第一話  遣らずの雨

「大体、君は部下の教育がなってないんじゃないか?」

「はぁ……」

 彼が私の言うことを聞かないで勝手に進めるのがいけないんです!  ……なんて言えたらどれ程良いだろうか。だがそんなことをしても上司の反感を買い、叱責を受ける時間が延びるだけなのだ。 こういうときは「はぁ」「仰る通りです」などと、曖昧な相槌を打ってやり過ごすに限る。YESなのかNOなのかはっきりさせない曖昧さは、日本語の最大の美点ではないだろうか。

 こんな態度だから目をつけられて何かあるたびに私がお叱りを受けるのかも知れないとも思わないではないが、これはもう随分昔から私の体にこびり付いている染みみたいなもので、擦っても擦っても落ちやしない。それに、自分が思っていることを正直に伝えるよりも人の言うことを機械のようにこなしている方がずっと楽だし、余計なことをして怒られることもない。私は自分の感情を他人にわかって欲しいなんてちっとも思わない。

「────────!!」

「はぁ……」

 ぼんやり取り留めのない思考を巡らせている内に、上司の荒々しい声はまるで壁を隔てているかのような聞こえづらいものになっていた。くぐもった声に輪郭はもはやなく、何を言っているのかすら判らない。近頃は私も慣れてしまったらしく、小一時間何か言われたぐらいでは心の表層にさざ波を立てることすらなくなった。

 ――しかし。

 言われたことそれ自体に何かを感じるような心はとうに無くしてしまったが、しかしだからと言って何をしたわけでもないのになぜ私が怒られなければならないのか、という苛立ちは依然持ち合わせているのだ。

 内側から生えた棘で、静かに凪いでいたはずの心に容易く波紋が生まれる。 私と上司とを隔てていた壁は波打ち際で容易く攫われてしまい、再び外界の乱雑な音が耳に飛び込んでくる。

「あ、そうそう。 君、今度彼と出張決まったから」

「はぁ…………え?」

「はぁ~~っ……」

 長く重い溜息が低い雲に覆われた空に消える。

 唐突に出張決まったから、なんて言った上司はあの後業務連絡を諸々済ませて自分の仕事に戻り、以後反論は受け付けないという意向を態度でありありと示して黙り込んでしまった。入社して10年も経たないひよっこ一人が何を言ったところで上の決定を覆すなんてことが出来るはずもなく、 結果嫌々ながらあの何を言っても指示通りに動いてくれない後輩と出張に行くことになったのだ。

 最初に上司に言われた瞬間から予想していたことではあったが、後輩は私の言うことをある程度聞いていれば普通にこなせた筈の仕事で有り得ない粗相をして先方の会社にも大きな迷惑を掛け、彼の代わりに私が何度も頭を下げる羽目になった。それで当事者であるはずの彼はどうしたかと言うと、私に謝るでも礼を言うでもなくさっさと帰ってしまうのだから、全く以て割に合わない。

 本心では家業を継いで欲しかった筈の両親に大学の高い学費を払わせてまで上京してきたというのに、東京で就職してからというもの損な役回りを押し付けられるばかりで碌なことが起こっていない。就職氷河期とまで言われるこのご時世に大した苦労もせず新卒で入社できてラッキーだと思っていたが、会社勤めなんてもううんざりだ。……なら辞表でも出すかと何度も考えはしたけれど、その後のことを思うとそんな勇気も出ない。

 空気が雨の匂いを帯びてくる。普段なら雨はそんなに嫌いではないのだが、今は体にまとわりつく湿気も私の苛立ちに拍車をかける。ふと腕時計を見ると、時計の針は正午を少し過ぎたところを指していた。考え事をして忘れていたが、そろそろお腹の虫が鳴き始める頃だ。この近くにランチを食べられる場所はないだろうかとスマートフォンを取り出し、飲食店を探すアプリを立ち上げる。

「遠いなぁ……」

 ディスプレイに表示される店は全て車で移動しないと行けないような距離にあり、ご飯のことを考えていて一旦収まった苛立ちがまたぶり返してくる。

 さて、どうしようか……

 ずっとここに留まっている訳にもいかないし、このまま外にいては雨に濡れてしまいそうだ。行く当てがあるわけではないが取り敢えず歩いてみることにして、スマートフォンを鞄にしまう。

 しばらくすると、大きな交差点が見えた。真っ直ぐ進むと私が乗ってきた電車に乗れる駅に続く道だが、今はそちらに用はない。右側に目をやるとそこには石畳が敷かれた細い路地があり、お寺か何かの築地塀に挟まれているそこは何だか不思議な雰囲気を湛えている。行きがけに通ったときにはここにこんな道があるなんて気付かなかったが、何となく惹かれるものがあったので私はその路地に入っていくことを決めた。

 築地塀に沿って進んでいくと、一歩ごとに嗅ぎなれた匂いが強くなっていくのを感じる。これは、 まず間違いなくコーヒー豆を焙煎する香りだろう。香りにつられてどんどん歩いていくと、路地が丁字に分かれた場所に辿り着いた。

 まず目を引いたのは曇天の灰色じみた光に照らされる築地塀というくすんだ世界で、いかにも私だけを見てほしいと叫んでいるかのように唯一色鮮やかな、紫陽花。歩いている間鈍い色彩ばかりを捉えていた私の目を暴力的に刺激してくるそれから視線を剥がすと、すぐ隣に古民家の引き戸があった。近づいてみるとコーヒーの香りが一際強くなり、路地の雰囲気に呑まれて大人しくしていたお腹の虫も働き出したらしい。足元のブラックボードには、

『回燈篭  本日のランチメニュー』

と書かれている。どうやらこの古民家は飲食店らしい。そうと理解するや否や、脊髄反射も斯くやという程の速度で引き戸に手をかけていた。

「いらっしゃいませ」

 良く通るテノールが店内に響く。引き戸からすぐ目の前にあるカウンターの中に店員さんと思しき若い男性がいるのが目に入った。

「お好きな席へどうぞ」

「……あ、 はい」

 掛けられた声に、間を置いて応える。初めて来る場所なのに、どういう訳か締め付けられる程の郷愁を感じ、少しの間惚けてしまっていたらしい。私は少し店内を見まわした後、結局カウンター席に座ることにした。もう結構な時間歩きっぱなしだったので、椅子に座った途端ふっと力が抜ける。

「お冷です。ご注文がお決まりになられましたら、お呼びください」

「ありがとうございます」

 店員さんが爽やかな笑顔で手渡してくれた水とメニューをお礼を言って受け取り、水を飲みながらメニューを開いて何を食べようかと考える。さっきからずっと匂いを嗅がされているコーヒーは頂くとして……メインはサンドウィッチにしようかな? そう思って顔を上げると、店員さんは厨房に入っていったらしく姿が見えない。大きめの声で店員さんを呼ぶと、やはり厨房から現れてオーダーを聞く態勢をとった。

「サンドウィッチとコーヒーを下さい」

「畏まりました。出来上がるまで少々お待ちください」

 店員さんはそう言うと、また厨房に戻っていった。のんびりした気分で店内を見回して、風情と温かみを併せ持った、落ち着く場所だな、と感じる。ずっと昔、ここで暮らしていたのはどんな人だったんだろう、きっとこの場所の雰囲気と同じように暖かくて一緒にいると落ち着ける人だろうな、なんて空想につい思いを馳せてしまう。

 そうこうしている内に、厨房から美味しそうな匂いが漂ってきた。最近は残業に次ぐ残業で、インスタント食品やファストフードばかり食べていた。人の手でちゃんと作る料理なんていつぶりだろう

……そんな感慨に浸っていると、奥からサンドウィッチとコーヒーを乗せたお盆を持った店員さんが出てくる。

「お待たせいたしました、サンドウィッチとコーヒーです。コーヒーは熱いうちにお召し上がり下さい。 熱いうちが飲み頃ですよ」

 ふふ、と笑って、店員さんはカウンターで黙々と食器を拭き始めた。キュッキュッ、という乾いた音が天井の高い古民家に反響する。

「……頂きます」

 私はブラックも飲むがどちらかと言えばミルクを入れたい方なので、テーブルの端にちょこんと置かれたオシャレな二つの容器をチラリと確認した。

 しかし一口目はそのままの味を楽しむのもいいだろうと思い、店員さんに言われた通りコーヒーを少しだけ口に含む。

 思わず声が漏れそうになった。家で雑に淹れるインスタントのコーヒーなど泥水に思えるぐらいに、深い味わい。この液体が持つ繊細な優しい苦みは、砂糖やミルクを入れてしまえばきっと容易く喪われてしまうのだろう。

 気まぐれにブラックで飲んでみて良かった……言い様のない多幸感に包まれながらコーヒーを嚥下すると、それは体外にあった時より一層強い香りを放つ。その香りは長い間忘れてしまっていた出来事を、何故だか思い起こさせた。

 もうずいぶん昔のある冬、実家で飼っていた猫が死んでしまったことがあった。私はそれを知るとすぐに家を出て、公園で一人うずくまって泣いた。家に居てはどうしても猫の生きていた痕跡を探してしまうからだ。

 恐らく夕方の6時半頃だっただろうか。────今となっては紛れもなく『夕方』だが、当時小学校低学年の私にとっては冬の6時過ぎなんてもうほとんど真夜中みたいなものだった────まだ気持ちの整理はつかなかったが涙が枯れてしまったので緩慢に顔を上げると、見知らぬ女性が私を見ていた。

「もうずいぶん遅い時間だよ。一人で公園は危ないよ?」

 そう言った女性はとても大人びて見えたが、よくよく思い出してみれば今の私と同い年くらいだったのかも知れない。

「帰りたくない」

「どうして?」

 首を横に振って頑なに立ち上がろうとしない幼い私に、彼女は優しく尋ねた。

「私の猫ちゃんが死んじゃったの。家に居たら猫ちゃんのこと思い出しちゃう」

「そうだったの、辛いね」

「うん……」

 ずっと一人で泣いていたから、誰かに共感されたことが嬉しかったのだろう。ついさっき枯れたは

ずの涙は、また私の頬を濡らした。

「ちょっと待ってて。お姉さんがとっても良い物を持ってきてあげる」

 良いもの……?と私は思ったが、それを口に出す前に彼女は走って公園を出て行ってしまった。

しばらくして戻ってきた彼女の手には、あるものが握られていた。

「ほら、あげる」

 差し出されたものは、可愛らしい小さな花だった。

「これは、ネリネ、っていうのよ。花言葉は、『また逢う日を楽しみに』。天国の猫ちゃんに渡して上げて」

 ねりね。口の中で小さく呟く。何だか好きな響きだと思った。

「死んだ人たちへの最高の手向けは、悲しむことじゃないの。『ありがとう』って言う気持ちと、死んだ人たちをずっと覚えておくこと。いつまでも君が猫ちゃんのことを悲しんでたら、猫ちゃんもきっと心配して天国で安心できないよ。いくら悲しんだって死んだ猫ちゃんは絶対に戻ってこないけど、あなたが猫ちゃんのことを思い出して、『ありがとう』って考えてる間は、猫ちゃんは君の心の中で生きてるんだからね」

 私が思い出してる間は、猫は心の中で生きている。そのときの私には難しくて彼女の言っていることはほとんど理解できなかったけれど、それでも大事な所は伝わったと思えた。

「うん、わかった!」

 私は訃報を聞いてから、この時初めて笑みを形作ることが出来た。見知らぬ他人ならまず築かない程度の仄かなものではあったが、真っ暗だった公園も少しだけ明るくなったような気がした。

「よし。じゃあ、お姉さんがお家まで送ってあげるね」

 いつの間にか私の喉は湿った声を発し始めていた。店員さんが食器を拭く音が止み、店内は私が漏らす小さな声だけで満たされる。

「あ、あれ……なんで……?」

 指の腹で涙を拭うが、それは後から後から零れ落ちてきて、きりが無い。確かに何故忘れていたのかわからない大切な想い出だったが、それだけでこんなに涙が止まらないものだろうか? 猫が死んでしまったことを思い出して、悲しくて泣いているのではない。それは断言できる。愛玩動物が

人間より早く死ぬのは当然のことだと今の私は常識として知っているし、二十年も前のこととは言っても自分が可愛がっていた飼い猫が死んだことをすっかり忘れてしまう程薄情ではない。なら、どうして……

 自らの情動の原因がわからなくて戸惑っている私の耳に突然、明らかに自分のものではない、心地いい声が届いた。

「憑き物が落ちた、と言ったところでしょうか」

「……え……?」

 誰が言ったのか理解するのに、一瞬かかった。今この場所には私を含めて二人しか居ないのだから、誰が、なんて考えるまでもないことだ。

 誰に言ったのか理解するのに、もう一瞬を要した。同じく二人きりのこの場において、そんなことは普通なら『理解する』なんて仰々しいことをする必要すらないはずだ。

 何を言っているのかは、今も理解できていない。『何と言ったのか』は分かる。ツキモノガオチタ、と。その意味が判らない。同じ文字を何度も見ているとその文字が何を意味するものか判らなくなるのと同じような感覚に陥って、私は更に泥沼の深みにはまってしまう。

「差し出がましいことかとは存じますが、ご自分の感情が理解できなくて混乱しているように見えましたので」

 カウンターの向かい側で私を見ていた店員さんに図星を刺されて、むしろ戸惑いからはひとまず解放されたが、今度は少し凹んでしまう。私より若そうな男の人に見透かされるほどわかりやすい女だったかな、私……

「いえ、落ち込む必要はありませんよ。今は自分のことに精一杯で外からどう見えるかを気にする余裕が無いのでしょう。それに、傍目八目という言葉もありますしね」

 言われて、涙を流したまま話してしまっていたことに今更思い至る。慌ててハンカチで頬を拭くと、店員さんは可笑しそうに笑った。

 何よ、気付いてたならもっと早く言いなさいよ……!

 気恥ずかしさから心の中で悪態をついて軽く睨むが、目線の先の男性はそれすら面白いと言うように笑みを向けてくる。

「……それで、憑き物が落ちた、って言うのは?」

 憮然とした態度を保って最初の台詞について質問する。心の奥ではもう何となくわかったような気がしていたけれど、他人から言ってもらうことでその認識を確かなものにしたかったのだ。

「そうですね……凝り固まっていたものがほぐれた、と言った方が正確かも知れません。険の取れ

た面差しをしていらっしゃいますよ」

 放たれた言葉がスッと心に沁みる。

 話し相手を睨みつけたり、わざとらしく「不機嫌です」と言外に伝えるようなポーズを取ったり、そんなことをするのは一体いつぶりだろう? 感情を面に出すのは悪だと、もう長いこと何の疑いもなくそう思っていたのではなかったか? 結局のところ、私は無理やり感情を殺そうとしていたんだ。自分の中から湧き出る、今の自分に対する疑問すらも強引に押さえつけて。

 でも、心はずっと悲鳴を上げていた。さっき泣いてしまったのは当たり前の情緒で、今まで何も感じなかった、あるいは感じようとしなかったことがむしろ異常だったのだ。そうはっきり自覚すると心が急に軽くなったような気がした。ほんの少しだけ、口角が上がる。

 陰鬱とした気分から解放されて、柄にもなく弾むような気持ちで残ったサンドウィッチとコーヒーを胃に収める。

「お会計お願いします!」

「はい。五百円になります」

 言われた金額を丁度で支払って、店の引き戸を開ける。すると、タイミングを見計らっていたように雨が降り出した。背後でレジを操作していた店員さんがさも可笑しそうに呟く。

「へぇ、『遣らずの雨』ってやつですかね」

 いつもなら「はぁ、最悪……」となっている所だろうが、今日の私はすこぶる機嫌が良い。一層笑みを深めてくるりと振り返る。

「すいません、コーヒーもう一杯」

 冬の短い残照が消えかけた夕闇の中、とある小さな公園で一人の幼い女の子が泣いていた。人通りの少ないそこにたまたま通りがかった女性は、花屋か何かだろうか、綺麗な花をいくつもバケツに入れて抱えている。見た感じ、年の程は四十になるやならず。幾つかのしわが目立ち始めているが、顔全体の印象は生活の充足を示すように明るい。

 女性はうずくまる少女に気付くと驚いてあっ、と声を漏らし、少女のもとに駆け寄った。バケツを脇に置いて少女に優しく話し掛け、事情を聴き出す。どうやら飼い犬が死んでしまったことを悲しんでいるらしい。女性はそれを聞いて一瞬目を大きく見開いたが、すぐに柔らかく笑って言った。

「死んでしまった人への一番の手向けは悲しむことじゃないわ。時々でも良いから思い出して心の中で『ありがとう』って言ってあげること。それをしている間は、その人はあなたの心の中に生き返れるの。これ、あげる」

 ゆっくり、かみ砕くように言い聞かせて、女性はバケツから一輪の花を取り出した。泣きながらも女性の話を聞いていた少女は差し出された花を見て首をかしげる。

「これはネリネ。花言葉は『また逢う日を楽しみに』、よ。あとは、そうね……」

 何事か考えて、最初に少女に話しかけたときから変わらない暖かさの中にほんの一つまみ悪戯っぽい色を加えた笑みを浮かべた。そうして、一拍置いてからまた少女に語り掛ける。

「……感情的になるのは決して悪いことじゃないわ。悲しいなら悲しい、辛いなら辛いって、正直になれば良いのよ」