求めよ、さらば与えられん。イエスの魅力 聖書 第5回

法話ライブ at  東京道場  2014年8月30日

聖書 第5回 マタイ伝7章~

法話:遠藤喨及

書き起こし:純佑

動画URL:

https://www.youtube.com/watch?v=7N8ZCeQPUeg


 

マタイ伝第7章です。

 これも有名な言葉です。

 

人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである

 

「こいつはいい」とか「こいつは悪い」という裁くような目で人を見るということは自分自身をそういう目で見ること。

そもそもそういう基準はどこにあるかということですね。

 

今日は中伝クラスで受持と言って対象を自分の心の中に100%入れるというのがテーマでした。

相手を自分の心に100%入れた状態で自分が苦しく感じる、というのは裁くのとは違います。

 

相手の人にこういうことじゃないですか、と内省を促すというのは裁くとのは違います。

自分のこととして話しているので、絶対批判的な目というのは出てこないです。

人を対象化して非難するというのは当然自分に返ってくるものですね。

 

あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤りで量り与えられる。

 

宇宙は作用反作用ですので、人のことを品定めしたりとか見下したりする分、

当然自分に対しても、それは反作用として帰ってきます。

当たり前といえば当たり前の話です。

だいたい世の中というのはこうやってますよね。

臨床心理のテーマでも有りますけどね。

人を裁くというのは自分のものさしで計るというのを

自分のものさしを無くして見るということがないと共感は成立しません。

たとえば、誰かが自分のお父さんを殺したとします。

自分の中にその人を入れていれば、「自分の中にも同じような気持ちがあった」という風に思います。

これはある意味人類普遍のテーマですから。

お父さんを殺したなんて言うと殺人か!とか思うかもしれませんけど

父殺しというのは、人間が成長する上で必ず通って行くテーマなんです。

だから神話には必ず出てきます。

だいたい象徴的な父殺しを成立させて大人になるんですけど、

父殺しができないままになってしまうことが日本人はわりと多かったりします。

日本人の場合は母殺しがテーマなんでね。

母なるもの、いわゆる甘え合う関係性というのは母性の関係性です。

これがずっと続いたりするんです。

ヤクザの世界に入ったりすると、一見すごい男性的な父性の世界みたいだけど、

あの中で言うことを聞いていれば守られるという母性の世界なんです。

日本のヤクザは母性社会ですから西洋のマフィアと本質的に違います。

これから日本人は母性をどう克服するかがテーマになってきます。

河合隼雄さんの「母性社会 日本の病理」という本があります。

 

自分のものさしで計ってはいけないという話に戻しますと、

泥棒をしたとか子供が万引きをしたとかいうことにも必ず意味があるわけで、

共感するためには無意識の意味というものをある程度勉強する必要があるわけです。

 

ギリシア神話で人間はなぜ火をつけたか、というのは

神様から火を盗んで人間に火がもたらされた、そういうテーマなんです。

どうやって個人として独立するかと言うテーマです。

そのプロセスで万引きしたりする。

ただ悪いこととして否定すると、せっかくの成長の機会が否定されたりします。

かといって賞賛するわけでもないでしょう。

自分の中に入れて、向き合って共に苦しむことで共に成長するというのが

本当の人間同士のあり方なんですけどね。

自分のものさしに合わないことをどうやって入れていくか。

そういうことをイエス様は言っています。

絶対に自分のものさしで人を見るなと。

ただ、宗教をやっている人はなりがちです。

「わたしは立派なことをしています。それ以外はダメだ」とかね。

本当に気をつけなければならないですね。

 

その後に不思議な言葉が出てきます。

 

神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。

それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。

 

裁くな、というのとある意味対をなしています。

裁かないけれども、その人にとって最も適切なことを与えないと

逆に非常にネガティブになるわけです。いくらでもネガティブになりますから。

自分が素晴らしいと思っているものが、その人のレベルによっては必ずしも素晴らしいと限らないわけです。

 

求めよ、そうすれば、与えられるであろう*

捜せ、そうすれば、見いだすであろう。

門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。

あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。

 

あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。

とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

(*注:文語訳の「求めよ、さらば与えられん」が有名)

 

 

念仏とからんで、どうやったら願いが実現できるかというメソッドがやっと開けてきたのであとでシェアしたいと思います。

ただ単に「こうだったらいいな」じゃなくて、必ずそれが実現するという本当の願いがあれば、

必ずそれは得られます。

 

人間は幸せが怖い、というところがあります。それが問題なんです。

どこから来るかというと、女の子の場合は母の呪いから、男の子の場合は父の呪いから。

呪いというのはおどろおどろしい言葉ですが、心理学用語です。

 

自分が幸せになったらお母さんが不機嫌になると言うパターンがあります。

満たされていない母親は自分の8割だけの幸福だけを娘に求める。

意識的には幸せを願っていても、無意識に発するメッセージでセーブしてしまい、

気の金縛りみたいになってしまいます。

お父さんが精神的に十分成熟していないと自分の子供をライバル視するんです。

子供が小さな頃でも、奥さんが子供にエネルギーを向けるから無意識に嫉妬して意地悪したりします。

大人になってもずっとライバル関係が続いてしまう

日本人の男性が内なる母殺しで母性を乗り越えて成長していないとこうなってしまいます。

子供を押さえて奥さんの関心引こうとする。

 

そうすると子供は幸せになることを恐れるんです。

だからこそ、それを克服して必ず自分の願いを実現するんだと。

ここに書いてあるじゃないですか

天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

 だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。

 

人が願っていることを満たしてあげるのと、自分の願いを満たすのは無意識の中で全く同じなんですね。

してほしいと望むことは、他人にもそのとおりにせよ、というのはゴールデンルール、黄金率と言われています。

人の幸せを随喜するというのは人間として非常に大切な修行なんです。

100%自分の願いが実現するんだと、たとえ成りきれてなくても、成り切るということと随喜するということはイコールですから両面からやっていく必要がありますね。

とても大事なことです。

カルマを背負う必要はなく、カルマは乗り越えるためにあるのです。

 

イエスが目が見えない人を治す場面があります。

どうしてこの子は目が見えないのか、質問するんです。

先祖が悪かったからですか、罪を作ったからですか、と。

 

イエス様は何と答えたでしょうか。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業が現れるためである」(ヨハネによる福音書)

良い物が現れるためにこうなったんだと。

全然ネガティブなことを言わない、素晴らしいでしょう。

 

今、幸福が不安だという部分があって、そのためになりきれないとしても、

実現できることを自分にも人々にも証明するために随喜の修行をやるわけですから、今すぐにでも取りかかる必要がありますね。

せっかくそのためのものを与えられているのだから。

私はこうだからダメだ、ということではなく。

 

イエス様は色々厳しいことも言ってますけどね。

たとえば、

 

わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨(みむね)を行う者だけが、はいるのである。

 

主よ、神様、と言っていながら人のために何かすることがないとあまり意味がありません。

そうではなくて神様が人々に対して願っていることを神様に代わってすることに意味があります。

如来様の本願は一切衆生が幸福になって浄土を実現することでしょう。

如来様に代わって誰かがやらなかったら誰も出来ないですね。

如来様の現れがなければ何も行われないでしょう。

そのために人間が生まれてきたんでしょう。

物理学には人間原理というのが有ります。

どうも宇宙の成り立ちを見ていると人間を生むために

宇宙が創りだされたとしか思えない、と言う説があるんです。

弁栄上人が言っていることと全く同じです。

 

如来様の願い、御旨に叶うことをするのが一番大事なのであって、

如来様を表すのが目的です。

念仏の目的も宇宙大霊を自己を通して人に対して、

世界に対して、自分の人生に対して表現していく、

そのパイプとなることです。

 

あらゆる願いが叶っていく人生にする、

人に対して如来様の本願を表していく、

世界をそうして変えていく、

そのために念仏があるんです。

大霊に向かって主よ、主よという話ではなく、

人生、他者、世界に向かって自己をなくして大霊を表していく。

どうしたらできるかというと、如来様、佛法僧の三宝が切心を通して

100%完全に入れていれば大霊が自分の中に入ります。

自分の心に入ったものは実現するんですよ。

 

願いもそうですね。

願いを対象化して「そうだったらいいな」と人ごとにするのではなくて、

願いを完全に自分の中に入れる。

入れるということは100%信じるということです。

受持と信はイコールなんです

信じれば願いが叶うといいますけど、それは受持することなんです。

それは誓願なんです。必ず誓って願うでしょう。必ず誓って実践する。

誓願はかならず信を伴うんです。

絶対にどんなことがあっても、と思ったら自然に信を伴います。

 

大霊、佛法僧の三宝を100%受持する。

そういう人生だと、願いを入れられる土台ができます。

 

「自分には幸せになる資格はない」となりがちでしょう。

そんなの嘘だから騙されない方にした方がいいです。

 

「求めよさらば与えられん」と書いてあるでしょう、100%与えられます。

誓って願うんですね。

念仏でそういう心の土台を作っていくから、思いが実現する人生ができていく。

これが念仏の目的の一つです。

 

是非ともそうやって佛法僧の三宝を心に入れて願いを実現していく、

そういう存在になっていっていただければと思います。

 

イエスが山をお降りになると、おびただしい群衆がついてきた。

すると、そのとき、ひとりのらい病人がイエスのところにきて、ひれ伏して言った、

「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。

 

おびただしい群衆がやってきて、あちこち治してと言われます。

 

ダメだといいながら治していくんですね。

かと思うと凄いセリフもあります。

 

わたしについて来なさい。死んだ者の葬式は、死んだ者にまかせよ。

 

途中で弟子を作るところなんですけど、「今父が亡くなったので葬式をしてから…」と言われたら上のセリフを言いました。

そこまで言ってふっ切らせる。すごいですね。

 

道元禅師の話もそうでした。

ある弟子が「自分は中国にわたって修行したいけど、孤児だった自分を育ててくれた導師が『もう死ぬ前だから死に水を取ってから行ってくれ、一年待ってほしい』と言われたけど、どうしたらいいですか」と尋ねたら、

道元禅師は「行きなさい。もしあなたがいって悟りを開いたら

一切衆生にとってすばらしい功徳だけど、

行けるチャンスが有るときに行かないで、後で後悔するのなら

それはその人にとってカルマになってしまう。」

とおっしゃいました。

普通人情で考えたらやっぱり導師のために残ると思います。

 

そんなところを越えたものの見方をする

生まれてから死ぬまでの存在だと思っていないから

それが全部自分の心に受持されている。

誰に対してもそういったものの見方をしているんです。

ちょっとでも出会って、教えに触れた人に対しては心の中にずっと入っています。

なぜかというと、どこかの人生でまた出会って、そのときはもっと教えが深く浸透するかもしれない。

ほとんど永遠の先まで見て、人と接しているわけです。

 

それから、イエスはペテロの家にはいって行かれ、そのしゅうとめが熱病で、

床についているのをごらんになった。

そこで、その手にさわられると、熱が引いた。

 

夕暮になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れてきたので、イエスはみ言葉をもって霊どもを追い出し、病人をことごとくおいやしになった

 

これは、預言者イザヤによって「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」と言われた言葉が成就するためである。

 

聖書にはイエス様のやったことに対してこれはユダヤ教の旧約聖書のどの部分を表現したものか、というのが沢山出てきます。

僕はなんでこういうふうにいっぱい出てくるのか不思議でした。

「死んだあとの3日後に蘇る」とか全部旧約聖書に書かれていることを表現するように行動するんです。

考えようによっては、ユダヤ教の中からでてきたからユダヤ教の教理なんだろうな、みたいに思うんだけど、僕は逆じゃないかと思います。

 

イエスは13歳から30歳までの17年間にどこにいたか不明なんです。

チベットにいたとかエジプトのアレキサンドリアの仏教修行道場で仏教の修行をしていたとかカシミールにいたとか、いろんな説があります。

おそらく仏教の修行をして悟って戻ってきたんだけど、そのままじゃ理解されないから、

ユダヤ教の人たちに自分の教えを広めるために、旧約聖書通りにやって納得させるためにやったんじゃないかな、と思います。

 

イエスの言ってることは仏教ですからね。仏教の一派と考えたほうがスムースなんですね。

あまりにもユダヤ教とは違いすぎています。

だから殺されてしまうわけですが、それも旧約聖書に書いてある。

 

奇跡を起こす人が現れて十字架にかかって3日後に復活すると言う話は北アフリカの色々なところにある物語なんです。

それで、キリスト教はでっち上げという説もあります。

逆にそういった神話も一緒に実現したんじゃないかな。

 

ユダヤ教がそういう物語を寄せ集めて作ったものじゃないかな。

フロイトはユダヤ教は自然に発生したのではなく、モーゼが作ったという風にフロイトは言ってます。

フロイトはユダヤ人ですけど無神論者で、どうやってユダヤ教ができたかを分析しています。

また有名な話です。

船に乗っていた弟子たちが眠っちゃったら暴風雨が起きて、イエスが水の上をすたすた歩いてきたのでびっくりしました。

ペテロに「おいでなさい」とおっしゃいましたが、ペテロは恐らく二、三歩歩いたところでおぼれかけてしまいました。

イエスは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました。

歩いてると思った瞬間に不安になってしまうんですよ。

最後まで信じていたら歩けたんでしょうね。

 

イエスが風と海とをおしかりになると、大なぎになりました。

弟子たちは驚いて「このかたはどういう人なのだろう。風も海も従わせるとは」と言いました。

 

(注:水上を歩く話は14章、風と海を鎮める話は8章)

 

悪霊を豚の群れの中に入れたら、がけから落ちて死んでしまった。

豚はかわいそう。いい迷惑だと思うんですけど。

飼ってた人たちは逃げて街中がどんな人かと思って会いに来たと言う話です。

 

(注:このあと、「そして、イエスに会うと、この地方から去ってくださるようにと頼んだ。」と続きます)

 

寝ていた中風の人が連れて来られました。イエスは「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言いました。

するとパッと治っちゃいました。

ユダヤ教の律法を守っているからエライと思っている律法学者が「なんだこいつは」と心のなかで思ったら、イエスは見抜いて「心の中で悪いことを考えているだろう」と言いました。

 

マタイという人がいるんですね。税金を取る人。

税金をとるから罪人と言われているんです。

どういう意味かというと、そのころはローマに支配されていたでしょう。

 

だから、ローマ人の手先になってユダヤ人からお金を取り上げている人たちと見られて、悪いやつだとみんなに嫌われていました。

イエスはそれをせざるを得なかったという彼らの気持ちを理解して、

取税人の家に招かれて一緒に食べたり飲んだりしていました。

すると、弟子たちがなぜあなた方の先生は取税人や罪人と食事を共にするのかと聞かれました。

 

丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。

「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、学んできなさい。

わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである

 

義人とは立派な人のことです。

一番心に傷を負っている人とか罪に苦しんでいるとか、そういう人たちのために自分は来たのであって、自分を立派だと思っている人のために来たわけではない、ということ。

 

法然聖人と同じですよね。

どんな人達とも念仏を一緒にやるために、当時最下層と見られた人たちと過ごされて念仏を広まれています。

 

質問なんかあけすけにするんですね。

酒を飲んでもいいですかとか。

旦那といいことしたら念仏したらまずいですかとか。

この人なら何を聞いても大丈夫と言う安心感は凄いと思う

立派な取り澄ました人だと言えないですよね。

それが全部記録に残っているというのがまたいいでしょう。

 

答えがまたすごくいいんですね。

お酒は飲んでもいいんですか、に対して「それも世の習い」とか。

 

聖書を読んでいるとイエスの言葉や周りの人の思いとかすごいイキイキとしているんですね。

 

すごいいい話があるんです。

イエスが歩いていると群衆がついてくるんです。

 

するとそのとき、十二年間も長血(ながち)をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。

み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。

 

群衆が大勢いるのにイエスは気づくんです。

 

イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。

 

マルコの福音書ではその前にもう少し話があります。

触れた時にイエス「あ、誰かが触った」と言うんです。

弟子がこれだけ群衆がいるから誰か触るでしょうと言ったら

「私の中から力が出て行った」というんです。

それで探したら長血をわずらっている女の人がいた。

それくらい気のセンサーが敏感というか、みんなを思いやっているから感じるんですね。

 

それくらいイエスの魅力が満載の聖書ですけど、ただ単に賞賛するだけでなく、

イエスが自分を見本として生きなさいと生涯をかけたわけですから、

自分の心の中に入れて、どうやったら神の御心、如来様の心を現していくか、

それがテーマですね。

 

(完)