菩薩様のような心とは? 無量寿経2


法話ライブ at  京都道場  2016年9月3日

法話:遠藤喨及

書き起こし:純佑

動画URL:

https://www.youtube.com/watch?v=3Y3MvzyyKnQ


1)トップクラスの菩薩さまは、どういう人生を送ってきたか?

まあ、簡単に言えば、無量寿経って、お釈迦さまが法蔵菩薩について語ったお経なんですよね。

で、お経の物語は、お釈迦がこのお経について説法された場所はどこか? 誰が何人ぐらい聞いていたか? とか最初に出て来るんです。それで下の文言。

一時四仏五王舎城耆闍崛山の中に住したまいき。六大比丘衆、万二千人と倶なりき

場所は王舎城。今のラージギルというところです。

ブッダガヤからバスで40分くらいです。

温泉があって汚いんだけど、そういえばちょっと入った記憶があるなあ。

ビハール州はインドの中でも特に暑くて、直射で50℃くらいで体温より高くで大変でしたね。

そこにある王舎城に、12000人いた、と書いてありますね。

あと、どんな人たちがいたか? というのが出てきますが、十大弟子があとに記述されてくるくらい、徳の高い人ばっかりだった、と。

その法話に出席していたトップクラスの菩薩さまがどういう人生を送ってきたかが、書いてあります。

彼らは、まず天上界の兜率天(とそつてん)にいた。

お母さんのお腹を通って王子様として生まれた。

数学も弓もできた。

そして、あるとき頭を剃って出家した。

菩提樹下に座って悟りを開いた、とあります

要するに、お釈迦さまのストーリーと同じなんですね。

それで、説法を聴聞していた菩薩方は、皆どんな風だったか?

2)人々に光をもたらすために修行する

彼らはみな以下のようだった、と。

「五濁刹に現じて群生に随順し、塵垢あること示して金流に沐浴す」、と。

この「濁」っていうのは邪気のことです。

五つの邪気とは、(衆生濁、劫濁、見濁、煩悩濁、命濁)のこと。

「衆生濁」。

これは、“たとえ一人になっても、われ一人この道を歩み続ける”という矜持がない人が集まると、相手を批判し合うような、邪気が出るからですね。

「劫濁」は時代の邪気です。

これは時間の観念を持つこと自体が邪気を出すからです。

過去現在未来は、本当は意識の中にしか存在しないので、ね。

その他「見濁」は、認識の邪気。

例えば、”存在するものが物質だ”と認識すると、もうそれだけで邪気が出る。

タオ指圧の入門クラスに入って、最初にやる氣のワークがこれですね。

「煩悩濁」は3種類。

執着心、怒り、智慧がないこと。

いずれも、邪気が出る。

「命濁」の命とは、生活のことです。

生活臭というのは、邪気だってわかりますよね。

人間界に住むということは、以上のような邪気の中にまみれて過ごさざるを得ない、ということです。

そんな人間界に生まれて、他の人達と同じように邪気にまみれて生きている中で、

法に出会う。そして、人々に光をもたらすために修行した。

そんな人たちが集まって無量寿経の法を聞いているんです。

これは、無量寿経で説かれる内容が、それくらい大事な教えなんだ、ということなんですね。

3)因習や社会を楯にしてエラそうにするのは?

経典の始まりのニュアンスって、それぞれ色々違いますね。

例えば「維摩経」には、”釈迦様が法を説くと、それぞれの生き物が、それぞれの境地に従って理解する”という言葉が出てきます。

佛以一音演説法 衆生隋類各得解

キンナラ(緊那羅)とか河童とか麒麟とかの妖怪も聞いていて喜んだりしている。

そんな霊的存在もまた、それぞれの境地で理解するのです。

これに対して無量寿経は、ちょっとスピリチュアル・エリートっぽいですね。

例えば、最後の方なんかには、「驕慢と弊と懈怠があるものは、この法を信じるにあたわず」と出てきます。

“傲慢であることと、因習にこだわること、怠けること”、この3つは同じなんですね。

伝統がどうのとか、今までどうだったとか、習慣だとかで、たとえ意味のないことでも、こだわってエラそーに説教たれる人っているでしょう?

それって、自分の精神を向上させない怠け者だからなんです。

それで、因習や社会を楯にしてエラそうにするわけですよ。

そんなものを抱えていたら、この無量寿経で説く革命的な教えは信じることなんて、とてもできないぞ、と。

今だって、世間で言っていること=科学的だと信じている、世間信仰の信者が大多数の世の中です。無量寿経の内容をなかなか信じることができないのも、無理ないのかも知れませんけど。

それにしても表現が凄い。

無量寿経の教えは、難しいものの中でも難しい。これに過ぎるのは無いくらい信じるのが難しい(「難中之難 無過斯」)、とありますから。

なにせ、僧侶一番エラい主義、修行唯一主義だった上座仏教の人たちに、「どんな人でも救われる。修行も学問もなくて無くていい。」と説く教えですからね。

そりゃ、信じるのが難しいでしょうよ。

4)浄土という喜びと素晴らしさが存在の本質

無量寿経の聴聞者として出てくるのはどんな人達でしょうか?

悟りに至るための法門を、人々に開く人たち。

人々から食べ物など布施してもらい、

それによって、かえって人々が功徳を得るような、そんな徳の高い人たちです。

もろもろの豊膳を獲、功徳を貯えて福田を示す。

福田、というのは幸福が生まれてくる存在であることを示しているのです。

五条袈裟という僧侶の服を、福田衣(ふくでんね)とも言います。

法を宣べんと欲して欣笑を現ず。

法について説きたいと思って、笑いを現す。

法を説くのに、しかめっ面じゃなくて、まず笑うというところがいいでしょう。

お釈迦様でもね、最初に微笑む、というのがよくでてきますよ。

暗い顔だったら、誰も法話を聞きたいとは思わないでしょうしね。

笑顔を見た人には、快感物質のエンドルフィンが出ます。

だから、人が笑っているのを見ると、自分もハッピーになるんです。

人に笑顔を見せるのって、本当に大事なことですね、

もろもろの法薬をもって三苦を救療(くりょう)す

われわれは、人間という病気にかかっているから、その病を治す、というのが佛教の考え方なんです。

そもそも存在とは、「一切皆苦」ですからね。

これは、浄土という喜びと素晴らしさが存在の本質だからなんです。

それに比べたら、人間界で存在していることは苦以外何ものでもないでしょう。

「一切苦って仏教は暗いな」とか「もっと楽しいことあるやん」みたいに思ってしまうかもしれません。極楽が存在の本質ということを前提としてでないと、この一切皆苦は理解できないですから。

地獄なんて苦しみしかないし、餓鬼道は飢え乾きしかない。

それに比べたら、人間界にはいろいろと楽しみもありますけどね。

人間の一番の問題は何でしょうか?

それは、本質の喜び、幸せがあるということを予感できない、信じられないということです。

だから、未来をワクワクを楽しみにしている人は本当に少ない、と思います。

皆、子供のうちはもう少しワクワクしていたのではないかと思いますけどね。

もちろん、環境にもよると思いますよ。

でも、どんなひどい環境にあっても、「人生こんなはずではない、絶対に幸せがあるはずだ」と、思える人もいる。

たいしてひどい環境ではなくても、そう思えない人がいます。

アウシュビッツにいた人の中でも、そう思える人はいました。

そして自分の未来の幸せを信じて、助かったりとかがあります。

人生もっと楽しくできるんだ。

必ず明るい未来はあるんだ、ということを信じられるかどうか、、、。

もし信じられたら、考え方とか行動とかはもっと軽やかになります。

また、楽しそうにもなる、と思いますね。

5)相手を幸せに、法に導くために、もっとも良い役割をその場で瞬間的に取る

「諸仏の国に遊びて普く道教を現ず」

この無量寿経を聞いている人たちは徳の高い人たち。

それで、内界の浄土に通じています。

だから、心はちょいちょい浄土に往って、遊んで来ては、人間界で道を説くんですね。

弁栄上人にも、「この身はここにあれども、心は浄土に住み遊ぶ」という言葉があります。

     

未だ曾て慢恣せず、衆生を愍傷す。

それでも、“ちょっとオレ偉いぜ”みたいに、傲慢にならない。

生きとし生ける人々の痛み、苦しみをあたかも自分の傷のように思う。

心が痛いので、それを愍傷する、と表現しています。

     

無量の諸仏、みな共に護念したまう。

そんな菩薩さまだから、たくさんの諸仏の方々が、護って下さる。

私たちも、諸仏に好かれるような生き方。

こいつなら護ってやりたい、と思われるような生き方をすべきで、

それらは、どんなものかを、もっと考えると良いですね。

         

甚深の禅慧をもって衆人を開導す

甚だ深い三昧、知慧をもって、人々の心を導いていて、、、

その身を化現すること猶し電光のごとし、善く無畏の網を学び、暁かに幻化の法を了る。

「網」というのは因縁ですね。

”おそれなき心を学んで、心が一切の因縁の中に入って、稲妻のようにその身を現す”、と。

そして一流の役者みたいに、一瞬でいろんな役を演じて、「一切の因縁に幸福を与える、光を与える」と言うのです。

これは、どういう意味か?

母親のように接する必要があれば、パッと母親的になり、父親ように接する必要があれば、父のように接する。

そして子どものようにも、青年のようにも、どんな役にも一瞬でなれる、ということです。幻化ですからね。

相手を幸せに、法に導くために、もっとも良い役割をその場で瞬間的に取るんです。

頑固に自分の役割を決めておく、なんていう、つまらないことはしないんですね。

魔網を壊裂しもろもろの纏縛を解く。

網というのは先ほど言ったように因縁です。

人と人が通じて素晴らしい物をもたらすつながりにもなる。

逆に自分を縛るものにもなりえます。

そういった両面があるのが因縁です。

そして縛る方の因縁を「魔の網」と言っています。

つまり、カルマの因縁です。

これを壊裂、つまり破壊します。

こんなものは幻だ、と悟ることによって。

諸根・智慧、広普寂定にして深く菩薩の法蔵に入る。

あくまでも心は空性で、あたかも自分が何もやっていないような気持。

でありながら、念仏三昧に入り、因縁一切の人々を救済していくのです。

6)自分は個別の存在だと思いますが、実際には宇宙全部の表れなのです

仏の華厳三昧を得、一切の経典を宣暢し演説す。

念仏三昧によって一切の因縁を救済していく。

その中で、一切の因縁が重ねて尽きることなく無限に含み合っている、と悟ること。

それが佛の華厳三昧です。

華厳というのはお浄土の花のことです。

「お浄土の花びらは、お互い全部が映り合っている」という例えが、華厳経に書いてあります。

これは、宇宙の因縁一切全部が、お互いに投影し合っていることの象徴なんです。

自分というのは網の表れであり、一切の表れです。

自分は個別の存在だと思いますが、実際には宇宙全部の表れなんです。

「自分の中に宇宙がある」というのはそういう意味です。

だから自分は、宇宙一切の全部を持っているのです。

一切は三千世界。

地獄から浄土までの全部です。

いいところだけ欲しいと思うかもしれませんが、それはムリ(笑)

だから、「あいつ、イヤな奴・・」と思った時は、それは自分の中にあるものが映っているのです。

人生は、それを自分の中でどう乗り越えていくか、という修行でもありますしね。

逆に、自分の中にあるものが薄いと、相手の中にあるものは見えないのです。

お人好しが人に騙されるのは、悪意ある人や騙そうとする人の心情が理解できないからです。

逆に、相手のそういう面は、それが自分の中にあると、簡単に分かったりするのですがね。

自分が相手に善意で言っていても、その相手の中に善意がなくて、「こいつオレを利用しようと思っているな。」と、善意を信じてもらえないことがあります。

人は皆、自分の内面を投影で他者を見るからです。

もっとも自分の中に一切全部はあります。

それが、どれくらい内奥に引っ込んでいるか、あるいは表に近いところにあるか、という違いなんです。

華厳三昧というのは、一切が一切を映しているということです。

一切の相互投影が存在の本質だということです。

だから果てがないし、そして個別の存在がありません。

これを重重無尽といいます。

どこまでも無限に尽きることなく重り、無限に鏡が向かい合っているのです。

念仏による法界回向では、因縁の人々のさらに因縁の中に入っていく。

そして無限の一切の因縁の連鎖に対して回向する、というものです。

宇宙一切に対して救済回向するのです。

念仏三昧はこの三昧の状態で行われます。

一切の万物において随意自在なり。

一切全てが、自分の想いのままになっていく。

人生が自由自在になっていく、ということです。

8)人々がお浄土に向かう道を歩むことができるように

もろもろの庶類のために不請の友と作り、群生を荷負して己が重担となす。

ここがまた泣かせますね、、、。

「あんた助けに来てくれ」と言われなくても、人々のために自分から寄り添っていく。

「友達がいない」という人は、まず自分が誰かの役に立つ「不請の友」になったら、と思いますね。

それが決して、ありがた迷惑な押し付けではなく、相手の領分を侵さないで。

相手の自由性を約束した状態で、相手に寄り添い、相手の必要を満たしていく。

そして、人々を自分の荷のように背負う、、、。

この菩薩の精神は、イエス様の物語を彷彿とさせますね。

大悲を興し、衆生を愍れみ、慈弁を演べ、法眼を授け、三趣を杜ぎ、善門を開き、不請の法をもってもろもろの黎庶に施すこと、純孝の子の父母を愛敬するがごとし。

切ないほど、泣きたくなるほどの他者の悲しみへの共感の心、、、「大悲」。

人々に慈しみのことば、慰めのことば、笑顔をもたらす言葉を述べること。

そうして、人が修行によってお浄土が観えるようになる「法眼」が開くべく、法を与える。

同時に、人が地獄や餓鬼道や動物になってしまわないように、エゴの道に行かないように、教え諭す。

菩薩の基本は、浄土の門に向かうことができるように、「こっちの水は甘いよ〜」と誘うことです。

だからこそ、人に「教えてよ」と言われなくても、いろんな方法で、人々がお浄土に向かう道を歩むことができるように、一生懸命、法に献身するのです。

如来様だったら相手に対してどうするだろうか、と想像して、

相手にとって一番必要なことをしていく。

如来様というのは、こういう存在なのかな?

と、相手が無意識にでも思えば、それが相手に「法を施す」ということなんですね。

その時の自分が相手に接する態度は、「純粋で親孝行な子どもが、両親を愛し敬うように」、ということなんです。だから、決して上から目線ではない。逆に、下から目線なんですよ。

この辺りは、偉そうな顔をしている坊さんがいたら、ぜひ見せて差し上げたいですね(笑)。

もろもろの衆生において視ること自己のごとくす。

一切の善本、みな彼岸に度し、ことごとく諸仏の無量の功徳を獲、智慧聖明にして不可思議なり。

かくのごときらの菩薩大士、称計すべからず、一時に来会せり。

イエス様は、「自分が相手にして欲しいと思うことを、相手にしてあげなさい」と言いましたね。だから、自分を見るように人々を見ること。

そんな心を持って、そんな生き方をしている菩薩様方が無量寿経を聞いているのです。

その方々は、自分の得た功徳はすべて、他者が浄土に往くために回向している。

まただからこそ、仏になる功徳を得て、深く明らかな智慧を如来様から頂いている。

我々もこういう菩薩樣方のような心で、無量寿経を学びましょう、ということが、最初に説かれているんです。

                            (合掌)