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北広次郎国際技術ビジネスコンサルタント経歴(一部)

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●(筆名;柴原徳光)●

(国際技術ビジネスコンサルタント、工業ジャーナリスト、

欧州産業革命史研究家、エッセイスト)●

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略歴

●東京外国語大学ロシヤ科国際関係課程卒

大学在学中のフランス語英語スペイン語イタリヤ語通訳翻訳

元日本工作機械協会会長早坂力(つとむ)会長秘書●

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「追加説明}

大学在学中から日本工作機械協会会長早坂力(ツトム)氏の非常勤翻訳通訳秘書兼助手となる。早坂先生は戦後の機械分野のJIS規格書編纂主幹者で、北広次郎はその助手として編纂を手伝う。

また早坂先生は、終戦直後の荒廃した日本には欧米の高度な工作機械技術を導入せねば、日本の復興が出来ないという信念のもとに、欧米先進国の優れた工業技術ライセンスを精力的に続々と日本の工業界に導入した。

戦争の終わった廃墟から出発して、戦後日本を工業技術立国へ変革するために日本国内欧米を献身的に東奔西走し、多大な貢献を成し遂げた敬虔なカソリック信者であった。その功績は欧州でも評価され、フランス政府からはレジオンドヌール勲章を授与されている。今日の日本が工業技術立国となりえたのは、今は故人となられた早坂力先生の強靭な意志と、そのたゆまぬ実行力があったからであるとはっきり明言できる。

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事実早坂先生の導入した高度技術機械は、日本津々浦々の大手中小企業の物造りの生産工場で実際に使用されており、数多の工業製品を生産して日本国内市場はもちろん、海外にも輸出されてきた。

早坂先生の存在は、一般には余り知られてないが、日本の戦後史の中で特に工業界では知る人ぞ知る燦然と輝く星である。もし早坂先生が居なかったら、日本の工業技術立国化は、二十年は遅れていたといっても過言ではない。

工作機械士でもある早坂先生は、日本国中を工業技術振興を目的とした講演の為に日本国中を行脚旅行をされていたが、北広次郎はその講演の原稿を作る翻訳助手をつとめた。

当時、欧米の工作機械学会専門誌を毎月取り寄せており、その中から新技術について発表してある重要な部分を翻訳して、先生の講演原稿を準備起草するのが北広次郎の仕事であった。  

又、輸入した先進技術機械を日本国内工場に設置する為に来日する据付技術者達と、受入れ側技術者達の技術説明操作運転指導講習会などを行う為にフランス語、英語、イタリヤ語の通訳を行い、北広次郎は関西、中京、関東から北海道の工場まで派遣された。

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★早坂先生は、日本国内の機械メーカーに技術ライセンスを導入するために数十頁から時には百頁を越す機械技術仕様書の和訳、又当時の通産省に対する提携申請用の仕様書翻訳、欧米メーカー幹部が訪日した際の契約交渉ミーテイング通訳などを北広次郎に委任していたので、かなり多忙であった。 又日本のメーカーのみならず、伊藤忠、丸紅、日棉(当時)等の商社工作機械部に、早坂先生の代理で 翻訳仕様書をたびたび届けることも仕事の一部であった。

 

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早坂力先生の指示で行った技術提携先は沢山あったが、その数例を挙げると、

・三菱造船(現三菱重工)とイタリヤ・ミラノのインノチェンティ(INNOCENTI)社間の超大型ミーリング・ボーリング(Milling and Boring)複合工作機(石油タンカー船の巨大エンジンケーシングを切削しながら同時に穴刳穿孔する加工機)のアンダーライセンス(Under Licence)で、日本国内で製造を行う契約

・その前哨となる、室蘭日本製鋼所への第一号機輸入設置稼動開始業務、東芝機械(当時の芝浦機械)とフランス・メカビヤ(Mecavia)社からのインターナル・グラインディング(Internal Grinding)機械の設置とアンダーライセンス国内製造業務契約

・大阪機工(OKK)とフランス・ラモ(Ramo)社と旋盤技術提携によるアンダーライセンス国内製造契約などがある。

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●★北広次郎:商社丸紅時代のプロフィール★●

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最初はジャーナリズム希望であったが、当時その年からジャーナリズム界では10月1日前の大学生青田買い就職禁止の申合わせが出来たため、たまたま友人達の誘いがあって入社試験のもっとも早い商社丸紅(当時)丸紅飯田)繊維化学機械部に入社試験を受けて翌年4月からの採用決定通知を受ける。

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★大学卒業後商社で機械販売担当。しかし当時高度な技術機械は、欧米先進国からの輸入がほとんどであって、当時まだ技術レベルの低かった日本製機械は、日本政府が国民の税金から支払う戦争賠償か、円借款のいわゆる紐付きで、もっぱら発展途上国のみに輸出していた。

早坂先生の薫陶を受けて鍛えられた経験で、技術導入の逆版で、戦後日本でまだ 誰も挑戦していなかった欧米先進国への日本製機械の輸出を北広次郎は目標として目指す事を心に決める。

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 1966年7月に渡英し、世界産業革命発祥の地であり、繊維工業史の主流であった英国マンチェスターに事務所を構えた。戦後日本の初挑戦事業として、念願の日本製繊維機械輸入業務(日本から見ると輸出)業務を開始する。そしてやがてこれを商社傘下で機械販売兼アフターケア管理を目的とした現地国の独立法人化事業案を提議。本社の認可を得た後、米英仏伊などに現地会社として丸紅テクマテックス社の現地法人を設立。現地国人のセールスマン、技術者、経理マン、事務員を雇用し、現地国人主体の企業化に向けて転換を図る。当時まだ日系企業は、海外での営業方法は海外支店や海外出張所方式をとっていて、このような現地法人化政策をとるところはなかった。しかし、この先例を創った以後には他日系企業の商社やメーカーも海外独立法人子会社化がブームになってきた。

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戦後に日本復興の牽引車となったのは、繊維産業であった。しかし、これは安価な労働賃金による(綿絹人絹などの天然繊維素材から作る)日本製の繊維製品が米国繊維産業界を圧迫しているとして、米国繊維工業界から猛烈な抗議を受けた米合州国議会は、米国政府を動かし始め、やがて日米貿易摩擦問題になっていった。日本製繊維製品のボイコット運動も起き、ダンピング法を絡め日本品輸入禁止法制を強行するのは時間の問題となっていた。これは米国だけにとどまらず、やがて欧州諸国も追随線としていた。北広次郎が欧州に渡った頃には、日本製品不買運動の起きていた。1966年1967年、北がまだ未熟な段階の日本製繊維機械を欧米に売込もうと四苦八苦していた頃、時の池田隼人首相が欧州諸国を歴上した。今でも鮮明に記憶してるが、フランスの一流新聞が一斉に報道した見出しは 『日本からトランジスターラジオのセールスマン来たる!!』であった。

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しかし、当時日本の外貨稼ぎの目玉商品は、まだ繊維製品であった。日本のまだ低い技術力による繊維機械を、欧米の繊維工場に輸出しようと言う北広次郎の試みは『石油を中近東に売込もうとするようなものだ』とか『ワインをフランスに売りに行くようなものだ』とか言われ『無謀極まりない無駄事だ!!』と、当時非難する者が多くいた。しかし、その度に、早坂力先生の下で欧米製工作機械輸入と技術提携ライセンス製造を促進するアシスタント役を務めて、日本各地の工場で欧米技術者と日本人現場技術者に技術通訳翻訳者として間に立って接してきた経験が、勇気を奮い立たせ、背中を押される気がした。当時怖いもの知らずでもあったが、『日本人技術者の探究心と研究心は、今のマイナスをプラスに変える時代が来る』と思っていた。それは敬虔なカトリッククリスチャンの早坂力先生の思考法と実践法をたっぷり目の当たりにして来た結果であったからである事は間違いなかった。

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北が1960年代から、1970年代ににかけて、戦後それまでは日本製機械は後進国輸出専門であった流れを、欧米先進国にも水路を開く挑戦を始めたのは、日本孤島国にとっては初めてのことであった。 それが、貿易摩擦の根源となった繊維製品を作る紡績機械織物や機械染色加工機械を持って行ったというのは、皮肉に見えたかもしれない。しかし高速稼動による生産性{能率利益性}を向上させられる日本製新技術機械は、欧米繊維工場の生産効率をも上げる事に寄与した。その頃に日本政府が欧米に対して繊維製品の自主規制政策をとった事もあるが、それでも技術力の結集による効果も大きかった。日本の新技術機械は、また皮肉にも最初日本国内の繊維工場においても、疑心暗鬼で採用されていなかった。ところが、勇敢で先見性ある欧米工場が先に目を付け始め、かなりの数を採用するようになってから、日本の工場幹部達が海外の工場を見学の為に出張して来た際に、和製機械の稼動実態を見て驚き、日本に飛んで帰り採用を始めたという皮肉な珍現象まで起きた。

国境が陸続きの大陸国と、四方が海洋である孤島国の相異がここにも現れていた。

このような現象はその後に日本では他の業界分野においても起きている。

正直言って、日本が先進国に輸出を始めた当初には、産業機械類には故障や不具合が多発しており、海外工場ではクレームも出て困惑する日々が続いた。商社の親しい先輩がロス支店長時代に、今メーカーは言わないが、日本製自動車を十五台ほど試験的にロスの高速に持ち込んで試走テストを行なったが、走り出してから全車両のエンジンから煙が噴出し始めて、その後に全台がエンコした。その時には米国への日本製乗用車の輸出計画はものの見事に失敗し、即撤退を決めた事があった。

繊維機械も海外客先工場現場の憤懣の声を聞きながら、当分は『おしん』の心境で改善改良を重ねる事を余儀なくされた。雑貨品や消費物の資輸出一辺倒時代から、まだよたよた歩きの日本製繊維機械輸出へと転じ始めた後、それが徐々に繊維品の貿易摩擦による怒声に対する沈静緩和剤消火剤になっていった。日本人技術者が日本製繊維機械を海外現地工場へ持ちこんで、現地工場の能率的生産性を高める為に、現場の外国人技術者や工員さんと共に日々働いたことにより、やがて自然に連帯感とか一体感が生じて、貿易摩擦の憎しみや敵愾心や相互無理解や誤解も溶解し始める現象を感じるようになった。それは当然の成り行きであったかもしれないが、海外国の工場経営者達の日本を見る目も徐々に変化して来た。

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テクマテックス丸紅社が欧米市場へ日本から輸出した繊維機械とその関連機械器機のメーカーは、下記の通り。豊田自動織機製作所(トヨタグループ発祥親会社)、ニッサン自動車(合併前はプリンス自動車で現在はフランスルノー社の傘下)、三菱重工(産業機械部)、村田機械製作、大阪機工(OKK)、鳥居鉄工、東芝機械(プラスチック合成樹脂射出成型機)、津田駒工業、河本製機、日立製作所、島津製作所、明電舎、京都機械、和歌山鉄工、福島製作所、豊和工業、網太工業(魚網製造機)等。1960年代にはまだメイドインジャパンの機械は欧米レベルに達していなかったので 発足当初はクレーム続きに悩まされたが、メーカー各社の改造改良努力に支えられて、70年代以後から徐々に欧米市場でも認知され始めた。後、プラント輸出による技術協力も含め、日本の繊維グループメーカーでは東レ、テイジン、カネボウ、クレハ、旭化成、東洋紡、大和紡、豊田紡、ユニチカニチボウ{現ユニチチカ}、福井精錬など挙げて行くと際限がない。

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丸紅傘下の子会社である丸紅テクマテックス社を創立して、同社社長を勤める。軌道に乗ったのを見届けた後、1980年丸紅を退社。現地で独立し、技術工業ジャーナリスト兼国際技術貿易コンサルタントとなる。多くの日系企業の欧米進出の指導手助けを行う。新技術ライセンスの国際間紹介導入などを行う。

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●★北 広次郎の海外文化活動のプロフィール★●

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★日欧文化交流、文化展覧会開催に関与、日英教育交流、日英留学生交換、工業ジャーナリストとして、日本工業新聞依頼により欧州の工業地に関する記事の掲載、現地邦字月刊誌に欧米体験エッセイ連載、作詩活動、文化展並びにチャリティーコンサートの開催(東京サントリーホ-ル、銀座ヤマハホール他)、大学日本文化講演講師、工業ビジネス関係講演会講師、

★        英国工業誘致協会依頼による日系企業進出調査ミッションへの欧州工業地域の事情講演会講師、ドキュメンタリーエッセイ集『ミスターようろっぱ』(新声社)『ヨーロッパからこんにちは』(芙蓉書房)の出版。

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★もし隙間御時間がございましたら、文化面活動については

YAHOO・GOOGLE HOTMAILの検索にて「柴原徳光」なる筆名、または別名で「北広次郎」の四文字を入力されますと若干の追加解説が閲覧いただけます。

<MINA JAPAN CENTRE CLUBを訪れたスター達>

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北 広次郎(柴原徳光) (英国)

Nori  Kojiro Kita

Nkita Consulting(UK/EU/Middle-East)

Address ID:WA15  0DW,UK

E-mail;  norionplanets@gmail.com  

SKYPE ID: Nori Kita or Kojiro Kita

Tel: UK +44-161-980-5550

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