第三章 ミモファント
 "Bobby Fischer goes to War" (D.Edmonds-J.Eidinow) の原啓介(hara.keisuke@gmail.com)による抄訳


 「…心の奥底の、完全なる痛み。」    L.A. フリー・プレスより


ある時、BBCの記者がフィッシャーに、 そこまで徹底的に他のことを捨てて、 チェスに集中することを選んだことを悩みはしないか、と尋ねたことがある。 それは確かに問題だ、と彼は認めた。 「チェスプレイヤーでいると現実の生活と離れた感じになるからね。 仕事に出かけなくてもいいし、 そんなレヴェルで人と付き合わなくてもいいし。 チェスをやめようかと考えたり、また思い直したりの繰り返しだけど、 いつも考えるんだ。でもこの自分に、他に一体何ができる?って」。 この言葉は、一般に言われていることよりも、 彼フィッシャーについての深い洞察を示している。

他のグランドマスター達にとってさえ、 フィッシャーのチェスへの完全な没頭ぶりは理解し難いほどだった。 ソヴィエトのグランドマスター、ユーリ・アヴェルバクが、 一九五八年にポロトロツで開かれたインターゾーナル・トーナメントで、 初めて彼に出会ったときのことを次のように回想している。 新しい合衆国チャンピオンは、これぞ十五歳の少年、という感じで、 当時はまだみすぼらしい前スーツ時代にいて、ジャンパーにジーンズの姿だった。 アヴェルバクはこう言う。 「彼は人々とコミュニケーションをとることにおいては、 未開人も同然でした。 アドリア海に浮かぶコート・ダジュールの素晴しい景色を、 何の興味も示すことなく見つめ、海岸には一度も足を向けず、 泳ぎもしませんでした」。 もしかしたらこのブルックリン子は、 ユーゴスラヴィアの海岸リゾート地の豊かさに疎外感を感じていたのかも知れない。 しかし、一九七一年にも同じような逸話がある。 フィッシャーはこのとき二十八歳で、ペトロシアンとの対決に備え、 高級ホテルとして知られるニューヨーク・パーク・シェラトンに宿泊していた。 ホテル側は彼のために、この有名人にふさわしいだろうと、 豪華なスイートルームを用意した。 しかし、フィッシャーはそこからの眺めに気が散るからと拒絶し、 結局、裏通り側の質素な部屋に落ちついたのだった。

 実のところ、彼にはチェス以外の興味もあった。 彼は音楽を聴くことが好きだったし (特にテンプテイションズとフォートップス、それにジャズとヘビーロックも)、 大人になっても漫画を読み(ターザンとスーパーマン)、 少し映画も観た(ジェイムス・ディーンの大ファンだった)。 彼は宇宙船と自動車が好きだった。 水泳と卓球も好んだ。彼は一度、卓球の名人、 「針」と綽名されたマーティ・レイスマンに挑戦したことがある。 レイスマンが言うには、 「フィッシャーの卓球は彼のチェスと同じだったよ。 荒々しくて、凶暴で、敵の急所を狙う。彼は殺し屋で、冷酷で、 良心のかけらもない、冷血な宦官みたいだった」。

 しかし、こういった活動も彼の情熱の全てを注ぎこむ対象からすれば、 時折の気晴し以上のものでは決してなかった。 彼の社会的礼儀の欠如は酷いものだった。 時々、彼は話しかけられても答えず、 そちらに顔を向ける手間さえかけなかった。 合衆国チェス協会の前会長ドン・シュルツが、 フィッシャーとその他のプレイヤー達と一緒に食事をしたときのことを、 こう語っている。 会話がチェスのことから逸れると、 「彼の方を見ると、もうテーブルの横で背中を丸めて、 チェスセットで駒を動かしているんだ」。 周囲への無関心を見せないときには、 しばしば彼は周囲を疑惑の目で見た。 ある記者によれば、フィッシャーは古い友人に挨拶するときでさえ、 召喚状を出されるかとでも思っているように振舞いがちだったと言う。

 トーナメントでの振舞が常に表していたように、 彼は他人への無神経さで悪名高かった。 スースでのレシェフスキのときのように、 彼の遅刻は対局相手を怒らせはしても、 違反した本人から謝罪は決してなかったろう。 フィッシャーが親近感を感じていることを表した唯一の対象は、 チェスの駒だった。 彼の伝記の著者フランク・ブレイディがこれをうまく表現している。 「彼はその時々の盤面を説明するとき、 自分の盤面の瑕疵を、 例えばバックワード・ポーンや悪い位置に置かれたナイトのことなどを、 肉体的な、本当に肉体的な痛みを与える、 自分の傷であるかのように語った。 フィッシャーはできることなら、 それが盤面の助けになるのなら、自らそのポーンになって、 最後の成りのマスまで一歩ずつ行進したかっただろう。 そんな時、彼はチェスそのものだった」、と。

彼のチェスへの欲望は尽きることがなかった。 一九五九年のユーゴスラヴィアでのキャンディデイツで、 八歳年上のデンマーク人ベント・ラーセンが彼のセコンド (戦略の準備や分析の手助けをする役)を勤めたとき、 この十六歳の少年は彼に全く休憩を許さず、 夜も含めて対局以外の全ての時間を序盤の研究に注ぐよう強要したと言う。 チェスのために生きる人間にとって、 チェスで負けるとはどういうことだろうか? フィッシャーに興味を持つ人々の間には、広く二つの考え方の派閥がある。 一方では、彼は敗北の恐怖に身が竦んでしまうのだと主張する。 敗北は彼の最も深い恐怖であり、彼の対局条件への絶え間ない要求は、 その恐怖が表に出ることを避けるための意識的な、 または無意識的な戦略だと言う。 この見方はソヴィエトで一般的である。 スポーツ委員会チェス部門の前部長レフ・アブラモフは、 「ボビー・フィッシャーの悲劇」と呼ばれる論説で以下のように書いている。 なぜ、「悲劇」なのか?

フィッシャーがチェス盤の前に座ることを怖がることは悲劇である。 最も逆説的なことは、この飛び抜けた、素晴しいチェスプレイヤーが時々、 対局に来ることができないことだ。 もし彼がこの「病い」を乗り越えられなければ、 良い結果を得るまで自信を欠いたままだろう。私はこれは病いだと思う。

ソヴィエトのグランドマスターで心理学者でもあるニコライ・クロギウスも、 この意見に同意する。 「心理学的なタイプで言えば、 フィッシャーはフランスのあの陸軍元帥(マセナ)に似ている。 自分で戦場に向かうことができなかったのに、 闘いが始まると人が変わったと言う元帥だ。 ナポレオンが言うには、(マセナは)「砲撃が始まった」後でだけ、 軍師の才能を発揮した、と。 この見方に関係はするがまた別の解釈は、 フィッシャーは自分の優越性を強く信じるあまり、 敗北を受け入れることができないのだ、というものだ。 このため、時々の敗北すらも彼の自尊心に破壊的な衝撃を与えてしまうのだ、と。 確かに、この主張を裏付ける証拠が観察されている。 記録によれば、トーナメントで彼が負けた珍しい機会には、 彼は続く対局でも普段以下の力しか出せず、 通常の戦績には及ばない勝率になっている。 間違いは必ずあるものだという世界観を持つプレイヤーは、 敗北から立ち直り易い。 少年の頃、フィッシャーが早指しの対局、 これは考慮時間がほとんどない、 時には一秒間に何手か交換されるほどの早指しだが、 そんなゲームに負けると、彼は常に駒を元通りに置き直し、 相手にもそうさせたと言う。 この逸話は、勝者である自分、という自己像を再構築することを、 彼の心が深く必要としていたことをほのめかしている。 彼の敗北にはしばしば涙が伴なった。 一九五九年のキャンディデイツでミハイル・タリに負けたとき、 彼は泣いた。 翌年のマル・デル・プラタでスパスキーに負けたときにも、 泣いている姿が目撃されている。 ペトロシアンとのマッチを前にレポーターに、 「負けたら泣きますか?」と攻撃されたときには、 当時二十八歳だったフィッシャーは生意気な子供のように、 「そうだな、私が負けて泣くんなら、 ロシア人は負けたら病気になるさ」と答えた。



 しかしながら、フィッシャーについての最も興味深い現象は、 チェスが彼に及ぼす効果ではなくて、彼のチェスが他の人々に及ぼす効果である。 相手の士気を粉々にくじき、 地球人にはどうしようもない、 敵対的なエイリアンの力に組み伏せられたような気持ちにさせる。 「彼はコンピュータだ」が、 フィッシャーを称賛する人々がしばしば口にする賛辞であり、 「彼はただのコンピュータだ」が誹謗する人々の言葉だった。 これはどういう意味だろうか?

 もちろん、コンピュータは神経症にならないし、 特別な手筋への心理的な愛着や、ゲームのスタイルといったものもない。 コンピュータは非常な速度と正確さで計算するだけだ。 しかし、この全てを加味してもやはり、 対局者の目にフィッシャーはマイクロチップ仕掛けの自動機械のように映った。 彼は驚くべき速度で盤面を解析した。 実際、彼の対局相手はいつも使用時間で遅れをとった。 チェスコンピュータという言葉について言えば、 フィッシャーを良く知るアメリカ人プレイヤー、ジム・シャーウィンは、 彼を「ディープ・ブルーの原型」と表現している。 ソヴィエトの分析によれば、予測しなかった盤面に直面したときでさえ、 フィッシャーは指し手を決めるまで十五分から二十分以上はかからなかった。 他のグランドマスターならその二倍の時間を使うかも知れない。 またフィッシャーは既に決まった定跡や、 戦術の固定観念に支配されることもなかった。 一例を挙げれば、一九七一年のキャンディデイツ・マッチでの、 対ティグラン・ペトロシアンの第七ゲームである。 フィッシャー以外の誰が、 自分のナイトを敵のあのビショップと交換するだろうか? 弱いビショップのために、良く働いているナイトを捨てることは受け入れ難い。 これはチェスの基本原理にも、経験則にも反している。 しかしフィッシャーは、 それが一つの有利を必勝の優勢へと変換するための、 完全に正しい判断だったことを証明した。

 チェスプレイヤーは開いた局面、 つまり着手の可能性の多い複雑な局面では、心のどこかで未知を恐れるため、 しばしば不安を感じるものだ。 このため、彼等は自分のキングを敵にさらすことを避ける。 無人島で罠にかかったように、 この最も重要な駒が十字砲火の中に捕まってしまう可能性を心配するからだ。 常識と、経験でつちかわれた知識が、 これはそんな危険地帯だぞと告げるのだ。 先天的な悲観主義が彼等を追いたて、いらだたせ、 潜在的に危険な手を避けさせるのである。 しかし、フィッシャーは違う。 彼は相手がキングの守りの薄さに乗じられないと確信し、 危険がないと読むと、 自分のキングを厚かましくも挑発的に裸のままにするのだ。

 フィッシャーのとてつもない冷静さに面すると、 対局相手の確信がゆらぎ始める。 フィッシャーの手が、一見は弱い手のように見えても、 それを評価し直すようになる。 この手の背後にはきっと、何か深い作戦があるに違いない、 不死の者ならぬ凡人には予知できない何かが、と (そして、多くの場合に彼等は正しくなかった)。 合衆国グランドマスターのロバート・バーンは、 この現象を「フィッシャー恐怖症」と名付けた。 グランドマスター達はフィッシャーを前に萎えてしまい、 彼等のスーツはしわくちゃになり、汗で眉の上が光った。 パニックが彼等の神経を圧倒してしまうのだ。 そうすると間違いが忍びこんでくる。読みがゆがんでくる。 彼等はフィッシャーは催眠術を使っていると言い、 彼等の知力を神秘的な闇の魔力で蝕むのだと言った。 時間の経過につれ、特に長時間のマッチでは、 フィッシャーの対戦者は心身的ともに衰弱した。 フィッシャーは偏頭痛、普通の風邪、インフルエンザ、高血圧、 ノイローゼなどの病気を、相手に引き起こさせたものだ。 彼自身に影響はなかったが。 自分は健康な敵を倒したことがない、という冗談を彼は好んで口にした。

彼の破壊的な影響力は、一つには対局中の彼の様子に原因がある。 背が高く(六フィート二インチ)、自信に満ちた様子で、印象的な姿だった。 合衆国チェス連盟の前会長ドン・シュルツは、 「彼がチェス盤の前に座っているのを見ただけで、 『ちぇっ、こいつが勝つぞ』と思うんだよ」と言っている。 また、フィッシャーは決してドローを狙わないし、 盤面に少しでも不確定要素がある限り、滅多にドローの申し出に同意しない、 という事実が対戦相手の精神的消耗を増した。

小説家のアーサー・ケストラーは、 レイキャビクでの対スパスキー戦を取材したとき、 フィッシャーを描くために「ミモファント」 という新しい言葉を造語したことで有名である。 「ミモファントはミモザとエレファントを掛け合せた交配種なんだ。 この種族は自身が関心を持つところではミモザの花のように繊細で、 他人の気持を踏み躙ることでは象のように無神経で厚かましい」。

自分が相手の上に圧倒的な力を及ぼしていると感じることを、 フィッシャーが精神病質者のように楽しんでいたことは全く疑いない。 しかも精神病質者のように、 その力を使うことに何の良心の呵責も感じなかった。 チェス関係者に宛てた、 一九六二年ベルギーでのオリンピアードについての手紙の中で、 彼は偉大なミハエル・ボトヴィニクとの対局を描写している。 最終的には、フィッシャーがボトヴィニクの罠に落ちて、 この対局はドローになった (フィッシャーによればだが、対局後ボトヴィニクは胸にほっと息をつき、 巨人のようにテーブルから大股に去ったと言う)。 しかし、フィッシャーは対局中ほとんどの場面で主導権を握っていて、 その手紙の中では、 ボトヴィニクが不快を感じている姿を見せたことに大喜びで、 顔色の変化や、今にも死にそうに見えたことなどを書いて、 このソヴィエト人をあざけっている。

 そしてここにも、一つの逆説がある。 チェスプレイヤーはしばしば客観と主観の二つの姿で描かれる。 つまり、盤面と戦っている姿と、盤面の向こうの敵と戦っている姿である。 グランドマスター級のチェス対局の頂上での薄い空気の中では、 各プレイヤーのスタイルと序盤戦術のレパートリーが全員に良く知られていて、 そこではこの二つを厳密に分けることはできない。 必然的にこの二つの姿が混じり合うことになる。 しかしながら、フィッシャーは確かに盤面と戦うタイプだった。 彼は敵が苦しむのを見て喜んだが、 それは対局から悦びを得るのに必要なことではなかった。 実際、彼の視点によれば、チェスで唯一つ間違っていることは、 盤の向こうで駒を動かす人間が必要なことだと、 愚弄するように言ったことがある。

 エラスムス・ホール高校での評価では、 フィッシャーの知能指数は百八十を越えていたし、 もちろんチェスについては素晴しい離れ技をやってのける能力があった。 また驚異的な記憶力を持ってもいた。 彼は自分の全ての対局棋譜を記憶していたし、 かつて対局した早指しの棋譜さえほとんど覚えていた。 グランドマスターの仲間と十年以上も前に一緒に対局した、 気楽な早指しの棋譜さえ思い出させて、彼等を驚かせたものだ。 彼の記憶力はチェス以外にも発揮された。 彼は全く知らない外国語の会話を聞いて、 それを完全に繰り返すことが出来たという逸話が残っている。

それは知識や知恵とは、はっきりと違った知性の形だった。 彼には「教育」がなかったし、世の中の出来事を良く知らず、 「教養」もなかった。また、そういったものを求めてもいなかった。 誰も彼のことを成熟した人間だとは思っていなかった。 実際、彼のことを最も良く知る人々は皆、彼の社会性のなさ、 感情的成長の欠如に驚かされている。

彼にはユーモアのセンスがほとんどなかった。 決して皮肉も風刺も口にしなかったし、例えば駄洒落のような、 言葉遊びをしたこともない。 彼は常に文字通りの発言しかしなかった。 ユーゴスラヴィアのチェス記者ディミトリ・ブジェリカが、 フィッシャーと未来の世界チャンピオン、ミハイル・タリの二人を連れて、 一九五九年のチューリッヒを自動車で旅したときのことを、 次のように回想している。 運転手が乱暴に車を飛ばしていたので、 「フィッシャーが『注意しないと、ぶつけるぞ』と言いました。 そこで私が、もしここで私達が死んだら、 明日の世界ニュースのトップは 『ディミトリ・ブジェリカ、二人の乗客とともに車で死亡』だろうな、 と冗談を言ったんです。タリは笑いました。 しかし、フィッシャーはこう言いました。 『いや、ディミトリ、 アメリカでは私の方が君よりずっと有名で人気がある』」。

こういったフィッシャーの姿の多くは、 彼の未成熟さに原因があったように思われる。 例えば女性への態度である。 彼は「やつら女はみんな弱い。やつらは男に比べて馬鹿なんだ」 と発言したことがある。 彼の人生を通じての異性に対する不器用さは伝説的で、 彼の生来のぎこちなさは特に、 この六十四の正方形のなす世界をほとんど知らず、 注意も払わない女性たちと共にいるときに口にされた。 女性はどうしようもなく気を散らす邪魔物で、 だからスパスキーも独身でいるべきだとフィッシャーは信じていた。 「スパスキーは結婚するという、とてつもない間違いをおかした」 と言ったこともある。

 彼はガールフレンドを持ったこともない。 「おっぱいの大きな陽気な女の子が好きだ」 と無遠慮な表明をしたことはあったが。 「プレイボーイ」誌が彼の大好きな読み物だった。 一九六二年のブルガリア・オリンピアードのとき、 彼はミハイル・タリに、自分はアジア人の女性、 特に香港人や台湾人に魅力を感じると話した。 アメリカの女性はあまりにからっぽで、 自分たちの外見のことしか考えていない、と。 とは言え、アジア人の花嫁を連れてくるなら、 その経費を考えねばならなかった。 彼はそれを七百ドルと見積った。大体、中古車くらいである。 これならもし、その花嫁が彼の好みに合わなければ、 いつでも送り返すことができる、と。

 一九七一年にフィッシャーはユーゴスラヴィアに行き、 ブジェリカと一緒に泊まった。 ブジェリカは過去の偉大なチェスプレイヤーたちについての テレビ番組シリーズを監督していて、 フィッシャーに棋譜の分析を頼んでいたのだ。 ある日の終わり、二人はサラエヴォの美しい野外劇を観に行くことにした。 二人には最前列の席が用意されていた。 ブジェリカの回想によれば、その催しの中ほどで、 「フィッシャーが突然、携帯用のチェスセットを取り出すと、 『クイーンg6の手はどうだ?』と言った」そうだ。



 チェス盤の外の世界と付き合うときの、 フィッシャーの精神構造の底には憎悪があった。 実際、彼は憎悪のグランドマスターにだってなれただろう。 この憎しみは、最もつまらない些細な個人的見解からも、 ほとんどの人には奇妙としか思えない世界観からも飛び出して来た。 しかも、一度それができ上がってしまうと、不動の信念になった。 彼に寛容と言う言葉はなかったのだ。

 キュラソーでのトーナメントのあと、 彼のソヴィエトへの警戒心と嫌悪感は、 ゆっくりと動かし難い妄想へと育っていった。 彼の対スパスキー世界チャンピオン・マッチの目的は、 ソヴィエトにちょっと「謙虚さ」というものを教えてやることだ、 と言っていた。 ソヴィエトの選手は国からの援助によって、 不公平にも特権を与えられたペテン師どもであるばかりか、 彼を個人的に攻撃しようとしているのだ。 この確信はフィッシャーの中でファンタジーの世界にまで成長して、 食べ物に毒を盛られることを警戒し、 ソヴィエトが飛行機のエンジンに何か仕掛けるのではないか、 と心配するまでになった。

 彼はユダヤ人も憎んだ。レイキャビクのずっと以前から、 彼は反ユダヤ発言をしていたし、 アドルフ・ヒトラーへの称賛をリナ・グルメットに対して表明している。 彼女はフィッシャーが十七歳のときに、 ロサンジェルスで行なった同時対局の準備をしたチェスプレイヤーで、 この発言は一九六七年、彼が西海岸に移動した後の数ヶ月間、 彼を宿泊させたときのことだった。 フィッシャーの母親はユダヤ人であるから、 ユダヤの法に基けば彼自身もユダヤ人であることになるのだが、 彼は常にこれを拒絶した。 ユダヤ百科事典「エンサイクロピディア・ジュダイカ」 の有名ユダヤ人のリストに彼自身が含まれていることを発見したとき、 彼は編集者に宛てて、 この間違いによって自分がいかに苦悩に打ちのめされたかを訴え、 これが二度と繰り返されないことを要求する手紙を書いた。 彼が言うには、彼はユダヤ人ではないし、 ユダヤ人であったことも断じてない。 そして、彼はその証拠だと考えて、割礼を受けていないことを明らかにした。

おそらく、彼のユダヤへの拒絶は母親への拒絶の一部だったのだろう。 彼女自身はユダヤ教の慣習や規則を守らなかったようであるが (子供たちの面倒をみるためユダヤ救済団体に救いを求めていた間も)。 しかしながら、フィッシャーは宗教としてのユダヤへの憎悪と、 ユダヤ人個人からなる民族としてのユダヤ人たちを区別することができた。 彼は合衆国やソヴィエト連邦のユダヤ人チェスマスターたちとは、 完全に友好的な関係にあった。



 フィッシャーの個性の最後の側面は、 既にこれまで何度か触れたものである。 当然ながら、グランドマスターは皆、 トーナメントでは可能な限り良好な対局環境を望む。 しかし、チェストーナメントの歴史の中で、 フィッシャーが言い張ったような準備条件を強要した者も、 それを手に入れるために全てを賭けた者も、かつていなかった。

 彼は雑音、光、チェス盤の色、そして観衆の距離に、極めて敏感だった。 観衆の雑音や動きなどは、 ほとんどのプレイヤーにとってもただの刺激ではない。 焼けつくような苦痛の原因になりうるし、実際、だんだんとそうなるのだ。 (フィッシャーは疑いもなく、 ドイツの本「チェス・トーナメント観戦者への注意」に賛同するだろう。 この本には、三百ページの白紙の後にただ一言、「黙れ」と書いてある)。 照明については、チェス盤のマス目の照り返しが、 明る過ぎても、暗過ぎてもいけない。さもなければ集中できない、 と彼は主張した。

 しかしまた、フィッシャーの集中力は伝説的なものでもあった。 時に彼は,囁き声や包み紙のたてる音が聞こえたりすると、 怒りの目差しを向けたが、また別の機会には、 ドアがばたんと音をたてて閉められても、会場が興奮でざわついても、 気付きさえしなかった。 レストランでは、ひとたび携帯用のチェスセットを取り出せば、 周りの世界から全く切り離されてしまうのだった。 トーナメントでは、他の選手たちは駒を動かす間に、足を伸ばしたり、 他の対局を観たり、 競技に参加している他の仲間達と少し立ち話をしたりするかも知れない。 しかしながら、フィッシャーはほとんどの時間、椅子に座ったままだった。 時にチェス盤に屈み込んだり、背中を伸ばしたり、首を傾けたり、 テーブルの下で長い脚と十四サイズの足を伸ばしたりはするものの、 彼の目は常にチェス盤と駒の織りなすパターンの中に深く注がれていた。

実際しばしばそう指摘されたことだが、 トーナメントの他の選手たちにもフィッシャーと同じ環境を与えるべきではないか、 と指摘されれば、彼は当然ながら、 最も注意を引いているものは他ならぬ自分自身なのだ、と反論しただろう。 観客を遠く離しておかない限り、 フィッシャーのテーブルに押し寄せるだろうから。 記者たちが欲しがっている写真はスミスロフのものでもなければ、 ゲラーのでも、 ペトロシアンでもラーセンでもオラフソンでもポーティシュのでもない。 フィッシャーの写真が撮りたいのだ。 カメラマンたちはフィッシャーが会場に到着するところ、 去るところ、対局中の全てをレンズに捉え続けた。

 しかし、彼の照明や雑音についての要求には、 別の目的があるのではないかと解釈したくなる。 フィッシャーが、 常に物事を支配下におきたいという要求にかられていることは明白だった。 主催者たちからの譲歩を強要することで、 対局が主催者側ではなく彼自身の思い通りに進むことを確かめることは、 彼自身の力を確認することだった。 主催者が事前に契約した条件によって、 彼の反論を防止することに最善を尽したときでさえ、 例えば、観衆が舞台からあまりに遠くなるかも知れないとか、 そんなときでも、フィッシャーは一つか、 二つの過失を何とか見つけ出すのだった。 どんなときでも、彼は主催者側の忍耐を極限まで試そうとした。 そして、彼等が絶望の頂点に立ったところで、 フィッシャーは突然に、何の説明もなく気持ちを変えて、 別の追加条件を押しつけるか、 まるで最初からそんなことが無かったかのように抗議を引込めるのだ。

 彼の金銭への態度もまた謎めいている。 彼は自分への報酬は、 アーノルド・パーマーやジョー・フレイザーのような、 スポーツのスーパースターと同じ価値だと信じていた。 チェスが、ゴルフやヘヴィー級ボクシングとは比べるまでもなく、 卓球程度の人気もないことは気にしなかった。 わずかな観客しかおらず、スポンサーもほとんどなく、 ソヴィエト連邦の外では、 チェスには安定した経済的基盤が全くないことも無視した。 フィッシャーは常に、自分の野望は金持ちになることだと主張していた。 彼は何度も繰り返し、臆面もなくそう言い続け、 アメリカ人すら鼻白ませるくらいだった。 「私はチェスと金にしか興味がない」、 と彼はイタリアの新聞「コリエール・デラ・セラ」の記者に話している。 彼の絶え間ない金銭的な要求は、ヨーロッパでさらに悪い印象を与えた。 ヨーロッパでは金銭面を強調することはばつの悪いことであり、 俗悪とさえ考えられている。 タイマノフ、ラーセン、 ペトロシアンとのキャンディデイツ・マッチの開催場所を各都市が競っていたとき、 決め方は明らかだとフィッシャーは言い放った。 つまり、一番多く金を払う町だ、と。 一九七一年一月、 当時新進気鋭のチェスの天才ウォルター・ブラウンに宛てた手紙の中で、 彼はフルタイムの監督とセコンドになるよう誘っているのだが、 チェスは単に金を稼ぐ手段に過ぎないと自分は信じている、 ともフィッシャーは書いている。 何の皮肉でもなく、チェスプレイヤーが金持ちになれないのは、 利己的な天性のせいで一人で働くからだと、と彼は主張している。 しかし、金を稼げる可能性に限界はない。 彼が言うところのチェスビジネスで、最初の年で十万ドル稼ぎ、 次の年にはそれを倍にできる、と。

しかし、高級スーツの趣味を除けば、 フィッシャーは一体何のために金を稼ぎたかったのだろうか? 彼には養うべき家族もなく、 オペラに通うとか芸術品を蒐集するといった贅沢にも興味がなかった。 彼は自動車も持たず、旅行のための旅行もしなかったし、 食べ物に関する限り、彼の好みは質より量だった。 人々の印象では、フィッシャーにとって金銭は物質的な所有と無関係だった。 彼は常にいやいや自分の宣伝を許可していたし、 たなぼたの収入があるにしろ、 他の誰かが彼の名前を使って金を稼ぐかも知れないという考えに肝を冷やしていた。 母親が彼のサイン入りの財布を売り出したがったときには、 荒れ狂って拒絶した。

 フィッシャーにとっては金銭自体が全て地位を示すものだったのだ。 またしてもこれは支配の問題である。 彼は五と申し出られたら十を欲しがった。 二十と言われたら五十を欲しがった。 おそらく、彼が契約書に署名することにさえ反抗的だったのは、 全ての重要な支配権を失なうことへの恐れに由来するのだろう。 とにかく、実際の金額は重要なことではなかったのだ。


報道では、フィッシャーは常に好ましからぬ人物像を伝えられた。 不遜で、傲慢で、粗暴で、無骨で、甘やかされて、自己中心的で、 口汚なく、攻撃的で、虚栄心が強く、強欲で、下品で、無作法で、 軽蔑的で、自慢屋で、生意気で、頑迷で、狂信的で、残酷で、 誇大妄想的で、強迫観念に捕われた、偏執狂だと。 しかし、非常に興味深いことには、 彼のことを良く知る人々は滅多に彼を悪くは言わなかった。 色々な奇妙な逸話について語りながらも、 「ああ、それがボビーなのさ」と彼等は寛大に笑う。 フィッシャーにはどこか、永遠に失なわれた十代のような、 人々が罰するのでなく助けたくなるような、 彼の潜在能力を抑えるのではなく、 開花させるのを手伝いたくなるようなところがあった。 有名人の仲間の一人でありたいという自然な欲望を勘定に入れたとしても、 フィッシャーという一人の人間について話すときには、 彼等が口を合わせて「彼は素晴しい奴だったよ」と言うのには心打たれる。

 アメリカのチェスプレイヤー、 ジム・シャーウィンはフィッシャーは単にブルックリンから来た 「がき大将」なのだと言っている。 レイキャヴィクで審判員を勤めたロター・シュミットは、 自分の子供を理解しようとするようにこのアメリカ人を捉えたのだろう、 「彼は悪童ではありませんでした」と言っている。 ボリス・スパスキーはフィッシャーを「永遠の十七歳」と見ていた。 「彼はずっと少年のままなんだ」と、 チェスの合衆国オリンピックチームの前監督、エリオット・ハーストは言う。 「悪いイメージを与えたくないんだ。彼はいい奴だったからね」と。 そして、彼等は皆、 フィッシャーは素晴しい優しさを持っていたと指摘している。 子供の頃、彼は一ドルを賭けてゲームをしては、 車椅子の師匠ジャック・コリンズに一ドル毎に二十五セントを渡していた。 キュラソーでの大会でミハイル・タリが病に倒れ入院したとき、 フィッシャーはタリを見舞いに行った唯一人の対戦者だった。

 フィッシャーの伝記の中で著者フランク・ブレイディは、 トーナメントでの彼の癇癪はいつも主催者に向けられたものであって、 他の選手にではなかったことを指摘している。 フィッシャーがひとたびチェス盤の前に座った後の振舞いについては、 誰一人として不平を言う者はいない。彼は完璧な紳士だった。 そこには何の勝負の駆引きもなかった。 彼は相手の気を散らせたり邪魔することがないよう慎重に努力していた。 彼自身は厳密に規則に従い、他人にも同じことを求めた。 一九六〇年ブエノスアイレスで, ウォルフガング・アンジッカーと対戦しているとき、 フィッシャーは意図しないポーンにうっかり触れてしまい、 突如として彼のゲームは破滅的なものになった。 彼ほど高潔でない選手ならば、 駒に触れた後でも「ジャドゥーブ(直します)」と宣言したかもしれない。 これは、対局中に単に位置を整えるために駒に触るときの規則である。 しかしながらフィッシャーは、 触れた駒は必ず動かさねばならないという「タッチ・アンド・ムーヴ」 の規則を厳密に守り、触ったポーンをそのまま動かして、 その対局に速やかに負けた。 アンジッカーはチェス盤から離れていたが、 この出来事の全てを目にして、 「もし彼が他の駒を動かしても、私は抗議をしないつもりでした。 でもその瞬間から、 フィッシャーはチェス盤の前で紳士なのだと知りましたよ」 と言った。



フィッシャーを突き動かしていたものへの、 おそらく最も奇妙な洞察は ― その神秘的な一致が奇妙なのだが ― エリアス・カネッティの執念の名作「眩暈」 (英語では「死刑」と改題された)の中に表されている。 この小説はフィッシャーが生まれる八年前に出版されている。

この小説で中心的な役割を果たす登場人物の一人の名はフィッシェルレで、 ユダヤ人のせむしの小人でチェスの熱狂者である。 彼は妻の買春の稼ぎで暮らしている泥棒で、 チェスの世界チャンピオン、キャパブランカを倒し、 涙を流させることを夢見ている。彼は自己紹介するとき、 「チェスするかい?チェスができない人間は人間じゃない」と言う。 フィッシェルレは人生の半分をチェス盤の前で過している。 そこだけが、人々が彼を普通の人間として扱ってくれる、 またはおそらく、 強靱な記憶力と荒々しい知力という異常な能力を持つ普通の人間として、 扱ってくれる場所なのだ。

彼がチェスを指している間、 妻は彼を恐れるあまり不服を唱えてその邪魔をすることが出来なかった… 彼は相手が次の手を考えている間に、 食事と睡眠をとる生活ができないかと夢見ていた。

フィッシェルレは異常に長い腕と、 学んだ全ての棋譜の完全な記憶を持っている。 彼は世界チャンピオンになり、名前をフィッシャーに変えることを想像する。 「最高の仕立屋に作らせた新品のスーツに身を包むんだ… 巨大な宮殿を建てて、一緒に本物の城や騎士や歩兵を置く。 まさに、そうでなければならないように…」。 現実のフィッシャー、 長い腕と自分の対局棋譜の完全な記憶を持つ男は、 ルークの形をした家を建てるために建築家を雇いたいと口にしたことがある。

 カネッティは一九三〇年代のウィーンの動乱の中で「眩暈」を書いた。 小説の中のフィッシェルレと現実のフィッシャーの間の予言的な類似性は、 人間の行動の見かけの混沌の中に意味を見つけるという、 若きカネッティの試みの中に根源がある。 かくして、 彼の創造した登場人物はそれぞれ完全に個人的な視点を持ち、 外界にはまるで無関係に、己れの道を行く。 フィッシェルレ/フィッシャーの世界観は同じ一つの方向を向いている。 それはチェスを通して表現される、 ゲームと力とそれが運んでくる報酬だけに支配された世界だ。



フィッシャーとスパスキーの類似性を解説者はよく取りあげてきた。 スパスキーもまた二番目の子供で、母親だけに育てられ、 貧困の中に子供時代を過した。 しかし実際のところ、挑戦者とチャンピオンは類似と言うより、 ほとんど対照的な個性と人生観を持っていた。 フィッシャーが育ったアメリカの繁栄と民主主義と、 スパスキーが育ったスターリン主義下の恐怖政治は、 遥か遠くかけ離れたものだった。 そこでは、チェス盤が彼を守り、名声を与え、 そしてソヴィエトの言葉で言えば、彼に「幸運」を運んだのである。

End.
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