ユーモアクラブより転載。

北広次郎エッセイ集 ミスターヨーロッパだより

第14号

 『戦後日本の原点に戻って』

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◆『福島原発人災事故の混沌に巻込まれた八方海洋日本孤島民は、戦後日本の原点に今一度戻って見直す事をすっかり忘れてるのではないですか?』◆

 311東日本大津波震災の直後、いち早く現地に入った東京の公認会計士の友人Yさんが、現地を撮影して送ってくれた写真を今回は借用して掲載します。

 この直後からこの友人は有志と募金を募り、毎週末簡易食品・衛生用品・災害時必需品を被災地へ届け、炊き出しも行い、NGO活動を継続しています。震災直後、私は日本に住んでいませんが、海外外国人から多くの見舞いや電話メイルが続きました。また街中では、見ず知らずのひとびたから『日本はだいじょうぶか?』と声をかけられてます。今は英国地方には中国人韓国人も多いのに、何故見ず知らずの、私達が日本人だと分かるのだろうか?と首を傾げてしまいます。

 

 私は1966年7月に英国に赴任して、工場機械の仕事柄英国の地方都市村を回って居ましたので、私たち日本人を見ても、中国人と思われるケースが99%でした。その頃香港が英国の植民地でしたから、香港系中国人が圧倒的に多く、チャイナタウンを作っていました。私が大昔出版した『ミスターようろっぱ』というエッセイ本に書いた事がありますが、街中で会った男に、『どこから来たか?』と訊かれて『東京』って答えたら『東京って、中国のどこらへんにあるんだ?』と訊かれたことがありますが、これ本当の話です。

 今回友人が送ってくださった被災地の写真を見て、そしてその後のBBC 放送や日本の宇宙衛星TV放送を見て、私が思ったことは、日本の大都市はB29の大空襲の爆撃で焼け野原になり、8月6日広島の原爆投下、8月9日の長崎原爆投下で、とどめをさされた第二次大戦、太平洋戦争の連合軍に対するポツダム宣言受諾無条件の、1945年(昭和20年)8月15日でした。

 

 私は名古屋で生まれ、カソリックの幼稚園から愛知県立師範付属国民学校(小学校)に入学していましたが、昼間も夜も連日連夜B29の焼夷弾爆撃を受けていました。当時父親は名古屋逓信局勤務でしたが、昼間の爆撃があって黄焔紅炎黒煙が名古屋市内に立つたびに、親父の逓信局ビルが爆撃で爆破されたと思いました。戦後になってから、占領軍の進駐軍中部方面本部が親父の居た逓信局ビルを占拠して、そこに入居したのです。という意味は、米英連合軍は最初から名古屋逓信ビルは戦争終結後には、中部方面地区進駐軍本部にするという戦略があって、ここだけは爆撃しない事になっていたのです。そんな事知らないから、子供心に、戦時中は『今日は、親父は爆撃にやられたのではないか』と、彼方市中上空に天高く、もくもくとあがる黒煙の化け物を眺めるたびに、心臓どきどき、気が気ではなかったのです。

 名古屋の東区東杉町の住宅街も、B29の夜間空襲爆撃が連夜続き、ラジオで警戒警報発令から最初モスキートとよぶような蚊の大群が飛んでくるような羽音が、はるか遠くから聞こえて、段々頭上に迫ってくる、やがてラジオは空襲警報発令に変わる。防空壕に飛び込む。名古屋の地上の四方から、サーチライトの照明光線が敵機を求めて天を動きまわる。そして高射砲のバン、バンと空気を破る物凄い音がして、空中に撃たれる。しかし高射砲弾は、はるか上空飛行のB29には届かない。B29空軍は、先ず照明弾を落下すると、市内天空の四方がまるで半分昼間のように明るくなる。だから29の操縦士や爆撃士から見たら、眼下の獲物道路は丸見えだから、灯火管制で人家やビルは明かり消してるのだが全く無意味。

 

 毎晩が両国か柳川か高田の大花火以上の大花火大会を眺めていたのです。私も大人ほど恐怖心薄れてというか、麻痺してしまい防空壕から 地上へ度々出てしまい、大人に怒鳴られる。周りは火の海、町内の年配の男はメガフォンで掛け声かけて、防空頭巾の近所のおばさん達は、急ごしらえの井戸の水や防火用水をバケツでリレーして消火につとめるが、余り効果なし。燃えてる炎にバケツの水かけたって、ちょっと火が一時小さくなっても、すぐ元の木阿弥。防火用水井戸は普段表面がゆらゆら虹がかかってるような、光の反射がする。ある夏の日、近所のガキどもと遊んでいて、私だけが太陽光線うけて表面に虹色が揺らめく井戸水を試しに呑んでしまった。夕刻から急に腹に激痛が走り、高熱で汗びっしょりとなり、ひきつけを起こし、近所のかかりつけの老医師の近藤先生に来てもらい、診断の結果擬似コレラと診断された。お袋と看護婦さんが、注射大嫌いの私を押さえつけて、注射しようとしたら、もがき暴れて、注射針が折れてしまった。慌てたのは近藤先生。その後どうなったか覚えていないが、今まだ生き残ってるところを見ると、近藤先生の応急処置で命拾いしたということです。

 その頃、他の日本の大都市への空爆も、日増しにますます激化していた。とにかく日中、夜間約200機あまりのB29爆撃機の大編隊が連続して頭上に到来し、大量の焼夷弾を霰のようにばらばらばらと撒き落として行く。これは経験したもので無いと、分からないことでしょうが、日中はB29から落下が始った瞬間の焼夷弾は、高空では太陽の光ですべて銀色に反射し光って見え、地上から見上げてると、最初はどれもこれも自分の頭に向かって落ちてくるように見えるのです。だからどっちの方向へ、逃げたらいいのか、全く見当もつかないのです。ところが、いよいよ地上に近寄ってくると、落ちる方向が見えて来る。そして、その落下地点とは、反対側方向に、まっしぐらに走れという判断がつく。そして数秒後、背後で炸裂音が起きて、なま熱い爆風に背が押され、一瞬ちらと振返ると、火炎があがり黄色い硝煙が吹き、灰煙と黒煙が混じり合って、やがて黒煙が膨張しながら天高く昇って行くのです。

 いよいよ名古屋も危ないと感じて、両親も故郷の信州へ疎開を決意しました。近所の幼な馴じみや、同級生と別れて松本行きの列車に飛び乗ったのです。後に私の一家は運がよかったといわれました。信州に向かった一週間後に、東区東杉町住宅街一帯が爆撃され、向こう隣の幼な馴じみの女の子も、その隣の男の子も親と共に犠牲になったと聞かされました。

 疎開先は日本アルプスが目の前に迫る盆地の長野県松本市で、お袋の実家、江戸時代は松本城主の鎧兜を作っていたり、神社の御神体や青銅で雌龍雄龍を造って奉納する鍛冶屋兼金銀細工師の家柄、戦時中はもうそんな商売はなり立たないし、武器製造のための金属回収に、作品は神社から徴収されていましたので、松本五十連隊が厨房で使用する一斗ヤカンや、大鍋などを製造してました。

 私の弁当箱だけが、祖父が作ってくれた重たい鏡のようなステンレス製で、転校したクラスで恥ずかしかった。弁当箱に顔がゆがんで大きく映るのです。おまけに四隅は分厚いハンダずけの跡がある。そして今NHKがやってる 朝ドラの 『おひさま』に登場する、あのアルプス山脈を望む盆地の、旧制松本高等学校や松本城の近辺をうろつくようになったのです。そして逓信省でモールス通信技師でもあった父は満州秩春(チチハル)の通信隊へ徴用されて行ってしまいました。

 そして8月6日(年号は違うが私の誕生日と同じ)広島にピカドン原爆投下、ついで8月9日に長崎に投下。多くの犠牲者が出て、親を亡くした浮浪児と称するホームレスの戦災孤児があふれ、日本の大都市は瓦礫の山。

 今回の東日本大津波震災被災地、そして福島原発事故発生後の光景を見て、私は、まだいまでいう小学生であった頃に体験した、爆撃跡の日本の光景が又再現したと思いました。これは戦争と同じだと思いました。そして原爆の落ちた跡の広島、長崎。そしてその後更に開発された水爆。今回の大津波地震も、これも正に津波水爆です。

 世界で唯一の原爆被爆国である孤島国ジャパンが、一番先に放射能汚染を受けた体験国なのに、その体験を生かしきれないで、むしろ、8月6日8月9日の儀式化されたセレモニーの黙祷スピーチだけが、放映されても、普段学校教育の中では、聖域に特化し、むしろ封印してきたつけが今回の福島原発人災に繋がってるといえるのです。

 原爆放射能の影響というものを、どれだけ戦後の日本学校教育で教えてきたか?というと、ゼロに近い。

 今回、日本ではその知識を持ってるものが、ほとんどいない。皆、五里夢中の手探りで、盲人象に触る状態で、これが世界で唯一の被爆国の対処法である。戦後歴史と体験が生かされてないどころか、70年近く封印されてきたのである。前へ進む事のみを考えて、後ろを振り向かないことは、時にして道を間違える。 『旧きをたずねて 新しきを知る』の精神は、戦後孤島国から蒸発してしまった。

 いつの間にか『科学技術』という合成語が蔓延るようになって、『科学』イコール『技術』と、同一物のように錯覚しはじめ、その境界線を無視して、過信と驕慢のモンスターが支配するようになり、過去の体験や判例や事象を意識的に黙過したり軽視し、残念ながら『謙虚さ』と『自発的に初心に還る精神』と『温故知新の精神』を衰退どころか消滅させてしまった感がある。一番問題なのは、戦後の日本孤島国が『平和ぼけ』から『安全神話』に漬かってしまったのも、『想定を超えていた』とか『あの時はこれが最善であった』とか『あの時まだ知らなかった、わからなかった。』と虚しい。最も重要な危機管理を怠っていながら、高額の金を費やして国民を巻込む大実験工場の舞台を造り、終わりなき試行錯誤劇を最後まで演じ続け、放射能拡散の観点からすると、中型水素爆弾爆発と同じ大悲劇となった。しかも1号機、3号機、2号機。4号機、全部。なんと言う皮肉な悲劇だろうか。

『科学技術』という言葉が、技術者は科学者とイコールみたいな錯覚を持たせてしまった。また、日本孤島国の特徴は、大手企業はおしなべて官僚機構なみになってしまっている傾向がある。いま、八方海洋孤島国ジャパンが必要なことは、硬直マンネリ化した意識革新すること、Refreshすること、それには、「戦後の初心に戻って見ることも必要ではないですか」ってことです。その意味で、私自身も戦後のあの時代を、再度思い起こして見ようと考えました。

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 1960年代初期、私は丸紅株式会社機械本部に入社以来、まだ、ホンダもソニーも海外では無名であった当時、終戦後の日本ではまだ誰も手をつけていなかった分野に挑戦しました。それは当時の最先端先進技術機械はもっぱら欧米先進国から、すべて輸入するしかなかったのが、日本の実情でした。

 在学中大学のアルバイト斡旋課から推薦されて、大学生アルバイト感覚で、日本工作機械協会会長早坂力(つとむ)氏の事務所に派遣されて翻訳通訳秘書に採用されました。早坂力(つとむ)氏は戦後日本の工業振興の立役者であり、工作機械日本JIS規格の編纂者であり、当時の欧米の最先端技術の工作機械の特許ライセンスを次々日本の主要なる機械メーカー各社に紹介し、つないで、日本国内でのアンダーライセンス製造を指導しました。終戦後の荒廃した日本では、工場といっても、ほとんどすべて家内工業的手作業が主で、平和産業として進駐米英軍に奨励された、初期の工業製品はミシンのヘッドでした。これは家庭の主婦の副業として、家庭に部品を預けて組立作業をさせて、手間賃を支払い、米英欧州に持ち帰るということを行っていました。したがって終戦後の日本の簡単な工業はミシンヘッドから始まり、日本のある大手自動車メーカーなんかもミシン部門から再スタートしたりしていました。

 また一方では、男性は戦時中の真空管ラジオの知識から、ラジオの組立てをする人も出てきて、そのうちに真空管を使わない、ゲルマニウムトランジスターラジオの生産にはいったりしたが、木造掘立小屋の工場で、創始者井深大、番頭役盛田がそれを始めたのが今のソニーです。

 それから自転車に50CCエンジンつけて、奥さんの買い物帰りの坂道のぼりを楽にさせようとしたのがホンダの創始者本田宗一郎氏です。そして松下電気は戦中から自転車につける電燈を造っていたのが、ナショナルパナソニックの創始者松下幸之助氏でした。

◆しかし段々進化して輸出産業化すると、工場生産に入る、そこでもう手作業では間に合わなくなり、工場には加工機械、工作機械が必要不可欠になりました。しかしもっとも必要なのは、機械を作る機械すなわち工作機械です。だが終戦後の、日本には金属類を切削研磨できる高度な加工工作機械と技術がないので、もっぱら欧米先進諸国からの輸入に頼るしかない時代でした。

 その時に現れた救世主が敬虔なるカトリック教徒の早坂力先生でした。欧米の工作機械新機種の新技術を矢継ぎ早やに日本に紹介しました。欧米の機械専門誌の論文や記事を私に和訳させて、先生の日本講演行脚の講演原稿を準備するのが私の役目でした。また新機種の技術仕様書を和訳し、通産省の技術ライセンス導入認可を求めたり、欧米メーカーの経営者や技術者の訪日時の工場での通訳をしたり、技術書類を日本のメーカーや大手商社機械部に届けたりの先生の秘書役を果たす事になりました。

 その技術導入の功績は高く評価され、フランス政府からレジオンドヌール勲章など授与されました。この早坂力先生の存在が大きかった事に気がついたのは、大学を卒業して商社丸紅機械本部に入社してからです。早坂先生のお使いや通訳翻訳で、学生時代書類をお届けに行っていたのが、大阪機工、芝浦機械(今の東芝)、日本製鋼所、東洋機械工業、伊藤忠、丸紅、ニチメン(今の双日)、大倉商事、三菱造船(今の三菱重工)などでした。

 そして、たまたま丸紅に採用されて、配属されたのが化学繊維機械部でした。ところが、そこでお付合いするようになった取引先メーカー工場は、早坂先生の秘書だった頃になじみのある所が多く、まるでその延長線上にいるという感覚でしたので余り違和感はなかったのです。そして欧米からの工作機械輸入のお手伝いしてきているうちに、いつか、逆流(輸出)もできるのではないかと、心中ではごく自然に考えていたのです。そこで、日本の商社やメーカーは、戦後、戦争賠償金制度で、単純な低レベル機械とか資材をひもつきで 賠償の一部として、インドネイシヤ・フィリッピン・南ベトナム・韓国、単純なパキスタン・インド・エジプト等発展途上国へは円借款で輸出したりする仕事に従事していました。つまりひも付き輸出で物を出して、戦争賠償金の場合、日本政府が代金は国民の税金から商社に支払い、商社はメーカーさんに支払うというシステムです。

 それが当たり前とされてた時代ですから、私がメイドインジャパンの機械を今までもっぱら輸入させて貰っている欧米諸国に、逆輸出したいという考えが自然に芽生えたのは、早坂先生の弟子をやってたからです。早坂先生の所にいて、欧米からの輸入機械の工場据付の通訳をやってるうちに、慣れが生じていたせいでしょう。欧米で出きるものが、日本でも造れないはずはないという感覚にいつの間にかなってしまっていました。しかし商社機械部で入社して間もない若造が、欧米に和製機械を輸出したいといったら、さすが直接の上司達には白い眼で見られました。私は早坂先生の下にいなかったら、こういう発想は湧いてこなかったと思います。

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 以下は早坂先生の戦後の言語録と、早坂先生の薫陶を受けた工業会の方々のコメントを補足して置きます。

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 ところが早坂先生も、『日本が完成品の欧米製機械だけを輸入して工場で使って生産してるだけではだめだ』と満足せず、『戦後日本の技術工業力を急ぎ高める早道は、今は高くついても欧米から特許製造技術ライセンスを購入し、特許使用料を支払っても、その工作機械を日本国内で製造するという事が大切である。欧米メーカー各社も、完成品機械だけ日本に輸出して売ってた方が、楽で儲かるという考え方の人も居ないわけでもないが、しかし、私はそうは思わない。根気よく欧米メーカー各社を説得して、特許製造技術ノウハウを与えてほしいとお願いして歩きたい。その仲人役をすすのが、私の生涯の仕事です。そうしないとお互いにハッピーにはなれません』という考え方でした。

 

『機械の完成品だけ輸入いていては、このままでは特許をコピーして模造機を作ろうとする他の者が出て来るだろう。その場合、日本のメーカーでも商社でも、どこかにライセンスを与えておけば、その個人なり会社なりが今後コピーしようとしたり、無断で模造する会社を監視していて警告を与えたり、あるいは法廷で特許侵害を訴追する事も行うことになるから 欧米のメーカーにとってもかえって便利になるではないでしょうか』。

『物真似猿真似の国の日本人といわれてる今は考えられないでしょうが、やがて日本が他国に真似されようとする時代が、いつかやって来る気がします。そんな場合には、触らぬ神に祟りなしの逃げの一手に走るのでなく、むしろ、虎穴にいらずんばで、自分の信頼できる味方をそちらの方に置いておけば、それが監視役にもなってくれるし、決して損にはならないし、賢い方法です。ただ逃げて放っておけば誰かに真似されるだけで、訴追もできず、指をくわえて、切歯扼腕してるだけでおしまいです。何の得にもなりません』と、あの敬虔なカトリックの早坂先生は時代の先を見通していました。あの先生の教えを今一度、思い起こしていました。

『下手な考え休むに似たりで、机上の空理空論でいてもだめで、一番危険でいけないのは、実利的製造工程や市場性販売先へのコネクションと販売実践力なしで、全体像をみずして、視野が狭角のまま、イソップ物語りの盲人象に触ることなることです。一番いけないのは、また技術者が頭でっかちになり、自己過信、自己慢心する事です。つねに初心にかえって冷静にものを見て、過去や先達に虚心坦懐に学ぶ事を怠ってはならない。それを怠ると、過信して、仕事がマンネリ化し、ルーテインワークさえやってればいいということになり、新しい発見や落とし穴が、見えにくくなる。そうすると会社の危機、社会、国家の危機にもなりかねない』。

『正しい広角レンズがないと、狭角視野だけで過信してしまうことです。現代は技術進歩が速いので、出て来る発明発見特許申請は世界で一日5千件から多い時は1万件だといいます。過信してると、どんどん置き去りにされてしまう。そして常に問題になるのは、資金力とのマッチングがないケースが多い。異能異才の発明発見をVENTUREとして育てる土壌が日本にはないという点が今、言われています。科学医学薬学分野でノーベル賞をとる日本人の9割前後が、欧米で研究した人々ばかりです。とにかく、ここで思い切った戦略をもって決断して実践しないことには、一生絵に描いたケーキで終わってしまいます』。

『事業というのは単に良い技術だけでも成り立ちません。製造能力と販売力が備わらなければ、事業にはつき物の企業経営経費もまかなえません。それと適材適所の有能な人材と、そのリーダーが絶対に必要です。現代の地球的国際社会では、物事を見るに単眼シングル視野ではだめで複眼視野でマルチ人間でないと、事業は成功しません。最近の日本孤島は縮んでしまったというが、少子化オタク化傾向で資本力、財界力、経済性、社会性、国際外交性、教育分野どの分野においても、いえることですが、もっとわかり易く言えば、財界人というのは 松下幸之助、井深大、本田宗一郎など戦後キラ星のごとく出現した決断力ある、財界の起業スター達が出なくなってしまった事に問題があります。平均化したサラリーマン経営者ばかりで、かつてはあった活力と野性味がない』。

『そこへ行くと中国韓国インドの方がそういう決断力の速い財界人が出現しているのが現実です』。