、たとえ相手の考えと違っていて喜ばれぬようなことであっても、少しも遠慮することなく、道理に基づいて自分の判断のすべてを残らずのべるというのが、武士としてもっとも頼もしい気性のあらわれである。
是に反して、このように行ったら感情を傷つけはしないか、気分を害しはしないかといった、つまらぬ遠慮をして、行き当たりばったりの意見を述べ、その人に言うべきでないことを言わせ、又は物事を失敗させたりして、人々から非難嘲笑されるような目に合わせるようであっては、人の相談相手になる資格もない。これは結局のところ、頼りにならぬ弱々し性格から生じた失敗である。
およそ、自分を男と見込んで相談を持ち込んで来られたからには、正しい道理に照らして相談に応ずるべきである。そうではなしに、自分の気分次第の意見を述べて、物事を失敗させるような思慮のない者とは、もはや親密に付き合うべきではないというのも当然のことである。
すでに相談に応じていながら、相手の気持ちに気を使って、物事の道理に背き、筋に外れたことまでも、それはもっとも、そのとおりなどというのは、武士の本道を外れたものである。そのうえ、あとになってから、これについては誰それも相談に乗っているなどと、人々の評判にもなるということも考えておく必要があろう。
以上、初心の武士への注意として申すものである。
「武士に二言なし」などといって、とりわけ信義を重んじた武家社会においては、一つ間違えば軽率な安請け合いのために身を滅ぼす悲劇がしばしば起こった。自らの価値判断の基準が不明確で、ことの当否、軽重の区別のつかぬ者が、ともかくも約束したことは守らねばならぬと力みかえると、自らをも他をも、ますます深く傷つけることは昔に限ったことではない。
番頭支配頭の下に付いて奉公を勤る小身の武士我が頭たる面々の心入又は組あたりの善悪の義は其の身に引き請能合点致し罷在るに付我々など若しも武士の冥利に叶ひ立身を遂て組をも預かる如くの仕合にも罷成るにおいては組下の面々をいたはりなつけて主君の御用にも相立様にとの致し懸は如何程と之有る可きもの也。勿論依怙贔屓などと有る義においては毛頭程も仕る間敷ものをと有るごとく人々存ずるもの也。然れども其身段々立身致して番頭支配頭など申す重き職役に成上り候へば其まへ方人の組子組下にて罷り在り候時の心入れとは相違いたし組子をいたはりなつけて主君の御用に立つべきなど有るごとくの心付は之無き物にて候。たとへ其身の仕合に上の思召に叶ひ御取立てに預り如何程の宜しき役儀に罷成候共小身の時の義を少しも心に忘れず人の幸と申ものは得難くして失ひやすきと有る慎の心さへ有ればおのづから物におこたりなし。おこたりがなければ奢りもつかず。おごりさへ致さねば其身に災ひの来るべき様も之無し。然りといへ共十人が九人迄も其の身の仕合せがよくなればそれにつれて心迄高ぶり候と有るは古今の人情也。織田家の佐久間羽柴家の魚住など申す輩小身の時は随分のよき武士たりといへ共大身と成て後分別相違致して主君の見限りを蒙り身上も滅び候也。ヶ様の義は奉公仕る小身の武士の慎共なるべき先証也。就中其の身小身にて人の組付となり奉公致す刻相組の中より役ぬけなど仕る侍之有る節奉公の勤労を少なく其身の生れ付の勝れてよきと申すにても之無きものも思ひの外に先輩を越して役抜けなど致せる時は是偏に番頭組頭の不吟味か扨ては依怙贔屓の沙汰なりと申して内々にてそしりつぶやくと有るは定まり事也。ケ様の義をも心に忘れずして其身立身の上番頭組頭の役儀にも罷成に付ては組下の諸士の人がらの善悪或は奉公勤方の年数などに能く心を付毛頭程も依怙贔屓の心なく順路正道に組の支配を致すと有るは武士の正義也。是に付我組の侍の中にさのみ勝れたる人柄と申すにても之無く然も奉公の勤め方も之無きものなれ共其の家の家老年寄出頭人などの親類縁者とか又は内縁の親しみを以て此の者を役人に書出し候様になどいやといはれぬ方より内証たのみの様なるもなくては叶はず。
左様の節の返答には主君の御意を以て御人ざしと仰出でらる儀にても候はばそれは格別の儀にて御座候。其の外内縁の筋を以て組中の吟味に相当たらざる者を書出し候と有る義は決して罷成ず候。子細は組支配に付依怙贔屓など仕らざる様にと之有る儀は番頭たる面々へは上よりの堅き御制禁の筋にて候。然る処に各々よりの御内意に随ひ候ては上の御大法に背き御後暗き仕方に罷成り其の上此の者一人の儀を以て手前組下の諸侍の心入もそむけ候ては畢竟上の御為に罷成ざる義に候間他組の儀はいかんも候へ我等組においては組頭の面々と相談の上其の人かたと御奉公の勤方との、二つを能く吟味仕り相応の者を撰びて書上申外御座無く候間左様御心得成さるべく候旨先の人は誰にも致せ言葉を放して屹度申理ると有るは是を侍大将番頭役を勤める武士の器量と申にて候。然るに左様の義を一言申出す事さへならずして人のいひ次第に事を致して我が組下の見限りに預り候と有るは近頃未練の仕合不器量の至りと申す可く候。之皆小身の時の心を失念致し其身の仕合せが能くなる程猶もよくなりて見度と有る名利の欲心から起る追従軽薄の意地より外には申可き様之無し。但しいやといはれざるごとくの人の指図をもとき筋目立たる返答を申したるがあしきに成て我が身の押へ障りに成ては如何也。たとへ鼻はまがりても息さへ出ればよきぞとある分別ならば其段は人の心次第の儀ならば論ずるにあらず候。初心の武士心得の為仍て件の如し。
番頭、支配頭の下で奉公している小身の武士は、上司の人々の心掛け、部下の使い方などについて、自分の日頃の経験からよく判断ができるものであり、もしも我々が立身出世をとげて組を預かるような身分になったならば、部下の者たちをいたわり、なつかせて主君のお役にたつようにしたいものだと考えているものだ。そうした場合には、依怙贔屓などということは絶対にすべきではないと考えるに違いない。
しかしながら、自分がだんだんに出世して、番頭、支配頭といった重い役目につくようになると、かつて人の部下として勤めていたころの心がけとは変わってきて、部下をいたわり、なつかせて主君のお役に立てたいなどという気持ちはなくなってしまうものである
もし幸運にも、主君のお気に入ってお取り立てを頂き、どれほど立派な地位に昇ろうとも、小身の時のことを少しも忘れることなく、人間の幸福とは得難く、失いやすいものだという謙虚な心を持ち続けるならば、自然と物事をいい加減にしないようになる。そのようであれば、我身に災いを招くこともあり得ない。
ところが十人のうち九人までが、自分に運が向いてくると、それにつれて高慢な心になってくるというのが古今の人情の常である。
織田家の佐久間(盛政)、羽柴家の魚住(景固)といった人々は、小身の時代には大変優れた武士であったのだが、大身となってからは考え違いをして、主君から見放され、家を滅ぼしてしまったものである。このようなことは、奉公している小身の武士として心すべき先例である。
小身の武士が、人の部下として奉公していううちに、同僚の中で転勤となる武士があった場合、その武士が役目の上での貢献も少なく、また素質といっても別にすぐれていないにもかかわらず、他の先輩を飛び越えて意外な栄転を遂げたとすれば、それは上司である番頭、組頭の検討が不十分だったためか、または依怙贔屓が行われたのであろうと、人々が内内に非難するのも当たり前である。
もし、わが身が立身出世して、番頭、組頭の役に付くようになったならば、このような点を忘れることなく、部下の人々の人柄の善悪、奉公の年功などに十分に注意して、かりそめにも依怙贔屓の心を起こすことなく、公正妥当な組の運営を行うというのが武士の正しい姿である。
こうした場合、自分おくみの部下の中で、取り立ててすぐれた人柄でもなく、また奉公の勤め振りもどうということはないが、お家の家老、年寄、重臣といった人の親類であったり、特別な人間関係が吾ったりするために、裏からそのものを取り立てるようにしてほしいとの働きかけが行われることがあるものだ。そうした際の返答としては、「主君の御意によって指名されるというのならばとにかく、それ以外の縁故関係によって、組の中で検討した以外の者を昇進させることは決してできません。番頭の身として、組の運営に依怙贔屓があってはならぬということは、お上からの堅い御指示であります。それにもかかわらず、あなたのご意向に従うことは、お家の大法に背き、極めて不明朗なやり方となってしまいます。しかも、この者一人のために、私の部下の侍たちの士気を傷つけ、ひいては主君のおんためにもならぬ結果となりましょう。他の組のことはいざ知らず、自分の組においては、組頭の人々と相談したうえで、一人一人の素質と勤務ぶりの二つを十分に検討して、ふさわしいものを選び出し、推薦申し上げるだけでありますので、そのようにご承知ください」と、たとえ相手が誰であろうとも、きっぱりと言い切って拒否することが、士大将や番頭を勤める武士にふさわしい態度である。
これに反して、そうした言葉を一言も言うことができず、相手の言いなりになって事を処理し、自分の部下の者たちからも見放されるようでは、まことにだらしのない始末で、非常な醜悪といわねばならない。
これもすべて、小身の時の気持ちを忘れ果てて、自分が幸運になればなるほど、出世欲を起こし、上にへつらう心情になりさがったためというよりほかはない。
もっとも、いやとは言えぬような相手の指図に逆らって、筋道の立った返答をしたために悪い結果を招き、自分の身の上に障害が出るような場合には、どうしたらよいであろうか。もし、たとえ鼻が曲がろうとも、息さえできればそれで結構というのならば、それはその人の気持ち次第であって、今更議論をしても始まるまい。
以上、初心の武士の心得として申すものである。
組織体の中に身を置くものとして、地位の昇進が最大の関心事となることは昔も今も変わるまい。身分制度が厳しければ厳しいほど、地位への執着は強烈なものとなる。何の権限もないヒラの時代の理想主義的な正義感が、昇進と共に磨滅していって、かつては自分が軽蔑し反発していた上司と同じように変身していく道程は、よく見受けるところである。
いわゆる変説である。変説は変節による。
武士を心懸る輩の儀は大身は言ふに及ばずたとへ小身たりとも一日なり共長生を仕り其身を全く致して時運の至を待ちて是非一度は立身を遂げ先祖の家をも起し我誉をも永く子孫に残さん事を願うを以て本意とは仕るにて候。況や奉公勤仕の身にて主恩を深く蒙り我が身を始妻子従者迄をも扶助仕る身にては我が身命を是非一度は主君の御用に相立てずしては叶わずと有る覚悟を極めずしては誠の武士の志とは申されず候。然るにおいては我が身の養生を第一と心得べき也。飽食大酒淫乱等の不養生なども年若き時はさのみあたり障りになるとも覚へぬごとく之有るもの也。爰において多くは脾胃を食い破るか血虚内損等の煩いを仕出て若死にを仕る輩世間に如何程も之有り。此所に用心を加へ其身の年も若く血気も強く無病息災なる内に身の養生を心に懸飽食大酒淫乱等のつつしみを致すものは七十八十迄も長生きを致し手足達者にて壮年の者にもさのみ劣らぬごとく之有るもの也。然るに其の心付けなく不養生を致す者は四十五十の内外迄の寿命を漸々たもち或はまれに生きのびてもかからぬ病者と成りて生たる甲斐も之無き仕合也。就中五十歳以上の年齢からは弥心身の補養を大切に致し飲食物にも押へ抑へを仕り勿論淫欲等の事をば大きに是をつつしみ申す可き儀なるを五十有余の年齢を過ても若き時のごとく不養生の仕合と有るは沙汰を限りたる無分別の不調法此上有るべからず。是偏に武士道の心掛薄く主君への奉公忠勤の心入のにぶきから起こるあやまちと申す可き也。其の奥意を尋ね極る時は物に堪忍情の弱きから起こる也。かんにん情がなきといへば聞こえよき様に候へ共畢竟臆病の気ざし共申可き物也。怖れ慎むべし。仍て件の如し。
武士として身を立てようとする者は、大身の者はもとより、たとえ小身の武士あっても、一日でも長生きをし、その身を全うして時節を待ち、いつかは立身出世を遂げて先祖から受け継いだ家を起こし、わが身の誉れを長く子孫に伝えたいと願うのが本来の念願である。まして主君に奉公してその深い御恩を受け、わが身はもとより祭司から召使までも養っていただいている者としては、自分の一身をいつかは主君大役に立てずにはおかぬという決意を固めているようでなければ、真の武士の志ということはできない。
そうであるならば、自分の体をまず大切にすることを考えるべきである。大食、大酒、淫乱といった不摂生も、若いうちにはそれほど影響があるとも思えぬものだが、やがては、その為に脾臓や胃を痛め、貧血、内臓障害といった病気にかかって若死を遂げる連中が世間にはいくらもいるものだ。その点に気を配って、まだ年齢も若く血気盛んで、無病息災の間から保健衛生に心をかけて、大食、大酒、淫乱などをつつしむならば、七十、八十歳までも長生きをして手足も達者、壮年の者と比べても、さしてひけをとらぬようになれるのである。ところが、そのような配慮もせずに不養生を重ねるものは、四十、五十前後の寿命をようやく保つ程度で、たまにはそれ以上に生き延びても、どうにもならぬ病人となって、生きている甲斐もないという始末となる。
とりわけ五十歳以上の年齢ともなれば、益々心身の健康に注意し、飲食物を自制し、もちろん色欲については大いにこれをつつしまなければならないものであるのに、まったく話にならぬほどの無分別、この上ない不始末というほかはない。これはすべて武士道の心がけが弱く、主君に奉公して忠義を尽くそうとする意志が不明確なところから生じた過ちというべきである。その本質を突きつめてみると、結局は、物事をこらえるという意志が薄弱なのである。こらえる気持ちが弱いといえば、いくらかましに聞こえるが、つまりは、臆病者の根性というべきものであって、最も警戒すべきことなのである。以上
欲望に身をまかせる快楽主義と、本能を罪悪視する禁欲主義とは、共に人は何のために生きるかという目標が明らかでないところから生まれた両極端の偏向であるという。自分の生き方について確信が持てれば、欲望のコントロールも自主的に行うことができよう。友山は、その支えは「奉公の志」と説いている。現代に生きるわれわれにとって、それは果たして何であろうか。
小身の武士自然の儀も到来の刻我が持つ鑓をかつがせて罷り出べきとある中間を一人抱へて持つ事さへしかとは成兼るごとくの仕合わせにて妻子などを召置候と有るは大きなる無分別也と心得べし。但し多き親類友達のなかにはさまざまの気配のものも之有る義なれば人に病煩と言う事などもなくては叶はず其上小身者はすすぎせんたく其外勝手の世話に付第一子孫相続の為にも之有りなどなど己が得手にまかせて異見だてを申をまことと心得以後の考なしに人の娘子をもらひて妻女と定め召置候へば実も其当座計は朝夕は心安く常の用事も事たりて覚ゆる内に頓て小き子供幾人も出来重なり其度毎の物入彼是に付程なく手前をすり切り只一人召使ひ候小者には暇を出し子守女に仕かへ留守居男さへ之無き仕合と罷成妻子の病煩には看病理りを申立大切の奉公をかきなどいたしますます勝手をすり切り跡へも先へも参りかね我と同身体の朋輩のまねのならざうrごとく之有る時はおのれが物数寄にていはれざる妻子好みを致したるより事起こりたる難義とある了簡もなく主君の御存じあられたる事の様にくだらぬ恨み不足を抱くごとく之有るは十人が九人迄も世間の定まり事也。爰の所を能々分別致し小身の武士の妻子狂ひ必以て遠慮尤也。去に依て小身の武士は其身の年も若く気力も盛んなる時節昼夜の境もなく専ら奉公の勤労を励し主君の思召にも叶ひ似合の立身をも遂てもはや是にては相応の妻子を召置きても養育の罷成可しと有る勘弁を致して後子孫相続の儀を相見かふべきもの也。小身の武士の心得の為仍て件の如し。
緊急の場合に、自分の槍を担がせて出ていく中間の一人をも召し抱える余力のないような小身の武士が、そのような状態で妻子を養うことは大きな考え違いと知るべきである。
多くの親類、友人の中にはいろいろなものもいて「人間には病気ということもあり、洗濯や勝手の仕事もある。第一、子孫を残すためにも・・・」などと、言葉巧みに進めるのをなるほどと思って、将来のことも考えずに人の娘を貰い受け、妻と定めて家に置いておけば、なるほどその当座は朝夕の支度も安心で、普段の用事も片づいて喜んでいるうちに、間もなく小さい子供たちが何人も生まれては、そのたびごとに出費がかさみ、やがて家計に穴をあけ、たった一人だけ召し抱えていた中間にも暇を出して子守女と取り替え、留守番をする男さえおらぬ始末となって、妻子が病気にでもなれば看病を理由に勤めを休んで大切なご奉公を怠り、家計はますます逼迫して、にっちもさっきもゆかず、同じような身分の同僚の真似も出来ぬようになってしまうが、それも自分の好みで不必要な妻子をもったことから起こった苦労にほかならない。ところが、その原因を考えもせず、主君の責任ででもあるかのようにお恨みし、不満を持つというのが十人のうち九人までで、世間によく見るところである。
ここのところを十分に考えて、小身の武士としては、年齢も若く気力も盛んなうちには、昼夜の別なくひたすら奉公の勤めに精を出し、主君の思し召しによって、それ相当の出世も遂げ、もうこれならば妻子を持っても養育に事欠くことはあるまいという判断をつけてから、子孫相続のことについて考えればよろしいのである。
以上小身の武士の心得として申すものである。
さすがに現代では、これほど正面切ったマイホーム否定論にはお目にかかれない。友山に言わせれば、身分不相応に妻子を養うのは自分勝手な道楽にすぎず、そのため家計が破綻して自分が苦しむのは自業自得だが、ご奉公をおろそかにする結果を招くから許し難い不忠だということになる。残酷なようだが、この論法は時代の要請を反映している。武家社会の底辺にあった下級武士の定員は常に飽和状態で、その子孫の繁栄は失業者の数を増やすだけのことであった。ありていに言えば、下級武士などというものは、一代限りの消耗品で十分だったのである。だが、このようにして人間性を踏みにじられてきた恨みが積り積もって、ついには封建の世を根本から打ち倒す力にまでなっていってともいえよう。
世間に徘徊仕る盗人と申すものは人の家のやじりを切或は人の腰にさげて居る巾着を切其外種々の盗みを致して己が渡世と仕る義尤も大非義の至りとかふ申に及ばず候。然れ共古人のことばにも人として常の産なければ常の心なしと之有る儀なれば其の身今日の渡世に差詰り致方之無くいたらぬ心からはたとひ人の物を盗みてなり共当分の飢寒を防がずしては叶はず若しも見付けられて首のきらるるとても是非に及ばずと覚悟を極めて非義の幸を求めず忽ちに飢こごへて死る事を何共思はぬごとくの心にて口をきく士分上の身にてさへちとはなり兼る事にて候。爰を以て少しは尤也とは申にて候。扨又主君を持ちて奉公を仕る武士大身は言ふに及ばずたとへ小身たり共既に名字をも首にかけ腰刀をもはさみ罷在るからは一向の雑人とは申難し。勿論奉公人と之有るからは似合相当の恩禄をも蒙り罷在る義なれば常の産なし共申難し。然る上は主人御目がねを以て御勝手方に懸りたる役義など仰付けられ候においては毛頭程も利欲の心なく一筋に上の御為になる様にと事を正直正路に相勤候てこそ武士の本意なるべきをややも致しては役義に付いて私の非義をかまへ手をかへ品をかへて主人の物をかすめて己が内証へ取り込む分別を仕りしかもおのれ一人の心にては自由成難が故我が預かりの手代物書きを始め自分の家来共に迄も盗みを致させ下の謗り同役朋輩のおもはく下墨を恥じる心もなく身上不相応なる家普請道具集め振回数寄を致し勿論家内の人数も多く我と同身躰の朋輩のならぬ渡世を致すとあるは右に申すりどろぼうの類に十倍もまさりたる大盗人也。仔細を申に世間の盗人と申物は人の物を取りては深く隠し其上大方は見ず知らぬものの巾着鼻紙袋を取り申す如く之有り候。武家の盗人の義は御恩を請けて罷り在る主君の物を盗み取りてそれを何共存ぜず己が身上不相応の栄耀を致し身の奢りを極め候と有るは同役諸朋輩をば目なし耳なしのうつけ者に致しなし畢竟大切の御主人までをも少しは御馬鹿に仕り上る道理也。扨こそ世間徘徊のすりどろぼうには十倍の科人とは申也。扨又右の通りの不届者に限り邪智多く之有るに付賢き手伝を致して主君の思召に叶ひ時にあひたる家老出頭人の中に貪欲深き壱人を見立て鼻薬をかひ人しらず内証与其一人の機嫌を取請て己がうしろだて身の垣に致して専ら権威につのり公事裁許の座席においても同役同職に口をあかせず我請人の懸りと有る遠慮もなく何にもかにもさし出で己ひとりの様に口をききやや共致せば依怙贔屓の沙汰に及ぶを同役一座の面々も近頃傍若無人の不届きかなと人には見限り存ずるといへ共当時其者のはぶりのよきにめで又はよきうしろだての有るにもおそれ畢竟手前にも器量のうすき旁を以て誰一人進み出で理屈をいふ者も之無きごとくなれば後々一座の埒明ケの様に成行諸人此人の口を守り偏に相続程の如く之有るに付相残る同役同職の義は悉皆有るなしの様に罷成果てには国家政道の邪魔となる物也。是に付足利将軍家の時代京都の所司代職に撰び出されし多賀豊後守と云いけるもの土佐将監と申絵師を召し呼び我が昔新左衛門と名乗り江州佐々木家に於いて平侍にて罷り在り候時の姿を絵に書かせて是を居間の床に懸け置き朝夕見て身のいましめと致し諸役人に対談常話の時も人は身の仕合能なる程卑賤の昔を忘れざるを以て肝要と致すの旨申されけると也。小身武士の心得の為仍て件の如し。
世間にはびこる盗人というものは、人の家の家尻(家の裏の戸や壁)を切り取って中へ侵入し、あるいは人の腰にさげている巾着を切り取り、そのほかさまざまな盗みをして、それを仕事としているのであるから、不道徳なことの上ない存在といえよう。しかしながら、古人の言葉にも「恒産なければ恒心なし」(人として安定した資産がなければ、安定した思慮を持つことはできない)といわれているように、その日の生活に窮してどうすることもできず、心の弱いために「たとえ人の物を盗んででも、さしあたりの飢えと寒さをしのがなけれはならない。もしも見つけられて首を切られようともやむをえない」と覚悟を決めて盗みをするというのであれば、それは不届きなこととは言いながら、いくらかはもっとものことのように思われる。
人間の貧富貴賤というものは、すべて天命であり、これに苦しむことはない、正しくない手段で富を求めることをせず、たとえ飢えと凍えのために直ちに死のうとも、何とも思わないなどということは、口では言うものの、実際には武士以上の身分の者であってもそうそうできることではない。それであるから、盗人の仕業についても、少しはもっともだというのである。
ところで、主君を持って奉公する武士については、大身の者は言うまでもないが、たとえ小身者であろうとも、苗字を持ち、刀を差しているからには、ただの庶民とは言えない。また奉公人というからには、それ相当の俸禄をも頂いているのだから、「恒産なし」ということもできない。そうであるならば、主君のご判断によって会計出納のお役をお受けするような場合にも、少しも私欲を考えることなく、ただひたすら主君の御為になるようにと心がけ、真っ正直に勤めることが武士の正しい道である。
ところが、ややもすれば、役目を利用して私欲を満たす悪事を働き、手を変え品を変えては主人の物をかすめ取って自分の手元へ持ち込む工夫を重ねる。しかも自分一人の考えだけでは自由にならないために、部下の秘書役などをはじめ、家来たちにも盗みを働かせるのである。こうして部下の批判、同僚たちの軽蔑にも恥じる心もなく、身分不相応な家の普請や道具集め、ご馳走道楽などに耽り、召使も数多く抱えて、自分と同じ身分の同僚たちにはできぬような生活をするなどは、右に述べた盗人などよりも十倍も劣った大悪人である。
その理由を述べよう。世間の盗人というものは人の物を取れば深くそれを隠し置く。また、たいていは見ず知らずの人の巾着や紙入れを盗むものである。それにひきかえ、武士の盗人とは、御恩を受けていいる主君の物を盗み取って平気でおり、身分不相応の贅沢をして勝手放題なことをするものであり、同役同僚たちを、目なし、耳なしの馬鹿者扱いにするばかりか、つまりはご主人までをも馬鹿にしている道理である。だからこそ、世間にはびこる盗人に比べて十倍もの罪人だというのだ。
ところが、このような不届き者にかぎって、悪智恵が発達しているものだから、主君に対しては気のきいたご奉公をして、そのお気に入りの家老や重臣の中から欲の深いものを一人見つけ出して鼻薬をかがせ、誰にも気づかれぬようにその者の歓心を買って自分の後ろ楯とし、その権力をかさに着て公式の決裁の場でも同僚には口もきかさない。自分の職分について自覚することもなく、何事につけても出しゃばって、自分よりほかに人はいないかのような口をきいて、ややもすれば、依怙贔屓の沙汰を行う。同僚の人々からは、まことに傍若無人の態度と見限られながらも、現在、その者の羽振りがよく、また有力な後ろ楯があることを恐れ、また自分たちにもこれに逆らうほどの力量がないため、誰一人として進み出て批判をする者とてもない。このため、後には一同の指導者のような立場となってしまい、人々はみなこの者に口を合わせるようになり、そのままの状態が続いてしまうので、それ以外の同僚たちは、あたかも有名無実の有様となり、国の政治についても大きな支障が生じてくるのである。
足利将軍家の時代に、京都所司代職に選ばれていた多賀豊後守という人は、土佐将監という絵師に命じて、かつて自分が新左衛門と名乗って江州佐々木家の平侍を勤めていたころの姿を絵に画かせ、これを居間の床に掲げて自らの戒めとし、役人たちと語り合う時にも、人は幸運な境界にある時ほど卑賤の昔を忘れぬことが大切であるとつねにいっていたとのことである。
以上、小身の武士の心得として申すものである。
奉公を勤める武士我が頼み奉る主君何ぞ大き成御物入りなど指しつどひて御勝手向ひしと回り兼ね何共成される可く様之無しと有るに至りて常々家中へ下し置るる知行切符の内に如何程づつ何ヶ年の間は御かり用ひ成され度などと之有る義もなくては叶はず。其多少によらず畏りて御請を申上るより初めては他人の義は申に及ばずたとへ女房子共の寄合雑談の中においても是は難儀の至り迷惑の仕合せなど之有る義をことばのはしにも有るは武士の本意にあらずと恥慎むこと肝要也。子細を申すに昔が今に至る迄主君の御難儀をば家来共が打寄りて是を見届け奉り又家来の難儀をば主君の御力を以てすくひ下され候と有るは之皆定まれる武家の作法也。其上頼奉る主君の御内証御差詰り御手つかへと申に至りては公界へ懸り是は大名役にて成されずしては叶はずと之有るごとくの義までをも大形は差止なされ万事を御堪忍と有るも近頃心外の至り御大身と申したる迄の御くらしを見奉るに付ては御家来の身にて気の毒とも口おしくも存間敷様とては之無く候。但常式の義などは成次第其通り共申さる可く候。世の中の変と申物は不慮の騒動などと之有る刻相定まれる軍役の人数積りを以て近日彼地へ発向あられ候様にとの上意など下りすはや其支度と有るに及びてもまず入用の物は金銀也。さらば其才覚と有りても兼て出入仕る町人共には日頃数度の無心を言ても無沙汰のみを致しこらし置きたる上なれば役人共の申義を合点仕らず。世間物さわがしき時節には質物などを取りて金を貸す町人とても之無き儀なれば石にて手をつめたると申すたとへのごとくにて跡へも先へも行き兼ねる難義の内に同列の諸大名衆にては用意相調ひて来る幾日には必ず出馬と有る申合の日限なども定り候ては自余の時とは違ひ延もちぢめもならざるに付不足たらたらなる支度ながらも出勢なくては叶はず。世間静謐の時代には珍敷陣立なれば我も人もよき見物と心得市屋町屋をかりふさげて野にも山にも立ちわたり貴賤目ざらしの中の武士押とあるはかたのごとくのはれ事なるに家中の人馬出立共に諸手に勝れて見苦敷様子ならば主君大将の御身に取りて御一生の御恥辱是に過ぎず。扨ても口惜しき次第かなと思召さるべきは必定也。此一大事を以て、考へ存る時は前かたより其の御心得を成され御勝手をも持直され人馬武具馬具等の儀は申に及ばず自余の時の御用金までにもさのみ御手つかへ之無き様に成し置かれ度とあるは武将の御心懸には御尤至極の思召此上有るべからず。然るにおいては家中大小の諸侍に下し賜る知行切符の内をも分に相応に差上げずしては叶わずと之有る儀は新参古参にかぎらず主君の御恩を請る程の武士の上には覚悟も有るべき儀也。然者物成減少の年賦の内は随分と簡略仕り主君の御下知次第に人馬をも減らし其身妻子共に冬は紙子木綿の衣類夏は布帷子を着し朝夕は黒米飯ぬか味噌汁と分別を極め自身は水をくみ薪をさき妻子に食をたかせ力にかなふ程は難義苦労致して成共一度主君の御勝手をさへ持直させ参らせ候はばと一筋に覚悟を立ると有るは武士の本意たるべき也。若し其の見故有て永き暇を申請浪人致すべきと有る存念の折節家中の物成減少の沙汰之有るにおいてはその存立を止め年賦過ぎて本知を返し給わりたる上に於いて暇の義を申出す是正義也。且又右の通り艱難仕り罷在る年賦の内たり共何ぞ時に取て主君の御用を承り其努めを致す儀などもなくては叶はず。左様の砌は自分のさしがへ女房の手箱を質物に入ても其の入用程のとりつぐのひを致し拝借など之有る義を此方よりは少しも申し上べからず。子細を申にたとひ主君の御耳にこそ入らず候とも或は番頭組頭または家老年寄中の下墨にも物成り減少にあひたるを下心にふくみ主君へ対し奉り武士に似合ざるねだりごとを申すなどと思はれ候ては重ねて口もきかれずとのたしなみ遠慮武士の慎也。初心の武士の心得の為仍て件の如し。
奉公を勤める武士として、ご奉公する主君におかれて、何か大きな出費が重なり、藩の経営が行き詰って、どうにもならぬ状態となったために、日頃家中の者に給わる俸禄の切符のうち、いくらかずつを何か年かにわたって借り上げられるというのも、あり得ることである。このような場合には、その額の多少にかかわらず、謹んでお引き受けすることはもちろん、他人はもとより女房子供との雑談の中ででも、「これはひどいことになった。迷惑な次第・・・」などと、たとえことばの端にでも出すのは、武士の道に外れたこととして恥じつつしむということが大切である。
なぜならば、昔から今に至るまで、主君が難儀をされれば、家来たちが寄り集まってお助けし、家来が難儀の時には、主君のお力によって救って下さるというのが、武家における掟である。まして、ご奉公申し上げる主君のお手元が行き詰ってお困りとあっては、公のご用にも差支え、大名の身として当然なさるべきことまでも取りやめられ、万事を辛抱なさって、ご大身というのは名ばかりのお暮らし向きとなっているのを拝見しては、家来の身として、お気の毒とも口悔しいとも思わずにはいられまい。
もっとも平時の場合は、そうした状態でも何とかなっていくものである。ところが、一旦、世の中に思わぬ騒動が起こるなど非常の場合となった時には、日頃定められている軍勢をとりそろえ、近くかの地へ出発せよとの公儀のご指示があり、いざ、その支度ということになると、まず必要なものは金銀である。
では、その工面ということになっても、日頃出入りしていた町人どもには、すでに何度もの無心をしては放っておいて、ひどい目に合わせているので、役人たちが何を言っても承知しない。また世の中が騒がしい折には、担保を取って金を貸す町人とてもいないから、まるで大石に手を挟まれたように、にっちもさっちもいかぬ有様である。そうしているうちにも、わがお家と同格の諸大名方におかれては、すでに用意もととのって、来る何日には必ず出発と、約束の時日も決まった。こうなっては、普段の時とは違って日取りを動かすわけにもいかず、不足だらけの支度ながらも出陣しないわけにはいかない。
泰平の世にあっては、出陣の有様は珍しい見物とあって、人々は市中の家々を借り切り、野山までも満ち溢れて貴賤入り混じって眺める中を、軍勢をそろえての出発とは実に晴れがましいことながら、家中の人馬の様子はどの部隊に比べても見苦しいとあっては、主君の御身にとって一生を通じ、これほどのご恥辱はないであろう。
このような大事な事態から考えても、主君におかれては、前もってこうした場合を予期されて藩の財政を立て直され、人馬、武具馬具などのご用意はもちろん、その他のご費用についても、さしてご苦労なさらぬようになさるのが、武将として当然至極のお心がけといえよう。そうであれば、家中の大小の武士たちに給わる俸禄の切符の中から、分に相応の額を差し上げたいと考えるのは、新参古参を問わず、およそ主君のご恩をお受けした武士としては決まりきったことである。
したがって、俸禄の額が減っている間は、できる限り節約に努め、主君の仰せ次第で養う人馬をも減らし、わが身や妻子は冬は紙や木綿の衣服、夏は麻の帷子を着て、朝夕の食事は玄米飯に糠味噌汁と覚悟を決め、自ら水をくみ、薪を割り、妻子に炊事をさせて、力の及ぶ限りの苦労をしても、主君のお家の財政を何とか立て直そうと決意するというのが武士としての本心といえよう。
もし、何かの事情があって永のお暇を戴き、浪人の身になりたいと考えていた場合にも、家中の俸禄が削減されている間はそのことを思いとどめ、やがて元通りの俸禄をお返しいただけるようになってから、お暇を願うというのが正しい道である。
また、このように俸禄をお貸しして苦労している期間においても、時と場合によっては、主君のご用を勤めるための費用を必要とすることがないともいえない。そうした場合には、自分の差替えの刀や女房の手箱を質に入れてでも、何とかして必要なだけの金子をつくり、お上から拝借するなどのことは決してこちらからお願いすべきではない。
なぜならば、たとえ主君のお耳には入らぬまでも、番頭、組頭、家老、年寄といった人々から見て、俸禄が削られたことを恨みに思って主君に対し奉り、武士らしくもないねだり事をしているなどと思われ、軽蔑されることとなっては、二度とまともな口はきけなくなるから、武士として、そのようなことは慎むべきである。
以上、初心の武士の心得として申すものである。
よほど恵まれた大藩ででもない限り、特別の失政がなくとも、ここに記されたような藩財政の危機は珍しいことではなかった。それは幕藩体制の当然の産物であり、しばしば幕府によって意識的に作り出されたものでもある。武士たちは、そのしわ寄せを俸禄の貸し上げ、または返上という形でまともに背負わされた。だが、お家という運命共同体にがっちりと組み込まれている彼らは、そこから逃げ出すわけにはいかない。となれば、石にかじりついてでも一つになって、苦難を乗り切るほかはない。戦場での困苦にもまさる生活苦とのたたかいがそこにはあった。
奉公仕る武士の心懸けの第一と申すはたとへ世間静謐の時代たりとも何ぞについては、大きに主君の御為になる儀にて大抵諸朋輩のうで先に回り兼ねるごとくの義もあらば是非人奉公と心に懸けて及ばぬ迄も思案工夫を回らしみるとあるは武士の本意也。況や事の変に臨み候においては、諸神諸仏にちかひ候ても今度の戦場に於いて敵味方の目をおどろかし末代迄も誉の名を残すごとく成る大忠義の働を遂げずしては二度故郷へとては帰るまじきものをと思い定めて武偏をかせぐ分別尤也。是に付武士足らんものは常に古き記録などを披見致して其の身の覚悟を相極め候ごとく尤也。仔細を申すに世に人のもてはやし候甲陽軍鑑、信長記、太閤記など申す諸書の中に其の時代にありし合戦の次第を記し置き候にもたとひ小身武士にてもあれ人のならぬ名誉の働きを遂げたる輩の儀は誰がし何某と其の姓名をあらはし此の他討死都合何千何百などと相記し之有り候。右何千何百と申す人数の内に大身の侍いか程も之有るべく候得共させる働きも之無きを以ってその名を書き記すに及ばず小身にても勝れたる武篇之有る武士斗を抜きえらびて其の姓名を書き顕わしたる物にて候。右姓名も残らぬ如くの討死を致すもまた末世末代に至る迄誉の名を残す如くの討死を遂ぐるも敵に首を渡す時の苦痛にかはりとては之無き道理也。爰の所を能々分別致しとても捨つる身命ならば諸手に勝れたる働きを仕りて討死を遂げ敵味方の耳目を驚かし主君大将の御おしみにも預かり子孫永くの面目にも備えんと有る心懸けをこそ武士の本意とは仕るにて候を其の弁へもなく意地きたなくして平場の迫合いなどにも懸る時は人の後退く時は人の先と斗心をはたらかせ或いは敵城を攻むる砌も矢玉激しき所にては朋輩を盾につき其のかげにかがみ居り手も遁れぬ運の矢には中りて伏し倒れ剰え味方の諸人のふみ草に迄成りて犬死を仕り大切の身命を失うと有るは無念の至り口惜しき次第にて武士の不覚此の上有るべからず。此の旨能々思量致し武士の身にて戦場へ赴きとても捨てる身命ならば敵味方の目前において比類なき手柄をあらはし晴なる討死を仕り名を後世に残すべきものをと朝思暮練の工夫はこれ武士の正義也。初心の武士心付けの為仍て件の如し。
奉公する武士としての第一の心がけは、たとえ天下泰平の時代ではあっても、何かという時には主君の御為に、他の同僚たちの手には負えぬような仕事を成し遂げてお役にたちたいと、日頃から思案工夫を重ねることであり、これこそ武士本来の精神である。
ましてや非常の事態に臨んでは、神仏に誓いをかけても、この度の戦場においては敵味方の目を驚かせ、末代までも名誉を残すほどの大忠義の働きを遂げずには二度と故郷へは帰るまいとの決意を固めて、武勇に励む覚悟は当然のことである。
この場合、武士としては、つねに古い戦記などを広げて、わが身の覚悟を新たにすることが望ましい。
たとえば、世間の人々がもてはやす『甲陽軍鑑』『信長記』『太閤記』などという書物には、その時代の合戦のいきさつが記されているが、その中に、たとへ小身の武士であっても際立った名誉の働きを遂げた者については、なんのだれそれと姓名が記されており、それ以外のものは、ただ討死何千、何百などと記録されている。この何千何百といううちには大身の武士がいくらもあるのだが、格別のお働きもなかったため、その名前までは記録されず、一方、たとえ小身ではあっても、武勇にすぐれた働きの武士については、姓名を書き記してあるのである
このように、その姓名さえ残らぬような討死を遂げるにせよ、あるいは末代にまで名を残す名誉の討死をするにせよ、敵に首を取られる苦しみにおいては、別に相違はないはずである。ここのところをよくよく考え、どうせのことに捨てる命であるならば、人々にすぐれた働きをして討死を遂げて敵味方の耳目を驚かせ、主君にも惜しまれ、子孫にまで長くその名誉を伝えたいものと心がけてこそ、武士にふさわしい決意といえよう。
ところが、そうした判断もつかずに醜い根性をさらけ出す者は、平地での戦闘になれば攻めるときには人の後から、退くときには人より先になることばかりを考え、敵の城を責めるときに弓矢、鉄砲玉が激しければ同僚を楯のかわりにして、そのかげにかがみこんでいるが、そのようにしても運命からは逃れられず、敵の矢に当たって伏し倒れ、そのうえ、味方の人々から踏みにじられて犬死の最期を遂げ、大事な命を失うこととなる。これでは誠に残念至極、口惜しい次第で、武士としてこれ以上の不覚はあるまい。
こうした点をよくよく考えて、武士として戦場に赴き、どうせ命を捨てるからには、敵味方の見ている前で、この上ない手柄を立て、あっぱれの討死を遂げて名を後世にまで残すことを期して、朝に夕に鍛錬を重ねることこそ、武士本来の務めといえよう。
以上、初心の武士への注意として申すものである。
犬死も名誉の討死も、死ぬ苦しみに変わりはない。同じことならば歴史に名を残すような壮烈な死を…。と説く友山のことばは、戦乱の記憶がまだ生々しかった江戸初期にあっては、すこぶる迫力に富んでいたものと思われる。
奉公仕る武士主君より大切の仕もの放し討ちなど仰せ付らるる時は御家中人多き中に今度御用を私へ仰せ付らるる段生前の面目武士の冥理に相叶い切望の至り忝き次第に存ずる旨成る程いさぎよく言を放して御請を申上る心得尤也。然るを其の了簡もなくなまぬるき御請などに及ぶとあるは以ての外宜しからず候。仔細を申すに内心には随分と勇気を励ましあっぱれ仕すまして御目に懸くべきと存じ詰め候ても勝負は時の運による儀なれば十分に仕すます事もあり又討ち損じ剰え返り討ちに逢うごとくの儀もなくては叶わず、何れの道に致しても後日に至り諸朋輩の中において善悪の批判は有るべき事也。其の首尾よければ右の請の砌よりいかさま仕り兼ね間敷き気色に見えたるが其の如くよくは仕済ましたりと申して諸人誉むる也。若し又仕損じてかへり討ちなどに討たれ、候時も右の御請の次第を申し出でて中々仕り損ずる様なる者にてはなかりしが如何致して打ち損じけるぞと申して各々悔みてをしみ申す也。さて又少しにてもにぶき御請けを仕り候時はたとひよき首尾に仕済ましてもひとへに時の運のよきと申して誰もさのみほめず。若しも致し損じたる時は右御請の砌から何とやらん覚束なくおもはれしが果たして仕損ないたりと申して諸人そしるものにて候。爰を以て何分にも御請をばいさぎよくとは申すにて候。惣じて武士を嗜むものはかり初にも仕形の負けをとらぬ様にとの心掛け第一也。たとへば人に無心合力など有る義を言い懸けられても是はなる事ならぬ事と有る儀をば幾重にも前方に分別致しなる間敷きと思うことならばそれは格別也。若しいやと言われぬ事にて既に同心致す程ならばいかにもいさぎよく請合い候て先の者も別して過分とも存ずべき義なるを請口にぶく不肖々々の様子にみゆる時は先の者の心に成りて過分気も薄く何とぞ成るべき事なれば此の仁へばかりは無心をいはぬ様に致し度事なれ共外の障りに迄もなる義なれば左様にもならず扨ても心外成る事かなと無念にも口惜しくも存ぜずしては叶わず。かくの如くなるを意地のきたなき共申しきれはなれのなき共申す也。畢竟損の上の損などとも申すべき候。此の旨能々思量有るべき也。初心の武士の心得の為仍て件の如し。
奉公を勤める武士として、主君から大切な上意討ちなどを仰せつけられた時には、「ご家中に多くの人々がおられる中から、私にこの度のご用を仰せ付けられましたこと、一生の名誉、武士の冥利につき、本望のいたり、かたじけなきしだいにございます。」などと、きっぱりと申し上げてお受けすることが望ましいのである。これに反して、そのような心がけもなく、煮え切らない態度をとることは、もってのほかの不都合である。
なぜならば、内心では大いに勇気を奮い起こし、見事にし遂げてお目にかけようと決意していても、勝負は時の運であるから、十分に仕とげることがあるかと思えば、また討ち損じた上に返り討ちになる場合さえもあるのである。どのような結果となっても、後日、同僚たちの間で様々な批評が出てくるであろう。
その際、お受けした時の態度がよかった場合には、首尾よく仕とげれば、「お受けしたその時から、なるほどあれなら仕とげずにはおかぬという様子に見えたが、その通りに見事仕とげたものである」と、人々からほめられるであろう。また、たとえ仕損じて返り討ちにされたとしても、「お受けした時の態度から見て、まさか仕損じることはあるまいと思われたのに、どうして打ち損じたのであろうか」と、悔やみ惜しんでくれるものである。
ところが、お受けする時に少しでも煮え切らぬような態度をとていた場合には、たとえ守備よく仕とげても、「あれは運がよかっただけのこと」といわれて、誰もほめてもくれず、また、もしも仕損じるようなことがあれば、「どうもお受けする時から、なにやら頼りなく思われたが、はたせるかな仕損じてしまった」と、人々から非難されるものである。
それであるから、お受けする時には、何としてもきっぱりとした態度を示せというのである。
およそ武士としての誇りを持つ者は、どのような場合にも、消極的な態度をとって相手にひけを取ることがないよう心掛けるべきである。
たとえば、人から無心を受け、援助を頼まれたりした時、これはできることか、できぬ事かを前もって繰り返し検討して判断を下し、協力はできないという結論の場合はともかく、もし、いやとは言えぬ事情で承知するというのならば、できるだけ気持よく引き受けるようにすれば、相手の側も誠に有り難いと感じるものである。ところが、承諾の返事がはっきりせず、何か不承不承のように思われてしまうと、相手側の感謝の気持ちも薄れ、「できることなら、この人のところへは無心をいいに行きたくはないが、ほかとの関係もあるからそうもできない。やれやれ残念なことになってしまった」などと、口惜しく残念に思わずにはいられないであろう。
このような者をさして「気性がいさぎよくない」とか、「きっぱりとしたところがない」とかいうが、結局は、その為に損の上に損を重ねるともいわれるのである。このところをよくよく考えるべきであろう。
以上、初心の武士の心得として申すものである。
きっぱりとした態度を衆目の中でとることによって、自分自身をのっぴきならない立場に追い込むことは、迷いやためらいを払いのけて前進するための、自己管理の手法でもある。
友山はここでも、いじらしいほど「はたの見る目」に気を使っているが、それよりも自らの可能性を最大限に発揮するための教訓として受け取りたい。
奉公を務める武士の第一の心得には頼み奉る主君たとへ何程非道なる儀を仰せられて如何様の御叱りに預り候共恐入りて御意を承り迷惑至極仕りたる躰を致す義肝要也。たとへばあなたより其の方あやまりなきにおいては申し開きを仕れなど仰せらるる儀之有候共御意の下に於いての申しわけとあるは御詞を返すと申して主従の作法にたがひ大きなる慮外の大罪也と覚悟尤也。しかりといへ共武士道の押さへ共なるべきごとくなる義ならばそれは又格別の仔細なれば其の時刻を過ぎて家老年寄用人などへたより何とぞ永く御身かぎりに預らざる程の申開きの御取成しをと頼み入り申すごとくの義はなくても叶わず尤もの至りなるべし。之に付主君のお言葉をも反古に仕らず其の身の一分も相立ち申すごとくなるよろしき御請け答えを仕りたる古き武士の噂を初心の武士の心付けの為記し申し候。慶長年中福島左衛門大夫正則の家来に佃又衛門と申す大剛の侍あり、在陣の砌夜陰に及び政則の陣中不慮の騒動に及ぶ義有て家中の諸侍残らず本陣へ馳せ集るごとくの義之有。其の翌朝政則又衛門へ対し其の方義は夜中騒動の刻鎗にさやをかけながら持ちて出でたるはいかにと尋ねられければ又右衛門承り御疑いの趣御尤もに覚え候昨晩方より以ての外に空曇り候に付夜中は雨鞘を懸け置き候を其のまま持ちて罷り出で候然ればさやをかけながら持ち出で候と御覧成されたるは御尤もと申すに付き政則扨ては聞こえたりと御申し有りて事済けり。其の後朋輩共又右衛門へ申しけるは夜前其処元の義は槍のさやをはづして持ち出でられしを何れもよく見届け罷り在る儀なれば幸い証人も有る義なるを今朝御尋ねの砌雨鞘を懸け置き候との御請は一円心得難しと尋ねければ又右衛門聞きて雨さやの義は各々にもご存じの通り油紙一重の儀なれば抜身の鎗も同然の事にて候かりそめながら対象己御目違いと有るは重き義なるを以て右の通りの御請には及び候也と申すに付き之を承る諸人又右衛門が心入れの程を感じたるとなり。以後とても主人のお側近く御奉公申し上げる武士はその心得なくては叶わず。初心の武士の心付けの為仍て件の如し。
奉公を勤める武士としては、自分が仕える主君から、たとえどれほど理屈に合わぬ事を言われ、どのようなお叱りを受けようとも、ひたすら恐縮して仰せを承り、ただただ困り果てた様子でいることが、第一に大切な心掛けである。
もしも、主君の方から、「その方に誤りがないというのならば、申し開きをせよ」などといわれることがあろうとも、主君のお言葉に対して申し開きをすることは、お言葉を返す、といって主従の礼儀に反した非常な無礼の大罪であるから、そのようなことはかたくつつしむことである。しかしながら、それが武士道にもとるような性質の事柄であれば、やむを得ぬことであるから、家老、年寄、用人といった人々に対し、後刻、「主君よりお見限りを受けぬよう申し開きを致したいので、なにとぞ、お取次ぎの程を」とお願いするといったことは、当然あるべきことである。
こうした点について、主君のお言葉を無視もせず、また自分の立場をも失わぬように、見事な受け答えをした昔の武士の物語を、初心の武士への教訓として記しておこう。
慶長年間のこと、福島左衛門大夫正則の家来に佃又右衛門という大剛の武士がいた。ある出陣中のこと、夜中、正則の陣中で不意の騒動が起こり、家中の武士たちが残らず本陣に駆けつけたということがあった。その翌朝、正則は又右衛門に対して、「その方は、昨夜の騒動の際、鎗にさやをかけたままで持っていたのはどういうわけか」と尋ねられた。又右衛門は、これを承って、「お疑いは最もでございますが、昨日は夕方から空が大変曇っておりましたために、夜は鎗に雨鞘をかけ、そのまま持って出たのでございます。したがって、鞘をかけたまま持って出たものとご覧になったのは当然のことでございました」と申し上げたので、正則は、「なるほど、わかった」といわれ、ことは落着した。
その後、同僚たちが又右衛門の所へ来て、「昨夜、あなたが鎗の鞘をはずしてもって出られたことは、誰もがよく見ており、証人もあるというのに、今朝のお尋ねに対して、雨鞘をかけてあったとお答えになったことは、どうも納得がいきませんが」と尋ねた。又右衛門は、「雨鞘というものは、あなた方もご存じのように、油紙一枚のもので、実質的には抜身の鎗と同じことです。小さなことながら、大将が見間違いをなさったというのは重大なことですので、それを表沙汰にせぬため、右のようなお答えをしたものです」と答えたので、人々は又右衛門の心がけの程に感心したということである。
現代においても、主君のお側近くに奉公仕る武士としては、このような心掛けが必要なのである。
以上、初心の武士への注意として申すものである。
説得の技術は、相互の人間関係によって当然変化してくる。ここで説かれているのは、絶対的な上下関係のもとにおける説得法で、先ず逆らわぬことを第一とし、こちらの主張は最小限に抑制している。だが、このような温順な部下ばかり持っていては、トップはなまの情報から遮断され、友山流に言えば「「御耳目をふさがれ給ふ」ことになる危険性があるといえよう。
奉公仕る武士旅行の道中に於いて小身者は乗懸馬などに乗らずしては叶わず。然るにおいては若落馬を致しても刀脇差の鞘はしらざる心得をば仕り大小共にさし堅めて乗べき也。三尺手掛などを以て刀の柄をふとんばりにしかと結付或は持ち槍のさや留を致すとても太き御縄にてくくり留めるごとくなるは其の身一分の不心懸け者とみゆる計にても之無し。或いは小荷駄印荷札の書付を見ては誰殿の家来と有る義を人々存ずる義なれば主人の御家風迄も手浅きごとく他所にて批判仕る物にて候。扨又今時道中の習いにて馬子共の相対を以て馬を替えると申す義之有り候。先の乗り手武士ならば馬子の申すにまかせ馬よりおるる躰を見届け候て後此方も馬よりおるるがよき也。仔細は馬子共の言に任せ此方は馬よりおり立ちたるに若し先の乗り手馬を替え間敷と申す時は是非替えんという事もならず。然れば折角馬よりおりてもまた馬に乗らずしては叶わずとの遠慮也。且つ又江戸表などにおいて公子の用事に付乗馬にてありき候時はたとひ其の身極老たり共いまだ馬上の勤めを致す仕合わせならば自身手綱を取りて乗ありく義尤也。況や年若き武士などの中間に両口をとらせ其の身はぬき入手を致しての馬上と有るは然る可からざる様子に見ゆる也。初心の武士の心付けの為仍て主君を持ちたる武士御用のお使いなどを承り立途へば件の如し。
奉公をする武士が旅行の際には、小身者は宿場の貸し馬などにも乗らねばならない。そうした時には、もし落馬などしても、大小の刀が鞘からはずれぬよう、しっかりと差してから乗らねばならない。
ところが、刀の柄を手ぬぐいなどでぐるぐる巻きにしっかりと結んだり、鎗の鞘をおさえるために太い縄でしばりつけたりするのは(万一の場合、不覚をとるもとであるから)、自分一人が不心得者と見られるだけではすまぬことである。荷物につけた印や、荷札の文字からでも、誰殿の家来かということは人々に知られるのであるから、他国の人々にお家の家風が軽薄であるかのように評判される結果となるであろう。
また、近年の習慣として、旅行中、馬子同士の相談によって馬を交換するということがある。こうした場合、相手の馬の乗り手が武士であれば、馬子のことばによって馬からおりる様子を見届けてから、こちらもおりるのがよい。なぜならば、こちらが馬子のいうとおりに馬からおりてしまったのに、もし相手が馬を替えたくないといった場合には、どうしても替えよというわけにもいかず、結局は、折角おりた馬にまた乗らねばならぬからである。
また、江戸表などに滞在中、公私の用事で馬に乗って歩く場合には、たとえ老年であっても、馬に乗れる状態であるならば、自分で手綱を取って乗るようにしなければならぬ。ましてや年若い武士が、中間に両側から手綱を持たせ、自分は馬上で懐手をしているなどは、まことに見苦しく思われるものである。
以上、初心の武士への注意として申すものである。
主君を持ちたる武士御用のお使いなどを承りたとへば江戸表より上方辺りへ、罷り越し候様なる道中を致すに大井川の義は申すに及ばず其の外いづれの河々においても少しなりとも水気と申す程ならば其の所の川越えをやとひて越え行くべき也。少しの費えをいとひ或いは川越の巧者を頼みて自分越えに致し川中にて馬を倒して荷物を水にひたし或いは下人に怪我を致させ候ごとく之有るは大きなる不調法也。扨又道のり近きとて四日市のりを致しまたは粟津の船に乗るごとくの義は無分別の至極也。仔細を申すに天下の人の乗るべきことに定め置きたる桑名の船に乗りて若しも風波の難にあひ事の遅滞に及びたるには其の申し訳も相立ち申す儀なり。いはれざる手回し立てを仕りて事の間違い之有りては一言の申開きも之無き義也。去るによって古人の歌に
もののふの矢橋のわたり近くともいそがばまわれ瀬田も長はし
かやうの心得は道中の義のみに限らず武士の上には何事に付ても此の心持なくては叶わず。武道の伝来にも本道服意心得なども之有る事に候。初心の武士の心付けの為仍て件の如し。
主君をもった武士が、主君のご用のお使いを命じられて、たとえば江戸から上方へで出むく道中をするときは、大井川はいうまでもないが、その他の川についても、少しでも水勢が増しているときには、その場所の川越人足を雇って河を越すべきである。わずかな費用を惜しみ、あるいは川越上手を自慢にして自力で川を越そうとして、川の中で馬を倒す、荷物を濡らす、または従者に怪我をさせるなどというのは、非常なる失態である。
また、旅行の経路についても、距離が近いからといって(桑名―熱田の便船ではなしに)、四日市から船に乗ったり、または粟津からの便船で琵琶湖を横断したりすることは、とんでもない無分別である。なぜならば、世間一般において乗るものとされている桑名からの便船に乗っていれば、もしも風波のために日程が遅れたとしても、その言い訳が成り立つものである。それに反して、余計な算段をして失敗した場合には、一言の申し開きもできないものだからである。そこで古人の歌にも、
もののふの矢橋のわたり近くともいそがばまわれ瀬田の長はし
といっている。
このような心掛けは、何も道中のことだけではなく、武士の身として、何事につけても忘れてはならぬことである。武士道の古い教訓にも、このことは教えられているところである。
以上、初心の武士への注意として申すものである。
先ず第一に、上司への言い訳が立つか立たぬかを考えて行動するところ、現代のサラリーマン気質に通ずるものがある。結果論から攻めたててくる上役には、こうした予防線が最も効果的であることはご承知の通り。しかし、失敗した際の叱責をおそれて、何事も安全第一を心掛けていては、大きな飛躍は望めまい。
奉公を勤る武士主君にご旅行のお供を致し其の日の泊りへ着き候においては御本陣より何方に当たりていかやうの広き場所其の所へ行く道筋はかやうと有る義迄をも日の暮れ前に何となくみわけ致しとくと相心得罷り有る義肝要也。仔細は夜中急火などの節風並悪しく御本陣あやうきと有りて主君俄かに御立ち退きなさるる時お先へ立ちてご案内申上ぐべきが為也。且つ又日暮れに及び其の所の者をかたらひその宿の近所にみゆる山林寺宮などを目当てにして東西を問い訪ね覚悟致し罷り有るも是又夜中何ぞの義に付主君より所の方角御尋ねの節早速申し上可きとの心懸け也。扨て又其の身歩行にて主君の御供を勤る義之有る節上り坂にては御先へ立ち下り坂にては御跡に立つごとく心得るなど有るは尤も軽き事ながらも奉公致す武士の心懸けの一つ也。右のごとくの義を以て手懸りと致し思案工夫を回らしとても奉公を勤る身と罷り成るからは何がな主君へ対し奉り一奉公になる義もがなと朝暮油断なく心懸け励み申すとあるは武士の本意也。初心の武士の心付けの為仍て件の如し。
奉公を勤める武士が、主君のご旅行のお供をして、その日の宿泊地へ到着した時には、主君のご宿舎のどちらの方向には、どのような広い場所があり、そこへ行く道筋はどうか・・・といったことについて、日が暮れる前に確認しておき、よく心に止めておくことが大切である。なぜならば、夜中、急の出火などがあって風向きが悪く、ご宿舎が危ないというので、主君がその場を立ち退かれるような場合、先に立ってご案内するための用意である。
また、日が暮れてから、土地の人に尋ねて近所に見える山や林、神社仏閣などを目印にして東西の方向を知り、覚えておくというのも、これまた夜中に何かのことが起こり、主君のお尋ねがあった時には、早速申し上げられるようにとの心掛けである。
また、徒歩で主君のお供をする時には、上り坂の時は先を行き、下り坂の時は後から行くものだが、こうしたことは小さいながらも奉公する武士の心がけの一つである。
右のような諸点をヒントとして、いろいろと思案、工夫を重ね、どうせご奉公をするからには、何か一つでも主君に対し奉ってお役にたてることがなかろうかと、朝に晩に心掛けて努力を重ねるのが武士本来の心構えである。
以上、初心の武士への注意として申すものである。
奉公を勤める武士は大身小身を限らず其の身の分限相応に武具兵具を貯へ持つ心懸を仕らずしては叶はず。就中その家々の軍法之有り。兼々主君より定め置かるる家中一同の番指物同じく面々の出子(いでたち)或いは冑の前立て鎗印袖印小荷駄印など申類の相印においては油断なく早速支度尤也。事の変と有るは只明日の上も斗難し。其の後にのぞみ俄かにとては出来兼申す可く也。たとひ出来るに致しても日頃の油断も顕れ人の下墨も如何也。家中一同の相印を粗略に致して味方内に逢いたる者は、討たれ損たるべき旨武家の古法にも相見へ候得者至て大切の義也。其の上主君武備の御心懸深く候へばいつ何時を限らず家中諸侍の武具を御改め又は御自身にも御覧成さる可くなど仰せ出さるる刻同列の朋輩の中には其の身の着料を始め下人の用具其の外軍役の諸色に至る迄何に一色不具と有る義もなく飾り立てて御目にかけ主君を始め奉り家老年寄り中迄の誉め事に罷り成るごとくの者も之有る中に何も不足かも不足とみゆる様子にては外々の過失とは違ひ武道の筋へ懸り其の身の一分も立たざる儀なるを以て主君にも御用舎あられ当座の御咎め御叱りとては之無く候とも御心の内にも扨ても知行盗人かなと長き御見限りに罷り預かるべきは必定なり。たとへ主君よりの御改め之無きとても武士たらん者我が分限相当の武具支度に油断仕るべき様とては、之無く候。たとへば我が召使の者の中に人を切る用がなきとて刀脇指のみを木竹に致してさし又は尻をからぐる用がなきとて常に肌帯をかかずして罷り有る如くの不心懸者あるにはそれを知りながら其の通りに致しては差置き難き道理也。然れどもそれは申してもかろき若党中間風情の義ならば指しての咎とも申し難し。其の身既に一騎役をも勤る約束の武士に備わり似合の禄を受けていながら軍役の勤めのなるぞならぬぞと有る了簡もなくいかに静謐の時代なればとて侍の持たずして叶わざる武具兵具の用意に不足と有るは右に申す刀脇指の身に木竹を用い下帯をかかぬ若党中間には百双倍も劣りたる不心懸け者なればそれが主君の御耳に入りての思召し御下墨の程はいかが之有るべき哉と恐れ入りて武備の心懸け油断有るべからず。是に付小身の武士着料の具足など新たにおどし立て申すべしとならば其の心得有るべし。たとへば黄金三枚を以て一両の具足を調る覚悟ならば其の内三分の二を甲冑の代に心当て、相残る金子にては肌着股引下着下袴上帯下帯上着陣羽織鞭軍扇或いは腰桶腰づとめんつ打ちがへ水筒水のみなど申す細々の小道具に至るまで一騎前の諸色一通りにおいては何不足之無きがごとくよくもあしくも具足と一度に支度仕る義肝要也。其の仔細を申すに人々着料の具足の儀は持たずしては叶わずと存ずるに付き分に過ぎたる物入りを致してもおとし貯え申すといへ共小道具の義はいつ何時もなりやすき物ぞと有る心の油断より事起こりて永きおこたりと罷り成り小道具不足なる素具足斗を所持して一生を送る如くの武士間々之有るもの也。爰を以て具足の物数寄をば少しは軽く致してなり共なくて叶わざる小道具迄をも一度に支度然るべしとは申すにて候。さて又其の身年若く力量勝れたり共金厚なる重具足と大指物大立物などをば遠慮尤也。仔細を申すに小身武士の儀は毎度具足をおとし替えるなど有る義はならざる事にて候処に若盛りの力量に合わせて調置たる具足は年寄候ての用には立たず。其の上いかに年若くても陣中において病気になるか又手傷など負い候ては譬え薄金の具足たりとも肩をひかし苦労になるは定まり事也。爰を以て重具足を無用とは申すにて候。次に大指物大立て物の義も若き時分より陣毎に是を用い世間の人に見知られたる上にては其の身年寄り苦労になればとて差置き難き様子も有るべしとの遠慮也。尚又具足をおとすについて一つの心得あり。いかんとなれば具足と申す物は籠手と兜さへ念を入るれば其の余は大体にて候。一段見ばへ之有るものにて候。就中冑の義は鉢も脅しも宜しきを好み申す義也。仔細は戦場において勝負は時の運なれば若し討死をも遂げる義もあるべし。然る時は我が首とひとしく敵の手に渡り其の敵の子孫に至るまでも是を持ち伝え申し伝えにも仕るにて候へば我が武勇の誉れ永く世の人の目口にかけて残すべき器物は兜より外は之無く候との考え也。初心の武士の心得の為仍て件の如し。
奉公を勤める武士としては、大身、小身を問わず、その身分、財力に相応しい武器、装備を所持しておくという心掛けがなくてはならない。とりわけ、そのお家、お家によって戦時における仕来りというものがあり、家中の武士たちの用いる部隊標識用の指物、一人一人の装備、兜の前立て、鎗や鎧の袖につける標識、荷物につける標識といったたぐいのものが、日頃から主君より定められているが、こうしたものは、つねに油断なく用意しておかねばならない。
危急の変事というものは、たとえば明日起こるかもしれぬものである。その時に当たって、こうした用意というのは、にわかにできるものではないし、たとえできたとしても、日頃の油断振りが露顕して、人々の軽蔑を受けるに違いあるまい。御家中で定められている標識をいい加減にしていたために、同士討ちにされても、それは討たれた者の討たれ損となることは、武家の古い掟にも記されているほどで、標識とはきわめて大切なものなのである。
また、主君が家中の軍備についての御関心が深ければ、いつ何時、家中の武士たちの武具を点検させたり、あるいはご自身でご覧になりたいと言われることがあるかもしれない。そうした場合、同格の同僚たちが、自身の装備はいうまでもなく、召使の道具類や、その他軍陣に使用する各種の物品に至るまで、何一品として不足するということもなく飾り立ててお目にかけ、主君をはじめ奉り、家老、年寄の人々からも褒めそやされる者もあるであろう。その中にあって、あれも不足、これも不足といった有様では、ほかの場合の失敗とはわけが違って、武士道の根本にかかわる問題であり、武士としての立場を失うような失態である。これでは主君に置かれても、その場ではお見逃しになり、お叱りを受けることはないにしても、お心の中では、さてさて呆れた禄盗人よと、いつまでも愛想をつかされることは疑いない。
武士というものは、たとえ主君からのお改めということがない場合にも、自分の財力相応の武具、装備の用意を怠るようなことがあってはならない。もしも自分お召使いの中に、自分は人を斬ることはないからといって、刀や脇差の中身を竹や木で済ましていたり、尻を端折ることがないからといって、褌を締めずにいたりする心掛け悪い者がいた場合、それを知っていながら、そのままにしておくことはできないであろう。もっとも、そうしたことは、いたって身分の軽い若党とか中間風情のことであるから、それほど重い罪とも言えまい。
それに反して、一人前の武士としての身分につき、それにふさわしい禄を頂戴して居りながら、いざ戦陣の際にこれでよいであろうかという思慮を日頃からしておくこともなく、いかに太平の時代とはいえ、武士として持っておかねばならぬ武器、装備の用意もできていないという始末では、若党、中間が刀、脇差に木や竹を用いたり、褌を締めずにいたりするのと比べても、百倍も劣った心がけの悪さと言わねばならない。もしこれが主君のお耳に入った時、どのようにお思いになるか、どれほどのお蔑みを受けるかということをよく考えて、日頃から油断なく武具の用意を心掛けておかねばならない。
ところで、小身の武士が新しく鎧、兜を用意するという場合、それについての心得というものがある。
たとえば、黄金三枚の代金で具足一領の支度をする計画であるとすれば、そのうちの三分の二を甲冑の代金にあて、残った金子によって肌着、股引、下着、下袴、上帯、下帯、上着、鞭、軍扇といった軍装一式、それから腰桶、腰苞、面桶、打ちがえ袋、水筒、水呑といった食料飲料用具などのこまごまとした小道具類に至るまで、一人前の武士の装備として何一つ不足するものがないように、品の善し悪しにかかわらず甲冑と同時にひととおり用意してしまうことが大切である。
そのわけはといえば、一般に甲冑については、だれしも持たねばならぬものと承知しているために、身分以上の出費をしえも仕立てさせて所持するものだが、そのほかの小道具類については、いつでも用意できるものと思って油断しているために、いつまでも放っておいて、いざというときになくてはならぬ小道具類を、同時に支度しておく心掛けが大切だというのである。
次に、もしも年若く、力量にすぐれた武士であっても、厚い金物を用いた重い甲冑や、大きな指物、立物、といった装備をすべきではない、なぜならば、小身の武士においては、甲冑を度々作り替えるなどということはできないから、若い盛りの力量に合わせて用意した甲冑では、年をとってからの役には立たなくなるからである。また、いかに若いときとはいっても、陣中で病気に掛かったり、負傷したりすれば、たとえ薄い金物の甲冑であろうとも肩に食い込み、苦労をするものである。こういうわけで、重い甲冑は好ましくないというのだ。
また、大きな指物や立物についても、若い時分から出陣のたびにこれを使用して、世間の人たちから知られてしまえば、年をとって重く、苦労になってきたからといって使うのをやめるというわけにはいかないから、見合わせよというのである。
最後に、甲冑を作らせるについて、一つの心得がある。それは甲冑というものは、籠手と兜さえ念入りに作っておけば、それ以外は普通の仕立てであっても、一段と見ばえのよいものである。とりわけ兜については、鉢もおどし毛も、立派なものを用いるようにしたい。なぜならば、戦場では勝負は時の運であり、討死を遂げる場合もあり、そうなれば兜も自分の首と一緒に敵の手にわたることとなる。そして敵方では、子孫に至るまでもこれを持ち伝え、語り草とするものであるから、わが武勇の誉れを末永く世間の目に見せ、口にのぼせる器として、兜はただ一つのものとなるからなのである。
以上、初心の武士の心得として申すものである。
さすが、実際の用に即して、微に入り細をうがった助言である。「いざという時には」と口で入っても、次第に太平の安逸になれていった当時の武士たちには、極めて耳の痛い指摘であったに違いない。
小身なる武士の儀は不慮の変と之有る時も人多く召し連れ候義とては罷成ざるに付鎗道具只壱本より外には持たする義ならず。然る処にもし其の鎗折れ損じ候においては持ち槍に事を欠くと有るは定まり事也。去るに依りて兼ねて其の心得を致し袋鎗の身を支度仕り陣中へ之を持参致し柄には竹を仕すげ候てなり共当用の間に合わせて候様にとの心懸け尤也。是又少々疵などは之有り候ても作り丈夫にして寸の延びたる刀を脇差に拵えて是を貯へ置き自然の砌その場所へ召し連れ候下人共には各々是をささせ腹には胸懸け頭には鉢金鎖笠又は鎖鉢巻きなどを致させて召し連れ候義なりや。其の仔細を申すに武士たる者は年頃の主恩を感じ又は其の身一分の正義を守るが故にいか程危なき場所といへ共少しもいとひさくる事なく行きにくき所へもゆきこたへにくき所にもふみ詰めてこたえ申すにて候。其の上身には時の衣類を着しさびくさりたる脇差一腰をふりかたげたるまでにては歴々の武士の甲冑を帯し長道具を持ちて勝負を争う場所にこたへ兼ねると有るは最も至極の義也。然るところに険しき場所に能くふみこたへて主人の側を離れぬごとくの十人が中に一人なり共之有り候は下々とは申されず武士には増さりたる意地合いと申す可く候。去るに依って若党には胴丸八金小物中間には胸かけ鉢巻または鉄傘など申す軽き身のかこひをも致してとらせ骨の切る脇差の一鼓し宛もささせて召し連れ候と有るは小身の武士の正義とも心懸け共之を申すべく候。扨て又小身武士の陣立てに跡づけなど持参申す義は罷り成らず。然らばさしかへの刀を持ちて行くべき様之無く戦場に於いて太刀打ちの勝負を遂ぐるには具足冑の上とある見合わせも之無き義なれば大方は刀の刃を打ちおりさし替えに事を欠くこともなくては叶わず。去るに依りて我がさしかへの刀を若党にささせ若党の刀を草履取りまたは馬の口取り中間などにささせて召し連れ候ごとく尤也。変の時節には常の時とは違ひ小物中間に至る迄二腰さし候とて誰見とがむる者も之無き義也。初心の武士の心付けの為仍て件の如し。
小身の武士としては、不慮の変事が起こった時にも、多くの家来を召し連れて出陣することはできず、鎗一筋だけを持ていかねばならない。そこで、もしその鎗が折れてしまえば、自分の持つ鎗にことかく次第となってしまう。それであるから、日頃からそこを考えて、袋穂の鎗の身を用意して、陣中にはこれを持って行き、もしもの時には柄には竹をすげてでも、さしあたりの間に合うようにしておくことが望ましい。
次に、非常の場所に召し連れていく下人のためには、多少のきずはあっても、頑丈なつくりで寸法の大きめの刀を脇差にして準備しておいて、各人にこれを差させ、腹には胸がけ、頭には鉢金、鎖笠、鎖鉢巻などをつけさせて連れて行くようにするものである。その理由を述べよう。
およそ一人前の武士であれば、長年の主君の恩を感じ、武士の本分を守り、いかに危険なところであろうと避けることなく、進みがたい所にも進み、持ちこたえにくい所にも踏みとどまって戦うものである。
それにひきかえ、下々の者たちは、日頃の恩といっても大したこともなく、それに感じるというほどのことはない。また義理ということも心得ていない。それが下々というものなのである。そして、身には季節の衣類をつけ、銹び腐った脇差一本を持たされただけで、歴々の武士が甲冑を身に付け、長鎗をふるって勝負を争う場所にのぞむのであるから、持ちこたえることができないのも当然である。しかし、そこをよく踏みとどまって、たとえ十人の中の一人でも、主人の側を離れぬ者がいたとすれば、その根性は下々の者のようとはいえず、武士にもまさった立派なものである。
それであるから、若党には胴丸の鎧、鉢金の兜、小者、中間には胸かけ、鉢巻、鉄笠といった軽い防具をつけさせ、敵の骨を斬れるほどの脇差を一振りずつは差させて召しつれるというのが、小身の武士の正しい道、あるべき態度というものである。
次に、小身の武士の出陣に際しては、予備の太刀を持参したり、差し替えの刀をもった従者を連れて行くわけにもいかない。だが、戦場での太刀の打ち合いとなれば、刀が甲冑に当たるのを避けるどころではないから、刀の刃を打ち折って、その替りに事を欠く場合も生ずる。そこで、自分の差替え用の刀を若党に差させ、若党の刀を草履取り、馬の口取り、中間などに差させて召し連れて行くようにするとよい。
非常の場合には、普段とは違って、小者や中間までもが大小の刀を差していようとも、誰も見咎めることもないからである。
以上、初心の武士への注意として申すものである。
ろくな装備も与えられずに戦場へ駆り出される従者たちの立場を考え、せめては、ふさわしい支度をしてやるのが主人のつとめと説いている。
武士たらん者はたとへ小身たり共然る可き武者師をえらびて兵法の伝授を致し軍法戦法の奥秘に至る迄をも委細に覚悟仕り罷り在る義肝要也。人によりては小身武士の軍法だて不相応に思わるるなど申す義も之有る可く候得共それは大きなる心得違いの不吟味と申す物也。仔細を申すに古今国郡の守護と仰がれ良将の名を得給ふ人々の中には微賤孤独より起こりて大業を立給へる衆中いか程も之有り。然れば自今以後たり共小身武士の中より仕出して立身を遂げ一方の将共罷り成るごとくの武士のあるまじきにあらず。爰を以て小身たり共大身の智徳を得せしめ度とは申すにて候。但し兵学を数奇好みて学び候へば智と才との二つはひらけ候を以て元来賢き者は益々賢くなり少々にぶきかたへつりたる生れ付きの者も多年兵法をさへ学び候得者其のしるし有りてさのみ鈍なる事を申さぬ程の事には罷り成る物にて候。然らば武士の学問には兵法にましたる義とては之無き様子也。然りといへ共兵法の修行を悪く仕りそこなひ候へば巧者付候程我が智に高ぶり寄り障る人を見こなし実利にもならぬ高尚なる理屈だて計りを申して未就学なる若輩の耳をあやまらせ気立てをそこなひ口には正義正法に似たる分外の言葉を仕るといへども心根は大きに貪り立つにも居るにも利害を図るを以て本意と致すに付き次第にその人柄悪くなり後々は武士の意地合い迄をも取失うがごとく罷り成る物にて候。是兵学の修行の中半なるに付いての過失也。とても兵を学ぶべきとならば此の半途に足を止めずいかにもして一度兵法の奥旨に至りやがて元の愚に立ち帰り安住致すごとく修行仕る義肝要也。然かれ共我人兵学の半途に日を送り兵法の奥義をとり失い半途にうろたへ罷り在り其の身斗にてもなく他人迄をもみちびきそこなひ候と有るは心外の至り是非に及ばざる仕合せ也。爰に愚に帰ると申すは今だ兵の道を学ばざる以前の心の如くにと申す事にて候。総じて味噌の味噌くさきと兵法者の兵法くさきとに出あひ候ては鼻むけもならざる物のよし古来より申し伝える所也。初心の武士の心得の為仍て件の如し。
256
武士の心がけとして、たとえ小身の者であろうとも、しかるべき軍学の師を選んで兵法の教授を受け、軍法戦法の奥義に至るまでを詳しく心得ておくことが大切である。人によっては、小身の武士が軍学を学ぶなど不相応なことなどというかもしれないが、それこそ非常な心得違い、考え違いというものである。なぜならば、古来から一国、一群の大名と仰がれ、名将と呼ばれた人たちの中には、いやしく貧しい境涯から身を起こして、大業を遂げられた方がいくらもおられるのである。してみれば、今後といえども、小身の武士の中から立身して、一方の将となるほどに出世する者がないとはいえない。それであるから、現在は小身であっても、大身にふさわしい智と徳とを身につけておきたいものだというのである。
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また、兵法の学問を好んで学びさえすれば、知識と才能の二つが育っていくから、もともと賢い者はますます賢くなり、多少鈍い方の生まれつきの者も兵法を長年学んでいけば、その効果が出てきて、それほど間の抜けたことはいわぬ程度にはなれるのである。そこで、武士の学問としては、兵法以上のものはないと思われるのである。
しかしながら、兵法の修行をし損なって、悪い方に道を外してしまうと、上達すればするほど、自分の知恵を誇って周囲の人を見下し、役にも立たぬ高尚ぶった理屈ばかりをいって、修行未熟な若者に誤った知識や心がけを植え付ける。口には正しい道理のような身分不相応な言葉をはくが、心の中は至ってどん欲で、どんなときにも自分の損得を計算するのが第一であるから、その人格も次第に悪くなっていき、しまいには、武士としての意気合いさえも失うようになってしまうものである。これはすべて、兵法の修行が中途半端であったことからくる失敗である。
どうせ兵法を学ぼうというのであれば、こうした中途に足を止めるのではなくて、なんとしても、その奥義を究めて、次に再び最初の「愚」に立ち返る、その境地に安住するような修行をすることが大切である。ところが、お互い様に、兵法の中途に日を過ごし、奥義を学び損ねてはまごつき、自分ばかりでなく他人までをも指導し損なっているというのは、まことに残念なことだが、やむをえぬことではある。
ここでいう「愚に返る」というのは、まだ兵法を学んだことのない当時の心に返るという意味である。およそ、味噌の味噌くさいのと兵法者の兵法くさいのとは、鼻もちならぬものだと古来からいわれているところである。
以上、初心の武士として、よくよく肝に銘じておくべきことである。
むかしが今に至る迄大名方の御出会いの座敷において喧嘩口論と有る義は左のみ之無き事に候。但し此の以後とても必ず有る間敷き義とも申し難し。心元なく存じられ候。道中の川越舟渡しなどの場所において大名と大名との出会いに双方の家来口論に及びて申し募り互いの方人多く成りて喧嘩に及び候はば其の時の様子次第にて主人と主人の出入りにも罷り成らずしては叶わざる義も有るべし。若し双方主人の出入りと申すに成りては必定大事也。仔細は道中において大名の出入りと有るを外より手を入れあつかふ如くの人は之無きに付落着の済む口はかり難し。然れば災いは下より起こると心得主君のお供と有る道中にては尚以て物を大事にかけ我が身は申すに及ばず諸朋輩にも気を付理不尽の仕方之無き様にと下々等へも能々申し付けるこころえかんようなり。かつまたえどさむらいこうじまちかたにてしゅくんのおともなど心得肝要也。且つ又江戸侍小路町方にて主君の御共など仕りてありき候に外の大名衆と行き違い候とて双方先供の若者共口論を仕出だし喧嘩に及ぶごとくの義到来の節は早く気を付け道具持ちの手前より主人の御持ち鑓を請け取り御側近く持ちて罷り在り事の成り行き様子を見合わせ弥弥鎮まり兼ね若し御供の諸侍残らずぬき刀の仕合せに及ぶ時は御駕籠の側へ御馬を牽きよせて早速召せ参らせ御鎗の鞘をはづし主君へ渡し奉り其の身も抜き刀に成りての働きと覚悟尤也。扨て又主君御振舞などに御越成さるに付御供として参り候時御座中に於いて不慮の義出来致し御座敷の躰騒動と見及び候においては刀を手に持ち玄関へ上がり取次の者に出合い某義は誰家来何某と申す者にて候何とやらん御座敷の躰物騒がしく相聞こえ候に付主人の義を心もとなく存じ候て是迄罷り上がり候旨申すべし。取次の者の返答にはさせる儀にては之無く候得共御気遣いの段は御尤もに候其元の御主人様の御事は御別条無く御座候間少しも御気遣い之無き様に御朋輩中へも御演説成され候へなど申す可き也。然れ者先ず以って大慶仕り候左候はば主人を御呼出し拙者へ御逢せ給はり候様にと申し理り主君へ御目に懸り退出尤也。初心の武士の心付けの為仍て件の如し。
昔から今に至るまで、大名方が出合わされた場所で喧嘩口論が起こったという例はあまりないのであるが、将来とても決してあり得ないということではない。不安に思うところである。
たとえば、道中の川越え、舟渡し等の場所で大名と大名とが出合われたとき、双方の家来同士が口論を起こして言いつのり、お互いの味方が増えてきて喧嘩が始まってしまえば、その時の事情によっては、主人と主人同士の争いとなってしまうこともある。もし、双方の主人と主人との争いとなれば、必ずや大きな事件となるであろう。なぜならば、道中において大名と大名との争いとあっては、これれを仲裁することのできる者はおらず、決着のつく見通しはないからである。
それであるから、災難は下から起こるということをよく心得、主君のお供をしての道中においては、とりわけ万事に慎重を期し、自分はもとより同僚たちにも注意して、下々の者が理不尽な振る舞いをすることがないよう、よくよく申しつけることが大切である。
また、江戸表において武家屋敷町や町中を主君のお供をしている際、他の大名とすれ違った時に、双方の供の小者たちが口論を起こし、喧嘩となった場合には、ただちにその様子を見て取り、道具もちの手元から主君のお槍を受け取ってお側近くに控え、ことの成り行きを見守る。いよいよ騒ぎが鎮まらず、お供の武士たちも残らず抜刀する状況に至ったならば、お駕籠の側へ御馬を引き寄せてただちにお乗せし、お鎗の鞘を外して主君にお渡しして自分も抜刀して戦うというのが正しい態度である。
次にまた、主君がどこかへご招待を受けてお越しになるというので、お供として従って行った時、お座敷の中で何か不測の事態が起こって騒がしい様子と見えた時には、刀を手に持って玄関に上がり、取次の者に向かって、「自分は誰某の家来、なに某と申す者ですが、何かお座敷の様子が騒がしいようでありますので、主人のことを心もとなく存じ参りました」というのである。これに対し、取次の者は「いや、そのようなことではありませんが、ご心配は御尤もと存じます。そちらのご主人様につきましては、何事もございませんので、一切、ご心配なさることはない旨、ご同僚の方々へもそのようにお伝え下さい」などというであろう。
そのときには、「それは喜ばしい事でございます。それでは主人をお呼び出し頂き、拙者にもお会わせ下さいますように」と要請して、主君にお目に掛かったうえで退出することが望ましいのである。
以上、初心の武士への注意として申すものである。
主君の御側近く奉公仕る武士朋輩の中にて主君へ対し奉り大きなる慮外を仕り御機嫌を損じ万一御手討ちなどに成され候者之有るにおいては早速取っておさへ最早息他へ申し候とどめの義は私に仰せ付けられ候様にと申立則差し殺し申すべき也。若し又手疵を蒙り御次を罷り過る者あらば頓て組み倒し外様向きへ出さぬごとく致すべし。其所へ主人御立ち懸り其者放せ切らんと仰せ有る時は御初太刀にて強くよわりもはや相果て申し候とどめの義は私へ仰せ付けられ候様にと申し上げて則さし殺し再び主人の御手に懸けぬものの由古来より申し伝へ候。去り乍国郡の守護職をも成さるる重き御身にて軽々しき手討など成さるごとくの儀は千万に一つも之無き道理なればかやうの義は後学に成さるごとくの儀は千万に一つも之無き道理なればかやうの義は後学の成さる可きとは存ぜず候。武士道歌道の修行の義は乞食袋と之有るを以て初心の武士の心得の為仍て件の如し。
主君のお側近く奉公する武士は、もし同僚の中で、主君に対し奉り非常な無礼を働いてご機嫌を損じ、万一お手討になるような者が出た場合には、ただちに取り押さえて、「もはや息絶えております。とどめは私に仰せ付けられますよう」と申し上げ、そのまま刺し殺すのである。もし、その者が傷を負って次の間へと行こうとするならば、直ちに組み倒して表の方へは行かせぬようにする。そこへご主人が来られて、「その者を放せ、斬る」と仰せある時は、「大切な罪人を放すわけには参りませぬ。私もろともお斬り下さい」と申し上げ、それでもなお放せと言われたならば、「最初の御太刀でひどく弱り、既に相果てております。とどめは私に仰せ付けられますように」と申し上げて、直ちに刺し殺し、二度とご主人のお手にかけるものではないということが、古来から言い伝えられている。
しかしながら、一国一郡の大名ともなられる重いご身分の方が、お手討などということを軽々しくなさることは、千万にひとつもありえないことであるから、このようなことは後学のためになるとも思えない。ただし、武士道や歌道の修行においては、乞食袋のように何事をも身につけておくべきだというから、初心の武士の心得として申したまでである。
主人を持ちたる武士たとへ何事にてもあれ主君の御為に対し一かどある奉公などを仕り我が心にもあっぱれ人奉公をば勤めたりと存じ其の家中又は他家においても其の仔細を能く知りたる者は近頃なりにくき義を能くは致しかなへたりと申して感じ誉るごとく之有るといへ共主君の御心にはさほどの義共思召しなども御座有るゆへか他にことなる御恩賞とある義もなく労して功なきごとくの仕合わせとなり埋もるるに付いては扨々御情けなき成され様かなと申して恨み奉り心底に不足をさしはさみ述懐たらたらにて月日を送り身に染まぬ奉公の勤めを致すと有るは兎角に及ばざる不了簡と申す可く候。其の仔細を申すに天下戦国の時代ならば主君の御供を致して軍に罷り立ち平場の一戦にのぞみては場中の勝負一番鎗をも合わせ敵城を攻るに於いては一番乗り若しも味方後れ口とあらばしんがりに返し等の働きをも致し兎にも角にも諸朋輩の仕り兼ねるごとくの儀をと心懸けて相働く内に若しも運付て敵に討たれなば是非に及ばず其れが武士の役義也と覚悟を極めて毎度の武偏手柄をあらはし数通の感状証文をも戴き其の家中は申すに及ばず他所までも覚への者とある名を人に知られながらも尚飽き足らず存じとても世にながらへ果てぬ身命なるを何とぞ主君の御用に立ちて相果てたきものかなと心に信に是を願ふと有るは武士の正義也。治国に生まれたる武士の魏は主君の御為に軍忠を尽くし度と有る心懸けふかく候ても左様の場所も之無き儀なればいつも只居を致し我も人も畳の上の奉公斗を仕りてあたら年をよらせ御厚恩を受け死に仕る外之無し。然る処に同じ畳の上の奉公ながらも主君の御身御家の為にも罷り成るごとくの一かど有るよろしき奉公の訳を存じ寄りて其の義を勤め其の事を遂げ得ると有るは治国の武士の身の上に於いては最も手柄のやうにも候へ共右申す戦国の武士の己が一生の間幾度といふ義もなく軍に立ち主君大将の御為に身命をなげうち毎度の手柄高名を極めたる武士の前に於いては中々口のきかるる儀にては之無き積り也。仔細は何を申しても治国の奉公と申すは畳の上をはいまわり互いに手の甲をさすり舌先三寸の勝負をあらそうふのみの善悪にて身命をかけての働きとては之無き事にて候。然るをいかに一かど有る奉公を致し候へばとてそれを我が心に大きなる事と存じ主君の御賞美の厚き薄きと有るを心に懸けて述懐不足を抱くと有るは沙汰の限りと申す可く候。いかんとなれば戦場へ出て主君の御為に軍忠を励みて走り廻る武士の心に後々の恩賞などの義を毛頭程も胸算用に致しては罷り成らざる道理也。爰を以て存ずる時は主君の御為にさへなる事ならばと一筋に存じ入りて之をつとめ働くとあるは奉公を勤めて世を渡る武士の役儀也。それを奇特と有りて御賞美成さるべくも成さる間敷くも其の段は主君の御心次第に致し自分の勤めを勤るとさへ覚悟致し候へば事相済何の不足述懐と申す義は之無き道理也。然るを我が勤労の功にほこりて主恩を貪るとあるは未練の意地にて忠臣の本意にあらず候。初心の武士の心得の為仍て件の如し。
主君にお仕えしている武士が、どのような事柄にせよ、主君の御為にひときわ目立ったご奉公をし遂げて、自分の心にも、見事ひと奉公を勤めたものと考え、家中や他家の人々も、その事情を知る者は、なかなかできないことをよくも成し遂げたものだ、と感心してほめているにもかかわらず、ご主人のお気持ちとしては、さほどのことともお考えにならないのか、またはお心の中では感心して居られても、何かのお差支えがあってのことか、格別のご恩賞ということもなく、労して功なしといった結果に終わることがある。
そうした場合、さてもお情けのないなされ方よなどといって、主君をお恨みし、心の奥に不満を抱いて、口たらたらに毎日を過ごし、心のこもらぬ勤務ぶりを続けるなどという者は、もってのほかの了簡違いというものである。その理由を述べよう。
天下戦国の時代の武士は、主君のお供をして戦場におもむけば、平地の一戦にのぞんでは一番鎗を合わせ、敵城を責める時には一番乗り、もしも味方が退却するとあればしんがりをつとめるなど、とにもかくにも同輩たちには真似のできぬ働きをと心掛けて働く。もしも運がつきて敵に打たれてもやむを得ない、それが武士の役目であると覚悟を決めて、たび重なる武勇の手柄を立て、数々の感状、証文をもいただいて、その家中は言うまでもなく他家にまでもあっぱれの者として名を知られるほどになりながら、なおそれに満足せず、どうせ、いつまでもこのように生きていられる身ではなし、何とかして主君のお役にたって討死を遂げたいものと、心の底から願うというのが、武士本来の姿である。
これに対して、泰平の世に生まれた武士は、たとえ戦場で主君に忠節を尽くしたいと深く願っていようとも、そのような機会は与えられないから、いつも何もせずに日を送り、自分も同僚たちも畳の上の奉公ばかりをしているうちに無駄に年をとって、主君のご厚恩をいただいたばかりで死んでいくよりほかはないのである。そこで、同じ畳の上の奉公とは言いながらも、主君のおんため、お家のおんためになるようにと、ひときわ目立った立派なご奉公をと思い立ち、それを成し遂げることができたならば、泰平の世の武士として見れば、なるほどお手柄を立てたように思われる。
しかしながら、右に述べたような戦国の武士で、一生の間に何度となく戦場に立って、主君、大将のおんために身命をなげうち、度々の手柄、功名を極めたという者の前に出ては、とうてい口をきくこともできぬ程度のことではないだろうか。
なぜなら、何といっても太平の世の奉公というものは、畳の上をはい回って、手の甲をさすりながら舌先三寸で勝負を争うのが上手かどうかという程の事で、身命をかけての働きなどということはあり得ないのである。それを、どれほど見事な奉公をしたからといって、それを自分でたいしたことのように思い込み、主君のおほめが厚いの薄いのといったっことを気にかけて、愚痴や不満を抱くなどとは、もってのほかといわねばならない。
なぜかといえば、およそ戦場に出て主君のおんために忠義を尽くそうと駆け巡る武士の心には、後々の恩賞の計算などは毛頭もしてはいられないのが当然だからである。
このように考えるならば、主君にご奉公をして生きていく武士は、主君のお為にさえなれば・・・と、ただ一筋に思い込んで、ひたすら勤めるのがその役目なのである。
それを、感心なことよとお褒めなさるのも、なさらないのも、すべては主君のお気持ち次第と覚悟して、ただ自分の任務を尽くしさえすればそれでよく、不満とか愚痴とかいったことは一切出てこないのが道理である。
それなのに、自分の努力の成果を自慢して主君のご恩をむさぼり願うというのは、はなはだ卑劣な心掛けであって、忠臣の道からはずれたものといわねばならない。
以上、初心の武士の心得として申すものである。
友山の議論の根底には、いつも「武士の奉公の本懐は戦場にある。畳の上の奉公は奉公のうちに入らぬ」という意識がある。この論法は、一面では太平の武士を目覚めさせる効果をもっていたであろうが、反面では現在における役割を過小評価させ、かえって士気の低下をもたらしたかもしれない。その意味では、友山はすでに”過去の人”だったのであろう。
武士たらん者其の身弓矢の道に志ふかくして兵法を学び軍法戦法の奥秘迄も習ひ極め主君大将たる人の御誉め用いに預かり其の家の武者師と成りて常々口をきき罷り在る内に自然の変も出来既に軍立と之有る刻其の家の家老年寄其の外数輩多き中にも兵法に鍛錬とある聞こえあるを以て大将より今度の御軍用一巻を其の方に任せ置かれ候との仰せなどを蒙り申すとあるは時に取りての面目武士の本懐此の上とては有るべからず候。然りといへ共事の至って重き大切の役義と申すも又此の上有るべからず。仔細を申すに小にしては味方諸人の死生に懸り大にして国家の存亡にも懸るを以てなり。されば我が存じ寄りたる武略を大将へ申し上げ其の備定めの上にて一戦に及ばれ果たして味方の勝利となる時は其の誉れ我一人に迫するを以て是は比類なき大手柄と申す可き也。若し又的に其の武略を悟られ先手をこされて味方の備え違いなるごとくの儀之有る時は如何様の大まけと罷り成る可くも斗難し。爰を以て甚だ重き大切の役義とは申すにて候。若し左様の不首尾と罷り成り味方一二の先手も大半崩れ頭奉行たる役人どもも数輩討死致し敵勝に乗りて大将の旗本備立てに押入りたると覚えしくて床几所の前に立ちたる持ち小旗纏なども動揺致して今は大将の御安否も斗難しと存ぜらるごとくの次第に成り下がり候はば最早合戦の世話を相止め冑の緒をしめ切りて二たびぬがざる事をしめし馬からも二たびおりざる仕形をあらはしたとへしざり口をば曳くとも敵に押し付けをば見せざるごとくにと覚悟を定め敵の鎗玉に上げられて討死を遂げる是を其の家の武者師と言われて常に口をきき殊更其の日は軍の見切りをも仕りて大将へ申上げ弓矢の御相談柱と成りて事を仕損じたる武士の身に取りては古今相定まれる討死の場所を申す可く候。信州川中島合戦の時山本道鬼斎このしきをまもりてのうちじにはまつせまつだいにいたるまでそのいえにおいてむしゃしのまねをいたすぶしの此の式を守りての討死は末世末代に至る迄其の家において武者師の真似を致す武士のよき手本也。古人の言葉にも人の為に軍を謀りて破るる時は死すとやらん之有る由承り伝る所也。然るに其の覚悟もなく常々とても其の家の軍法者など言われ大きに口をきき事の変と之有る刻は猶更人の意見を用ひず我が独り分別を以て戦法の道理にあたらざる義のみを案じ出して大将へ御すすめ申し御下知の成されそこなひをさせ申し負け間敷き事に仕まけ惣敗軍となし味方大小の諸侍余多討死を遂る中に其の身は猶も死に兼ねてうろたへ回りつらかきぬぐいて大将の側へ参り随分と相考へ候儀共悉く相違仕り此の如くの次第に成り行き近頃不調法の仕合せ迷惑仕り候などと申しわけを仕り其の家の武者師といはるる武士の一分の相立ち申すべき様とては之無く候。兵学に志ある初心の武士の心得の為仍て件の如し。
武芸の道の修行に熱心な武士が兵法を学んで、軍法、戦法の奥義までも学びつくし、主君、大将のおほめに預り、お取り立てを頂いて、そのお家の軍師となって日頃からそのような口をきいているうちに、いざ不慮の変事ということとなり出陣となった時、家老、年寄、そのほか多くの人々もいる中から、兵法については最も熟達しているとの評判によって、大将より今回の戦の作戦一切をその方に任せるとの仰せをいただくようなことがあれば、その光栄、武士の本望、これにまさるものはないであろう。
しかしながら、これがどれほど重大で、大切なお役かということも、またこの上ないものなのである。それは、小さくは味方の人々の生死を左右し、大きくはお国の存亡にもかかわることだからである。
そこで、自分が考え付いた戦略を大将に申しあげ、その配備によって一戦に及んだ結果、味方の勝利となったならば、その名誉は自分一人の上に輝くのであるから、比べもののない大手柄ということができる。
しかし、もしも敵に我が方の戦略を悟られて先手を打たれ、味方の備えが裏目に出たような場合には、どれほどの大敗となるかもしれない。それであるから軍師とはきわめて重大なお役であるというのである。
もしも、そのような不首尾となって味方先陣の第一陣、二陣も崩れ、指揮に当たっていた武将も何人かは討死して、敵は勝ちに乗じて大将の本陣目がけて押し寄せたか、ご本陣の前の旗、指物なども揺れ動き今は大将のご安否も分らぬといった事態に立ち至った時には、もはや合戦の指揮は断念し、兜の緒を堅く締めて二度と脱がぬ決意を示し、馬からも再び降りぬ態度を見せて、たとえ味方が退却することがあっても、敵にうしろは見せぬとの覚悟を決めて出撃し、敵の鎗玉にあげられて最期を遂げるのである。これこそが、日頃、そのお家の軍師として口をきき、特にその日は戦況の判断役を仰せつかって大将に申しあげ、合戦のご相談の中心を勤めながらことを仕損じた武士の討死の姿として、古来から定められたものなのである。
かつて、信州川中島の合戦において、山本勘助入道鬼斎がこの方式を守って討死を遂げたことは、お家の軍師を勤めようとする武士にとって、末世末代までのよい手本である。古人の言葉にも、「人のために軍を謀りて破るる時は死す」といわれているとのことである。
ところが、そのような決意とてもなく、普段は、そのお家随一の軍法者などといわれて大きな口をきき、非常の際となれば、大将のお前で戦略決定に当たってはほかに人もおらぬように自分一人で喋り捲り、いざ一戦となればなおさらのこと、人の意見を聞こうともせず、自分勝手な独断で戦略の道理から外れたことばかりを大将におすすめして、誤った指揮をさせてしまい、負けるはずのない戦いを総崩れにしてしまって、大身小身の味方の武士が数多く討死を遂げる中にも、なお自分だけは死に損なってうろたえまわり、顔をふきふき大将のお側にやってきて、「十分に考えた末のことでありましたが、すっかり見通しがはずれ、このような次第となって非情な失態、まことに困却しております」などと、言い訳をしているようでは、そのお家の軍師といわれる身として、武士の一分が立つものとは思えない。
以上、兵法の修行を志す初心の武士の心得として申すものである。
現代流に言えば、意思決定への参画ということになろうか。実際に手足を働かせての活動よりも、その及ぼす影響は広く深い。
企業とその従業員の生死存亡を左右する現代の軍師たち――コンサルタントとかプランナーと呼ばれる人々は、万一の場合、慙死して責任をとる覚悟をお持ちであろうか。
此以前は世間に殉死と申す事はやり候処寛文年中天下一統御制禁との仰せ出され以来追腹の沙汰世上に相止め申し候。只今とても諸家に多き武士の中には主君の御温情を深厚に罷り蒙り其の御恩の報じ奉る様之無き義なれば殉死の御契約を申上げ度事かなとは存ずるといへ共公儀の仰せ出されにも亡主の不覚語跡目の息子をも不届きと思召さる可しと有る御法度の上には還って大き成る不忠の至り成れば左様にも罷り成らず然者畳の上に於いて人並みの奉公斗を相勤めて一生を過ごす外之無しと有るは心外の至り也あはれ何事にてもあれ諸朋輩の腕先に叶ひ難きごとくの御奉公所もあれかし身命をなげうち是非人奉公仕り上ぐべき物をと心底に思ひ定めて罷り在るごとくの者も有る間敷にあらず。左様の奥意にさへ相極まり候はば殉死には百双倍も増さり主君の御為は申すに及ばず家中大小の諸奉公人までのすくひ共なり忠義勇の三つを全く兼ね備へて末世の武士の手本共罷り成るべし。奉公の勤め方に一つの目付け所有る可きの義と存じ候。其の仔細を申すに大身の家には必ず久しき怨霊と申す義なくては叶はず。其の怨霊は十が九つ下より上への恨みを以ての義なれば直ちに主君へ対したたりをなし申す義とては仕らず。手段を以てたたりをなす其の品二ツ有り。一ツは其の家代々の家老年寄りの中に忠義勇兼ね備わりたる生れ付きにて後々は必定主君の御用に相立ち家中末々の為にも罷り成るべしと有りて諸人の誉め事に預かる如くなる若手のよき武士不慮の怪我などを致して相果てるか又は時のはやり煩いなどを仕出し出し若死を致し主人に事を欠かせ申すごとくの儀之有。たとへば武田信玄の侍大将甘利左衛門が馬より落ちて若死を致したるを是即ち武田の家の久しき怨霊なりと高坂弾正が悔やみし類也。二ツには主君の御意に入り出頭致す侍の心に入れ替わり扨て主人の心を惑わし非義非道の行いをさせ申して其の家の家老年寄り用人その他近習の侍の中において主君のお気に入り外にはならぶ者もなく出頭致す侍の心に入れ替わり種々の悪逆をなさしむるに大躰六つの品有り。一つには主君の御耳目をふさぐ分別を仕り己が同役同職たりとも外々の者は存じ寄りの趣を申す事ならずたとひ申しても御用ひ成されざるごとく致しなし其の家の大事小事共におのれ一人して申し承るに付主君の控え心にも此の者なくてはと思召すごとく仕り成すもの也。二ツには近習徘徊の侍の中に少しは志も之有り主君の御為にも罷り成るべきとみゆる物をば左右に事をよせて役義を改め外様へ出して御側を遠ざけ己が由緒ある者とか又は手前へ心を寄せ追従軽薄を専らと致し我が申し付ける義をいやといはぬごとくの者斗を宜しく取り持ちて近習の役人となし置き己が身のおごり私を致すと有る義を主君の御耳へ入れぬ様にと分別仕る也。三ツには主君の御心をとろかし且つ又内縁の為にもと有る所存を以てとかく御子孫御相続に増さりたる義御座無しと申立何者の娘子共とある吟味もなくみめかたちさへよくばと申して女中集めを致し其の外琴引き三味せんひき舞子おどり子など申す類の者迄をも抱へ集めて差し上げ高きも賤しきも時折節の気のべ気晴らしはなくて叶ひ申さずとすすめまいらするに付きて元来不足に生れ付き成されたる主人の義は申すに及ばず大躰才智発明なる御生れ付きかなと申して初めの程は人の誉め事に致したる主人も色の道には迷ひ成され易きを以て頓て御分別相違あられ其のたはぶれを面白と思ひ付き成されては止むことなく次第に物ごくなり後々は昼夜の境もなく乱舞の後は必ず酒宴と申すごとく成行きひたすら奥入り斗成さるるに付表向き家中の用事御内の仕置などをば悉皆よそ事の様に思召し何事も御心に染まず外の家老年寄りなどのちと午前へ罷り出で度と申すをばいやがり成され万の事件の一人を以て埒を開け成さるるに付其のものの威勢は日々に盛んになり外の家老年寄は有るなしの様子になり形見をすぼめて閉口仕り万端に付宜しからぬ家風となり四ツには右の様子なれば人の知らぬ内証にて物入り多きを以てつぐのひの致し方之無きに付き其の家前代の仕置に背きたる新法の簡略を始め爰にせこを入れかしこにさつとを込め家中へ渡すべき物をも渡さず下の諸人大きに痛み苦しみ迷惑仕ると有る勘弁など申す儀は毛頭之無く主人の御事は成され度ままの費え奢りを成されて下へは難義をさせ給ふごとく候ては家中大小の諸奉公人御尤もと存ずる義にては之無きに付口へ出してこそいはね心には各々不足を抱き誰一人身にしみて忠義を励む者も之無き様子也。五ツには当時大名たる諸家の義はその先代において公義へ対し軍忠軍功のいはれを以て相続成され来られたる御家なればいかにいかに今天下泰平の御代也とてご先祖より代々取伝へ成されたる弓矢の道などを無沙汰成さるべき様とては之無く候得共件の一人武道不心懸けにしてかかる目出度静謐の御代には武備の吟味せんさくには及ぶべからずなど申すに付き元来不嗜みなる家中の諸人それをよき事に致して武芸をも勤めず武具兵具のおういも致さず何事もただ当座の間に差ヘアへばよきぞと有る如くの家風なれば其の主君の御先祖方の中に世に聞こえある名将などのおはしましたる家柄の様子みゆる義とては少しも之無く只明日にも何ぞ事の変などと申すにおいては大きにうろたへ騒ぎたる斗にて事の埒は一ツも明兼申す可きやと覚束なき次第に思はるるなり。六ツには主君の御事遊興酒色に長じ成さるるに付き次第に御気随もつのり剰へ病身に迄御成候へば家中諸侍の義も気を屈し心をまめしげなく一日暮らしの様子なれば世間の取沙汰上の思召し然る可からず畢竟のつまり主君の御身の上にも相障り申す可きか。然れば大きなる物の怪也其の根取りを仕る件の一人の義は当家の悪魔主君の御敵に極まりたりと申して家中こぞりて是をにくみもてあつかひものには仕るといへ共誰一人抜き出でて苦労に仕る者とては之無く十人が九人迄も其の者の悪事を申し立て公事沙汰に取り結び手をばよごさず舌先の勝負にして本意を遂ぐべきと有る分別相談の外之無し。左様之有りては中々内証沙汰にて事の埒明かざる儀なれば其の出入の仔細をば主君の御一門方の御聞えにも達するを以て御一家中の取り扱ひとなりそれより事重く成り行き畢竟は公義の御沙汰とも罷り成らずしては叶わず。昔が今に至る迄大名方の御身にて家の仕置を成され兼ねて公義の御阨害と成され其の事の済み足る上において主人の身上の相立ちたるためしとては之無し。然れば角を直すとて牛を殺し廟鼠を狩るとて社を焼くたとへのごとく主人の御身上はつぶれて家中大小の諸奉公人皆々浪々の身となり数代相続きたる大切の名家を久しき怨霊の為に取つぶされ候と有るは近頃無念の至り是非に及ばざる仕合せ也。扨こそ右に申す主君の御恩を深く蒙り公義の御制禁とさへ之無くば無益のことながらせめて殉死なりとも致して御恩を報じ奉り度事かなと一筋に存じ詰めたる武士の身命を捨てる奉公の目付け所とは爰の義なれば件の大悪人を取りおさへ胴腹をえぐり候共又はもと首を刎ねすて候とも心の儘に仕済まして埒をあけ我が身は即座に切腹を遂げ乱心者の沙汰と成して相果て候ごとく尤也。しかるときはなんのでいりくじさたt然る時は何の出入り公事沙汰と申す儀も之無く主君の御身上に相障る義も御座なく家中の諸人も安堵致し国家安泰也。爰を以て殉死には百双倍もまさり忠義勇の三ツに相叶い末代の武士の手本とも罷り成る大忠節とは申すにて候。此の如くの覚悟を極めたる武士大名方のお側にせめては一人なり共之有り我が身命にかけて主君の御為を存じ入りて守護し奉ると有るは生身の鍾馗大臣に等しき様子なれば悪鬼悪神のごとくなる侫奸邪曲の輩も大きに手を置き恐れつつしむ心有るを以て主君の御為に宜しからぬ悪逆不動の働きを仕る義とては罷り成らざるものにて候。此の旨能々思量有るべき也。武士道初心の武士の心付けの為仍て件の如し。
愚かなる筆のすさみも直かれと
子をオモフ親のかたみとは見よ
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以前には世間において殉死ということが数多く行われていたが、寛文年間に全国にわたって、これを禁制とする旨がおおせ出されて、それ以来、追い腹ということは世間から姿を消したのである。
現在においても諸家の多くの武士たちの中には、主君の深いご温情をいただきながら、それをお返しすることができないので、せめて殉死のお約束をしたいものと考えている人もあるであろうが、公儀のお達しが出されたからには、そのような行動をとれば、亡くなられた主君に傷をつけ、お跡継ぎのご子息も公儀より不届きと思われる結果となって、かえって非常な不忠となるのでそれもできない。それだからといって、畳の上の奉公で人並みのことをするばかりで一生を終わるだけでは残念至極というので、「よし、なにごとにせよ同僚たちの手にあまるようなご奉公はないものであろうか。身命なげうって、ぜひ一度は人並み外れた奉公をせずにはおくまい」と堅く心に決意しているという人もいるに違いない。
このような決意を固めて奉公するならば、それは殉死に比べて百倍もすぐれた忠節であり、主君のおんためになるばかりでなく、家中の大小の奉公人にとっても頼もしく、忠、義、勇の三つの徳を兼ね備えた、末世の武士の手本というべき存在となるのである。
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奉公を勤める者として、一つの目のつけどころということがあるので、以下に述べよう。
大身大家には、必ず古くからの怨霊というものがとりついているものである。その怨霊とは、十のうち九つまでが、下の者が上を恨んでたたりをするものであるから、必ずしも主君に対して直接にたたりをするわけではない。そのたたりのあり方には、二つの姿がある。
その第一は、お家代々の家老、年寄といった家柄の者で、忠、義、勇を兼ね備え、将来は必ずや主君のお役に立ち、家中の人々のためにもなるものと見なされ、ほめられているような若い有能な武士が、思わぬ怪我をして果てたり、または季節の流行病などにかかったりして若死にし、主君に御損失をさせるという場合である。たとえば、武田信玄の侍大将であった甘利左衛門が馬から落ちて若死にを遂げたとき、高坂弾正が、「これは武田の家に古くからある怨霊のしわざ」と惜しんだというのがその例である。
第二には、主君のお気に召して出世した家臣の心の中に怨霊が入れ代わり、主君のお心を惑わせて、さまざまな不義非道の行いをさせるというものである。そのお家の家老、年寄り、用人、その他近習の侍などの中で、主君のお気に入り、並ぶ者もないように出世した侍の心に入れ代わって、さまざまな悪逆をさせる怨霊の手口には、おおよそ六つのやり方がある。
第一には、主君のお耳、お目をふさぐ工夫をして、自分以外の者からは、たとえ自分とは同役、同職であっても、主君にその考えを申し上げることができないようにし、たとえ申し上げてところで、お取り上げにならぬよう仕向け、お家の大事小事のすべてを自分一人だけが承るようにして、主君がなにごともこの者がいなくてはとお考えになるようにするのである。
第二には、主君のお側近くに仕える侍の中で、少しでも気骨があり、主君のお役に立ちそうな者を、何かと理由をこしらえて役職を替え、出先の職務につけてお側から遠ざけ、自分に縁故のある者、または自分に心を寄せて世辞追従ばかりをして、自分の言いつけには決していやとはいわぬような者ばかりを便宜をはからって側近の役人に据え、自分が勝手なことをしては私腹を肥やしていることを主君のお耳に入れぬようにするのである。
第三には、主君のお心をとろけさせるためと、また縁故を有利にするために、主君に対してご子孫の繁盛が何より大切・・・などと申し上げて、女色に迷わせることである。誰の娘かなどということは問題にせず、みめかたちさえよければと女たちをかき集め、さらに琴や三味線をひくもの、舞妓、踊り子といった連中を集めては「ご身分の高下を問わず、ときおりの気晴らしはなくてはならぬものでございます」などとおすすめすれば、もともとお知恵の足りぬ主人はいうまでもなく、才知に優れた賢いお生まれつきで人々からほめられていたご主人であっても、とかく色の道には迷いやすく、たちまちお考えが変わって、その遊楽をおもしろく思われるようになり、次第に止めどがなくなって極端となり、しまいには昼夜のけじめもなく、乱舞のあとでは必ず酒宴といったありさまとなる。こうなっては、主君は絶えず奥にばかりはいっておられるため、表向きの家中の用事、ご領内の処置などについては、まるきりよそごとのようにお思いになって、いっこうにお気が入らず、その者以外の家老、年寄などが少しでもご前へ出ようとすることをいやがられ、すべてのことについて、その者一人に決着をつけさせるようになるから、その威勢は日増しに盛んとなり、それ以外の家老、年寄は、いてもいなくても同然の様子で、肩身をすぼめて小さくなり、万事についてよからぬ家風となってしまうのである。
第四には、右のような有様であるから、人にはいわれぬような出費も多く、収支が引き合わないので、そのお家の先代からのしきたりに背いた新規の法令を作り出し、そちこちへ勢子やら狩人やらを入れて鳥獣を駆り立てるように、民衆から厳しく取り立てて、しかも家中の人々へは渡すべきものも渡さず、下々の人々がどれほど苦しもうとも、それに対する配慮などは少しもせず、主君のなさることについては、したい放題の出費をさせておくのであるから、家中の大小の奉公人たちは誰一人として納得することがなく、口には出さずとも、みな心のうちに不満を抱き、心から忠義をつくすような者は一人としていなくなってしまうのである。
第五には、現在、大名となっているそれぞれのお家は、その先祖の時代に幕府に対し戦場での忠節を尽くし、手柄をあらわしたことによって相続を許されているのであるから、たとえ現在が天下太平の御代であるからといって、先祖代々から受け継いできた弓矢の道をおろそかにしてよい道理はないにもかかわらず、例の一人の者が武道への心がまえがなく、このようにめでたい太平の世にあっては、軍備の用意などは不必要などというので、もともとがその心がけの弱い家中の人々も、それをよいことに武芸の修行をもせず、武器装備の用意をもせず、何事も目の前のことに間に合えばよいとの家風になってしまうのである。このようになっては、その主君のご先祖の中に、世に知られた名将などもおられたお家柄にふさわしいところなど少しもなくて、もしや明日にでも非常の時代でも起こったならば、ただ、うろたえ騒ぎ回るばかりで、何一つとして解決することはできまいと心細く思われるようになるのである。
第六には、主君が遊興酒色にふけり続けておられるため、次第にわがままがつのり、さてはお体もこわしてしまう状態となれば、家中の武士たちの気持ちもふさいで積極性がなくなり、その日暮らしのありさまとなってしまう。こうなっては世間の評判、幕府の思し召しもよいはずがなく、とどのつまりは、主君の上にも災厄がふりかかってくるのではないだろうか。
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このようになれば、例の一人は、まさしく大いなる妖怪であって、お家に害をなす悪魔、主君の敵であることが明らかとなり、家中一同がこぞってこれを憎み、もてあまし者にはするけれども、さて、誰一人として自分がそれを除くために進み出て苦労しようという者は現れない。そして十人中九人までの者が、その者の悪意を訴訟に持ち込み、自分は手を汚すことなく、舌先の勝負でことを決するのにはどうしたらよいかと相談するだけのことである。
そのような手段によっては、とうてい内々のうちに事を処理することはできず、その紛争の内容は、主君のご親戚一門のお耳にも入って、ご一族全体の問題となりさらには重大な成り行きにまで発展し、結局は公儀の御介入まで招かずにはすまなくなる。昔から今に至るまで、大名方のお身でお家の仕置きができかねて、公儀にご迷惑をおかけして、事が落着してからのち、主君のご身分がそのままですんだという例はない。してみれば、事を訴訟沙汰に持ち込むことは、角を矯めようとして牛を殺し、ほこらに住み着いたネズミを退治しようとして社を焼くというたとえのように、主君のお家はつぶれ、家中の大小の奉公人たちはすべて流浪の身となり、何代も続いた大切な名家を古い怨霊のために取りつぶされてしまうという結果となり、誠に無念至極、なんとすることもできぬ状態に陥るのである。
このような場合にこそ、先に述べた主君のご恩を深く受けて、公儀のご禁制さえなければ無益の事ながらも、せめて殉死をしてでもご恩に報いたいものと、一筋に思い詰めている武士が、身命を捨てるご奉公のしどころなのである。そのときは、例の大悪人をとって押さえ、同腹をえぐるなり、首を刎ねるなり、心ゆくばかりにし遂げて始末をつけ我が身は直ちに切腹を遂げ、乱心者の仕業ということにしてしまうのである。このようにすれば、お家騒動とか訴訟騒ぎとなることはまったくなく、主君のご身分に悪影響を及ぼさず、家中一同も安心して、お家は安泰となるのである。これこそは殉死に百倍にも勝る忠、義、勇の三つを兼ね備えた行為であり、末代の武士の手本ともなる大忠節ということができよう。このような決意を固めた武士が、大名方のお側にせめて一人ずつでもいて、我が身命を賭けて主君のおんためを思い、守護し奉っているならば、それは生きた鍾馗大臣と同じことで、悪鬼魔神のような奸智に長けた悪人どもといえども、大いに恐れをなして手を出さず、主君の御ためにならぬ悪逆非道の行為を働くことはできぬものなのである。
このことを、よくよく考えおく必要があろう。以上、武士道に初心の武士への注意として申すものである。
おろかなる筆のすさみも直かれと
子をおもふ親のかたみとは見よ
太平の世にあって、一身を捨てて君恩に報いる機会は、めったにあるものではない。殉死にまさる奉公を決意した忠義一途の武士のために、友山は、「斬奸のすすめ」を説く。お家を危うくする奸臣を、怨霊の生まれ変わりとして、その罪科を糾弾する言葉は激しく、友山の生々しい体験から出たものであることを感じさせる。本篇に至るまでの五十五項目には、いささか歯がゆいほどのことなかれ主義が感じられるのに対し、この項では、一気に怒りをばくはつさせている感がある。まさに全編を締めくくるにふさわしい、熱気のこもった筆致といえよう。
ことば遊び
かく‐ご【覚悟】
覚
意味
解字
形声。音符「〓」(=まじわる)+「見」。意識が焦点を結んで、はっと気づく意。目の前がぱっと明るくなる意と解する説もある。[〓]は異体字。
悟
意味
はっきり理解する。仏道の真理にめざめる。さとる。「悟道・悟入・覚悟・悔悟」
わかりがよい。さとりが早い。「明悟・穎悟えいご」
解字
形声。「心」+音符「吾」。
下付き
穎悟・悔悟・改悟・覚悟・醒悟・大悟・転迷解悟・頓悟・了悟
は・じる【恥じる・愧じる・羞じる・慙じる】ハヂル
〓自上一〓〓は・づ(上二)
恥
意味
解字
もと、心部6画。形声。「心」+音符「耳」(=やわらかいみみ)。心が固さを失っていじける意。[耻]は異体字。
羞
意味
愧
意味
慙
意味
そこな・う【損なう・害う】ソコナフ
〓他五〓
損
意味
解字
形声。「手」+音符「員」(=口のまるくあいた鼎かなえ)。手でまるい穴をあけ、くぼめへらす意。
下付き
易損品・汚損・海損・棄損・毀損・欠損・減損・耗損・差損・焼損・折損・破損・摩損・磨損
害
意味
解字
会意。上半部は、かぶせる意。下半部「古」は、あたま。頭をおさえて進行のじゃまをする意。
下付き
塩害・煙害・加害・禍害・干害・旱害・危害・公害・蝗害・鉱害・災害・殺害・惨害・残害・自害・実害・傷害・障害・生害・食害・蝕害・侵害・水害・雪害・霜害・阻害・損害・虫害・凍害・蠹害・毒害・迫害・被害・百害・雹害・病害・風害・弊害・妨害・無害・薬害・有害・要害・利害・冷害
貪
意味
心得 《1 理解していること。また、理解してとりはからうこと。2 常に心がけていなければならないこと。心構え。3 技芸を身につけていること。たしなみ。4 ある事をするにあたって注意し、守るべき事柄。》
会心 《1 心にかなうこと。期待どおりにいって満足すること。2 納得すること。会得すること。》
回心 《仏教では〈えしん〉という。心の根本的な変化,転回によって信仰にはいること,またそれに伴う態度や行動の変化。》
改新 《1 物事を改めて新しくすること。革新。2 年の初め。》
快心 《気持ちのよいこと。また、よい気持ち。》
改進 《物事が改まり進むこと。また、古い制度などを改めて進歩させること。》
仁
意味
解字
形声。「人」+音符「二」。人が二人並ぶ意を表し、仲間としての親しみを意味する。孔子はこの仲間意識を広く人に及ぼすことを説き、「仁」を儒教の根本理念とした。
とく‐い【得意】
得
意味
解字
形声。右半部「〓」は音符で、「貝」(=財貨)+「寸」(=手)。財貨を手にする意。「彳」(=ゆく)を加えて、出かけて行って物を手に入れる意。[〓]は異体字。
下付き
一挙両得・一得一失・会得・獲得・感得・既得・見得・悟得・自得・修得・収得・拾得・習得・取得・生得・所得・説得・損得・体得・知得・得得・独得・納得・不得要領・味得・役得・欲得・余得・利得
とく‐しょく【得色】
得意なかおつき。したりがお。「―を現す」
とく‐しん【得心】
十分に承知すること。納得すること。狂言、呂蓮「皆―した上ならでは、成らぬことでござる」。「―がいく」
とく‐つ・く【得つく・徳つく】
〓自四〓
利益・富が身に集まる。富裕になる。平家物語10「命いき給ふのみならず、―・いてぞ帰りのぼられける」
とく‐ど【得度】
〔仏〕
特
意味
解字
形声。「牛」+音符「寺」(=まっすぐ立つ)。群れの中ですっくと立つ雄牛、転じて、ひときわ目立っている意。
篤
意味
解字
形声。「馬」+音符「竹」。