ユーモアクラブより転載。

北広次郎エッセイ集 ミスターヨーロッパだより

第7号『クオ・バディス、孤島国Jジャパン?』(その二)

   (英国ロスチャイルドが北に贈った感謝状のわけ)

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 1948年、私財を投げ打って、2千年前に滅び離散させられたイスラエル帝国を、第二次世界大戦終結後再興した『建国の父(実質王)』と称される英国ロスチャイルド家第五代当主エドムンド・ロスチャイルド男爵から、英国ハンツ州エクジュベリイのロスチャイルド宮殿に招かれた折に、北広次郎に贈られた感謝状の内容を以下(二、三)に記します。

 

 

 四海孤島国Jジパングには、今やマスコミメディヤの発達で、地球上の出来事は、すべてが伝わっていると思い込んでいると、9割以上の孤島民は、思い込んで居る。

 しかし、果たしてそうであろうか? それは見方を変えると、ブラックジョークですらあると、思われる事がある気がしてくる。国際情勢の捉え方において、ここでも国境陸続大陸民との格差は大きすぎるという実感が迫ってくる。

 2010年6月21日は、アフガニスタンで命を失った軍隊関係者(ほとんどが兵士)は、米国人1000名を越し、英国人は300番目の犠牲者が出た日である。

 アフガン戦争とは何か? 今やテロとの戦争という提議になっている。孤島国内では、これは『アフガン紛争』といっていたメディヤもあるが、横文字国では、どこをみても、『紛争』ではなく『WAR』という言葉が溢れている。

 単なる『紛争』ではない事は明らかである。

 この戦争に、アフガン現地に派遣されてる軍関係者は、NATO軍も入ってるから、米英軍だけではない。2009年の米英を含む軍関係の全死者数は520名であったが、2010年は6月29日までの総計は320名とNATOから発表されている。

 2010年6月は、アフガン戦争始まって以来最悪で、月間戦死者数が最多記録の100名前後であるという。

 最近のNATO軍戦死者は、戦闘、ゲリラ戦で対峙して戦火を交え激戦で死亡したかというと、ほとんどがそうではなく、道路や建物や橋梁に仕掛けられた、安物の自家製急造の火薬爆破装置によるものがほとんどであるという。そして、さらにショッキングなことには、タリバンはイスラム教地元民シンパや、その爆破装置への火薬の詰め作業にその子どもたちを動員して製造を行なわせてるケースがあるという。

 英国兵のアフガン戦死者の80%前後が、20歳前後の少年兵である。

 そして毎週の位、遺体を収めた棺が、空港に着き、沿道に並ぶ遺族市町村民の列に迎えられ、自宅にはこばれ、そして教会の葬儀にを終えて、軍隊の兵士達が肩で担う国旗で包まれた棺は、墓地に運ばれて深く掘られたの長方形の土穴にしずしず、支えロープで下ろされて埋葬される。

 その葬儀の時には、『この青年は平素は家族・友人・隣近所の人々には、やさしく律儀で、正義心が強く、勇敢なるヒーローであった』という言葉が述べられる。

 しかし、単なる紋きり型の弔辞や一般には意味不可解な言行の経文ではない点が救われる。

 葬儀を進める聖職者の神父からして、誰にも分かりやすいことばで、人間味の感じられることばがなげかけられるから、一般地元民にも、虚通により心に滲みて来るものがある。

 また中には、その死亡した兵士の、まだ若い未亡人の奥さんが、脇にいたいけな幼児を従えて、腕には赤ちゃんを抱いたまま、『私の夫が、戦場でのその任務を勇敢に果たした事を、心から誇り(PROUD)に思います。』と涙をこらえて言い、足をふんばってたっている。この瞬間、見ているわれわれの方が、胸にいっぱいいっぱいググーッと込みあげてくるものがある。

 六月末、一度に六個の棺が届いて、合同葬儀が行なわれた。これも装甲車に乗っていて、走行路に仕掛けられたタリバンの実に安上がりの自家製急造爆破装置にやられた犠牲者たちであった。多分それをつくるのを、手伝わされたのも、又タリバンに動員された子どもたちであったのだろう。子どもまで加担させて自家急造した殺人兵器の爆破装置により、爆死した まだ人生の前途に時間がたっぷりあったはずの青少年兵士の亡骸(なきがら)を、『ヒーロー』と称えながら埋葬する儀式ほど、胸が押し潰れそうになるものはない。航空機や保存技術の進歩により、兵士の遺体が本国の故郷へ、運ばれる時代になったのは、戦場に亡骸を放棄してきたかつての戦争より、はるかにましである。

 誰のために、何のために、戦って来たのか?それが、どこまで有役だったのか?無役だったのか?そんな疑問を投げかけるものは、戦場のそこには誰もいない。

 だが本当は内心では誰も戦争や軍国主義を好むものはいない。

 しかし戦場のそこには、生命を賭してでも、やらねばならない、戦場の哲学や鉄則があると戦争の主導者たちは考えている。しかし兵士の亡骸を土に帰す埋葬を行なう伝統的儀式を、最も丁重に行なうのは、キリスト教国の伝統であると感じる。

 しかし四海孤島国Jでは、アフガンの戦場のつぶさな現実は、あまたあるはずの新聞・雑誌・ラジオ・TVチャンネルなどのマスコミメデイヤでも報じられているとは、思われない。

 ましてNATO国軍の犠牲者の無言の帰還の様子などの報道はほとんどない。

 孤島国Jが、ますます孤島国化しつつある所以がここにもある。これはネオ鎖国現象である。

 

 かつて鎖国時代、海外渡航禁止とか蛮書取締まりまでして、海外情報流入統制をした江戸封建制幕府下の時代、軍部官製の報道統制を強制した太平洋戦争時代でもないのに、ネオ鎖国症状とは、一見矛盾にみえる摩訶不思議なフェノメナ(現象)である。過去の鎖国時代と、現今のネオ鎖国現象の大きな相異は官製統制に対し、自意的感性からの現象である。もっとくだけていうと、四海孤島国Jの特異現象である、オタク引きこもりのバーチャル症候群の心への侵食である。

 

 もっと具体的な例でいうなら、1854年ペリー来航・神奈川和親条約から始まる幕末明治維新後と、1945年8月マッカーサー占領軍総司令長官飛来の、第二次世界大戦後の四海孤島国Jの、海外異文化への好奇心と学習吸収意欲の情熱の退化現象である。

 つまり内向的、退化的、退廃的、刹那的、分裂症的ですらあり、真のバランス感覚欠如の現象の増加である。さらに言葉を替えると、野性味、真の独創性薄弱化してしまった。

 もっと直裁にいえば、ハングリー精神の退化消滅症候群の蔓延である。そしてその四海孤島J内独特の珍奇現象は、海外への留学意欲生の減退である。

 たとえば 従来ハーバード大への孤島国Jからの留学生は年間400名であったのだが、近年は半減した。これは米国のみならず、欧州でも同じ減少現象が起きている。逆に、中近東アジヤからの留学生は急増している。韓国そして著しいのは中国からの留学生の数の伸びである。

 J孤島国は完全に、世界の逆行をしている。

 これは、ゆゆしい問題である。異質の文化交流の血が交わるリンクが切れるという所とは、文化の近親相姦の悪しき現象に向う。野性動物群ですら本能に嫌う劣勢遺伝の未来に暗雲は目に見えている。

 またその裏現象も起きているのが、孤島国Jの未来の暗雲を象徴しているかのよだ。

 私が海外から母国を憂いてるいくつかの現象の中で、これも深刻なものの一つである。かつて欧米の大学専門学校では、ジャパノロジー(日本学学習熱)が高まり日本研究学科や日本語学科が開設され継続されていた。これは日本からの留学生の増大と共に比例していた。それは、日本人留学生がその欧米大学の日本研究学科や日本研究所の助手になったり、助手助教授、教授にはならなくとも、すくなくもならかの形で双方の架け橋となってきた。

 これは外交政治にも密接なパイプ役を果たす日本文化の海外伝播には、絶対不可欠なリンクであるのだが、その理解度が肝心な四海孤島国J内にはその危機感の意識すら浮かんで来ない。

 さらに他の例をいうと、孤島国Jの鎖国性は、国境陸続大陸国民族との決定的格差が現れてるのは、次の場合にもある。

 四海孤島国Jの閉鎖性のシンボル現象は、J孤島人の江戸幕府時代からの鎖国的閉鎖性のDNAの好ましからざる部分の連鎖が尾を曳いている症状が看えないこと、またそれを直視する意識が浮かんで来ないことに看過すべからざるゆゆしき問題点がある。

 折角良い素質があっても、それを地球的規模で看る視力が薄弱ないしゼロに近く、ある意味では、古諺でいう我田引水、手前味噌、さらに唯我独尊の四文字熟語が、当てはまるような事例が多く、孤島国J内では、その伸びるべき芽を潰してしまう傾向がある。

 だから一時期は、J孤島国内のノーベル賞級研究者達がほとんどLEEWAY(自由裁量)を求めて、主に米国へそして欧州へと転出したのである。

 それは地政学的に視ても、国境陸続大陸人のように異民族との外交、戦争、軋轢、宥和、互恵、協定の歴史的変遷を体験にして来なかったJ孤島国民に欠ける点である。

 もと国連で、国際紛争問題で駆け回ってきた明石さんのような人物を、日本国政府はもっと有効に活用すべきなのに、思いつきで急ごしらえの都知事選候補者に担ぎだしてもJ孤島国内には、国連の活動の実態を理解するセンスがゼロのため、地球的に正当な評価をするだけの能力がない。

 明石さんならずとも こういう特別な経験ある人材はまだ入るのだが、それを対外的戦略にも対内的政策にも活用すれば、国際ビジネス上でも、外交上のみならず、J孤島国家の利益に貢献する有効な手段になるはずであるが、J孤島国の政治家も、とくに省庁の官僚も、まるで場違いな都知事選に担ぎ出してあとは放棄した感が否めない。

 思いつきで人材を乱用浪費するのは、幕末の江戸幕府の幕閣僚であったが、『過去(歴史)は棄てるもの』という観念の強いJ孤島国人一般は、『歴史を生かすこと(歴史の教訓に学び体現すること)』にはうとい習性を身につけさせられてしまった。

 それは大いに、J孤島国の教育方法に起因する所がおおきい。とくに戦中戦後のギャップにおいて、方向性に狂いが生じた。

『勤勉性』『忍耐心』『努力心』『向上心旺盛』『大家族制』『団体性』『ハングリー精神』『野性味』『海外学習欲』『冒険的探究心』『外交性』の反対語を挙げると、『安楽性』『短気短絡性』『イージーゴーイング』『フツー化』『核家族化』『個人(主義)化』『飽食停滞型』『草食系無機質化』『学習引篭もり鎖国型』『探求無関心』『内向オタク型』となる。

 留学の機会がありながらも、国外に出たがらない若年層現象が始まって以来、近年、日本学科・日本語学科を廃止する欧米の大学が出現している。代りに、アラビヤ(語)学科、中国(語)科開設が、増えている。これは経済の衰退現象にも影響を受けてるようにも、思われるが、しかしそうというばかりの原因ではない。これはJ孤島国内内側からの、発生現象なのだからより深刻な問題である。

 何故こんな現象が起きてしまったのか?

 最近『縮む日本』という言葉が使われるが、日本への関心はバーチャルなアニメとゲームの分野に限り当分は安泰そうに見えるが、縮んで来ているのが、憂いのもとである。

 四方海洋J孤島国内にいると、海外のインシデント、カジュアリテイ、推移変遷が、逆に見えないこともある。J孤島国の経済・政治・外交そして、文化交流において、根幹的に、最も重要な役割を担う海外の日本(語)学科の廃止問題のように、時間が経って後れてから、見えてくる不都合な結果の場合もあるが、NATO軍兵士の戦死者たちが、毎週、棺の中に収められて母国故郷へ無言の帰還を果たす現実の状況のように、後れても見えて来ないJ孤島国のような事もある。四方海のJ孤島国の民には、無縁の遠い、まるで他の惑星の出来事というようなもので、想像すら浮かんで来ない。しかし、それは実は孤島国Jにも、広角度視野においては、密接に関係あることであることである。いつか来る終戦、そこに至るまでのプロセスにおいて、これも歴史の中にある。

 しかし、J孤島国民が、知らない現実の歴史的な出来事があること、それは日本の教育方法にも問題があり、マスコミの報道姿勢にもあるし、政府と政治の問題でもある。

 J孤島国民は、第二次大戦集結以後、『戦争の歴史に触れることへの後ろめたさのコンプレックスを必要以上にカバーラップ(臭い物に蓋)することで、最小限に触れて通過させようと』した。

 しかし国境陸続大陸国ドイツは、四海孤島国Jとは対照的に異なる手法で、国が東西に分断されていながらも、いち早く、自ら全てをさらけ出して、復興に邁進した。そしてベルリンの壁の崩壊後東西統一化を果たし、もとのドイツに戻った。そしてイラク戦争の時は、参戦を拒否したが、アフガンにはNATO軍として派兵している。

『テロとの戦争』と名づけられた新しい『戦争形態』のように思うが、戦争は戦争である。『わざわざよその国へ、出かけて行って、治安警察軍の役目を買って出て、何故尊い命を失わせてまで、戦争をせねばなないのか?』という声もあることも事実だ。

 共和党ジョージ・ブッシュ時代からはじまった米国のアフガン派兵を、政権が民主党バラク・オバマに変わったからといって、即日そのその派兵をやめるわけにはゆかない。

 同じ事は英国でもそうだ。労働党トニーブレイヤー時代に始まった、英国兵派兵を、共和党カメロンに変わったから、今日から撤兵するとはいえないのが 国際信義である。

 典型的な国境陸続大陸国アフガニスタンは、歴史的に因縁深い国である。

 大英帝国時代、永らくインドパキスタンと並び、英国の植民地であった。しかしインドは紀元前からヒンズーバラモン教徒国(J孤島国内だけは、一時紀元前アショーカ王時代に仏教に帰依したことで、インドは仏教国だといまだに誤解したままで来ているのだが、実際は終始ヒンズー教がインドの本来の宗教である)パキスタン・アフガンはイスラム教国であるため、特にインド・パキスタン間の諍いのもとは、ヒンズー教とイスラム教の宗教の相異から、民族の対立に結びつけられる。現在タリバンはパキスタンとアフガン国境の山岳地帯のパキスタン側に拠点をおいてゲリラ活動をしてるといい、オバマ大統領は就任後、更に3万2千人余りの米軍兵士増員派兵を行なった。それによりNATO軍のスポークスマンの説明ではあるが、NATO軍特に米英軍兵士の安全性には前年に比べて改善が見られ他と言う。しかし2010年6月の戦死者数は、今までの月間記録の最高を100名近くをマークしてる。

 インド・パキススタンの国境にあるカシミール地区(イスラム教徒地域)領土問題を巡りしばしば抗争がおきていて、これが両国の核兵器保有の源となって今日に至っている。

 北朝鮮に核製造設備の装置を送り込んだのは、パキスタンの原爆製造の立役者であり、一方他国に原爆製造装置に必要な機械装置を世界中から掻き集めて送り込む、武器商人でもあるカーン博士であった。カーン博士はかつてリビヤのカダフィ、そしてイランにも、売込みを図っていたという。その中の遠心分離機装置には、メイドインジャパンの物も含まれている。

 帝政ロシヤ時代、ロシヤの南下政策のアジヤ侵略に対する共同防衛の立場から、清・韓両国の領土保全のため、1902年(明治35年)日英同盟条約を結んだ。そして1904年(明治37年)に満州(現中国東北部)の支配権をめぐって、日露戦争が起こった。

 この時日本政府は資金不足をカバーするのに戦争国債を4回発行したのを、すべて引受けたのが、英国ロスチャイルド家当主である。その国債の引受先を求めて米英を駆け回ってたのが、まだ若き高橋是清であった。なぜロスチャイルド家が、この日本明治政府の戦争国債を引受けたかについては、当時の歴史的背景を知っておく必要がある。

 1917年3月革命によりロシヤ最後のロマノフ王朝が倒され、皇帝家族は王女一人を除きレーニン率いるボルシェビキにより全員射殺され、王朝は消滅した。

 ロマノフ王朝の最後の皇帝の皇后は、娶ぐ前は英国王家の皇女であった。革命を蜂起したロシヤ国民の中核は、おもに労働者と兵士であった。11月7日武装蜂起したレーニン派はケレンスキー臨時政権を屈服させ、ソビエト政権を確立し、世界最初の社会主義政権国家が実現した。この時レーニンのプロレタリヤ革命の理論と実践を体系づけたのが、ドイツの哲学的思想家経済学者のカールマルクスの『資本論』に基ずくレーニンを通して発展させた所謂、『科学的社会主義』『マルキシズム』であり、あわせてその後『マルクス・レーニン主義』と呼ばれたものである。

 マルクスは1818年生まれで、1883年に没しているから、ロシヤ革命が起きた時には、もうマルクスはこの世にはいなかった。資本主義を動かしてるものは物質的な利害であるとして、プロレタリアートによる変革を説く社会主義思想(共産主義)は、十九世紀の中ごろ、マルクスとエンゲルスという二人のユダヤ人社会主義思想家により唱え始められた。しかし国境陸続大陸では、アーリアンインドゲルマン言語国家では、もうとうにマルクスエンゲルスの理論は崩壊したと言う定説が一般化していた。

 しかし孤島国Jには、マルキシストのゾンビがいまだにいるが、それは四方海洋で国境陸続大陸と隔絶してるため、情報が後れるか、鎖国時代のように隔離操作がしやすいからである。それはソ連の崩壊から帝政ではないが従来のロシヤに戻ったこと、ベルリンの壁が崩壊し、ドイツが統一されたこと、中国yが改革開放にむかった事で、共産主義は名前だけ残ったがは経済体制は、社会主義的資本主義化したことで、実質的に差はなくなったに等しい。

 マルクスは世界産業革命の発祥地の英国マンチェスターの工場地帯に移住し、綿羊毛繊維工業や蒸気機関(機関車、蒸気船)による資本家階級と、労働者階級の実態に注目し、そこで帝国資本主義のメカニズムを観察し、『資本論』の原稿を書き始め、ロンドンで完成した。

 私はマルクスの住んでいたというロンドンの下宿の屋根裏部屋の建物をしばしば訪れた。またロンドンのマルクスの墓を訪れたこともある。ある時マルクスはその下宿の女中さんを孕ませた事があると聞いた。レーニンが革命を起こス前の、帝政ロシヤ時代、ロシヤではユダヤ人が差別され虐げられていた。ロスチャルド家が『帝政ロシヤと戦う所ならどんな小国でも、金を出す』と言っていたという逸話もあった。

 私が1948年に現代イスラエル国を建国した、英国ロスチャイルド家の第五代当主エドムンド男爵の知遇を得たのは、エリザベス二世女王に近い、英国の11世紀以来の歴史的高等貴族モンタギュー公家当主から、たまたま紹介を受ける機会があったからである。

 モンタギュー家は11世紀イタリヤから移民して来たカトリック系の大貴族であった。中世は英国の副王という家柄である。ただ16世紀に、スペイン王家から娶いだ女王を離婚する問題などで、その許可願いを認めないローマ法皇と仲違いして、ドイツのマーチン・ルーテルと連絡取りながら、プロテスタント宗教革命を起こした英国王ヘンリー八世と揉めて領地没収のうえ、ロンドン塔に幽閉されていたが、巨額の大金を払って没収された領地を買い戻して釈放された歴史がある。そして先祖はかの劇作家シェークスピヤーを世に出した庇護者の家柄でもある。古城にはシェークスピヤーの肖像画もかかっている。

 オーストリヤウィーンから『世界産業革命の発祥地』であり、当時『世界の工場』と言われた英国マンチェスターへ移住して来た、英国ロスチャイルド当主に領地の一部を分譲してパレスを建てさせたのが、モンタギュー公家である。だからモンタギュー公の古城とロスチャイルド家のパレスのある石楠花公園は隣り合っている。

 産業革命時代はマルクスもマンチェスターに住んでいた。そして社会主義思想を理論を体系づけて居た頃は、その革命は英国か欧州大陸国の工業国のり労働者の間で起きることを期待していたが、欧州大陸側では、期待外れとなっていたが、全くマルクスの眼中にはなかった農民農奴の国ロシヤで実現するとは、マルクスが生きてたら驚いたことであろう。

『イスラエル建国の父』と言われる英国ロスチャイルド第五代当主エドムンド男爵は2009年生涯閉じたが、戦後の日本復興国債も引受けたことや、日本国鉄の鉄道国債も引受けたことなどの貢献により、昭和天皇から勲一等菊花瑞宝章を授与されている。

 北 広次郎の親父の叔父が、日露戦争の大連二百三高地の要塞に弾丸尽きてサーベル一本掲げて、ロシヤ兵の投げた手榴弾を拾って投げ返しながら、駆け上がって行き、戦死したが、その等身大以上の高い顕彰碑が、長野オリンピックの白馬に近い木崎湖畔に建っているが、それに対してユダヤ人の実質王と言われるエドムンド当主から手書きの感謝状(署名付)を、パレスのランチに招かれて戴いたことがある。

 そのとき大きなアルバム式訪問者サイン帖に記載を勧められたが、日本の戦後の日銀総裁と皇室の方の記帳が目についた。

 アドルフ・ヒットラーの愛人エヴァとのピストル自殺で、第二次世界大戦のドイツが無条件降伏したのが1945年{昭和20年)四月である。

 孤島国Jが無条件降伏したのが同じ1945年8月15日である。

 ドイツからスイス軽油でアメリカへ亡命したアインシュタイン博士、そして原爆開発計画責任者として完成させたのはおなじく亡命者のオッペンハイマー博士であった。双方とも典型的ユダヤ人物理科学者であった。ふたりとも、プリンストン大学の、六畳くらいの小さい研究室にいて黒板と学生の粗末なイスだけがあった。

 北がそこを訪問した時に、北の高校同級生中田君が、元のアインシュタイン博士の研究室を使い日本文学を教えていた。志賀直哉の『城崎にて』の書き出しの文章が黒板にチョークで書かれていた。

 最初原爆はドイツに落とすべく開発を急いでいたが、四月にはまだ未完成であった。ドイツ側も原爆開発計画に着手していたが、米国にくらべては後れていた。米国がネバダ実験に成功したのは、広島長崎に落下する寸前であった。この実験に気がついたソ連のスターリンは、慌わてて欧州駐留ソ連兵をシベリヤ経由鉄道で、満州や樺太に移動を開始し始めた。既に鉄のカーテンの冷戦時代はここからはじまっていた。

 戦後冷戦時代、ソ連軍がアフガンに侵攻したが、これも地元山岳地帯にこもったレジスタンスゲリラの大抵抗に出会い、結局失敗に終わり撤退した。

 米国は確かレーガン大統領時代であったと思う。そしてモスクワオリンピックを米英日などは、ボイコットした。このモスクワオリンピックには、国としては不参加でも個人としての参加はあった。英国のオリンピック委員会名誉総裁は、エリザベス二世女王の息女アン王女で、

乗馬選手でもあった。アン王女は個人の資格でモスクワオリンピックに参加した。

 当時のアフガンの反政府反組織は、ソ蓮に徹底抗戦した。アフガンはケシ栽培地としても名が知られている。厭戦気分になったソ連兵は麻薬に蝕まれてさすがのソ連も手を焼いて撤退した。当時アフガン政府は親ソ連派政権であったので、ソ連に介入を求めた。今回米英NATO軍は、ソ連時代のアフガン侵攻の二の舞とはならぬよう軍隊の綱紀には特に気を付けているという。

 しかしニューヨークの世界貿易センターツインタワーへの航空機乗っ取り追突爆破事件を引き起こした、テロゲリラ集団の『9.11事件』の司令塔オサマ・ビン・ラーディンの率いた拠点が、このアフガンパキスタンの山岳地帯にあると言うことで、この転々と遷り替わるアジトへの米国空軍によるピンポイント爆撃を繰り返している。いま核保有国はIAEAの査察を受け入れる国と、敬遠ないし拒否をする国とに、分かれてもめている。

 IAEAの委員長に就任したのは、世界で唯一の原爆被爆国であるJ孤島国の代表である。いま最も恐れられてるのは、テロリストがなんらかの方法で、原爆を入手して使用するという事態が起きることであると言う。

 そんな情勢下にありながら、いま米英において、毎週アフガンからの物言わぬ帰還兵士の棺がアフガンから届き、それを空港から運ぶ霊柩車の列がゆるやかなスピードで、動いて行く。その沿道を埋め尽くす人々の列、列、列。遺族たちの姿、祖父母、両親、兄弟姉妹 ガールフレンド、、伯父伯母 叔父叔母従兄 子ども、幼児、学校時代の同級生、友人仲間。サッカー友達、担任だった教師、ガールフレンド、隣人たち、そしてその兵士が所属していた旅団の先輩同輩仲間の兵士達が哀悼の空砲を撃ち、星条旗やユニオンジャックの旗をかぶせた棺を担って埋葬する前に、その旗を折り目ただしくたたんで、遺族や未亡人に手渡す瞬間は、表現のしようがない。その他地元の多くの人々が花束を抱え後ろに控えている。

 これは日本人の意識の中には、出てこない光景である。誰しも内心は戦争を好んではいない。しかし今の現実は、この地球上に戦争・紛争は起きている。平和を、平和を、と口にするだけの人々は実に多い。しかし四海孤島国J内は、そういう現実を知らない。これをあえて私は『平和ボケ』と言わないし言えない。『ボケ』と言うのは、ぼけていない元のインプットデータがかつてはあった時があったということだ。しかし、この事に関してはもともと、孤島国Jには『データ』はインプットされていなかったから元々存在していない。

 孤島国Jでは、『ボケ』はお笑いの世界か、認知症の場合の用語でしかない。お笑いの世界でも、『爆笑問題』まで昇華させたのは、例外的なのだろうか。おうおうにして、駄洒落に流れがちな、お笑いの言葉の叩き合いではさみしい、さもしい、芸がない。欧米のみならず、胸に響く風刺のきいたジョーク、腹の底に感じるユーモアのかけらも、見えてこない、聞こえないのでは、余りにも空しい無毛地帯に入り込んだ状態である。

 最近は孤島国Jが、オリジナルな技術がありながら、国境陸続大陸国に出し抜かれるというケースが余りにも多いと言うのも、ネオ鎖国化していいる退化現象の現れである。孤島国Jのそれはオタク現象でもある。報道が溢れていると言う一方で、良く看るとモノトーンワンパターンであることに気がつかない。

 最近若者世代が、孤島内に引篭もり、海外に出ないという現象は、孤島国内には体験学習による海外の異質文化や生きた情報や有効有益なインテリジェンスの血の流入が止まるということで、J孤島は劣勢遺伝化国になると言うことである。