ユーモアクラブより転載。

北広次郎エッセイ集 ミスターヨーロッパだより

第21号

  『 サッカーとオリンピックを目指す・オリンピック招致委員会・サッカー発祥地英国と日本』

 ◆オリンピック・スポーツ名の80%以上が英語であるのは何故かお分かりでしょうかか?

 それは英語が世界共通語だらではない。発祥が英国であるものが多いのも事実だが、政治制度、社会制度・保険制度・裁判制度・度量衡・世界標準時間制定から経緯度航海法・航空法におよび国際ルール創りの名人が多かったのが英国でもあります。

 

 ゴルフ・テニス・サッカー・ラグビー・ホッケー・ホースレース・シューテイング・フェンシング・アーチェリー・カヌー・ボート・ヨット・クリケット・スケート・カーリング・ボクシングなどなど際限がないのです。プラス大植民地時代にイギリスがスポーツルールを世界に広めたことも理由であります。

 

                                             

 オリンピック招致委員会

 

 松本で高校まで育った私は英国にいても、松本山雅を一部リーグに昇格させたいと念願しています。松本に入るとあの見慣れた日本アルプスが見えるのが楽しみです。

 今日、宇宙衛星TV放送で、NHK 朝ドラ「おひさま」を見たら進駐軍が蕎麦屋“丸庵”に来た。翌日のドラマで乗鞍常念等が見えていました。日本アルプス見てたら、英国の夏のオリンピックと引き換えに長野での冬季リンピックの誘致運動を情熱込めてやってた自分を思い出してしまいました。

 

 私が深志高校入学そうそうの一年生の時に、たまたま学校の文化祭にあたる記念祭歌の歌詞募集があったので、軽い気持ちで書き流して応募したら当選してしまいました。お恥ずかしながらその時の歌詞を紹介させて戴きます。

  (1番)  もとめてやまない智の聖火を 常に燃やして 進もう

        より新しく  より高く  より明らかに  

        ああ 我等のしるし  トンボ祭

 

  (2番)(3番)   省略

  (4番)  めざすは はるかな 星にあるとも ゆくて信じて 進もう

        このアルプスの 郷曲の  このファイター

        ああ 理想の しるし トンボ祭

 なぞかけではないが、ではその心は?を説明します。

(1番)は、実はこの歌詞を書いた時には心の中ではオリンピックをイメージしていました。キャンプファイヤーの火を見ながら聖火をイメージしてました。信州にオリンピックが来る日がこないだろうか?という願望でした。

(4番)は、星はメダルのことでやはり金メダルがまぶしかった。このアルプスの里にファンファーレが鳴り響く日がきたらいい。ファイターは選手、理想は今は夢でも信じてゆけばきっと現実になるその気持ちを歌詞に託しました。

 後にスイスのレマン湖からイタリヤ側に抜けるとき、マッターホルン見た時、ギリシャに行ったとき、心中が余計に燃えました。それから冬季長野オリンピックの話が出たとき、この歌の予言を何としても現実にしたいと思って英国でファイトを燃やしました。英国オリンピック招致委員会スコット会長に出あった時、この男を捕まえて逃すまいと必死にぶら下がりました。

 私は中学では応援歌詩募集、高校では記念祭(文化祭)歌詩募集、大学では新校歌詩公募で、三連覇しましたが、自分でも奇妙な事にどれも一年生の時でした。

 私は日本の若者男女をサッカーの本場英国にサッカー英語教育留学させたいと言う企画を建てているので、英国側の受入れ準備は整えつつあります。松田直樹の事故死は痛手ですが、何とか立ち直らせたいのです。まず来年夏季5週間サッカー留学の受け皿はロンドンの人気チームCHELSEA FOOTBALL CLUBと組んで既に準備してあります。これと松本山雅を結びつけてサッカー技術研修と英語教育目的で提携させ交流させたいのです。松本山雅なでしこもあっていいと思うのです。

 

 英語講習は私のパートナー・ロンドン前田学園が英国ベルリッツ(BERLRITZ)を買収しています。また、それ以外にロンドンで国際幼稚園3軒も経営しています。幼稚園には日本人子弟ばかりでなく、いろんな国の幼児が入っています。中にはロシヤから母子で移住して来て英才教育を幼稚園から初めているケースもあります。中国人、インド人の幼児もいます。中にはカタール人で日本人の奥さんを持ち今ロシヤ大使になってる家庭の子供もいました。

一昨年に続いて、昨年11月、日本へコンサートに来た時、松本のGEN CORPORATIONのワンマンへりH4を見てその進歩改造をいま楽しみにして来ました。いよいよ来年2011年は待望のロンドンオリンピックなので、英国ファーンボローの、日本がYS11プロペラ機の生産廃止以来、長い長い期間航空機産業を休眠してきましたが、来年2012年いよいよ英国航空ショーには待望の三菱重工のカーボン・ファイバーボデイの世界一軽くて燃費の低い中距離型ジェットr旅客機も登場します。

 ところで宇宙飛行士毛利さんが館長されてる宇宙博物館に展示してあったワンマンヘリは、昨年子供が23万人操縦席に座ったと申されていましたが今もあそこにあるのですしょうか?まだあったらもう30万員人越えたでしょうね。とにかく来年2012年ロンドのリンピック年に英国航空ショーに登場しワンマンヘリコプターも飛行するのが待ち遠しいのです。

 

 私が長野オリンピックの実現に、英国オリンピック招致委員会会長MR SCOTTと会談を重ね、英国オリンピック招致運動を支持することを条件に、長野冬季オリンピック招致を支援してもらう取引きを交渉しましたが、日本アルプスの名付け親の登山家神父さんLORD WESTON卿の歴史を、世界ではまだ無名だった“長野”の有名化に散々だしに使わせていただいて、英国バーミンガム市で開催された次期開催地決定のための投票を行う全世界オリンピック委員代表大会の日が迫って来ました。

 その投票日前日のことです。私はマンチェスター市からバーミンガム市まで高速道路上を車を飛ばしました。その目的は、私の幼馴染で小学校から高校まで一緒だった旧友に会うためでした。彼の名は自民党衆議院議員の村井仁さん。

 その日英国のバーミンガム市には、全世界の国々のIOCオリンピック委員会代表達が続々と、翌日の次期冬季オリンピック開催地決定投票の為に集結していました。当然日本からも、日本IOC 代表そして長野県知事、長野市長、県会議員、市会議員総勢四十名近くだったと思います。

 それで前夜の晩飯は村井仁さんと市内の中華レストランへ飛び込みました。ところがそのレストランにも世界中からのIOC委員達が夕食の為に集まっていました。いくつかのグループがそれぞれ自国の仲間とそれぞれのテーブルを囲んでいました。店内はほぼ満杯だったのです。私は村井仁さんと二人だけなので、店員が片隅に小テーブルを用意してくれました。

 我々の小テーブルの隣のテーブルには8人くらいのグループが座っていました。彼らの早口の会話からしてフランスIOCの代表者たちであると私はすぐ分かりました。料理を待ってる間に、村井仁さんは急に立ち上がると、そのグループの席へ歩み寄り突然英語で話しかけました。

「皆さん、私は日本から来ました者です。明日長野へ投票して下さい。長野へ投票して日本に来てくれたら、美味い寿司刺身を御馳走しますから」 ちょっと噴出しそうになりましたが、フランス人はグルメが多いので、意外に効果があるやもと思いつつ、私は仁さんが英国バーミンガムくんだりまでやってきて『森の石松』を演じてる姿を見て、思わず噴出してしまいました。

 さて私はその晩、翌日の大会の投票現場に立会いたい気持ちはやまやまで、バーミンガムに泊まりたかったのですが、しかし、それが出来ない事情がありました。翌朝早くマンチェスター国際空港からスイスのジュネーブに出発しなければならないスケジュールが以前から控えていました。

 仁さんには、この世界オリンピックIOC大会投票日には、必ず現地へ来て欲しいと、私は呼びかけていました。ですからバーミンガムへ会いに出かけたのです。以前まだ通産省(今経産省)の役人時代、パリのOECD会議に出席した後で、英国へ私に会いに来てくれたこともあるのいで、本来ならマンチェスターの家に来て泊まってもらおうかと考えたのですが、投票大会前日であり、翌朝私もジュネーブに発たねばならない事情があるので、断念せざるを得ませんでした。そして翌日の大会での長野必勝の祈願をこめて、その気持ちを仁さんに託して、彼と別れ夜の高速道を車を飛ばして帰宅し、翌朝早くのジュネーブ行きフライトに飛び乗ったのです。

 

 日本の方から、この大会での投票についての様々な意見が 私に伝わって来ていました。ところが、そのコメントはほとんどが 『何で長野? 長野?そりゃーありえないよ。海外でナガノなんて全く知名度もないし、そりゃ無理だよ。』というネガテイブな反応ばかり。支持するのは長野県民ばかりといいたいが、信州人の中にもネガテイブ懐疑派がいました。

 英国オリンピック招致委員会スコット会長にもお願いをして来たことを、唯一の頼りにしてここまで来たからには、心中祈るしかないという心境でした。しかし、この世界大会は英国の支持は受けても、

まだまだ世界IOC国はほかに沢山ありすぎる。しかしこの投票の世界IOC大会が英国の、ロンドンとマンチェスターの真ん中にあるバーミンガム市で開催されるという意味を分析してみると、夏のオリンピックの英国誘致運動の布石でもあるはずだ。

 英国はかつて七つの海を支配する世界最大の植民地保有国だったので、外交にはもっとも長けている国です。そして英国王室のロイヤル外交の強みがある。緻密に先を読んで、先ず冬のオリンピック開催地の決定投票を行う世界IOC大会をバーミンガムに誘致したのです。こういう長い目で先を読んだ上での真の外交戦術が、日本国には残念ながらないのです。どちらかというと、思いつきムード的で、戦略に乏しく列島国内で煽るだけです。海外外交戦術が伴っていないのです。

 そういう意味では、冬季長野オリンピックが、政府を含め真に日本国の戦略的支援が完全に得られていないんではないかという不安が 私の頭の片隅にあったことも否定できませんでした。しかし国際外交戦力においては、そういう布石と根回しがどうしても必要不可欠なのです。私はこういう経験から、先回北欧で行われた次期オリンピック候補地決定国際IOC大会では東京はありえないと断言しましたことがあります。それについては、この後で説明します。

 そういう様々な思いをもちながら、私はジュネーブ行きのフライトの中で落ち着きませんでした。私がこの日ジュネーブに向かわねばならない事情は、ジュネーブに近いフランス側のとある町で、欧州のユーレカTV放送と作品発表祭的国際大会があり、日本からもNHKをはじめ民放各社の代表が集まっていました。

 この国際大会には、私がリバプールの万国庭園万博の時の日本週間に、NHKの現地エイジェントに指名され、NHKの大型舞踊団を派遣する準備委員会のNHK幹事代表の方々と、協力作業をしてきたのです。そのリバプール庭園万博開催以前の、準備作業段階から実施までともに共同作業を行って来たNHKのメンバーと、NHK海老沢会長を含むNHK代表団一行が、ジュネーブに到着していました。もちろん日本のあらゆる民放TV会社のTOP 代表団も到着していました。

 

 その到着の晩にはジュネーブ市内の中華レストランを借り切っての、NHKの関係達の夕食会が予定されており、私もそれに加わりました。ところが顔なじみのNHKの人々から「久しぶりに会ったのに、北さんは何で今日は寡黙で、いつもの北さんらしくないじゃない。どうしたの?」 と言われてしまいました。

 ついに、私の胸中の胸騒ぎが、皆にばれてしまいました。そして「 バーミンガムでのIOC世界大会の投票結果はもう出てるはずで、それを知りたくて知りたくて、そのことばかりが頭の中に渦巻いていて、大変失礼しました」と釈明しました。

 

 ところが私は気がついていなかったのですが、そのメンバーの中にしばし席から姿を消していた庭園万博の準備委員会の時のメンバーの方が、突然戻ってきて夕食会参加者全員の前で大声でいいました。

「北さん いままでじつはNHKLジュネーブ支局と外で電話で話していました。北さんには大変申し訳ない報告ですがが 残念ながら本日英国バーミンガム市で開催されたIOC世界大会で、長野は落ちました。」といいましたので、周りはしーんとしてしまい、落胆ムードがただようました。

 私も「やはり、駄目だったか、、 」とがっくりした表情が隠せませんでした。ところが、しばし数秒の呼吸を置いてから、「北さん、それは嘘です。 そう言ったら、北さんがどういう顔になるか、一度見てみたかっただけです。北さん、安心してください。これ今ジュネーブ支局ではまだ投票結果が分からりませんでしたので、今直接渋谷のNHK 東京本部に問合せて確認しました。まちがいなく決選大会では下馬評どおり、最大の強敵であるアメリカのソルトレーク市との二者択一の大決選投票となり、ほんの僅差で長野に決まったのです」と発表されたのです。

 その途端、夕食会場内のムードが一変。全員大きな歓声を挙げ、拍手が巻き起こりました。中華レストランのサービスかかりの店員は、訳が分からないので、一体何事が起きたのかと驚いていました。  このジュネーブのNHK夕食懇親会は、その瞬間、長野オリンピックの当選祝賀会に変わりました。夕食会が終わった直後、ホテルに直行し部屋に入るなり、 英国バーミンガム市の村井仁さんの宿泊ホテルの部屋に電話しました。現地時間で午前1時くらいだったと思いますが、仁さんも「いやー、最終決選投票の開票結果が出た瞬間、おれも珍しく胸が熱くなったぜと。感激したなあ」と多分ベッドの中に横たわり(これは私の想像ですが)ながら、昼間の興奮冷めやらず話していました。

 村井仁さんは後に小泉内閣時代、国家公案委員長兼防災大臣に任命されましたが、彼の任期中にはサッカーのワールドカップが日韓合同地で行われました。アジヤで行う最初のワールドカップでしたし、 欧州や中南米では過激な熱狂ファンのフーリガン暴徒問題で悩んでいた時期でもあり、いかに安全で問題なく大会を完了するかが、最大の関心事でしたから、無事済んで本当によかったです。

 村井仁さんは、彼なりの信念があって、郵政民営化には頑なに反対しました。その結果国会議員を辞めてしまいました。そして高校の後輩田中康夫が県知事やっていた後を継いで、故郷の長野県知事を一期つとめて知事も辞め昨年11月に東京でちょっと会った時には、「俺はもう政治家は十分やったから、政治家はもう卒業した」といってさっぱりした顔をしていました。まだ政治家を続けようと思えば出来たはずだが、それはそれで村井仁の生き方だから、それでいいんじゃないかと思った。

 その時に私は図らずも英国の国営企業民営化の推進で、一つ気がついたことがある。

 それはロンドンG7で言い出しっぺのマーガレット・サッチャー首相が『小さい中央政府』『国営企業民営化』を唱え、難問の英国の国鉄民営化もほとんど果たしたのだが、『郵政民営化』だけははやらなかった。

 『郵政民営化』の話は、最初から全くなかったのかというと、そうではない。最初あったのだ。しかし、レストラン付きのロンドンのTV塔とかいわゆる日本で言う『カンポの宿式』なものは民間売却し合理化は進めたが、肝心の郵政政事業の本体は民営化しなかった。だからいまだにエリザベス二世女王のE&R(王立)マークが真っ赤な郵便車のボデイについている。

 これは英国空軍海軍陸軍警察にも付いている。考えてみると英国の鉄道は、すべてが産業革命の蒸気機関の発明と蒸気機関車の発明以来最初は全てが、民営から始っている。

 ここでお断りしときますが、郵便制度を世界で最初に創ったのも英国です。英国の郵便切手には、特別記念切手以外の日常使用されるメインの切手には、全てエリザベス女王の顔が刷られています。ここにまた歴史的英国ロイヤル外交の鍵が見えてきます。

『国営事業の民営化論』を唱えた最初の言いだしっぺは、リバプールの万国庭園博覧会の真っ最中の夏、日本週間が行われてる時に、ロンドンで開催されたG7首脳会議席上でのマーガレット・サッチャー首相でした。その時米国の首脳は、ハリウッド俳優労働組合委員長から政治家になって、米国大統領になったレーガンでした。サッチャー首相が当時盛んに唱えていたのは『小さい中央政府』『真ん中の政府や議会は不要』『中央政府議会と市町村地方政府議会が直結する政治の仕組み』『国営事業の民営化』などなどでした。

 先ず上水道局のの民営化が最初に行われていました。産業革命から発生した生協農協労働組合起源の長い歴史を持つ英国は、伝統的に280余りの職能別労働組合組織を持つので、日本のように会社や団体単位で加盟する国では、考えられない複雑な重い問題がありました。簡単にいうと、同じ国営的企業組織の中の従業員は、職能(職業)別に異なる労働組合に属しています。電気技師労組、トラック運転手労組、普通一般工員労組、工場技術者労組、教員労組、看護婦看護士労組、石炭炭鉱労組、商店料理店家庭ごみ回収労組、国鉄運転手労組、国鉄車掌労組、郵便局集配人労組、郵便局事務職労組、清掃人労組、などなど職能(職業)別労働組合制度ですから、大企業組織の中で同じ組織の従業員でありながら、所属する労働組合はそれぞれ職能{職業)別に異なるのです。

 私が関係したニッサン自動車英国工場建設計画の持ち上がった時、この英国誘致にはなみなみならぬ熱意をもって、ニッサン自動車に勧めていたのが、マーガレット・サッチャー首相でした。私は丸紅テクマテックス社長時代、ニッサン自動車繊維機械部の繊維機械織機を代理店として欧米市場に販売していましたから、当然当時のニッサン自動車石原洵社長や役員から、訪英のたびに英国工業事情や労働組合事情の相談をうけて、説明の講義をおこないました。

 

 石原社長は飛行機の中でも、隣の座席に座るように要請し、私の講義をポケット手帳に克明にメモしていいました。石原社長はパリやミラノその他都市で、オリンピックのように四年に一回開催されるITMA国際繊維機械見本市でもよくお会いしましたし、又ロンドンにもよくお見えになりました。

 ある時は英国紅茶大好きの奥様もこられまして、日本の石原社長のお宅には紅茶専用の水をつくる濾過器まで備えてるお話があって、ミルクの入れ方なんか講義させてもらったことも在ります。

 ニッサン英国工場開所式には当然、マーガレット・サッチャー首相が列席し、テープカットがなされました。ニッサン自動車というのは、発祥から日本の会社だと思っていらっしゃる日本人の方が多いのではないかと思いますが、実はニッサンは日本には戦前からあって、英国オースチン自動車の子会社でした。今はカルロス・ゴーン社長が来るときフランス・プージョー社に買収されましたが、それは後の話です。

 大体サッカーは『国際間戦争や内戦や団体間の喧嘩争いを避ける為に、代替ゲーム化したものだ』とまことしやかに言う極論があります。そういうことを言う人は『ありあまるエネルギー発散ゲームで、実際の戦争をやる代わりにスポーツゲームに変えたのだ。それで手と腕を使わせないルールにした』といいます。

 ところが、ラグビーの発祥を御存じですか? 英国のバーミンガムに近い所に、RUGBYという小さい町があります。歴史的にこの町がラグビーの発祥起源地で、世界ラグビー連盟本部がここにあります。またラグビーは米国では、更に変形されアメリカンフットボール(アメフト)に進化しました。これはちょうどクリケットが米国で野球に進化した事に似ています。

 

 このラグビイ市で、ある時少年サッカー大会が開催されていました。その試合に出場していたある少年が試合がもたついてることに業を煮やして蹴ってるだけでは物足りず、突然ボールを手に持ったままゴールを目指して走り出したのです。四角定規な人々は 単にルール違反だといって 選手を叱責失格にしておしまいにしてしまうでしょう。しかしそこは大人の国、英国です。『手を使うサッカーがあって何が悪いのか?』手を使うサッカーがあったっていいではないか』という地元住民の声が湧き起こり、『ラグビイ』というスポーツが誕生しました。そして『ラグビイ』と言う英国の田舎町の名が世界中に知れ渡るようになりました。

 それは実は『長野』も全く同様で、冬季オリンピックを行って以後、『あの冬季オリンピックの長野』というだけで、世界中の外国人に通じるようになりました。それ以前は『NAGANO WHAT???……..』でおしまい。それが現実でした。

 そしてその時交換取引にしたロンドンも、ついにオリンピック開催地に決まり、それがもう来年8月のことになりました。まるで夢のような感じです。

 今度のロンドンオリンピックの実現の裏には長野冬季オリンピックが絡んでいたことを知ってるのは、トップの関係者以外の日本人はまずいないでしょう。これはあるひょんなきっかけから、長野と英国の双方から、私が橋渡し役を依頼されましたことに始まりました。

 それにはリバプールの庭園万博と、NHKの万博日本週間大舞踊団とガ絡んでいました。

 リバプールの庭園万博開場アリーナ内での公演ではもったいないので、折角来たからにはマンチェスター市の劇場でもやれないか検討して欲しいと依頼されましたので、パレスシアターと掛け合いましたが、既に一年前から米国の大舞踊団にちょうどその期間が一ヶ月予約されており、空いてまませんでした。

 パレスシアターのオーナーが、その後英国オリンピック招聘委員会会長に就任したので、そこへ長野冬季オリンピック支援を頼みに行ったのです。

 あの日のことが忘れられません。そいていよいよ、英国バーミンガムで決選投票が行われる前日の夜の森の石松の事も。そしてこの前、夏のオリンピックの決選投票が行われるより遥か前に、スイスのジュネーブのスイス人N氏から電話がかかあって来ましたことが思い出されます。このNさんは旧友ですが、かつて日本IOC代表達のジュネーブでオリンピックに関する通訳をされていました。N氏は日本でも教育受けて東大出ていますから日本語はもちろんスイス人ですから、4ヶ国語は自由に操れます。

 

 東京都が又オリンピックに名乗りをあげるにつき、長野オリンピックの時のように、東京を支援してもらいたいので、「英国のIOCの役員に会えるチャンスをつくることに協力してくれないか?」という問合せでした。「 誰がそれをもとめてるのか?」と訊いたら「 先ず東京都のオリンピック招致を担当する課長クラスで、今ジュネーブに来てる。それでもしアポイント取れたら、日本IOCの会長も幹部も来る可能性がある」ということでした。

 私は「英国オリンピックIOC役員へのアポイント作りには協力してもいいよ。ただし私の経験からして、ロンドンの次の夏のオリンピック地として、次の世界IOC大会で残念ながら東京に決まる可能性はゼロであると断言します。それにはいろいろな状況判断と過去の歴史的経緯と理由があります。政治絡まないと表向きはきれいごといっても、裏ではやはり絡みます。単なる思いつき運動でも駄目、理想論だけでも、片思いの熱望だけでも駄目です。準備段階の手をうたないことには。北京の次に、すぐ又アジヤはありえないし、順番から考えると今までオーストラリヤを除いて南半球が可能制あり。その中でも経済発展著しい新興国ブラジルはもっとも有望です。それに中近東アフリが次に浮上する。ワールドカップはやっとはじめて南アフリカで行った。ワールドカップとオリンピックは、一見表向き直接関係ないようで、意外に連動性があるのです。とにかく東京の当選がありえない事は、私は断言します。あるとしたら南米しか考えられません」と申上げました。  

 これは私の予言が当たったという話ではないのです。スペインの蛸占いでもない。きちんと過去のデータと状況分析して行くと、そういう帰結点に達することは容易だったのです。

 それと今までのパターンだと、特に新興国の場合、オリンピックの後で世界万博が行われるケースが多いのです。東京オリンピックの後の大阪千里の世界万博、ソウル・オリンピック後の太田市世界万博、北京オリンピック後の2010年の上海世界万博。それから1992年のバルセロナ・オリンピックの場合はコロンブスのアメリカ大陸発見は1492年、ですからコロンブスのアメリカ大陸発見記念祭とヨットレース大会もあって、更に同年オペラ理髪師で有名なセビリヤ世界万博の三つの大イベントが同時に同年に同時に行われたのです。