聖書 第14自分を傷つけた罪深い人のために祈るイエス

(マタイ伝第 27章

法話ライブ at 東京道場  2014年11月22日

法話:遠藤喨及 書き起こし:純佑

https://www.youtube.com/watch?v=pdLAvZW1Elo


 

前回は、イエスが捕まった時に弟子はみんな逃げた所で終わりました。

弟子が逃げてしまったのは何を象徴しているのでしょうか。

イエスは「十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」と言っています。

(マタイ伝10章)

 

自分の十字架を背負うということは、自分の使命を背負うということ、

それを捨てて皆逃げるわけですけど。

皆さんは自分の使命を背負っていますか、ということです。

もし背負っていたとしたら、サンガの場において何人かいた場合、その場に責任をもって

みんなが楽しくなるように振る舞わなかったとしたら使命を背負っているといは言えないですね。

もし自分のことばに責任をもたなかったら、それはとても使命を背負っているなどとは言えないわけで、それはイエスを捨てて逃げた弟子たちと同じことをしているのです。

イエスを弟子たちが捨てて逃げたというのは、このことの象徴なのです。

よく考えないといけないですね。

 

何度かこういうお話をしていますが、使命を背負うか、カルマを背負うかのどちらかなんですよ。

人は如来様からある一定の期間、人生を創造する力を与えられて死んでいきます。

自分が人生を与えられている状態のなかで、仏法僧の三宝を受持する、

つまり使命を持って創造するのでなければカルマを背負ってしまいます。

世間に生きるということは、カルマを背負って生きるということです。

今日のクラスは、世間に生きるのか、それとも世間を越えて如来様の世界に生きるのか

というテーマでした。

 

世間に生きるということは、自分の評判、つまり自分が人からどう思われるか、そういう中で生きていくことです。

世間に生きる限りにおいては、ポジティブには決してなれません。

何か自分がやりたいこと、実現したいことがあっても「どうせうまくいかないだろう」という声が聞こえてきます。

それは世間の声なんです。

そういう声が聞こえるから、引きづられてうまくいかない。

世間を卒業して初めて人生を創造できるのです。

人生を創造するということはカルマ、世間に引きづられないことだし、

まさに自分の与えられた力を発現するということです。

 

それは外のものには頼らないことです

自分の内なるもの、内なる如来様、自分の夢、自分がワクワクする、自分が楽しいこと

あるいは使命に頼る。

それで燃えるような気持ちになって、物事が実現していくわけですね

 

年齢を気にするというのも世間の声です。

人の声に自分の人生を決められるわけです。

こんなつまらないことないでしょう。自分の人生は自分で決めればいいじゃない。

 

これは反省してもしょうがないことです。

そうじゃなくて、人生を創造できたらどんなに面白くなるか、というところに入っていくべきだと思います。

 

修行するというと堅苦しいとか、欲望を捨ててとか、自分を律して、とか多くの誤解があります。

そんなことじゃなくて本当の世界というのは

全部ぶち壊れてむき出しのそのままの存在や魂が表れてくるということで、

まさに如来様に与えられた人生が表れてくるということです。

これは楽しいことです。

何ものにも左右されない、ということです。

一見、自分の使命を背負うというのは暗いことのようですけど、とんでもないことです。

 

物語に戻ります。

 

イエスが捕まって弟子が逃げたところからです。

当時のユダヤ王国はローマに支配されていて、ユダヤ人たちには自分たちの裁判権もありませんでした。

祭司長や長老たちがローマに直訴して、イエスを死刑にしてもらおうとしていました。

ユダヤ教では神を冒涜したというのは死刑ですから。

偶像崇拝もそうだったでしょう。

何とかイエスを捕まえて、裁判に不利になるように画策するわけです。

 

大祭司が立ち上がってイエスに言った、「何も答えないのか。これらの人々があなたに対して不利な証言を申し立てているが、どうなのか」。

しかし、イエスは黙っておられた。

 イエスに揚げ足を取ろうとして色々聞きましたが、イエスはなにも答えません。

 

そこで大祭司は言った、「あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ」。

イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。

力ある者は神様のことです。

すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った、「彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう。あなたがたは今このけがし言を聞いた。あなたがたの意見はどうか」。すると、彼らは答えて言った、「彼は死に当るものだ」。

それから、彼らはイエスの顔につばきをかけて、こぶしで打ち、またある人は手のひらでたたいて言った、 「キリストよ、言いあててみよ、打ったのはだれか」。

要はイエスをからかった、ということです。

 

 

ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。

するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、「あなたが何を言っているのか、わからない」。

仲間だというと捕まるのでそう言うんですね。

 

そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって、「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言った。

そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と誓って言った。

しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った、「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」。

彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。

ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。

 

ペテロはどんな気持ちだったのでしょうか。

泣いたということは後悔しているのでしょう、かと言って捕まるのも嫌だしというところでしょうか。

 

まさに我々が使命を背負うか背負うわないか、と言う時と同じです。

使命を背負うことを放棄した人はこういった道をやめてしまうのでしょうけど、

道を捨てた時の苦しみ、悲しみや後悔があると思います。

かと言って自分の使命を背負って生きることもできない。

 

明け方前のペテロの葛藤です。

ペテロは後で素晴らしい弟子、壮絶な人に転換します。

まさに自分の十字架を背負って、伝導に入ってローマで十字架にかかって殺されるのですが、

イエスと同じ十字架では無礼だから逆にしてくれ、と言うくらい全部引き受ける。

ペテロとパウロが二大弟子みたいな感じでリーダーになるんですね。

 

今度はユダが出てきます。

夜が明けると、祭司長たち、民の長老たち一同は、イエスを殺そうとして協議をこらした上、

イエスを縛って引き出し、総督ピラトに渡した。

 

ピラトはローマ人の裁判権を持っている総督です。

そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。

そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。

ユダはどんな気持だったのでしょうか。

そういう役割をもっていたのか。

土地を買えるくらいのお金をもらったのだから、逃げてもよかったのかもしれません。

お金が目的が裏切ったわけではなく、

あまりにもイエスを愛したのに、愛を受け入れられなかったという葛藤ですね。

普遍的な愛であれば、イエスと一緒に捕まったと思いますが。

個人的な愛が強かったんでしょうね。

たとえば、イエスに対して無礼な人がいたら、その人に対して怒りで応対するとかね。

高価な油を使った人に文句を言ったり。

あれは本当にそう思っているのではなくて、多分嫉妬から来ているんだと思います。

イエスと娘が親しくなるのを嫉妬してね。

 

ある意味悲しい、そういう心境だったと思います。

太宰治はその辺をよく読み込んだと思います。

 

さて、イエスは総督の前に立たれた。

すると総督はイエスに尋ねて言った、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」と言われた。

しかし、祭司長、長老たちが訴えている間、イエスはひと言もお答えにならなかった。

 

この頃は祭りの時ですから恩赦がありました。

昔は日本でも天皇の行事の時に恩赦があったようですが。

ときに、バラバという評判の囚人がいた。

それで、彼らが集まったとき、ピラトは言った、「おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか。バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか」。

 

総督がどちらを恩赦するのか、と群衆に聞きました。

バラバは強盗と書いてありますが、実は反ローマの暴動を起こした政治犯なんです。

ある意味ヒーローでした。ここにも評判が高い、と書いてありますね。

 

イエスは政治的なことは一切しなかった。

一般のユダヤ人はローマの支配が終わり、ユダヤ人が解放されて神の国が来るということを期待していました。

イエスにも期待していたんですが、それには答えないんです

神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は実にあなたがたのただ中にあるのだ」。

(ルカによる福音書 第17章)

 

内なる浄土というか、そういうことを言って残すんですね。

 

彼らは「バラバの方を」と言った。

群衆はどうしてもバラバの方を許せと言うんです。

 

しかし、ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。

すると彼らはいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。

 イエスをどう調べても死に値することはしていないじゃないか、と言っても聞かない。

 

ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。

すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。

この言葉を後世のキリスト教は利用するんです。

こうやってユダヤ人たちはイエスを殺したから、その罪はユダヤ人の子孫にあるんだ、と。

 

ポグロムと言ってユダヤ人虐殺は昔あるんです。

ゲットーに入れられたりとか。

ナチに始まったことではありません。

 

未だにプロテスタントの祈りに入っています。

ルターという人はすごくエキセントリックな人です。

ある意味では親鸞と共通するような深い言葉を言っているかと思うと

男尊女卑だったりとか、農民やユダヤ人の弾圧や平気でやったという面もあります。

プロテスタントの人はどうあれを受け入れているのか、と思います。

魔女裁判もでしょう。

ルターも2人から4人くらいは火刑、つまり火炙りにしていますからね。

考えられないでしょう。

 

一応裁判でイエスの死刑が決まりました。

夜が明けておそらく2日目だと思いますが、詳しくは書いてありません。

こうしてイエスを嘲弄したあげく、外套をはぎ取って元の上着を着せ、それから十字架につけるために引き出した。

ローマ軍の兵士たちが叩いたり、嘲弄するわけです。色々いじめる。

記述があっさりしているのは、弟子は逃げてしまっていて誰も見ていなかったためです。

女性はちゃんと付き添っていくんです。

いずれにしても聖書が書かれ始めたのはキリストの死の百年後です。

 

裁判が終わって一睡もしていないイエスが朝、刑場に引き出されていきます。

 

そして、ゴルゴタ、すなわち、されこうべの場、という所にきたとき、彼らはにがみをまぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはそれをなめただけで、飲もうとされなかった。

 

苦味を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたのは麻酔のためです。

釘を打たれるので麻痺させる。

別の福音書にムチを打たれるという描写があると思います。

体力を失わせてなるべく早く死ねるようにということです。

こんな配慮をするならもっとあっさり死ねるようにすればいいと思いますが。

 

これほど酷い死刑の方法は無いでしょうね。

中国とかにはありますけど。

 

そもそも僕は死刑そのものに絶対反対ですけど。

国が殺人を犯罪としているのに、なんで戦争と死刑で殺人をするのか。

矛盾しているじゃないか、みたいなね。

 

イエスはそれすら拒否した。

全ての苦しみを背負っていくというイエスの決意が象徴されています。

 

彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け、そこにすわってイエスの番をしていた。

 弟子たちは見てないから恐らく想像で書いていると思います。

 

イエスと他の二人が十字架にかかっていました。

 

そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。

そんな状態にある人によくそんなことを言えるな、人間はそこまで残酷になれるのか、というくらいの話ですね。

 

「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。

いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。

彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。

自分は神の子だと言っていたのだから」。

一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった。

別の福音書ではもう一方の十字架にかかっている人が「もし思し召しがあれば、私も一緒に連れて行ってください」と言って、「今日の午後には私と一緒に天国にいるだろう」と答えています。

 

食い違いがあるのは見たわけではなくて伝聞だからでしょうね。

 

刑場からゴルゴダまでは長いんです。

ゴルゴダの丘、と言いますけど丘ではありませんでした。

エルサレムに行った時に行ったのですが広場になっていました。

 

十字架の重さは40kgかもっとあったかもしれない。

食事も与えられず、一日か二日か寝ていない状態で、ムチを打たれながら運んでいきます。

女性が嘆きながらついていきます。

途中で倒れて起き上がれなくなってしまいました。

 

彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に負わせた。

そこでシモンという人が言われて仕方なく十字架を背負いました。

そこからまたのろのろ行き始めました。

 

女性が見かねてイエスに水を飲ませました。

嘆きの道という水を飲ませたところが残っています。

朝の9時に出て、いろんな説があるのでわかりませんが、昼の12時頃十字架で釘を打たれました。

最後に私は喉が渇いたという言葉を言います。

大量に出血すると、すごく喉が渇くんです。

戦場でも亡くなる方に最後に水を飲ませるでしょう。

お母さんのマリアも別の女性とそばにいたらしいです。

イエスが十字架の方から「これがあなたの母です」、と弟子に言って

お母さんに「これがあなたの子供です」と言います。

自分の弟子は気持を引き継いでいるから自分の子供だと思ってくれ、ということです。

女性はマリアを引き取って一緒に暮らしました。

ローマ兵がイエスを殺そうと十字架にかけているときに、

父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしてるのか知らないのです」と神様に祈ります。

(ルカによる福音書)

どれほど酷い、罪深いことをしているか分かっていないからと。

象徴として捉えるなら、自分たちにネガティブなことをする人に対して、本当はそうあるべきです。

自分たちに返ってくるかもしれないことを分かっていたら、ネガティブなことは出来ないわけですね。

それをしてしまうのは分かっていないから、と人のために祈るんですね。

 

喉が渇いたので 酸いぶどう酒を誰かが飲まそうとするんですね。

だけど、それを飲む前に最後にイエスが一言叫びます。

 

そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。そ

れは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 イエスは神に見捨てられて、絶望して死んだのだと誤解する人がいますが

別の福音書には「私は一切を神に委ねます」とあります。

「どうしてお見捨てになったのですか」、と「一切を神を委ねます」というのは長い詩篇の

最初の行と最後の行なのです。

エリ、エリ、レマ、サバクタニは旧約聖書の詩篇にある言葉)

マタイの福音書には最初の行があり、ほかの福音書には最後の行が載っています。

今日はイエスが亡くなったところまでです。

 

(完)