幕末からの英国王室と最高貴族モンタギュ公

(岡見清直とウインチェスター大學の接点)

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<明治天皇のプレゼント>

今日、私はライフワークのテーマとして、日英友親交会の促進を行っております。これには、英国のエリザベス女王家に次ぐ、16世紀からの最高貴族永世貴族院議員であるモンタギュ家も絡んでいます。

私の先祖尾崎三良は三条実美の家臣でした。三郎は、坂本龍馬や桂小五郎(木戸孝允)、西郷隆盛などの維新軍である「薩長土肥」と密接に絡んでいました。ですので、三良は大政奉還までは幕軍に睨まれて追われており、やむなく長州に隠れていました。最後には薩摩藩の計らいにより大宰府に隠してもらっていました。その私の先祖である「尾崎三良」と「岡見清直」が、とんでもないところで、蘭学を通して岡見家及び福沢諭吉、そして慶応義塾と結びついていました。

あまりにも「SMALL WORLD=世間は狭い」過ぎて、あきれるばかりですがこれ歴史の事実です。

大政奉還によって晴れて京都に帰ることができた尾崎三良は、三条実美嫡男公恭や毛利公嫡男と共に1868年にまず英国オクスフォード大の聴講生として入学するために長崎を出帆しました。そして、モンタギュ公爵御領地である「サウスハンプトン(SOUTHAMPTON)港」湾市に着き、上陸しました。

そして偶然にもその到着記事を見つけました。それは「SOUTHAMPTON CHRONICLE」という現地新聞で、その到着に関する記事が記載されていました。下記がその当時の新聞記事コピーになります。

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英国島南端にあるSOUTHAMPTON港湾市は、幕末から海上航路で密接に結びついていました。いま、そのサウスハンプトン(SOUTHAMPTON)市のサッカークラブには、吉田麻耶選手が所属しております。今頃はオーストラリアの球場で、ワールドカップ・アジヤ戦で本田圭介、香川伸二、中村俊介、岡崎等と一緒にパレスチナ・チームと戦ってる筈です。

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私は、その点についての歴史的原点を理解できる日本人の方が、一人でも多く居て下さる事を望みます。私自身、海外に永くいたせいで、英国の最高貴族達とも昵懇になり、逆に彼らからも幕末ビクトリヤ女王と日本国との蜜月関係を沢山教えて戴きました。日本人がまだ知らない日英関係の出来事が、英国側で起きていたことを英国の最高貴族達から私は学ばせられました。

1865年(慶応元年)に、19名の薩摩藩下級武士の英国渡航留学生団体が長崎を出帆して、英国島南端のモンタギュ公領地のSOUTHAMPTON港湾市に

到着しました。そしてそこに泊まってから、ロンドンに出て、3名のお目付役世話人を除く16名が、オクスフォード大學やケンブリッジ大學に次ぐ英国第三番目の「ロンドン大學」に入学し、様々な学問を吸収して帰国しました。

そして、日本国近代化を押し進めた事やその地区は、英国の「ハンプシャー(HAMPSHIRE)州」と言いますが、ここからアメリカ大陸へ移民した開拓民が名づけた米合州国の州名が「ニューハンプシャー(NEW HAMPSHIRE)州」になります。英国の「ハンプシャー(HAMPSHIRE)州」にある有名な大學が

ウィンチェスター大學です。岡見清直は、この大学とジョイントで英国頌栄ウインチェスター女子大学を創設し、晩年はそこの学長を勤めました。

ウィンチェスター大學の名誉顧問には、地元の英国最高の女王家に次ぐ、日本で著名な能楽の名家である観世流系統の梅若能楽師の実兄である「神戸の一生さん」がいますが、彼が企画した「別の寄宿学校を隣にあるロスチャイルド家の大別荘の空き家になってる建物に創る」という件で、大貴族モンタギュ公爵が、ウィンチェスター大學へ私たちを連れて行かれ、ウィンチェスター大學総長に紹介して頂き、ミーテイングした事があります。

隣のロスチャイルド家の大別荘の空き家を紹介するために、モンタギュ公自身が私を車に乗せて連れて行き、ロスチャイルドの建物管理責任者を紹介して

くれました。私はそこで8ミリビデオカメラを回し続けました。そこにはエリザベス二世女王の御母堂のメアリー大皇后陛下がお忍びで来られて、御泊まりになる専用室がありました。その部屋は彼方の旅客船クルーザーやヨットが航行する光景を望見できる眺望が素晴らしい特別な部屋でした。

この学校計画の実現は、ほとんど決まっていましたが、設立企画者である梅若能楽師の兄の「一生さん」の本拠地神戸生田区が、阪神淡路大震災の発生により壊滅的被害を被ったため、設立計画が頓挫して中止になってしまいました。

日本での岡見家は、江戸時代蘭学塾を開いていた旗本で、岡見清直の実家が頌栄女学院を創立しました。その時に、福沢諭吉に対して「慶応幼稚舎・慶応義塾を創りなさい」と強く薦めたのも岡見家です。福沢諭吉の講演集である<福翁自伝>にも、岡見家のことについて少し触れられています。

しかし、<福翁自伝>は、弟子が講演筆記録を後から編集したものですので、岡見家の記述に関して名前の誤字がありますが。。

幕末以来、日英国間の皇室王室外交は、第二次世界大戦の時期を除くと、大変固い絆で結ばれていました。そこで、御参考までにビクトリヤ女王以降の、英国王室の王と女王の変遷の歴史について触れておきます。

モンタギュ公の祖父は、ビクトリヤ女王(1819~1901)の次に王位を継いだ長男のエドワード7世(1941~1910)です。母親は1837年に即位して在位期間は63年間、享年81歳という長期に亘りましたので、エドワード7世の在位期間は9年間のみで享年が68歳と短かったのです。

その後に王位を継いだのは、エドワード7世の次男であるジョージ5世(1865~1936)で、即位は1910年で即位期間は25年、享年70歳でした。

その次に王位を継いだのは、ジョージ5世の長男であるエドワード8世(1894~1972)ですが、ここで前代未聞のハプニングが起きました。エドワード8世は米国人の未亡人であるシンプソン夫人との結婚問題で王位を放棄することになり無冠の王になったのです。戴冠式は行わずに王位はジョージ5世の次男であるジョージ6世(1895~1952)に回されて来ることになりました。即位は1936年(昭和11年)で即位期間は15年、享年56歳でした。このジョージ6世の在位期間中は、英国王にとっても大変に苦難の時代でした。

1940年から1945年まで激動の第二次世界大戦があって、世界中が戦火に巻き込まれました。また戦争が終結しても、戦後処理に追われました。欧州の先勝国であった英国も、ドイツ空軍の爆撃とミサイル・ロケット砲弾の砲撃を受けて、ロンドン・マンチェスター(軍需工場が多々あり)の建物や工場が破壊されました。1966年の7月に、私がマンチェスター市に機械部商社マンとして着任した時には、まだまだ爆撃された焼跡があちこちにあり、市内外の高層ビルやレンガの民家も表壁は全部は真っ黒けでした。

戦後の1952年に、現エリザベス2世女王(1926~)が即位します。ロンドン国会議事堂横の「ウエストミンスター寺院」での戴冠式には、昭和天皇の御名代で皇太子殿下(現平成天皇)が参列しました。当時はそれが普通であった、映画館における白黒フィルムでの海外ニュース映画がスクリーンに上映されれました。しかし皇太子殿下(現平成天皇)が、世界中から参列された元首や賓客の長い列の中に混じって参列されていた光景は、私の脳裏に今でも鮮明に焼き付いています。

2012年に行われたロンドン・オリンピックが開催された年が戴冠60周年目の式典が行われた年でもあります。その英国にあるウインザー城で開催された大晩餐会には、平成天皇皇后両陛下も参席されました。この晩餐会に参加される前に、平成天皇陛下は東大病院で心臓の手術をうけたばかりで、お身体を心配されていたのですが、来英されて晩餐会大会場入口で、エリザベス2世女王とエジンバラ公両陛下と御挨拶のことばを交わしている光景を観て感慨無量でした。

エリザベス二世女王の先祖であるビクトリ女王の王子に、明治天皇が奈良の鹿を四つがいを贈ったことがあります。現モンタギュ公の祖父はその王子と幼児のころからの遊び仲間で御学友でした。王子は「日本の明治天皇から日本鹿の雌雄各四頭を贈ってきたので、1つがいは君の方で育ててくれ」と伝えたそうです。そこで、その鹿のつがいを城外の森に放し飼いしておいたのが、現在は5百頭ほどに増えています。

私はある日、モンタギュー公から昼食に招待されました。その時に肉を一晩ワイン漬けにしておいたステーキを御馳走になりましたが、食後に「今日のステーキは、エンペラー・メイジからのプレゼントなんですよ。シ―カだよ・シーカ・・・」と仰いました。私は最初、殿様が何を言ってるのか??と首を傾げてしまいましたが、これらの歴史を教えてもらい、そんな事があったのかと初めて納得しました。

北 広次郎   英連邦王国