<日本と外国の関り(幕末から現代)>

私も1966年日本を離れて以来、海外に土着してしまいましたが、海外で公私にわたり多くの人々と交流をしてきて、日本国について改めて彼らの対日観について目から鱗の事を知る機会が多くありました。いまアフガン・北アフリカ(中近東)リビヤ・チュニジア・ソマリヤ・南中アフリカ・ナイジェリヤ・ケニヤは北イラクイスラム国・クルド地区・ウクライナ・クリミヤ、南沙諸島問題などの国際問題が噴出していますが、私はまだベルリンの壁があった時代から旧ソ連東欧圏内ソ連・ポーランド・ルーマニヤ・チェコ・ブルガリヤ・旧ユーゴスラビヤにも潜り込んでいた時代もあり、日本にいては決して遭遇できないスリルのあることも体験もして参りました。私の友人は当時の東ドイツのから ベルリンの壁の下の地下トンネルから南へ脱走しまして彼の家族は全員射殺され、彼だけがただ一人生き残り、私のいた英国マンチェスターにしばし生活しポルトガルに亡命し、私の繊維機械輸出入の仕事のエイジェントになり、やがてブラジルへ亡命しました。もう一人の東ドイツ人はベルリンの壁を東から西へ脱出するに前代未聞の誰しもがあっと驚く奇想天外のオーソン・ウエルズ顔負けの<第三の男>か<ジェイムス・ボンド>を演じましたが、それを巧妙に手引きした東ドイツ人女性と私は脱出前、そして脱出後も私は知り合いでした。今だからこそ言える話ですが、私がルーマニヤのブカレスト市に最初入ってた頃は、丁度北朝鮮の金日成が来ていました。沿道のポールには軒並み北朝鮮旗が垂れ下がっていました。そのころチャウチェスクが独裁的圧政を敷いて君臨していました。チャウチェスク圧政のニュースなどは、まだ自由圏にはいっさい伝わっていませんでした。

チェコのプラハの街角にはいたる所にソ連の戦車がいてソ連兵がマシンガンを抱えて、戦車の上に半身を乗り出していました。夜間食事してナイトクラブで飲んでホテルに帰ってくる街角の暗がりの中にいるソ連軍戦車と狙撃兵にぶつかると、ぎょっとしてあまり気持ちのいいものではありませんでした。私はチェコとブルガリヤと東ドイツでは、秘密警察員につけられた事もありありました。

今から五年ほどまえに、チェコがEUに加盟したばかりの頃にかつての高校時代の同級生夫妻を案内してプラハに行きましたが、古城もカルロス橋や古城もカルロス橋も自然も市民の人柄も市電も昔のままなのに、ベルリンの壁が崩壊した後によいよEUに加盟したばかりのプラハは、私の目には雰囲気的にはすっかり変わった感じでした。まだ通貨はEUユーロに変わっていませんでして、変更準備段階でしたから、昔のような通貨両替屋がうようよしていました。かつてアドルフ・ヒットラーはここに滞在し画学生を目指していた時代があり、東欧西欧でもっとも美しい首都であるとして、第二次大戦中もプラハだけは空爆を禁じていた所です。中世からの建造物や公園がそのままのこっています。

いまイスラム国の問題が、日本人二人の犠牲者が出てやっと日本人の関心と注目が集まったって感じですが,欧米ではもっとずーっと前から犠牲者がでています。日本人犠牲者がでる直前に、英国のマンチェスターでも、昔から慈善活動に熱心なクリスチャンの英国人初老のタクシー運転手がいました。そこで彼は純粋な気持ちから、自ら志願してトルコからシリヤ入りして北イラクに行き、北イラクのイラク国クルド地区で慈善活動していました。ところがイスラム国軍がクルド地区に突然侵入し、男には虐殺行為を行い、女は奴隷として攫ってゆくのを恐れ山上に逃れてるクルド避難民家族キャンプの為なにかお役にたちたいと、英国での本業を一時休止して、トルコから北イラクに入って食物や救援物資の運搬などを行う奉仕慈善活動に従事していたのです。しかし彼もイスラム国の捕囚の身になりました。英国政府や民間とそ妻子や年老いた両親の釈放嘆願運動が行われたのですが、その努力も空しく、日本人の後藤さんなど二名の犠牲者と全く同じような手法で生け贄にされました。イスラム国の場合は、従来のテロリストとは異質な面があります。異教徒はすべて皆殺しにせよとか、同じイスラム教徒同士でもスンニ派シーア派の相違があれば異教徒と看做す。最近では狂信宗団とかオカルト宗教集団というカテゴリーにもなっています。実はこの前にアルジェリヤで日本人日揮社員がイスラムテロ事件に巻き込まれ事件がありました。ところが、これはもう日本ではまるでもうあたかも風化しているがごときです。いつも海外で事故災難事件が起きるたびに、<日本人がまき込まれたかいなか>だけが関心事で終わりにするのが日本の報道スタイルです。聴きようによっては 極端にいうと<世界の他人種の人命はどうでもいい><日本人がそこに巻き込まれてないのはニュース性がない>ということかと思われるようにしかとれません。とにかく海外で起きた事には、四海八方海洋孤島国内では風化現象が速い傾向があるように思えてなりません。

150年前の幕末明治維新のころ、海外特に欧米ではあまり理解されていなかっをまず開いたの英連邦王国で、その宗主国米国でした。その前にオランダがあるが、それは鎖国体制の利権を独占する意図的な操作が絡んでいましたから、本当の開国関係ではないと看做すべきでした。幕末に環境が類似していた徳川幕府がが頼ったフランスはルイ王朝を倒して革命共和制を敷き自ら新王朝皇帝位に就いたボナパルト・ナポレオンの皇帝派もプロシャ相手の普仏戦争に敗退して孫の世襲ナポレオン三世が英国ヘ亡命して終焉をむかえました。

日本は戦国時代から既に西洋との連結がありました。織田信長とキリシタン大名はポルトガル・スペイン、徳川幕府はオランダ(実はオランダはその後スペイン植民属国となる)そして幕末はナポレオン皇帝派のフランスと組まんとする、江戸時代には仙台の伊達藩はスペイン経由バチカンを頼って援軍を求めようとするが未遂に終わる、またロシヤ正教のロマノフ王朝もエカテリナ女帝時代に紀州船難破によりロシヤに渡った大黒屋光太夫が ロシヤ海軍船により日本へ送還され松前藩経由で江戸幕府に接近を計ったが、平戸に回されてこれも未遂に終わったが、しかし国交は始まった。そして幕末には最初は攘夷勤王を表看板に掲げてきた倒幕派も薩英同盟・薩長同盟から薩長土肥が明治天皇を擁して英連合王国のビクトリヤ女王朝と蜜月関係を保つ事により明治維新をなしとげたが、この先鞭をつけたペリー提督の下田港来航で鎖国解禁をさせた米合衆国とその宗主国格である英国の二国が介入して日本近代化を促進させた歴史があります。そして立憲王国政治社会制度金融保険制度教育制度西欧哲学文学スポーツ(テニス・ゴツフ・サッカー・ラグビー・ホッケー・ポロ・御前競馬レース・競艇・ヨット・ボート)・公債紙幣印刷発行法・鉱山開発・ビル建築工法、トンネル・橋梁・灯台建設工法・船舶建造法・機関車製造法・科学技術機械工業文明文化(産業革命=蒸気機関鉄道汽船)・式服礼服服装ファッション制服・世界の時刻の原点グリニッジ天文台とそれに基ずいた海洋法・航空法などあらゆる分野において英国方式を規範として移植採用するに至りました。 ここで現代日本人が気がついていないものがまだまだあります。国歌<君が代>の原曲作曲者は英国人です。サラリーマンのユニフォーム背広も英国ロンドンのピカデリー・サーカス広場の仕立屋街SAVILLE ROW(サビル・ロウ)通りの名前の発音読みに日本漢字をうまくあてはめたものです。ウエデイング・ドレスもビクトリヤ女王の結婚式の衣装をそっくりそのまま採用しましたが、それだけではありません。それに以後幕明治時代日本の桐生足利からそして富岡製糸から輸出した絹糸から織った布が英国でも使われていました。私は1996年英国マンチェスターで、その相場取引所でむかし<マエバシ=Maebashi>とか、日本のブランド生糸が取引されていた証拠を発見しました。 さらに付け加えますと、結婚式に奏でるウエデイング・マーチも実は英国のビクトリヤ女王の結婚式のために作曲されて演奏されたものです。ウエデイングケーキも同じくこの女王の時から始まりました。また洋式葬儀に女性が顔隠しに被る黒い薄生地の透けてるシャーのベールもビクトリヤ女王が御主人の亡くなった時の埋葬葬儀に初めて使われたものです。そして男性が腕につける黒い腕章もこの時に初めて着用しました。インスタントカレー粉、紅茶・ラムネ・ウイスキー・ジン・ジャ−ジセーター・ラグラン肩のオーバーコート・レインコート、煉瓦、サンドウイッチ・シチュー・カスタード・プリン・スコーン・アイスクリームなど英国から入ってきたものは、まだまだありますが現代の日本人が気がついていないものがまだまだ多くあります。

私は英連合王国に1966年以来住んで、英国側欧州側から日本開国の歴史の原点を辿ってみて、そして第一次世界大戦、第二次世界大戦を欧米側からみてきた人々と接してきました。その人々には一般人もあり、教育者、科学者技術者、軍人、そして英国女王につぐ中世からの高等貴族もいました。またそのなかには、第一次大戦第二次大戦を、それそれの事情や紆余曲折や運命の定めがあって欧米現地に残ってしまった日本人もいました。日本には伝わっていない事も数多くあることをも学びました。

その歴史が日本の次世代にも伝わる事を希求し、日英(米)友親交会促進運動を起こす事を英国の貴族と話し合い決めました。日本の近代史の始まりは1850年代60年代からでありますが、どうもそれがまだ正しく日本の次世代に伝わっていませんようです。1941年12月8日の真珠湾攻撃に始まり、1945年東京大空襲名古屋大空襲・大阪大空襲、8月6日広島に原爆投下、8月に長崎に原爆投下、1945年(昭和20年)8月15日は日本側の世界第二次世界大戦(太平洋戦争)が終了した日です。第二のペリー来航といわれるのが、ダクラス・マカーサー連合軍最高指令長官でした。

戦後 私は故あって、米国プリンストン大学のアインシュタイン博士と原爆開発最高責任者のオッペンハイマー博士の向かい合わせの両研究室を訪れました。どんなに立派な研究かとおもって行ったら、双方狭い小さい黒板と学生椅子が6つくらいある十畳くらいな机がまったくないなんの変哲もない部屋でした。アインシュタイン博士の部屋は窓から外側のキャンパスが見える明るい部屋でした。片やオッペンハイマー博士の部屋は同じくらいの大きさで廊下隔てて古いビルの内側にあるため昼間でも薄暗い犬綱な感じでした。この二人のユダヤ人宇宙物理化学者は二人ともナチスドイツから追われるように、当時の中立国スイスに逃げて、米国へ亡命しました。 私の誕生日は年号は違うが8月6です。そして戦後京都大学出身の湯川秀樹博士が 日本人で初めて中性子の発見で宇宙物理学分野でノーベル賞を受賞しました。湯川博士はアインシュタイン博士に誘われて宇宙物理学の核兵器利用を後悔する平和委員会の仲間になりました。

1945年4月ヒットラーが愛人エバと地下室でビストル心中をして欧州側での第二次世界大戦は終了しました。その時の欧州がわの連合軍最高総司令官はアイゼンハワー(ニックネームはアイク)元帥で、戦後米国大統領になりました。その時の副大統領がニクソンでした。しかし共和党アイゼンハワー大統領の次に米国大統領に当選したのは一転民主党のアイルランドからの移民の末裔カトリック教徒のジョン・F・ケネデイーでした。ケネデイーがテキサス州のダラスで暗殺されて、その後副大統領リンゼイ・リンドンがしばらく大統領になり、その後やっと待望の大統領に当選できたのがリチャード・ニクソンでした。戦後アイゼンハワー大統領から歴代の米合州国大統領レーガンまで米国務省職員として仕えた江戸っ子の日系一世の日本人に岡見清彦がいました。その人物は私と共に英国とアイルランド共和国で仕事をし、プライベートでも親しかった兄貴分です。話せば永い物語になりますが。この岡見清直の御先祖岡見彦三が開設した岡見蘭学塾に故郷中津藩から招いた福沢諭吉を塾長にして男子校は慶応義塾と改名しました。女子校は頌女学院となり岡見家は女子教育に専念します。

吉田松陰が米国蒸気船への夜間潜入密航を企てたが失敗した時、 佐久間象山は吉田松陰に最も影響を与えた危険分子として江戸払いを命じられ信州へ蟄居させられたのですが、佐久間象山の江戸蘭学塾は岡見蘭学塾が継承した形になる。そして岡見蘭学塾はは第二次世界大戦後、米合州国国務省外交官を退官後の岡見清直先輩と弟の岡見如雪(なおゆき)院長によりイングランド島南端のウインチェスター大学との合弁で、英国頌栄ウインチェスター女子大学を創立したのです。これについてその続編のバックグラウンドは、次のリンクの北広次郎資料館の中を参照して見てください。

その中のエッセイ題名<幕末開国後日本国が外国と関わって来た様々な出来事を振り返ると>を御参照ください。

米国のオバマ大統領は米ソ冷戦時代は、鉄のカーテンともいわれたイデオロギー的には自由資本主義VS共産社会主義の対決があり、ケネデイ大統領時代にソ連のゴルバチョフ総書記は、米国本土の鼻先にある中南米スペイン語圏内のキューバ島の超親ソ派のカストロや中南米の共産主義的革命派のチェ・ゲバラと蜜月関係を深め、また反米カストロ将軍の熱いソ連へのラブコールもあって、仮想敵国米国への核弾頭ミサイル基地を建設すべくその計画を実行に移しつつあった。核弾頭やミサイル発射装置や原子力戦艦はソ連から大西洋をわたりキューバ島沖合に接近しつつあった。これを探知した米国は大変な脅威を感じたのは当然です。

第一次世界大戦でも第二次世界大戦でも、英語園宗主国英連邦国(イングランド・ウエールス・スコットランド・アイルランド・カナダ・オーストラリヤ・ニュージーランド・ケルテイック・アングロス・サクソニアン・バイキングで構成する英連邦圏東南アジヤ・アフリカ植民地国連合軍ヘの米国援軍参加するという形をとる形で、米国大陸本土自体が戦場になったことは一度も事には、理解ができない事です。私が英国に着いた1966年当時の労働党主ハロルド・ウイルソン首相時代は、地中海の玄関口のジブラルタル海峡の覇権問題でスペインとイギリス政府は揉めていました。私がたまたまバッキンガム宮殿近くのダウニング街ナンバー10番地首相官邸の前で立っていましたら、ポリスが二名立っていて、丁度ジブラルタル会談から帰ってきたウイルソン首相が空港から車で帰ってきて、車から降りて手を振って玄関口から官邸に入ってゆきました。なぜ私がそこにいたかというと、TVや新聞のニュースでジブラルタル会談の事は知っていましたが、首相官邸に帰着すること事前に聞いていて、写真を撮りたかったからです。その数年後、私はブラックプール海岸市での労働党大会の開催時に宿泊していたIMPERIAL HOTELの特別ルームに、会社のイベント行事で泊められた事があります。その部屋に招待されていました。そしたら ホテルの部屋がかりのボーイがいいました。<この部屋はちょっと葉巻臭いでしょう。>といってにたにた笑っているのでした。<実は今朝までウイルソン首相が御泊まりになっていました。>というジョークめかした本当の話でした。思いだしたのは戦時中のウインストン・チャーチル首相と、戦後の吉田茂首相でした。ハロルド・ウイルソン首相も大の葉巻好きの首相でした。

次に思い出すのは、保守党のマーガレット・サッチャー首相です。サチャーさんは葉巻は吸いませんが、男顔負けのスコッチ・ウイスキー愛好党首でもありました。鉄の女宰相ともいわれた気丈夫で、男に負けまいとするせいか、男も叶わないスコッチの飲みっぷりでした。もともとアルコール好きなDNAもあったせいでもあったせいでしょうが、又大の日本贔屓も徹底していました。私とマーガレット・サッチャー首相とは不思議な縁がありました。それについては私の書いたエッセイの中にも書いてありますから、御参照ください。英国ニッサン自動車工場を建設するのを、私も御手伝いしました。そして多くの日系企業の英国工場建設を積極的に推し進めたのがサッチャー首相でした。英国の戦後の労働党主体の社会的構造的な経済停滞原因にメスをいれて、半分は外資導入法をもって産業構造に革命的変化を齎して、英国を180度変変換してしまったのがこの英国政治史始まって以来の女首相でした。まだ御記憶の方もいると思うのですが、アルゼンチン国軍が突然予告もなく侵攻占拠した英国領土フォークランド島問題が起きました。サッチャー首相はその時毅然として、毅然として、米国のレーガン大統領には予告を発して、単独で英国陸海空軍を派遣フォークランド島を奪還したのです。何故この小島を守りぬいたのでしょうか? それには国家のプライドもありますが、それだけではありません。それについては私が当時の英国と日本のことをエッセイに書いてますので、御参照下さい。サッチャーさんには、それなりの世界戦略が脳裏に閃いていたのです。これも大航海時代の延長線上にあることは、日本国序の次世代に温故知新歴史を学ぶ事の重要さを教えているのです。

いまイスラム国の問題で世界が頭を悩ましています。自称国家を名乗っているが、狂信的テロ集団というカテゴリーに入れていても実態はまだ謎に包まれています。

これにはイスラム教のスンニ派シーア派そして原理主義とアフガンのアルカイダの複雑な問題がある。この陰にイラン問題があります。私は田中角栄首相がロッキード事件で首相を下りた(下ろされた)のは、日本のジャーナリズムの表層的報道では全日空の民間旅客機の取引の政治献金でロッキード社のコーチャン会長が米国議会で司法取引で自白告発して、無罪になってるが、段ボール箱に5億円の現ナマの束を商社丸紅の運転手に運ばせたことだけが表に出てるだけだが、実際にはこれがイランの皇帝とイランオイルガスをエネルギー・メジャー抜きの日本の直輸入の日本政府が関係していた事への妨害工作が関与していた国際的な背後の実情には、日本のジャーナリズムは一切触れていませんでした。日本ではそれでおしまいになりましたが、私は当時丸紅の現役社員でした。エネルギー取引の国際的シンジケートの背景を見ました。なかった。しかし第二次世界大戦の太平洋における真珠湾攻撃は、米国大陸本土ではないが、米国州の一つであるからこれが米国にとってうけたアタック初ケースであった事には間違いない。しかしそれにしても朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸イラク戦争にしても、米国にとってはいわば対岸の火災であって、欧州でやった大激戦も出張戦争であったのです。遡れば、ジョージ・ワシントンの米国独立戦争は、紅茶その他の本国英連合王国からの輸入品関税の過重課税率を巡る紛争の身内の内輪もめから始まったもので、米国本土内の戦争は南北戦争位です。これは内輪の内戦です。アラスカ州という極北の米国領土があるが、これは米国がロシヤから金で買い取ったもの。当時ロシヤにとっても、何の役にもたたない厄介な白土として手放したもの。アリューシャンはもとは陸続きでカナダへゆけたから、匈奴モンゴル系は紀元前から徒歩か騎馬で米大陸へ民族の移動をしてアメリカンインデイアンとなり、更に中南米に下ってインデイオになったのかもしれない。

ここで日本人は太平洋側からしか物を見ないが、地球は大西洋側も見なければ不公平である。北極圏からスカンジナビヤ半島のバイキングはコロンブスの1492年のアメリカ大陸沿岸のニューファウンドランド島に辿り着いたのよりもっと早く、一説によれば1000年以上前にグリーンランド・アイスランド・アラスカ、カナダから米大陸へ沿岸沿いにバイキング船で移動していたと言う事を、私はノールウエイの北極圏のフョールドの繊維工場に日産自動車の機械を納入して働いていた時に、ノールウエイのバイキングの末裔達に聴かされていた。それで興味を持って調べてみたら、米大陸には金髪のインデイアンがいると書いてあった。そしてその北欧バイキング・インデイアンが残したアーテファクト(考古品に近い民俗用具で様々な生活文化遺留品)も発掘されてる文献もある。コインのようなものもあった。ノールウエイの友人に私は<アメリカ大陸発見はコロンブスやアメリゴ・ベスプッチのことばかり世界史でいうが、バイキングの方がそれよりずーっと早く米大陸へ移動してるではないか?何故それをもっと世界に言わないのだ?>と訊いたのだが、<そうなんだよ。残念ながら、そのころ我々の先祖バイキングには文字がなかったから、記録を残せなかったんだ。>と、悔しそうに言っていたのです。そこで思い出した事があります。1966年7月私が羽田空港から日本を発って、当時米州アラスカのアンカレージ空港で一旦は着陸してから、巨大なシロクマの剥製を眺め、インスラントうどんかラーメン啜ってから、東西に分かれて米国大陸方向側南下、ないしは欧州側西進に向かう樹に乗るのが普通でした。ソ連上空が飛べないので、欧州行きはアンカレージ空港から北極上空を飛んでから南下し、北欧上空から西欧上空に入るので、運のいいときは機上の窓からオーロラが見えて、北極圏上空通過証明証なんて卒業免状みたいなものを貰ったものです。ロンドンからマンチェスターに着いて、まずイングランド北西部の地図が欲しいと思い,市内の書店に飛び込んでから書棚でまず目についたのは、英国の中学生むけ世界史の教科書でした。つい日本の事が気になって、覗いてみたのですが、たった二ページで、白黒写真には明治時代の木造の家並が写っていて、丸髷の和服の女性姿に人力車の光景。そして書いてあった事は、<ジャパンは東洋のバイキング>と記載されていたのです。当時タイの事はシャムとかサイアミーズといったが、八幡船で割り符で東南アジヤに交易にでかけていた頃の事をさしている。

山田長政がタイ王朝のボデーガードの護衛兵軍団長として雇われていたころのことです。 次に目に止まったのは、<ユダヤ人の経済学者カール・マルクスは英国マンチェスターに来住み、世界産業革命発祥地の表裏を観察し資本論を書いて、共産主義思想を唱えた。最初は欧州の工業国でマルクス思想は認知され採用されるということを期待し信じていた。ところが欧米の工業先進国では一切採用されず、どこでも不発に終わった。しかし皮肉な事に、生前のマルクスはあまり注目されなかった。ところがそれはマルクスが想定外の北の農奴国ロシヤのレーニンによって、革命を起こす理論武装のバイブルのように使用されが、しかし大戦後、結局マルクス主義はイデオロギー理論としては一時一部に受け入れられても、現実的普遍性がいま一つで乏しいとされて欧米諸国では、過去のものとして衰退してしまった。>という所でした。そのころ日本の経済論の学界では<マルキシズムならずんば人にあらず>で、労組も、日教組も、全学連も学生運動もマルキストだらけであった時代で、又大学でもマルクス経済論をやらぬと教授になれないと言われいてた時代だったので、私はここでカルチャーショックっをうけました。四海八方海洋孤島国のある意味、時代感覚の遅れというかアナクロニズム(時代錯誤)を痛いほど感ぜざるを得ませんでした。結局超先鋭的全学連は、その後現実との遊離を直視する事を避け、矛盾との衝突でより過激性を求め、赤軍派は海外の衝突地域へ突っ走ってゆく事になります。結局マルクスの思想の育成された英国マンチェスターの産業革命のメッカでは、一番早く透視していたのかも。

 

私は世界産業革命の発祥起源地に1966年から住んで多くの事を学びとれた気がしますが、それは日本国の事を含めてですが、天空宇宙から鳥瞰すれば、まだまだ氷山のほんの一角だと感じ、その点では永遠の空腹感があります。

 

ダグラス・マッカーサー元帥が朝鮮戦争で原爆使用をホワイトハウスに申請した時、ベトナム戦争の時も核の抑止力は幡羅働いたのか? しかしジョン・F・ケネディー大統領がキューバに核弾頭ミサイル持込みが足下で現実化してしまった時の決断が、第三次世界大戦のまさに引き金を握っていたのは、芝居でもハリウッド映画でもなく、あの時正に現実であった訳です。今回民主党の、オバマ大統領が、カストロ将軍の弟と会ってテロ国家指定を解き、制裁解除するという事になったが、共和党はどう出るか?です。 キューバ事件は最も第三次世界大戦に成る一触即発性が間違いなくそこにあった。カストロとゲバラは米国を転覆することを狙っていた。それは明らかに大航海時代にカトリック総本のバチカンの法皇がスペイン・ポルトガルに地球表面の分割をアービトレイトした時に、始まっている、その後プロテスタントの大英帝国が大航海時代の後追い覇者に成り代わった事にも関係しています。歴史的にみるとしれはバイキング同士の覇権争いでもあります。

バイキングの影響がいかにあったかを、今から例示します。まず世界地図で真っ白だったロシヤに初めて王制がしかれたのは今のウクライナで始まったキエフ王国で、農奴国のロシヤにはま統制管理システムも能力もなにもなかった時代で、スエーデンのバイキング王に委託して、雇われ王としてロシヤ王兼任になって貰った経緯があります。木造造船大工と航海術に長けていたバイキングは、西欧東欧へ河川伝いに進出し南欧にも至ります。また海洋では米国大陸、欧州大陸の沿岸沿いに南下してゆきます。第二次大戦の欧州側で決着をつけたフランスのノルマンデイ王国は、十世紀以前からバイキング王国でした。1066年ノルマンデイ王国のウイリアム征服王はイングランドの南端に、ウエールスの英国王が、ウイリアムへの王位継承権の約束違反古をして姑息な手段で弟に継がせた事件が起きて、今はモンタギュ公の御領地へ大海軍船隊を引き連れてドーバー海峡を渡ってきて上陸しニューフォレストの戦いで勝利して、英国王として即位しウイリアム一世となりました。 世界史では  WilliamThe Conquor(ウイリアム征服王)となっています。それから地中海のシシリヤ島はここもバイキング王国でした。従来イタリヤ領ですが、この島の名前はどこかで聴いたことがあると思うでしょうが、映画ゴッドファーザーでも有名だったアメリカン・イタリヤ・マフィヤの発祥の地です。バイキングは欧州の至るところへ進出しそこへ土着したりしました。段々キリスト教に感化されてて、キリスト教を国教にするようになって今日にいたっています。シシリヤ島に近接するフランス領のコルシカ島は、ここがボナパルト・ナポレオンの生まれ故郷です。北欧のバイキングってのは、作物や穀物の畑の種植えが終わると船団を組んで、欧州に進出し海岸沿い河岸沿いに教会やらに侵入し時に金銀財宝略奪し、収穫時期になると故国北欧に帰るという繰り返しでしたが、行く先で土着する者も多く、キリスト教に帰依するようになってから、おとなしい民族になりました。

9世紀から11世紀にかけては、欧州ではバイキングが至る所に進出っしました。また行った先の王侯貴族の用心棒すなわち職業的警護の護衛兵に雇用されました。タイ王朝の護衛兵団に登用された山田長政に似ています。だから英国の教科書に<日本は東洋のバイキング>と記載されていたのかも。米合州国のいたる所にスペイン語名の州名、市町村名があります。サンフランシスコやロスアンゼルスやコロラドやアリゾナなんて枚挙にいとまがありません。それは何を意味するか?というと、私の長女や孫娘たちは米国西海岸に住んでいますが、旦那は米国人ですが、先祖は英国人でも彼やアメリカの友人が<大体ここらへんの土地は、スペイン人から取り上げた土地だ。その前はスペイン人がインデアンから取り上げた土地だ。>とぽろっというが、半分冗談めかしてるが、これは真実でもあるということを認めてるようです。<取り上げる>といういいかたをまた英語で<Steal>って言葉でいうのです。日本でも戦国時代を<国盗り物語>っていうくらいですから。

とにかくケネデイ大統領は、ソ連の核弾頭がキュ−バにもう到着し、一部陸揚げされてる最中にこの世界的危機の渦中におかれた心境は相当きつかったと思います。この時ホットラインという文明の利器があったからよかった。ソ連のフルシチョフ大頭領を直接ホットラインで呼び出して、直談判をおこないました。その言葉の重みは尋常ではなかったはずです。フルシチョフの回答次第では、ケネデイー大統領は世紀の大決断=第三次世界大戦という原爆戦争開始の重いスイッチボタンに指をかけていた筈です。悲痛な気落ちをホットラインでフルシチョフに訴えかけました。 ここでフルシチョフ総書記がホットラインで伝えた決断は、ケネデイー大統領のなみなみならぬ決意の声の深刻な裏を読み取った結果からの地球の重みだったと思います。 <既にキューバに下ろしかけた核弾頭一式を一切ソ連に持ち帰る>という世紀の決断をくだしたことでした。世界を分断する二大国の狭間に介在し、マキャベリズムの大ギャンブルを演じたカストロの思惑は外れました。カストロは小国でも大国の狭間で、核兵器の威力で隣の大国を制する威力を見せつけたかった訳ですが、これは大航海時代からの<国盗り物語>という覇権の因縁と怨念の歴史を学習してないイラン宗教革命が起きて、皇帝一家は米国CIAが絡んで米国に亡命しました。例のホメイニ革命の時でした。その時皇帝派のイラン人の多くが、カナダ米国欧州その他へ亡命しましたが、そして今日本に移転してして30年を超えてるイラン人もいます。過激反米派のアフマニネジャロ前大統領から現ロウハニ新指導者に代わり、国連制裁を解く方向へ運動しています。これがどこまで進むか? 部分的段階的制裁解除なのか? 全面的解除なのか? それがQUESTIONです。イランは核兵器製造のためのウラン濃縮を長年避難されてきていますが、まだ透明性は確保されていないが、これからどう出るか?です。

歴史を顧みるといろいろな事例があります。ベトナム南北戦争の時も南ベトナムのサイゴンのゴ・ディン・ジエム大統領も最後は米国へ亡命しました。フィリピンのマルコス大統領一家もハワイ経由で米国へ亡命しました。米国は亡命者の駆け込み寺であるケースが多くあります。

これからの日本はどっちに進むか? QUO VADIS? 日本の次世代に正しい歴史教育を!!!

その続編のバックグラウンドは、次のリンクの<a href="http://www.ajfea.info/history.html">北広次郎資料館</a>の中を参照して見てください。その中のエッセイ題名<a href="https://docs.google.com/document/d/1_TdNz2Fwg8VbeZl0-XFYczyDJyhKP5WzJZ-t0FxkW34/pub"target="_blank"><幕末開国後日本国が外国と関わって来た様々な出来事を振り返ると></a>を御参照ください。

 

北 広次郎 在英連邦王国