題名:真珠湾がキヨ兄貴の人生を激変した(PART-1)

副題 (岡見清直と北広次郎のエピソード)

一昨年の10月に、私がロスに滞在していた時に、ロスに住む日系で熊本県出身の二十数年来の旧友に会いました。彼はかれこれ20年ほどの間、ロデオドライブの大きなレストランの総支配人をしていて、元々は、世界中で少女雑誌モデルを撮影して回っていました。奥さんは今ハリウッドで、常時ではないですが、映画のエキストラの仕事もしています。そして、ハリウッド俳優労働組合会員になっています。日本人でハリウッド俳優労働組合会員になれてる方は稀です。桃井かおりさん渡辺謙さん他2名くらいです。私の娘の一人は長年シアトルのTVラジオ放送局におります。日米合作の高校生になる孫娘が二人おります。昨年4月に、私はシアトルに住む長女夫婦とその下の次女夫婦や孫娘達に招かれて、シアトルからハワイに連れて行かれました。

そして、ハワイで真珠湾攻撃のテーマパークを訪れて、感慨ひとしおでした。当時、真珠湾攻撃の時に私は、名古屋で小学生(当時は国民学校生)でした。

その当時、通信技師であった父は、逓信省名古屋局勤務で逓信省郵便貯金普及国民広報の担当をしており、その広報活動のため奨励映画の映写技師もしていました。長谷川一夫とか嵐寛十郎とか田中絹代とか当時の名優達の映画を愛知県を中心に、中部地区市町村を巡回し、ニュース映画も上映して、郵便貯金を奨励してあるくという仕事でした。

その後父は招集令状がきて、大河を隔てたソ満国境の要衝地で秩春という所の関東軍通信隊通信技師として派遣されていました。

冬は大河も凍結するので、対岸のソ連軍の戦車が氷上訓練をしてる光景もよく見えていて、その状況を偵察しトンツートンツーのモールス通信で関東軍本部に刻々送信するという任務についていました。しかし、冬場は青物野菜がなく、あるのはわずかな白菜のみで、ビタミンB、Cが不足して脚気に(かっけ)になる兵士も多くいました。

父も厳寒の環境下で、身体を壊して福岡の陸軍病院へ移送されました。ところがそれから間もなく、はるか彼方の長崎に奇怪な形の茸雲が立ったのを軍輸送トラックで山頂から望見したのが、1945年(昭和20年)8月9日でした。それからポツダム宣言の無条件降伏文書受諾し、一週間後の8月15日に昭和天皇の玉音放送がラジオで日本全土津々浦々に放送され、第二次世界大戦太平洋戦争が集結しました。

私は名古屋で連日連夜行われたB29爆撃機による焼夷弾爆撃の経験があります。夜は、毎晩毎晩が両国の花火大会を見てるようでした。そしてルネクレマン監督制作の名作映画(禁じられた遊び)(LES JEUX INTRUDES)と同じ遊びを二軒隣で同じ歳だった美緒ちゃんとその子の2歳になる弟とやってた事を戦後に思い出してました。

名古屋の空爆が激化してきて、ここも危ないということがいわれ、急遽母親の実家がある長野県松本市に疎開することになり、名古屋駅から列車に乗りました。その一週間後に私たち一家の住宅があった東区東杉町の住宅街地域も、ついに爆撃されたと言うことを両親から知らされました。

幼なじみの美緒ちゃんも、近所のガキたちや幼なじみも一度に亡くなったというニュースは、どうしても理解ができませんでした。

戦後(禁じられた遊び)の映画を観たとき、あれと全く同じ体験をしてた自分の姿がダブってしまい、複雑な気持ちでした。

そして、昨年4月に娘達夫婦や孫娘達から静養にといって、真珠湾へ連れて行かれた時に、日本軍が沈めた船艦アリゾナや、もとロンドン大使であった重光葵日本側代表がマッカーサー元帥連合軍司令長官や連合軍各国代表と一緒に、東京湾で降伏文書調印を行った船艦ミズーリ号甲板上にあるそのテーブルの置かれた位置に自分自身で立ったときに、私が大変に親しかったポン友で元日本人の顔が浮かんできました。

それが岡見清直という人物です。と同時に シンガポール陥落の時に日本軍南方軍総司令長官山下奉文の通信隊小隊長であった叔父(私の母の弟)でした。

特に岡見清直兄貴は、生前に彼の一生の記録をとるように依頼されて、家系の資料などを渡されてまま、今でも持っています。このキヨ兄貴が私に残すために造ってきた手書きのメモ書類を、私は長年保管していますが、これはまだ未発表です。しかし、これを世に出さずに放置したら、キヨ兄貴の遺志に背くことになることに、私の胸が傷んできました。すでにキヨ兄貴の米国に留学以降の人生についての一部は、すでに私が書いたものがありますが、それはまだほんの一部です。

最近私は、キヨ兄貴が過ごしたアメリカでの生涯の一部を、助手と共に英文にて原稿を作りました。キヨ兄貴は真珠湾攻撃事変が起きなければ、全く異なる人生を歩んでいたはずです。ケネデイー大統領によって後にキヨ兄貴は、日本人一世でありながら、国務省外交官に任命されました。この事は、当時の国務省慣習では異例中の異例な抜擢でした。

おまけにダグラス・マッカーサー占領軍総司令官(元帥)の長男マッカーサーJrが、キヨ兄貴をどうしても日本につれて行きたいと懇願して、それを容認したのが、ジョン・F・ケネディー大統領でした。大統領は米国大統領歴代の中では珍しく、先祖がアイルランド系移民のカソリック系です。キヨ兄貴の妻も先祖が元アイルランド出身の移民の末裔です。ここがキヨ兄貴の生涯に関わるキーワードになります。

戦後にアメリカ側の国務省に在籍して、日本初になる航空会社「日本航空」である「JAL」を創った真の立役者はキヨ兄貴なのです。

終戦直後に岸信介や河野一郎などの政治家を招き、国務省側官吏としてアテンドを行い、日本国の戦後復興を支えた立役者もキヨ兄貴なのです。

私はキヨ兄貴が米国国務省を退官して以後、日夜どこへ行くにもピッタリと行動を共にしていた時期があります。それは、キヨ兄貴と私に共通の趣味と

思考法があり、うまが合っていたのが理由です。趣味というのは、彼も私も音楽が好きだったことでした。

それもそのはずで、立教大学時代にバッキー・シラカタやハワイ2世達とハワイアンバンドを組みコロンビア専属で、淡谷のり子姉御に可愛がられていました。上原健や関口宏などとも親友でした。学生時代親には内緒で浅草ロック座に出演していていました。それが、どこかから親にばれて、「江戸時代の緒方洪庵にもつながる蘭学教育家の家柄であるのに、こっそりロック座に出演してるとは何ごとか!」ときついお灸をすえられた事もあるのです。

当時の言い方で「モボ」といわれた流行最先端ボーイで裾広がりのラッパ・ズボンを履き、ハワイアン・ギターの名手でした。私とキヨ兄貴とは共通点が山ほどありました。食べ物の嗜好も味付け方も偶然に一致してました。そんなことで、ダブリン時代やその後も、キヨ兄貴は決して普段公にはしないプライバシーのすべてを、私にはあけすけに話してくれていました。まるで私を気のおけない弟分か子分とし扱っていました。

ある時、ニューヨークで起きたハプニングがあります。パンアメリカンビルの前にあるルーズベルトホテルに泊まっていたある晩、二人で寿司屋に夕食へ行こうとホテルから歩いて3分くらいの寿司屋に行き、そこで食事を済ませた後に店の表に出たら、大変な人だかりになっていました。

表へ出たところの前の路上に、日本でデビ夫人が乗ってるような、あのリンカーンの白い細長い大型リムジーンが十台位駐車していて、群衆がカメラを持って立っていました。

事情を訊いたら、この寿司屋の隣が大劇場の裏口で、その晩はフランク・シナトラの大チャリテイー・コンサート・ショーが行われているということで、入場券がとれなかったシナトラ・ファンの大群衆が写真カメラヤや8ミリ・ビデオカメラを構えてそこに蟻集してました。なぜ裏口かというと、コンサートが終了したら、シナトラさんは大劇場の裏口から出てきて、そこにずらーっと並べて駐車してあるリムージンのどれかに乗り込むはずだから、ここがベスト・ポイントだとファン達はいってるのです。

キヨ兄貴は、そういう事なら我々もここでシナトラさんを一目拝んでおこうかと、ファンの群衆の後ろに立って様子を見てました。ここで面白かったのは、ファン達の立ち居振る舞いと、その表情でした。心配性のファン達は、時々大劇場の表側に位置する出入り口の方角にカメラ持って走って行ったかと思ったら、また戻って来ます。裏口、表口のどっちから退出するか不明で不安なので、双方の入り口の間をマラソン往復しているのです。

裏口の扉が時々開くと、ファン達が緊張して近寄ります。黒人のガードマンが群衆を眺め、したり顔でニターっとうすら笑いをして、また扉をバターンと閉めて錠をかける音がします。ガードマンはファンの動揺する様をまるで愉しんでる様子です。結局ファンは待ちぼうけをさせられただけです。

十台の停車したクリーム色のリムージン車も、全部囮の空車でした。結局ショーが終演してから一時間経過しても、シナトラさんは裏口からも表口からも出てきませんでした。結局忍者のように、どこか秘密の出口から脱出して退場したようです。それを信じられない不満を募らせたファンは、まだ諦めがつかないで立っていましたが、キヨ兄貴と私はパブへ行って飲もうと立ち去りました。

翌早朝、私は仕事で、カナダのトロント行きの機中にいました。そして驚きました。私たちがシナトラさんを待っていたその夜の時間帯に、近くのタイムズスクエアのマンションに小野ヨーコさんと共に帰宅して車から降りたジョン・レノンさんが、暴漢にピストルで撃たれてその場で落命してしまったのです。 最近、その射殺した犯人は、刑期を終えて出所してきたと報じられました。

ビートルズの出身地であるリバプールは、歴史的にアイルランド人が多く住むところです。真ん中にホンダ自動車の創立者である本田宗一郎さんが最初に自転車バイクで初挑戦し、失敗した世界オートバイレースのメッカであるマン島(英国の男島)があります。挟んでリプール港の対岸はアイルランド島です。アイルランド島でジャガイモの病菌の流行が発生して大飢饉が起き、飢餓に苦しんだアイルランド国民は故国を脱出せざをえなくなり、民族の移動が起きたのです。移民の大半は、新天地を求めて米大陸に向かいましたが、米国までは行けないアイルランド人は海を渡るのに最も地理的に近いリバプール港市に移って来たのです。その当時、リバプール市の人口が三倍に膨れ上がりましたが、住宅不足、上下水道の設備の不足で社会問題が起きていたのです。

ケネデイ一族も米国移民の家族でしたが、テキサスで油田を掘り当てたことなどで、アメリカン・ドリームを掴んだのです。

日本が真珠湾攻撃をした時の米国大統領は、フラクリン・ルーズベルトで、彼はフリーメイソンのメンバーでありユダヤ人でした。彼は第二次世界大戦中に亡くなったので、引き継いだのが副大統領のトルーマンでした。1945年8月15日は太平洋側の太平洋戦争の終戦記念日です。2015年はその70周年目です。欧州側における第二次世界大戦の終焉は1945年4月でした。生涯で最も愛してきた<ニールンベルグの指輪>を蓄音機で再生して聴きながら、広場のドイツ軍隊列の下士官達、一人一人と別れの握手を交わした後にアドルフ・ヒットラー総統は、司令部の建物に入って地下室に降りて行き、そこで覚悟して待つ愛人エバの頭にピストルの銃口を向けて放ちました。その後にエバの死を見届けた後に、今度は銃口を自らの頭に当てて引き金を引き、欧州での第二次世界大戦は終焉の幕を閉じたのです。しかし第二次世界大戦は、その時まだ完全には終っていませんでした。

アジア地域で日本は、まだ激戦の最中で足掻いていたのです。8月15日まで後4ヶ月余り戦闘が続きました。

一方欧州側では、戦闘が終ってこれで平和になると信じていたソ連軍兵士がいました。彼は東欧生まれで、戦争の爆撃により親兄姉を亡くし、天涯孤独の孤児になってしまいました。彼の名はヨセフといい、私が彼を知ったのは大手商社の繊維機械部代表として英国マンチェスターに赴任後、しばらくしてからです。赴任することになり、マンチェスターで住居を探し回り、選んで住んだマンションがユダヤ人街の一角でした。ヨセフと知合ったのは、このユダヤ人街の中でした。彼はマンチェスターで衣料用、カーテン用、ベッドシーツ用などの反物繊維製品卸問屋を経営していました。私は、英国リバプールに出来た吉田工業のジッパー製造工場にある繊維機械を納入したことがありました。ここで出来たYKKのジッパー製品をヨセフ社長が経営する卸問屋が取扱っていました。私は英国YKK工場で働くブラジル生まれで日系二世のセールスマンと懇意であったので、いつの間にか私と彼とヨセフとはポン友仲間になっていました。ヨセフの店はパキスタンやインドから仕入れた反物が天井まで山積みされた倉庫のような大店で、私はYKKのセールス担当者といつもそこへ顔を出していました。

ある日、ヨセフが身の上話を始めました。戦争で孤児になってしまったが、生きるために稼ぐ方法の中で、子供でも出来る唯一の方法は、ロシヤに潜り込んでソ連兵の靴磨きをやるしかなかったらしいのです。ドイツ占領下ではユダヤ人狩りで生きられないので、毎日兵隊の靴磨きをやってるうちに、軍隊に入れば食うに困らないということに気が付いたという。そして少年兵に志願することなり、ドイツ軍との戦闘を経験する。そしてヒットラーが心中自決で欧州の第二次世界大戦は集結し、これで平和になったので軍隊を離れようとした。ところがヨセフを含むソ連兵士団は急に、貨物列車に乗せられてシベリヤ鉄道で一週間も延々と東進したのだが、最終目的地は一切発表されませんでした。

そして、シベリヤを経由して着いた場所はハルピン近辺で、そこで対戦を行ったのが、日本関東軍だったというのです。そして、そこではまだ第二次世界大戦は終っていないことを初めて知ったというのです。ソ連の独裁者スターリンは、この時大変焦っていたらしく、アメリカがとてつもない新兵器を開発してることを、察知していたというのです。早くソ連兵が満州に侵攻し、樺太(サハリン)から四島、そして北海道まで侵攻しないと、日本全土が全て米英軍に占領されてしまう。そうなるとソ連の日本領土分割参加が出来なくなると言う危惧感と焦燥感がスターリンにあったのでした。もちろんヨセフなどソ連軍の一般兵士達には、そんなクレムリン・トップの作戦本部の意図は理解されていなかったようです。その動きに危惧感を抱いたのは、米国のトルーマン大統領と英国のチャーチル首相でした。この時代では、地球上にある世界が共産主義と資本主義のイデオロギーによる分裂化に向かう前哨戦だったのです。

その後、朝鮮半島とベトナムが南北に、そしてドイツが東西に分割されました。

1945年、四海八方海洋の孤島国ジャパンも東京のど真ん中から線引きして、南北に分割されていた可能性があったようです・・・

このユダヤ人ヨセフの話は、後にキヨ兄貴と繋がるのですが、今回の本項目(PART-1)はここまでにしておきます。

今後、近々(PARTー2)を書く予定です。次回以降は英国アイルランド側にて、キヨ兄貴が何をやっていたのかについての記載を致します。

北 広次郎   在英連邦王国  UNITED KNGDOM    Skype ID: norikitaskype77